お笑い・タレント > 1970年代

1970年代はテレビがお茶の間の中心となる中、舞台からテレビへ活動の場を移した芸人たちが大活躍し、独自の笑いを確立した。『8時だヨ!全員集合』のドリフターズによる身体を張ったコントは数々の流行語を生み出し、やすし・きよしなどの名人による上方漫才や、コント55号による人間味あふれる笑いがお茶の間を席巻した。さらには「オールナイトニッポン」など深夜放送からも新たな感性の笑いが芽吹き、多様なエネルギーが混ざり合いながら、後の’80年代の漫才ブームへつながる巨大な土壌が形成されていった。

─ 主なお笑いタレント (順不同) ─

1970

六代目 三遊亭圓生

大阪生まれの落語家で、義太夫から落語に転向し、20歳で真打昇進。笑いと涙を交えた人情話を得意とし、志ん生や文楽と共に昭和の落語界を牽引。満州での困難な経験を経て芸を磨き、「昭和の大名人」と称された。平成31年の大河ドラマ『いだてん』では中村七之助が演じた。

五代目 三遊亭圓楽

東京都出身の落語家で、1955年に六代目三遊亭圓生に入門。1962年に29歳で真打昇進し、五代目円楽を襲名。古典落語を得意とし、ゆったりした語り口とスケールの大きい高座で人気を博した。テレビ演芸番組の司会でも知られ、柔和な人柄と豪快な笑い声で親しまれた。長年の功績により文化庁芸術祭賞や旭日小綬章を受賞。2007年に引退し、弟子の楽太郎が六代目円楽を襲名した。

荒井注(ザ・ドリフターズ)

東京都出身のコメディアンで、大学卒業後に「ザ・ドリフターズ」に加入。演奏よりも「なんだ、バカヤロー」などのギャグで子どもたちに人気を博した。1974年に脱退後はクイズ番組の解答者や俳優として活動し、NHKの大河ドラマ『草燃える』や土曜ドラマ『松本清張シリーズ 遠い接近』などにも出演した。

いかりや長介(ザ・ドリフターズ)

東京都出身のコメディアンで、「ザ・ドリフターズ」のリーダーとして1964年から活躍。『8時だョ!全員集合』や『ドリフ大爆笑』でメンバーと息の合ったコントを披露し国民的人気を得た。晩年は渋みのある演技でドラマや映画にも出演し、『踊る大捜査線』やNHK『おんなは度胸』などで存在感を示した。

加藤茶(ザ・ドリフターズ)

東京都出身のコメディアンで、「ザ・ドリフターズ」のメンバーとしてテレビや映画に多数出演。1960年代後半から’70年代前半にかけて子どもたちに人気を博し、『8時だョ!全員集合』で一発芸を次々にヒットさせカリスマ的存在となった。愛称は「カトちゃん」「ヒデ坊」「チャー坊」で、活動縮小後も加トケンやこぶ茶バンドなどで活躍。

仲本工事(ザ・ドリフターズ)

東京都日本橋出身のコメディアン・ミュージシャンで、「ザ・ドリフターズ」のメンバー。バンドではボーカルとギターを担当し、ドリフから派生したこぶ茶バンドでも活動。1965年に高木ブーの誘いで加入し、リーダーいかりや長介の説得もあって芸能界入りした。

高木ブー(ザ・ドリフターズ)

中央大学経済学部卒業後、東京ガスの内定を蹴ってプロのミュージシャンの道を選んだ。学生時代からハワイアンバンドで活動し国内外のツアー経験も豊富。ジェリー藤尾のバンドや「ロジェ滋野とシャドーズ」を経て、仲本工事と共に「ザ・ドリフターズ」に加入し、音楽とコメディの両面で活躍した。

三波伸介(てんぷくトリオ)

1960~’70年代に活躍したお笑いグループ「てんぷくトリオ」のメンバーで、グループでの活動を通じてコメディアンとして人気を得た。’70年、日テレ『笑点』にて前田武彦の代役として司会を務めた際にその手腕が評価され、同年12月に3代目司会者に正式就任した。落語に詳しく、大勢の落語家を相手に大喜利を巧みに取り仕切る能力で番組を支え、以降も長く視聴者に愛される司会者として活躍した。

伊東四朗(てんぷくトリオ)

三波伸介・戸塚睦夫とともに「てんぷくトリオ」として活動の後、喜劇役者として人気を得た。1977年のTBSドラマ『ムー』で演技力が注目され、’83年のNHK朝ドラ『おしん』で父親役を演じて俳優としての評価を確立した。

坂上二郎(コント55号)

鹿児島県出身のコメディアンで、萩本欽一とのコンビ「コント55号」で国民的人気を博した。舞台を駆け回る勢いあるコントと「飛びます飛びます」のギャグで一世を風靡し、俳優や歌手としても活躍。NHKドラマ『タクシー・サンバ』『ハイカラさん』『腕におぼえあり』など多数の代表作を残した。

