グループ > 1980年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

シャネルズ

1975年結成のドゥーワップ志向グループで、のちのラッツ&スターの前身。リードヴォーカルの鈴木雅之を中心に下町の仲間で組まれ、当初は「シャ・ナ・ナ」のコピーを中心に活動した。強烈な存在感を出すため、主要4人が黒塗りメイクと派手なタキシード姿でドゥーワップを歌う独自スタイルを確立。’80年に10人編成でデビューし、「ランナウェイ」がミリオンを記録、日本にドゥーワップ・ブームを巻き起こした。’83年にラッツ&スターへ改名してさらに活動を広げた。

HOUND DOG

1976年に大友康平を中心に結成されたロックバンドで、’80年「嵐の金曜日」でデビューした。メンバー交代を経ながらもライブ主義を貫き、ヒットがない時期から’83年に武道館を満員にし、’80年代後半には日本屈指の動員力を誇る存在となる。日本人バンド初の東京ドーム単独公演(’88年)、西武球場5days 17万5千人、武道館15日連続公演(’90年・現在も記録継続)など伝説的ライブを多数実施。代表曲は「ff(フォルティシモ)」「ラスト・ヒーロー」ほか、メロディアスなロッカバラードと力強い演奏で支持を集めた。

もんた&ブラザーズ

R&Bやソウルに根ざした強烈な歌唱力を持つ、もんたよしのりを中心に1980年に結成されたグループ。もんたはそれまでにフォークからブルースまで幅広い音楽経験を積み、’80年「ダンシング・オールナイト」で再デビュー。圧倒的ボーカルとソウルフルなサウンドで同曲は大ヒットし、数々の音楽賞を受賞、紅白にも出場した。もんた自身は俳優としても活動し、楽曲提供でも評価を得た。’84年「もんた&ブラザーズ」解散後、2023年10月の逝去直前までソロ活動を続けた。

ジューシィ・フルーツ

近田春夫のバックバンド「BEEF」から派生し、1980年にデビューしたロックバンド。ボーカル・奥野敦子(イリア)のファルセットと、テクノ風アレンジを取り入れた「ジェニーはご機嫌ななめ」が37万枚のヒットとなり注目を集めた。初期は近田のプロデュースでアルバムも成功し、テクノ歌謡として紹介されることが多かったが、本来はギター主体のロックバンドである。’84年に解散後、2009年に活動を再開し、2013年に事実上の再結成となった。

T.C.R.横浜銀蝿R.S.

正式名を“THE CRAZY RIDER 横浜銀蝿 ROLLING SPECIAL”とするロックンロールバンドで、翔・Johnny・TAKU・嵐の4人で構成される。出入りの店の店主に「銀蝿みたいにうるさい」と言われたことから名が付いた。ポンパドールに革ジャン、白いドカンという不良スタイルで登場し、ツッパリ・暴走族文化の波に乗って1980年代前半に若者から圧倒的な支持を得た。弟分を含む「銀蝿一家」も展開し、シンプルなロックンロールからコミックソングまで幅広い楽曲を発表。代表曲は’81年の「ツッパリHigh School Rock’n Roll (登校編)」。

雅夢

三浦和人と中川敏一によるフォークデュオで、名古屋のライブハウスでの共演をきっかけに結成された。ともに中学時代からフォークに傾倒し、デュオ名は喫茶店の名前に由来。結成当初からオリジナル曲にこだわり、1980年のヤマハポプコンで「愛はかげろう」が優秀曲賞を受賞、同曲でデビューし約69万枚の大ヒットとなる。以後「悲しくて」「追いかけて」などを発表し、アルバムも精力的に制作。繊細なメロディと叙情的な世界観が支持され、’80年代前半のフォークシーンを代表する存在となった。

スターダストレビュー

1979年に「アレレのレ」としてポプコンで優秀曲賞を受賞したことを起点に結成され、多様な音楽性を“レビュー”形式で届けたいという意図から現名に改名。’81年に「シュガーはお年頃」でデビューし、ジャズ・ポップ・ロックを自在に融合した洗練されたサウンドと高度なコーラスワークで支持を広げた。’84年「夢伝説」がルピスのCM曲としてヒットし知名度が上昇。’80年代後半には「Stay My Blue」「Be My Lady」「夏のシルエット」などCMタイアップが続き、安定した人気を獲得した。

 J-WALK

J-WALK(後のTHE JAYWALK)は1980年結成、1981年にデビューした。横断禁止無視を意味する“Jaywalking”に由来する名の通り、都会的で洒落たポップロックを特色とし、CMタイアップを多く手がけて時代感に合った楽曲を提供した。代表曲「何も言えなくて…夏」(’91年)は発売後じわじわと人気が上昇し、’93年に初の紅白出場を果たす大ヒットとなった。レナウン、黄桜、シチズン、三菱電機、リゲインなど企業広告の音楽も多く担当し、’90年代初頭のシティポップ的情緒と大人の哀愁を漂わせるサウンドで幅広い支持を得た。

THE MODS

1974年に福岡で結成され、’80年代パンク・ロックシーンを牽引したバンド。ブリティッシュビートや「めんたいロック」から強い影響を受け、荒々しく疾走感のあるサウンドで人気を獲得した。テレビ神奈川『ファイティング’80s』出演を機に全国的な注目を集め、’81年にロンドン録音でメジャーデビュー。。’83年の「激しい雨が」がCMで採用されスマッシュヒットし、続く「バラッドをお前に」もドラマ主題歌として上位にランクインするなど、ハードさと叙情性を併せ持つ楽曲で支持を広げた。

イモ欽トリオ

1981年、バラエティ番組『欽ドン!良い子悪い子普通の子』のレギュラー出演者、山口良一・西山浩司・長江健次の3人で結成されたユニット。番組発の企画ユニットの先駆けで、アイドル的要素を持つ異色の存在。デビュー曲「ハイスクールララバイ」は細野晴臣によるテクノポップ歌謡でミリオンセラーを記録し、『ザ・ベストテン』で8週連続1位を獲得するなど大ヒット。楽曲は長江がメインボーカル、山口と西山がコミカルなコーラス・振付で’80年代初期の歌謡界にインパクトを与えた。

アラジン

名古屋商科大学フォークソング研究会のメンバーを中心に結成された。バンド名は部室にあった石油ストーブ「アラジンブルーフレームヒーター」に由来する。学内ではフュージョンやバラード、ラテンなど多ジャンルに挑戦し、卒業間際に制作した「完全無欠のロックンローラー」でポプコングランプリを獲得。1981年末にデビューし、’82年に「ザ・ベストテン」にランクインしたが、目立ったヒットはなく、一発屋的な存在として知られる。

Sugar

1970年代後半に結成された3人組女声コーラス・グループ。メンバーはミキ、クミ、モーリで、当初は楽器演奏も行ったが後にコーラスに特化した。代表曲『ウエディング・ベル』は、振られた元恋人への辛辣な歌詞と美しいハーモニーで注目を集め、’81年にデビューしオリコン週間2位を記録。’82年には第33回NHK紅白歌合戦に出場するなど人気を博したが、’87年に解散した。

安全地帯

1973年、北海道旭川市で玉置浩二と武沢豊を中心に結成された。バンド名は道路交通法の「安全地帯」に由来する。’82年に「萠黄色のスナップ」でメジャーデビューし、’83年の「ワインレッドの心」が71.4万枚の大ヒットとなる。以降も「恋の予感」「熱視線」「悲しみにさよなら」など数々のヒット曲を発表し、’85年のアルバム『安全地帯IV』はオリコン週間・年間1位を獲得。’88年以降、活動休止と再開を繰り返しながらも、各メンバーのソロ活動と並行して現在も定期的に活動している。

BOØWY

群馬県出身の氷室京介、布袋寅泰、松井恒松を中心に東京で結成され、高橋まことが加入して4人編成で活動。’82年に「MORAL」でメジャーデビュー。8ビートを基調としたロックサウンドと斬新なビジュアルで支持を集め、アルバム『BEAT EMOTION』『PSYCHOPATH』はミリオンセラーを記録。シングル「MARIONETTE」で初登場1位を獲得し、’87年の渋谷公会堂ライブで解散を宣言。翌年の東京ドーム『LAST GIGS』で活動に終止符を打った。音楽性、ビジュアル、強気の姿勢で日本のロックシーンに大きな影響を与えた伝説的バンド。

シブがき隊

布川敏和・本木雅弘・薬丸裕英の3人によるジャニーズ事務所所属の男性アイドルグループ。1982年に「NAI・NAI 16」で歌手デビューし、第24回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞。ジャポニズムを取り入れた楽曲や企画性の高いノベルティソングで人気を集め、映画・ドラマ・バラエティ番組にも出演。’80年代前半の男性アイドルシーンをリードした。’88年8月に解隊宣言、同年11月に代々木第一体育館で解散コンサートを行い、グループ活動に幕を下ろした。

あみん

岡村孝子と加藤晴子による女性デュオで、主旋律を岡村、ハーモニーを加藤が担う繊細なコーラスワークが特徴。1982年に「待つわ」でレコードデビューし、同曲は109万枚のミリオンセラーとなり『NHK紅白歌合戦』にも出場した。ポプコン出身の実力派で、オリジナル曲へのこだわりから1stアルバムも自作中心に制作された。しかし加藤の学業優先と芸能界への不適合感から’83年に活動休止。以後、岡村はソロへ、加藤は一般生活へ進むが交流は継続。2002年に一夜限りで共演し、2007年に正式に活動再開した。

ヒロシ&キーボー

黒沢年雄の実弟・黒沢博と元OLのキーボーによる男女デュオ。1982年に「3年目の浮気」でデビューし、同曲はオリコン3週連続1位・130万枚の大ヒットを記録、日本有線大賞などで最優秀新人賞を受賞した。続けて「5年目の破局」などユニークな恋愛路線の楽曲を発表したが、’84年にコンビを解消。解散後も代表曲は替え歌・パロディで親しまれ、本人たちもラジオ企画で過激な替え歌に応じるなど話題を呼んだ。なお、歌詞内容が理由でNHK紅白歌合戦には出場できなかったとされる。

わらべ

『欽ちゃんのどこまでやるの!』から生まれた高部知子、倉沢淳美、高橋真美の3人による企画ユニットで、素朴な雰囲気で人気を得た。欽ちゃん番組の高視聴率とイモ欽トリオの成功を背景に、番組内で成長した“萩本家の三姉妹”を演じるためのオーディションで結成された。1982年に坂本龍一編曲のデビュー曲「めだかの兄妹」をリリースし、番組のエンディング曲として親しまれ、翌年のオリコン年間3位となる大ヒットを記録。パジャマとちゃんちゃんこ姿で歌う姿が話題になった。

 杉山清貴&オメガトライブ

プロデューサー藤田浩一を中心に結成された1980年代のプロジェクト型バンドで、林哲司ら制作陣が主導し、杉山清貴のボーカルで’83年にデビューした。夏・海・リゾートをテーマにした都会的サウンドで人気を博し、サザンやTUBEと並ぶ“夏バンド”として定着した。レコーディングはプロのスタジオミュージシャンが担当し、メンバーは提供曲を演じる形で活動したため、創作への関与が限られていた。やがて葛藤が生まれ、メンバーの総意で’85年に解散。以降はボーカルを交代しながら「オメガトライブ」名義のプロジェクトが続いた。

 C-C-B

ココナッツボーイズを前身とする1980年代のポップ・ロックバンドで、明るいカラフルなビジュアルとキャッチーな楽曲で人気を博した。ミニFM局の企画から生まれ、’83年にデビュー。’85年、筒美京平×松本隆による「Romanticが止まらない」がドラマ主題歌として大ヒットし、電子ドラムを叩きながら笠浩二がハイトーンで歌う独特のスタイルも話題となった。その後も「Lucky Chanceをもう一度」「ないものねだりのI Want You」などヒットを連発し、紅白出場や賞歴を重ねた。メンバー変動を経て’89年に解散し、再結成を挟みつつ現在は活動停止している。

チェッカーズ

福岡・久留米のアマチュアバンド文化から生まれた7人組ロックバンドで、1983年に「ギザギザハートの子守唄」でデビュー。ドゥーワップやロカビリーを下地にしつつアイドル性とバンド力を兼ね備え、’84年の「涙のリクエスト」で一躍全国的ブレイク。以降「哀しくてジェラシー」「ジュリアに傷心」などヒットを連発し、社会現象となる人気を獲得した。’86年以降は自作曲を増やしソロ活動も活発化。東京ドーム公演など大規模ライブも成功させた。メンバーの結婚や方向性の違いを経て、’92年の紅白歌合戦を最後に解散した。

レベッカ

1980年代後半、日本のバンドブームを牽引したロックバンドで「フレンズ」の大ヒットで国民的な人気を得た。木暮武彦を中心に結成され、NOKKOの個性的な歌声と存在感、そして土橋安騎夫によるサウンドプロデュースが特徴。’85年以降はシンセポップを導入し、海外女性シンガー的スタイルと少女心理を重ねた世界観で独自性を確立した。アルバム『REBECCA IV』がミリオンを達成し、武道館や東京ドーム公演も成功。’91年に解散したが、数度の再結成を経て2015年より活動を再開している。

一世風靡セピア

劇男一世風靡から派生した7人組の男性パフォーマンスユニットで、路上で培ったダイナミックな動きと集団表現を武器に1980年代の音楽界で注目を集めた。’84年に「今、我に正直に生きてみたい」でデビューし、「前略、道の上より」「汚れっちまった悲しみに…」などのヒットを放つ。個々の個性を混ぜ合わせた“セピア”という名の通り、多彩なキャラクターと力強い群舞が特徴。紅白出演は条件が合わず辞退した。’89年に解散し、哀川翔や柳葉敏郎、小木茂光らは俳優として活躍を広げた。

爆風スランプ

1982年結成、’84年デビューのロックバンドで、過激かつ奇抜なステージパフォーマンスで注目された。消火器噴射や着ぐるみ演奏など破天荒なライブから“コミックバンド”と見なされつつも、強力な演奏力で次第に評価を高める。代表曲「Runner」はメンバー脱退を機に生まれた名曲で大ヒットし、紅白にも出場。「大きな玉ねぎの下で」などのヒットも持つ。’80年代後半には実力派バンドとして確立したが、’90年代以降は低迷し、各メンバーがソロ活動を展開。’99年に活動休止となった。

バブルガム・ブラザーズ

Bro.TOMとBro.KORNが1983年に結成したデュオで、ブラックミュージックとコメディを融合した「和製ブルース・ブラザーズ」的スタイルが特徴。黒スーツにサングラスの統一衣装でライブハウスから活動を開始し、’85年にデビュー。’90年発売の「WON’T BE LONG」がカラオケを通じて大ヒットし、累計170万枚を超える代表曲となった。

TUBE

1985年デビューした神奈川県出身のロックバンド。サーフィン用語に由来する名称と夏を意識した楽曲から「湘南サウンド」の代表格とされる。初期は亜蘭知子や織田哲郎ら提供曲で活動し、’89年以降はメンバー自作曲が中心。’80年代から通年活動していたが、次第に夏季に特化し、ライブも夏のスタジアム公演を恒例化。’90〜2004年にシングル連続TOP10入り15年、アルバム連続TOP10入り27年を記録するなど安定した人気を誇る。

おニャン子クラブ

1985年、フジテレビ『夕やけニャンニャン』から誕生した女性アイドルグループで’87年まで活動。現役女子高生を中心に会員番号制やクラブ感覚の芸能活動で人気を博し「セーラー服を脱がさないで」などヒット曲を連発。グループ内ユニットやソロ活動も成功し、社会現象となった。メンバーの加入・脱退が常に行われる流動的な体制で、卒業式制度を先駆けて導入。活動期間は短く2年半ながら、’80年代後半の日本のアイドルシーンに大きな影響を与えた。

SHOW-YA

1985年にメジャーデビューした日本の女性ハードロックバンドで、’80年代のバンドブームにおける先駆的存在。前身は寺田と中村が所属した「メデューサ」で、’82年にヤマハ主催レディース部門で最優秀グランプリを獲得。デビュー当初はアイドルバンド路線で売り出されたが後にハードロック路線に回帰。’89年のアルバム『Outerlimits』で商業的成功を収め、『限界LOVERS』『私は嵐』などのヒットも生む。’91年にボーカル寺田脱退後、活動は停滞し、’98年に解散した。

うしろゆびさされ組

おニャン子クラブの高井麻巳子と岩井由紀子による2人組アイドルユニットで、1985年に結成、’87年解散。フジテレビのアニメ『ハイスクール!奇面組』のテーマソング用ユニットとして企画され、「かわいいシュール」をコンセプトに活動。結成直後のシングル『うしろゆびさされ組』を皮切りに、シングル6作・アルバム3作をリリースし、アニメ主題歌として幅広い支持を獲得。高井の卒業に伴い国立代々木競技場でのコンサートで解散。活動期間は約1年半だがグループ派生型ユニットの元祖とされ、後のモーニング娘。やAKB48系ユニットに影響を与えた。

聖飢魔II

1982年結成の日本のヘヴィメタルバンドで、「悪魔教布教」をテーマにした独自の世界観を持つ。メンバーは全員を悪魔と称し、デーモン閣下らが奇抜な衣装や歌舞伎風メイクでパフォーマンス。’85年にアルバム『聖飢魔II〜悪魔が来たりてヘヴィメタる』で地球デビューし、’86年のシングル『蝋人形の館』が大ヒット。演奏はヘヴィでラウド、ライブ「黒ミサ」では火吹きや血吐きなどの演出も行い話題を集めた。’99年12月31日に「地球征服完了」を宣言して解散。’80年代を代表する個性的なメタルバンドとして知られる。

 米米CLUB

1982年結成の日本の大所帯バンドで、石井竜也(カールスモーキー石井)を中心に、ファンクミュージックを基盤に独自の演出を加えたエンターテインメント性の高い活動で知られる。ダンサーチームやサポートバンドを擁し、ライブでは寸劇や観客参加型のパフォーマンスを重視。’85年にCBSソニーからデビューし、「浪漫飛行」「君がいるだけで」などヒット曲を生む。奇抜な衣装やコント的MCで“イロモノ”扱いも受けたが、幅広い年齢層に人気を博す。’97年に一度解散するも、2006年に期間限定で再結成し、現在もスローペースで作品を発表する。

少年隊

ジャニーズ事務所から登場した男性アイドルグループで、錦織一清・植草克秀・東山紀之の3人で構成される。1982年に「ジャニーズ少年隊」として結成、バックダンサー経験を経て’85年にシングル「仮面舞踏会」でレコードデビューし、新人賞を総ナメにする人気を獲得。ダンスと歌を融合させたパフォーマンスが特徴で、’86年からはミュージカル『PLAYZONE』を主催し、紅白歌合戦にも8年連続出場。全盛期にはブロマイド売上第1位を記録。長期にわたりコンサート・テレビ・舞台で活躍し、2020年以降は事実上活動休止状態となるが、名前は存続している。

プリンセス・プリンセス

1983年のTDK主催オーディションで結成。デビュー前は「赤坂小町」「JULIAN MAMA」として活動した後、’86年に「PRINCESS PRINCESS」と改名しCBSソニーからミニアルバムで再デビュー。’87年にファーストシングル「恋はバランス」を発売し、’88年以降は「MY WILL」「19 GROWING UP」「GO AWAY BOY」「GET CRAZY!」などのヒットを連発。’89年には日本武道館公演を女性バンドとして初開催し、シングル「Diamonds」でミリオンセラーを達成、トップアーティストとしての地位を確立。ライブ中心の活動と自作楽曲へのこだわりも特徴である。

うしろ髪ひかれ隊

うしろゆびさされ組解散後の後継ユニットとして1987年に結成された、生稲晃子・工藤静香・斉藤満喜子の3人によるおニャン子系女性アイドルグループ。アニメ『ハイスクール!奇面組』主題歌「時の河を越えて」でデビューし、工藤の人気上昇により「静香のグループ」と評されがちだったが、センターポジションを曲や活動ごとに入れ替えるなどバランスを重視した方針をとった。制作面ではおニャン子と異なり音楽性を重視したプロデュースが行われ、高い楽曲クオリティが特徴で、’88年に活動停止した。

THE BLUE HEARTS

1985年に結成され、’87年「リンダリンダ」でメジャーデビュー。甲本ヒロトと真島昌利を中心に、シンプルで力強いサウンドと、ストレートながら高い文学性を評価された歌詞で支持を集めた。「TRAIN-TRAIN」「青空」「人にやさしく」「情熱の薔薇」などのヒットを放ち、日本のロックに大きな影響を与えた。前期はメッセージ性の強い独自の世界観を確立し、後期は幅広い音楽性を展開。’95年に解散したが、その楽曲は現在もCMや映像作品で使われ続けている。

光GENJI

1987年に結成された7人組男性アイドルグループで、ローラースケートを駆使した華やかなパフォーマンスで爆発的な人気を得た。デビュー曲「STAR LIGHT」や「パラダイス銀河」など、光や宇宙をテーマにした楽曲で社会現象となり、雑誌・ラジオ・音楽番組でも記録的な支持を獲得した。’88年には日本レコード大賞を受賞、オリコン年間シングルランキング上位を独占するなど圧倒的存在感を示す。末期に2名が脱退し「光GENJI SUPER 5」として活動後、’95年に解散した。

BUCK-TICK

1987年デビュー、ダークな世界観と先鋭的なポップセンスを融合した独自の音楽性を持つ。デビュー2年で日本武道館・東京ドーム公演を成功させ、3rdアルバム『TABOO』でオリコン1位を獲得。ビジュアル面・サウンド面ともに常に進化を続け、日本のロックシーンに大きな影響を与えた。デビュー以降長期にわたり精力的に活動し、記念映画公開や音楽賞受賞など評価も高い。2023年にボーカル櫻井敦司が逝去するも、残るメンバーで活動継続を表明し、新体制でも作品・ライブを展開している。

筋肉少女帯

大槻ケンヂと内田雄一郎を中心に1982年に結成されたロックバンド。初期は白塗りや包帯を巻く奇抜なパフォーマンスを特徴とし、ナゴムレコードからインディーズデビュー。’88年に『仏陀L』と『釈迦』でメジャー進出し、メンバー入れ替えを経て橘高文彦らが加入し体制が安定する。『日本印度化計画』『元祖高木ブー伝説』などユーモアと過激さを併せ持つ楽曲で注目を集め、コミックバンド的側面も話題となった。’90年には日本武道館で単独公演を行い人気を確立するが、バンドブーム衰退や事務所問題などから’98年に活動を休止した。

男闘呼組

1980年代後半に活躍したジャニーズ初の本格派ロックバンド。成田昭次・高橋一也(後の光一)・岡本健一を中心に結成され、前田耕陽を加えた4名体制でデビューに至った。’88年「DAYBREAK」が大ヒットし、「秋」「TIME ZONE」などで人気を確立し、日本レコード大賞最優秀新人賞や紅白出場を果たした。従来のアイドル像と異なり、ロック志向と演奏力を前面に出したスタイルが特徴。’93年、高橋の事務所退所を機に活動休止となり、メンバーはそれぞれの道へ進んだ。

チャゲ&飛鳥

高校の同級生であるChageとASKAにより1979年に結成され「ひとり咲き」でデビュー。’80年代から’86年にかけて「万里の河」「モーニングムーン」などヒットを重ね、’91年の「SAY YES」でオリコン13週連続1位・ダブルミリオンを記録。’90年代には「YAH YAH YAH」など複数のミリオンヒットを放ち、海外ツアーやMTVアンプラグド出演など国際的な活動も展開した。2009年に無期限活動休止、2013年再始動を目指すも、ASKAの健康問題や事件で白紙となり、2019年にASKAが脱退した。

一風堂

1979年に渋谷のディスカウントストア名を由来に結成され、当初は山本翔のバックバンドとして活動。’80年からシングル「ブレイクアウト・ジェネレーション」「ミステリアス・ナイト」やアルバム『NORMAL』『REAL』をリリースし、ニュー・ウェイヴやポップスの要素を取り入れたサウンドで注目された。’82年の「すみれ September Love」はカネボウCMソングとして大ヒットし、オリコン最高3位を記録。リーダー土屋昌巳やメンバーのソロ活動も活発で、海外アーティストのサポートも担当した。

B'z

1980年代後半にデビューした、ギタリスト松本孝弘とボーカリスト稲葉浩志によるロックユニット。’88年にシングルとアルバムを同時発売してデビューし、’90年に「太陽のKomachi Angel」で初のオリコン1位を獲得。その後ミリオンヒットを連発し、日本を代表する人気アーティストへと成長した。激しいロックサウンドと圧倒的歌唱力、松本によるギタープレイを核とした楽曲が特徴で、ライブ「LIVE-GYM」も精力的に展開。後年には国内売上でギネス認定され、世界的にも評価を受ける国民的ロックユニットとなった。

グループ > 1960年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

ハナ肇とクレイジーキャッツ

1955年結成、’59年「スーダラ節」でレコードデビュー。ハナ肇をリーダーとするコメディ色の強い音楽バンドでメンバーは植木等、谷啓、犬塚弘らが名を連ね「スーダラ節」「ハイそれまでよ」など数々のヒット曲を生み出した。人気バラエティ番組『シャボン玉ホリデー』では、音楽とコントを融合した斬新なスタイルでテレビ界にも大きな影響を与えた。

ザ・ドリフターズ

1956年結成、’64年「ドリフのズンドコ節」でレコードデビュー。いかりや長介を中心に結成されたバンド兼コメディグループ。当初は本格的な音楽活動も行い、ビートルズ来日公演では前座も務めた。代表曲は「ドリフのズンドコ節」「いい湯だな」。後にテレビ番組『8時だョ!全員集合』で国民的人気を獲得し、子どもから大人まで幅広い層に支持された。

スリーファンキーズ

1958年デビュー。アイ高野、山下敬二郎、長沢ロー(初期)による3人組男性ボーカルグループ。ロカビリー・ブームの中、アメリカンポップスを日本流にアレンジし人気となる。代表曲は「涙のギター」。当時の若者文化に大きな影響を与え、後のアイドルグループの先駆け的存在だった。

ザ・ピーナッツ

1959年4月デビュー。伊藤エミ・伊藤ユミの双子姉妹によるボーカルデュオ。人気バラエティ『シャボン玉ホリデー』に出演し息の合った美しいハーモニーと可憐なルックスで爆発的な人気を得た。代表曲は「恋のバカンス」「ふりむかないで」など。海外進出にも意欲的で、特にドイツ映画『モスラ対ゴジラ』では小美人役として出演し、世界的にも知られる存在となった。姉の伊藤エミと沢田研二との結婚により引退。

こまどり姉妹

1959年「浅草姉妹」でデビュー。実姉妹のデュオとして、下町の庶民感情を歌った演歌・歌謡で人気を集めた。生活苦から流しをしていた実話が「浅草姉妹」の詞にも反映。芸能界の“シンデレラ・ストーリー”として注目を浴び、テレビや映画にも出演。ド派手な衣装と歯に衣着せぬトークで、長年にわたり愛された姉妹デュオ。

ザ・キングトーンズ

1960年「ミスター・ロンリー」でデビュー。リードの内田正人による圧倒的な低音ボイスと、ソウルフルなコーラスが特徴。’68年「グッド・ナイト・ベイビー」が大ヒットし、和製ドゥーワップの金字塔に。黒人音楽の影響を色濃く受けた本格派グループとして、現在も根強いファンを持つ。

ジャニーズ

1964年12月デビュー。飯野おさみ、あおい輝彦、中谷良、真家ひろみの4人組男性アイドルグループで、代表曲は「若い涙」「涙くんさよなら」。アメリカンスタイルのショービジネスを日本に根付かせることを目指し、ミュージカルやテレビにも積極的に出演し人気となる。「ジャニーズ」という名前自体が、後の事務所名(ジャニーズ事務所)の由来となる。

鶴岡雅義と東京ロマンチカ

1966年「小樽のひとよ」でデビュー。ムード歌謡の王道をゆく、甘く濃厚な情感が特徴。美しいメロディと男性コーラスの響きが魅力で、「君は心の妻だから」「愛の奇跡」など多数のヒット曲を持つ。鶴岡はギタリスト兼リーダーとして作曲も手がけ、グループのサウンドの要となった。

ピンキーとキラーズ

1968年6月にデビューしたヴォーカルの今陽子(ピンキー)と男性4人のバンドによるグループ。黒いハットがグループのトレードマークで、今陽子の迫力ある歌唱と振り付けが話題を呼び、代表曲「恋の季節」は発売からわずか3か月でミリオンセラーを達成し、レコード大賞新人賞を受賞した。

レ・ガールズ

1967年に結成された女性ダンスグループ。西野バレエ団の中でもエース格だった金井克子、原田糸子、由美かおる、奈美悦子、江美早苗で構成され、本格的な歌とダンスで当時の若者から熱狂的な支持を集め、アイドルグループの草分け的存在とされた。同名の音楽バラエティ番組も制作され、’68年には映画『ミニミニ突撃隊』『初恋宣言』、’69年にはドラマ『フラワーアクション009ノ1』に主演。2006年に一部メンバーを除き再結成されている。

※画像:(C)国際情報社 – 『映画情報』1968年4月号

日本中が熱狂したグループ・サウンズ

グループ・サウンズの時代(1960年代後半)、日本の音楽は大きく変わった。それまでの演歌や歌謡曲と異なり、ビートルズに代表されるリバプールサウンドの影響を受け、エレキギターやドラムを使ったバンド形式の音楽が流行した。若者が中心となり、ザ・スパイダース、ザ・タイガース、ザ・テンプターズなどバンド名に「ザ・」がつくグループが多数登場した。

グループサウンズは派手な衣装、甘いマスク、ビートの効いた音楽や当時人々が憧れた欧米の空気も感じさせ、GSが出演する音楽フェスティバル「日劇ウエスタンカーニバル」では前売り券を求めて有楽町駅から東京駅付近まで約1kmの行列ができるほど熱狂的な人気となった。それは同時に、日本に芽生えた「若者文化」の象徴とも言える。グループサウンズは’70年代初頭には衰退するが、後の日本のロックやアイドル文化の礎となる重要なムーブメントだった。

ザ・スパイダース

​1965年5月​「フリフリ」でデビュー。堺正章、井上順、かまやつひろし、田邊昭知(現・田辺エージェンシー代表取締役社長・会長/2025年)、井上堯之、大野克夫らが在籍。当時は斬新だったミリタリー・ルックに身を包み、演奏力とユーモアも兼ね備える老舗バンドとしてGSブームを牽引した。ビートルズ的なサウンドが特徴で「夕陽が泣いている」「なんとなくなんとなく」「あの時君は若かった」などヒット曲多数。個々のメンバーの人気や評価が高く、GSブーム終焉の中でメンバーのソロ活動が増え、堺がTBSドラマ『時間ですよ』に出演するようになった’70年に解散した。

ザ・タイガース

1967年2月「僕のマリー」でデビュー。大阪の音楽喫茶『ナンバ一番』で”ファニーズ”というグループ名で歌っていたところ、共演していた内田裕也ほか複数の音楽人に声をかけられ上京、渡辺プロダクションのオーディションに合格しデビューに至る。ジュリー(沢田研二)を中心に華やかなルックスが特徴で、2曲目の「シーサイド・バウンド」で人気が爆発。女性ファンから絶大な支持を受け「モナリザの微笑」「君だけに愛を」「花の首飾り」などのヒットでGSを代表する存在となる。グループ名は大阪の阪神タイガースにちなんだもので、作曲家のすぎやまこういちによって命名された。活動期間は約4年間。

ザ・テンプターズ

1967年10月「忘れ得ぬ君」でデビュー。萩原健一(ショーケン)がヴォーカルを務め、タイガースよりもワイルドで不良っぽい雰囲気で人気を集めた。代表曲は「神様お願い!」「エメラルドの伝説」。硬派な魅力で男性ファンも多かった。GSブーム終焉の中、’70年12月に解散。当時はジュリーVSショーケンの構図をメディアは好み、ファン同士の確執も報じられたが、実際のところ2人は大親友と呼べるほど仲が良く、互いにリスペクトし合っての深い友情はショーケンの逝去まで続いている。

ジャッキー吉川とブルー・コメッツ

1966年デビュー。ドラムス担当のジャッキー吉川、ギターとヴォーカルの三原綱木、フルートとサックス、ヴォーカルの井上忠夫などが在籍。’67年に発売した「ブルー・シャトウ」が150万枚の大ヒットを記録し日本レコード大賞を受賞した。不良のイメージが強くNHKとは縁遠かったGSの中にあって、ザ・ワイルドワンズとともにNHKへの出演が許された国民的バンドだった。

ザ・サベージ

1966年7月「いつまでもいつまでも」でデビュー。後にソロでヒット曲「ルビーの指輪」を持つ寺尾聡がベースとヴォーカルを務めていた。知的で紳士的なイメージのグループで特に高校生・大学生に支持され、デビュー期はブルーコメッツやスパイダースとともにGS3大グループとして人気を集めた。

ヴィレッジ・シンガーズ

1966年10月デビュー。3枚目のシングル「バラ色の雲」が60万枚のヒットとなり、翌年の5枚目のシングル「亜麻色の髪の乙女」も60万枚を突破するセールスを記録した。甘いマスクのヴォーカルの清水道夫をはじめメンバーは短髪にスーツの好青年の印象で、GS界の貴公子とも呼ばれた。後に俳優として活躍する林ゆたかがドラムスを務めた。

ザ・ワイルドワンズ

1966年11月「想い出の渚」でデビュー。リードギター加瀬邦彦の特注の12弦ギターによるサウンドで100万枚を超える大ヒットを記録。加瀬のほか鳥塚しげき、島英二、植田芳暁、渡辺茂樹が所属し、それぞれに根強いファンを獲得した。’71年に一度解散したものの’79年に再集結、メンバー交代はありながら2025年現在も活動している。リーダーの加瀬邦彦( 2015年逝去)は全盛期の沢田研二を二人三脚で支えた音楽プロデューサーとしても知られる。

ザ・カーナビーツ 

1967年3月「好きさ好きさ好きさ」でデビュー。ヴォーカル兼ドラムスのアイ高野がドラムスティックを前方に突き出し「お前のすべてを~」と絶叫する見せ場が受けて爆発的なヒットとなる。アニマルズ風のR&Bサウンドが特徴でGSブームを盛り上げた。’69年9月に解散。

ザ・ジャガーズ

​1967年5月のデビュー曲「君に会いたい」が大ヒットするも、4枚目のシングル「キサナドゥーの伝説」発売の頃、メンバー全員が乗車する移動用のマイクロバスが交通事故を起こし、メンバー全員が負傷。療養中に代役としてジャズ喫茶に出演したオックスに人気を奪われる形で不運にも勢いを失った。’71年解散。

オックス

1968年5月「ガール・フレンド」でデビュー。オルガンの赤松愛とリードヴォーカルの野口ヒデトの人気が高く、メンバーとファンが演奏中に失神する場面があったことから「失神バンド」として知られる。デビュー曲や「スワンの涙」がヒット。野口は端正なルックスで、ザ・タイガースの沢田研二やザ・テンプターズの萩原健一とともに多くの女性ファンを獲得した。後に演歌歌手・真木ひでととして活躍。

ザ・モップス

​1967年11月「朝まで待てない」でデビュー。鈴木ヒロミツがヴォーカルを務める、日本におけるサイケデリック・ロックの草分け的バンド。テレビ出演の多いGSグループとは一線を画し、ジャズ喫茶や米軍キャンプ場を主戦場とするGS界の異端児だった。「たどりついたらいつも雨ふり」「すずき・ひろみつの気楽に行こう」などがヒットした。’74年に解散。

パープル・シャドウズ

1968年3月「小さなスナック」でデビュー。デビュー曲は47万枚の大ヒットとなるが、その後ヒット曲には恵まれなかった。(’69年にリリースした「別れても好きな人」は不発だったが、10年後の’79年にロス・インディオス&シルヴィア盤が発売されて大ヒットとなった。)若さを売りにする他のグループとは異なり、七三分けの髪型のサラリーマンスタイルで落ち着いたサウンドを繰り出すムード歌謡の雰囲気も持つグループだった。

フォー・セインツ

1965年デビュー。代表曲は「小さな日記」(’68年)。爽やかなハーモニーが魅力で、青春フォークとグループサウンズの橋渡し的存在。テレビ出演も多く、清潔感あるイメージで若者の支持を集めた。日本におけるコーラスグループ系フォークの先駆けとして評価されている。

ザ・フォーク・クルセダーズ

1967年、自主制作盤「帰って来たヨッパライ」でデビュー(正式な全国発売は’67年12月)。ラジオで人気となり、ミリオンセラーを記録。関西大学の学生バンドが一夜にして国民的グループに。風刺とユーモアに満ちた楽曲が特徴で、「イムジン河」は放送禁止騒動も話題に。’68年に人気絶頂で解散し“伝説のフォークグループ”と称される。加藤和彦はのちにサディスティック・ミカ・バンドなどで活躍。

ジローズ

1969年、テレビ番組『リブ・ヤング!』の挿入歌「戦争を知らない子供たち」でデビュー。同曲が反戦フォークとして大ヒット。堺武男と杉田二郎によるデュオで、明快なメッセージと覚えやすいメロディが支持された。解散後、杉田はソロで活躍、「男どうし」などもヒット。時代の空気を象徴するグループとして記憶されている。

ミニコラム ─ この時代の気になる人々 [六本木野獣会]

1961年に結成された、すぎやまこういちと田辺靖雄を中心とする富裕層ティーンの遊び人グループ。本来は「野獣会」と呼ばれた。赤坂・六本木に集ったことから「六本木族」と混同され「六本木野獣会」とも呼ばれる。メンバーには峰岸徹、中尾彬、大原麗子、小川知子、井上順、ムッシュかまやつら後にスターとなる若者が多く最大30人規模。赤坂のカフェ「シャンゼリゼ」を拠点に、当時の都会的な若者文化の象徴となり、映画やテレビにも影響を与えたが、主要メンバーの売出しに伴い数年で自然消滅した。

ダークダックス

1951年結成。テレビ時代の草創期から活躍した男声コーラスグループ。「ともしび」「雪山讃歌」などフォーク調の楽曲で親しまれた。学究肌のメンバーが多く、ロシア民謡や唱歌の紹介にも尽力。バラエティ出演も多く、親しみやすい知性派グループとして世代を問わず人気を得た。

和田弘とマヒナスターズ

1953年結成。’57年「お百度こいさん」でヒットし、’59年「誰よりも君を愛す」でレコード大賞受賞。ラテン調ムード歌謡を確立した草分け的存在で、ジャズやマンボの要素も取り入れた。和田のギターと阿蘇しのぶら多彩なボーカリストが魅力で、当時の歌謡界に多大な影響を与えた。

デューク・エイセス

1955年結成。アメリカンポップスから民謡、童謡まで幅広く歌う男声コーラス。’60年代には「筑波山麓合唱団」「女ひとり」など、叙情性あふれる楽曲で注目された。ユーモアと品のあるパフォーマンスで教育番組やCMでも活躍。美しいハーモニーと豊かな表現力で高い評価を得た。

ソルティー・シュガー

1969年「走れコウタロー」でデビュー。駅伝をテーマにしたユーモラスな楽曲が異例のヒット。コミカルなイメージながら、メンバーの多くはのちにプロの作家やプロデューサーとして音楽業界に関わる。風刺と笑いの要素を併せ持つ、異色のフォークユニットとして記憶される。

ベッツィ&クリス

1969年、「白い色は恋人の色」でデビュー。アメリカ人女性二人組による異色のフォークデュオで、流暢な日本語と美しいハーモニーで話題に。続く「花のように」もヒット。短期間の活動ながら、日本のフォーク界に強烈な印象を残した。のちに帰国し、活動は自然消滅的に終了。

じゅん&ネネ

スクールメイツ出身の森くるみ(じゅん)と筑紫恵子(ネネ)の女性デュオ。1964年にクッキーズとしてデビューし、’68年にじゅん&ネネへ改名。コシノジュンコと平尾昌晃が名付けた。キングレコードから再デビューした「愛するってこわい」が80万枚を売り上げ一躍人気デュオとなるが’72年に解散。じゅんはソロ活動後に結婚し芸能界を引退。ネネは留学を経て音楽活動を継続した。

黒沢明とロス・プリモス

1967年「ラブユー東京」でデビュー。都会の夜を感じさせるムード歌謡の代表格。切ない恋心を甘い歌声で歌い上げ、「たそがれの銀座」「ラブユー貧乏」なども人気。夜の酒場やカラオケで定番のナンバーとなり、サラリーマン世代の共感を得た。メンバーチェンジを重ねながら長期にわたり活動。

内山田洋とクール・ファイブ

1969年「長崎は今日も雨だった」でデビュー。前川清の甘く深い歌声と、ムード歌謡の美しいハーモニーで一世を風靡。「中の島ブルース」「そして、神戸」などヒット多数。和装・洋装を取り入れたスタイルも斬新で、ムード歌謡を現代風に洗練させた存在。解散後も前川はソロで活躍。

ロス・インディオス

1969年「コモエスタ赤坂」でブレイク。ラテン歌謡を日本風にアレンジしたムード歌謡グループとして活躍。男女デュエットの形も多く、’80年代にシルヴィアとの「別れても好きな人」で再ブレイク。酒場の哀愁や恋心を情熱的に歌い上げ、長年愛されるグループに。

フォーリーブス

1968年9月デビュー。北公次、青山孝、江木俊夫、永井秀一の4人によるジャニーズ事務所の男性アイドルグループ。代表曲は「ブルドッグ」「地球はひとつ」など。歌とダンスを本格的に取り入れたパフォーマンスで、テレビ、コンサート、舞台など幅広く活躍し、ジャニーズ系アイドルの基本スタイルを築いた。

ヒデとロザンナ

1968年デビュー。日本人の出門英(ヒデ)とイタリア人歌手ロザンナによる男女デュオ。代表曲「愛の奇跡」は異国情緒たっぷりの美しいハーモニーで大ヒットした。プライベートでも結婚し、夫婦デュオとして活動していたが、後にヒデの早逝により惜しまれながら活動を終了した。

 この時代の流行 ─

アイビールック

1950年代のアメリカ東海岸・名門大学アイビーリーグの学生たちの装いに由来し、三つボタンのブレザー、ボタンダウンシャツ、コットンパンツ、ローファー、七三分けの髪型を基本とする端正な紳士的スタイル。日本では’60年代にVANと『MEN’S CLUB』が普及を牽引し、定番コーディネートを提示することで若者に広まった。銀座みゆき通りの「みゆき族」など街の若者文化とも結びつき、写真集『TAKE IVY』の発表などを通じて独自のファッション文化として定着した。

ビリー・バンバン

1969年「白いブランコ」でデビュー。菅原兄弟によるハーモニーデュオ。繊細で叙情的な楽曲が多く、フォークというよりメロウなポップスとしても親しまれた。兄・孝の病気による活動休止を乗り越え、’91年「また君に恋してる」で再ブレイク。長寿グループとして根強い人気を持つ。

ブレッド&バター

1969年のデビュー曲は「マリエ」(’70年発表)。岩沢兄弟によるユニットで、日本の“湘南サウンド”の源流的存在。アメリカ西海岸の影響を受けた都会的で洗練されたサウンドは、後のシティポップに通じる。長く音楽活動を続け、ミュージシャンからの評価も高い。

トワ・エ・モワ

1969年「或る日突然」でデビュー。白鳥英美子と芥川澄夫の男女デュオで、柔らかいハーモニーと知的なイメージが特徴。「空よ」「誰もいない海」などがヒット。’72年札幌五輪のテーマ「虹と雪のバラード」でも注目を集めた。女性フォークの先駆け的存在としても重要。

グループ > 1970年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

赤い鳥

1969年結成、’70年代を中心に活動し’74年に解散した。各メンバーがボーカルを担当する美しいハーモニーが特徴。民謡や子守唄を取り入れつつ、ソフトロック的要素も兼ね備え関西フォークとは一線を画した。’69年ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストでグランプリを獲得、’70年にシングル『人生/赤い花白い花』とアルバム『FLY WITH THE RED BIRDS』でメジャーデビュー。’71年の『竹田の子守唄/翼をください』は100万枚を超えるヒットとなった。解散後、元メンバーは紙ふうせん、ハイ・ファイ・セット、ハミング・バードを結成した。

はっぴいえんど

1970年代前半に活動したロックバンドで、細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂により結成された。松本の巧みな日本語詞と大瀧・細野の作曲により、日本語ロックの基礎を築き、民俗的・文学的要素を音楽に取り入れた。アメリカのロックやフォークの影響を受けつつ、日本語歌詞を中心にした独自の音楽性を展開。全日本フォークジャンボリーへの出演や、代表曲「風をあつめて」のヒットで注目された。後続の日本のロックバンドや松田聖子らの楽曲に大きな影響を与え、バックバンド活動やサポート参加も行った。

オフコース

1970年にシングル『群衆の中で』でデビュー。初期はフォークソング的なアコースティック中心の曲を演奏し、’72年から小田和正と鈴木康博のデュオ体制を経て、’76年に松尾一彦、清水仁、大間ジローが加わりバンドサウンドを確立。’79年以降の「さよなら」などのヒットで人気を獲得し、テレビ出演をほとんどせずレコード制作とコンサートに専念する独自路線を貫いた。’82年の鈴木脱退後も活動を再開し、’89年に解散した。

殿さまキングス

1967年結成。元々はコミックバンドとしてお笑い番組に出演していたが、’70年代に歌謡コーラス・グループに転向し成功を収めた。リーダー長田あつしら4人編成で、’73年の「なみだの操」、’75年の「夫婦鏡」が連続ミリオンヒットとなり史上初の快挙を達成。演歌系のほかリズム曲やワールドミュージックにも意欲的に取り組んだ。’80年代にはポップス要素も取り入れ、’90年に解散後はメンバーがソロや懐メロ番組で活動を継続した。

かぐや姫

南こうせつを中心に活動。第1期は南・森進一郎・大島三平の3人でデビューし、短期間でシングル3枚とアルバム1枚を発表。第2期は南・伊勢正三・山田パンダの編成で1971年に再結成し、シングル『青春』で再デビュー。’73年の『神田川』が160万枚の大ヒットとなり、フォークシーンで絶大な人気を得た。グループ名は第2期から「かぐや姫」となり、映画化の影響やレコード会社との意向により解散は早まり、’75年の東京公演をもって活動終了。メンバーはソロや別ユニットで活動を継続した。

RCサクセション

忌野清志郎を中心に結成されたロックバンドで「King of Rock」「King of Live」と称され、日本語ロックの確立やライブパフォーマンス文化に大きな影響を与えた。基本的に忌野が作詞・作曲した楽曲をバンドでアレンジし演奏するスタイルをとり、共作も行った。1982年には坂本龍一との「い・け・な・いルージュマジック」がヒットし、過激なMVなどで注目を集めた。RCとしての活動はその後も続き、自身のレーベル設立など革新的な試みを行ったが、’91年以降活動休止、2009年の忌野死去により事実上解散した。

森田公一とトップギャラン

1969年結成。腕利きミュージシャンの集合体として知られる。’70年代に「青春時代」などのヒット曲を生み、’77年には第28回NHK紅白歌合戦に出演した。デビュー後、’75年にCBS・ソニーへ移籍してから安定した人気を獲得。’81年に解散したが、’90年には森田の作曲家30周年を記念してトップギャランⅡとして再結成され、後にオリジナルメンバーに狩人の加藤久仁彦を迎え再び活動を継続した。バンド名は帆船の上檣に由来し、メンバー全員がリーダー経験者であることを象徴している。

チューリップ

1968年にザ・フォーシンガーズとして結成され、’70年代に財津和夫を中心に本格活動を開始した。ビートルズに影響を受けたメロディとコーラス、メンバー全員が作詞・作曲・ボーカル・コーラスを担当するスタイルが特徴。’73年「心の旅」、’74年「青春の影」、’75年「サボテンの花」、’79年「虹とスニーカーの頃」などヒットを連発し、ツインボーカルを活かした楽曲で人気を獲得。’79年以降メンバー交代が相次ぎ一時低迷したが、後に再結成され、オリジナルメンバーでのライブ活動を展開した。

 敏いとうとハッピー&ブルー

1971年に敏いとうが結成した日本のムード歌謡グループ。’73年に森本英世を2代目リードボーカルに迎え、’74年の『わたし祈ってます』をはじめ、『星降る街角』『よせばいいのに』などヒット曲を連発し、「ムード歌謡の帝王」と称された。’83年に森本脱退後、一時活動休止も経験するが、’96年以降再開。リードボーカルは変遷しつつ、2021年には「新✩SHINSEI敏いとうとハッピー&ブルー」として後継グループが正式認定され、現在も活動を継続している。

シモンズ

大阪出身の女性フォークデュオで、田中ユミと玉井タエにより1970年代初頭に活動した関西フォーク系グループ。グループ名は「サイモン&ガーファンクル」のサイモンに由来する。高校時代からライブ活動を行い、上京後にRCAレコードからデビュー。デビュー曲『恋人もいないのに』が60万枚超の大ヒットとなり、’71年の日本レコード大賞新人賞を受賞。’74年に玉井の結婚で一時休止するも、’78年にテレビドラマ主題歌で再開し翌年に解散した。CMソングも多数手掛け、特に明治製菓「チェルシー」の曲が有名である。

チェリッシュ

愛知県出身の松崎好孝と松崎悦子による夫婦フォークデュオ。1968年に松崎好孝を中心とした4人組で名古屋にて結成、’70年に悦子が加入し第1期チェリッシュとなる。’71年、音楽コンテストでグランプリを獲得後、シングル『なのにあなたは京都へゆくの』でデビュー。’72年に男女デュオ体制となり、第2期チェリッシュとして活動。’73年の『てんとう虫のサンバ』『避暑地の恋』など多数のヒット曲を生み、結婚後も夫婦デュオとして全国ツアーやテレビ出演を行い、清純で親しみやすいメロディーと歌唱で人気を博した。

かぐや姫

南こうせつを中心に活動したフォークグループ。第1期は南、森進一郎、大島三平の3人組で「酔いどれかぐや姫」などを発表し、1年間でシングル3枚とアルバム1枚を残した後に解散。第2期は南が伊勢正三と山田パンダを加え再結成し、1971年のシングル『青春』で再デビュー。’73年に『神田川』が160万枚の大ヒットとなり、深夜放送のリスナーを中心に人気を獲得した。映画化やレコード会社の意向によりアーティストの意思が制約されたこともあり、’75年4月に解散した。

ガロ

1970年から’76年まで活動した、堀内護(MARK)、日高富明(TOMMY)、大野真澄(VOCAL)の3人組フォークロックグループ。全員がボーカルとギターを担当し、卓越したコーラスワークと演奏技術で知られ、「和製CSN&Y」と称された。’73年には「学生街の喫茶店」「君の誕生日」「ロマンス」がヒットし一世を風靡。元々はCSN&Yのコピーバンドとして活動を開始し、初期から都会的でファンタジックな楽曲を制作。後期にはソフトロックやプログレッシブ・ロック、ハード・ロック的要素も取り入れ、多様な音楽性を示した。

ペドロ&カプリシャス

リーダーのペドロ梅村を中心に結成されたバンド。ジャズやフォーク、ラテンロックなど洋楽の要素を取り入れたアダルト・コンテンポラリーなサウンドで人気を集めた。1971年に前野曜子を迎えデビュー曲「別れの朝」がヒットし、’73年には高橋まり(現・髙橋真梨子)を迎えて「ジョニィへの伝言」「五番街のマリーへ」などのヒット曲を生む。ボーカルは世代交代を繰り返しながら活動を継続し、’70年代に洗練されたメロディと洋楽的アレンジで多くのファンを魅了した。

青い三角定規

1971年、西口久美子、岩久茂、高田真理の3人で結成された。作曲家いずみたくが深く関わり、’72年にはドラマ『飛び出せ!青春』主題歌「太陽がくれた季節」が100万枚を超える大ヒットとなり『日本レコード大賞』新人賞を受賞、NHK紅白歌合戦にも初出場した。メンバー間の方向性の違いから’73年に解散。その後、西口はソロ歌手・女優、岩久は作曲家、高田は一時歌手後に芸能界を引退。解散後、いずみたくのプロデュースで新メンバーによる新「青い三角定規」が短期間活動した。

アリス

1971年、谷村新司、堀内孝雄、矢沢透の3人で結成。’72年シングル「走っておいで恋人よ」でデビューし、下積みの地道なツアー活動を経てファン層を拡大した。谷村のラジオ出演やオリジナル曲「帰らざる日々」「冬の稲妻」「チャンピオン」などのヒットにより知名度を高め、’78年には日本人アーティストとして初めて日本武道館3日間公演を成功させ、一時代を築いた。全国の主要ホールや野球場でも満員公演を実施し、’70年代を代表する人気グループとなった。

ビリーバンバン

兄・菅原孝と弟・菅原進による東京都出身の兄弟フォークデュオ。1968年に兄弟デュオとして再編され、’69年にシングル「白いブランコ」でメジャーデビュー。弁舌さわやかな兄と口下手な弟という対照的なコンビが特色で、一躍フォークシンガーの代表格となった。’72年にはテレビドラマ主題歌「さよならをするために」が約80万枚のヒットを記録しNHK紅白歌合戦にも出場。その後活動は続くが、’76年に解散。兄は司会者、弟は歌手・作曲家として独自の道を歩んだ。

宮史郎とぴんからトリオ

宮史郎を中心に結成された音曲漫才出身の歌謡コーラスグループ。1963年に宮五郎、並木ひろしとともに「ぴんからトリオ」として活動を開始し、’72年に自主制作の「女のみち」が420万枚を売り上げ大ヒット。続く「女のねがい」「女のゆめ」も大ヒットし、昭和歌謡界で人気を博した。’73年に並木脱退後「ぴんから兄弟」として活動。第15回日本レコード大賞大衆ヒット賞受賞、第24回紅白歌合戦にも出演。その後宮史郎はソロ転向し、『片恋酒』などのヒットを重ね、演歌・ナツメロ界で長年活躍した。

フィンガー5

沖縄出身の5人兄妹による歌って踊る歌謡アイドルグループで、四男・晃の変声期前のハイトーンボイスを軸に1970年代に爆発的な人気を得た。米兵向けバーで洋楽に親しみ、ソウルやモータウンを基盤とした高い歌唱力とダンスが特徴。’60年代後半からバンド活動を続け、紆余曲折ののち’72年に再デビュー。’73年の「個人授業」が145万枚超の大ヒットとなり、「恋のダイヤル6700」「学園天国」などミリオンを連発した。子どもらしいルックスとパワフルなパフォーマンスで社会現象的ブームを巻き起こした。

海援隊

1971年に結成された男性3人組フォークグループ。福岡・照和を拠点にブルースロックからフォークへと作風を変えながら活動した。泉谷しげるの後押しで’72年にエレックからデビューし、「母に捧げるバラード」がヒット。武田の表現力と3人のハーモニーが支持された。低迷期を経て’77年に「あんたが大将」で再浮上し、’79年にはドラマ『3年B組金八先生』主題歌「贈る言葉」がミリオンを記録。’70年代フォークの中でも叙情性と社会性を併せ持つ独自の存在として定着した。

キャロル

1972年に結成。矢沢永吉とジョニー大倉を中心に革ジャンとリーゼントをまとった50’sスタイルで一躍注目を浴びた。ビートルズの初期ロックを源流に、日本語オリジナル曲で勝負した点が大きな革新で、矢沢作曲・大倉作詞の体制が音楽性を支えた。『リブ・ヤング!』出演を契機に一気にブレイク。「ルイジアンナ」「ファンキー・モンキー・ベイビー」などがヒットし、若者文化を象徴する社会現象となる。過激な人気ゆえトラブルも多く、内紛や不祥事を抱えつつ、’75年に解散した。

ゴールデン・ハーフ

1970年代前半に活動した女性アイドルグループで、全員がハーフという設定で人気を集めた。’69年、日本テレビ系『ドリフターズ大作戦』のマスコットガールとしてエバ、マリア、ユミ、マーガレット、タミ、ミキの6人で結成され、渡辺プロダクションに所属。’70年8月、スリー・キャッツの「黄色いサクランボ」をカバーしてデビューした。その後「チョット・マッテ・クダサイ」「ロコモーション」などで人気を高めた。編成の変遷を経て4人組時代に人気が最高潮となるが、’73年にリーダー小林ユミが脱退。’74年「メロンの気持」を最後に解散した。

あのねのね

京都産業大学の学生だった清水国明と原田伸郎によって結成されたフォークデュオで、1970年代中期から活動を本格化した。’73年に「赤とんぼの唄」でデビューし、ブラックユーモアを効かせたコミックソングと軽妙なトークで人気を獲得。「魚屋のオッサンの唄」などが代表曲で、ラジオ・テレビでも活躍した。一方で「雪が降っています」「嫁ぐ朝に」などの抒情的な曲も持ち味とした。その後休止期間を経て「ネコ・ニャンニャンニャン」などを再びヒットさせた。

ダ・カーポ

久保田広子と榊原まさとしによるフォークデュオで、1973年にデビュー。翌年の「結婚するって本当ですか」が60万枚の大ヒットとなり代表曲となる。広子の柔らかな美声と確かな歌唱力、親しみやすいメロディーを特長とし、フォークに加えて童謡・唱歌や民謡のアレンジにも積極的に取り組んだ。グループ名は演奏記号「D.C.」に由来し「初心を忘れない」思いを込めたもの。広子と榊原は’80年に結婚した。

ぴんから兄弟

宮五郎・宮史郎兄弟を中心にした歌謡コーラスグループで、元は1963年結成の音曲漫才「ぴんからトリオ」が母体。’72年、自主制作盤「女のみち」が有線放送から火がつき420万枚の大ヒット、続く「女のねがい」「女のゆめ」もミリオン級となり社会現象化した。これを機に音曲漫才から本格的な演歌・コーラス路線へ転換。’73年に並木ひろしが脱退し「ぴんから兄弟」と改名。同年レコード大賞・大衆ヒット賞受賞、NHK紅白にも出場するなど’70年代前半の演歌ブームを代表する存在となった。

キャンディーズ

スクールメイツ出身のラン・スー・ミキにより結成され、1972年にNHK番組のマスコットガールとして登場、’73年「あなたに夢中」でデビューした。当初は目立たない存在だったが、’75年「年下の男の子」でランをセンターに据えて大ブレイクし、大学生を中心に熱狂的人気を獲得。「春一番」「やさしい悪魔」などヒットを連発し、バラエティ番組でも親しみやすいコントで人気を確立。女性の髪型を真似る流行も生んだ。’77年、人気絶頂の中で突然の解散を発表し「普通の女の子に戻りたい」は時代の象徴的フレーズとなった。

グレープ

さだまさしと吉田正美による1972年結成のフォークデュオで、’76年に解散した。高校時代からの友人同士で、長崎で自主的に活動を始め、地元メディアの後押しを受けて’73年「雪の朝」でデビュー。当初は無名だったが’74年の「精霊流し」が深夜ラジオをきっかけに全国的ヒットとなり、日本レコード大賞作詩賞を受賞。「追伸」「無縁坂」などを発表し人気を確立。一方でロック志向も強く、ジャズギターやヴァイオリンを生かした多彩なサウンドに挑戦した。男性デュオの成功例として後の音楽界にも影響を残した。

ダウン・タウン・ブギウギ・バンド

宇崎竜童を中心に1973年に結成された、日本語ロックブームを決定づけた存在。ブルースを基調にしたロックに奇抜な語り口やユーモアを取り入れ、「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」などのヒットで人気を獲得。ツナギ姿のステージ衣装も話題となり、’75年には紅白歌合戦に初のロックバンドとして出場した。’79年以降は過去曲を封印し、’80年に改名してシリアスなブルース・ロックを追求。’81年に解散したが、のちに断続的に再結成している。

クラフト

1970年代半ばに活躍した日本のフォーク・ロックグループで、さだまさし作詞・作曲のセカンド・シングル「僕にまかせてください」やサード・シングル「さよならコンサート」がヒットした。’75年に注目を集め、’78年に一度解散したが、2012年の『FRIENDSHIP JAMBOREE』を契機にライブ活動を再開。メンバーは三井誠(ボーカル・ギター・ピアノ)、森谷有孝(ギター)、松藤一美(ドラムス)、浜田金吾(ベース)で、解散後も各自が作曲やライブ活動など音楽活動を継続している。

ずうとるび

1970年代に活躍したバンドグループで、日本テレビ「笑点」の”ちびっ子大喜利”出演者を中心に結成され、’74年に「透明人間」でレコードデビューした。バラエティ番組出演でも人気を博し、「みかん色の恋」「恋があぶない」などのヒット曲を持つ。’77年に中心人物の山田隆夫が脱退後も新メンバーを加えて活動を継続し、’82年に一度解散したが、2020年に山田を含む5人で再結成。歌とダンスを組み合わせたパフォーマンスやバンド演奏で幅広い人気を得た。

ジョー山中

神奈川県横浜市出身のミュージシャン・俳優・元プロボクサー。1968年に内田裕也の誘いでロックバンド「フラワー・トラベリン・バンド」にボーカルとして参加し、’70年アルバム『ANYWHERE』でデビュー。’71年にはバンドの2ndアルバム『SATORI』を北米で同時発売し、EL&Pと共演するなど国際的に活躍。’73年のバンド解散後はソロに転向し、’74年アルバム『Joe』をリリース。’77年には映画『人間の証明』の主題歌「人間の証明のテーマ」が約51万枚のヒットを記録し、国内外のロックシーンで高く評価された。

山本コウタローとウィークエンド

山本コウタローとウィークエンドは、1974年に山本コウタロー、森一美、板垣秀雄で結成されたフォークグループ。デビュー曲「岬めぐり」がオリコン5位の大ヒットとなり、「走れコウタロー」と共に現在も歌い継がれる名曲となった。’76年以降はグループ名を「ウィークエンド」に改称。山本は’70年代TBSラジオ『パック・イン・ミュージック』の金曜パーソナリティを担当し、太平洋戦争の取材経験も持つ。後にアメリカでの生活を経て著書『アメリカあげます』を発表し、テレビ司会やタレント活動など多方面で活躍した。

 紙ふうせん

1974年に結成された日本のフォークデュオ。メンバーは元「赤い鳥」の後藤悦治郎と平山泰代で、夫婦としてデュオ活動を開始した。’77年の「冬が来る前に」がヒットし代表曲となる。フォークソングの創作だけでなく、民謡や各地の伝承歌の取材も行い、原点を探求する姿勢を持つ。テレビ出演は少ないが、フジテレビ『夜のヒットスタジオ』やTBS『ザ・ベストテン』にも登場。「翼をください」など赤い鳥時代の楽曲も引き継ぎ、関西を拠点に息の長い活動を続けた。

さくらと一郎

徳川一郎と初代さくら(河野さくら)によるデュエット歌手で、1974年に結成。デビュー曲「昭和枯れすゝき」が150万枚の大ヒットとなり一躍人気を獲得した。’78年に初代さくらが離脱後、二代目さくら(山岡さくら)が加入し、現在も「さくらと一郎」として活動を継続している。昭和歌謡の情緒を生かした楽曲が特徴。現在もテレビ挿入歌やカラオケ指導など幅広く活動し、「昭和枯れすゝき」をはじめ、長年にわたり親しまれる歌謡デュオである。

ふきのとう

北海道出身の山木康世と細坪基佳によるフォークデュオで、1970年代のフォーク・ニューミュージックブームを牽引した。’74年に「白い冬」でデビューし「風来坊」「春雷」「やさしさとして想い出として」などのヒットを生む。二人はソロ活動も並行しつつ、’81年には自身のレーベル「Silverland」を設立。デビュー10周年の’84年日比谷野外音楽堂コンサートや、’87年日本武道館公演を成功させた。’92年にラストライブを行い解散。18年間の活動でフォークシーンに独自の存在感を残し、再結成は現在も行われていない。

甲斐バンド

1974年に甲斐よしひろを中心に結成されたロックバンドで、デビュー曲は「バス通り」。’80年代初頭にかけて「HERO」「安奈」などのヒットで日本のロックシーンを牽引し、NHKホールや日本武道館での大型コンサートを成功させた。独自の演出やスタジアム・野外公演にも挑戦し、圧倒的なライブ動員力を誇った。’86年に解散するまでに12年間活動し、解散後も再結成やプレミアム・ライブが行われ、甲斐よしひろはソロとしても活動を続けている。

1975年にかぐや姫の伊勢正三と猫の大久保一久によって結成されたフォークデュオ。デビュー曲「22才の別れ」がいきなり大ヒットし、女性ファンを中心に高い人気を獲得した。以後「海岸通」「あいつ」「北国列車」などヒット曲を多数生んだ。フォークの持ち味を重視し、テレビ歌番組への出演は最小限に抑えたことも特徴。’79年に活動を休止したが、その後もソロコンサートや特別ライブで断続的に共演し、フォークデュオとしての存在感を長く保った。

ハイ・ファイ・セット

1974年結成の日本のコーラスグループで、’75年に荒井由実作詞・作曲の「卒業写真」でレコードデビュー。山本潤子(ソプラノ)、山本俊彦(テナー)、大川茂(バス)の3人による美しいハーモニーと洗練されたアレンジでニューミュージック全盛期に人気を博した。’77年には「フィーリング」がヒットし紅白歌合戦にも出演。’80年に一時活動停止するも再開し、ジャズやCMソングなど新境地を開拓。’92年の活動休止を経て、’94年に解散した。

 河島英五とホモ・サピエンス

1975年にメジャーデビューしたグループで、河島英五がリーダーを務めた。’76年の「酒と泪と男と女」が全国的ヒットとなり、河島の名を広く知らしめた。フォーク調の哀愁ある楽曲を得意とし、「時代おくれ」など親父世代に愛される曲も多数。海外のフォルクローレ曲を日本語にアレンジするなど、独自の音楽性も持っていた。グループ活動後も河島はソロやテレビ出演、チャリティコンサートなど幅広く活躍し、日本のフォーク・ニューミュージック界において影響力を持った。

シュガー・ベイブ

1973年に結成され、’76年まで活動した日本のポップスバンド。自主制作盤「ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY」のメンバーを中心に結成され、分数和音やフラット5th、シャープ9thなど複雑なコード進行を駆使し、コーラスを重視した音作りで一部ファンから支持を得た。’70年代初頭の日本のロック・サブカルチャーでは独自のスタイルであったが、当時は評価や商業的成功に恵まれず、構造的宿命もあって’76年に解散した。

ザ・リリーズ

双子の姉妹、燕奈緒美と燕真由美による女性アイドルデュオ。北海道夕張市出身で1975年、東芝EMIから「水色のときめき」でデビュー。2ndシングル「好きよキャプテン」が大ヒットした。デビュー当初はフォーク調バラードが中心で、歌手活動と並行しテレビ番組や時代劇への出演などタレントとしても活躍した。結婚・出産により’86年に活動休止したが、2005年の再結成以降は東京を拠点にライブや歌番組に出演している。

ゴダイゴ

1976年にデビューしたプログレッシブ・ロックバンドで、’70年代後半から’80年代前半にかけて「ガンダーラ」「モンキー・マジック」「銀河鉄道999」などヒットを連発し、日本の音楽界に大きな影響を与えた。ミッキー吉野、タケカワユキヒデらを中心に活動し、コーラスや演奏に高度な技術を駆使。テレビドラマや映画主題歌にも多数参加した。’85年に一度解散するが、’99年以降断続的に再結成、2006年に恒久的再始動。多国籍メンバーによる革新的なサウンドと映像との連動で、国内外にファンを持つロックバンドとして知られる。

ピンク・レディー

根本美鶴代(ミー)と増田啓子(ケイ)による女性デュオで1970年代後半に活動。’76年『スター誕生!』出演後、同年「ペッパー警部」でデビューした。以降「S・O・S」「カルメン’77」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド」「UFO」「サウスポー」など多数のヒットを連発し、連続ミリオンセラーを記録。子供から大人まで幅広い支持を集め、テレビ出演や商品化も盛んに行われた。オリコン連続1位・ミリオンセラー記録は当時の新記録で、ディスコ・ポップス系アイドルの先駆けとして音楽史に残る存在となった。

クリスタルキング

1971年に九州で結成されたロックバンドで、低音ボーカルのムッシュ吉﨑とハイトーンボーカルの田中昌之によるツインボーカルが特徴。’76年にデビューし、’79年に世界歌謡祭グランプリを契機に再デビュー。代表曲「大都会」は累計150万枚を売り上げるミリオンヒットとなり、「蜃気楼」「セシル」などもヒット。NHK紅白歌合戦出場やアニメ主題歌担当などで広く知られ、特に「大都会」と「愛をとりもどせ!!」は今も人気が高い。’80年代以降メンバー変動があり、現在はムッシュ吉﨑によるソロプロジェクトとして活動している。

サーカス

1978年デビューの男女2名ずつによる4人組コーラスグループで、ハートウォームなコーラスワークと個々の高い歌唱力が特徴。アカペラも得意とし、コーラスグループの先駆者として評価された。デビュー曲「Mr.サマータイム」は発売同年に100万枚を突破する大ヒットとなり、その他「アメリカン・フィーリング」「Woman in Love」などのヒット曲がある。コンサートやCD制作、TV・ラジオ出演のほか、コーラスワークショップやソロ活動、夫婦ユニット「J&O」なども展開。現在も国内外で活動を継続している。

狩人

兄・加藤久仁彦と弟・加藤高道によるフォークデュオで、1977年に「あずさ2号」でデビュー。同曲は累計80万枚を売り上げ『第10回新宿音楽祭』金賞や『第19回日本レコード大賞』新人賞を受賞した。デビュー当初からハーモニーと歌唱力が高く評価され、「コスモス街道」「若き旅人」「アメリカ橋」などのヒット曲を持つ。テレビ出演やラジオ活動、コンサートで人気を獲得。’90年代に一度解散するも、東日本大震災を契機に2012年に再結成され、地元福島や全国で活動を続けている。

レイジー

1973年結成のロックバンドで、影山ヒロノブを中心に高崎晃、井上俊次、田中宏幸、樋口宗孝らが在籍。’77年にデビューし、当初はアイドル路線のポップスを強いられたが、ステージではハードロックを演奏し独自性を追求した。メンバーのツインボーカルや高崎のギタープレイが注目され、アルバム『Rock Diamond』や『宇宙船地球号』ではハードロック色を前面に押し出した。’80年以降、ヘヴィメタル宣言で原点回帰を図ったが、音楽性の違いや事務所との確執により1981年5月に解散した。

柳ジョージ&レイニーウッド

1975年に柳ジョージを中心に結成されたロック・R&Bバンドで、’81年に解散。ブルースロックを基盤としたR&B色の強い楽曲と柳の個性的なボーカル、上綱克彦や石井清登らの高いソングライティング力で人気を獲得した。’78年の「雨に泣いてる…」でブレイクし、’79年のアルバム『RAINY WOOD AVENUE』ではオリコン1位を記録。玄人受けする大人のロックバンドとして支持され、日本武道館公演で解散後も柳ジョージはソロ活動を展開した。

世良公則&ツイスト

1977年に世良公則を中心に結成。’78年のデビュー曲「あんたのバラード」で注目を集め、独特なワイルドなボーカルとパフォーマンスで若者を熱狂させた。オリコンチャートで複数のヒットを記録し、デビューアルバムも1位を獲得。女性ファンを中心に支持を広げ、ロックの大衆化に貢献。「ロック御三家」の一角として歌謡曲全盛期にロックをメジャー化し、テレビ出演やアイドル誌登場で新たな潮流を作った。代表曲に「あんたのバラード」「銃爪」「宿無し」「燃えろいい女」などがある。

平尾昌晃・畑中葉子

1978年に発売されたデュエット曲「カナダからの手紙」が大ヒット。畑中葉子は平尾の音楽スクール生の中から選ばれ、本曲でデビューした。同曲の影響で日本人観光客のカナダ訪問者が3割増加する現象も生まれた。同年の第29回NHK紅白歌合戦に白組として出演し、男女デュエットの白組歌唱という異例の形で話題となった。以降もデュエット曲をリリースしたが、ランキング入りは本曲のみ。日清食品CMの替え歌にも採用されるなど、’70年代後半の音楽界で話題を呼んだペアだった。

シーナ&ザ・ロケッツ

1978年に鮎川誠と妻シーナを中心に結成されたロックンロール・バンド。福岡でバンド活動していた鮎川の経験を背景に、上京後、同年10月に『涙のハイウェイ』でメジャーデビュー。’79年にYMOメンバーの協力でアルバム『真空パック』を発表、シングル「ユー・メイ・ドリーム」がCMに起用されブレイク。以降もYMOとの共演や国内ツアー参加を重ね、’81年には米国でもアルバムをリリース。’70年代末の日本ロックシーンにおける重要バンドであった。

イエロー・マジック・オーケストラ

1978年に細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一の3人で結成。シンセサイザーとコンピュータを駆使した電子音楽を基盤に、東洋趣味を取り入れた「ライディーン」などの独自のサウンドで、’70年代末から’80年代初頭のテクノ・ニュー・ウェイヴムーブメントの中心となった。国内外で高い注目を集め、レコードリリースや海外ツアーも展開。ビジュアル面でも「赤い人民服」や「テクノカット」で特徴的なイメージを確立し、黄色人種ならではの音楽コンセプト「イエローマジック」を提唱、世界的にも注目される存在となった。

サザンオールスターズ

1974年に青山学院大学で結成され、’78年に「勝手にシンドバッド」でメジャーデビュー。桑田佳祐を中心に幅広いテーマの楽曲を制作し、ラブソングやバラードから風刺・反戦・郷土愛まで表現。独自の「巻き舌唱法」と日本語の美を活かした歌詞表現を使い分ける。長年にわたり数多くのヒット曲を生み出し、社会貢献や被災地支援にも取り組む。メンバー間の緊密な信頼関係と演奏技術の高さで「国民的ロックバンド」と称され、バンドだけでなくスタッフも含めた大所帯の音楽集団として活動を続けている。

SHŌGUN

1978年に芳野藤丸を中心とした腕利きスタジオ・ミュージシャンで結成され、当初はOne Line Band名義で活動。’79年、ケーシー・ランキン加入後、テレビドラマ『俺たちは天使だ!』の音楽担当として抜擢され、バンド名をSHŌGUNに変更。「男達のメロディー」が50万枚超のヒットを記録し、『探偵物語』やテレビアニメ映画『大恐竜時代』などの音楽も手がけた。メンバー全員がデビュー時点で10年以上の経験を持つ実力派で、短期間で国内外に存在感を示した。

俳優・女優 > 1950年代

─ 主な俳優・女優 (順不同) ─

1950

左卜全

小さな劇団での活動を経て、松竹に老け役の喜劇役者としてスカウトされたことをきっかけにテレビや黒澤映画などで活躍。独特のとぼけた芸風の老人役で笠智衆とともにお茶の間にも広く知られる存在となった。俳優のほか1970年、76歳の時に劇団ひまわりの子役とともに歌った「老人と子供のポルカ」は約24万枚のヒットとなった。

1925年に松竹蒲田撮影所の俳優研究生となり、当初は通行人などの端役を重ねた。’42年に小津安二郎監督『父ありき』で初主演を果たす。以後『晩春』『東京物語』『秋刀魚の味』など小津作品の常連となり「日本の父親像」を象徴する俳優として知られるようになった。生涯で約90本のドラマにも出演した。

1927年に日活大将軍撮影所へ入り、喜劇俳優として頭角を現す。戦前は新興キネマで忍術映画などに出演し、終戦時は軽演劇の座長として活動した。戦後は浅草で清川虹子、笠置シヅ子らと共演し、’51年に斎藤寅次郎監督の作品で「アジャパー」が流行語となる。以後「バンジュン」の愛称で人気を博し、国民的喜劇俳優として知られた。

山村聰

東京帝国大学文学部を卒業後、劇団活動を経て1946年に映画『命ある限り』でデビュー。小津安二郎作品をはじめ多数の名作に出演し、日本映画を代表する名優として知られる。英語力を生かし『黒船』『トラ・トラ・トラ!』など海外作品にも出演した。晩年は『必殺仕掛人』の音羽屋半右衛門役などで重厚な存在感を放った。

早稲田大学商学部を中退後、NHKアナウンサーとして満洲に赴任。帰国後に俳優へ転じ、舞台やラジオで注目を集めた。映画では『三等重役』『社長シリーズ』『駅前シリーズ』などで国民的スターとなる。巧みな語りは「森繁節」と呼ばれラジオでも親しまれた。歌手としても『知床旅情』が大ヒット。文化勲章や国民栄誉賞を受けた日本喜劇界の大黒柱であった。

本名は寺尾信夫。戦前から戦後にかけて日本の演劇界を牽引し、滝沢修らとともに劇団民藝を創設した。飄々とした風貌と軽妙な演技を特色とし、『ゴドーを待ちながら』『夕鶴』などで高く評価された。演出家としてもリアリズムに基づく近代的な演技を追求し、多くの舞台を手がけた。芸名は中野重治と鈴木三重吉に由来する。長男は俳優の寺尾聰。

千秋実

妻の女優・佐々木踏絵と結成した薔薇座で舞台活動を行ったのち映画俳優に転向し、黒澤明監督作品の常連として活躍した。『七人の侍』『隠し砦の三悪人』などで印象的な脇役を務め、藤原釜足と演じた農民コンビは『スター・ウォーズ』のR2-D2とC-3POのモデルとされる。多くの映画に出演し、1960年代以降は『肝っ玉かあさん』などのホームドラマでも人気を博した。

多々良純

1947年に宇野重吉や滝沢修らと民衆芸術劇場に参加、のちに劇団民藝に加わる。『かもめ』『炎の人』などに出演後、’52年に退団して映画俳優として本格的に活動を開始。黒澤明監督『七人の侍』、久松静児監督『警察日記』などの名作に出演し、’60年代以降はテレビでも活躍。善悪問わぬ多彩な役柄で名バイプレイヤーとして評価を確立した。

トニー谷

「さいざんす」「家庭の事情」「おこんばんは」などの独特な言葉遣いと軽妙な話術で人気を博し「ざんす調」ブームを巻き起こす。ジャズブーム期に司会者として引っぱりだこになり、東宝専属として舞台・映画にも多数出演。1953年には20本の映画に登場した。森繁久彌と並ぶ“アプレ芸人”として時代を象徴し、E・H・エリックと岡田眞澄兄弟を発掘した。

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笠智衆

(C)Screenshot of the movie

伴淳三郎

(C)『サン写真新聞(1953年4月6日号)』毎日新聞社

森繁久彌

(C)映画世界社 - 『映画ファン』1954年11月号、映画世界社

宇野重吉

(C)Directed by en:Kaneto Shindo, produced by en:Daiei Film - Screenshot of the movie

1941年に東宝入社。当初は助監督志望だったが脇役出演で注目を集め、’49年『青い山脈』で旧制高校生役を好演し人気を確立。’50~60年代は『現代人』『坊っちゃん』『雪国』などで二枚目スターとして活躍。その後『昭和残侠伝』シリーズなどで高倉健を支える存在に。’65年に日本映画俳優協会会長、’83年から2009年まで同協会の初代理事長を務め晩年は文筆活動に専念した。

1947年『銀嶺の果て』で主演級デビュー。’48年、黒澤明監督『酔いどれ天使』でヤクザ役を演じ一躍スターとなる。その後、黒澤作品15本に主演し、『羅生門』でヴェネチア金獅子賞、『七人の侍』で英国アカデミー賞主演男優賞ノミネート、『用心棒』『赤ひげ』でヴェネチア男優賞を受賞するなど国際的評価を得た。黒澤監督との共同作業で自由な演技を行い、世界的名優として知られる。

由利徹

1943年に陸軍へ応召し中国へ赴任、’45年帰国後ムーランルージュに復帰。森繁久彌と共に喜劇役者として活動を始める。ムーランルージュ解散後は帝劇『マダム貞奴』に出演し、その後ストリップ劇場のコントで人気を得る。芸名を「南啓二」「宇留木三平」など経て「由利徹」と改めた。’56年に南利明・八波むと志と「脱線トリオ」を結成し人気を博す。解散後も映画・テレビに多数出演し、’70年代には『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』などで存在感を示した。

船越英二

1947年、大映第2期ニューフェイスに合格し『第二の抱擁』でデビュー。初期は真面目な青年役が多かったが、’52年の『安宅家の人々』『秘密』で演技が注目される。’56年『日本橋』『四十八歳の抵抗』などで性格俳優として評価を高め、’59年『野火』で極限状況の敗残兵を熱演し高い評価を得た。その後も大映を代表する実力派俳優として多くの作品に出演し、長く第一線で活躍した。『時間ですよ』の銭湯の主人役などテレビドラマでも活躍した。

金子信雄

若い頃から人間臭い悪役として知られ、’50年代は軽薄な恋敵役で注目される。’60年代には日活や東映のアクション、任侠映画で活躍し、特に『仁義なき戦い』シリーズでは小心でずる賢い組長を好演、「陰の主役」と評された。’66年には妻・丹阿彌谷津子と劇団マールイを結成し、松田優作や柄本明らを育てた。晩年は料理研究家としても人気を博し、『金子信雄の楽しい夕食』で親しまれたほか、著書やCM、レストラン経営など幅広く活動した。

1942年に日活から『微笑の国』でデビュー。戦地から復員後、二枚目俳優として活動を再開し、’51年『その人の名は言えない』で独自の演技が評価される。’52年に東宝入りし、『三等重役』などで庶民派俳優として人気を確立。’73年『日本沈没』の田所博士役で再び注目を集め、その後は『江戸の旋風』や『牟田刑事官事件ファイル』などテレビでも活躍した。

1948年に松竹入りし、高田浩吉にちなんで芸名を名乗る。大部屋俳優から頭角を現し、『遊侠の群れ』で注目され、’49年『フランチェスカの鐘』で初主演。佐田啓二、高橋貞二と並び「松竹青春三羽烏」と称された。’50年代には端正な容姿と翳りある魅力で人気俳優の頂点に立つ。’52年に独立プロ「新生プロ」を設立し、岸惠子との共演作『ハワイの夜』が大ヒット。同年「男の夜曲」で歌手デビューし、俳優・歌手双方で戦後を代表するスターとなった。

1950年に清水金一の推薦で映画『無敵競輪王』に出演しデビュー。’54年に森繁久彌らと虻鉢座を結成、東宝専属後は『のり平の三等亭主』で初主演し『社長シリーズ』『駅前シリーズ』で人気を確立した。「パァーッといきましょう」の台詞で親しまれ、庶民的なサラリーマン像を巧みに演じた。『夢であいましょう』などテレビでも活躍し、森光子主演『放浪記』などで演出家としても高い評価を受けた。紫綬褒章、勲四等旭日小綬章を受章し、昭和喜劇界を代表する存在となった。

南利明

榎本健一に師事し、1956年に由利徹・八波むと志とともに脱線トリオを結成。リーダー格として浅草で女形を演じ人気を博す。トリオ解散後は単独で活動し『てなもんや三度笠』で名古屋弁の鼠小僧役を演じて全国的に知られる存在となった。’69年のオリエンタル「スナックカレー」のCMでの名台詞「ハヤシもあるでョ〜」は流行語となり、以後の代名詞となる。俳優としても鈴木則文監督作品などに多数出演し、喜劇から時代劇まで幅広く活躍した。

大泉滉

アナキスト作家・大泉黒石の息子として東京に生まれる。子役として劇団東童に入り、’40年『風の又三郎』で映画デビュー。戦後、文学座に入団し二枚目俳優として活動したが、『自由学校』出演を機にコメディアンへ転身。テレビドラマ『ボクのしあわせ』で人気を得、「トンデモハップン」の流行語を生んだ。『赤影』やウルトラシリーズにも出演し、晩年は大林宣彦作品『麗猫伝説』で重厚な演技を見せた。

佐田啓二

1947年、木下恵介監督の『不死鳥』で田中絹代の相手役に抜擢されデビューし、端正な顔立ちで注目を集める。続く『鐘の鳴る丘』でさらに人気を高め、戦後の松竹を支える看板俳優に成長。高橋貞二、鶴田浩二と並び「松竹戦後の三羽烏」と称された。’53年、岸惠子と共演した映画『君の名は』が大ヒットし、国民的スターの地位を確立した。女優の中井貴惠、俳優の中井貴一の父。

慶應大学卒業後、進駐軍キャンプでジャズ・ドラマーとして活動を始め、1954年に「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」を結成。ユーモア音楽で人気を得る。伴淳三郎の勧めで俳優に転じ、『幕末太陽傳』でブルーリボン賞主演男優賞を受賞し、喜劇から人情劇まで幅広く活躍。『私は貝になりたい』『モスラ』など代表作多数。大阪芸術大学教授も務め、’94年に紫綬褒章を受章した。

小沢昭一

1954年に映画デビュー。’60年代以降は劇団俳優小劇場や新劇寄席『とら』で活躍し、ラジオ・テレビにも出演。’69年からは日本の伝統芸能・放浪芸の研究と収集に力を注ぎ、LP『日本の放浪芸』や劇団「芸能座」を通じて実践・発表。1’73年よりラジオ『小沢昭一的こころ』で約39年間親しまれ、’82年には一人芝居の劇団「しゃぼん玉座」を創設。演劇・放送・芸能史研究の三面で活躍し、伝統芸能の保存と普及に生涯を捧げた。

三船敏郎

(C)映画世界社 -『映画ファン』1954年11月号、映画世界社、1954年

小林桂樹

(C)映画評論社 - 『映画評論』1964年3月号。発行所:映画評論社

鶴田浩二

(C)『映画情報』1959年1月号。発行所:国際情報社

三木のり平

(C)『タレント名鑑 第1』芸能春秋社、1962年

1951年、新東宝のニューフェイス「新東宝スターレット」として芸能界入り。’52年に映画『恋の応援団長』でデビュー。’50~60年代にかけて主演級の歌うスターとして活躍、『坊ちゃんシリーズ』などが当たり役となった。ミュージカルや『キングコング対ゴジラ』『君も出世ができる』など映画出演も多い。’63年に寿美花代と結婚し、夫婦共演も経験。長男殺害事件を経て二男政宏・三男政伸をもうけ、俳優・歌手として幅広く活躍した。