萩本欽一(コント55号)

東京都出身のコメディアンで、1966年に坂上二郎とコント55号を結成し、“欽ちゃん”の愛称で人気を博した。コンビ解散後も自ら構成・演出・出演する「欽ちゃん」シリーズで多数のタレントを育成し、NHKでは『ひまわり』ナレーションや『欽ちゃんのアドリブで笑』などに出演した。

笑福亭仁鶴

大阪府出身の落語家で、六代目笑福亭松鶴に入門し「仁鶴」の名を授かる。吉本興業所属後、ラジオや『ヤングおー!おー!』などのバラエティ番組で全国的に人気を獲得。寄席や落語会、テレビCMでも活躍し、『バラエティ生活笑百科』の相談室長や連続ドラマ出演など、多方面で活躍した。

月亭可朝

三代目林家染丸に入門後、桂米朝門下で小米朝を経て1968年に可朝を襲名。落語家として古典落語も演じつつ、’69年の「嘆きのボイン」で歌手・タレントとしても人気を博した。常識破りの行動と独特の丸メガネ・チョビ髭・カンカン帽の風貌が特徴で、『ヤングおー!おー!』や『11PM』などテレビ番組で活躍した。

坂田利夫(コメディNo.1)

1967年に前田邦弘と漫才コンビ「コメディNo.1」を結成し、『アホの坂田』の愛称で親しまれる喜劇俳優。西川きよしの勧めで漫才に転向し、松竹新喜劇でアホ役を極める。藤山寛美からの助言を胸に、「アホは優しく生きる」という信条でキャラクターを確立した。

小松政夫

福岡県出身のコメディアン。植木等の付き人を経て『シャボン玉ホリデー』でデビューし、1960年代以降、バラエティ番組で活躍。伊東四朗とのコンビ芸で’70年代のギャグ界を代表。2011年には日本喜劇人協会10代目会長に就任。NHKでも時代劇やドラマに出演した。

ザ・ドリフターズ

欽ドン!

やすし・きよし

志村けん

上岡龍太郎(漫画トリオ)

大阪出身のコメディアン・司会者。1959年に「横山パンチ」として漫画トリオでデビュー。トリオ解散後はピンでラジオ・テレビに出演し、’80年代には『鶴瓶上岡パペポTV』や『探偵!ナイトスクープ』で司会者として人気を博す。’90年代には東京進出も果たし、『上岡龍太郎にはダマされないぞ!』などで活躍。2000年に自身の公言通り芸能界を引退した。

前田五郎(コメディNo.1)

大阪市出身の喜劇俳優。1963年に吉本新喜劇に入団し、脇役として活躍。’67年に坂田利夫と漫才コンビ「コメディNo.1」を結成し、ツッコミ担当として主になんばグランド花月などの舞台で活動。また、朝日放送テレビ『あっちこっち丁稚』ではカステラ店の主人役として出演した。

桂三枝 (六代目 桂文枝)

大阪府出身の上方落語家で、桂小文枝に入門。ラジオ『歌え!ヤングタウン』で若者に支持され、テレビにも進出。『新婚さんいらっしゃい!』など多数の番組で司会を務め、2012年に6代目桂文枝を襲名。NHKでは落語番組のほか、大河ドラマ『真田丸』や連続テレビ小説『わろてんか』など俳優としても活躍。

桂歌丸

横浜出身の落語家で、子ども時代から落語に親しみ、中学卒業前に落語の世界へ入る。古典落語、特に人情ばなしの名手として知られ、演芸番組『笑点』には初回放送から50年間出演。昭和49年から始めた独演会で古典落語の復興に努め、平成16年には落語芸術協会会長に就任。晩年も酸素吸入をしながら高座に上がるなど、生涯現役を貫いた。

横山やすし(やすし・きよし)

1966年に西川きよしと「やすしきよし」を結成し、革新的な「どつき漫才」を確立した大阪出身の漫才師。舞台中央のマイクから離れて動き回るデフォルメ演技や、ボケ・ツッコミが交互に入れ替わる型破り漫才で人気を博す。稽古嫌いながらもきよしと共にネタ合わせを行い、結成1年足らずで上方漫才大賞新人賞、5年目に大賞を受賞。テレビ出演も果たし、全国的に知られる存在となった。

西川きよし(やすし・きよし)

高知県出身。1966年に横山やすしと漫才コンビ「横山やすし・西川きよし」を結成し、「やすきよ」として国民的人気を獲得。漫才だけでなくテレビ司会でも活躍し、『パンチDEデート』『プロポーズ大作戦』などで人気を博す。1986年には参議院議員に当選し国政にも進出。芸能生活50周年を迎えた現在も劇場出演やレギュラー番組で活躍し、NHKでは『マッサン』や『ごごナマ』『おいしい金曜日』などに出演。