1954年に新東宝に入社、若手スターとして『鋼鉄の巨人(スーパージャイアンツ)シリーズ』で主演。’61年に大映へ移り、映画では脇役を中心に活躍。隊長役を務めた’65年放送開始の『ザ・ガードマン』は高視聴率を記録し、大映テレビの看板俳優となる。山口百恵との「赤いシリーズ」で父親役を務め人気を博し、橋田壽賀子作品でもたびたび起用された。晩年は『渡る世間は鬼ばかり』や『ごくせん』で祖父役を演じ、温厚で気の優しい父親・祖父役が当たり役となった。

大村崑

1957年、大阪北野劇場専属コメディアンとして舞台デビュー。テレビ黎明期の『やりくりアパート』『番頭はんと丁稚どん』で知名度を上げる。’59年、劇団・笑いの王国結成に参加し『頓馬天狗』で片手抜刀のトリッキーな殺陣を披露、子どもを中心に絶大な人気を獲得。以後、俳優としてコミカルから渋い演技まで幅広く活躍し、大塚製薬「オロナミンC」の顔としても定着した。その後も2時間ドラマ『赤い霊柩車シリーズ』などで活躍を続けた。

1954年、日活ニューフェイス第1期生として入社し、翌年『警察日記』で映画デビュー。当初は端正な美青年だったが’56年に豊頬手術を受け、精悍な顔立ちへと変貌し、悪役やアクション俳優として人気を確立した。「エースのジョー」と呼ばれ、日活アクション黄金期を小林旭らとともに支えた。独自に考案した「チッチッチッ」のジェスチャーも流行。’71年に日活を離れフリーとなり、テレビドラマやバラエティでも活躍した。

大学在学中から俳優を志し、1956年に兄・慎太郎原作の映画『太陽の季節』でデビュー。同年『狂った果実』で主演し、日活の看板スターとなる。『嵐を呼ぶ男』などのヒットで若者のカリスマ的存在となり、ブルーリボン賞新人賞を受賞。’60年に北原三枝と結婚。’63年に石原プロモーションを設立し、『黒部の太陽』など大作を製作。’72年にはテレビ『太陽にほえろ!』に出演し、「ボス」役で新たな人気を得、映画・テレビ両面で戦後日本を代表するスターとなった。

長門裕之

父は沢村国太郎、母はマキノ智子、弟は津川雅彦という芸能一家に育つ。6歳で『続清水港』(1940年)に子役として出演し、戦前から名子役として知られた。立命館大学中退後、日活に入社。『太陽の季節』(’56年)で主演し、太陽族映画を代表する存在となる。’61年に南田洋子と結婚し、理想のカップルとして人気を博す。’64年に妻と「人間プロダクション」を設立し、映画・テレビで幅広く活動。晩年は慈善活動にも力を注いだ。

宝田明

1953年に東宝ニューフェイス第6期生としてデビュー。『かくて自由の鐘は鳴る』で映画初出演し、翌年『ゴジラ』で初主演。長身の美男子として東宝の看板スターとなり、『モスラ対ゴジラ』『小早川家の秋』などに出演。’60年代には香港女優ユーミンとの共演でアジアでも人気を得た。ミュージカルにも進出し『マイ・フェア・レディ』で成功、日本のミュージカル俳優の草分けとなる。’90年代に伊丹十三作品で再評価され、晩年まで洒脱な二枚目俳優として活躍した。

デンマーク人の父を持ち、1952年に日劇ミュージックホールで初舞台。’53年に第6期東宝ニューフェイスに合格し、日活で映画『初恋カナリア娘』でデビュー。端正な顔立ちと国際的な雰囲気で注目され、外国人役も多く演じた。退社後は舞台や司会業に活躍の場を広げ、『仮面ノリダー』のファンファン大佐役で再ブレイク。語学堪能でミス・インターナショナル司会も長年務め、ダンディーな紳士として親しまれた。萩本欽一とも親交が深く、多才な芸能人として長く愛された。

慶應義塾高等学校を中退後、俳優座演劇研究所に入り、1956年に映画『裁かれる十代』でデビュー。同年の主演作『処刑の部屋』で注目され、大映の二枚目スターとして『巨人と玩具』『妻は告白する』『おとうと』などに出演した。’60年に野添ひとみと結婚。’62年に大映を退社し実業家に転身。’67年に芸能界復帰後はテレビで活躍し、『キイハンター』や『川口浩探検隊』で人気を博す。俳優と冒険家の二面性で昭和を代表するスターとなった。

高校在学中に日活関係者に見出され、1956年『飢える魂』でデビュー。翌年『青春の冒険』で初主演し、『錆びたナイフ』『南国土佐を後にして』で人気を確立。石原裕次郎と並ぶ日活の二枚目スターとして『渡り鳥』『旋風児』シリーズなどで活躍した。歌手としても「女を忘れろ」「ダイナマイトが百五十屯」などがヒットし、“マイトガイ”と呼ばれた。’62年、美空ひばりと婚約・事実婚に至るも’64年に解消。俳優・歌手双方で昭和を代表する存在となった。

1950

沢村貞子

1934年、兄・沢村國太郎の勧めで日活太秦撮影所に入り、『野の光』でデビュー。性格俳優として注目され、戦後は『それでも私は行く』で映画界に復帰。’50年代には母親や妻などの中年女性役を幅広く演じ、『赤線地帯』などで高く評価された。『警察日記』などの名作に出演する一方、『駅前シリーズ』などの喜劇でも存在感を発揮した。’69年からはエッセイストとしても活躍し、『貝のうた』『私の浅草』で文筆家としての地位を確立した。

田中絹代

戦前・戦後も松竹の看板女優として活躍。『夜の女たち』などで毎日映画コンクール女優演技賞を連続受賞。ヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞した。以後『雨月物語』『山椒大夫』などで名演を重ねる。1953年『恋文』で監督デビューし、女性監督の先駆けとして高く評価された。晩年は『楢山節考』でキネマ旬報賞を受賞、『サンダカン八番娼館 望郷』でベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞し、国際的評価を確立した。

北林谷栄

築地座の舞台に魅せられ1931年に創作座へ入り。翌年新協劇団に参加し『どん底』で注目される。戦中は瑞穂劇団を結成し老女役を演じ始める。戦後、劇団民藝の創設に参加。映画『ビルマの竪琴』『キクとイサム』などで高く評価され、ブルーリボン賞を受賞。悪役の吹き替えや『となりのトトロ』の声優でも知られる。『大誘拐 RAINBOW KIDS』で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞受賞したほか、晩年まで第一線で活躍した。

丹下キヨ子

日劇ダンシングチーム出身。三木鶏郎グループに参加し「僕は特急の機関士で」「ブギウギ列車」などのヒットを放つ。1952年に第2回NHK紅白歌合戦で紅組司会を務めた。’50~’70年代にかけて東宝・新東宝・日活・東映の映画に多数出演し、テレビでもバラエティやドラマで活躍。毒舌キャラで人気を博し、清川虹子や水の江瀧子と並ぶ存在となった。ブラジルで実業家としても活動したが、’83年に『独占!女の60分』を降板して芸能界を退いた。

原節子

1935年に日活へ入社し映画デビュー。翌年『新しき土』のヒロインに抜擢され国際的に注目を浴びる。戦中は『ハワイ・マレー沖海戦』などの戦意高揚映画に出演。戦後は黒澤明監督『わが青春に悔なし』で復帰し、松竹の『安城家の舞踏会』の成功でトップ女優となる。『青い山脈』や小津安二郎監督の『晩春』『東京物語』などで清楚な日本女性像を確立。’62年『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』を最後に突如引退し、「永遠の処女」と称された。

音羽信子

1937年に宝塚音楽歌劇学校に入学し、’39年『宝塚花物語』で初舞台を踏む。戦後は雪組のトップ娘役として淡島千景と人気を二分し宝塚の黄金期を支えた。’50年に退団し大映入り。『愛妻物語』で注目される。’52年大映を退社し近代映画協会に参加。清純派から脱し、’60年『裸の島』で世界的評価を得る。以後テレビにも活躍の場を広げ『肝っ玉かあさん』などで親しまれた。’83年『おしん』では老年期のおしんを演じ、国民的女優として地位を確立した。

ミヤコ蝶々

1952年、秋田實主宰の「宝塚新芸座」に参加し活動。『漫才学校』『夫婦善哉』などのラジオ司会で人気を得る。特に『夫婦善哉』はラジオからテレビへと続く長寿番組となり「おしどり夫婦」として親しまれたが、’58年に雄二と離婚。以後も公私で関係を続け、雄二の晩年を支えた。’74年から中座での定期公演を始め、脚本・主演・演出を担い高く評価された。放送批評家賞、紫綬褒章、勲四等宝冠章を受章。晩年まで舞台への情熱を失わなかった。

京マチ子

1936年に大阪松竹少女歌劇団に入団し、娘役スターとして活躍。’49年に大映入りし、以後『羅生門』『雨月物語』『地獄門』などで国内外に名を知られる。「グランプリ女優」と称され、若尾文子、山本富士子と並ぶ大映の看板女優となった。妖艶な美貌と存在感で戦後映画界を代表する女優の一人となり、大映倒産後はテレビや舞台でも活躍。生涯独身を貫き、80歳を過ぎても舞台に立った。

高峰秀子

1929年に松竹蒲田撮影所で映画『母』の子役としてデビューし、天才子役として人気を博す。戦後は東宝・新東宝を経てフリーとなり、木下惠介、成瀬巳喜男の両監督作品を中心に活躍。『二十四の瞳』『浮雲』『カルメン故郷に帰る』などで日本映画史に残る名演を残した。清楚で知的な存在感と確かな演技力で戦前・戦後を通じて第一線に立ち続けた。’79年に引退後は文筆活動に専念し、自伝『わたしの渡世日記』などを著す。夫は映画監督の松山善三。

淡島千景

1941年から’50年まで宝塚歌劇団に所属。美貌と演技力で「東京の三羽烏」と称され、戦時・戦後の宝塚を支えた。退団後、松竹入りし『てんやわんや』で映画デビュー。『麦秋』『君の名は』などで人気を得て、「アプレガール」の象徴的存在となる。東宝移籍後は『夫婦善哉』で森繁久彌と名コンビを組み、コメディエンヌとしても開花。戦後映画の黄金期を代表する女優となった。後年は文化活動にも携わり、紫綬褒章など多くの栄誉を受けた。

原節子

(C)東寶發行所 - 『エスエス』1939年10月号。発行所:東寶發行所

山本富士子

(C)国際情報社 - 『映画情報』1956年6月号。発行所:国際情報社

八千草薫

(C)国際情報社 - 『映画情報』1956年6月号。発行所:国際情報社

岸惠子

(C)国際情報社 - 『映画情報』1956年11月号、国際情報社

越路吹雪

宝塚歌劇団27期生として入団し、戦中から戦後にかけて男役スターとして活躍。「不良少女」と呼ばれる破天荒な性格ながら独自の色気と存在感で人気を博した。戦後の代表作「ミモザの花」でトップスターとなり、「ブギウギ巴里」でレコードデビュー。1951年に退団後は東宝専属として日本初のミュージカル女優となり、のちに歌手としてシャンソンを日本に広め「シャンソンの女王」と称された。

浅香光代

10歳で舞台に立ち、戦後に自らの一座を結成して女剣劇を復活させ、浅香光代一座を浅草・新宿で人気劇団に育てた。昭和30年代の女剣劇ブームを牽引し、「女剣劇の女王」と称された。1970年に一座を解散後は、舞台やテレビで幅広く活躍し、リポーターとしても親しまれた。’79年に「演劇舞踊浅香流」を創始し、晩年まで舞台に立ち続け、文化庁長官賞、旭日双光章を受章。波乱の私生活でも注目を集め、“勝気で豪快な女傑”として生涯を貫いた。

新珠三千代

13歳で宝塚音楽学校に入学し、戦後の1946年に宝塚歌劇団へ入団。可憐な美貌と確かな歌唱力でトップ娘役として人気を博し『ハムレット』『ひめゆりの塔』などに出演した。’55年に退団後、日活を経て東宝に所属。『洲崎パラダイス赤信号』『人間の條件』『社長シリーズ』などで映画女優として活躍した。テレビでは『氷点』『細うで繁盛記』などで清楚で芯の強い女性像を演じ、広く親しまれ、晩年まで品格ある日本女性の象徴として愛された。

山本富士子

1950年に初代ミス日本に選ばれ、翌年に訪米してモンローやディマジオと会見した。映画界からの誘いを受け’53年に大映へ入社し『花の講道館』でデビュー。『金色夜叉』『夜の河』などの主演で人気を確立し、大映の看板女優となる。’63年、自由契約を求めて大映を退社するが、五社協定により映画界から締め出される。それでも信念を貫いてテレビ・舞台で活躍を続け、凛とした美貌と独立心で戦後の女性像を象徴する存在となった。

香川京子

東京新聞主催の「ニューフェイス・ノミネーション」で約6000人の中から選ばれ新東宝に入社し、『帰国』でデビューした。1953年にフリーとなり、各社の巨匠監督の作品に出演。『ひめゆりの塔』を機に女優としての使命を意識し、成瀬巳喜男、溝口健二、黒澤明らの監督作で清楚で知的な魅力を発揮した。特に黒澤作品では三船敏郎と9度共演している。渡米後もテレビや舞台で活躍。後年、紫綬褒章と旭日小綬章を受章した。

久我美子

侯爵・久我通顕の長女として東京に生まれる。村上源氏の流れを汲む華族の家柄で、女子学習院在学中の1946年に東宝ニューフェイス第1期に合格し、翌年『四つの恋の物語』でデビュー。’50年『また逢う日まで』で日本映画初の接吻シーンを演じ注目を集めた。’54年には岸惠子・有馬稲子と共に「にんじんくらぶ」を設立。’57年『挽歌』で大ヒットを記録し、清楚で上品な魅力で人気女優となる。以後もテレビや舞台でも幅広く活動した。

八千草薫

1947年に宝塚歌劇団へ入団し、初期は『分福茶釜』の狸などコミカルな役を演じた。’52年『源氏物語』の若紫役で可憐な演技が評価され、清純派の娘役として人気を確立。宝塚在団中から映画にも出演し「お嫁さんにしたい女優」として高い人気を得た。’57年に退団後、東宝専属を経てフリーとなり、テレビでは上品で温かみのある良妻賢母役で親しまれた。後年、『岸辺のアルバム』で不倫する主婦を演じ、清純派の殻を破り高い評価を受けた。

岸惠子

小説家志望の少女だったが、吉村公三郎にスカウトされ1951年『我が家は楽し』で映画デビュー。『君の名は』の大ヒットで一世を風靡し、「真知子巻き」ブームを起こした。’55年『亡命記』で東南アジア映画祭最優秀女優賞を受賞し、翌年日仏合作映画『忘れえぬ慕情』に主演。’57年に仏監督イヴ・シャンピと結婚し、以後フランスと日本を往復して活動した。『約束』『スパイ・ゾルゲ』などに出演し、国際派女優として独自の地位を築いた。

有馬稲子

1949年に宝塚歌劇団へ入団し、娘役として活躍。’51年に東宝映画『宝塚夫人』でデビューし、’53年に東宝専属女優となる。’54年には岸惠子・久我美子と共に「にんじんくらぶ」を設立し、芸能界に新風を吹き込んだ。’55年に松竹へ移籍し、『もず』事件など話題作にも出演。’61年に俳優・中村錦之助と結婚するが、豪華な結婚生活の裏で家事生活に疲弊し’65年に離婚。その後、劇団民藝で演技を磨き、舞台やテレビで息長く活躍した。

淡路恵子

女医を望む母に反して芸能の道を選び、松竹歌劇団(SKD)の音楽舞踊学校に入学。1949年、在学中に黒澤明監督の『野良犬』で映画デビュー。’50年に正式入団し、草笛光子らと「スリーパールズ」として人気を得た。’53年から松竹映画で活躍し『この世の花』シリーズが大ヒット。’57年、『太夫さんより・女体は哀しく』などでブルーリボン賞助演女優賞を受賞。以後『駅前シリーズ』『社長シリーズ』などで親しまれた。

草笛光子

SKDを経て’56年から東宝専属となり映画・舞台・テレビで幅広く活躍した。’58年には自身の冠番組『光子の窓』で人気を博し、明るく上品な司会ぶりでお茶の間の人気者となる。その後、東宝喜劇『社長シリーズ』などで多彩な役を演じ、市川崑監督の金田一耕助シリーズにも常連出演した。ミュージカル界でも芸術祭賞を三度受賞。紫綬褒章など受章多数。晩年も精力的に活動し、90代で初主演映画『九十歳。何がめでたい』に出演した。

南田洋子

1951年に大映第5期ニューフェイスとして入社し、翌年『美女と盗賊』で映画デビュー。’53年の『十代の性典』が大ヒットし、「性典スター」と呼ばれた。’55年に日活へ移籍、『太陽の季節』で長門裕之と共演して人気を確立。’61年に長門と結婚し、以後は夫婦で「人間プロダクション」を設立して後進の育成やテレビ制作にも携わった。NHK『紀ノ川』『虹』などで高い評価を受け、『ミュージックフェア』の司会など多方面で活躍した。

中村メイコ

2歳で『江戸っ子健ちゃん』に出演し映画デビュー。幼少期から天才子役として知られ、榎本健一や森繁久彌ら名優と共演した。ラジオ・テレビ黎明期から活躍し、日本の放送史に欠かせない存在となる。1955年に「田舎のバス」がヒットし、歌手としても人気を得た。’57年に作曲家・神津善行と結婚。紅白歌合戦で3年連続紅組司会を務め、『メイコのごめん遊ばせ』『お笑いオンステージ』などで親しまれた。俳優・司会・歌手として長年にわたり第一線で活躍した。

野添ひとみ

松竹歌劇団の難関試験を突破して松竹音楽舞踊学校に入学し、1952年『うず潮』で佐田啓二の相手役として映画デビューした。清楚で愛らしい容姿から松竹の若手スターとして注目を集めたが、’57年に恋人・川口浩の父である川口松太郎の勧めで大映に移籍。’60年に川口浩と結婚し二女をもうけたが、娘と夫を相次いで亡くす不運に見舞われた。晩年は自身も甲状腺がんを患い、’95年に58歳で死去した。

冨士眞奈美

1956年、NHKドラマ『この瞳』の主演でデビュー。翌年、NHK専属女優第1号となり、馬渕晴子・小林千登勢とともに「NHK三人娘」と呼ばれ人気を博した。俳優座養成所で演技を学び、以後テレビ・舞台で幅広く活躍。’70年『細うで繁盛記』での小姑役が当たり役となり、以降は個性派女優としての地位を確立した。結婚・出産後は文筆業にも進出し、俳人・作家としても活動。’80年代に復帰後は演技と知性を併せ持つ名脇役として親しまれる。

松島トモ子

1949年、4歳で映画『獅子の罠』に出演しデビュー。『鞍馬天狗』『丹下左膳』『サザエさん』などに子役として出演し、80本の映画で主演を務めた。歌手としても「村の駅長さん」でデビューし、多くの主題歌を担当。少女雑誌の表紙を長年飾るなど人気を博した。’86年にはケニアでライオンとヒョウに相次いで襲われるが奇跡的に生還し、「それでも動物が好き」と語った。波乱に満ちた人生で知られる。

鰐淵晴子

ヴァイオリニスト鰐淵賢舟とオーストリア貴族出身の母ベルタの間に生まれる。3歳からヴァイオリンを学び「天才少女」と称された。1952年『母子鶴』で映画初出演、’55年『ノンちゃん雲に乗る』で主演し「原節子の再来」と評された。語学力を生かし『銀嶺の王者』では外国人俳優と共演。松竹の看板女優として活躍後も映画・舞台に出演し、’95年に毎日映画コンクール女優助演賞を受賞した。

俳優・女優 > 1960年代

─ 主な俳優・女優 (順不同) ─

1960

殿山泰司

新築地劇団の研究生として俳優の道を歩み始め、1939年『空想部落』で映画デビュー。戦中は中国戦線に出征し、復員後に殿山泰司と改名して映画界に復帰した。新藤兼人、吉村公三郎らと「近代映画協会」を設立し、『裸の島』『人間』などで主演、毎日映画コンクール主演男優賞などを受賞。以後、黒澤明や大島渚ら多くの監督に重用され、約300本の作品に出演した。晩年は「三文役者」を自称し、毒舌とユーモアのエッセイストとしても人気を博した。

丹波哲郎

大学卒業後に公社勤務を経て俳優を志し、1951年に新東宝へ入社。’52年『殺人容疑者』で主演デビューを果たす。以後、陰のある二枚目として悪役や敵役を多く演じた。新東宝退社後は五社英雄と組み、『霧と影』『白昼の無頼漢』などで主演。『豚と軍艦』『暗殺』『三匹の侍』などで人気を確立し、『007は二度死ぬ』など海外作品にも出演した。TBS系『キイハンター』では主演として国民的スターとなり、俳優養成所「丹波道場」で後進を育成した。

三國連太郎

27歳のとき東銀座を歩いていた際に松竹の小出孝にスカウトされ、松竹大船撮影所に演技研究生として入所。1951年、木下惠介監督の『善魔』で岡田英次の代役として映画デビューを果たす。以後、『ビルマの竪琴』『飢餓海峡』『犬神家の一族』『マルサの女2』など、社会派から娯楽大作まで180本を超える作品に出演。徹底した役作りで知られ、日本映画界を代表する名優として強烈な個性と存在感を放った。息子は俳優の佐藤浩市。

西村晃

1946年に東京芸術劇場の第一期生となり、翌年退団して東京青年劇場を結成。’51年に『風雪二十年』で映画デビューし、以後、映画やテレビで活躍。日活では悪役や敵役を多く演じ、『赤い殺意』で演技が評価され数々の賞を受賞した。声優としても活動。’82年12月、『水戸黄門』で東野英治郎の後任として二代目水戸光圀役に就き、悪役経験を活かしたユーモアと上品な風格で「シティボーイ黄門」と呼ばれ、お茶の間で人気を博した。

渥美清

1946年に舞台で活動を始め、’51年には浅草のストリップ劇場でコメディアンとして活動。’56年、テレビドラマで初出演、’58年に映画デビュー。’62年『あいつばかりが何故もてる』で映画初主演を務め、’63年『拝啓天皇陛下様』で俳優としての名声を確立。’68年より松竹映画『男はつらいよ』シリーズで車寅次郎役を演じ、27年間で48作に出演し国民的人気を獲得。舞台・テレビ・映画でコメディを中心に活躍し、日本を代表する名優となった。

大川橋蔵(二代目)

柳橋の芸妓の子として生まれ、幼少期に歌舞伎役者・市川瀧之丞の養子となり舞踊を学ぶ。1935年に市川男女丸として初舞台を踏み、’44年に二代目大川橋蔵を襲名。歌舞伎では娘役として頭角を現す。その後八代目市川雷蔵の勧めで映画界入りを決意し、’55年『笛吹若武者』でデビュー。その後『旗本退屈男』などの東映時代劇で活躍し、市川雷蔵・中村錦之助らと共に昭和30年代の映画黄金期を支えるスターとなった。

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丹波哲郎

(C)凡出版『週刊平凡』1月3日号(1963)

渥美清

(C)『中日新聞』1967年11月27日付夕刊

高倉健

(C)国際情報社 国際情報社『映画情報』第31巻1月号(1966)

勝新太郎

(C)キネマ旬報社 - 『キネマ旬報』1964年2月決算特別号

若山富三郎

1949年に和歌山富十郎に弟子入りし、’55年『忍術児雷也』で映画デビュー。『人形佐七捕物帖』などの時代劇に主演。’68年以降『緋牡丹博徒』『極道シリーズ』『前科者』などで任侠路線にコミカル要素を加え人気を獲得。’70年代は『子連れ狼』で拝一刀役を演じ、凄みある殺陣で代表作となる。白塗り二枚目から悪役まで幅広くこなし、テレビ・映画・舞台で活躍、主演・助演多数、ブルーリボン賞や日本アカデミー賞主演男優賞を受賞するなど、晩年までスター人生を全うした。

渡辺文雄

1954年に東京大学経済学部を卒業後、電通に入社。翌年松竹に出向し、’56年小林正樹監督の『泉』で映画デビュー。その後電通を退社し松竹専属俳優となる。’61年に松竹を退社し大島渚作品の常連となる。’60年代後半から’70年代前半には東映ヤクザ映画で悪役を多数演じ、現代インテリヤクザ役が定番となる。さらにフジテレビ系『くいしん坊!万才』初代リポーターとしても活躍し、お茶の間でも広く知られた。

二谷英明

1956年に日活第3期ニューフェイスとして入社し『沖縄の民』で映画デビュー。’57年に主演デビューを飾り、「ダンプガイ」の愛称で石原裕次郎らとともに活躍し、次第に貫禄ある準主演者として日活映画に欠かせない存在となる。’77年から『特捜最前線』で神代警視正役として主演、日産セドリックの専属CMキャラクターも務めた。晩年はボランティア活動に取り組み、カンボジアで学校建設に尽力した。妻は女優の白川由美、娘はトライグループ社長で元女優の二谷友里恵。

高倉健

1955年、東映ニューフェイス第2期生として入社。初期は美空ひばり作品やギャング映画に助演するも大きなヒットには恵まれず、’63年『人生劇場 飛車角』で準主役として任侠映画路線の足掛かりを掴む。’64年の『日本侠客伝』で主役に抜擢され、無口で禁欲的な任侠スター像を確立。以後、『網走番外地シリーズ』などで東映の看板スターとして活躍し、ストイックな生き方と耐え忍ぶ侠気あふれる役柄で人気を博した。歌手としても『網走番外地』『唐獅子牡丹』などの主題歌がヒットした。

勝新太郎

23歳で大映京都撮影所と契約し、1954年『花の白虎隊』でデビュー。初期は主演作が不評で人気は伸び悩むが、’60年『不知火検校』で野心的な悪僧を演じ評価を一新。その後、『悪名』『座頭市物語』『兵隊やくざ』などで不動の人気を獲得し、大映の大黒柱として市川雷蔵とともに「カツライス」と称され屋台骨を支えた。座頭市シリーズは国内外で高い評価を受け、勝の代表作となった。’61年に女優・中村玉緒と結婚し、プライベートでも話題を集めた。

天知茂

1951年、新東宝スターレットに選ばれ入社。’54年『恐怖のカービン銃』で初主演、’59年『東海道四谷怪談』の民谷伊右衛門役で注目される。’61年以降は大映と契約し時代劇を中心に準主演級で活躍し、『座頭市物語』の平手造酒役や『眠狂四郎無頼剣』の敵役で存在感を示す。’68年には舞台『黒蜥蜴』で明智小五郎役を当たり役とし、’66年にA&Aプロダクションを設立。ニヒルな個性派俳優として『非情のライセンス』や『江戸川乱歩の美女シリーズ』などテレビでも人気を博した。

仲代達矢

1952年、俳優座養成所第4期生として入所。’54年『七人の侍』で映画デビューし、’55年に俳優座に入団。舞台『幽霊』で注目され、’56年『火の鳥』で映画本格デビュー。以降、『裸足の青春』『大番』『黒い河』などで存在感を示す。フリーランスを貫き、’59~’61年の『人間の條件』で主演・梶役を務め、演技力を高く評価される。『切腹』や黒澤明監督作品『用心棒』『椿三十郎』『天国と地獄』などでも活躍し、映画・舞台双方で確固たる地位を築いた。

児玉清

東宝第13期ニューフェイスとして入社。’61年『別れて生きるときも』で頭角を現し、黒澤明監督作『悪い奴ほどよく眠る』で存在感を示す。’64年に東宝女優・北川町子と結婚し、’67年に東宝を退社してフリーに転身。テレビドラマ『ありがとう』で人気を獲得し、ホームドラマで活躍。’75年から『パネルクイズ アタック25』の司会を36年間務め、俳優・司会者として幅広く知られた。

田宮二郎

1960年代から’70年代にかけてクールな二枚目俳優として活躍。代表作は映画『悪名』シリーズ、映画・ドラマ『白い巨塔』、ドラマ『白い滑走路』『高原へいらっしゃい』など。ほかにクイズ番組『クイズタイムショック』の初代司会としてもお茶の間に長く親しまれた。’78年、ドラマ『白い巨塔』の放送が2回残ったタイミングで猟銃自殺を遂げ、世間は大きな衝撃とともに、まだ43歳という若さでの選択を悼んだ。

梅宮辰夫

1958年、東映ニューフェイス5期生として合格し、翌年『少年探偵団 敵は原子潜航挺』で主演デビュー。’60年代前半はアクションや任侠映画で活躍したが、’65年の『ひも』を皮切りに「夜の青春シリーズ」でプレイボーイ役が人気を博す。続く『不良番長シリーズ』で東映東京の看板スターとなり、コミカルな不良像を確立。’70年代には『帝王シリーズ』『仁義なき戦い』などで渋い存在感を放つ。病を経て俳優として円熟し、『前略おふくろ様』『新・夜明けの刑事』などで新境地を開いた。

赤木圭一郎

1958年、日活第4期ニューフェイスとして入社し、『紅の翼』で映画デビュー。西洋的な風貌と退廃的な魅力で注目され、「トニー」の愛称で人気を集めた。’59年『拳銃0号』で不良少年を演じて評判となり、『素っ裸の年令』で初主演。その後、石原裕次郎や小林旭らと共に「ダイヤモンドライン」の一員として活躍し、『拳銃無頼帖』シリーズなどで「第三の男」と称された。歌手としても哀愁ある低音で人気を得たが、’61年の撮影所での事故により21歳で急逝した。

千葉真一

日本体育大学在学中に体操事故で選手生命を断たれ、1959年に東映第6期ニューフェイスとして入社。’60年『新 七色仮面』で主演デビューし、深作欣二監督作品などでスタントなしの体当たりアクションを披露して注目された。『ファンキーハットの快男児』や『カミカゼ野郎 真昼の決斗』などで人気を高め、’68年の『キイハンター』で国民的スターに。’69年には俳優育成のためジャパンアクションクラブ(JAC)を設立し、日本のアクション界をけん引した。

赤木圭一郎

(C)キネマ旬報社 - 『キネマ旬報』1960年5月下旬号

千葉真一

(C)国際情報社 - 『映画情報』1965年6月号

北大路欣也

(C)国際情報社 - 『映画情報』1964年10月号

植木等

(C)平凡出版 (Heibon Shuppan) / キングレコード (KING RECORD CO., LTD.)

竜雷太

日本大学藝術学部を中退後、テレビタレントセンターを経て1962年に松竹入り。’65年、演出家エド・ダンダスの推薦で渡米し、サンフランシスコ・ステート・カレッジで演劇を学ぶ。帰国後、’66年『これが青春だ』の主演に抜擢され、一躍人気俳優となる。芸名は役名にちなむ「竜雷太」とした。’72年から『太陽にほえろ!』でゴリさんこと石塚誠刑事を10年間演じ、名実ともに代表作となった。降板後は『金曜日の妻たちへ』などで幅広い演技を見せた。

石坂浩二

1958年、エキストラ出演から芸能界に入る。’67年、浅利慶太に見出され劇団四季に入団し、演出助手や脚本も担当した。退団後は俳優業に専念し、NHK大河ドラマ『天と地と』(’69年)で上杉謙信を演じて初主演。以降『元禄太平記』『草燃える』など計12作品に出演する名優となった。’70年代にはTBSの好感度調査で3年連続1位を記録。’76年『犬神家の一族』で金田一耕助を演じ国民的な人気を得る。俳優のほかナレーターや脚本家としても活躍した。元妻は女優の浅丘ルリ子。

寺田農

1961年、文学座附属演劇研究所に第1期生として入所し、同年『十日の菊』で初舞台を踏む。’65年、五所平之助監督『恐山の女』で映画デビューし、学園ドラマ『青春とはなんだ』『これが青春だ』で人気を得る。’68年、岡本喜八監督『肉弾』で主演し、毎日映画コンクール主演男優賞を受賞。以後、岡本作品の常連として活躍した。’70年に劇団雲を退団後、実相寺昭雄や相米慎二監督作品で存在感を示す。『天空の城ラピュタ』のムスカ役でも知られる。

北大路欣也

1964年、『シラノ・ド・ベルジュラック』で舞台デビュー。’68年、大河ドラマ『竜馬がゆく』で主演し注目を集める。以後も『独眼竜政宗』『北条時宗』など大河作品の常連となる。’73年、『仁義なき戦い 広島死闘篇』に出演し、東映任侠映画でも存在感を示した。’77年の『八甲田山』では高倉健とともに主演し、第1回日本アカデミー賞主演男優賞を受賞。近年は「白戸家」CMのお父さん犬の声でも親しまれている。

高橋英樹

1961年、日活ニューフェース第5期として入社し『高原児』でデビュー。赤木圭一郎の後継的存在として注目を集め、『激流に生きる男』で初主演を果たす。’63年『伊豆の踊子』で吉永小百合と共演し、『男の紋章』シリーズなど任侠映画で人気スターとなった。’68年、大河ドラマ『竜馬がゆく』でテレビ進出し、以後『鞍馬天狗』などで時代劇俳優として地位を確立。『桃太郎侍』などで国民的人気を得た。のちに十津川警部役でも長年活躍し、テレビ時代劇の象徴的存在となった。

植木等

大学卒業後バンドマンとして活動を始め、その後ジャズ界で頭角を現したのち、クレージーキャッツの一員として人気を博す。1960年代には『スーダラ節』の大ヒットを経て、映画『無責任シリーズ』『日本一の男シリーズ』で国民的スターとなり、高度経済成長期を象徴する存在となった。音楽バラエティ番組『シャボン玉ホリデー』でのギャグ「お呼びでない?……お呼びでない、ね。こりゃまた失礼いたしました!」は国民の間で広く愛され、晩年まで多彩な喜劇性を保ち続けた。

小松方正

大蔵省勤務の傍ら演劇に魅了され、1951年に新演劇研究所へ入団。中央大学専門部卒業後に大蔵省を辞し、舞台『真空地帯』で注目を集めた。’59年に映画デビューし、大島渚の作品の常連となり存在感を示す。いかつい風貌と低い声を活かした悪役から人情味やコミカルな役柄まで幅広く演じ、日本映画を支える名脇役として活躍した。テレビのバラエティでも親しまれ、アンソニー・クインやブルート、ジャッキー映画の師匠役など声優としても知られる。

根上淳

1947年に大映演技研究所へ入所し、’49年『母三人』で本格デビュー。大映の若手スターとして活躍した。’56年には渡米してMGM映画『八月十五夜の茶屋』に出演し、’67年までに出演作は100本を超えた。その後はテレビに活動の場を移し『白い巨塔』の里見脩二役や『帰ってきたウルトラマン』の伊吹隊長役で存在感を示す。隊員服の階級表示を提案するなど作品への貢献も大きい。私生活ではペギー葉山と結婚し、おしどり夫婦として知られた。

小池朝雄

1950年に文学座付属演劇研究所へ入所し、『崑崙山の人々』で初舞台を踏むみ、後に劇団昴の中心俳優として活動した。映画・テレビでは東映や日活作品で存在感を示し、『仁義なき戦い』シリーズをはじめ狂気を秘めた悪役から善人まで幅広く演じた。声優としての評価も高く、ピーター・フォークの持ち役として吹き替えた『刑事コロンボ』のコロンボ役で広く知られ、その声は日本の視聴者に強い印象を残した。

杉浦直樹

日本大学芸術学部在学中に新協劇団の研究生となり、1950年に内田良平や小松方正らと新演劇研究所を設立して舞台で頭角を現した。映画では’57年『俺は待ってるぜ』でデビューし、翌年の『錆びたナイフ』で敵役として注目され、松竹入り後は二枚目役にも挑戦した。’60年代にフリーとなり、以後はテレビドラマに活動の主軸を移す。向田邦子作品をはじめ多くの名作で味わい深い演技を残した。2011年に肺腺癌のため79歳で死去した。

森次晃嗣

1965年のテレビドラマ『青春をぶっつけろ』で俳優デビュー。’67年、円谷プロ『ウルトラセブン』でモロボシ・ダン役を演じ人気を得る。’72年フリーとなり、テレビ『美しきチャレンジャー』『ウルトラマンレオ』『銭形平次』などに出演。’73年に芸名を森次晃嗣に改め、’87年から神奈川県鵠沼海岸でカフェレストラン「JOLI CHAPEAU」を経営。’97年には個人事務所を設立し、ウルトラ関連グッズの販売なども手掛けている。

常田富士男

高校卒業後に上京し、劇団民藝養成所を経て1960年に米倉斉加年らと劇団青年劇場を結成した。黒澤明監督の『天国と地獄』『赤ひげ』に出演し、テレビでは『バス通り裏』や『ゲバゲバ90分!!』で知られる。『木枯し紋次郎』『股旅』などで俳優として活躍し、’75年から’94年にかけて『まんが日本昔ばなし』で市原悦子と共に語りと全役を担当、代表的な仕事となった。市川崑作品にも多く起用された。後年は賞も受け、2018年に脳内出血で死去した。

保積ぺぺ

コルゲンコーワの「おめぇ、ヘソねえじゃねぇか」CMでデビュー。1966年には『丸出だめ夫』で主演に抜擢され、子役として広く知られる。’70年代前半には『飛び出せ!青春』『われら青春!』で山本大作役を演じ、明るく愛嬌のあるキャラクターで青春ドラマの時代を象徴する存在となった。以後も『太陽にほえろ!』をはじめ刑事ドラマや時代劇に多数出演、俳優として活動を続ける。’96年に目黒区で「ペペちゃん餃子」を開業したが、2005年に休業した。

1960

森光子

1935年『なりひら小僧 春霞八百八町』で映画デビューし、娘役として活躍。戦時中は陸軍慰問団に参加し、中国や南方戦線を巡回、赤木春恵と親交を結ぶ。終戦後は進駐軍キャンプでジャズ歌手として活動。’55年、朝日放送と専属契約を結び、『漫才学校』などのラジオ番組で人気を博す。テレビ黎明期からドラマに進出し、’63年『放浪記』で初主演を果たした後、『時間ですよ』『銀座わが町』などで国民的な「お母さん女優」として親しまれる。司会業にも進出し、『3時のあなた』では14年間メイン司会を務めた。

扇千景

1954年に宝塚歌劇団へ入団し、花組から映画専科に移り映画デビュー。’57年に中村扇雀と結婚し退団。’59年に『君はいま何を見つめている』で再デビューし文部省芸術祭奨励賞を受賞。以後『たまゆら』『大奥』などで活躍し、『3時のあなた』司会でも人気を得た。’77年参議院議員に初当選し、のちに運輸・建設両大臣、初代国土交通大臣を歴任。2004年には女性初の参議院議長となり、政界における女性の先駆的存在として知られた。

奈良岡朋子

1948年、民衆芸術劇場付属俳優養成所に第1期生として入所。’50年、劇団民藝の創設に参加し『かもめ』で旗揚げに出演。’54年『煉瓦女工』で初主演を果たし、それから中堅女優として活躍した。宇野重吉・滝沢修没後は大滝秀治と劇団を共同運営し、その後代表を務めた。舞台を中心に、テレビや映画にも出演し、橋田壽賀子・石井ふく子作品の常連でもあった。晩年は朗読劇『黒い雨』をライフワークとし、戦争の記憶を伝える女優として生涯を貫いた。

岸田今日子

高校卒業後、文学座付属演技研究所に入り、1953年『にごりえ』で映画デビュー。’60年『サロメ』で主役を務め、三島由紀夫演出作品などで存在感を示す。’63年に文学座を離れ、のちに演劇集団円の創設に参加し硬軟自在の演技を見せた。映画『砂の女』で国際的評価を得、『犬神家の一族』などの市川崑作品でも活躍。独特の声で『ムーミン』の声優としても親しまれ、舞台・映画・テレビ・ナレーションと幅広く日本演劇界を代表する名女優となった。

京塚昌子

高校卒業後に新派へ入団し、1955年「月夜鴉」で初主演、「離れ猪」「太夫さん」の演技で芸術祭奨励賞を受賞する。’59年からの『カミさんと私』で伊志井寛の妻役を演じ人気を得る。’63年に東宝演劇部入り。’68年『肝っ玉かあさん』で庶民的で温かい母親像を確立し、『ありがとう』などでも母親役として親しまれた。森光子や加藤治子らと並ぶ「日本のお母さん女優」と称され、石井ふく子作品の常連として活躍。晩年は病に苦しみながらも女優魂を貫いた。

森光子

(C)主婦と生活社『主婦と生活』1962年2月号

若尾文子

(C)『読切倶楽部』1960年1月号。発行所:三世新社

野際陽子

(C)集英社『週刊明星』9月26号(1963)

浅丘ルリ子

(C)1950年代のブロマイド

池内淳子

1955年『皇太子の花嫁』で映画デビューし『次郎物語』で注目される。’56年『新妻鏡』で初主演し、久保菜穂子・三ツ矢歌子とともに「新東宝現代劇の三羽烏」と呼ばれた。結婚・離婚を経て一時引退するが’60年に復帰。『日日の背信』などのヒットで人気女優となり、『女と味噌汁』シリーズで代表的なテレビ女優としての地位を確立する。清楚で芯の強い女性像を演じ、長くお茶の間に親しまれた。晩年まで舞台やドラマで活躍し、2008年に旭日小綬章を受章した。

岡田茉莉子

1951年、東宝ニューフェイス第3期として入所し、成瀬巳喜男監督の『舞姫』で準主役デビュー。知的で艶のある美貌と確かな演技力で東宝の看板女優となる。’57年に松竹へ移籍し『秋日和』など小津安二郎、木下惠介ら名匠の作品に出演し、’62年の主演『秋津温泉』で映画賞を受賞。以後も映画・舞台・テレビで活躍し、晩年は『温泉若おかみの殺人推理』シリーズの大女将役で親しまれた。

若尾文子

1951年に大映第5期ニューフェイスとして入社。翌年映画デビューし、’53年の『十代の性典』で注目を集める。溝口健二監督の『祇園囃子』で演技力を認められ、京マチ子・山本富士子と並ぶ大映三大女優の一人となる。可憐さと情念を併せ持つ演技で『妻は告白する』『赤い天使』など名作に出演し、日本映画黄金期を代表する存在となった。大映倒産後はテレビや舞台でも活躍し、『武田信玄』の語りで再び注目を浴びた。

司葉子

1954年、短大在学中に雑誌モデルをきっかけに東宝と契約し、『君死に給うことなかれ』で映画デビュー。清楚で上品な美貌から「東宝の良家の娘」像を体現し、看板女優として活躍した。’66年の『紀ノ川』で主要映画賞を総なめにし、日本映画界を代表する名女優となる。’69年に大蔵官僚の相澤英之と結婚後は公私にわたり夫を支え、のちに日本大正村村長や大学特任教授としても活動。2003年に紫綬褒章、2010年に旭日小綬章を受章した。

白川由美

頌栄女子学院高等学校在学中に「森永スイート・ガール」に選ばれ、1956年にスカウトで東宝入りし『ならず者』で映画デビュー。「日本のグレース・ケリー」と称され、清楚な魅力で特撮からホームドラマ、令嬢役まで幅広く活躍した。’61年には小津安二郎『小早川家の秋』にも出演。’64年、日活スター二谷英明と結婚し、家庭を持ったのを機に活動の中心をテレビへ移し、’80年代には母親役で高い人気を博した。