レツゴー三匹

正児・じゅん・一修が劇団解散を機に結成した漫才トリオ。名古屋の焼き鳥店「三匹」に由来し、「レツゴー」は意図的な表記。1969年に松竹芸能へ移籍し、’70年代に漫才で数々の賞を受賞。歌謡曲「新地ワルツ」もヒットし、80年代にはテレビ出演で全国的知名度を得た。

轟二郎

静岡県三島市出身のタレント・俳優。高校卒業後に殺陣師・スタントマンとして芸能界入りし、日本テレビ系バラエティ『びっくり日本新記録』で体を張る“チャレンジボーイ”として人気を得たほか、ドラマ『翔んだカップル』や映画『セーラー服と機関銃』などにも出演。闘病の末大腸がんで65歳で死去した。

なべおさみ

東京都出身のコメディアン・俳優・タレント・放送作家。1964年『シャボン玉ホリデー』でコント出演により人気を得て、’68年には山田洋次監督作で映画主演も経験。’78年から『ルックルックこんにちは』内コーナー司会で注目され、その後もテレビ・映画・舞台で幅広く活躍したベテラン芸能人。

せんだみつお

東京都出身。子役を経て’70年代にラジオやテレビ司会で人気を博し、「ナハナハ」のギャグと軽妙なトークで親しまれたマルチタレント。『ぎんざNOW!』『うわさのチャンネル』などに出演し、俳優としても時代劇やサスペンスドラマで活躍。NHKでは大河ドラマ『おんな太閤記』『春の波涛』『春日局』『毛利元就』や連続テレビ小説『おんなは度胸』『だんだん』に出演。

ケーシー高峰

山形県出身。医師家系に生まれ一度は医学部に進むも、芸能界への憧れから芸人に転身。14年間の下積みを経て、白衣姿での「医事漫談」でブレイクし人気を博す。テレビドラマや映画にも出演し、個性派俳優としても活躍。晩年は福島県に移住し、東日本大震災被災者支援にも尽力。生涯現役を貫き、独自の話芸を追求した。

四代目 林家小染

大阪市出身。高校時代から落語に親しみ、同級生の笑福亭鶴光とともに二人だけの落語研究会を結成し一席演じるなどしていた。1972年、毎日放送の番組『ヤングおー!おー!』で結成された若手落語家ユニット「ザ・パンダ」(月亭八方、桂きん枝=4代目小文枝、桂文珍と共に)の一員となり、愛嬌ある個性を生かして数々のレギュラー番組に出演。親しみやすい語り口でお茶の間の人気を集めた。

笑福亭鶴光

大阪府出身。1967年に六代目笑福亭松鶴に入門。ラジオ「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン」「鶴光の噂のゴールデンアワー」のパーソナリティを長年務め、独特の軽妙な語り口で人気を博した。上方落語家としては初めて落語芸術協会上方真打に昇進し、現在も東京の寄席でトリを務めるなど、上方落語を代表する存在として活躍している。

月亭八方

大阪府出身。1968年に月亭可朝に弟子入りし、落語家としての道を歩む。軽妙なトークと明るいキャラクターでテレビ番組『ヤングおー!おー!』に出演し人気を獲得。東京進出を経て上方落語家の第一人者となり、上方落語協会の顧問も務める。上方お笑い大賞をはじめ多数の受賞歴を持ち、現在もレギュラー出演で活躍。俳優としてもNHKドラマスペシャルなどに出演している。

桂文珍

兵庫県出身。五代目桂文枝に入門し落語家となる。1981年に「上方お笑い大賞」金賞、’83年には同賞大賞を受賞するなど、多数の受賞歴を持つ。古典落語から新作落語まで幅広く得意とし、絶妙なトークセンスでテレビバラエティ番組でも活躍。NHKでは『クイズ 日本人の質問』や『世界ふれあい街歩き』、正月時代劇『桜ほうさら』など俳優としても出演している。

間寛平

高知県出身。長い下積みを経て吉本新喜劇に入り、1974年に座長となって関西で圧倒的な人気を得た。’89年に東京進出し、温厚な人柄と奇抜なギャグで全国的な人気者に。のちにすべてのレギュラー番組を降板し、マラソンとヨットで世界一周に挑む「アースマラソン」で独自の道を切り開いた。俳優としてもNHK連続テレビ小説『やんちゃくれ』などで好演した。

海原千里・万里

実姉妹の漫才コンビで、1970年代に人気を博した。幼少期から素人コンクールに出演し、’71年に海原お浜・小浜に入門。姉妹コンビとしてデビューした。初期は「海原なると・わかめ」と名乗る。『スター漫才選手権』出演時にロイ・ジェームスから将来性を高く評価され、以後テレビでの活躍が増加。ドラマ・映画にも出演し、多彩な芸風で人気を確立した。

志村けん(ザ・ドリフターズ)

東京都出身。厳格な教育者の父のもとで育った反動から笑いの道を志し、高校三年でザ・ドリフターズの付き人となる。1974年、荒井注の脱退に伴い正式メンバーとなり、「東村山音頭」「ヒゲダンス」などで子どもたちのカリスマ的人気を獲得。以後も「バカ殿」「変なおじさん」など独創的なキャラクターを次々生み出し、40年以上にわたり日本のお笑い界の最前線を走り続けた。

青空球児・好児

1965年結成の漫才コンビ。’73年に第21回NHK新人漫才コンクール優勝、’79年に漫才協団真打昇進。故郷紹介ネタ「ぼくの故郷」の「ゲロゲ~ロ」や逆さ漫才、国定忠治などで知られ、センターマイクを使わない独自のスタイルを貫く。「最後のお笑い第一世代」と称され、現役最古参の漫才師。好児は東京都三鷹市出身のツッコミで、漫才協会専務理事や世田谷区議会議員も務める。

桜金造(ザ・ハンダース)

1975年に清水アキラや中本賢らとザ・ハンダースを結成し、『笑って!笑って!!60分』でブレイクした。解散後はアゴ勇とのコンビ「アゴ&キンゾー」で『お笑いスター誕生!!』第7代チャンピオンとなり、「小山ゆ〜えんちぃ〜」のギャグで人気を博した。その後俳優に転身し、伊丹十三監督『タンポポ』『マルサの女』で存在感を示し、俳優としての地位を確立。バラエティ出演や怪談の語り手としても活動した。

清水アキラ(ザ・ハンダース)

『ぎんざNOW!』出演を機に頭角を現し、コメディアン道場のチャンピオン仲間とザ・ハンダースを結成。『想い出の渚』のリメイクで日本有線放送大賞新人賞を受賞した。解散後は清水国明に師事し、『ものまね王座決定戦』でブレイク。ものまね四天王の一人として最多優勝5回を誇る。顔にセロハンテープを貼る独自の芸や、研ナオコ、谷村新司、村田英雄の物真似で高い評価を得た。

あご勇(ザ・ハンダース)

1974年『ぎんざNOW!』素人コメディアン道場で7代目チャンピオンとなり、翌年清水アキラらとザ・ハンダースを結成。『笑って!笑って!!60分』などで人気を博し、コミックソング『ハンダースの想い出の渚』はヒットを記録した。’80年にグループ離脱後、佐藤金造と漫才コンビを組み『お笑いスター誕生』で活躍するが病気療養で活動休止。その後はピン芸人として活動し近年は添乗員としても活動。

アパッチけん(ザ・ハンダース)

のちに本名の中本賢で活動するタレント・俳優。1974年、TBS『ぎんざNOW!』の「素人コメディアン道場」で注目を集め、翌’75年に清水アキラ、佐藤金造らとザ・ハンダースを結成し人気を博した。グループ解散後は俳優業へ転向し、ドラマや映画、バラエティで個性派として活躍。環境問題への関心も高く自然体験やエコロジーをテーマにした活動や発信も行う。

吉村明宏

1975年『ぎんざNOW!』の素人コメディアン道場で和田アキ子のモノマネなどで勝ち抜きデビューし、「浜っ子吉村」として活動。司会業やバラエティ出演を経て人気を獲得し、『アッコにおまかせ!』『歌のトップテン』『ものまね王座決定戦』など多数のテレビ番組で活躍した。妻は元ミス日本の飯村いづみ。

お笑い・タレント > 1980年代

1980年代初頭、フジテレビ『THE MANZAI』などをきっかけに若者を中心に爆発的な漫才ブームが到来し、日本のエンターテインメントにおいてテレビバラエティ革命が起きた。それまでの歌中心の番組から、お笑い芸人を主役とする『オレたちひょうきん族』などの番組が娯楽の主流となり、日本中のお茶の間を沸かせた。タモリ、ビートたけし、明石家さんまがお笑い第二世代のBIG3としての地位を確立し、ダウンタウン、とんねるず、ウッチャンナンチャンなど師匠を持たない若者たちが、お笑い第三世代として熱狂的な人気となった。

─ 主なお笑いタレント (順不同) ─

1980

いかりや長介(ザ・ドリフターズ)

東京都出身のコメディアンで、「ザ・ドリフターズ」のリーダーとして1964年から活躍。『8時だョ!全員集合』や『ドリフ大爆笑』でメンバーと息の合ったコントを披露し国民的人気を得た。晩年は渋みのある演技でドラマや映画にも出演し、『踊る大捜査線』やNHK『おんなは度胸』などで存在感を示した。

加藤茶(ザ・ドリフターズ)

東京都出身のコメディアンで、「ザ・ドリフターズ」のメンバーとしてテレビや映画に多数出演。1960年代後半から’70年代前半にかけて子どもたちに人気を博し、『8時だョ!全員集合』で一発芸を次々にヒットさせカリスマ的存在となった。愛称は「カトちゃん」「ヒデ坊」「チャー坊」で、活動縮小後も加トケンやこぶ茶バンドなどで活躍。