中村玉緒

歌舞伎俳優・二代目中村鴈治郎を父に持ち、1953年に松竹映画でデビュー。’54年に大映へ入り、脇役として経験を積む。可憐な娘役から、’70年代には健気な母親役で存在感を示しテレビでも活躍する。大映時代に出会った勝新太郎とは互いに惹かれ合い結婚。晩年は勝を支え、病床で彼が楽しめるようバラエティ出演を増やした。勝の葬儀では笑顔で見送り、東京タワーのミニチュアを置くという希望を貫くなど、一途な愛情を貫いた。

ひし美ゆり子

高校時代に「ミス東京セニョリータ」準ミスとなり東宝入りし、1966年にデビュー。初期は本名で活動し、のちに菱見百合子へ改名。『ウルトラセブン』の友里アンヌ隊員役で人気を得た。’72年の東宝退社後、東映作品へ出演し、成人映画から任侠映画まで幅広く活躍し現在の芸名に改める。テレビドラマ・時代劇でも多数の役を務めた。近年はトークショーや円谷プロ関連イベントを通じてファンとの交流を続けている。

有馬稲子

1948年に宝塚音楽学校へ進み、’49年に入団して二代目有馬稲子を襲名し、主演娘役として活躍した。’51年に東宝『宝塚夫人』で映画デビューし、同年『せきれいの曲』で初主演。’53年に宝塚を退団して東宝専属となり、’54年には文芸プロ「にんじんくらぶ」を設立する。’55年に松竹へ移籍し看板女優として活躍した。錦之助との華やかな結婚と離婚を経て、’65年以降は劇団民藝で演技を学び直し、舞台とテレビを中心に活動した。

中原早苗

高等学校在学中の1953年、『村八分』で主演級デビューを果たし、現代ぷろだくしょんに所属して山村聡のもとで所作を学んだ。『蟹工船』など独立プロ映画で活躍後、’55年に水の江瀧子の誘いで日活と契約し「日活パールライン」の一員として8年間に約80本へ出演した。’64年以降はフリーで東映作品などに出演し演技の幅を広げた。私生活では川地民夫との事実婚を経て、’65年に深作欣二と結婚。深作没後は公の場から退き、2012年に心不全で亡くなった。

野際陽子

1958年にNHKへ入局し、名古屋放送局を経て東京で人気アナウンサーとなる。’62年に退職後、TBS『女性専科』などで司会を務め、’63年に女優デビュー。’66年にパリ留学し、帰国後は日本初のミニスカート姿で話題を呼んだ。’68年『キイハンター』で大ブレイク。’73年に千葉真一と結婚し、一女をもうける。’90年代には『ずっとあなたが好きだった』で冬彦の母役を怪演し、名姑女優として再評価された。上品さと知性を兼ね備えた国民的女優であった。

佐久間良子

1957年に東映ニューフェイス第4期で入社。’58年『美しき姉妹の物語・悶える早春』で映画デビューし、鶴田浩二との共演作品で注目される。’60年代には社会派映画や文芸作品で演技力を評価され『人生劇場 飛車角』『五番町夕霧楼』『湖の琴』などで主演。’67年以降はテレビと舞台に活躍の場を移し、NHK大河ドラマ『おんな太閤記』で女性主役を務める。舞台では菊田一夫演劇大賞や文部省芸術祭賞を受賞し、長年にわたり女優としての地位を確立した。

浅丘ルリ子

1954年、中学在学中に『緑はるかに』のヒロインオーディションで約3,000人から選ばれ、浅丘ルリ子として映画デビュー。日活の看板女優として小林旭や石原裕次郎のアクション・ムード映画のヒロインを務め、’64年に歌手デビューも果たす。’66年には専属契約を解消し石原プロに移籍、自ら企画や役柄を選ぶなど女優としての自己主張を強めた。蔵原惟繕監督作品では愛と葛藤を描く役で熱演。映画出演本数は150本以上に上り、歌手としても活動し、幅広い分野で活躍した。

樫山文枝

1960年、東京文化高校卒業後、俳優座養成所第12期および劇団民藝俳優教室を経て劇団民藝に入団。’66年、連続テレビ小説『おはなはん』で18歳から84歳までの主人公を1人で演じ、お茶の間の人気を得る。2010年の「心に残る朝ドラヒロイン」アンケートでは第1位に選ばれた。政治活動にも関わり、’67年・’71年の東京都知事選で美濃部亮吉を支持した。伯父は大手アパレルメーカー・オンワード樫山創業者の樫山純三。

岩下志麻

1958年、NHKドラマ『バス通り裏』で女優デビュー。’60年に篠田正浩監督『乾いた湖』で映画初出演し、以後松竹の看板女優として活躍。小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』のヒロインを務める。’66年に篠田と結婚し、独立プロ「表現社」を設立、『心中天網島』などを発表。その後『極道の妻たち』シリーズで女優としての地位を確立。2000年に『キネマ旬報』の日本女優10位、同年紫綬褒章、2012年旭日小綬章を受章。

吉永小百合

(C)『映画情報』1966年9月号。発行所:国際情報社

岩下志麻

(C)国際情報社 - 『映画情報』1965年4月号

山本陽子

(C)国際情報社 - 『映画情報』1966年6月号

加賀まりこ

(C)国際情報社 - 『読切倶楽部』1964年5月号

山本陽子

高校卒業後は野村證券に勤務していたが、1963年に日活第7期ニューフェイスとして芸能界入り。映画作品からテレビに進出後は清楚な美貌と確かな演技で人気を確立した。’71年に舞台『放浪記』で初舞台、’80年『花埋み』で初主演。『黒革の手帖』などで幅広い役柄を演じ、舞台『おはん』で菊田一夫演劇賞を受賞。山本海苔店のイメージモデルとして42年間にわたり専属契約し、専属タレント契約における世界最長記録として2010年にギネス認定された。

浜美枝

中学卒業後、東急バスの車掌として勤務していたが、1959年に東宝のコンテストをきっかけに入社。’60年『若い素肌』でデビューし、星由里子・田村奈巳とともに「東宝スリーペット」として人気を得る。『クレージー映画』のマドンナ役で活躍し、’67年『007は二度死ぬ』でボンドガールを演じ国際的注目を浴びた。’70年に東宝を退社後は司会業やラジオパーソナリティとして活躍。ライオン「トップ」などのCMでも知られ、’90年代初頭に女優業を退いた。

加賀まりこ

映画プロデューサーの父をもつ芸能一家に生まれ、高校在学中の1960年、篠田正浩と寺山修司にスカウトされ『東京タワーは知っている』でデビュー。’62年に松竹と契約し『涙を、獅子のたて髪に』で映画デビュー、『月曜日のユカ』で人気を確立する。「和製ブリジット・バルドー」と呼ばれ、小悪魔的美貌と奔放な言動でも注目を集める。’64年にパリへ渡り芸術家たちと交流、帰国後は劇団四季『オンディーヌ』で舞台女優としての地位を築いた。

松原智恵子

1960年、高校生の時に「ミス16歳コンテスト」に入賞し、『夜の挑戦者』で端役としてデビュー。日活では青春映画やアクション映画のヒロインとして活躍し、吉永小百合・和泉雅子とともに「日活三人娘」と呼ばれた。清純で上品な美貌で人気を博し、’67年のブロマイド売上では女優部門1位となる。’69年『恋のつむじ風』で初主演。’71年に日活を離れた後はテレビドラマに活動の場を移し、NHK大河ドラマやテレビ小説、TBS東芝日曜劇場をはじめ多数のドラマで活躍した。

吉永小百合

1957年、小学生でラジオドラマ『赤胴鈴之助』に出演しデビュー。’59年に松竹映画『朝を呼ぶ口笛』で映画初出演し、’60年に日活入り。’62年『キューポラのある街』でブルーリボン賞主演女優賞を受賞し、橋幸夫とのデュエット「いつでも夢を」も大ヒットした。浜田光夫との純愛映画で「日活の看板女優」となり、松原智恵子・和泉雅子とともに「日活三人娘」と呼ばれた。現在も”サユリスト”と呼ばれる熱狂的ファンと支持者を持つ、押しも押されもしない国民的大女優。

前田美波里

アメリカ人の父と日本人の母のもとに生まれる。小学4年でクラシックバレエを始め、高校進学を機に上京。1963年、文化学院在学中に“ミス・ノー・ストリング”に選ばれ東宝現代劇に入団し、翌年初舞台。’66年、資生堂キャンペーンガールで注目を集め、’68年マイク眞木と結婚。離婚後、劇団四季『コーラスライン』で再起し、以降舞台を中心に活躍。2008年資生堂CMに41年ぶりに出演し、2024年菊田一夫演劇賞特別賞を受賞した。

由美かおる

小学6年で西野バレエ団に入団。1966年『11PM』で歌って踊れるタレントとしてデビューし、網タイツ姿で注目を集める。翌年「レ・ガールズ」を結成し人気を確立。歌手としても多くの楽曲を発表した。’73年『同棲時代』で初ヌードを披露し話題を呼び、以後本格的女優へ転身。’76年『トラック野郎・天下御免』にも出演。’86年から『水戸黄門』で「かげろうお銀」として親しまれた。2019年に歌手活動を再開し、2023年港区観光大使に就任した。

俳優・女優 > 1970年代

─ 主な俳優・女優 (順不同) ─

1970

大滝秀治

1948年、東京民衆芸術劇場附属俳優養成所に入所し、翌年初舞台を踏む。’50年、宇野重吉らと劇団民藝の創設に参加。’70年の舞台『審判』で初主演し、紀伊國屋演劇賞を受賞して注目を集めた。以後、民藝の看板俳優として活躍し、2011年に文化功労者に選ばれた。映画では『不毛地帯』『華麗なる一族』などで重厚な演技を見せ、市川崑・伊丹十三作品の常連として知られる。テレビでは『特捜最前線』の船村刑事役などで親しまれ、晩年まで個性派俳優として活躍した。

天本英世

東京大学法学部に入学し外交官を志すが、政治への失望と失恋を機に中退し俳優座に入団。1954年、オペラ『オテロ』で初舞台を踏み、木下惠介監督『女の園』『二十四の瞳』で映画デビューする。長身の二枚目俳優として出発するが、’58年に東宝と専属契約を結び、次第に特異な個性派俳優として頭角を現し、岡本喜八作品の常連となる。’72年『仮面ライダー』の死神博士役で強烈な印象を残し、後年『平成教育委員会』で知的キャラクターとして再注目された。

小沢昭一

1949年、俳優座付属養成所二期生として千田是也に師事し初舞台を踏む。’60年に「劇団俳優小劇場」を結成し、新劇寄席『とら』で芸術祭奨励賞を受賞。映画では川島雄三や今村昌平作品に多数出演し、’69年以降は日本の伝統芸能や放浪芸の研究・収集に力を注ぐ。’75年には劇団「芸能座」を旗揚げ、’82年には一人芝居の「しゃぼん玉座」を創設して晩年まで公演を続けた。ラジオ番組『小沢昭一的こころ』では約39年間レギュラーを務め、俳人としても活動した。

財津一郎

榎本健一映画演劇研究所で演技を学び、帝劇ミュージカル研究生を経て1955年に石井均一座へ入門。関西を拠点に舞台経験を積み、’62年に吉本興業入り、’64年に吉本新喜劇で「財津一郎」と改名した。「ヒッジョーにキビシ〜ッ!」「〜してチョーダィ!」などの独特のギャグで人気を博し、『てなもんや三度笠』の蛇口一角役で全国的に知られる存在となる。’70年代には喜劇だけでなくドラマや映画にも出演。1981年『連合艦隊』で見せた重厚な演技が高く評価された。

藤岡琢也

1957年に劇団「葦」に入団し、翻訳劇『俺たちは天使じゃない』で初舞台を踏む。当初は声優として活動したが、’66年にテレビドラマ『事件記者』でレギュラー出演し知名度を高めた。映画では『喜劇 頑張れ!日本男児』で主演を務め、『社長シリーズ』などで中間管理職や小悪党を演じた。テレビでは’90年からの『渡る世間は鬼ばかり』で五人姉妹の父・岡倉大吉役を務め晩年の代表作となる。’69年から2004年まで、長年にわたり「サッポロ一番みそラーメン」のCMにも出演した。

田中邦衛

短大卒業後、岐阜で中学の代用教員を務めたが、教師としての自信を持てず俳優を志す。俳優座養成所第7期生として入所し、1957年に映画『純愛物語』でデビュー。’61年の『大学の若大将』で青大将役を好演し、シリーズのレギュラーとなる。その後「仁義なき戦いシリーズ」などで脇役として存在感を示す。’73年に俳優座を退座してフリーとなる。’81年以降はテレビドラマ『北の国から』の黒板五郎役で全国的に知られ、CMや舞台でも活躍した。

菅原文太

早稲田大学在学中に劇団四季に入団し、1956年に映画『哀愁の街に霧が降る』でデビュー。新東宝で「ハンサムタワーズ」の一員として主演作も務めた。’67年に東映へ移籍、’69年『現代やくざ 与太者の掟』で東映初主演。その後『仁義なき戦い』『トラック野郎』シリーズなどでスターとなり、任侠・実録映画の代表的存在となった。’80年代以降は大河ドラマや刑事ドラマでも活躍し、声優・ナレーターとしても活動。’98年には岐阜県清見村に移住し農業や講演にも関心を示した。

平幹二朗

俳優座養成所五期生として1956年に初舞台『貸間探し』に出演し、端整な容姿と迫力ある演技で注目された。’63年『三匹の侍』の桔梗鋭之介役で人気を集め、’68年にフリーとなり劇団四季で『ハムレット』など主役を務め舞台俳優として高く評価される。テレビでは大河ドラマに7回出演、映画でも『他人の顔』『天城越え』『帝都物語』などに出演し、演出家としても活動。’98年に紫綬褒章、2005年に旭日小綬章を受章した。

森山周一郎

日本大学藝術学部映画学科中退後、劇団東芸、オールアウトを経てオフィス森山に所属。1954年に舞台『長女』で初主演し、同年NHK連続ドラマ『夢見る白鳥』でテレビデビュー。その後、映画や刑事ドラマ『特別機動捜査隊』などで活躍し、特に時代劇やアクション作品で黒幕や暴力団幹部など重厚な悪役を演じた。声優としても活動し、ジャン・ギャバンやチャールズ・ブロンソンの吹き替えを担当、アニメ『紅の豚』ではポルコ・ロッソ役が有名。

里見浩太朗

1956年に東映ニューフェイスとして入社し、翌年『天狗街道』で本格デビュー。芸名は『里見八犬伝』にちなみ’70年に現名に改名。’67年からテレビ時代劇に進出し、『仮面の忍者 赤影』や刑事ドラマで活躍。’71年から『水戸黄門』で佐々木助三郎を16年半にわたり演じ、さらに『大江戸捜査網』『長七郎江戸日記』など多くの主演作を持つ。華麗な殺陣と重厚な芝居を併せ持ち、時代劇俳優として不動の地位を確立した。

緒形拳

1958年に新国劇に入団。’60年『遠い一つの道』で映画デビューし、’65年には大河ドラマ『太閤記』の主役に抜擢され、翌年も『源義経』で武蔵坊弁慶を演じ大河ドラマ常連となる。その後映画・テレビで活躍し、テレビ時代劇『必殺仕掛人』の藤枝梅安役で人気を獲得。’78年『鬼畜』主演で多数の男優賞を受賞し、『復讐するは我にあり』でも主演。’99年『あつもの』でフランス・ベノデ映画祭グランプリを受賞するなど、重厚な演技で映画・ドラマの両面で高い評価を得た。

※当ページに掲載の画像はウィキペディアコモンズによるパブリックドメインです。

田中邦衛

(C)近代映画社『近代映画』第18巻第9号

平幹二朗

(C)婦人生活社『婦人生活』2月号(1966)

田村正和

(C)国際情報社『映画情報』第31巻第11号(1966)

藤竜也

(C)William He

山城新伍

医師の道を諦め1957年に東映ニューフェイス第4期として入社、’58年『台風』で映画デビュー。’60年『白馬童子』でテレビ時代劇初主演、子供たちから人気を集めた。’60年代後半以降は東映不良路線・任侠映画で個性派俳優として頭角を現し、「ミスター・プログラムピクチャー」と呼ばれた。’70年代からはテレビ主演作やバラエティ司会で活躍し、巧みな話術とユーモアで人気を博す。日清食品 「どん兵衛」のCMにも川谷拓三とともに10年以上(’76~’90年頃)出演した。

加藤剛

俳優座養成所13期生として入所し、1962年『人間の條件』でテレビドラマ初主演を果たす。舞台でも安部公房作『お前にも罪がある』で連続2時間演技を行うなど、早くから実力を示した。’70年から2006年まで『大岡越前』で主演を務め、約36年間にわたり看板俳優として活躍。熊井啓監督作品の映画主演や大河ドラマ『風と雲と虹と』『獅子の時代』でも主演し、近現代史ドラマにも出演した。芸能活動以外では健康日本21推進国民会議の委員や健康大使としても活動した。

原田芳雄

1962年に俳優座養成所15期生として卒業し、劇団俳優座準座員・座員を経て’67年『天下の青年』でテレビデビュー、翌年『復讐の歌が聞える』で映画デビューした。当初は純朴な青年役だったが、ワイルドでアウトロー的なキャラクターへと転身し、’74年『竜馬暗殺』で主役を演じ新境地を開いた。以後も100本以上の映画に出演し、圧倒的存在感と的確な演技力で監督や若手俳優から信頼を集め、晩年は映画賞受賞や紫綬褒章受章。ナレーションや音楽活動など多岐にわたり活動した。

中村敦夫

1959年に俳優座養成所を経て劇団俳優座に入団し「花の12期」として若手リーダー的存在となるが、劇団内の左翼傾向と対立し、’71年に市原悦子・原田芳雄らと共に退団。同年の大河ドラマ『春の坂道』で石田三成役を演じ注目され、’72年『木枯し紋次郎』で主役紋次郎役に抜擢され人気を獲得した。’80年代以降は『中村敦夫の地球発22時』『ザ・サンデー』などで司会を務め、ジャーナリストや作家としても活動し、多彩な分野で活躍した。

渡哲也

1964年に日活に入社し、翌年『あばれ騎士道』でデビュー。空手部出身の腕前を生かしたアクションで新人賞を受賞し、裕次郎2世として売り出される。『東京流れ者』『無頼シリーズ』『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』など日活ニュー・アクションで人気を確立。’71年、石原プロに入社し、石原プロテレビドラマ『大都会』『西部警察』で角刈りサングラスのトレードマークを確立。石原裕次郎の死去後は石原プロ二代目社長に就任し、俳優・プロデューサーとして長年活躍した。

藤竜也

大学在学中に銀座でスカウトされ日活に入社し、1962年『望郷の海』で映画デビュー。’71年、旧日活体制最後の一般映画『不良少女 魔子』出演後にフリーとなり、東映アクション映画などに出演。’73年、テレビドラマ『時間ですよ』で謎の男・風間役を演じて静かにブレークし、’74年には歌手デビューを経て映画『任侠花一輪』で初主演を果たした。その後も『悪魔のようなあいつ』や『ミセスとぼくとセニョールと!』などで活躍し、俳優・歌手としての地位を確立した。

近藤正臣

京都で松竹のエキストラをしていた際、その端正な顔立ちと演技力を評価され上京。映画デビューは今村昌平監督の『エロ事師たちより 人類学入門』での息子役だが、その後は東映京都で端役を重ねた。1971年、ドラマ『柔道一直線』のライバル・結城真吾役で一気に人気を獲得し、『冬の雲』『春の嵐』『地の果てまで』などでも活躍。’73年大河ドラマ『国盗り物語』の明智光秀役や2006年『功名が辻』の細川幽斎役でも注目され、映画・舞台・ドラマで幅広く活躍した。

中尾彬

1961年に日活ニューフェイス第5期として合格し、映画『真昼の誘拐』で正式デビュー。’71年にフリーとなり映画やテレビで活動を開始。’75年に映画『本陣殺人事件』で金田一耕助を演じ、’78年からテレビ『暴れん坊将軍』で初代徳川宗春役を務めて当たり役となる。’90年以降は『極道の妻たち』シリーズや『ゴジラvsメカゴジラ』以降のGフォース麻生司令官役などでも活躍し、映画・テレビの各分野で幅広く活動した。妻は女優の池波志乃。

田村正和

阪東妻三郎の三男で、田村高廣・田村亮とともに「田村三兄弟」と呼ばれた。1961年、松竹大船『永遠の人』で正式デビュー。’66年には主演映画『空いっぱいの涙』でレコードデビューも果たし、同年フリーとなる。’70年のテレビドラマ『冬の旅』で注目され、以降は繊細で憂いを帯びた二枚目として人気を得た。『眠狂四郎』などの主演で時代劇スターとして地位を確立し、「憂愁の貴公子」と称された。’94年の『古畑任三郎』では知的で風変わりな刑事を演じ、新境地を開いて国民的な当たり役とした。

松方弘樹

近衛十四郎、水川八重子の長男で、弟は俳優の目黒祐樹。1960年、17歳で東映映画『十七歳の逆襲・暴力をぶっ潰せ』で主演デビュー。’68年に元モデルの夏子と結婚し、長男・目黒大樹、長女・七重、次女・なちをもうけるが’78年に離婚。’79年に仁科亜季子と再婚し、次男・仁科克基、三女・仁科仁美をもうけ、’99年に離婚。華やかな私生活も芸能マスコミで大きく注目された。’70年代中期の東映実録ヤクザ映画に数多く出演した。

石立鉄男

1961年に俳優座研究生第13期生として入所。アルバイトで学費を稼ぎながら演劇を学び、’63年テレビドラマ『愛の系譜』でデビュー。’64年に文学座研究生となり、映画『血とダイヤモンド』で映画デビュー。’70年に文学座退団後は其田事務所の筆頭俳優としてテレビに活動の場を移し、’70年代以降『おくさまは18歳』『気になる嫁さん』『パパと呼ばないで』などホーム・コメディで人気を博し、「水曜夜8時の男」と称される個性派俳優となった。

岸田森

法政大学在学中に俳優を志し中退、1960年に文学座附属演劇研究所へ入団した。’62年に初舞台、’65年に座員となる。’66年に退団して六月劇場を結成し、以後は映画・テレビで個性派俳優として活躍。『氷点』で本格的にテレビ進出し、『怪奇大作戦』が演技の転機となった。’71年、東宝の『血を吸う』シリーズで吸血鬼を演じ「和製ドラキュラ」と称される。『帰ってきたウルトラマン』での坂田健役、『傷だらけの天使』辰巳五郎役でも知られる。

竹脇無我

アナウンサー竹脇昌作の三男として生まれ、青山学院大学法学部を卒業。家計を支えるため16歳で松竹大船撮影所に入社し、1960年『しかも彼等は行く』でデビュー。’65年『アンコ椿は恋の花』で初主演を果たし、田村正和と並ぶ松竹の看板俳優として売り出された。’70年『姿三四郎』、’72年『人生劇場』でスターとなり、知的で穏やかな二枚目像を確立。「理想の夫ナンバーワン」と称された。若者向け情報番組の『ヤング720』の司会も務め、幅広い世代で人気を得た。

古谷一行

中央大学法学部卒業後、俳優座養成所第16期生として俳優の道に進む。1977年からの『横溝正史シリーズ』で金田一耕助役を長期にわたり演じ、代表作となる。’82年からの『混浴露天風呂連続殺人』シリーズでも主演し、親しみある名優として定着。さらに『松本清張スペシャル・わるいやつら』など清張作品の常連として重厚な演技を見せた。長男はDragon Ashの降谷建志で、映画『手紙』では父子共演を果たすなど、多方面にわたり活動した。

蟹江敬三

高校在学中に舞台を経験し、俳優を志す。1964年、劇団青俳に研究生として入団後、蜷川幸雄らと「現代人劇場」へ移り演技力を磨く。’70年代には映画やドラマで狂気的な悪役を多く演じ強烈な存在感を示した。ドラマ『熱中時代』以降は人情味ある善人役へ転身し、個性派俳優として地位を確立。以後は刑事や父親役などで親しまれ、日本を代表する名バイプレーヤーと評された。2002年から『ガイアの夜明け』のナレーションも務めた。

江守徹

高校卒業後、19歳で文学座に入団。映画好きで早くから俳優を志したが、商業的な「ニューフェイス」には反発し、杉村春子や宇野重吉らが所属する新劇の世界に魅せられたことが入団の動機となった。1963年に初舞台を踏み、端正な風貌と確かな演技力で頭角を現す。以後、舞台・テレビ・映画で俳優、演出家、脚本家として幅広く活躍。シェイクスピア劇などに造詣が深く、戯曲翻訳やオペラ演出にも挑戦。『連想ゲーム』などバラエティにも出演し、知的かつユーモアある個性を示した。

黒沢年雄

東宝ニュータレント第4期生として東宝に入社し、映画『女体』でデビュー。岡本喜八や福田純らの作品に多く出演し人気を得る。’70年代以降はテレビドラマに活動の場を広げ、アクションからホームドラマまで幅広い役柄を演じた。独特の低音ボイスによる「やすらぎ」「時には娼婦のように」がヒット。42歳で『さんまのまんま』出演を機にバラエティでも注目され、平成期にはCMでも話題となる。近年は夢グループのコンサートで全国を巡演している。

杉良太郎

1965年に「野郎笠」で歌手デビューし、翌年日活入り。’67年にNHK『文五捕物絵図』で主演を務め、’70年には映画『花の特攻隊 ああ戦友よ』で主演した。’75年にCBSソニーへ移籍し、「なやみ」がヒット。’76年『遠山の金さん』で人気を確立し、主題歌「すきま風」はミリオンセラーとなった。社会貢献にも尽力し、ベトナムに多数の里子を持つ。紫綬褒章・文化功労者など数々の栄誉を受けている。妻は演歌歌手の伍代夏子。

藤岡弘

愛媛県出身の俳優・武道家。1964年に劇団NLT俳優教室に入り、翌年松竹に入社し映画『アンコ椿は恋の花』でデビュー。’71年『仮面ライダー』の本郷猛役で一躍人気を得る。’73年『日本沈没』で主演し大ヒットを記録。以降『勝海舟』『特捜最前線』などで重厚な存在感を示した。’84年には『SFソードキル』で国際的に注目されるが、’80年代後半に不遇を経験。’97年「せがた三四郎」CMで再ブレイクし再評価された。その後も探検隊シリーズなどで幅広く活動している。

渡哲也

(C)国際情報社 - 『映画情報』1967年4月号

竹脇無我

(C)国際情報社『映画情報』第31巻1月号(1966)

大滝秀治

(C)文部科学省ホームページ

杉良太郎

(C)文部科学省ホームページ

仲谷昇

1950年に文学座附属演劇研究所に入所。’53年に映画『にごりえ』で初出演し、以降『猟人日記』などで主演を務め、舞台・映画・テレビで活躍。’63年に文学座を脱退後、’75年に演劇集団 円を結成。’81年から同劇団代表を務めた。テレビでは教授・首相など地位の高い役柄を多く演じ、『キイハンター』や『大戦隊ゴーグルファイブ』の科学者役で知られる。また『カノッサの屈辱』や『マジカル頭脳パワー!!』でも印象的な役を務めた。

藤田まこと

父・藤間林太郎の一座に雑用係として参加したのが俳優活動の始まりで、17歳で歌謡ショーに出演して初舞台を踏む。1962年に時代劇コメディ『てなもんや三度笠』で主演に抜擢され人気を博す。’73年、時代劇『必殺仕置人』で中村主水役に起用され、硬軟自在な演技で人気を確立。シリーズ終了後も『はぐれ刑事純情派』や『剣客商売』などで長年主演を務めた。コメディからシリアスまで幅広く演じ、晩年までテレビ・舞台で活躍した。

戸浦六宏

1960年に『太陽の墓場』で映画デビューし、冷酷なやくざ役で個性的な悪役として評価を得た。同年『日本の夜と霧』にも出演し、大島組を経て本格的に俳優に転向。その後は大島作品に出演、『戦場のメリークリスマス』にも出演した。一般には’61年の『新選組始末記』で土方歳三役として知られる。鋭い目と深い隈が特徴の名悪役で知られつつ『野性の証明』では温厚な編集局長役も演じた。’63年には『週刊テレビジョッキー』の司会も担当した。

中丸忠雄

1955年に東宝ニューフェイスとして入社し、『ゴジラの逆襲』で端役出演、’57年『別れの茶摘歌姉妹篇 お姉さんと呼んだ人』で本格デビュー。’59年『独立愚連隊』で注目され、岡本喜八作品に多数出演。渋い低音の声と精悍な容貌を生かし、敵役や軍人役で存在感を発揮。’68年『37階の男』で主演し、同年に東宝を退社。その後はテレビドラマや舞台を中心に活躍し『キイハンター』などに出演、時代劇では家老役、刑事ドラマでは人間味ある上官役を演じた。

中条静夫

神戸製鋼所のセールスマンを経て1948年に大映へ入り、大部屋俳優として通行人役からキャリアを始める。’50年代半ばから脇役として頭角を現し、’71年の大映倒産まで在籍。その後は劇団欅、続いて劇団昴に所属した。テレビでは’65年開始の『東京警備指令 ザ・ガードマン』で小森隊員を演じて人気を得、以降多くのドラマで活躍。倉本聰脚本の『6羽のかもめ』を代表作とし、山口百恵の『赤いシリーズ』や『あぶない刑事』でも印象を残した。

神山繁

1952年に文学座へ演出部研究生として入座。’63年に芥川比呂志らと文学座を離れ、福田恆存を中心に現代演劇協会・劇団雲を結成し、シェイクスピア劇や『黄金の国』『罪と罰』などで存在感を示した。’75年に芥川と共に雲を脱退し、演劇集団 円の創設に参加。舞台と並行して映画・テレビでも活躍し、冷徹な悪役から知的な役まで幅広く演じ、市川崑、岡本喜八らに重用された。『ザ・ガードマン』榊隊員役で知られ、いかりや長介と親交が深かった。

穂積隆信

1951年に俳優座養成所3期生を卒業後、劇団新人会や劇団新劇場に所属し、脇役として映画やテレビドラマに出演。腰巾着や悪役を中心に活躍し、洋画吹き替えではイーライ・ウォラックやクリストファー・ロイドを担当した。娘との葛藤を描いたノンフィクション『積木くずし』シリーズで注目を集め、ドラマや映画化もされた。晩年は再婚した妻・玲子の介護を行い、2018年に胆嚢がんにより87歳で死去した。

名古屋章

1949年にNHK東京放送劇団養成所に入所し、’52年にラジオドラマ『ぼたもち』で主演し芸術祭賞を受賞。’59年に文学座へ入団、’63年に劇団雲の創立に参加し、’75年の解散後はフリーで舞台やテレビ・映画で活躍。クセのある敵役や悪役を得意とし、『帰ってきたウルトラマン』のナレーターや『ウルトラマンタロウ』の朝日奈勇太郎隊長役で知られる。’91年から『ひょっこりひょうたん島』の2代目ドン・ガバチョ役を務め、2003年に肺炎で72歳で死去した。

平泉成

高校卒業後にホテルで勤務中、市川雷蔵の紹介で1964年に大映京都第4期ニューフェイスに選ばれ、’66年に「平泉征」として正式デビュー。大映特撮映画やテレビドラマに出演し、’71年秋の大映倒産後はフリーで活動。’84年に芸名を「平泉成」に改名し、中間管理職的役や父親役、悪役など幅広い人物像を演じるバイプレイヤーとして活躍。北野武、三池崇史、山田洋次らの作品に出演し、コミカル演技やバラエティ番組にも挑戦した。

川津祐介

慶應義塾大学医学部在学中の1958年、兄の縁で木下惠介の勧めを受け『この天の虹』でデビュー。『人間の條件』で寺田二等兵役を演じ、松竹の青春スターとして人気を得る。退社後は敵役や個性派にも活路を広げ、『ザ・ガードマン』や『スパイキャッチャーJ3』でアクションスターとして活躍した。『Gメン’75』の事故で長期入院するが、家族で出演したCMで再起する。晩年は大学教授も務め、2022年に慢性心不全で死去した。

若林豪

専修大学中退後の1965年に劇団新国劇へ入り、島田正吾の直弟子として俳優人生を始めた。芸名は若々しさと猛々しさを込めて名付けられた。’68年『顎十郎捕物帳』で主演しテレビ俳優として注目され、’70年代には『Gメン』シリーズで人気を確立し、5年間にわたりレギュラーを務めた。大河ドラマでは真田幸村役を複数回演じ、’89年からは『赤い霊柩車』の狩矢警部役が当たり役となり、2023年の最終作まで続いた。舞台や司会の場でも広く活躍した。

松田優作

1972年に文学座付属演技研究所に入所。’73年『太陽にほえろ!』のジーパン刑事役で人気を獲得し、劇的な殉職シーンが社会現象となった。翌年『竜馬暗殺』で原田芳雄と共演し、映画『あばよダチ公』で初主演。’76年の不祥事による活動自粛を経て『暴力教室』『ひとごろし』で復帰。’79年『蘇える金狼』『探偵物語』などで独自の存在感を確立し、硬派で孤高なイメージを持つ俳優として時代を代表するスターとなった。

中山仁

1965年「劇団NLT」でデビュー。’66年に現芸名へ改めて注目を集め、映画・舞台にも進出する。’67年には五所平之助監督作『宴』で主演に抜擢され、エランドール新人賞を受賞。’70年代以降はテレビを中心に活動し、『サインはV』の鬼コーチ役で広く知られる存在となる。『七人の刑事』『ウルトラマン80』など幅広いジャンルへ出演し、CMでもコミカルな魅力を見せた。

森田健作

高校卒業後、歌のレッスンを経て、1969年映画『夕月』で俳優デビューし、役名を芸名とした。’71年のテレビドラマ『おれは男だ!』など学園ドラマで人気を博し、「青春の巨匠」と呼ばれた。’80年代以降は時代劇や司会業に転じる。’92年に参議院議員に初当選し、のちに自民党に合流。’98年に衆議院議員に転じた後、2009年に千葉県知事選で初当選し、3期務めた。2021年に政界を引退し、旭日重光章を受章した。

萩原健一

高校在学中にスカウトされ、1967年ザ・テンプターズのボーカルとして「忘れ得ぬ君」でデビュー。「エメラルドの伝説」などのヒットで人気を得る。解散後、PYGを経て映画『約束』で俳優に転身、ドラマ『太陽にほえろ!』の初回から登場したマカロニ刑事で人気を確立。その後『傷だらけの天使』『前略おふくろ様』などで独自の存在感を放つ。音楽活動も続け、「愚か者よ」などを発表。波乱の私生活を経ながらも俳優・歌手として熱い支持を集めた。

山﨑努

1960年、岡本喜八監督の『大学の山賊たち』で映画デビュー。’63年に劇団雲の結成に参加し、同年『天国と地獄』で誘拐犯を演じて注目を集める。’73年『必殺仕置人』の念仏の鉄役で人気を得、鋭い存在感を放つ俳優として地位を確立。’77年『八つ墓村』の殺人鬼・多治見要蔵役で強烈な印象を残した。’80年『影武者』で助演男優賞を受賞し、以後も伊丹十三監督作品などで名演を重ねる。2000年に紫綬褒章を受章。

峰岸徹

1962年、東宝映画でデビューし、若者文化の象徴「六本木野獣会」の中心的存在としても知られた。端正な容姿で「和製ジェームス・ディーン」と呼ばれたが、その二枚目イメージゆえに演技評価に悩んだ時期もある。俳優座養成所、文学座研究所を経て大映と契約し、新人賞を受賞。1975年に芸名を峰岸徹と改める。ドラマ『風と雲と虹と』の悪役、『高校教師』の衝撃的な父親役、『古畑任三郎』の上司役など幅広い演技で印象を残した。大林宣彦作品の常連として独特の存在感を示し、『ゴジラvsビオランテ』でも高評価を得た。

津川雅彦

俳優一家に生まれ、1945年『狐の呉れた赤ん坊』で子役として映画デビュー。’56年、日活映画『狂った果実』で本格デビューし一躍人気俳優となる。松竹移籍後は低迷するが、’72年『必殺シリーズ』で悪役として再起。以後は伊丹十三監督作品『マルサの女』『スーパーの女』などで存在感を示し、’99年『プライド・運命の瞬間』で東條英機役を演じ日本アカデミー賞を受賞。マキノ雅彦名義で監督業にも進出した。

小野寺昭

高校卒業後に上京し、人形劇団「やまいも」で『チロリン村とくるみの木』の人形操作を担当しながら芝居の基礎を学んだ。1969年『パンとあこがれ』で俳優デビュー。NHK『ナタを追え』『冬の雲』などで誠実な青年像を演じ注目される。’72年『太陽にほえろ!』の島刑事(殿下)役で人気を確立し、女性層を中心に絶大な支持を得た。以後『黄金の日日』の小西行長役、『御宿かわせみ』の神林東吾役などで存在感を示し、端正な容姿と知的な演技で長く愛された。

原田大二郎

1967年に明治大学法学部を卒業後、劇団文学座に入座し俳優となる。’70年に映画デビュー、その後『裸の十九才』で初主演を果たしエランドール新人賞を獲得。’75年『Gメン’75』の関屋一郎警部補役で全国に知られるが、短期降板となった。映画では『蒲田行進曲』や『敦煌』、舞台では蜷川幸雄演出作品など多数出演。『ハウルの動く城』では犬・ヒン役で話題となる。1980年代後半、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』でバラエティにも進出した。

倉田保昭

日本大学卒業後、東映演技研修所第一期生として1966年にテレビドラマ『丸出だめ夫』でデビュー。’71年に香港のショウ・ブラザーズのオーディションに合格し、『続・拳撃悪客』で香港映画デビュー、以降悪役俳優として活躍し、日本では’75~’79年『Gメン’75』で草野泰明刑事役でレギュラー出演。東映製作のカラテ映画や格闘映画で助演・主演を務め、ジャッキー・チェンとの縁で、アジア映画界でアクション俳優として長く活動した。

岡本富士太

1966年に東京芸術座附属演劇研究所を卒業し同年劇団雲に入団、’75年に演劇集団円の会員となる。’74年の『事件狩り』出演を機に『バーディー大作戦』や『Gメン’75』に参加し、初代メンバーの津坂真一刑事役を’75~’77年まで務めた。その後『中学生日記』で美術担当教師・南浩平役(’89~’96年)、東映スーパー戦隊シリーズ『高速戦隊ターボレンジャー』などにも出演。洋画吹き替えでも活躍し、ハリソン・フォードやメル・ギブソンの声を担当した。

谷隼人

1966年、東映入りし『非行少女ヨーコ』で準主演デビュー。和製アラン・ドロンと称され、バイクの腕を活かして「不良番長シリーズ」や「網走番外地シリーズ」、「夜の歌謡シリーズ」などで活躍。’68年から『キイハンター』に主演の一人として出演し人気を獲得し、『アイフル大作戦』『バーディー大作戦』でもレギュラーを務めた。その後はドラマやバラエティで幅広く活動し、’86年から『風雲!たけし城』で攻撃隊長役を務め注目された。

水谷豊

1965年、12歳で劇団ひまわりに入団し、’67年『マグマ大使』で俳優デビュー。’74年萩原健一主演『傷だらけの天使』に出演し注目を集め、以降も『水滸伝』や『東京湾炎上』など映画・ドラマで多彩な役を演じた。’78年『熱中時代(教師編)』で主演し大ブレイク、理想の教師像として社会現象に。俳優として不遇の時期も経験したが、2000年台になってからもドラマ『相棒』主演の杉下右京役で永く活躍を続ける。妻は元・キャンディーズの伊藤蘭。

藤田まこと

(C)放送ジャーナル社『PRエコノミー』9月号(1961)

水谷豊

(C)urasimaru

草刈正雄

(C)Ogiyoshisan

露口茂

1959年、日活映画『逃亡者』でデビュー。その後舞台や映画、テレビで活躍し、悪役から好青年まで幅広く演じる個性派俳優として知られる。’69年には『水戸黄門』第一部で刺客役を演じ、’71年のNHK連続テレビ小説『繭子ひとり』では北川編集長役で人気を博した。’72年から’86年までの13年9か月、刑事ドラマ『太陽にほえろ!』で山村精一警部補(落としの山さん)を演じ代表作となる。以降、約10年間は映画から離れテレビを中心に活動した。

竜雷太

1960年に日本大学藝術学部を中退し、テレビタレントセンター三期生となった。’62年に松竹入社後、’66年、テレビドラマ『これが青春だ』で主演デビューし、同作の役名から芸名「竜雷太」となる。’68年からは『東京バイパス指令』に出演。’72年より『太陽にほえろ!』で石塚誠刑事役を10年間演じ、525話出演、現場では新人教育も担当した。『太陽にほえろ!』降板後は『金曜日の妻たちへ』などで幅広く活躍した。

下川辰平

1954年にラジオ九州の放送劇団に入団し俳優活動を開始。’64年に文学座附属演劇研究所に入所し、’68年に座員に昇格。舞台『飢餓海峡』や『天守物語』などに出演後、’72年より『太陽にほえろ!』で野崎刑事役「長さん」としてレギュラー出演し人気を獲得。刑事役を得意とした。’84年には『スクール☆ウォーズ』で山城晋平校長を演じ、生徒目線の教育者像を示す役柄を演じ、代表作となった。

勝野洋

大学在学中にモデル活動を始め、CM出演を機に俳優の道へ。芸名は本名から「六」を除いて命名。1974年に『太陽にほえろ!』の三上順役で人気を獲得し、計38話に主演。’76年『俺たちの朝』で主演、’78年に映画デビューし、『姿三四郎』などで主演を務めた。時代劇では『柳生あばれ旅』の柳生又十郎や『鬼平犯科帳』の酒井祐助を演じた。’77~’86年には『リポビタンD』CMで宮内淳と名コンビとして人気を博した。妻は元モデルのキャシー中島。

木之元亮

テレビドラマ制作主任だった友人の義兄の勧めで俳協演劇研究所に入り、俳優を志す。1977年、『太陽にほえろ!』の新人刑事役選考中に松田優作が写真を見て推したことから、ロッキー刑事としてデビューし、5年超の当たり役となる。降板後はトレードマークの髭をドラマ内で剃り、映画『ションベン・ライダー』や『真田太平記』などに出演。近年は『ウルトラマンダイナ』で隊長役を務め、旅番組や通販番組でも活動した。

三田村邦彦

アルバイトで生計を立てつつ劇団青俳を受け、1979年に推薦を受けて『限りなく透明に近いブルー』でデビュー。同年、「必殺シリーズ」で飾り職人の秀を演じ、華麗な殺し技と陰影ある佇まいで人気を得る。’82年からは『太陽にほえろ!』でジプシー刑事として活躍。’80年より歌手活動も開始しており、多数の作品を発表、近年はインディーズで活動を再開した。また「城マニア」を自認し、歴史探訪番組でも個性を発揮している。

地井武男

1963年、俳優座養成所15期生として入所し、原田芳雄や林隆三らの同期と学んだ。’66年に卒業後、オンシアター自由劇場の創立に参加し舞台で活躍。その後は映画『斬る』でデビューし社会派大作から日活ニューアクション系まで幅広い作品に出演。善人から冷酷な悪役まで自在に演じる実力派として評価された。’82年から『太陽にほえろ!』に出演し人気を得る。中年期以降は自然体の役柄が増え、2006年開始の『ちい散歩』で“散歩の達人”として親しまれた。

前田吟

1963年に劇団俳優座養成所15期生として俳優活動を始め、’64年に本名でテレビデビュー。’67年に芸名を前田吟に改め、’69年より『男はつらいよ』シリーズで寅次郎の妹さくらの夫・諏訪博役を務め、全50作に出演した。’70年代以降は橋田壽賀子作品や大映ドラマで悪役も演じ、『心』の宮寺順一役などで代表作を築いた。テレビ・ラジオの司会も担当し、歌手活動も行い、近年はバラエティ番組やトーク番組など幅広く活躍。

左とん平

1957年、高校の同級生らと劇団を結成後、冗談工房に入団しバラエティ番組『トリロー・サンドイッチ』に参加。芸名は本名肥田木の「左」と居酒屋の「とん平」から由来する。’60年代後半にはザ・ドリフターズの喜劇映画に出演し、’70年代のテレビドラマ『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』でコメディリリーフとして人気を博した。’73年のギャグ「ヘイ・ユー! ホワッチャー・ネーム?」は流行語となり、レコード化もされた。

石橋正次

高校卒業後に上京し、舞台俳優を志す。1970年、藤田敏八監督に見出され、日活映画『非行少年 若者の砦』で主演デビュー。同年『あしたのジョー』の舞台と映画で主演し、歌手としても『あしたの俺は』でデビューした。’71年には朝ドラ『繭子ひとり』で主人公の生き別れた弟を演じ注目される。歌手としては『夜明けの停車場』が大ヒット。以降、学園ドラマの不良役から刑事役、時代劇、舞台まで幅広い役をこなす名脇役として活躍した。

柴俊夫

獨協大学中退後モデルとして芸能界入り。1970年『ゴールドアイ』で本名の柴本俊夫名義で俳優デビューし、翌年『ゴジラ対ヘドラ』で映画初出演。『ミラーマン』パイロット版や『シルバー仮面』で主演を務め、「柴俊夫」と改名した。『金閣寺』や『愛と誠 完結篇』で幅広い役を演じ、’70年代後半からドラマ主演が続く。’83年『西部警察 PART-III』で「大将」を演じ、必殺シリーズにも参加。司会業やバラエティでも親しまれる存在となった。

石橋蓮司

1954年、中学生で劇団若草に入り『ふろたき大将』で主役デビュー。17歳で東映児童劇団へ移り、大学中退後の’65年に劇団青俳養成所で本格的に演技を学ぶ。青俳脱退後は清水邦夫、蜷川幸雄、蟹江敬三らと現代人劇場を結成し、多くの舞台で演出も手がけた。2008年には東映の若手育成企画「東映大学」の校長に就任。2016年には『ふろたき大将』の役を60年ぶりに再演し話題を呼んだ。2020年『一度も撃ってません』で18年ぶりに長編映画主演を果たした。

小倉一郎

小学生で東映エキストラとなり、9歳で子役として活動を始めた。美空ひばり主演作や『飢餓海峡』に出演し、梅宮辰夫の勧めで東映児童研修所に入る。1964年の日活映画『敗れざる者』で本格デビュー。青年期はテレビ・映画の青春ドラマでナイーブな青年役を多く演じ人気を得た。俳優業と並行し、秋山啓之介名義で童謡を創作し自ら歌唱、のちに俳句に傾倒して河内静魚に師事し、NHKの俳句コーナーも担当する俳人としても知られる。

岩城滉一

1975年『青春讃歌 暴力学園大革命』で俳優デビューし、同年『爆発! 暴走族』で初主演。舘ひろしと共に暴走族映画で売り出され、不良性感度の高い若者文化を芸能界に広めた。’77年に覚醒剤使用と拳銃所持で逮捕され一時活動停止するも、松田優作らの支えで更生。’81年以降は『北の国から』など倉本聰脚本のドラマに出演し人気を回復。’85年にはマキシムコーヒーのCM出演で「最もセクシーな男」と評され、俳優としての地位を確立した。妻はタレントの結城アンナ。

中村雅俊

慶應義塾大学在学中の1973年に文学座附属演劇研究所に入所し、卒業と同時に文学座に入団。’74年『太陽にほえろ!』の出演で俳優デビューし、青春ドラマ『われら青春!』の主役で人気を獲得。挿入歌『ふれあい』は100万枚超を売り上げ、一躍全国的な知名度を得る。以降、テレビドラマ、映画、ミュージカル、CMに出演する一方、歌手としても毎年コンサートを行い活動を継続。’74年映画『ふれあい』で映画デビュー、’75年『俺たちの旅』の主演でさらに人気を拡大した。

草刈正雄

1969年17歳で上京し、’70年に資生堂専属モデルとしてデビュー。甘いルックスと軽快な語り口で人気を集め、’73年ドラマ『トリプル捜査線』で俳優に転向。’74年に東宝専属となり『卑弥呼』で銀幕デビューし、『沖田総司』で新人賞を受賞。’77年、ドラマ『華麗なる刑事』で主演し人気を確立。’80年、大作映画『復活の日』の主役に抜擢され、以降『汚れた英雄』『真田太平記』など幅広い役を演じ舞台にも挑戦した。’90年代以降は悪役や父親役の名脇役として活躍した。

小林稔侍

高倉健に憧れ、第10期東映ニューフェイスに合格して俳優となる。東映のアクション映画や刑事ドラマで殺され役を多くこなし下積みを重ねた後、深作欣二の推薦でピラニア軍団に加わり『新仁義なき戦い』で端役から抜擢を受けるなど評価を高めた。『冬の華』では無言の演技が絶賛され、その後は善人役も増加。1986年の『はね駒』で主人公の父役を務めて転機を迎え、2時間ドラマでは主演作も多く、松本清張作品の常連として確固たる地位を築いた。

村野武範

1969年にNHKドラマ『走れ玩具』で主演デビュー。’71年の映画『八月の濡れた砂』で注目を浴びる。’72年の学園ドラマ『飛び出せ!青春』の熱血教師役で人気を不動のものとした。以後、映画・テレビドラマ・バラエティ・CMなど多方面で活躍し、’88~’90年には料理番組『くいしん坊!万才』の七代目くいしん坊も務めた。また、フジテレビの『ゴールデン洋画劇場』ではブルース・ウィリスの専属吹き替えを担当し、声優としても高い評価を受けた。

藤木孝

1959年、歌手としてデビューし、卓越した歌唱とダンスでツイスト・ブームを牽引、「ツイスト男」と呼ばれ人気を博した。’62年に歌手引退を宣言し俳優へ転身。文学座研究生を経て劇団欅の結成に参加、舞台で演技力を磨いた。’74年に藤木敬士へ改名後『夜明けの刑事』などで活躍の幅を広げる。歌手経験を活かしミュージカルに多数出演するとともに、特異な存在感で悪役や怪優としても評価され、菊田一夫演劇賞や紀伊國屋演劇賞など受賞歴も豊富。生前はホリプロ所属で異色のキャリアを歩んだ実力派俳優。

沖雅也

1968年16歳でスカウトされ、日活映画で銀幕デビュー。’69年にエランドール新人賞を受賞し、松竹移籍後は『さぼてんとマシュマロ』などで主演や準主役を務め、’73年、ドラマ『必殺仕置人』の棺桶の錠役で注目を集める。’76年から『太陽にほえろ!』でスコッチ刑事役として人気を獲得した。俳優として将来性を期待されつつも、躁うつ病や過密スケジュールに悩まされ、’83年6月28日、東京都新宿区のホテルから飛び降り自殺し、31歳で生涯を閉じた。

田中健

高校時代にバンドでベースを担当し、卒業後は博多のナイトクラブでR&B演奏に従事。1972年に「あおい健」として歌手デビュー後、事務所倒産を経て俳優に転身し、田中健の芸名で活動を開始。’74年の連続ドラマ『春のもつれ』で俳優デビューし、『俺たちの旅』など青春映画やテレビで若者の葛藤を演じ人気を博す。年齢を重ねるにつれ陰影ある演技で存在感を示すバイプレイヤーとしても評価される。1990年以降はケーナ奏者としても活動。

津坂 匡章(秋野太作)

俳優座出身。1967年、木下恵介劇場『記念樹』(TBS)で俳優デビュー。旧芸名は津坂 匡章。秋野太作に改名する前から放送開始された’75年のテレビドラマ『俺たちの旅』で女性にモテる“グズ六”役を演じ人気を得る。俳優座時代から女性ファンが多く、『男はつらいよ』シリーズにも出演した。独特のキャラクターで知られ、バラエティ番組や旅番組にも積極的に出演し、明石家さんまを驚かせる存在感を発揮。娘・早紀との共演も多い。

森川正太

小学5年で劇団こまどりに入り、子役として活動を始めた。高校はドラマ出演で登校できず留年を告げられ中退。代表作『おれは男だ!』には子役時代の劇団の推薦で出演し、剣道未経験ながら森田健作の指導で初段程度まで上達した。1975年の青春ドラマ『俺たちの旅』では、カースケらと同じ下宿に住む東大志望の浪人生・浜田大造(ワカメ)役で人気を得る。その後も青春ドラマを中心に親しみある若者像を演じた俳優として知られる。

宮内洋

『仮面ライダーV3』の主演はオーディションではなく候補者リストから選ばれて内定した。『キイハンター』ロケ中に突然呼び出され、面接と知らずにふてぶてしい態度をとったことが豪胆さと受け取られ、起用につながった。千葉真一から学んだアクション理論を武器に、変身前の動きを増やすよう積極的に提案し、普通の俳優にはできないスタントにも挑んだ。「ヒーロー番組は子供達に正義の心を教える教育番組」という信念を貫く人物である。

1970

山岡久乃

1942年に宝塚音楽舞踊学校へ入学するが戦時下で舞台に立たないまま中退。終戦後に俳優座養成所で学び直し、’46年に俳優座入りし初舞台を踏む。1954年に青年座を結成し日活映画でも活躍。’60年代は映画とテレビの両方で脇役として存在感を示し、’70年のテレビドラマ『ありがとう』で母親役が支持され、「お母さん女優」として不動の地位を築く。以後多くのホームドラマで温かい母親像を演じ「日本のお母さん」として親しまれた。

菅井きん

1946年に東京芸術劇場の研究生に応募し、翌年『林檎園日記』で初舞台を踏む。芸名は作者・久保栄による命名。その後俳優座に入り舞台経験を積み、’51年に映画『風にそよぐ葦』でデビュー。’59年に俳優座を退団後は、にんじんくらぶや劇団欅を経て映像作品にも活動を広げた。’73年『必殺仕置人』で中村主水をいびる姑・中村せん役を演じ人気を確立し、必殺シリーズに欠かせない存在となる。憎々しさを研究して作り上げた当たり役で広く知られた。

吉行和子

1954年に女子学院高等学校を卒業し民藝付属研究所に入所。’55年に初舞台と映画デビューを果たし、’57年に民藝所属となる。『アンネの日記』で主役を得るが端役が続く中、’59年に日活と契約し助演賞を受賞。’69年に独立後は舞台・映画で評価を高め、’78年『愛の亡霊』で日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞。文筆でも受賞歴を持つ。結婚と離婚を経験し、その後は独身。舞台は2009年のアンコール公演で一区切りとし、2025年に肺炎で死去した。

江波杏子

1960年に映画『明日から大人だ』でデビュー。芸名は母の芸名と室生犀星の小説『杏っ子』に由来する。初期は悪女役や情婦役の助演が続いたが、’66年『女の賭場』で代役として主演した胴師役が当たり大ヒット。「女賭博師シリーズ」は17本に及び、当たり役として名を広めた。大映倒産後の’73年、『津軽じょんがら節』でキネマ旬報主演女優賞を受賞し、日本的な女の顔と魔性的な魅力が結実した代表作と評価された。

緑魔子

台湾に生まれ宮崎で育ち家計を支えながら学び、上京後にNHK演技研究所を経て1963年に東宝のニュータレントとなる。’64年『二匹の牝犬』で大胆な演技を見せ初主演し新人賞を受賞。「小悪魔路線」の個性派として人気を得る。その後他社映画で個性を発揮し『盲獣』など芸術性の高い作品にも出演した。’70年代にはアングラ演劇へ傾倒し、石橋蓮司と劇団「第七病棟」を設立。独特の倦怠感と虚無性を湛えた演技で“無気力演技派”の源流とされた。

岸田今日子

1960年『サロメ』で主役に抜擢され、三島由紀夫演出作に多数出演して舞台女優として頭角を現す。映画では『破戒』で助演女優賞を受賞し、『砂の女』で初主演して国際的に高い評価を得る。市川崑作品の常連として存在感を示し、『この子の七つのお祝いに』での怪演も話題となった。テレビでも『男嫌い』『傷だらけの天使』などの人気ドラマで強烈な存在感を示し、硬軟自在の個性派として広く知られた。

倍賞千恵子

幼少期から「のど自慢」荒らしとして知られ、1954年に歌手デビュー。その後松竹音楽舞踊学校に進み、’60年に首席卒業してSKD入りすると早くから逸材と注目された。’61年に松竹にスカウトされて映画界デビュー。’63年『下町の太陽』で主演して庶民派女優としての地位を確立し、同作でレコード大賞新人賞を受賞するなど歌手としても人気を得た。以後山田洋次作品の常連となり『男はつらいよ』シリーズの妹さくら役で国民的存在となった。

小林千登勢

京城府に生まれ、戦後に福岡へ引き揚げ、その後東京に移った。共立女子高等学校卒業後に文学座研究生となり、1958年にNHKと専属契約を結ぶ。清純さと哀愁を帯びた美貌で人気を集め、馬渕晴子・冨士眞奈美とともに「NHK三人娘」と呼ばれ、テレビ草創期を代表する存在となった。’65年に山本耕一と結婚し、’72年に一人娘を出産。フリー後もテレビで活躍し、『ヒントでピント』では13年間レギュラーとして親しまれた。

大空眞弓

東洋音楽短期大学在学中に歌舞伎座前でスカウトされ、1958年に新東宝へ入り『女王蜂』でデビュー。その後は東京映画へ移籍し『駅前シリーズ』などの喜劇で活躍する。’64年『愛と死をみつめて』で不治の病に挑む大島みち子役を演じ、大ヒットとともにお茶の間の人気を確立した。以降、石井ふく子作品の常連となり『ありがとう』など多くのテレビドラマで親しみあるヒロイン像を築く。清楚さと芯の強さを併せ持ち、昭和期の家庭劇を支えた存在だった。

江波杏子

(C)Daiei Motion Picture Company

緑魔子

(C)国際情報社 - 『映画情報』1965年2月号

岸田今日子

(C)婦人生活社 - 『婦人生活』1954年9月号

倍賞千恵子

(C)桃園書房 - 『小説倶楽部』1962年3月号

太地喜和子

1959年、東映ニューフェイス第6期に合格し、志村妙子名義で映画出演を始めた。’63年に東映を離れて俳優座養成所に入りのちに文学座へ。舞台女優として杉村春子の「後継者」と期待される一方、’67年『花を喰う蟲』などで体当たりの演技を見せ注目を集めた。ドラマ『白い巨塔』などでも存在感を示す。私生活では恋多き女として知られるが、生涯独身を貫き女優として生きることを選んだ。晩年は緑内障に苦しみ、’92年に公演中の事故で48歳で死去した。

悠木千帆(樹木希林)

悠木千帆(のちの樹木希林)は1961年、文学座付属演劇研究所の一期生として入所。父が考えた芸名で活動を始め、杉村春子の付け人として小津安二郎『秋刀魚の味』の撮影にも同行。’64年、森繁久彌主演のテレビドラマ『七人の孫』で人気を得る。文学座には正座員となるも’66年に退団。以降、向田邦子作品や久世光彦演出作などで個性派として存在感を発揮し、’70年『時間ですよ』、’74年『寺内貫太郎一家』で全国的な人気を確立した。

富司純子

1963年、東映京都撮影所でマキノ雅弘にスカウトされ映画デビューした。’67年に『尼寺㊙物語』で初主演、翌’68年『緋牡丹博徒』で緋牡丹のお竜役に抜擢され、任侠路線の看板女優として一躍スターの地位に就く。シリーズは大ヒットし、東映を代表する存在となった。’72年、尾上菊之助(現・七代目菊五郎)と結婚し一度引退するが、’74年に寺島純子名義で『3時のあなた』司会として復帰し、のちに女優業にも戻った。

倍賞美津子

1965年、松竹音楽舞踊学校卒業後、松竹歌劇団第18期生として舞台デビュー。’67年、『純情二重奏』で映画デビュー。’71年にアントニオ猪木と結婚、旗揚げ戦にも貢献する。’79年、『復讐するは我にあり』でヌードを披露しブルーリボン助演女優賞を受賞、都会的な女の情念を演じ独自の世界観を確立。’88年離婚後も女優業を継続し、’97年に直腸がんで手術。2002年、『OUT』などで田中絹代賞を受賞するなど、舞台・映画・テレビで幅広く活躍した。

大原麗子

1962年に芸能界入りし、’64年『幸福試験』でテレビデビュー。’65年東映入社、’71年に渡辺プロに移籍、以降はテレビドラマで「しっとりとした日本的美人」を演じ、『春日局』では平均視聴率32.4%を記録。映画『男はつらいよ』ではマドンナ役を2度務め、存在感ある演技力で橋田壽賀子や石井ふく子からも高く評価された。「すこし愛して、ながーく愛して」のセリフで知られるサントリーレッドのCMでも10年間にわたり親しまれた。

中原ひとみ

共立女子高等学校を中退後、東映ニューフェイス第1期生として入社し、1954年『魚河岸の石松 女海賊と戦う』でデビュー。『純愛物語』で原爆後遺症に苦しむヒロインを演じ高い評価を受け、’58年にはベルリン国際映画祭で同作が銀熊賞を受賞して国際的注目を集めた。’60年代初頭まで東映現代劇の看板女優として活躍し、江原真二郎と結婚。以後はテレビドラマに活動の中心を移し、家族4人で出演したライオン歯磨の長期CMでも広く親しまれた。

岡田可愛

中学2年で『キューポラのある街』に出演して映画デビュー。続くテレビドラマ『青春とはなんだ』では明るくお転婆な女生徒役で人気を確立。以後、学園シリーズに132本連続出演し、“皆勤賞女優”として親しまれた。1969年には国民的ドラマ『サインはV』で主役に抜擢され、スポ根ブームの象徴的存在となる。のちに結婚・出産を機に女優業を一時離れ、アパレル事業へ転身したが、人気タレントとしてバラエティ出演も続けた。

范文雀

東京都中野区に生まれ、広島市で育った台湾籍の俳優で、中国語は話せなかった。幼少期に父が帰国し、母と兄とともに広島の祖父母宅で育つ。清泉女子大学英文別科を経て上智大学を中退。’68年『特別機動捜査隊』でデビューし、『サインはV』のジュン・サンダース役で人気を得る。続く『アテンションプリーズ』でも注目され、寺尾聰との結婚・離婚を経て復帰。映画『野良猫ロック』シリーズや『Gメン’75』などで幅広く活躍した。

榊原るみ

幼少期から雑誌モデルや子役として活動し、舞台・テレビ・映画で幅広く活躍した女優。1970年代前半に『男はつらいよ 奮闘篇』やテレビドラマ『帰ってきたウルトラマン』のヒロイン役、『気になる嫁さん』などへの出演で人気を獲得した。父は芝浦工業大学名誉教授の榊原秋策。娘の松下恵も女優で、2001年に映画監督すずきじゅんいちと再婚し、彼の監督作『ひとりね』では従来の清純派像を覆す役柄にも挑戦した。

柏木由紀子

高校2年時に松竹映画『明日の夢があふれている』(1964年)で映画デビューし、翌年『若い真珠』で歌手としてもデビューした。玉川学園短期大学を中退後、ドラマ『東京の人』のヒロイン起用を機に東宝テレビ部に所属し、テレビドラマを中心に活躍。’69年『炎の青春』、’70年『細うで繁盛記』で人気を確立した。’71年に坂本九と結婚し活動を抑えつつ福祉活動に尽力。’85年の夫の死後は女優業に加え講演活動も行っている。

早瀬久美

映画『紀ノ川』の端役で銀幕デビューし、1968年にフジテレビ系ドラマ『お嫁さん』で初主演を果たした。1971年、日本テレビ系『おれは男だ!』でヒロイン吉川操役を演じ、作品の大ヒットとともに代表作となる。以後、多くのテレビドラマで活躍し、’75年には毎日放送『奥さん2時です』の司会も務めた。’78~’79年は早瀬久美子と改名。’80年に結婚し渡米、女優業を離れるが、帰国後は陶芸教室を主宰し地震研究にも関心を示している。

秋吉久美子

高校3年生時にラジオで知った松竹映画のヒロインオーディションを受け、本名で『旅の重さ』に出演して芸能界入り。その後、赤福もちのCMで活動開始。1973年、『十六歳の戦争』で本格映画デビューし、’74年『赤ちょうちん』で注目を集めた。以降、『妹』『バージンブルース』などで人気を確立し、’70年代のシラケ世代を代表する存在となる。’79年に青い三角定規のメンバーで作曲家の岩久茂と結婚。出産で一時休業後も復帰し、女優活動を続ける。

沢田雅美

1964年、10代半ばでTBSオーディションに合格し『ただいま11人』でデビュー。若手時代から石井ふく子プロデュース作品に常連出演し「石井組」の一員として知られた。’67年『泣いてたまるか』や’80年『心』の沢木三和役で評判を得る。’94年に表舞台から姿を消すも、2005年『渡る世間は鬼ばかり』第7シリーズで復帰し、ドラマ・舞台・バラエティで活躍。日本舞踊・華道の師範、小唄・書道名取でもある。

梶芽衣子

1965年、日活から本名太田雅子で映画デビュー。『青春前期 青い果実』主演を経て、’69年芸名を梶芽衣子に改名し注目される。’70年『野良猫ロックシリーズ』で人気を獲得後、’72年に東映へ移籍し『銀蝶シリーズ』『女囚さそりシリーズ』で不動の地位を確立。特に『女囚さそり』では演出を自ら提案するなど独自性を発揮した。東映退社後も『修羅雪姫シリーズ』など各社で主演し、国内外で高い評価を受け、タランティーノら海外監督にも影響を与えた。

中山麻理

1960年代後半からクールな美貌と成熟した雰囲気で活躍した女優。’66年に東宝演芸部へ入り、’68年『兄貴の恋人』で映画デビューしてエランドール新人賞を受賞。翌年『不信のとき』で初舞台を踏み、TBSドラマ『サインはV』で広くお茶の間に知られる存在となった。’80年に三田村邦彦との結婚を機にいったん引退。離婚後の’99年から芸能活動を再開し、再び女優としての道を歩んだ。

桃井かおり

1971年、市川崑監督『愛ふたたび』で映画デビュー。文学座養成所を退団後、ATG映画やNHKドラマに出演し、’75年『前略おふくろ様』で人気を獲得。’77年『幸福の黄色いハンカチ』で助演女優賞を受賞し、’79年『もう頬づえはつかない』で映画初主演を果たす。その後監督業にも挑戦し、2008年には紫綬褒章を受章。近年は女優活動に加え、ジュエリーデザインや雑誌創刊など多方面で活動している。

中田喜子

17歳でミス・エールフランスコンテスト入賞をきっかけに芸能界入り。芸名はコンテスト主催の旺文社による一般読者審査で決定した。1974年にシングル『私は天使じゃない』で歌手デビューし、同年ドラマ『四季の家』で女優デビュー。76年以降、『俺たちの朝』などのドラマでアクティブなヒロイン役を演じ脚光を浴び、時代劇やバラエティ番組にも出演。自動車A級ライセンスを活かし、『太陽にほえろ!』などで運転シーンを披露。また、ル・マン24時間レースの広報や、「長谷川憩世」名義での作曲活動も行った。

金沢 碧

東京家政学院高等学校卒業後、精神科医を目指していたが、オーディションをきっかけに芸能界入りを決意。1975年、テレビドラマ『北都物語』でヒロイン・布部絵梨子役に選ばれデビューし、同年『東京湾炎上』で映画初出演。『俺たちの旅』ではカースケに想いを寄せるヨーコ役で人気を得た。知性と容姿を兼ね備え、柔軟な姿勢で演技に臨む姿勢が評価された。

樹木希林

(C)Andriy Makukha (Amakuha)

大原麗子

(C)国際情報社 - 『映画情報』1965年4月号

風吹ジュン

(C)Dick Thomas Johnson from Tokyo, Japan - Fubuki Jun from "Spirit World" at Red Carpet of the Tokyo International Film Festival 2024

高橋惠子

(C)Dick Thomas Johnson from Tokyo, Japan - Takahashi Keiko from "DOOR" at Red Carpet of the Tokyo International Film Festival 2022

山口果林

お茶の水女子大学附属中高、桐朋学園短大卒業後、俳優座に入団。1970年、森川時久監督の『若者の旗』で映画デビューし、同年NHK長編ドラマ『繭子ひとり』で150人の中から主役に選ばれ好演。’79年にフリーとなり、テレビドラマや映画、舞台で活動。芸名は恩師・安部公房の助言で「果林」を選択し、努力を重ねる生き方に合った名として用いている。熱中時代 第2シリーズや2時間ドラマなどでも活躍した。

紀比呂子

高校在学中の1966年に日本テレビにスカウトされ、’69年にドラマ『風の中を行く』で初出演。’70年公開の『地の群れ』で準主役を務め、『時間ですよ』や『アテンションプリーズ』で人気を博した。以後、青春ドラマを中心にテレビ・舞台で活躍。’82年に結婚・富山移住を機に引退し、石川県金沢市で家庭を築いた。後に東京に戻り、2002年から金沢家庭料理の小料理屋「はく」を経営し女将を務め、2019年に閉店した。

長谷直美

1971年にクラウンレコードから歌手としてデビューし、翌年『お祭り銀次捕物帳』で俳優としても活動を始めた。『仮面ライダー』出演を経て、’74年の昼ドラ『やっちゃば育ち』でヒロインに抜擢される。その後は石井ふく子・橋田壽賀子作品の常連となり、とくに『渡る世間は鬼ばかり』では三女・文子役を20年以上にわたって演じ、代表作となる。NHKの『連想ゲーム』紅組キャプテンとしても長く親しまれた。

岡崎友紀

1961年、8歳で舞台『そばかすまり子の恋物語』でデビューし、その後ブロードウェイミュージカル日本初演やテレビドラマに出演。’68年NHK『あねいもうと』で主演し全国的に知られるようになった。’69年以降はバラエティ番組司会や歌手活動も開始。’70年のTBS『おくさまは18歳』で学園ラブコメディのヒロインを演じ人気を確立し、同作を含む「18歳シリーズ」や主題歌の作詞でも活躍。’70年代前半から中盤にかけて国民的アイドルとして高い支持を得た。

風吹ジュン

1970年、銀座の高級クラブでホステスとして働いていた際にスカウトされ、芸名は「風に吹かれたように出てきたから風吹」「6月(June)にハワイで風が強く吹いていたからジュン」と命名。’73年に初代ユニチカマスコットガール、’74年に歌手デビューするが、スキャンダルや二重契約問題で清純派イメージを失う。’77年映画初出演後、ヌードや濡れ場を辞さず演技力を発揮。女優として高い評価を受けるとともに、現在もCMを含め多方面で活躍を続ける。

夏樹陽子

短大在学中にスカウトされファッションモデルとして3年半活躍した後、女優転身を目指し1977年に映画『空手バカ一代』でヒロインとしてデビュー。モデル時代の立ち居振る舞いを女優用に修得するのに苦労しつつも東映に入社。エキゾチックな美貌を生かし、映画やテレビドラマに出演。代表作には土曜ワイド劇場、ザ・ハングマンシリーズ、大江戸捜査網 第3シリーズなどがあり、お茶の間にも広く知られる女優となった。

宇津宮雅代

文学座付属演劇研究所第8期生として俳優座に入団。1968年の『お庭番』でテレビドラマデビューし、’70年代から’82年まで『大岡越前』『水戸黄門』『鬼平犯科帳』などの時代劇やテレビドラマで活躍。’82年に一度引退し渡英、’90年代にイギリスでガラス・染色・テキスタイルを学ぶ。2000年に芸能界に復帰し、以降も『温泉若おかみの殺人推理』『おみやさん』『ドクター・ヨシカの犯罪カルテ』などのドラマやサスペンスで活躍を続ける。

坂口良子

1971年、15歳でミス・セブンティーンコンテスト優勝をきっかけに芸能界入り。’72年に歌手デビューし、同年フジテレビ「アイちゃんが行く!」で女優デビューを果たす。’70年代には「サインはV」「前略おふくろ様」「池中玄太80キロ」などで人気を博し、アイドル的存在としてテレビ界で活躍。石井ふく子プロデュース作品にも多数出演し「石井組」の一員とされた。’70年代後半からは市川崑作品を中心に映画にも進出し、『帰って来た若大将』では準主演を務めるなど、テレビと映画の双方で高い評価を得た。2013年、横行結腸癌および肺炎で57歳で死去した。

松岡きっこ

幼少期から劇団若草に在籍し、子役として活動。1958年に東映児童演技研修所に入所。’63年、高校在学中に『武士道残酷物語』で初の大役を務めた。その後、『吸血髑髏船』やクレージーキャッツ作品、海外映画『007は二度死ぬ』にも出演。『アイフル大作戦』『バーディー大作戦』ではコミカルな演技を披露し、バラエティ番組や旅番組にも出演。’66年にはグラビアで美貌を紹介されるなど多方面で活躍した。’81年、谷隼人と結婚。

高橋惠子

中学時代から大人びた容貌で注目され、卒業と同時に大映へ入社。1970年に関根恵子名義で『高校生ブルース』主演デビューし、『おさな妻』で新人賞を受賞する。大映倒産後は東宝へ移り、『太陽にほえろ!』の婦人警官シンコ役で人気を確立した。’70年代後半に心身の不調で休業と失踪騒動を経験するが’80年に復帰。’82年『ラブレター』が大ヒットし、同年に高橋伴明と結婚して高橋惠子に改名。以後は成熟した役どころで活動した。

松坂慶子

韓国人の父と日本人の母のもとに生まれ、幼少期から読書や朗読、クラシックバレエにを好む。1966年に「劇団ひまわり」に入り、翌年テレビ初出演。’68年『ウルトラセブン』で注目され、大映にスカウトされ映画デビュー。’70年『おくさまは18歳』などで人気を得る。’71年に映画初主演。大映倒産後は松竹へ移籍し、1973年『国盗り物語』の濃姫役で広く知られる。1978年『事件』で清純派を脱し、翌年『水中花』でトップ女優としての地位を確立した。

大竹しのぶ

1973年、フォーリーブス・北公次主演のドラマ『ボクは女学生』で一般公募に合格し芸能界デビュー。’82年にディレクターの服部晴治と結婚し長男をもうけるが、’87年に夫が死去。’86年のTBSドラマ『男女7人夏物語』で明石家さんまと共演し人気を博し、後に結婚して長女IMALUを出産。’92年に離婚し子どもたちの親権を持った。歌手としても活動し、『かまっておんど』が広い世代にヒットした。

原田美枝子

1974年、家城巳代治監督の『恋は緑の風の中』で正式デビュー。高校在学中にヌード出演が問題となり夜間高校に転校。’76年には『大地の子守歌』『青春の殺人者』で注目され、キネマ旬報ベスト・テン主演女優賞を受賞。以降、黒澤明『乱』など名監督作品に出演し、多くの映画賞を獲得。自身で製作・主演・脚本を手がけた『ミスター・ミセス・ミス・ロンリー』や、’86年刊行の少女小説『愛しのハーフ・ムーン』も映画化されるなど多才な活動を展開した。

烏丸せつこ

1979年、6代目クラリオンガールに選ばれ芸能界デビュー。デビュー直後からCFやポスターでセミヌードを披露し、日本人離れしたプロポーションとあどけない表情で注目を集めた。女優としては『四季・奈津子』で初主演。大河ドラマ『功名が辻』や『スカーレット』などでテレビ出演を続け、2014年には舞台『ジュリエット通り』で本格的に舞台デビュー。私生活では’82年に田中寿一と結婚、’92年に自己破産後離婚し、2014年に再婚した。

その他各界 > 1960年代

1980年代 1970年代 1960年代 1960年代は昭和35年から昭和44年にあたり、高度経済成長期の真っただ中。テレビ、洗濯機、冷蔵庫といった「三種の神器」が普及し、インスタント食品も登場して生活は急速に近代化した … 続きを読む

その他各界 > 1970年代

1970年代は昭和45年から昭和54年にあたり、高度経済成長がオイルショックで終わりを迎え安定成長期へ移行した。都市部では高層ビルとマンションが増え、生活様式が大きく変化。若者文化の中心は新宿から渋谷へ移り、パルコの開店がその象徴となった。特撮ブームが巻き起こり『仮面ライダー』が人気を獲得。国内旅行が盛んになり、アンノン族などの言葉が生まれる。ゲーム機『スペースインベーダー』が新しい娯楽として普及した。ファッションはジーンズやベルボトム、長髪が定番化し、芸能ではキャンディーズ、沢田研二、ピンク・レディーらが時代を席巻。プロレス界では猪木と馬場が人気を二分し、女子プロレスも注目を浴びた。

─ 各界の主な人物 (順不同) ─

横井庄一(陸軍軍人)

元日本陸軍軍人で、第二次大戦後も グアム島 のジャングルに28年間潜伏し続け、1972年に発見・帰国した「残留日本兵」として知られる人物。帰国当時57歳だった。その帰国を機に一躍注目され「恥ずかしながら帰ってまいりました」という言葉は話題となった。

小野田寛郎(陸軍軍人)

旧日本軍の少尉で、終戦後もフィリピン・ルバング島に残留し、1945年から'74年まで約29年間にわたって抵抗を続けた“最後の日本兵”。1974年に帰国後はブラジルで牧場経営や自然塾開設などを行った。

犬養道子(慈善家ほか)

元総理大臣のた犬養毅の孫で、慈善活動や小説家として知られる。NHKのニュース解説員も務めた。タレントの安藤和津は異母妹。

岡田茂(実業家)

老舗百貨店である三越の社長を10年間務め「流通界の革命児」と呼ばれた。ワンマン経営により「岡田天皇」と呼ばれたが、1982年に愛人・竹久みちと起こした背任行為「三越事件」により社長を解任された。

桂小金治(落語家ほか)

1947年に2代目桂小文治へ入門し落語家となる。次代の名人候補として将来を嘱望されるが、川島雄三の要請を受け映画俳優へ転身。昭和中期以降、映画やテレビドラマ、バラエティ番組に幅広く出演し、とりわけワイドショーの名司会者として知られた。'75年には日本テレビのバラエティ番組『それは秘密です!!』で司会を担当し、「ご対面コーナー」で感極まり涙する姿が視聴者の共感を呼び、「泣きの小金治」と称され親しまれた。

堤清二(実業家ほか)

1927年生まれの実業家・作家・詩人で、父の死後にセゾングループを率い、西武百貨店を軸に、西友、無印良品、パルコなどを傘下に収め、「生活総合産業」として流通と文化を融合させた。

堤義明(実業家)

1964年から西武グループの経営を引き継ぎ、ホテル・鉄道・レジャーなどを拡大した。'87年には世界一の富豪と称され、プロ野球球団やスポーツ振興にも関与した。

周防郁雄(バーニングプロダクション創業者)

日本の実業家・芸能プロモーターで、バーニングプロダクション を1971年に創業。郷ひろみや小泉今日子ら多くの人気タレントを抱え、長らく「芸能界のドン」と呼ばれる。

角川春樹(編集者ほか)

日本の出版業界と映画界を変えた実業家・映画プロデューサーで、1975年に父を継ぎ角川書店の社長に就任。以後、出版と映画を連動させる「メディアミックス」戦略で数々のヒット作を生み出し、エンタメ界の旗手となった。

池波正太郎(時代小説家)

日本を代表する時代小説作家。1923年東京浅草生まれで、元は都庁職員や演劇脚本家だった。'60年に『錯乱』で直木三十五賞を受賞し、『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』などの“三大シリーズ”で絶大な人気を博した。人情味あふれる筆致と読み応えあるストーリーで、多くが映像化され、没後も色褪せぬ評価を受けている。

向田邦子(脚本家)

日本のテレビ脚本家・小説家・エッセイスト。『寺内貫太郎一家』『七人の孫』『阿修羅のごとく』など数々の人気ドラマを手がけ、1980年には短編集で直木賞を受賞。'81年、飛行機事故で51歳の若さで逝去し、没後も「家庭劇の旗手」として高く評価され続けている。

西村京太郎(小説家)

日本を代表する推理作家で、「寝台特急殺人事件」をはじめ鉄道や旅を舞台にしたトラベルミステリーで人気を博した。「十津川警部」シリーズなど多数のベストセラーを生み出し、江戸川乱歩賞や日本推理作家協会賞などを受賞。推理小説界の重鎮であった。

小松左京(小説家)

大阪生まれの日本を代表するSF作家。1962年にデビューし、'73年の『日本沈没』で大ブームを起こす。『首都消失』など多数の SF 長編で、SF文学の地位確立に貢献した。

山村美紗(小説家)

「京都」を舞台にしたミステリーを多数執筆し、“ミステリの女王”と呼ばれた。1967年ごろから執筆を始め、'74年にデビュー。'83年『消えた相続人』で日本文芸大賞を受賞。作品の多くがドラマ化され、'60〜'90年代のテレビでも大きな人気を得た。'96年に急逝。

平岩弓枝(小説家)

1959年に『鏨師』で第41回直木賞を受賞。代表作に時代小説『御宿かわせみ』シリーズや『はやぶさ新八御用帳』などがあり、テレビドラマの脚本も多数手掛けた。多彩な作品群で高く評価され、2016年に文化勲章を受章した。

森村誠一(小説家)

日本の社会派ミステリーの巨匠。1969年の『高層の死角』でデビューし、'76年の『人間の証明』で大ベストセラーを記録。その後も『悪魔の飽食』など社会問題に切り込む作品を発表し、多くが映像化された。2023年、肺炎により90歳で死去した。

渡辺淳一(小説家)

北海道出身の元医師で、1965年から小説家として活動を開始。'70年に『光と影』で直木賞を受賞し、'97年の『失楽園』で社会現象とも呼ばれる大ベストセラーを生み出した。50作以上を世に送り出し、性愛や人生の本質を描く作風で知られた。

半村良(小説家)

1933年生まれの日本のSF・伝奇小説作家。本名は清野平太郎。'71年に『石の血脈』でデビューし、伝奇SFという新ジャンルを切り拓いた。代表作に『戦国自衛隊』『産霊山秘録』『妖星伝』など。'75年に『雨やどり』で直木賞を受賞し、'88年には日本SF大賞を受けた。2002年に68歳で没したが、その独創的な世界観は今も評価され続けている。

筒井康隆(小説家)

1934年大阪生まれの日本の小説家・劇作家。'60年代からSFやユーモアを融合した作品で活躍し、『時をかける少女』『日本以外全部沈没』などで知られる。大胆な設定と文体で「SF御三家」の一角に数えられ、多数の文学賞を受賞。

倉本聰(脚本家ほか)

日本の脚本家・劇作家。東京大学卒業後に脚本家となり、代表作に『北の国から』『前略おふくろ様』など国民的ドラマを数多く手がけた。1977年に北海道富良野へ移住し、'84年に脚本家・俳優養成機関「富良野塾」を創設。自然と人間の営みを見つめる作品群で長年にわたって支持され続けている。

山田太一(脚本家ほか)

テレビドラマ脚本家・小説家。早稲田大学卒後、松竹で助監督を経て1965年にフリーへ転向。以降、「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」など多数の名作ドラマを脚本し、日本のテレビドラマ史に大きな足跡を残した。

堺屋太一(政治家・小説家ほか)

通産省で大阪万博を企画した後に作家へ転じ、『団塊の世代』などで社会に影響を与えた評論家・小説家。博覧会プロデューサーや経済企画庁長官としても活躍し、日本の政策・文化に広く関与した。

桐島洋子(ノンフィクション作家)

東京生まれの作家・エッセイスト。文藝春秋記者を経て、未婚の母としての体験や米国放浪記を著し注目され、『淋しいアメリカ人』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。女性の生き方を示す著作を多く残し、70歳以降は私塾も主宰した。

片岡義男(小説家)

小説家・エッセイスト・評論家・翻訳家・写真家として幅広く活躍。1974年『白い波の荒野へ』で小説家デビュー、翌年『スローなブギにしてくれ』で新人文学賞を受賞。恋愛・オートバイ・アメリカ文化などを描きつつ多ジャンルで活動した。

村上春樹(小説家)

日本を代表する現代作家で、1979年『風の歌を聴け』で作家デビュー。'87年『ノルウェイの森』で大ブレーク、その後も『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』など国際的ベストセラーを連発。幻想と現実が交錯する独自の作風で世界50か国語以上に翻訳され、多くの文学賞を受賞し、世界的な人気を誇る作家である。

村上龍(小説家)

1976年に『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞を獲得し小説家デビュー。その後、『コインロッカー・ベイビーズ』などで注目され、多作と革新的な作風で日本文学の第一線を走る。映画監督やエッセイ、社会評論でも活躍し、現代日本文化に強い影響を与えた作家。

栗本薫(小説家・評論家)

1977年に評論家として、'78年に小説家としてデビュー。代表作には大河ファンタジー『グイン・サーガ』をはじめ、SF・ホラー・ミステリー・耽美小説など約400冊の著作がある。多ジャンルを自在に書き分ける多才な“娯楽文学の旗手”だった。

岡本太郎(芸術家)

日本を代表する前衛芸術家。絵画・彫刻・壁画・デザインなど多ジャンルで活動し、1970年の大阪万博で展示された太陽の塔 は彼の代表作として知られる。西欧と日本文化の両面を吸収し、「芸術は生活だ」と説いて伝統にも革新にも囚われない創造を追求した。

池田満寿夫(画家ほか)

画家・版画家・陶芸家・小説家・映画監督など多才なマルチアーティスト。1965年にニューヨーク近代美術館で個展開催、翌年のヴェネツィア・ビエンナーレで国際賞受賞。'77年に小説『エーゲ海に捧ぐ』で芥川賞を獲得、映画化も自ら手がけた。

立木義浩(写真家)

日本を代表する写真家。1965年の作品『舌出し天使』で写真界に衝撃を与え、'69年からフリーで雑誌・広告・出版など幅広く活躍。女性ポートレートやスナップを中心に、『GIRL』『私生活/加賀まりこ』『家族の肖像』など数多くの写真集を発表し、現代日本写真の礎となった。

篠山紀信(写真家)

1940年東京生まれの写真家。'68年からフリーランスとして活動を始め、「激写」シリーズやアイドル・著名人のポートレートで一世を風靡。宮沢りえの写真集「Santa Fe」は155万部を売り上げるベストセラーとなり、日本の写真界を牽引した存在である。

丹下健三(建築家)

1913年生まれの建築家で、戦後に広島平和記念公園の再建や代々木国立競技場、東京カテドラル聖マリア大聖堂などを設計。'60年代から世界各地で都市計画や建築を手がけ、“世界のTange”と称された。'87年にプリツカー賞を受賞。

黒川紀章(建築家)

「中銀カプセルタワー」などメタボリズム建築を代表する作品を手がけた。都市のありようを根本から問い、「近代建築の弊害」を批判しながら、未来的で実験的なデザインによって建築の新しい可能性を提示した。