高木ブー(ザ・ドリフターズ)

中央大学経済学部卒業後、東京ガスの内定を蹴ってプロのミュージシャンの道を選んだ。学生時代からハワイアンバンドで活動し国内外のツアー経験も豊富。ジェリー藤尾のバンドや「ロジェ滋野とシャドーズ」を経て、仲本工事と共に「ザ・ドリフターズ」に加入し、音楽とコメディの両面で活躍した。

仲本工事(ザ・ドリフターズ)

東京都日本橋出身のコメディアン・ミュージシャンで、「ザ・ドリフターズ」のメンバー。バンドではボーカルとギターを担当し、ドリフから派生したこぶ茶バンドでも活動。1965年に高木ブーの誘いで加入し、リーダーいかりや長介の説得もあって芸能界入りした。

志村けん(ザ・ドリフターズ)

東京都出身。厳格な教育者の父のもとで育った反動から笑いの道を志し、高校三年でザ・ドリフターズの付き人となる。1974年、荒井注の脱退に伴い正式メンバーとなり、「東村山音頭」「ヒゲダンス」などで子どもたちのカリスマ的人気を獲得。以後も「バカ殿」「変なおじさん」など独創的なキャラクターを次々生み出し、40年以上にわたり日本のお笑い界の最前線を走り続けた。

萩本欽一(コント55号)

東京都出身のコメディアンで、1966年に坂上二郎とコント55号を結成し、“欽ちゃん”の愛称で人気を博した。コンビ解散後も自ら構成・演出・出演する「欽ちゃん」シリーズで多数のタレントを育成し、NHKでは『ひまわり』ナレーションや『欽ちゃんのアドリブで笑』などに出演した。

坂上二郎(コント55号)

鹿児島県出身のコメディアンで、萩本欽一とのコンビ「コント55号」で国民的人気を博した。舞台を駆け回る勢いあるコントと「飛びます飛びます」のギャグで一世を風靡し、俳優や歌手としても活躍。NHKドラマ『タクシー・サンバ』『ハイカラさん』『腕におぼえあり』など多数の代表作を残した。

坂田利夫(コメディNo.1)

1967年に前田邦弘と漫才コンビ「コメディNo.1」を結成し、『アホの坂田』の愛称で親しまれる喜劇俳優。西川きよしの勧めで漫才に転向し、松竹新喜劇でアホ役を極める。藤山寛美からの助言を胸に、「アホは優しく生きる」という信条でキャラクターを確立した。

上岡龍太郎(漫画トリオ)

1959年に「横山パンチ」として漫画トリオでデビューし、軽妙な話術で頭角を現した。トリオ解消後はピンに転じ、’70年代からラジオ・テレビで活躍。’80年代には『鶴瓶上岡パペポTV』や『探偵!ナイトスクープ』の司会で人気を確立した。全国進出の意志は当初なかったが、パペポでのトークが評価され’90年代に東京にも進出し、『上岡龍太郎にはダマされないぞ!』などで存在感を示した。

タモリ

福岡県出身。山下洋輔や赤塚不二夫との縁から芸能界入りし、独特の笑いと博識、多才さで唯一無二の存在となった。『笑っていいとも!』『今夜は最高!』をはじめ多数の番組で長く司会を務め、NHKでも科学・歴史番組など幅広く活躍。2008年開始の『ブラタモリ』でも知的好奇心あふれる語り口で人気を集めている。

ビートたけし(ツービート)

東京都出身。’80年代の漫才ブームをツービートとして牽引し、『オレたちひょうきん族』などでお笑い界に革新をもたらした。さらに映画監督として『その男、凶暴につき』『キッズ・リターン』『HANA-BI』を発表し国際的評価を獲得。俳優としても大河ドラマなど多彩な作品に出演し、芸人・映画作家・俳優の三領域で独自の地位を確立した。

高田純次

東京都出身。自由劇場や東京乾電池で舞台経験を積み、『笑点』でテレビデビュー後、俳優・タレントとして活躍。飄々としたキャラクターと“テキトー男”の芸風で人気を博し、『笑っていいとも!』『元気が出るテレビ!!』『じゅん散歩』など多くのバラエティに出演。ドラマやNHK番組にも幅広く登場し、独自の軽妙さで長く親しまれている。

明石家さんま

和歌山県出身。もとは落語家を志し、二代目笑福亭松之助に弟子入りしたが、師の助言でタレントに転向。その後、「ヤングおー!おー! 」「オレたちひょうきん族」「笑っていいとも!」「さんまのSUPERからくりTV」を始めとする様々なテレビ番組で日本を代表するお笑い芸人として不動の人気を確立。軽快なトークと即興力に優れ、バラエティ番組でお笑い怪獣としての絶大な存在感を示す一方、「男女7人夏物語」などドラマや映画でも演技力を発揮し、俳優としても高く評価されている。

佐藤B作

福島県出身の俳優。早稲田大学商学部に進学後中退し、薄田研二主宰の演技研究所を経て演劇の道に入る。方言の壁から役者として苦戦しつつ自由劇場で裏方経験を積み、1973年に劇団東京ヴォードヴィルショーを結成、座長を務める。映画・ドラマ出演も多い俳優でありながら’82年開始のバラエティ番組、萩本欽一司会の「週刊欽曜日」にレギュラー出演し、個性的なコントで全国的な人気を獲得した。2014年~「ナイナイのお見合い大作戦!」のお見合い世話役まで活動は幅広い。

ヨネスケ

『笑点』の座布団運びでテレビに登場し、歌丸の推薦で出演が実現した落語家。後年も真打昇進披露や代役出演など番組との縁が続き、51年ぶりに大喜利に登場したことでも話題となった。また、『ルックルックこんにちは』の名物コーナー「突撃!隣の晩ごはん」で全国の家庭に突然訪問する姿でお茶の間に広く知られ、「日本一の不法侵入者」を自称するほどのキャラクターで人気を確立した。

きたろう(シティボーイズ)

コントグループ「シティボーイズ」のメンバーで、大学時代に劇団「俳優小劇場」に入団。1971年の劇団解散後は同期の大竹まこと、斉木しげる、風間杜夫と共に「表現劇場」を結成した。芸名は『ゲゲゲの鬼太郎』の主人公に似ていたことに由来し、水木しげる公認で使用。後に同作の主題歌もカバーするなど、多才な活動を展開している。

大竹まこと(シティボーイズ)

東京都出身で、1979年に斉木しげる、きたろうと共にコントグループ「シティボーイズ」を結成。『お笑いスター誕生‼』でグランプリを獲得し人気を博す。ソロでも毒舌キャラと洒脱な人柄で支持を集め、『大竹まこと ゴールデンラジオ!』など長寿番組を担当。俳優としても活躍し、NHKの土曜ドラマ『流通戦争』などに出演。『チコちゃんに叱られる!』では好敵手としても知られる。

斉木しげる(シティボーイズ)

静岡県出身で、コントグループ「シティボーイズ」のメンバー。1971年、仲間と共に劇団「表現劇場」を結成。映画『遥かなる甲子園』『3月のライオン』、ドラマ『奇妙な出来事』『101回目のプロポーズ』『オー・マイ・ジャンプ!』などで活躍。NHKでは大河ドラマ『元禄繚乱』『篤姫』『龍馬伝』や連続テレビ小説『エール』などに出演している。

間寛平

高知県出身で、長い下積みを経て吉本新喜劇に入団。1974年に座長に任命され、関西で絶大な人気を得る。’89年に東京進出し、温厚な人柄と奇想天外なギャグで幅広い人気を獲得。その後、レギュラー番組を降板し、マラソンやヨットで世界一周する「アースマラソン」に挑戦するなど、独自の活動を展開。俳優としてもNHK連続テレビ小説『やんちゃくれ』などに出演している。

ビートきよし(ツービート)

漫才コンビ「ツービート」のツッコミ役として活動。たけしの毒舌に「よしなさい!」と返す独特のツッコミは流行語になる。1980年代のMANZAIブーム期には『笑ってる場合ですよ!』『オレたちひょうきん族』などの人気番組で活躍し、うなずきトリオとしてレコードもリリースするなど、幅広くお笑い界で活躍している。

島田洋七(B&B)

大阪出身で、1971年に島田洋之介のもとに弟子入りし、漫才師として活動を開始。’72年には桂三枝の紹介で団順一とB&Bを結成し、’80年代の漫才ブームで人気を博す。月収1億円を得る時期もあったが、その後人気は変動。現在はベストセラー作家としても知られ、ビートたけしの親友としても名を馳せる。

島田洋八(B&B)

岡山県出身で、漫才コンビB&Bのツッコミ担当。1970年代後半に島田洋七と新生B&Bを結成し、’80年代の漫才ブームで人気を博す。ボケ担当の洋七のマシンガントークに対応しつつ、時にいじられ役にも回る。’81年からは『オレたちひょうきん族』でビートきよしや松本竜助と「うなずきトリオ」を組み、大衆に親しまれた。

三宅裕司

東京都出身で、コメディアン、俳優、タレントとして幅広く活躍。1979年に小倉久寛らと劇団スーパー・エキセントリック・シアターを旗揚げし座長を務め、若者を中心に支持を集める。テレビでも『愉快にオンステージ』など番組ホストとして活躍し、俳優としては連続テレビ小説『ひまわり』やドラマ『どんまい!』で名わき役として存在感を示す。

オレたちひょうきん族

明石家さんま

やっぱり猫が好き

笑っていいとも!