宮崎駿(アニメ監督ほか)

1941年東京生まれのアニメ作家・映画監督で、'85年にスタジオジブリを設立。『となりのトトロ』『千と千尋の神隠し』などで国際的評価を受け、「アニメの巨匠」の代表格として知られる。

川崎のぼる(漫画家)

1941年生まれ、大阪出身。'57年にデビューし、'66年『巨人の星』で大ブレイク。『いなかっぺ大将』『荒野の少年イサム』『てんとう虫の歌』などヒット作を多数手がけ、少年漫画黄金期を支えた。スポ根からギャグまで描き分ける画風が特徴で、現在は絵本作家としても活動している。

赤塚不二夫 (漫画家)

手塚治虫に影響を受け1956年に貸本漫画『嵐をこえて』でデビュー。トキワ荘で修業後、『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』『天才バカボン』などを発表し一躍人気作家となる。ギャグ漫画の王として戦後漫画史を築き、『天才バカボン』などの作品はテレビアニメ化もされ、文藝春秋漫画賞受賞や長期連載で日本の漫画文化に大きな影響を与えた。

手塚治虫(漫画家)

大阪府出身の漫画家・アニメーション作家。『鉄腕アトム』『ブラック・ジャック』など、多数の名作を生み出し、現代漫画の基礎を築いた。医師免許も持ち、科学・医学・倫理を題材にした作品で知られる。アニメ制作にも先駆的に取り組み、日本の漫画・アニメ文化の発展に絶大な影響を与え、「漫画の神様」と称される。

楳図かずお(漫画家)

1955年に貸本漫画でデビューし、『漂流教室』『まことちゃん』『わたしは真悟』などを発表。ホラー漫画の第一人者として知られ、幅広いジャンルでも活躍した。

モンキー・パンチ(漫画家)

代表作『ルパン三世』で人気を博し、多数の青年漫画を手掛ける。デジタルマンガ協会初代会長や大学教授も務め、後進の育成に尽力した。

はらたいら(漫画家ほか)

1963年に漫画家デビューし、『モンローちゃん』などで人気を得た漫画家・随筆家・タレント。新聞漫画を数多く手がけ、幅広い媒体で活躍した。極貧生活を支えた妻ちず子との結婚生活でも知られる。'77年から『クイズダービー』にレギュラー出演し、高い正答率と最多27連勝の記録で名解答者として親しまれた。晩年はうつ病と向き合いながら活動を続け、2006年に死去した。

ユリ・ゲラー(超能力者)

1946年イスラエル・テルアビブ生まれのイリュージョニスト/自称サイキック。'70年代から「スプーン曲げ」など超能力パフォーマンスで世界的に注目され、多数のテレビ出演で人気を博した。だがその能力は多くのマジシャンらからマジック技法によるトリックと指摘され、論争の的ともなっている。

引田天功 (初代)(超能力者)

1934年神奈川県横浜市生まれの日本を代表するマジシャン・イリュージョニスト。'60年に「東京魔術団」を結成し、水中や爆発、火炎など危険な状況からの脱出マジックを得意とし「日本の脱出王」として'70年代に人気を博した。テレビ特番などで数々の大掛かりな脱出ショーを演じ、大衆に魔術の魅力を広めた。'79年12月に心筋梗塞により45歳で亡くなったが、そのスリルと大胆さは後のマジシャンたちに大きな影響を残した。

ジョージ秋山(漫画家)

1966年『ガイコツくん』でデビューし、『銭ゲバ』『アシュラ』といった過激なテーマの作品で注目を集めた。'73年から2017年まで『浮浪雲』を連載、'78年小学館漫画賞を受賞。2020年に77歳で逝去。

谷岡ヤスジ(漫画家)

ギャグ漫画家。1959年、高校在学中に『やっちゃん』でデビュー。1970年、『週刊少年マガジン』連載の『ヤスジのメッタメタガキ道講座』で大ブレイクし、「アサー!」「鼻血ブー」が流行語となった。以降、個性的なキャラクターを多数生み、『ヤスジのド忠犬ハジ公』など長期連載も手掛け、独特のブラックユーモアと破天荒なギャグ表現で知られる。

高信太郎(漫画家)

1944年生まれ。ナンセンスギャグ漫画や落語漫画、韓国文化を題材とした著作など多方面で活躍。芸能評論家やテレビ・ラジオ出演者としても知られ、ユーモアと社会観を交えた独自の視点で注目を集めた。

永井豪(漫画家)

1945年生まれの漫画家・クリエイターで、'68年にハレンチ学園、'70年代にデビルマン、マジンガーZ、キューティーハニー などを次々と発表。ロボット、魔法少女、ダークファンタジーなど複数ジャンルの先駆者で、「巨大ロボット漫画」の原点を築いた。

つのだじろう(漫画家)

1955年に『漫画少年』でデビューし、少女漫画『ルミちゃん教室』や『ばら色の海』で評価を得た。1960年代以降は少年誌でギャグ漫画を手掛け、『ブラック団』『忍者あわて丸』で人気を博す。'70年代には梶原一騎原作の『空手バカ一代』や怪奇漫画『うしろの百太郎』『恐怖新聞』でオカルト漫画の第一人者となり、将棋漫画『5五の龍』や『女たちの詩』など多ジャンルで活躍。

本宮ひろ志(漫画家)

1947年千葉県生まれ。'65年にデビューし、'68年の『男一匹ガキ大将』で一躍人気作家となる。以降『俺の空』『硬派銀次郎』『サラリーマン金太郎』など多くのヒット作を生み出し、不良・サラリーマンものなど幅広いジャンルで活躍した。

大島弓子(漫画家)

「24年組」の代表格で、1968年に『ポーラの涙』でデビュー。独特の感性と幻想性で『綿の国星』『ミモザ館でつかまえて』などを発表し、'73年に日本漫画家協会賞、'79年に講談社漫画賞を受賞。晩年も『グーグーだって猫である』などで活躍し、2021年に文化功労者に選ばれた。

山岸凉子(漫画家)

1947年北海道生まれの少女漫画家。「アラベスク」でバレエ漫画を革新しブレイクし、'83年に「日出処の天子」で少女漫画賞を受賞。神話・歴史・ホラーなど多彩なテーマを描き、「24年組」を代表する存在となった。

蛭子能収(漫画家)

1947年生まれの漫画家・タレント。'73年に雑誌「ガロ」でデビューし、ヘタウマかつシュールなギャグ漫画で人気を得た。後にバラエティ番組や映画出演で広く知られる存在となった。

山上たつひこ(漫画家)

1947年徳島県生まれの漫画家・小説家。ギャグ漫画『がきデカ』『喜劇新思想大系』で爆発的ヒットを記録し、SF/社会派の『光る風』など多ジャンルで活躍。2014年には原作作品で文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞。

池田理代子(漫画家)

1947年生まれの漫画家・劇画家で、'67年にデビュー。代表作『ベルサイユのばら』で少女漫画の枠を超え一大ブームを巻き起こした。'80年『オルフェウスの窓』で日本漫画家協会賞を受賞。'95年以降は声楽家としても活躍し、多彩な才能を発揮している。

里中満智子(漫画家)

1948年大阪生まれの漫画家・評論家。高校時代にデビューし、以降50年以上で500点近くの作品を発表。その代表作に「アリエスの乙女たち」「天上の虹」などがあり、'74年と'82年に大きな漫画賞を受賞。現在も大学教授や漫画団体の要職を務め、漫画界を牽引する存在。

もりたじゅん(漫画家)

1948年生まれの日本の漫画家。'68年にデビューし、『りぼん』などでラブコメからリアルな男女物語まで幅広く描く。代表作に『キャー!先生』『うみどり』などがあり、後年はレディースコミックでも活躍した。

柳沢きみお(漫画家)

1948年新潟県五泉市生まれの漫画家。'70年にデビューし、'78年の『翔んだカップル』で講談社漫画賞を受賞。ラブコメや青年漫画を中心に多数の作品を発表し、『特命係長 只野仁』などヒット作も。今なお現役で精力的に創作活動を続けるベテラン漫画家。

萩尾望都(漫画家)

1949年山口県生まれの少女漫画家。'70年代から世界観と心理描写に優れた作品を発表し、『ポーの一族』『11人いる!』などで高い評価を得る。SF・ファンタジー・耽美など多ジャンルに挑み、「少女漫画の革新者」と呼ばれる存在。

山本鈴美香(漫画家)

1949年生まれの女性漫画家。'71年にデビューし、'73年からのスポーツ少女漫画『エースをねらえ!』で一躍人気となり、多くのアニメ・ドラマ化も果たした。'81年以降は故郷に戻り、執筆活動を離れたとされる

一条ゆかり(漫画家)

1949年岡山県生まれの少女マンガ家。'68年に『雪のセレナーデ』で漫画家デビュー。『デザイナー』『砂の城』『有閑倶楽部』『プライド』などで人気を博し、'86年に少女部門の講談社漫画賞、2007年に文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞。恋愛や人生を鋭く描くその作風で長きにわたり支持されてきた。

弓月光(漫画家)

1949年生まれの漫画家。'68年に「りぼん新人漫画賞」でデビューし、少女漫画/少年漫画/青年漫画と幅広く活躍。『みんなあげちゃう♡』『甘い生活』などのラブコメ作品で知られ、長寿連載を続けるベテランである。

竹宮惠子(漫画家)

1950年徳島県生まれの漫画家。'68年にデビューし、'70年代〜'80年代に『風と木の詩』やSF漫画『地球へ...』などで少女漫画の枠を大きく広げた。'79年小学館漫画賞、2012年日本漫画家協会賞文部科学大臣賞、2025年文化功労者受賞と、その功績は高く評価されている。

いがらしゆみこ(漫画家)

1950年北海道旭川市生まれの少女漫画家。'68年に『白い鮫のいる島』でデビューし、'75〜'79年連載の『キャンディ♡キャンディ』で大ヒットを記録。'77年には第1回講談社漫画賞を受賞し、国際的にも人気を博した。代表作に『ジョージィ!』など。現在も活動を続けるベテラン漫画家。

美内すずえ(漫画家)

1951年大阪生まれの漫画家。'67年に高校2年でデビューし、'76年から連載を始めたガラスの仮面は累計5,000万部超の大ヒット作。少女漫画のみならずホラーやサスペンスも手がけ、'82年に講談社漫画賞、'95年に日本漫画家協会賞を受賞した。

いしいひさいち(漫画家)

1951年生まれの漫画家。'72年『Oh!バイトくん』でデビューし、'79年の『がんばれ!!タブチくん!!』で人気を博した。以降も新聞4コマ漫画『ののちゃん』など風刺とユーモアあふれる作品で知られ、2003年に第7回手塚治虫文化賞短編賞を受賞するなど、4コマ界の大御所として高く評価されている。

小林よしのり(漫画家)

1953年福岡市生まれの漫画家・評論家。「東大一直線」「おぼっちゃまくん」で人気を得た後、'92年から「ゴーマニズム宣言」で社会・政治を鋭く論じる評論漫画家へ転身し、言論界に強い影響を与え続ける存在。

陸奥A子(漫画家)

1954年福岡県生まれの少女漫画家。'72年に「獅子座うまれのあなたさま」でデビューし、'70〜'80年代に雑誌『りぼん』で「おとめチック」路線を牽引。等身大の少女の恋愛や日常を軽やかに描き、多くの読者に支持された。代表作に『こんぺい荘のフランソワ』など。

くらもちふさこ(漫画家)

1955年生まれの少女漫画家。'72年『メガネちゃんのひとりごと』でデビューし、『いつもポケットにショパン』『天然コケッコー』など多くの名作を発表。'96年に講談社漫画賞、『花に染む』で2017年に手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞するなど、半世紀にわたり少女漫画界を牽引してきた。

江口寿史(漫画家)

1956年熊本県生まれの漫画家・イラストレーター。'77年に『すすめ!!パイレーツ』でデビューし、『ストップ!!ひばりくん!』などでブレイク。'80年代以降はポップな線画で女性キャラを描くイラストでも高く評価され、近年も個展や広告・CDジャケットなど多方面で活躍している。

森英恵(ファッションデザイナー)

1926年生まれ、日本を代表するファッションデザイナー。'51年に自身のブランドを設立し、'65年にニューヨークで初の海外ショー、'77年には東洋人初のパリ・オートクチュール正会員に。日本と西洋を融合させた「蝶」モチーフの優雅なドレスなどで世界的に評価され、国際的ファッション界を牽引した。

桂由美(ウェディングドレスデザイナー)

日本初のブライダルファッションデザイナー。1964年に活動を始め、'65年に日本初のブライダル専門店を開いた。以来「ユミライン」と呼ばれる独自のウェディングドレスを発表し、世界30か国以上でショーを開催。日本の婚礼衣装文化を根底から変えた第一人者。

三宅一生(ファッションデザイナー)

1938年広島生まれのファッションデザイナー。'70年に「三宅デザイン事務所」を設立、'71年にブランドISSEY MIYAKEを立ち上げた。革新的なプリーツ技術や「一枚の布」哲学で世界的な評価を受け、服を芸術と実用の両立で再定義した。2022年没。

高田賢三(ファッションデザイナー)

1939年生まれのファッションデザイナー。'64年パリへ渡り、'70年にブランド KENZO を設立。大胆な色使いと和洋融合のスタイルで世界を魅了し、プラダ・オートクチュールの流れに変革を起こした。服だけでなく香水やホームウェアにも展開し、国際的に成功を収めた。

山本寛斎(ファッションデザイナー)

1971年に日本人として初めてロンドンでファッションショーを開催。独創的で前衛的なデザインが世界的評価を受け、'70〜'80年代に国際派デザイナーとして活躍した。'90年代以降はイベント・プロデューサーとしても活動し、ファッションの枠を越えた表現で知られた。

コシノジュンコ(ファッションデザイナー)

大阪出身の世界的ファッションデザイナー。19歳で「装苑賞」を最年少受賞し、1978年から2000年までパリ・コレクションに参加。衣服だけでなく、舞台衣装や花火、インテリアまで手掛け、和洋融合の芸術性で国際的評価を受ける先駆者。

山口小夜子(ファッションモデル)

1970年代にパリ・コレクションで活躍した日本人初期トップモデルで、「東洋的美女」の象徴とされた。モデル業のほか女優、パフォーマー、衣装・舞台衣装デザインなど多才に活動し、国内外で強い影響を残した。

宮田輝(アナウンサーほか)

NHKのアナウンサーとして『のど自慢』『ふるさとの歌まつり』『紅白歌合戦』など多数の人気番組を司会し、昭和のテレビ界を代表する名アナだった。1974年退局後は参議院議員に転じ、3期務めながらフリーアナウンサーとしても活動した。

玉置宏(テレビ司会者ほか)

1956年に文化放送にアナウンサーとして入社し、'58年からフリー。歌番組『ロッテ歌のアルバム』の司会者として「1週間のごぶさたでした」の決まり文句で人気を博した。ラジオ・テレビを中心に活躍し、長年にわたり国民に親しまれた名司会者である。

山川静夫(アナウンサー)

1933年生まれの元NHKアナウンサー。『紅白歌合戦』白組司会などで長年活躍し、テレビ黎明期を代表する顔だった。引退後は歌舞伎文化の紹介や執筆活動にも携わり、多彩な表現者として知られている。

前田武彦(放送作家ほか)

タレント、放送作家、テレビ司会者。NHKで放送作家として出発し、『夜のヒットスタジオ』や『巨泉×前武ゲバゲバ90分!!』などの司会で人気を集め、“マエタケ”の愛称で親しまれた。映画出演や作詞も手がけた。

大橋巨泉(放送作家・司会者ほか)

1934年生まれのマルチタレント。『11PM』『クイズダービー』『世界まるごとHOWマッチ』などを司会し、テレビ黄金期を代表する顔となった。作家・評論家・実業家としても活躍し、参議院議員に選出されたこともある。2016年没。

愛川欽也(俳優・司会者ほか)

ラジオ番組『パック・イン・ミュージック』で人気を博し、「11PM」「なるほど!ザ・ワールド」「出没!アド街ック天国」などテレビ番組の司会で広く知られた。映画『トラック野郎』では“やもめのジョナサン”役でも人気を得た。妻のうつみ 宮土理とのコンビは"キンキン・ケロンパ"と呼ばれた。

浜村淳(司会者ほか)

1935年生まれの俳優・ラジオパーソナリティ・映画評論家。'74年からMBSラジオ『ありがとう浜村淳です』で朝の顔となり、独特の語り口「浜村節」で長年親しまれる。映画解説や司会も多く務め、関西を代表するトークの達人として知られる。

土居まさる(司会者ほか)

1964年に文化放送入社、野球実況を経て『真夜中のリクエストコーナー』など深夜放送で人気を博す。'70年にフリー転身後、『TVジョッキー』司会で全国的存在となり、『象印クイズ ヒントでピント』ほか多数の名番組を長年担当。若者文化とテレビ黄金期を象徴する話術派司会者として知られる。

糸居五郎(ラジオパーソナリティ)

ニッポン放送の名ディスクジョッキー。1954年入社、開局第一声を担当し、『深夜のDJ』『オールナイトジョッキー』で活躍。'63年にビートルズ「ラヴ・ミー・ドゥ」を日本初オンエア。『オールナイトニッポン』草創期を支え、'70年代に50時間マラソン放送などで深夜ラジオ文化を築いた。

高嶋秀武(ラジオパーソナリティ)

1965年にニッポン放送入社後、スポーツ部で野球取材や札幌五輪実況を担当。'69年より『オールナイトニッポン』2代目パーソナリティとして活躍し、最年少の“ヒデ坊”として第1次ブームを支えた。'75年『大入りダイヤルまだ宵の口』初代司会を務め、「高島ヒゲ武」の名で親しまれる。'77年には60時間マラソンDJを敢行した。

ケーシー高峰(漫談家)

医事漫談の創始者として知られる漫談家。1957年に日大卒業後、芸人を志し漫才師・大空ヒットに入門。漫才解散や司会業を経て、'68年に「ケーシー高峰」と改名し漫談家に転身した。白衣姿で医学ネタを語る芸風と「グラッチェ」などの口癖で人気を博し、『大正テレビ寄席』などで一躍お茶の間の存在となる。'69年には『おいろけ寄席』司会も務め、後年は映画で俳優としても活躍した。

小林亜星(作曲家ほか)

1932年東京出身の作曲家・作詞家・俳優で、CMソング「この木なんの木」「ワンサカ娘」やアニメ「ひみつのアッコちゃん」の主題歌などを手がけ、'76年の「北の宿から」で日本レコード大賞を受賞。俳優としても活躍し、昭和〜平成期の日本ポップ文化を支えた。

阿久悠(作詞家)

1937年生まれの作詞家・作家。'60年代から活動を開始し、『また逢う日まで』『津軽海峡・冬景色』『UFO』など5000曲以上のヒット歌謡を生み出し、昭和歌謡を支えた巨匠。'97年に菊池寛賞、'99年に紫綬褒章を受賞。2007年に亡くなった。

加藤和彦(作曲家)

1960年代にフォークグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」でデビューし、日本のフォーク隆盛を牽引した。その後はソロ活動と並行してサディスティック・ミカ・バンドを結成し、'70年代のロックシーンに革新をもたらす。'77年に安井かずみと再婚し、「作詞・安井かずみ/作曲・加藤和彦」の名コンビでヨーロッパ三部作などを発表。音楽理論やオーケストレーションも学び、映画や舞台、スーパー歌舞伎まで活動領域を広げた。

安井かずみ(作詞家)

フェリス女学院高等学校、文化学院油絵科卒業。画家志望だったが、アルバイトで手がけた訳詞「GIブルース」の成功を機に作詞家へ転じ、「女の子だもん」でデビューした。フランス語に通じた語学力と洗練された感性で、伊東ゆかり「おしゃべりな真珠」、沢田研二「危険なふたり」、西城秀樹「激しい恋」など数多くのヒットを生み、生涯約4000曲を作詞。キャンティを拠点に文化人との交流を重ね、加藤和彦との再婚後は理想的な夫婦像でも注目された。

なかにし礼(作詞家)

1938年生まれの作詞家・作家。代表曲「今日でお別れ」「北酒場」など約4000曲を手がけ、日本レコード大賞を3度受賞。'98年に小説『兄弟』、2000年に『長崎ぶらぶら節』で直木賞を受賞し、小説家としても高く評価された。2020年に82歳で逝去。

筒美京平(作曲家)

1940年東京生まれの作曲家・編曲家。'60年代末から作曲を始めて約3,000曲を手がけ、そのうち500曲以上がオリコンのシングルチャート入り。代表作は「ブルー・ライト・ヨコハマ」や「また逢う日まで」など多数。2020年に80歳で死去。

ささきいさお(声優ほか)

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阿木燿子(作詞家ほか)

1945年生まれの日本の作詞家・女優・作家。'75年「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」で作詞家デビュー。山口百恵など多くの歌手に詞を提供し、多数のヒット曲を生んだ。女優業やエッセイでも活躍し、2006年に紫綬褒章を受章した。

水木一郎(声優ほか)

1948年東京生まれの歌手・声優で、“アニソン界の帝王”と称される。'71年『原始少年リュウ』主題歌でアニメ歌手として脚光を浴び、『マジンガーZ』『仮面ライダー』など約1,200曲の主題歌を担当した。2022年12月、肺がんのため74歳で亡くなった。

都倉俊一(作曲家)

1948年生まれの日本の作曲家・編曲家。ピンク・レディーの「UFO」「ペッパー警部」や山口百恵の「ひと夏の経験」、山本リンダの「狙いうち」など多数のヒット曲を手がけ、1,100曲以上の作品と6,000万枚超のセールスを誇る。2018年には文化功労者に選ばれ、2021年から第23代文化庁長官を務める。

松本隆(作詞家)

日本を代表する作詞家・ミュージシャン。1970年代、バンド はっぴいえんど のドラマーとしてデビュー後、作詞家に転身。'70年代は太田裕美の「木綿のハンカチーフ」や竹内まりやの「SEPTEMBER」、'80年代は寺尾聡の「ルビーの指環」や松田聖子の「白いパラソル」「赤いスイートピー」をはじめとする数多くのヒット作品を生み出し、多くのアーティストに2000曲以上の歌詞を提供した。

松任谷正隆(音楽プロデューサー)

1951年東京都出身の音楽プロデューサー/アレンジャー/キーボーディスト。'70~'80年代にバンド活動を経て以後多くのヒット歌手(松任谷由実、松田聖子、ゆずなど)の作品を手掛け、日本のポップスを支えた。'86年に音楽学校を設立するなど育成にも注力。

深作欣二(映画監督)

1961年に監督デビュー後、'73年からの仁義なき戦いシリーズで実録ヤクザ映画の金字塔を打ち立て、「バイオレンスの巨匠」と称された。斬新な演出と群像描写で、日本映画に大きな影響を与えた。

山田洋次(映画監督)

1931年生まれの日本の映画監督・脚本家。'69年に『男はつらいよ』シリーズを開始し、以後50年以上にわたり日本人の生活や人情を丁寧に描いた作品を多数制作。現代日本映画の代表者のひとりである。

大島渚(映画監督)

日本の映画監督・脚本家で、戦後のニューウェーブ日本映画 を代表する一人。「感傷旅行」や「愛のコリーダ」など挑発的で実験的な作品で知られ、1978年にはカンヌ国際映画祭で監督賞も受賞した。

長谷川和彦(映画監督)

1976年の監督デビュー作「青春の殺人者」が評価され、'79年、沢田研二主演の「太陽を盗んだ男」で日本映画に新風を吹き込んだ。'82年には若手監督による映画制作集団「ディレクターズ・カンパニー」を創設し、日本のニューシネマ界の重要人物となった。

荻昌弘(映画評論家)

映画評論家、料理研究家、オーディオ評論家など多才な評論家。テレビ番組 月曜ロードショー の長年の解説者として知られ、その落ち着いた語り口で多くの視聴者に親しまれた。映画・音楽・食文化など広範なジャンルで評論を展開。

水野晴郎(映画評論家)

1931年生まれの映画評論家・映画監督・タレントで、'72年からテレビの映画番組「水曜ロードショー」「金曜ロードショー」の解説者として人気に。決めゼリフ「いやぁ、映画って本当にいいもんですね」で親しまれ、映画紹介から配給、監督まで手がけた映画界の顔だった。2008年に死去。

小森和子(映画評論家)

映画評論家・タレント。1950年代から洋画紹介・評論で活躍し、テレビやラジオで「小森のおばちゃま」として親しまれた。飾らない語り口と“モア・ベターよ”などの決めゼリフでファンを魅了し、昭和の映画文化の担い手の一人となった。

久世光彦(テレビプロデューサー)

TBS出身のテレビ演出家・プロデューサーで、人気ドラマ『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』『ムー一族』などを手がけた。晩年は小説やエッセイも執筆し、文学賞も受賞するなど幅広く活躍した。

金田正一(プロ野球選手・監督)

日本プロ野球を代表する左腕投手。1950-'69年に活躍し、通算400勝・4490奪三振の日本記録を樹立する唯一の400勝投手。14年連続20勝以上、完全試合、ノーヒットノーランなど数々の功績を残し、'88年に殿堂入りした。

野村克也(プロ野球選手・監督)

日本プロ野球を代表する捕手・監督。現役で通算657本塁打、2901安打を記録し、1965年に戦後初の三冠王。引退後は監督としても名を馳せ、複数球団を率いて日本一も達成。野球殿堂入り。

長嶋茂雄(プロ野球選手・監督)

1958〜'74年に読売ジャイアンツ一筋で活躍した日本プロ野球界の名三塁手。打率.305、444本塁打、2471安打を記録し、「ミスタープロ野球」と称された。引退後は同球団の監督としても日本一を経験し、国民的英雄となった。

王貞治(プロ野球選手・監督)

読売ジャイアンツで活躍した日本プロ野球の大打者。通算868本塁打という世界最多記録を残し、長打力と選球眼で圧倒的な強打者となった。引退後は監督や球団社長も務め、長く日本野球界を牽引した。

張本勲(プロ野球選手ほか)

1940年広島出身の元プロ野球選手(外野手)。通算3085安打、504本塁打、319盗塁を記録し、史上唯一の「3000安打・500本塁打・300盗塁」を達成。首位打者7回など数々のタイトルを獲得し、「安打製造機」の異名で知られた。

柴田勲(プロ野球選手)

1962〜'81年まで読売ジャイアンツ一筋でプレーした外野手。通算2,018安打、579盗塁を記録し、6度の最多盗塁王・5度のゴールデングラブ賞・12回のオールスター出場など、俊足と堅実な守備で「巨人V9時代」を支えた名選手。

田淵幸一(プロ野球選手・監督)

1946年生まれの元プロ野球選手。'69年に阪神タイガースでデビューし、新人王や'75年の本塁打王などを獲得。通算474本塁打を放った強打者で、「ホームランアーチスト」と称された。'79年から西武ライオンズに移籍し、日本一にも貢献。引退後は監督、コーチ、解説者など幅広く活躍した。

山本浩二(プロ野球選手)

広島東洋カープ一筋で活躍した名外野手。本塁打536本、安打2,339本などを記録し、「ミスター赤ヘル」の愛称で親しまれた。1975年に球団初優勝に貢献。引退後はカープ監督や日本代表監督も務め、2008年に野球殿堂入りした。

衣笠祥雄(プロ野球選手)

1947年京都府出身のプロ野球選手。1965年から'87年まで一貫して広島東洋カープに所属し、通算504本塁打・2543安打を記録。'70年から'87年にかけて2215試合連続出場という当時の世界記録を打ち立て、“鉄人”の異名を持つ。'87年に国民栄誉賞を受賞。

星野仙一(プロ野球選手)

投手として中日で活躍し、引退後は中日・阪神・楽天の監督として3球団でリーグ優勝・日本一を成し遂げた“闘将”。通算146勝の成績を残し、2017年に野球殿堂入り。

江本孟紀(プロ野球選手)

高知県出身の元プロ野球投手。1971年にプロ入りし、南海ホークス・阪神タイガースなどで活躍し通算113勝をマーク。引退後は野球解説者、タレント、小説家、著述家、'92年からは参議院議員も務めた“多才な異端児”。

江夏豊(プロ野球選手)

1948年生まれの元プロ野球投手。'68年にシーズン401奪三振という世界記録を樹立し、“最強の左腕”として君臨。通算206勝・193セーブ、防御率2.49を記録し、先発から抑えまで万能に活躍した名投手。

村田兆治(プロ野球選手)

1949年広島県出身のプロ野球投手。'68年にドラフト1位で入団し、「マサカリ投法」と呼ばれる豪快なフォームで活躍。通算215勝を挙げ、'75年・'76年に防御率1位、'81年に最多勝。'80年代に肘の故障からトミー・ジョン手術を受けつつ復帰し、「サンデー兆治」として再び大投手に返り咲いた。2005年に野球殿堂入り。

山本功児(プロ野球選手)

1975年ドラフト5位で読売ジャイアンツ入りし、その後ロッテで主力打者として活躍した。通算64本塁打、369打点を記録。引退後はロッテの監督・コーチとしてチームを率いた。

山下大輔(プロ野球選手)

1952年静岡県生まれの元プロ野球内野手。'74年に大洋ホエールズでデビューし、遊撃手として'76〜'83年に8年連続ゴールデングラブ賞を受賞。通算1378安打・129本塁打の実績を持つ。引退後はコーチや監督として活躍した。

小林繁(プロ野球選手)

1952年生まれの日本のプロ野球投手。'73年に読売ジャイアンツでデビューし、'76–'77年に連続で18勝を挙げ、'77年に沢村賞を受賞。'79年の移籍先である阪神タイガースでは22勝で最多勝と2度目の沢村賞に輝いた。通算成績は139勝95敗、防御率3.18。'83年に31歳で現役引退。2010年に心不全で逝去。

掛布雅之(プロ野球選手)

1955年千葉県出身のプロ野球選手・元内野手。'74~'88年に阪神タイガース一筋でプレーし、通算349本塁打・1019打点・打率.292を記録。「ミスター・タイガース」の異名を持ち、本塁打王3回・打点王1回・ベストナイン7回など数々のタイトルを獲得した。引退後は解説者・評論家としても活躍。

釜本邦茂(サッカー選手ほか)

日本代表歴代最多75ゴールの元ストライカー。1968年メキシコ五輪で7得点し得点王、銅メダル獲得に貢献。クラブではヤンマーディーゼルで通算202得点を記録し、監督・国会議員・日本サッカー協会副会長なども務めた。

セルジオ越後(プロサッカー選手)

ブラジル・サンパウロ生まれの日系2世サッカー選手。1972年に来日し、藤和不動産(現:湘南ベルマーレ)でプレー。引退後は日本全国で少年サッカーの普及に尽力し、解説者や指導者として日本サッカーに貢献。2023年に日本サッカー協会殿堂入り。

具志堅用高(プロボクサー)

1955年沖縄県石垣島生まれの元プロボクサー。'76年にWBA世界ライトフライ級王者となり、13回連続防衛という日本記録を達成。通算成績は23勝(15KO)1敗。引退後はタレントやジム経営者としても活動し、2015年に国際ボクシング殿堂入りした。

ジャイアント馬場(プロレスラー)

新潟県三条市出身の日本を代表するプロレスラー、元プロ野球選手。209 cmの巨体を武器に1960年デビュー後、'72年に全日本プロレスを設立。NWA世界ヘビー級王座を3度制し、プロレス界の顔として国民的人気を得た。

アントニオ猪木(プロレスラー)

日本プロレス界の象徴的存在。1972年に新日本プロレスを創設し、リング上では破格の肉体と闘志で数々の伝説を残した。政治家としても活動し、国会議員として社会にも影響を与えた。

ザ・デストロイヤー(プロレスラー)

米国出身の覆面プロレスラー。日本では「白覆面の魔王」として知られ、足4の字固めを武器に1963年初来日。力道山との激闘は社会現象となりWWA世界戦は高視聴率を記録した。以後もジャイアント馬場やアントニオ猪木と名勝負を重ね、'73年から全日本プロレスに所属。PWF認定US王者として活躍するとともにタレントとしても活動した。

中山律子(プロボウラー)

1942年生まれの日本の元プロボウラー。'69年に女子プロ1期生としてデビューし、'70年にテレビ中継で女子初のパーフェクトゲーム(300点)を達成、「さわやか律子さん」として社会的注目を浴びた。通算33勝。現在は日本プロボウリング協会の名誉会長などを務め、ボウリングの普及や後進育成に尽力した。

植村直己(冒険家)

1941年生まれの日本の登山家・冒険家。'70年に日本人で初めてエベレストに登頂、世界で初めて五大陸最高峰を制覇。'78年には単独で北極点に到達するなど数々の偉業を成し遂げた。'84年に冬季単独登頂を果たしたデナリ山で遭難し、行方不明となったが、その冒険精神は今も語り継がれている。

土井勝(料理研究家)

1921年香川県生まれ。海軍経理学校卒業後、戦後は料理研究家として活動し、自身の料理学校を主宰。家庭料理の普及に貢献し、多くの人に親しまれた。'95年、没。

その他各界 > 1980年代

1980年代は昭和55年から平成元年までで、日本経済がバブル期に向かって急成長した。前半は円高で低成長が続いたが、後半は超低金利政策を背景に株価と地価が異常に高騰した。オフィスではパソコンやワープロが普及しOA化が進展。女子大生ブームや「新人類」と呼ばれる新世代が台頭し、聖子ちゃんカットなどアイドル模倣のファッションが広がる。竹の子族などの若者文化も街を彩った。コンビニと大型スーパーの拡大で生活が便利になる一方、地方ではシャッター通りが増加した。テレビでは藤子不二雄作品が大人気となりアニメ文化が定着。スポーツ界では王貞治らスター選手の引退が続き、一つの時代が終わりを迎えた。

─ 各界の主な人物 (順不同) ─

相田みつを(詩人)

1924年生まれの日本の詩人・書家。伝統的書道を経て自らの言葉を独特の書体で表現する「書の詩人」として知られ、代表作に『にんげんだもの』『おかげさん』などがある。'80〜'90年代に人気を博し、「平易な言葉で心に響く詩」を通じて多くの人々の共感を集めた。

橋田壽賀子(脚本家)

1925年京城(現在のソウル)生まれの脚本家。フリーの脚本家として「おしん」「渡る世間は鬼ばかり」をはじめとする数々の国民的テレビドラマを手掛けた。'92年に 橋田文化財団 を設立し、後進の脚本家育成にも貢献した。2021年4月に95歳没。日本のテレビドラマ界に大きな足跡を残した。

西村京太郎(小説家)

日本を代表する推理作家で、「寝台特急殺人事件」をはじめ鉄道や旅を舞台にしたトラベルミステリーで人気を博した。「十津川警部」シリーズなど多数のベストセラーを生み出し、江戸川乱歩賞や日本推理作家協会賞などを受賞。推理小説界の重鎮であった。

小松左京(小説家)

大阪生まれの日本を代表するSF作家。1962年にデビューし、'73年の『日本沈没』で大ブームを起こす。『首都消失』など多数の SF 長編で、SF文学の地位確立に貢献した。

山村美紗(小説家)

「京都」を舞台にしたミステリーを多数執筆し、“ミステリの女王”と呼ばれた。1967年ごろから執筆を始め、'74年にデビュー。'83年『消えた相続人』で日本文芸大賞を受賞。作品の多くがドラマ化され、'60〜'90年代のテレビでも大きな人気を得た。'96年に急逝。

森村誠一(小説家)

日本の社会派ミステリーの巨匠。1969年の『高層の死角』でデビューし、'76年の『人間の証明』で大ベストセラーを記録。その後も『悪魔の飽食』など社会問題に切り込む作品を発表し、多くが映像化された。2023年、肺炎により90歳で死去した。

渡辺淳一(小説家)

北海道出身の元医師で、1965年から小説家として活動を開始。'70年に『光と影』で直木賞を受賞し、'97年の『失楽園』で社会現象とも呼ばれる大ベストセラーを生み出した。50作以上を世に送り出し、性愛や人生の本質を描く作風で知られた。

片岡義男(小説家)

1939年東京生まれの小説家、エッセイスト、翻訳家、写真家。'74年『白い波の荒野へ』で小説家デビューし、翌年『スローなブギにしてくれ』で新人文学賞を受賞。以来、小説やエッセイ、評論、翻訳、写真集など多彩に活動し、数多くの著作を残してきた。

景山民夫(小説家)

1947年東京生まれの小説家・放送作家。'68年からテレビ番組の構成作家として活動を始め、多数の人気番組に携わった。'86年『虎口からの脱出』でデビュー後、'88年に『遠い海から来たCOO』で第99回直木賞を受賞し、小説家としても成功を収めた。'98年1月、自宅の火事により50歳で亡くなった。

嵐山光三郎(編集者)

1942年静岡県浜松市生まれの作家・エッセイスト。雑誌編集者として「平凡社」の『太陽』編集長などを経て独立。軽妙な筆致で食・旅・文化を描き、'88年『素人庖丁記』で第1回の講談社エッセイ賞、2006年『悪党芭蕉』で泉鏡花文学賞と読売文学賞を受賞。食・旅・文人趣味など多彩なテーマで親しまれ、文化界に大きな足跡を残した。

沢木耕太郎(小説家)

1947年東京生まれのノンフィクション作家。深夜特急 三部作などで知られ、'79年『テロルの決算』で大宅壮一ノンフィクション賞、'82年『一瞬の夏』で新田次郎文学賞、'85年『バーボン・ストリート』で講談社エッセイ賞などを受賞。多方面にわたるノンフィクション作品で日本のルポルタージュ文学に大きな影響を与えている。

北方謙三(小説家)

1947年佐賀県唐津市生まれの小説家。'70年デビュー後、'81年『弔鐘はるかなり』で注目され、ハードボイルド小説で高い評価を得た。やがて歴史小説にも転じ、『三国志』『水滸伝』など中国古典を大胆に再構成する大作で知られる。数多くの文学賞に輝き、現代日本を代表する作家の一人。

赤川次郎(小説家)

1948年福岡市生まれの小説家。'76年『幽霊列車』でデビューし〈三毛猫ホームズ〉シリーズをはじめ多数のユーモアあふれるミステリー作品を発表。著作数は650冊を超え、多くがベストセラーとなった。'80年に第7回角川小説賞、2006年に第9回日本ミステリー文学大賞、2016年に吉川英治文学賞を受賞。リアルと奇妙を兼ね備えた作風が幅広い読者に支持されている。

ねじめ正一(小説家)

1948年東京都杉並区生まれの詩人・小説家。'81年の処女詩集『ふ』で詩壇のH氏賞を受賞。'89年に小説『高円寺純情商店街』で直木賞を獲得。その後も詩、小説、絵本など幅広く手がけ、市井の人々の営みや昭和の空気をやさしく描き続けている。

糸井重里(コピーライター)

1948年群馬県前橋市生まれのコピーライター、エッセイスト、ゲームデザイナーなど。'71年コピーライターとしてデビューし、「不思議、大好き。」「おいしい生活。」などの広告で広く知られた。'98年にウェブサイト ほぼ日刊イトイ新聞 を立ち上げ、エッセーやインタビュー、オリジナル商品の発信を続けている。また、 MOTHER/EarthBound シリーズの生みの親としても国際的に知られ、多方面で文化的影響力を持つ人物。

テリー伊藤(テレビディレクターほか)

1949年生まれのテレビディレクター・プロデューサー。1973年にIVSテレビ制作に入社し、『びっくり日本新記録』などでテレビマンとしてのキャリアを始めた。「シマウマの地肌は白黒か」といった過激な企画で注目を集め、'85年にロコモーションを設立。『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』『ねるとん紅鯨団』『浅草橋ヤング洋品店』などを手がけ、素人性と過激さを融合させた演出で'80〜'90年代のバラエティに大きな影響を与えた。近年は研究・執筆やタレント活動も行う。

野坂昭如(作家)

1930年神奈川県鎌倉市生まれの小説家・歌手・作詞家。'63年に『エロ事師たち』で小説家デビューし注目され、'67年に『火垂るの墓』『アメリカひじき』で直木賞を受賞して代表作となった。庶民の姿や戦争体験を“焼け跡闇市派”の語り口で描き、戦後文学に強い影響を残した。'97年には吉川英治文学賞、2002年には泉鏡花文学賞を受賞。歌手や作詞家、タレントとしても活動し、多彩なジャンルで活躍した。

西部邁(経済学者ほか)

1939年北海道生まれの経済学者・評論家・思想家。東京大学教養学部教授などを経て、'80年代以降は近代経済学や大衆社会、グローバリズムを批判する保守思想の論客として活躍。代表作に『ソシオ・エコノミクス』や『大衆への反逆』などがあり、伝統や慣習を重視する「保守」の立場から社会批評を展開。2018年1月、多摩川で自ら命を絶ち、78歳で逝去。思想界に大きな問いと影響を残した。

舛添要一(経済学者ほか)

1948年福岡県出身の政治家・国際政治学者。東京大学法学部を卒業後、大学教員として国際関係論を研究。'89年に大学を辞め、評論・メディア活動を経て2001年に自由民主党所属で参議院議員に初当選。2007〜2009年には厚生労働大臣を務め、高齢化社会や福祉政策に関わった。2014年に東京都知事に就任するも、2016年に公金支出問題などを機に辞職した。

大槻義彦(物理学者)

1936年宮城県出身の物理学者。早稲田大学理工学部教授などを歴任し、放射線物性や核物性の分野で研究に従事。'90年代からは、火の玉やミステリーサークルなど「超常現象」をプラズマ物理で解明しようと試み、テレビ出演や著書を通じて科学と疑似科学の境界を問い続けた。

村上春樹(小説家)

日本を代表する現代作家で、1979年『風の歌を聴け』で作家デビュー。'87年『ノルウェイの森』で大ブレーク、その後も『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』など国際的ベストセラーを連発。幻想と現実が交錯する独自の作風で世界50か国語以上に翻訳され、多くの文学賞を受賞し、世界的な人気を誇る作家である。

村上龍(小説家)

1976年に『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞を獲得し小説家デビュー。その後、『コインロッカー・ベイビーズ』などで注目され、多作と革新的な作風で日本文学の第一線を走る。映画監督やエッセイ、社会評論でも活躍し、現代日本文化に強い影響を与えた作家。

中島らも(小説家)

1952年兵庫県尼崎市生まれの小説家・劇作家・エッセイスト。本名は中島裕之。広告代理店勤務の後、コピーライターやラジオ・脚本業などを経て活躍。'84年からの「明るい悩み相談室」連載で注目を浴び、'92年『今夜、すべてのバーで』で 吉川英治文学新人賞、'94年『ガダラの豚』で 日本推理作家協会 長編賞を受賞した。演劇、落語、音楽バンド活動まで幅広く手がけた。2004年7月に52歳で急逝。

林真理子(小説家)

1954年山梨県生まれの小説家・エッセイスト。コピーライター経験を経て'82年にエッセイ集『ルンルンを買っておうちに帰ろう』で作家デビュー。'86年『最終便に間に合えば』『京都まで』で直木賞を受賞し以後も多くの小説・エッセイを発表。'98年には吉川英治文学賞、2020年に菊池寛賞などを受け、日本文学界で長年にわたって大きな存在感を放っている。

田中康夫(小説家)