モト冬樹(ビジーフォー)

東京都出身で、音楽活動を高校時代から開始。1978年にコミックバンド「ビジーフォー」を結成して人気を得る。ギタリスト・歌手として活動するほか、タレントとしてバラエティ番組にも多数出演。俳優としてはドラマ『M 愛すべき人がいて』『にじいろカルテ』やNHK連続テレビ小説『こころ』『梅ちゃん先生』などに出演している。

西川のりお(のりお・よしお)

奈良県生まれ、大阪市育ち。高校卒業後に漫才師・西川きよしに入門し、上方よしおとコンビ「のりお・よしお」を結成、1975年にデビュー。『オレたちひょうきん族』などで活躍し、「ツクツクボーシ!」「ホーホケキョ!」などのギャグで人気を博す。’82年に上方お笑い大賞、’84年に日本放送演芸大賞敢闘賞を受賞。

オール巨人(オール阪神・巨人)

漫才コンビ「オール阪神・巨人」のボケ担当。相方はオール阪神。酒豪で嫌煙家であり、若いころは酒が飲めなかったが弟子入り先で鍛えられ克服。一時期禁酒も経験。若手時代には横山やすしの横暴を一喝して鎮め、その結果やすしから尊敬を受けるエピソードでも知られる。

笑福亭鶴瓶

大阪府出身の落語家、司会者、俳優。近畿放送『丸物ワイワイカーニバル』で頭角を現し、関西・中京圏を中心に活躍。『ぬかるみの世界』『突然ガバチョ!』で人気を高め司会者としても注目される。東京進出では苦戦を重ねたが1987年に『笑っていいとも!』のレギュラーに起用され全国的な知名度を獲得。以後は落語家にとどまらず俳優・司会者としても活躍し、’90年代以降のテレビ界を代表する存在となった。

グッチ裕三(ビジーフォー)

東京都出身のシンガー・タレント。1978年にビジーフォーを結成し、笑いを交えた音楽センスで独自のスタイルを確立。ものまねブームの立役者の一人でもあり、テレビでも幅広く活躍。『THE夜もヒッパレ』で13年間レギュラー出演し、NHKの子ども向け番組や『きよしとこの夜』でも長く出演している。

ウガンダ・トラ(ビジーフォー)

元ビジーフォーのメンバーで、本名はトラ佐藤。1977年に『いそがしバンド』でドラムとボーカルを担当し、後にビジーフォーに改名。童謡コーナーや『オレたちひょうきん族』などで軽快なダンスやユーモアを披露。’83年にバンドを脱退後、ピン芸人としてテレビ番組に出演するなど幅広く活躍した。

ハイヒール

1982年結成の女性お笑いコンビで吉本興業所属。NSC大阪校1期生として活動を開始し、’83年になんば花月で初舞台を踏んだ。メンバーは大阪府出身のモモコとリンゴ。デビュー時のキャッチは「女子大生と元スケバン」で漫才のネタとしても用いられた。全盛期はモモコのヤンキーネタや世相風刺を中心に人気を博す。リンゴは経済分野にも通じ、2015年に大阪学院大学大学院から名誉博士号を授与された。関西を拠点に長く活躍し、2022年に結成40周年を迎えた。

竹中直人

横浜出身の俳優・映画監督・声優・コメディアン・歌手・タレント。1983年にテレビでコメディアンとしてデビューし、その後映画やドラマで活躍。監督作『無能の人』で国際的評価を受けるほか、『シコふんじゃった。』『Shall we ダンス?』などで日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞し演技派としても高く評価される。声優や歌手活動、客員教授として教育活動も行い、多彩な才能を発揮している。

コロッケ

日本テレビ『お笑いスター誕生!!』で女装姿による形態模写を披露し注目を集め、6週勝ち抜きで銀賞を獲得。ちあきなおみ、松田聖子、美川憲一らのものまねで人気を確立し、1985年『ものまね王座決定戦』出演を機に大ブレイク。「ものまね四天王」の一人として一時代を築くが、番組方針との軋轢からフジテレビを離れる。志村けんの番組出演を転機に再評価され、舞台やテレビで幅広く活躍を続ける。

出川哲朗

日本映画大学卒業後、内村光良らと劇団SHA・LA・LAを結成し座長を務めた。1980年代後半から映画『男はつらいよ』シリーズなどに端役出演し「エキストラの帝王」と呼ばれる。’90年代以降、『ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA.』や『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』で体を張ったロケと大きなリアクションが注目され、汚れ役・イジられキャラとして独自の地位を確立。近年は司会や俳優としても幅広く活躍している。