1956年東京都生まれの小説家・元政治家。'80年に『なんとなく、クリスタル』で文藝賞を受賞し、作家デビュー。2000〜2006年に長野県知事を務め、その後は参議院・衆議院議員としても活動。執筆・評論活動を続けつつ、社会・政治の問題提起にも関わってきた人物。

上田三根子(イラストレーター)

1949年埼玉県出身のイラストレーター。セツ・モードセミナー修了後、ポップで親しみやすい画風で雑誌や広告、書籍装丁、絵本など幅広く活動。代表作として、ハンドソープ キレイキレイ のパッケージキャラクターや、ゲーム ぼくのなつやすみ シリーズのキャラクターデザインがある。広告・編集イラストだけでなく、装画やゲーム・映像関連など多ジャンルで活躍し、日本の商業イラスト界で確固たる地位を築いている。

森本美由紀(イラストレーター)

1959年岡山県津山市生まれのファッション・イラストレーター。'79年にセツ・モードセミナーで学びつつ在学中にデビューし、雑誌『Olive』『mc Sister』『an・an』『VOGUE日本版』などで活躍。'90年代以降は墨と筆による洗練されたモノクロームのスタイル画で人気を博し、ファッション誌だけでなくCDジャケットや広告など多方面で影響力を持った。2013年に54歳で没したが、その卓越した線の美学は今も強く支持されている。

ナンシー関(版画家、コラムニスト)

1962年青森県青森市生まれの消しゴム版画家・コラムニスト。本名は関直美。大学中退後、1980年代半ばに「消しゴム版画+コラム」という独自スタイルでデビューし、テレビや芸能界を辛辣かつユーモラスに批評。鋭い観察眼と独特の版画で多くの支持を集めた。2002年、39歳で急逝したが、作品と批評は今なお影響を与え続けている。

大石静(脚本家ほか)

1951年東京生まれの脚本家・エッセイスト。'86年に『水曜日の恋人たち』でテレビ脚本家としてデビュー。以降、『わたしってブスだったの?』『ふたりっ子』『功名が辻』『セカンドバージン』『家売るオンナ』『大恋愛〜僕を忘れる君と〜』など多くの人気ドラマを手がけた。'97年には向田邦子賞と橋田賞をW受賞。2021年には旭日小綬章を受章し、現在もテレビドラマ界で第一線で活躍している。

芳村真理(モデル、司会者ほか)

1935年東京生まれの元モデル・女優・タレント。若くしてファッションモデルとして活躍し、'60年代からは映画女優として約80本に出演。司会業でも活躍し、人気番組「ラブラブショー」や「料理天国」、'68年からは約20年間にわたり老舗の音楽番組「夜のヒットスタジオ」の司会も務め、「日本の女性司会者の草分け」と呼ばれる存在になった。2025年現在はNPO法人MORIMORIネットワークの副代表として、環境保護や林業振興などにも取り組んでいる。

阿川佐和子(エッセイストほか)

1953年東京都生まれのエッセイスト・作家・インタビュアー。大学卒業後、TBSなどでキャスターを務めたのち執筆活動に転じた。代表作に『ああ言えばこう食う』(講談社エッセイ賞)や小説『ウメ子』(坪田譲治文学賞)、『婚約のあとで』(島清恋愛文学賞)などがある。また、インタビュー連載「この人に会いたい」では多くの著名人に取材し、その鋭い観察眼と軽妙な語り口で支持され続けている。

田原総一朗(ジャーナリスト)

1934年滋賀県生まれのジャーナリスト。'60年に早稲田大学卒業後、テレビ東京(旧・東京12チャンネル)で番組制作に携わり、'77年からフリーに転じた。以来、「朝まで生テレビ!」 や 「サンデープロジェクト」などのテレビ番組司会を通じ、日本のテレビジャーナリズムに大きな影響を与えてきた。'98年には戦後の放送ジャーナリストの代表として 城戸又一賞 を受賞し、今日まで現役で報道と論評を続けている。

筑紫哲也(ジャーナリスト)

1935年大分県生まれのジャーナリスト・ニュースキャスター。'59年に朝日新聞に入社し政治部記者やワシントン特派員などを経た後、雑誌朝日ジャーナルの編集長などを務めた。'89年から筑紫哲也NEWS23でメインキャスターとなり、日本のテレビ報道の顔として知られた。2008年に肺がんで亡くなり、民放ニュース界に大きな影響を残した。

利根川裕(作家ほか)

1927年新潟県糸魚川市生まれの作家・元編集者・テレビ司会者。東京大学卒業後に教育者や出版社勤務を経て、'66年に小説『宴』で作家デビュー。'80〜'94年にはテレビ朝日の深夜番組トゥナイトの司会を務め、落ち着いた語り口で人気を博した。執筆では『それぞれの方舟』で日本文芸大賞も受賞。2024年1月29日に96歳で亡くなり、日本の文芸とマスメディアに長年にわたり影響を残した。

櫻井よしこ(ジャーナリストほか)

1945年ベトナム・ハノイ生まれのジャーナリスト。'70年代から報道記者として活動し、'80〜'96年は 日本テレビ のニュース番組キャスターを務めた。'95年に著作『エイズ犯罪 血友病患者の悲劇』で 大宅壮一ノンフィクション賞 を、'98年に著作『日本の危機』で 菊池寛賞 を受賞。2007年には 国家基本問題研究所 を設立し理事長に就任し、外交・憲法・安全保障などを主題に言論活動を続けている。

小倉智昭(アナウンサーほか)

1947年秋田県出身のアナウンサー・司会者。大学卒業後、旧・東京12チャンネル(現テレビ東京)に入社し競馬実況などを担当。'76年フリー転向し、テレビ・ラジオで幅広く活躍した。'99年から始まった情報プレゼンター「 とくダネ! 」ではメインキャスターを22年間務め、朝の顔として多くの視聴者に親しまれた。2024年12月9日、膀胱がんのため77歳で死去。報道番組の草分け的司会者として日本のテレビ界に大きな足跡を残した。

小林完吾(アナウンサーほか)

アナウンサー、ニュースキャスター、司会者、ジャーナリスト。1960年に南日本放送入社、'63年に日本テレビへ移籍。『NNNきょうの出来事』のメインキャスターとして歯切れの良い語り口と低音の名調子で人気を博し、日テレを代表する存在となった。'83年、徳光和夫と組んだ「おもしろまじめ放送局」キャンペーンで全国的知名度を獲得。'92年に定年退職後はフリーとして活動した。

みのもんた(アナウンサーほか)

1944年東京都出身のフリーアナウンサー兼司会者。'67年に文化放送に入社し、'69年に「セイ!ヤング」などで人気を得た。その後フリー転向し、'89年の「午後は○○おもいッきりテレビ」や、2005年〜2013年の「みのもんたの朝ズバッ!」など多数の情報番組で“朝の顔”を務めた。2006年には「1週間で最も多く生番組に出演する司会者」としてギネス世界記録に認定された。長年にわたり多くの人気番組を支え、情報番組のスタイルに大きな影響を与えた。

福留功男(アナウンサーほか)

1942年高知県出身のフリーアナウンサー・司会者。'66年に日本テレビへ入社し報道記者としてスタート。'77年の史上最大!アメリカ横断ウルトラクイズ!!で人気を集め、'88年から朝の情報番組ズームイン!!朝!の総合司会を務めて人気司会者となった。'91年に日テレを退社してフリーに転向。その後、報道番組ブロードキャスターなどでも司会を務め一時代を築いた。

石井苗子(キャスターほか)

1954年東京都生まれの女優・キャスター・保健学者・政治家。'80年~'90代に放送キャスターや映画女優として活動し、後に看護師・保健師資格を取得。東京大学大学院で保健学博士号を取得し、ヘルスケア分野でも活躍。2016年に参議院議員に当選し、2025年現在は日本維新の会所属で政治活動に携わっている。

高市早苗(キャスターほか)

1984年に神戸大学経営学部を卒業し、松下政経塾に入塾。'87〜'89年に米国で議会フェローとしての経験を積み、帰国後はテレビキャスターとして活動した。'93年に衆議院議員に初当選し、政治家への道を本格的に歩み始める。第1次安倍内閣で内閣府特命担当大臣として初入閣した後、麻生内閣やその後の安倍内閣でも要職を歴任し、2025年10月、憲政史上初の女性総理大臣として就任した。

小宮悦子(キャスターほか)

1958年東京都生まれ。'81年にテレビ朝日に入社し、'85年から報道番組ニュースステーションの初代サブキャスターとして人気を得た。'91年に退社後フリーに転向し、'98年からスーパーJチャンネルのメインキャスターとして夕方ニュースを12年にわたり担当した。以来多数のニュース・報道番組で活躍した。

小池百合子(キャスターほか)

1952年兵庫県芦屋市生まれ。'71年から'76年頃までエジプト・カイロに暮らした後に帰国し、"カイロ大学を首席で卒業"の経歴をひっさげてニュースキャスターとなる。'92年に政界入り。環境大臣、防衛大臣などを歴任し、2016年から東京都知事に就任。2025年現在、都知事として3期目を務める。

田丸美寿々(キャスターほか)

1952年生まれのニュースキャスター・元テレビアナウンサー。フジテレビに'75年に入社し、'78年に女性として初めて主要ニュース番組のキャスターに抜擢された。'83年にフリーに転身し、民放各局の報道番組で活躍。'94年から約16年間、TBS系列「JNN報道特集」でメインキャスターを務め、女性報道キャスターの草分け的存在として知られた。

蓮舫(キャスターほか)

1967年東京都生まれ。'80年代から'90年代にかけてタレント・報道キャスターとして活動後、2004年に参議院議員に初当選、その後 2010〜12年に行政刷新担当大臣などを歴任。2016年には日本の主要野党である 民主党 の初の女性党首となった。その後も子育て支援や行政改革などを政策の柱に、2025年現在は 立憲民主党 所属の参議院議員として活動している。

安藤和津(エッセイストほか)

1948年東京都生まれのエッセイスト・タレント。上智大学在学後イギリスに留学し、帰国後はニュースキャスターとしてデビュー。'79年に俳優の奥田瑛二と結婚し、娘には監督の安藤桃子、女優の安藤サクラがいる。多数のテレビ・ラジオ番組に出演し、主に女性の生き方、子育て、家庭、介護、食などをテーマにエッセイや講演活動を行ってきた。自身の介護経験を通じた著書もあり、幅広い世代に支持されている。

小沢遼子(評論家ほか)

1937年東京都生まれの社会評論家・元政治家。'71年から浦和市議を3期、続いて埼玉県議を1期務め、地方議会で活動。政界引退後は評論家としてテレビ出演や著作で社会問題を鋭く論じ、「辛口コメンテーター」として知られる。

南美希子(アナウンサーほか)

1956年東京都出身の元テレビ朝日アナウンサーで、'77年入社。'86年にフリーとなり、司会・コメンテーター・エッセイストとして活躍。美容・健康や女性の生き方をテーマに執筆や講演も行い、日本抗加齢協会アンバサダーとしても知られる。

檀ふみ(女優ほか)

1954年東京都練馬区生まれの女優でエッセイスト。父は作家 檀一雄 。'72年に女優デビューし映画やテレビで活躍する一方、エッセイでも高い評価を得た。'99年の共著『ああ言えばこう食う』で 講談社エッセイ賞 を受賞。演技・文筆の両面で長年にわたり幅広く活躍している。

神津カンナ(作家ほか)

1958年東京都生まれの作家・エッセイスト・コメンテーター。'77年に渡米し演劇を学んだ後、'80年の『親離れするとき読む本』で作家デビュー。以降『美人女優』など多数の著書を発表し執筆活動を続ける。テレビ・ラジオ出演や講演、公的機関での審議委員就任など多方面で活動し、2000年からは本名である「神津十月」と表記。現在も社会や家族論に関する論考で知られる。

丸川珠代(アナウンサーほか)

1971年兵庫県生まれ。'93年、テレビ朝日にアナウンサーとして入社。報道・情報番組などでキャスターを務め人気を得る。2007年に退社し、同年の参議院選挙(東京選挙区)で当選し政界入り。以後、参議院議員として複数回再選され、政務官や委員長、党女性局長などを歴任。2015年には安倍内閣で環境大臣に就任し、2016年・2021年には東京オリンピック・パラリンピック競技大会担当相も務めた。

田嶋陽子(大学教授ほか)

1941年岡山県生まれ。英文学・女性学の研究者として出発し、'76年に法政大学の教授に就任、社会における性差やジェンダーの問題に取り組んだ。 '90年代からはテレビ出演を通じてフェミニズムや社会問題を鋭く論じ、文化人・論客として広く知られるようになる。2001年には参議院議員に当選し、政治家としても活動。 2025年現在は歌手(シャンソン)、アート作家としても活動し、多面的な表現で社会と関わり続けている。

木元教子(ジャーナリストほか)

1932年北海道生まれの元テレビ報道キャスター、現ジャーナリスト・評論家。立教大学法学部卒業後、'56年にTBS(当時ラジオ東京)へ入社。ニュースキャスターや情報番組司会などを経てフリーへ。以降、エネルギー・環境政策、女性問題、教育、高齢社会、農業などをテーマに評論・執筆・講演など幅広く活動。政府関連の委員も務め、エネルギー政策論議に関与。「原子力の平和利用」を提唱する立場で知られる。

家田荘子(ノンフィクション作家ほか)

ノンフィクション作家であり、高野山真言宗の僧侶。'85年にデビューし、'91年に「大宅壮一ノンフィクション賞」を『私を抱いてそしてキスして ― エイズ患者と過ごした一年の壮絶記録』で受賞。代表作に『極道の妻たち』をはじめとして社会の裏側や弱者の声に光を当てた作品が多く、映像化されたものも多い。2007年に僧侶の資格を得て法話も行い、現在も作家・僧侶として多面的に活動している。

小池聡行(実業家)

1963年大阪府高槻市生まれのタレント・作家。桐朋学園短大の演劇専攻を経て'84年にテレビ朝日「ウイークエンドシアター」で映画解説者として芸能界デビューした。その後、バラエティや情報番組、コメンテーター、執筆など多方面で活動を続け、小説やエッセイ集を発表。'92年に一時期宗教団体に関与し表舞台から退いたが、その後脱会して復帰。現在は映画好きとしても知られ、評論や執筆活動を続けている。

小林克也(ラジオDJほか)

広島県福山市出身の日本のラジオDJ、ナレーター、タレント、俳優。1970年代からDJ界の第一人者として活躍し、『ベストヒットUSA』など多くの番組で洋楽紹介を行い“ミスター音楽”と呼ばれることもある。

吉田照美(タレントほか)

東京都葛飾区出身の日本のフリーアナウンサー・タレント。文化放送の人気パーソナリティーとして「やる気MANMAN!」など多数の番組を担当し、退社後はテレビ司会や俳優、アーティスト活動でも活躍している。2025年に体調不良で一時入院・療養した。

おすぎとピーコ(タレントほか)

1975年デビューの一卵性双生児の兄弟タレントで、弟のおすぎは映画評論家、兄のピーコは服飾評論家としてテレビやラジオで活躍。辛口トークと個性で人気を博し、日本のメディア文化に影響を与えた。ピーコは2024年に死去した。

稲川淳二(怪談家ほか)

東京都渋谷区出身の俳優・工業デザイナー・怪談家。ラジオやテレビで人気を博し、独特の怪談語りで知られ、全国ツアー「怪談ナイト」などで幅広く活動している。1996年にグッドデザイン賞受賞。

鬼沢慶一(芸能ジャーナリスト)

芸能ジャーナリスト・評論家で、テレビ・ラジオの芸能リポーターの草分け的存在。「モーニングジャンボ」などで活躍し辛口取材で「鬼の鬼澤」の異名を取り、2001年参院選に出馬したが落選、89歳で没した。

宮尾すすむ(レポーターほか)

旧満州生まれのタレント、司会者、レポーター。『スターどっきり(秘)報告』や『モーニングショー』の「宮尾すすむのああ日本の社長」で人気を博し、テレビやドラマ、映画でも活躍した。77歳没。

前田忠明(芸能リポーター)

北海道岩見沢市出身の日本の芸能リポーター。『おはよう!ナイスデイ』や『情報プレゼンター とくダネ!』などで長くフジテレビの情報番組に出演し、芸能界の話題を伝えて親しまれた。愛称は「前忠」。2020年まで活動し、81歳で没した。

井上公造(芸能リポーター/雑誌編集長)

福岡市出身の日本の元芸能リポーター、雑誌編集長、スポーツ新聞記者。1986年に芸能リポーターに転身し、長年ワイドショーで活躍、独立後はKOZOクリエイターズを設立、取材・番組出演で幅広く活動した。2022年にリポーターを引退した。

東海林のり子(芸能リポーターほか)

埼玉県浦和市出身の日本の芸能リポーター・フリーアナウンサー。1957年ニッポン放送入社後、フリーとしてフジテレビのワイドショーで事件リポーターとして活躍し「現場の東海林です」の名台詞で知られる。その後コメンテーターや講演活動も行い、長年メディアで活躍している。

生島ヒロシ(アナウンサーほか)

宮城県気仙沼市出身の日本のフリーアナウンサー、タレント、司会者、芸能プロモーター。TBSアナ出身でラジオ番組「生島ヒロシのおはよう定食/一直線」などで長年人気を博し、事務所「生島企画室」創業者としても活躍したが、2025年に活動を無期限自粛した。

福岡翼(芸能リポーター)

芸能リポーター・映画評論家。早稲田速記学校卒業後「女性セブン」編集を経て、ワイドショーでリポートやコメントを担当し、日刊スポーツ映画大賞選考委員も務めた。79歳没。

いとうせいこう(タレント・ラッパー・小説家・俳優)

東京都出身の作家・クリエイターで、小説『ノーライフキング』でデビューし、『ボタニカル・ライフ』『想像ラジオ』で文学賞を受賞。編集者、ラッパー、俳優としても多方面に活動し、日本語ラップ文化の先駆者の一人としても知られる。

俵万智(歌人)

大阪府出身の歌人。早稲田大卒、『サラダ記念日』で短歌を現代に蘇らせ大ベストセラーにし、角川短歌賞・現代歌人協会賞など受賞。翻訳・評論・エッセイでも活躍している。

吉本ばなな(小説家)

東京都出身の日本の小説家。1987年『キッチン』でデビューし、『ムーンライト・シャドウ』『TUGUMI』などで泉鏡花賞など多数受賞、現代日本文学を代表する作家として国内外で評価されている。

椎名誠(エッセイスト)

東京都世田谷区出身の作家・エッセイスト。1979年『さらば国分寺書店のオババ』でデビューし、紀行・エッセイ・小説・写真集など多数の著作を持ち、SF大賞や吉川英治文学新人賞受賞など多方面で評価される文筆家である。

竹村健一(評論家)

大阪市出身の日本のジャーナリスト・政治評論家。京都大学卒、米国留学後、新聞記者や大学助教授を経て評論家としてテレビ・ラジオで活躍し、保守的視点で時事を斬る言論活動を展開した。

俵孝太郎(ジャーナリスト)

東京都出身の日本のジャーナリスト、ニュースキャスター、政治評論家。産経新聞政治部記者、論説委員を経て文化放送・フジテレビのニュースキャスターとして活躍し、独立後はテレビ討論番組や評論活動で辛口論評を展開した。名物挨拶「こんばんは、俵孝太郎です」で親しまれた。

栗本慎一郎(経済学者ほか)

東京出身の経済人類学者・評論家・作家・政治家。明治大教授、衆議院議員を務め、独自の思想と著作で知られ、『パンツをはいたサル』など多くの著書を発表しテレビにも出演した文化人。

ピーター・バラカン(ブロードキャスターほか)

1951年ロンドン生まれのブロードキャスター・音楽評論家。'74年に来日後、音楽出版社を経てフリーに転じ、ラジオ番組「バラカン・ビート」「ウィークエンド・サンシャイン」などで洋楽やワールドミュージックを紹介。さらにテレビ番組や著書『ロックの英詞を読む〜世界を変える歌』『魂(ソウル)のゆくえ』などを通じて音楽の歴史や歌詞の深い意味を伝える活動も行っている。近年は自身がキュレーターを務める音楽フェスを主催し、世界中から良質なミュージシャンを招くなど「音楽の伝道師」としても知られている。

川崎徹(CMディレクター)

東京都出身の日本のCMディレクター。電通映画社などで広告制作に携わり、富士フイルム「それなりに」など多数のヒットCMや流行語を生んだほか、小説や演出活動も行う。妻は元フジテレビアナウンサーの桜井郁子。

ケント・デリカット(タレントほか)

1955年カナダ・アルバータ州レスブリッジ生まれの外国人タレント。'74年に宣教師として初来日後、'83年に再来日し、'84年に笑っていいとも!の「なるほど・だ・ニッポン」でデビュー。凸レンズの丸メガネを使ったユーモアあふれるキャラクターで一躍人気者となった。テレビ番組やCM出演のほか著書『パパになる!』などもあり、日本文化と外国人の視点を交えた発信で親しまれた。'90年代以降はアメリカ・ユタ州に拠点を移し、自身の制作会社を通じて映像制作や講演活動を行うなど、マルチに活躍を続けている。

泉麻人(コラムニストほか)

東京都出身の作家・コラムニスト・気象予報士。『週刊TVガイド』編集を経てフリーになり、東京や昭和文化を題材に多くのエッセー・著書を発表し、テレビ出演やコメンテーターとしても活躍している。

中谷彰宏(作家ほか)

1959年大阪府生まれの作家・講演者。博報堂でCMプランナーとして活動後'91年に独立し「中谷彰宏事務所」を設立。ビジネス書、自己啓発書、恋愛・人間関係論など多ジャンルの著作を多数執筆し、『面接の達人』などのベストセラーで知られる。さらに「中谷塾」を主宰し、全国で講演・ワークショップを行うなど、ビジネス・自己啓発分野の第一線で活動し続けている。

山本益博(料理評論家)

東京都出身の料理評論家・落語研究家。1982年『東京・味のグランプリ』で料理評論家の草分けとなり、著述・TV出演・講演で日本の食文化に影響を与え、フランス政府より農事功労勲章を受勲した。

相澤秀禎(サンミュージック創業者)

実業家・芸能プロモーターで、サンミュージックプロダクションを1968年に創設。松田聖子や桜田淳子など多くのスターを育て「アイドル発掘王」と称され、温かいマネジメントで業界に影響を残した。

ジャニー喜多川(ジャニーズ事務所創業者)

米ロサンゼルス生まれの日本の芸能プロモーター・実業家で、1962年にジャニーズ事務所を創設し、SMAPや嵐ら多数の男性アイドルを育成しJ-POP界に大きな影響を与えた人物。晩年には所属者への性的虐待疑惑が長年問題となった。

黒柳徹子(テレビ司会者ほか)

女優・タレント・司会者・エッセイスト。1953年からテレビ出演を続け、長寿番組『徹子の部屋』の司会でギネス記録を持ち、児童書『窓ぎわのトットちゃん』で世界的な人気を得るなど多方面で活躍し、ユニセフ親善大使も務める。

久米宏(テレビ司会者ほか)

埼玉県出身の日本のフリーアナウンサー、ニュースキャスター、ラジオパーソナリティ、タレント。TBS退社後『ザ・ベストテン』『ニュースステーション』の司会・メインキャスターを務め、報道や情報番組で長年活躍し、書籍・ネット番組でも活動する。

倉本聰(脚本家・演出家)

東京都渋谷区出身の日本の脚本家・劇作家・演出家。『前略おふくろ様』『北の国から』『優しい時間』など多くの名作ドラマを手がけ、富良野塾で後進を育成、紫綬褒章・旭日小綬章を受章した。

横澤彪(日本テレビプロデューサー)

テレビプロデューサー。フジテレビで『オレたちひょうきん族』『笑っていいとも!』『THE MANZAI』などを手掛け、お笑い番組の礎を築き、退社後は吉本興業の役員として東京進出を支えた。群馬県前橋市出身。

田邊昭知(元音楽家ほか)

東京都出身の芸能プロモーター・放送作家で、かつてグループ・サウンズ「田辺昭知とザ・スパイダース」のリーダー兼ドラマーとして活動。1973年に田辺エージェンシーを設立しタモリや研ナオコらを育て、芸能界の重鎮として長年影響力を持つ。2025年現在は同社会長も務める。

三谷幸喜(脚本家ほか)

東京都出身の劇作家・脚本家・映画監督・俳優。劇団「東京サンシャインボーイズ」主宰を経て、『古畑任三郎』『王様のレストラン』などの脚本、映画『ラヂオの時間』『THE 有頂天ホテル』などの監督作で人気を博し、コメディを中心に幅広く活躍する文化人。受賞多数。

秋元康(放送作家ほか)

東京都出身の作詞家・音楽プロデューサー・放送作家。1980年代に作詞家として成功し、後にAKB48や坂道シリーズを総合プロデュース。日本のアイドル文化を革新した存在で、ドラマ・映画・舞台企画など幅広く活動している。

小川宏(司会者)

1926年東京都生まれのアナウンサー・司会者。NHKでのニュースやクイズ番組『ジェスチャー』司会を経て'65年にフリーとなり『小川宏ショー』の司会に就任。以降17年間にわたり放送され、4451回の出演で“朝の顔”となった。ワイドショーの草分け的番組を牽引し、以後の日本のテレビ・報道番組のスタイルに大きな影響を与えた。

徳光和夫(司会者)

東京都出身のフリーアナウンサー・タレント。日本テレビのアナウンサーとしてニュース・バラエティを幅広く担当し、退社後も長年『ズームイン!!朝!』『世界まる見え!テレビ特捜部』などで人気を博した。親しみやすいキャラクターで多くの番組に出演している。

関口宏(司会者)

東京都出身の俳優・タレント・司会者・ニュースキャスター・作詞家。1963年に俳優としてデビューし、『クイズ100人に聞きました』『東京フレンドパーク』『サンデーモーニング』など多くの番組で司会を務め、長年テレビ界を牽引する人気MCとして活躍している。

草野仁(司会者)

福岡県出身のフリーアナウンサー・司会者。NHK記者・キャスターを経て独立し、『日立 世界・ふしぎ発見!』の司会を長年務め知名度を高めた。知的で安定感ある進行で幅広い世代に親しまれている。

古舘伊知郎(アナウンサーほか)

1954年東京都生まれのアナウンサー、司会者、キャスター。'77年に テレビ朝日 に入社し、プロレス実況で「古舘節」と呼ばれる独特の語り口を確立。'84年にフリーとなり、F1中継やバラエティ、歌番組など多ジャンルでMC/司会を担当。2004年から約12年間、報道番組 報道ステーション のメインキャスターを務め、ニュースキャスターとしても著名に。2025年現在はトークライブ「トーキングブルース」など“しゃべり手”として幅広く活動中。

逸見政孝(司会者)

大阪出身のフリーアナウンサー・テレビ司会者・タレント。元フジテレビの人気アナで『FNNスーパータイム』『たけし・逸見の平成教育委員会』など司会で活躍し、「いっつみい」の愛称で親しまれた。1993年胃癌により惜しまれつつ48歳で逝去した。

楠田枝里子(司会者)

三重県伊勢市出身のフリーアナウンサー・タレント・テレビ司会者・エッセイスト。元日本テレビアナウンサーで『おしゃれ』や『なるほど!ザ・ワールド』『世界まる見え!テレビ特捜部』などを司会し、科学・文化紹介や執筆でも活躍する。

鈴木清順(映画監督)

映画監督・俳優で、日活で独自の映像美を持つヤクザ映画など多数の作品を手掛け、「清順美学」と評される独特のスタイルでカルト的評価を得た。独立後も『ツィゴイネルワイゼン』などで高い評価を受け、国内外に影響を与えた。

大島渚(映画監督)

映画監督・脚本家で、戦後のニューウェーブ日本映画 を代表する一人。「感傷旅行」や「愛のコリーダ」など挑発的で実験的な作品で知られ、1978年にはカンヌ国際映画祭で監督賞も受賞した。

伊丹十三(映画監督)

京都出身の映画監督・俳優・脚本家・エッセイスト。本名は池内義弘。多才な表現者として商業デザインや執筆もこなし、1984年『お葬式』で監督デビューし、『タンポポ』『マルサの女』などの名作を生み出した。映画界に大きな影響を与えた。

大林宣彦(映画監督)

広島県尾道市出身の映画監督・脚本家で、1977年『HOUSE/ハウス』で劇場デビュー。『転校生』『時をかける少女』など“尾道三部作”で知られ、独自の映像美と平和へのメッセージを持つ作品を多数手掛けた。紫綬褒章・旭日小綬章受章の巨匠。

森田芳光(映画監督)

映画監督・脚本家。1981年『の・ようなもの』で注目され、『家族ゲーム』『それから』『失楽園』などで時代の空気を鋭く映し出した。娯楽性と実験性を併せ持つ演出で日本映画に新風を吹き込んだ。

蜷川幸雄(演出家)

埼玉県川口市出身の演出家・劇作家・映画監督で、日本を代表する舞台演出家としてシェイクスピアやギリシャ悲劇など多彩な作品を国内外で演出し、“世界のニナガワ”と称され、文化勲章など多数受章した。

すぎやまこういち(作曲家ほか)

東京都出身の作曲家・編曲家。CM音楽や歌謡曲で活躍後、テレビ番組『題名のない音楽会』司会で知られる。ゲーム『ドラゴンクエスト』シリーズの音楽を手がけ、日本のゲーム音楽文化を確立した人物として高く評価される。

服部克久(作曲家)

東京都出身の作曲家・編曲家。服部良一の長男。映画・テレビ・CM音楽から歌謡曲、交響作品まで幅広く手がけ、『料理の鉄人』の音楽でも知られる。クラシックとポピュラーを架橋した存在として日本の音楽界に大きな足跡を残した。

久石譲(作曲家)

長野県出身の作曲家・指揮者。本名は藤澤守。ミニマル音楽を基盤に独自の旋律美を築き、宮崎駿監督作品『風の谷のナウシカ』『となりのトトロ』などの音楽で国際的評価を得た。映画・舞台・交響作品まで幅広く活動している。

井上堯之(音楽家)

東京都出身の作曲家・編曲家・指揮者。1961年から'70年まで一世を風靡した老舗GSバンド、ザ・スパイダースのギター奏者で、解散後は短期間、沢田研二や萩原健一らとともにPYGに参加、その後井上堯之バンドを結成。沢田研二と活動するとともに、優れた音楽性で映画・テレビ・CM音楽まで幅広く活動し、ジャズやポップスの要素を取り入れた多彩な作品を手掛けた。日本の映像音楽界で幅広い影響力を持つ音楽家である。

大野克夫(音楽家ほか)

東京都出身の作曲家・編曲家で、元ザ・スパイダースのキーボード奏者。ジャズやロックを基調とした高い音楽性で、全盛期の沢田研二を支えた井上堯之バンドのキーボードと作曲家としても活動した。テレビアニメ『名探偵コナン』の音楽も長年担当し、映画・ドラマ・CMなど幅広い分野で活躍し、日本の映像音楽を代表する存在である。

筒美京平(作曲家)

東京都出身の作曲家・編曲家。1960年代から80年代にかけて数多くのヒット歌謡曲を手がけ、松田聖子やピンク・レディーなど人気歌手の楽曲で日本のポップス界に絶大な影響を与えた。

松本隆(作詞家)

東京都出身の作詞家。ピンク・レディー、松田聖子、中森明菜など多くのヒット曲を手がけ、1970~'80年代の日本ポップスを代表する存在。音楽ユニット「ファンキー・カミング・マスターズ」でも活動した。

売野雅勇(作詞家)

東京都出身の作詞家。チェッカーズ、中森明菜、小泉今日子など多くのヒット曲を手がけ、1980~'90年代の日本ポップスシーンで重要な役割を果たした。エモーショナルでメロディアスな詞作りで知られる。

コシノヒロコ(ファッションデザイナー)

京都府出身のファッションデザイナー。三姉妹デザイナーの長女で、1960年代からパリコレに参加。独創的かつ華やかなデザインで国内外のファッション界に影響を与え、日本のモードを世界に広めた先駆者である。

ワダ・エミ(衣装デザイナー)

東京都出身のファッションデザイナー。モード界で活動し、1970年代から日本のオートクチュールや舞台衣装、映画衣装の制作で活躍。独自の色彩感覚とデザインで国内外に影響を与えた先駆的デザイナー。

篠山紀信(写真家)

東京都出身の写真家。広告写真や雑誌撮影から芸能人ポートレートまで幅広く手掛け、被写体の個性を引き出す大胆で革新的な作風で知られる。日本の現代写真界を代表する写真家の一人である。

加納典明(写真家)

1942年愛知県名古屋市生まれの写真家。'60年代からフリーカメラマンとして活動を始め、'69年に雑誌『平凡パンチ』でのニューヨーク特集や個展「FUCK」で脚光を浴びた。その後も広告写真、雑誌、写真集などで精力的に作品を発表し、社会の風俗やヌード表現を通じて日本の写真界に強い影響を与えた。

浅葉克己(アートディレクター)

東京都出身のグラフィックデザイナー・アートディレクター。企業広告、パッケージデザイン、ポスターなど幅広く手がけ、独創的かつ遊び心あるデザインで日本のグラフィック界に影響を与えた。文化功労者・紫綬褒章受章者。

山本耀司(ファッションデザイナー)

京都府出身のファッションデザイナー。パリコレに参加し独自の黒を基調とした前衛的デザインで世界的に評価され、国内外でブランドを展開。日本のモード界を代表する先駆者として知られる。

川久保玲(ファッションデザイナー)

東京都出身のファッションデザイナー。1973年に「コム・デ・ギャルソン」を設立し、前衛的で構築的なデザインで世界的評価を獲得。パリコレ常連で、日本のモード界に革新をもたらした先駆者である。

坂東玉三郎 (5代目)

1957年に幼くして初舞台を踏み、'64年に「五代目 坂東玉三郎」を襲名。歌舞伎にとどまらず、映画・現代舞台・国際的な舞踊など多ジャンルで活躍。2012年に「重要無形文化財保持者(人間国宝)」に認定され、その芸は国内外で高く評価されている。

安西水丸(イラストレーター)

長野県出身のイラストレーター・漫画家・エッセイスト。広告・書籍・雑誌の挿絵で活躍し、柔らかくユーモラスな画風で知られる。水木しげるらと交流し、装丁や絵本制作でも高い評価を受けた。

ペーター佐藤(イラストレーター)

神奈川県横須賀市出身の日本を代表するイラストレーター。ミスタードーナツのパッケージやユニバーシアード神戸大会ポスター、ファッション誌表紙など多彩な仕事で知られ、1970年代はエアブラシ、'80年代以降はパステルによる温かみある人物画で人気を博した。'86年に原宿に「Pater’s Shop & Gallery」を開き、個展も海外で開催された。没後も作品は高い評価を受けている。

南伸坊(編集者ほか)

東京都出身のイラストレーター・漫画家・エッセイスト。独特のユーモラスで温かみのある作風で雑誌や書籍、広告など多方面で活躍。評論やエッセイ執筆も行い、日本のポップカルチャーに幅広く影響を与えた。

梨本勝(芸能リポーター)

法政大学卒。1968年に雑誌記者としてデビュー後、'76年にテレビの芸能リポーターに転身。「恐縮です!」の決めゼリフとともに突撃インタビューで数々のスクープを報じ、芸能リポーターという職業の草分け的存在となった。テレビ、ラジオ、雑誌など幅広く活躍し、芸能ニュース文化に大きな影響を与えた。2010年、肺がんで65歳で逝去。

Mr.マリック(マジシャン)

マジシャン、超魔術師。1988年、日本テレビ系『11PM』出演を機にテレビ界で注目を集める。翌年には『木曜スペシャル』で単独特番が放送され高視聴率を記録。「超魔術」「ハンドパワーです」「きてます!!」の決め台詞で一大ブームを巻き起こした。同年は『アメリカ横断ウルトラクイズ』やNHK紅白歌合戦にも出演し、海外番組や児童誌でも特集されるなど社会現象的な人気を博した。

宜保愛子(霊能者)

1932年神奈川県生まれの霊能者・タレント。'80年代後半から'90年代にかけて多数の心霊番組や雑誌で活躍し、著書も多数刊行して一大ブームを巻き起こした。代表作に『宜保愛子の死後の世界』などがあり、霊視による守護霊の存在や死後の世界論を広く一般に紹介した。しかし'90年代半ば以降、霊能力を巡る批判やメディアの変化で露出が減少。2003年、胃がんで71歳で亡くなった。

韮澤潤一郎(出版社経営)

1945年新潟県生まれの実業家で、出版社たま出版の社長・編集長。自身を「UFO・超常現象研究家」と称し、70年代から雑誌・テレビ・著作を通じてUFOや宇宙人、超常現象について発信を続けてきた。'95年には「UFO党」から比例代表で参議院選挙に立候補したが落選した。また著書に『宇宙人はなぜ地球に来たのか』などがあり、社会の主流からは異色とも言える視点で議論を続けている。

山本晋也(映画監督)

1939年東京・神田生まれの映画監督、タレント、俳優、リポーター。'65年に「狂い咲き」で監督デビューし、その後はピンク映画を中心に多数の作品を発表。'81年から出演したテレビ深夜番組トゥナイトシリーズでは、“すごいですねぇ”“ほとんどビョーキ”といった独特の語り口で人気を博し、以降も俳優やコメンテーターとして幅広く活躍した。映画監督だけでなく社会問題にも関心を持ち、'90年代以降はエイズやハンセン病、原発事故、震災などへの取材・啓発活動にも取り組んだ。

青木功(プロゴルファー)

熊本県出身のプロゴルファー。国内外で通算50勝以上を挙げ、日本ゴルフ界を代表する存在。特に1978年のアジア・パシフィック選手権や'83年のマスターズ参戦で注目され、技術と精神力で世界に通用する日本人プレーヤーとして評価された。引退後も指導者や解説者としてゴルフ界に貢献。

岡本綾子(プロゴルファー)

大阪府出身の女子プロゴルファー。1971年にプロ入りし、国内外で数多くの優勝を重ね、日本女子プロゴルフ界を牽引。'78年に全米女子オープンでアジア人初の優勝を達成し、海外メジャーでの活躍でも知られる。引退後は指導者や解説者としてゴルフ界に貢献し、女子ゴルフの発展に大きく寄与した。

ジャンボ鶴田(プロレスラー)

山梨県出身の日本のプロレスラー。中央大でレスリング選手として活躍後、1973年に全日本プロレスでデビューし、AWA世界ヘビー級王座を日本人で初めて獲得。'89年には三冠ヘビー級王者として頂点に立ち、長年にわたり日本プロレス界の中心選手として名勝負を重ねた。'99年に引退し、その後'90年代末に肝臓移植の合併症で49歳で没した。

長州力(プロレスラー)

山口県徳山(現・周南市)出身の元プロレスラーで日本のプロレス界を代表する存在。1974年に新日本プロレスでデビューし、'80〜'90年代に「革命戦士」の異名で人気を博したほか、IWGPヘビー級王座など主要タイトルを獲得。藤波辰巳との名勝負や独自の強烈な技で強さを示し、ジャパン・プロレスなど団体旗揚げにも関与。2019年に正式に引退した。

藤波辰爾(プロレスラー)

神奈川県横浜市出身のプロレスラー。1966年に日本プロレスでデビューし、新日本プロレス創設後は同団体を代表するスターとして活躍。華麗な空中技と闘志あふれるスタイルで人気を集め、長州力との名勝負やIWGPヘビー級王座獲得など多くの実績を残した。日本プロレス界の象徴的存在として、選手・指導者・解説者としても幅広く貢献した。

具志堅用高(プロボクサー)

沖縄県出身の元プロボクサー。1974年にプロデビューし、'77年にWBA世界ライトフライ級王座を獲得。防衛記録13度は当時世界最長で、世界王者として長期政権を築いた。引退後はタレント・解説者としてテレビ出演やスポーツ指導にも活躍し、日本ボクシング界の象徴的存在として広く知られている。

中野浩一(競輪選手)

東京都出身の元自転車競技選手。1977年にプロ転向し、'80年代にトラック競技スプリントで世界選手権10連覇を達成。'84年のロサンゼルス五輪でも活躍し、スプリント種目で日本の競輪界に革命をもたらした。引退後は競輪指導者や解説者として活動し、国内外で高い評価を受ける日本自転車界のレジェンド。

ガッツ石松(プロボクサー)

元プロボクサー、タレント、俳優。ヨネクラボクシングジム所属で、アジア人初のWBC世界ライト級王者となり、群雄割拠の同級で5度の防衛を果たした。1978年に新井容日戦を最後に引退。以後はタレントに転身し、独特のキャラクターで人気を博す。俳優としても『北の国から』『おしん』などに出演し、元ボクサータレントの草分け的存在となった。

千代の富士貢(大相撲力士)

北海道出身の大相撲力士。二子山部屋所属で、最盛期には「昭和の小さな巨人」と称され、史上最多タイの31回の幕内最高優勝を達成。スピードと力強さを兼ね備えた相撲で人気を博し、引退後は年寄・理事として相撲界に貢献。日本相撲史における伝説的存在として評価されている。

森末慎二(体操選手)

東京都出身の体操選手。1976年モントリオール五輪で団体銀・個人種目で銅メダルを獲得し、'84年ロサンゼルス五輪でも団体金メダルを達成。跳馬や平行棒を得意とし、日本体操界を代表する選手として活躍した。引退後は体操指導者や解説者としても活動し、国内外で日本体操の普及と発展に貢献した。

山下泰裕(柔道家)

兵庫県神戸市出身の柔道家。1984年ロサンゼルス五輪で柔道男子無差別級金メダルを獲得し、日本柔道界の象徴的存在となる。世界柔道選手権でも金メダルを複数回獲得し、全日本柔道連盟理事長として指導・普及活動にも尽力。技術と精神力に優れた選手として、国内外で高く評価され、日本柔道界の発展に貢献した。

川合俊一(バレーボール選手)

神奈川県出身の元バレーボール選手。日立(現・日立Astemo)で活躍し、1976年モントリオール五輪に日本代表として出場。引退後はスポーツ解説者、タレントとしてテレビ出演も多数。指導者としても活動し、バレーボールの普及に貢献。明るいキャラクターと的確な解説で、競技界外でも広く知られる存在となった。

王貞治(プロ野球選手・監督)

1958〜'74年に読売ジャイアンツ一筋で活躍した日本プロ野球界の名三塁手。打率.305、444本塁打、2471安打を記録し、「ミスタープロ野球」と称された。引退後は同球団の監督としても日本一を経験し、国民的英雄となった。

田淵幸一(プロ野球選手)

大阪府出身の元プロ野球選手(内野手)。南海ホークスで活躍し、特に強打の捕手として知られ、1970年代に本塁打王・打点王を複数回獲得。'73年の日本シリーズでは決定打を放ちチームを優勝に導いた。引退後は野球解説者や監督としても活動し、日本プロ野球史に残る名選手として評価されている。

山本浩二(プロ野球選手)

広島県出身の元プロ野球選手・監督。広島東洋カープで外野手として活躍し、「赤ヘルの魂」と称される強打者。1970年代に首位打者や本塁打王を獲得し、チームを日本シリーズ優勝に導いた。引退後は監督や解説者としても活動し、広島カープの黄金期を支えた功績から日本プロ野球界のレジェンドとして高く評価される。

江夏豊(プロ野球選手)

庫県尼崎市出身の元プロ野球選手(投手)、解説者。広島東洋カープで活躍し、プロ入りから抑え投手として通算317勝を挙げる。1979年の日本シリーズでの劇的な投球や「江夏の21球」で知られ、リリーフ投手として歴史的評価を受けた。引退後は野球解説者・評論家として活動し、野球界に長年影響を与え続けた。

村田兆治(プロ野球選手)

千葉県出身の元プロ野球選手(投手)、解説者。千葉ロッテマリーンズで活躍し、豪速球と多彩な変化球を武器に1970年代から'80年代にかけてチームを支えた。通算200勝を達成し、日本プロ野球史に名を残す名投手。引退後は野球解説者として活動し、後進の指導にも携わり、投手陣の育成や野球普及に貢献した。

星野仙一(プロ野球選手・監督)

愛知県豊橋市出身の元プロ野球選手(投手)・監督。中日ドラゴンズで投手として活躍後、阪神タイガース、日本ハムファイターズなどで監督を務め、熱血指導と戦略眼でチームを日本一に導いた。選手・監督として長年日本プロ野球界に影響を与え、名将として広く評価される。

落合博満(プロ野球選手)

神奈川県鎌倉市出身の元プロ野球選手・監督。ロッテオリオンズ、中日ドラゴンズなどで三冠王を3度獲得し、通算本塁打・打点・打率で高成績を残す強打者。引退後は中日ドラゴンズ監督としてチームをリーグ優勝に導き、戦略眼と選手育成で知られる。選手・監督両面で日本プロ野球界に大きな功績を残した。

中畑清(プロ野球選手)

神奈川県横浜市出身の元プロ野球選手・監督。読売ジャイアンツで主に外野手として活躍し、1980年代に打撃力と守備力でチームを支えた。引退後は横浜ベイスターズの監督を務め、選手育成やチーム改革に尽力。解説者やタレントとしても活動し、野球界における幅広い知名度と影響力を持つ存在となった。

掛布雅之(プロ野球選手)

兵庫県宝塚市出身の元プロ野球選手・監督。阪神タイガースで主に三塁手として活躍し、強打者としてチームの中心を担った。1985年のリーグ優勝・日本一に貢献し、引退後は阪神監督や野球解説者としても活動。長年にわたり球界で影響力を持ち、ファンからの支持も厚いレジェンドとして知られる。

江川卓(プロ野球選手)

福岡県久留米市出身の元プロ野球選手(投手)。PL学園高時代から注目され、プロ入り前の「江川事件」で話題となった。読売ジャイアンツで活躍し、速球と変化球を武器に通算169勝を挙げる。引退後は野球解説者として活動し、投手育成や解説を通じて日本プロ野球界に影響を与えた。

定岡正二(プロ野球選手)

福岡県出身の元プロ野球選手(内野手)。南海ホークスに入団し、俊足巧打の二塁手として活躍。1979年には新人王を受賞し、盗塁王も獲得するなどスピードを活かしたプレースタイルでチームに貢献。引退後は野球解説者や指導者としても活動し、若手選手の育成や野球普及に尽力した。

小林誠二(プロ野球選手)

東京都出身の元プロ野球選手(捕手)。読売ジャイアンツで活躍し、堅実な守備とリード力でチームを支えた。引退後は野球解説者として活動し、試合分析や選手の技術指導にも携わる。プロ野球界における捕手としての実績と知見を活かし、後進の育成や野球普及に貢献した。

原辰徳(プロ野球選手)

東京都出身の元プロ野球選手・監督。読売ジャイアンツで外野手として活躍し、打撃力と勝負強さでチームを牽引。引退後は巨人の監督としてリーグ優勝や日本シリーズ制覇に導き、戦略眼と選手育成で高く評価される。選手・監督両面で長年プロ野球界に影響を与え、日本を代表する名将の一人として知られる。

荒木大輔(プロ野球選手)

佐賀県出身の元プロ野球選手(投手)。ヤクルトスワローズで活躍し、力強い速球と変化球で1980年代後半から'90年代にかけてチームの先発の柱を担った。通算勝利数は200勝に迫る実績を誇り、'89年には最優秀防御率や最多勝を獲得。引退後は指導者や解説者として後進の育成に貢献し、日本プロ野球界に長く影響を与えた。

清原和博(プロ野球選手)

大阪府出身の元プロ野球選手(内野手・外野手)。PL学園高校からドラフト1位で西武ライオンズに入団し、強打のスラッガーとして活躍。読売ジャイアンツでもプレーし、通算本塁打476本を記録。日本プロ野球史上屈指のパワーヒッターとして知られる。引退後は野球解説やメディア出演も行い、野球界のレジェンドとして広く認知されている。

桑田真澄(プロ野球選手)

兵庫県出身の元プロ野球選手(投手)。PL学園高校時代から注目され、読売ジャイアンツに入団。巧みな変化球と制球力で長年先発投手として活躍し、通算勝利数は200勝以上。引退後は解説者や指導者として活動し、後進の育成や野球普及に尽力。日本プロ野球界における名投手の一人として評価されている。

植村直己(冒険家)

兵庫県出身の冒険家・登山家。世界初のマッキンリー冬季単独登頂や、エベレスト登頂など数々の偉業を成し遂げ、極地探検や冒険行為で国際的に高く評価された。1984年にカナダ北極圏で遭難死するまで、冒険精神と挑戦心を貫き、日本の登山・探検史における象徴的存在となった。

畑正憲(動物研究家)

大阪府出身の作家・動物学者・農学者。自然観察や生物研究を基に、野生動物や環境を題材とした著作を多数執筆。特に鳥類や昆虫の生態研究で知られ、科学的知見と文学的表現を融合させた作品で一般読者にも自然の魅力を伝える。教育活動や講演も行い、日本の自然保護や環境教育に貢献した。

やなせたかし(漫画家)

高知県出身の漫画家・絵本作家・詩人。戦後に漫画家として活動を開始し、アンパンマンを生み出したことで広く知られる。子ども向け作品を通じて「正義・思いやり・友情」の価値を伝え、日本の児童文化に大きな影響を与えた。絵本作家としての活動は国内外で高く評価され、多くの世代に愛され続けている。

水木しげる(漫画家)

鳥取県出身の漫画家。戦争体験を基にした作品や妖怪漫画で知られ、『ゲゲゲの鬼太郎』をはじめとする妖怪キャラクターを創出し、日本の漫画文化と妖怪文化の普及に大きく貢献。幅広いジャンルで執筆し、社会的・文化的影響力が高く、国内外で高い評価を受け続けた。

加藤芳郎(漫画家)

東京都出身の画家・イラストレーター。戦後、日本画や洋画の技法を融合させた作品を発表し、特に色彩表現と幻想的な作風で評価を得た。雑誌・書籍の挿絵や装丁画などでも活躍し、商業美術と芸術表現の両面で影響力を持つ。国内外の展覧会にも多数出品し、日本の近代美術界に貢献した。

手塚治虫(漫画家)

大阪府出身の漫画家・アニメーション作家。『鉄腕アトム』『ブラック・ジャック』など、多数の名作を生み出し、現代漫画の基礎を築いた。医師免許も持ち、科学・医学・倫理を題材にした作品で知られる。アニメ制作にも先駆的に取り組み、日本の漫画・アニメ文化の発展に絶大な影響を与え、「漫画の神様」と称される。

サトウサンペイ(漫画家)

東京都出身の漫画家。主に4コマ漫画で活動し、ユーモアあふれる日常描写と親しみやすい作風で人気を博す。代表作に『フジ三太郎』や『てなもんや三度笠』などがあり、テレビや新聞とも連動した作品を多数発表。戦後日本の漫画文化に貢献し、幅広い世代に親しまれる漫画家として知られる。

藤子・F・不二雄(漫画家)

富山県出身の漫画家。『ドラえもん』をはじめ、多くの児童向け漫画を手掛け、日本の漫画文化に絶大な影響を与えた。ユーモアと科学的アイデアを融合させた作風で子どもから大人まで幅広い層に支持され、アニメ化・映画化も多数。社会的・文化的影響力が高く、国民的漫画家として長く親しまれている。

藤子不二雄A(漫画家)

富山県出身の漫画家。藤子・F・不二雄と共に活動していた時期もあり、独立後は大人向けのブラックユーモア作品を中心に手掛けた。代表作に『笑ゥせぇるすまん』や『まんが道』などがあり、人間心理の滑稽さや社会風刺を描く作風で知られる。漫画界に独自の存在感を持ち、幅広い読者に影響を与え続けた。

横山光輝(漫画家)

兵庫県出身の漫画家。『鉄人28号』や『三国志』などの代表作で知られ、SFから歴史ものまで幅広いジャンルを手掛けた。緻密な作画とストーリーテリングで、子どもから大人まで幅広い読者層に支持され、日本漫画界に大きな影響を与えた。作品はアニメ化や映像化も多数行われ、国民的漫画家として長く親しまれている。

細川智栄子(漫画家)

1958年『くれないのばら』で「細川千栄子」としてデビュー。'68年に成人向け女性週刊誌で初のストーリー漫画「ああ♥初恋」を『女性セブン』で連載後、講談社『少女フレンド』や集英社『りぼん』など各誌で執筆し、'76年から40年以上続く大河連載『王家の紋章』を手がけた。'90年に『王家の紋章』で小学館漫画賞少女部門受賞。代表作はほかに『アテンションプリーズ』『伯爵令嬢』『あこがれ』。

園山俊二(漫画家)

早稲田大学在学中に毎日小学生新聞で『がんばれゴンベ』を連載しプロデビュー、35年間続く長期連載となった。トキワ荘の漫画家らと交流し、児童漫画や大人向け漫画を多数発表。代表作に『ギャートルズ』シリーズや『花の係長』があり、テレビアニメ化もされた。晩年は肝臓癌により入退院を繰り返し、1992年に死去。漫画一本で生きる姿勢で知られる。

赤塚不二夫(漫画家)

手塚治虫に影響を受け1956年に貸本漫画『嵐をこえて』でデビュー。トキワ荘で修業後、『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』『天才バカボン』などを発表し一躍人気作家となる。ギャグ漫画の王として戦後漫画史を築き、『天才バカボン』などの作品はテレビアニメ化もされ、文藝春秋漫画賞受賞や長期連載で日本の漫画文化に大きな影響を与えた。

楳図かずお(漫画家)

1955年に貸本漫画でデビューし、『漂流教室』『まことちゃん』『わたしは真悟』などを発表。ホラー漫画の第一人者として知られ、幅広いジャンルでも活躍した。

梶原一騎(漫画家)

は日本の漫画原作者・小説家・映画プロデューサー。格闘技やスポーツを題材に男の闘う姿を豪快かつ繊細に描き、『巨人の星』『あしたのジョー』『タイガーマスク』などのヒット作で「スポ根もの」ジャンルを確立。空手五段・柔道二段の武道経験も活かし、型破りな生き方やスキャンダルでも注目を集めた。

さいとう・たかを(漫画家)

貸本時代に劇画の分野を確立し、『無用ノ介』や代表作『ゴルゴ13』など多くのヒット作を生む。『さいとう・プロダクション』を設立し、分業体制による制作方式を確立。『ゴルゴ13』は長寿連載作品としてギネス記録を樹立し、劇画界を代表する存在となった。

モンキー・パンチ(漫画家)

『ルパン三世』の作者で、青年漫画を中心に多数の作品を手掛けた。デジタル技術を漫画制作に積極的に導入し、デジタルマンガ協会初代会長を務める。『ルパン三世』をはじめ『復讐屋』『シンデレラボーイ』『MUSASHI -GUN道-』など多数作品がアニメ化され、『ルパン三世 DEAD OR ALIVE』では監督も担当。大学教授や漫画家協会理事として後進育成にも尽力した。

東海林さだお(漫画家)

1974年から2014年まで毎日新聞に13,749回連載した『アサッテ君』で全国紙連載漫画最多掲載記録を樹立した漫画家・エッセイスト。ユーモアエッセイの横綱的存在とされ、擬声語多用や独特の改行を特徴とする「昭和軽薄体」の文体で長年にわたり人気を博した。

石ノ森章太郎(漫画家)

SF漫画やギャグ、学習漫画まで幅広く手掛け、「漫画の王様」と称された漫画家。代表作に『サイボーグ009』『人造人間キカイダー』『009ノ1』『さるとびエッちゃん』などがあり、仮面ライダーシリーズなど特撮作品の原作者としても活躍。昭和30〜40年代に新しい漫画手法を開発し、SF的表現や画面効果で手塚治虫と並ぶ影響力を持った。

松本零士(漫画家)

福岡県出身の漫画家で、SF漫画を中心に『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』『男おいどん』などを手掛けた。幅広いジャンルの作品を描き、アニメ製作にも積極的に関与。松本アニメブームを牽引し、宝塚大学特任教授なども歴任。受賞歴には旭日小綬章や紫綬褒章があり、ペンネームは零歳児の感性を忘れない意志と午前零時まで働く士の意から由来する。

ちばてつや(漫画家)

東京都出身の漫画家で、『あしたのジョー』を高森朝雄(梶原一騎)と共作し社会現象を巻き起こした。ほか『ハリスの旋風』『あした天気になあれ』『のたり松太郎』『みそっかす』などを手掛ける。文星芸術大学教授・学長や日本漫画家協会会長を歴任。紫綬褒章・旭日小綬章受章、文化勲章受章、文化功労者、日本芸術院会員としても顕著な功績を残す。

宮崎駿(アニメ監督ほか)

アニメ監督・アニメーターで、スタジオジブリ取締役名誉会長。1963年東映動画入社後、'78年『未来少年コナン』で演出家デビュー、'79年『ルパン三世 カリオストロの城』で劇場映画監督初挑戦。『風の谷のナウシカ』成功後、'85年スタジオジブリを設立し、『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『魔女の宅急便』などを発表。世界的に影響力が大きく、『千と千尋の神隠し』と『君たちはどう生きるか』でアカデミー長編アニメ映画賞受賞。

ジョージ秋山(漫画家)

1966年『ガイコツくん』でデビューし、『銭ゲバ』『アシュラ』といった過激なテーマの作品で注目を集めた。1973年から2017年まで『浮浪雲』を連載、1978年小学館漫画賞を受賞。2020年に77歳で逝去。

わたせせいぞう(イラストレーターほか)

1974年、『新漫画昆虫記』で小学館ビッグコミック賞を受賞し漫画家デビュー。'83年から『ハートカクテル』を『モーニング』で連載し、アニメ化・ドラマ化もされる。長年会社員と漫画家の二足の草鞋を履き、退社後は作家活動に専念。'87年には『私立探偵フィリップ』で文藝春秋漫画賞を受賞し、2010~2018年には神奈川大学で特任教授も務めた。

本宮ひろ志(漫画家)

1947年千葉県生まれ。'65年にデビューし、'68年の『男一匹ガキ大将』で一躍人気作家となる。以降『俺の空』『硬派銀次郎』『サラリーマン金太郎』など多くのヒット作を生み出し、不良・サラリーマンものなど幅広いジャンルで活躍した。

弘兼憲史(漫画家)

松下電器に3年間勤務後、漫画家に転身。代表作に『課長島耕作』シリーズ、『人間交差点』『黄昏流星群』があり、サラリーマン経験を生かして現代社会の大人の生活や葛藤を描く。1983年に『課長島耕作』を『モーニング』で連載開始。30年以上続く長期連載となり、団塊世代の代弁者としての地位を確立した。

山岸凉子(漫画家)

1947年北海道生まれの少女漫画家。「アラベスク」でバレエ漫画を革新しブレイクし、'83年に「日出処の天子」で少女漫画賞を受賞。神話・歴史・ホラーなど多彩なテーマを描き、「24年組」を代表する存在となった。

蛭子能収(漫画家)

熊本県天草市生まれの漫画家・俳優。1973年『月刊漫画ガロ』でデビュー後、官能劇画や不条理漫画を中心に精力的に執筆し、元祖ヘタウマ漫画家として評価される。'81年に独立して単行本『地獄に堕ちた教師ども』を発表。'80年代後半からは芸能活動にも進出し、テレビ番組やドラマに出演。前衛的で狂気を帯びた作風で、日本漫画に新たな表現の地平を開いた。

山上たつひこ(漫画家)

徳島県生まれ、大阪府育ちの漫画家・小説家。代表作はギャグ漫画『がきデカ』やディストピア漫画『光る風』。1974年に『がきデカ』を連載開始し社会現象を巻き起こす。'80年代以降は日常生活の不条理を描くギャグ漫画や前衛的作品も発表。'90年に一度漫画執筆を休止し小説家に転向したが、2004年には『中春こまわり君』で漫画活動に復帰した。

池田理代子(漫画家)

1947年生まれの漫画家・劇画家で、'67年にデビュー。代表作『ベルサイユのばら』で少女漫画の枠を超え一大ブームを巻き起こした。'80年『オルフェウスの窓』で日本漫画家協会賞を受賞。'95年以降は声楽家としても活躍し、多彩な才能を発揮している。

里中満智子(漫画家)

1948年大阪生まれの漫画家・評論家。高校時代にデビューし、以降50年以上で500点近くの作品を発表。その代表作に「アリエスの乙女たち」「天上の虹」などがあり、'74年と'82年に大きな漫画賞を受賞。現在も大学教授や漫画団体の要職を務め、漫画界を牽引する存在。

もりたじゅん(漫画家)

1948年生まれの日本の漫画家。'68年にデビューし、『りぼん』などでラブコメからリアルな男女物語まで幅広く描く。代表作に『キャー!先生』『うみどり』などがあり、後年はレディースコミックでも活躍した。

柳沢きみお(漫画家)

1948年新潟県五泉市生まれの漫画家。'70年にデビューし、'78年の『翔んだカップル』で講談社漫画賞を受賞。ラブコメや青年漫画を中心に多数の作品を発表し、『特命係長 只野仁』などヒット作も。今なお現役で精力的に創作活動を続けるベテラン漫画家。

萩尾望都(漫画家)

1949年山口県生まれの少女漫画家。'70年代から世界観と心理描写に優れた作品を発表し、『ポーの一族』『11人いる!』などで高い評価を得る。SF・ファンタジー・耽美など多ジャンルに挑み、「少女漫画の革新者」と呼ばれる存在。

一条ゆかり(漫画家)

1949年岡山県生まれの少女マンガ家。'68年に『雪のセレナーデ』で漫画家デビュー。『デザイナー』『砂の城』『有閑倶楽部』『プライド』などで人気を博し、'86年に少女部門の講談社漫画賞、2007年に文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞。恋愛や人生を鋭く描くその作風で長きにわたり支持されてきた。

弓月光(漫画家)

1949年生まれの漫画家。'68年に「りぼん新人漫画賞」でデビューし、少女漫画/少年漫画/青年漫画と幅広く活躍。『みんなあげちゃう♡』『甘い生活』などのラブコメ作品で知られ、長寿連載を続けるベテランである。

竹宮惠子(漫画家)

1950年徳島県生まれの漫画家。'68年にデビューし、'70年代〜'80年代に『風と木の詩』やSF漫画『地球へ...』などで少女漫画の枠を大きく広げた。'79年小学館漫画賞、2012年日本漫画家協会賞文部科学大臣賞、2025年文化功労者受賞と、その功績は高く評価されている。

あだち充(漫画家)

1970年に『消えた爆音』でデビューし、当初は劇画調少年漫画を中心に活動。'75年以降ソフトタッチな作風に転向し、'78年の『ナイン』で初の原作なし連載を開始。続く『みゆき』『タッチ』が大ヒットし、ラブコメ漫画の代表作家として『週刊少年サンデー』を牽引。野球漫画を主軸に長年活躍し、コミックス累計2億部を突破するなど日本を代表する漫画家となった。

美内すずえ(漫画家)

1951年大阪生まれの漫画家。'67年に高校2年でデビューし、'76年から連載を始めたガラスの仮面は累計5,000万部超の大ヒット作。少女漫画のみならずホラーやサスペンスも手がけ、'82年に講談社漫画賞、'95年に日本漫画家協会賞を受賞した。

いしいひさいち(漫画家)

1951年生まれの漫画家で、新聞連載や4コマ漫画を中心に活動。代表作は『がんばれ!!タブチくん!!』で、『ののちゃん』は最長期連載作品。プロ野球や政治、庶民生活など幅広い題材を扱い、過激な皮肉やナンセンスを特徴とする独自の作風で知られる。文藝春秋漫画賞や手塚治虫文化賞など多数受賞し、作品の一部はアニメ化もされている。

陸奥A子(漫画家)

1954年福岡県生まれの少女漫画家。'72年に「獅子座うまれのあなたさま」でデビューし、'70〜'80年代に雑誌『りぼん』で「おとめチック」路線を牽引。等身大の少女の恋愛や日常を軽やかに描き、多くの読者に支持された。代表作に『こんぺい荘のフランソワ』など。

鳥山明(漫画家)

1978年に『ワンダーアイランド』でデビュー、『Dr.スランプ』と『ドラゴンボール』を代表作とする。両作はいずれもアニメ化され、長期にわたり放映されたほか、累計発行部数は『ドラゴンボール』が2億6,000万部を超える。漫画活動の傍らゲームやマスコットのキャラクターデザインも手掛け、『ドラゴンクエスト』などに貢献。日本漫画の世界的普及に大きく寄与した影響力の高い漫画家である。

くらもちふさこ(漫画家)

1955年生まれの少女漫画家。'72年『メガネちゃんのひとりごと』でデビューし、『いつもポケットにショパン』『天然コケッコー』など多くの名作を発表。'96年に講談社漫画賞、『花に染む』で2017年に手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞するなど、半世紀にわたり少女漫画界を牽引してきた。

江口寿史(漫画家)

1956年熊本県生まれの漫画家・イラストレーター。'77年に『すすめ!!パイレーツ』でデビューし、『ストップ!!ひばりくん!』などでブレイク。'80年代以降はポップな線画で女性キャラを描くイラストでも高く評価され、近年も個展や広告・CDジャケットなど多方面で活躍している。

槇村さとる(漫画家)

高校在学中の1973年『別冊マーガレット』掲載の「白い追憶」でデビュー。高校卒業後会社員となるが、出版社の原稿料が給料を上回り専業作家となる。'78年以降、フィギュアスケートやジャズダンス、アイスダンスを題材にした作品を発表し、代表作には『愛のアランフェス』『ダンシング・ゼネレーション』『白のファルーカ』がある。『イマジン』『おいしい関係』『Real Clothes』はテレビドラマ化され、大人向け漫画でも活躍した。

柴門ふみ(漫画家)

徳島県出身の漫画家・エッセイストで、恋愛漫画やエッセイで人気を博し「恋愛の巨匠」と称された。バブル期には『東京ラブストーリー』『あすなろ白書』『同・級・生』など、多くの作品がトレンディドラマ化された。ペンネームはポール・サイモンに由来。夫は漫画家の弘兼憲史で、1男1女がおり、子どもたちも漫画・イラストの道で活動している。

高橋留美子(漫画家)

1978年に『うる星やつら』で連載デビューし、'80年から『めぞん一刻』も並行して連載。少年誌と青年誌の両方で活躍し、ギャグや恋愛、コメディから格闘技ものまで幅広い作風で人気を確立した。'87年以降は『らんま1/2』『1ポンドの福音』なども発表し、長期にわたり多くのヒット作を生み出した日本を代表する漫画家。

みうらじゅん(漫画家)

1980年に『ガロ』でデビューした漫画家・イラストレーター。関西ネタや怪獣ネタを中心にエッセイやイラストを多数執筆し、雑誌やテレビ・ラジオでも活動。'82年に『週刊ヤングマガジン』のちばてつや賞で佳作を受賞。多彩なメディア活動を展開し、'89年には「大島渚」というバンドを結成し、人気番組『いかすバンド天国』に出場するなど音楽活動も行った。

やくみつる(漫画家)

1981年に『まんがタイムオリジナル』でデビューした漫画家で、初期は『がんばれエガワくん』が人気となった。横浜ベイスターズを題材にした野球漫画を得意とし、現実的な描写とユーモアを融合させた作風で知られる。選手への辛辣なネタや風刺を盛り込みつつ、荒唐無稽なエピソードも描き、漫画・エッセイ界で独自の地位を築いた。

湯村輝彦(漫画家)

イラストレーター、デザイナー、漫画家、音楽評論家で、ヘタウマ漫画の先駆者として知られる。1976年に糸井重里と広告や絵本を手がけ、漫画雑誌『ガロ』で『ペンギンごはん』シリーズを発表。'80年代のヘタウマブームを牽引した。フラミンゴ・スタジオを主宰し、イラストから漫画、広告、音楽関連まで幅広く活動しており、クレイジーケンバンドのCDジャケット制作でも知られる。

とりいかずよし(漫画家)

1968年に『くちなし犬』でデビュー後、『週刊少年ジャンプ』で人情ギャグ漫画『トイレット博士』を連載し、単行本1000万部のヒット作となる。赤塚不二夫の指導でスカトロ要素を取り入れ、後半は「メタクソ団」登場で人気爆発。'77年に連載終了後はギャグ漫画からストーリー漫画へ転向し、『トップはオレだ!!』などを発表。テレビドラマの脚本や番組タイトル画も手がけるなど幅広く活躍。

大島弓子(漫画家)

「24年組」の代表格で、1968年に『ポーラの涙』でデビュー。独特の感性と幻想性で『綿の国星』『ミモザ館でつかまえて』などを発表し、'73年に日本漫画家協会賞、'79年に講談社漫画賞を受賞。晩年も『グーグーだって猫である』などで活躍し、2021年に文化功労者に選ばれた。

内田春菊(漫画家)

1984年、『シーラカンスぶれいん』でデビュー。性的表現をストレートに描く「女の子エッチ漫画家」として岡崎京子や桜沢エリカとともに人気を集める。エッセイや漫画エッセイも手がけ、社会通念への異議を作品に反映。'85年から『ガロ』に作品を発表し、'86~'87年連載の『南くんの恋人』は4度テレビドラマ化されるなど幅広く活躍。

桜沢エリカ(漫画家)

東京都出身、19歳で漫画家デビュー。岡崎京子や内田春菊とともに性的表現を描く「女の子エッチ漫画家」として知られる。1985年に『ウーくんのソフト屋さん Special』で初単行本を刊行し、思春期少女を題材とした『かわいいもの』『フールズ・パラダイス』『チェリーにおまかせ!』を発表。'91~'93年の『メイキン・ハッピィ』で人気を確立した。

さくらももこ(漫画家)

『ちびまる子ちゃん』で知られる漫画家・エッセイスト。自身の少女時代をモデルにした同作は累計3000万部を超えるヒットとなり、1989年に講談社漫画賞少女部門を受賞。エッセイ集『もものかんづめ』『さるのこしかけ』『たいのおかしら』もミリオンセラー。'90年の『ちびまる子ちゃん』アニメ化により国民的知名度を得、主題歌『おどるポンポコリン』作詞も手掛けるなど幅広く活躍した。

お笑い・タレント > 1950・60年代

1960年代になるとテレビが家庭に入り込み、『シャボン玉ホリデー』『夢であいましょう』など歌とコントを組み合わせた音楽バラエティや演芸番組が全盛期を迎えた。ハナ肇とクレージーキャッツなどが音楽的な実力とナンセンスな笑いを両立させてお茶の間のスターとなり、漫才は現代的な「ボケ・ツッコミ」の型を確立して人気となった。後半に登場したコント55号(萩本欽一・坂上二郎)は動きの激しいアクションコントで爆発的なブームを巻き起こし、後続のザ・ドリフターズらによる黄金時代へと続くテレビバラエティの原点を築き上げた。

─ 主なお笑いタレント (順不同) ─

1950

榎本 健一

浅草から全国へ人気が広がった日本を代表する喜劇俳優・歌手で、「日本の喜劇王」と称された。戦前・戦後を通じて国民的な人気を誇り、全盛期には「エノケソ」「土ノケン」といった偽物が各地に現れるほどの影響力を持った。

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古今亭志ん生

戦後を代表する落語家で落語協会4代目会長。孫は女優の池波志乃。

桂文楽

戦後に活躍した落語の名人。ラジオ東京(現TBS)開局時から専属となる。

桂小文治

大正から昭和にかけて活躍。大阪落語に始まり東京落語界でも幹部となる。

林家彦六

『笑点』で活躍した林家木久扇、三遊亭好楽の師匠にあたる。

古今亭今輔

「お婆さん落語」で知られる。落語芸術協会の2代目会長を務めた。

春風亭柳橋

日本芸術協会の創設者。44年間にわたり会長を務め、東京と上方落語の発展に努めた。

三遊亭圓生

大阪出身だが江戸落語の落語家として活動。演目数は落語史上最多とも言われた。

三代目・桂三木助

美しい夫婦愛を描いた名作落語「芝浜」の作者で、”芝浜の三木助”として知られた。

三代目・江戸家猫八

“江戸猫”の愛称で親しまれた物真似師・俳優。NHK『お笑い三人組』に11年間出演した。

一龍齋貞鳳

講談師で政治家。NHK『お笑い三人組』で人気を得、クイズ番組などの司会も務めた。

四代目 三遊亭金馬

日本演芸家連合の五代目会長。国立演芸場の開設に尽力した功労者でもある。

由利徹(脱線トリオ)

南利明と八波むと志と「脱線トリオ」を結成し人気となる。解散後は喜劇俳優として活躍。

コロムビア・トップ(青空トップ・ライト)

漫才コンビ「青空トップ・ライト」でお茶の間の人気を博す。漫才師、漫談家、声優として広く活躍した後に参議院議員となる。

三木のり平

俳優、演出家、コメディアンとして活躍した。日本喜劇人協会の5代目会長も務めた。

コロムビア・ライト(青空トップ・ライト)

コロムビア・トップと漫才コンビ「青空トップ・ライト」結成、社会風刺の辛口漫才で活躍した。

大村崑

大阪梅田の『北野劇場』の専属コメディアンを皮切りに喜劇俳優としてTVでも大活躍した。

正司歌江(かしまし娘)

実の姉妹で結成された漫才トリオ「かしまし娘」の長女。三味線担当、「♪ウチら陽気なかしまし娘」で人気を博す。

内海好江(かしまし娘)

14歳で女性漫才コンビ「内海桂子・好江」を結成し、毒舌キャラとしてテレビで活躍した。

柳家金語楼

東京都出身の落語家・喜劇人で、6歳で初舞台を踏んだ天才少年として知られる。エノケン・ロッパと並ぶ三大喜劇人の一人で、落語に加えレコード、ラジオ、映画、テレビなど多様なメディアで活躍。1953年のテレビクイズ番組『ジェスチャー』では男性チームのキャプテンを務め、徳川夢声との『こんにゃく談義』でも人気を博した。

1960

六代目 笑福亭松鶴

6代目笑福亭松鶴(竹内日出男)は大阪出身の落語家で、上方落語協会の2代目会長を務めた。出囃子は「舟行き」。父は5代目笑福亭松鶴、息子は5代目笑福亭枝鶴で、甥の和多田勝(のちの笑福亭小つる)も若い頃に共に修行するなど、落語一家として知られた。

春風亭柳昇

飄々とした語り口と名文句で親しまれた新作落語の名手。古典では芽が出ず新作落語へ転じ、「カラオケ病院」「日照権」など日常を題材にした作品を発表した。軍隊体験を描く「与太郎戦記」は映画化され大ヒット。多才な人物で、著作や短歌、トロンボーン演奏でも知られた。

鳳啓助(唄子・啓助)

1956年に京唄子と漫才コンビ「唄子・啓助」を結成し、「ポテチン」などの名ギャグで人気を得た。結婚と離婚を経てもコンビ活動を続け、「唄啓劇団」を旗揚げ。俳優として映画にも出演し、脚本家としても活動した。『唄子・啓助のおもろい夫婦』での唄子との掛け合いは番組の名物となった。

京唄子(唄子・啓助)

鳳啓助との夫婦漫才で一世を風靡し、ドラマや舞台でも活躍した芸道一筋の喜劇人。京都生まれで貧しい家庭に育ちながら芸への情熱を貫き、劇団巡りの末に啓助と出会い結婚。離婚後もコンビを続け、大げんか漫才で独自の魅力を築いた。平成20年に上方演芸の殿堂入りを果たした。

東けんじ(Wけんじ)

宮城けんじと「Wけんじ」を組んだ栃木県出身の漫才師で、1960年代に一世を風靡した。ロイド眼鏡のとぼけたボケとテンポの速い語りで人気を集め、「やんなっ!」「バカだなぁ〜」などの流行ギャグを生んだ。普段は内向的で無口だが舞台では爆発的な魅力を発揮し、ヘリ移動で舞台を掛け持ちするほどの人気を誇った。

宮城けんじ(Wけんじ)

東けんじと「Wけんじ」を組んだ漫才師で、司会者・俳優としても活躍した。宮城県出身で読書家だが、大の博打好きでも知られる。座右の銘は「努力ある所に自信あり」。浅草松竹演芸場や東宝名人会の常連として実力を示し、晩年はマセキ芸能社に所属した。

夢路いとし(夢路いとし・喜味こいし)

神奈川県出身の生粋の芸人で、弟・喜味こいしと組む「いとこい」コンビで66年間活躍した上方漫才の重鎮である。『生活笑百科』などで幅広い人気を得て、俳優として朝ドラにも出演。コンビは大阪市の指定無形文化財に選ばれた。

四代目 桂米丸

「お婆さんの今輔」と呼ばれた師匠・今輔に入門し、新作落語一筋で活躍してきた落語家である。1962年には圓右、柳昇、三平らと「創作落語会」を結成し、毎月新作を披露する勉強会を行うなど、新作落語の発展に尽力した。

笑福亭松之助

兵庫県出身の上方落語家で、五代目笑福亭松鶴に入門し古典から新作まで幅広く演じた。ペンネーム「明石光司」で新作も手がけ、上方落語の普及に尽力。明石家さんまの師匠としても知られ、映画や朝ドラなど俳優としての活動も多彩だった。

三代目 桂米朝

大連生まれの上方落語家で、四代目桂米團治に入門し、米團治没後は落語に専念した。軽妙な話術と温かな人柄でテレビでも人気を博し、衰退していた上方落語を復興させた功績から「上方落語四天王」「中興の祖」と称えられる。NHK出演も多く、人間国宝として後進の育成にも尽力した。

初代 林家三平

七代目小三治の長男として生まれた東京出身の落語家で、「どうもすいません」のギャグで人気を博したテレビ界のスターである。父の死後に一度前座からやり直しつつ昇進し、1955年『新人落語会』の司会で三平ブームを巻き起こした。1958年に真打昇進。多くのギャグと明るい芸風で全国的人気を得、晩年まで落語協会理事を務めた。

藤山寛美

大阪出身の喜劇俳優で、子役から芸歴を始め、戦後は松竹新喜劇の大スターとして「あほの寛ちゃん」の愛称で圧倒的な人気を得た。244か月連続無休公演という伝説的記録を持ち、テレビでも活躍。名優・花柳章太郎に名付けられ、60歳で早逝した。

五代目 春風亭柳朝

1960年代にテレビやラジオで活躍し、談志・志ん朝・圓楽と並び「落語若手四天王」と称された実力派である。’72年には落語協会の専務理事となり、のちに常任理事として運営の中心を担った。’80年、弟子の春風亭小朝が異例の抜擢で真打昇進したことで名実ともに大御所としての地位を確立した。

三代目 桂春団治

1959年に3代目を襲名し、初代春団治を描いた映画公開の追い風を受けて大きな後押しを得た。襲名に際しては初代ゆかりの朱塗りの人力車と赤一色の装いで挨拶回りを行うなど話題性を高め、同年10月には東京寄席に出演して襲名披露を兼ね、上方落語の関東普及に早くから努めた。

五代目 桂文枝

1957年の上方落語協会結成時に幹事を務め、「上方落語五人男」の一人として活躍した落語家である。後に同メンバーのうち四人で「上方落語の四天王」と称され、上方落語の中心的存在として知られた。

ハナ肇(ハナ肇とクレイジーキャッツ)

東京都出身のコメディアン・俳優で、1957年に「ハナ肇とクレイジーキャッツ」を結成し、リーダー兼ドラマーとして『シャボン玉ホリデー』などの番組で人気を博した。「アッと驚く為五郎」のギャグもお茶の間で流行。俳優としても時代劇から喜劇、サスペンスまで幅広く活躍し、NHKドラマなどにも出演した。

三波伸介(てんぷくトリオ)

1960~’70年代に活躍したお笑いグループ「てんぷくトリオ」のメンバーで、グループでの活動を通じてコメディアンとして人気を得た。’70年、日テレ『笑点』にて前田武彦の代役として司会を務めた際にその手腕が評価され、同年12月に3代目司会者に正式就任した。落語に詳しく、大勢の落語家を相手に大喜利を巧みに取り仕切る能力で番組を支え、以降も長く視聴者に愛される司会者として活躍した。

谷 啓(ハナ肇とクレイジーキャッツ)

東京都出身の俳優・コメディアンで、大学時代からトロンボーン奏者として活動し、コミカルな演奏で人気を集めた。その後、フランキー堺や植木等と共に「ハナ肇とクレイジーキャッツ」のメンバーとして活躍し、「ガチョ~ン」のギャグで一世を風靡。映画やドラマ出演も多く、晩年はNHK『美の壺』でも好評を博した。

三代目 三遊亭圓歌

歯切れの良い語り口と自らの経験を生かした新作落語で人気を博した落語家である。三遊亭歌奴として林家三平との軽妙な掛け合いで昭和の黄金期を支えたが、昭和60年に出家し落語家と僧侶の二足の草鞋を履く異端の存在となる。高齢化社会を風刺した「中澤家の人々」などの作品で圓歌落語の集大成を示し、88年の生涯を閉じた。

植木等(ハナ肇とクレイジーキャッツ)

愛知県出身の俳優・歌手・コメディアンで、昭和を代表するエンターテイナーである。ハナ肇とクレイジーキャッツのメンバーとして『シャボン玉ホリデー』で「お呼びでない?」のギャグや「スーダラ節」で人気を博し、歌番組出演やコントで培った演技力を生かして『大往生』『甘辛しゃん』などの映画でも活躍した。

青島幸男

京都出身の放送作家・作詞家・俳優で、昭和を代表するマルチタレントである。『シャボン玉ホリデー』でハナ肇とクレイジーキャッツと共演し「スーダラ節」をヒットさせ、テレビドラマ『意地悪ばあさん』で人気を博した。エッセイなどの著作や政治活動(都知事など)でも知られ、NHKドラマ『ケンチとすみれ』など幅広く活躍した。

藤田まこと

東京都出身の俳優で、無声映画スター藤間林太郎の子として生まれ、父の一座の雑用係から芸能界に入った。1962年『てなもんや三度笠』でブレイクし人気を博した後、不遇期を経て時代劇『必殺』シリーズの中村主水役で復活。その後も『はぐれ刑事純情派』やNHK大河ドラマに出演するなど幅広く活躍した。

財津一郎

熊本県出身の俳優・コメディアン・歌手で、1964年に吉本新喜劇で頭角を現した。1966年『てなもんや三度笠』で甲高い声と独特のギャグで人気を得て以降、多彩な活動を展開。NHK大河ドラマ『秀吉』や連続テレビ小説『天花』などでも存在感を示し、89歳で生涯を閉じた。

犬塚弘(ハナ肇とクレイジーキャッツ)

東京都出身の俳優・ベーシストで、伝説的ジャズコミックバンド「ハナ肇とクレイジーキャッツ」のメンバーとして昭和から令和まで活躍した。『シャボン玉ホリデー』や喜劇映画で人気を博し、俳優としても宇野重吉の指導を受け、NHK連続テレビ小説やドラマ新銀河など多彩な作品に出演した。

坂上二郎(コント55号)

鹿児島県出身のコメディアンで、萩本欽一とのコンビ「コント55号」で国民的人気を博した。舞台を駆け回る勢いあるコントと「飛びます飛びます」のギャグで一世を風靡し、俳優や歌手としても活躍。NHKドラマ『タクシー・サンバ』『ハイカラさん』『腕におぼえあり』など多数の代表作を残した。

白木みのる

島根県出身の俳優・コメディアンで、1961年『スチャラカ社員』の事務員役で注目され、1962年『てなもんや三度笠』の珍念役で人気を博した。『素浪人 花山大吉』『TRICK2』や映画『てなもんや三度笠』シリーズ、『テルマエ・ロマエⅡ』など幅広く出演し、NHK連続テレビ小説『てるてる家族』『恋するハエ女』にも登場した。

立川談志

東京都出身の落語家で、1952年に五代目柳家小さんに入門し、27歳で五代目立川談志を襲名。古典落語の限界を感じ、落語立川流を創設して家元となった“落語界の反逆児”。破天荒な言動と毒舌で知られつつ、「落語は人間の業の肯定」という哲学を掲げ、人間の弱さや愚かさを描く理想の高座を追求した。参議院議員も務め、NHKでは演芸・教養番組に多数出演した。

毒蝮三太夫

1936年大阪府生まれで、東京都品川で育った俳優・ラジオDJである。戦後、浅草で育ち、中学生で舞台デビューし、児童劇団やNHKラジオで活動。テレビでは『笑点』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』などに出演し、NHKドラマ『鳴門秘帖』『タクシー・サンバ』などにも登場。ラジオDJとしても中高年層から熱い支持を得た。

東八郎

浅草フランス座で活躍した俳優・コメディアン。浅草の丁稚トリオやトリオ・スカイラインでコントに出演し人気を博した後、単独でNHK『お笑いオンステージ』に出演し全国的に知られるようになった。東八郎劇団を結成して後進の育成にも力を注ぎ、『志村けんのバカ殿様』や「ヨード卵光」のCMでも広く親しまれた。

古今亭志ん朝

古典落語の第一人者で、粋で上品な江戸弁と小気味よい語り口で人気を博した。テレビドラマや舞台でも活躍したが、終生こだわったのは古典落語で、あえて昔の言葉を使い観客を古き良き時代に誘った天才落語家である。

萩本欽一(コント55号)

東京都出身のコメディアンで、1966年に坂上二郎とコント55号を結成し、“欽ちゃん”の愛称で人気を博した。コンビ解散後も自ら構成・演出・出演する「欽ちゃん」シリーズで多数のタレントを育成し、NHKでは『ひまわり』ナレーションや『欽ちゃんのアドリブで笑』などに出演した。

桜井センリ(ハナ肇とクレイジーキャッツ)

ロンドン出身のジャズピアニスト・俳優で、1960年に植木等の紹介で「ハナ肇とクレイジーキャッツ」に参加。『シャボン玉ホリデー』でのコントで人気を博し、俳優としても山田洋次監督作品やNHKドラマスペシャル『父の詫び状』、大河ドラマ『獅子の時代』などに出演した。

横山ノック(漫画トリオ)

1960年に小林龍太郎(後の上岡龍太郎)と轟盛次を誘い、革新的な「漫画トリオ」を結成した。メンバーに横山フック、横山パンチという芸名を付けさせ、ニュース漫才やしゃべくり中心のトリオ漫才で人気を獲得。立川談志と兄弟分になるなど、独自の人脈と行動力で活躍の場を広げた。

なべおさみ

東京都出身のコメディアン・俳優・タレント・ラジオパーソナリティーで、ハナ肇の付き人から下積みを経て『シャボン玉ホリデー』で人気を博した。『ルックルックこんにちは』の「女ののど自慢」司会で朝の顔となり、俳優としても活躍。NHKでは連続テレビ小説『てるてる家族』などに出演した。