稲川淳二

俳優・工業デザイナー。桑沢デザイン研究所卒。舞台俳優を経て、1980年代に貧乏・不健康キャラでバラエティに進出し、『ひょうきん族』『スーパージョッキー』などで体当たりのリアクション芸人として活躍。深夜ラジオで語った怪談が評判となり、以後は怪談の語り手としても確固たる地位を築く。’86年以降の怪談音源や、毎年開催される「怪談ナイト」は長寿人気を誇り、怪談の現代的エンターテインメント化に大きく貢献した。

九十九一

日本のお笑い芸人、俳優、脚本家、演出家。ピン芸人として漫談やひとりコントで活動を始め、1979年上京。’81年に『お笑いスター誕生!!』でグランプリを獲得しブレイク。その後、俳優として喜劇中心に活動するほか、放送作家としても番組制作に携わるなど幅広く活躍している。

上方よしお(のりお・よしお)

お笑いコンビ『のりお・よしお』のツッコミ担当。吉本興業大阪本部所属で、上方柳次・柳太の弟子。かりあげとオールバック風の髪型が特徴。1970年代に『B&B』の2代目メンバーとして島田洋七とコンビを組むも方向性の違いで解消。’75年に西川のりおと『西川のりお・上方よしお』を結成し、’80年代前半の漫才ブームで人気を博した。

ザ・ぼんち

おさむとまさとによるお笑いコンビ。1972年結成、’73年になんば花月で初舞台を踏む。大阪・興國高校の同級生で、タイヘイトリオに師事した。’70年代後半に頭角を現し、’80年の『THE MANZAI』などを契機に漫才ブームの中心的存在として全国的人気を獲得。’81年には「恋のぼんちシート」が約80万枚の大ヒットとなり、日本武道館公演を成功させた初の漫才師となる。活動休止を経て2000年代に再始動した。

Mr.オクレ

吉本新喜劇の座員で、ピン芸人としても活動する。元ザ・パンチャーズのベーシストで、1970年代から芸能活動を開始。「オレたちひょうきん族」の「何人トリオ」で全国的にブレイクした。独特のキャラクターと親しみやすい芸風で知られる。

関根勤

東京都出身。1974年、TBS『ぎんざNOW!』の「しろうとコメディアン道場」で5週連続勝ち抜き初代チャンピオンとなり、浅井企画の浅井良二に見出され芸能界デビュー。お笑いタレントとして人気を博すとともに、俳優、歌手、司会者としても幅広く活動。舞台や映画、ドラマに幅広く出演し、NHKの連続テレビ小説『なつぞら』や教育番組『ピタゴラスイッチ』などでも活躍する。

清水アキラ(ザ・ハンダース)

東京都出身。『ぎんざNOW!』の「コメディアン道場」で5週連続チャンピオンとなり、ザ・ハンダースを結成して音楽活動でもヒットを生む。ハンダース解散後、清水国明に弟子入りし、あのねのね事務所所属で『ものまね王座決定戦』などで活躍。ものまね四天王の一人として最多優勝5回を誇り、「セロテープ芸」をはじめ研ナオコや谷村新司など多彩なレパートリーで知られる。

片岡鶴太郎

東京都出身。1980年代にお笑いタレントとして人気を集め、俳優としても活躍。その後プロボクシングライセンスを取得し、墨彩画や書などのアートでも才能を発揮する。NHKの連続テレビ小説や大河ドラマに多数出演し、『梅ちゃん先生』『とと姉ちゃん』『篤姫』『軍師官兵衛』などで印象的な役を演じている。

所ジョージ

埼玉県出身。1977年にシンガーソングライターとしてデビューし、演奏とトークを組み合わせた独自のスタイルでタレント・コメディアンとして人気を博す。長年『1億人の大質問⁉笑ってコラえて!』などで司会を務め、MCとして高い評価を得ている。俳優としてもNHKの大河ドラマ『峠の群像』や連続テレビ小説『青春家族』に出演し、『所さん!大変ですよ』などで司会も担当。

島崎俊郎(ヒップアップ)

京都出身。1973年にクレージーキャッツの付き人となり、’78年にコントグループ「サンズンズ」、’79年にトリオ「ヒップアップ」を結成。’80年『笑ってる場合ですよ』で人気を得て、翌年には『オレたちひょうきん族』レギュラー出演。’85年に「マネー島崎」として登場し、後の人気キャラクター「アダモちゃん」の基盤を作った。

上沼恵美子(海原千里・万里)

兵庫県出身。姉妹漫才「海原千里・万里」の海原千里としてデビューし、歌唱力を生かして「大阪ラプソディー」などのヒット曲を発表。結婚後は家庭に専念したが、タレントとして復帰し、切れ味のあるトークでNHK『バラエティー生活笑百科』などに出演。その後も多数の看板番組を持ち、『紅白歌合戦』紅組司会を2年連続で務め、日本を代表する司会者として活躍。

村上ショージ

1977年に吉本入りを志願し、大阪で滝あきらに弟子入り。初舞台ではドジョウを丸ごと飲む過激な芸で注目される。『オレたちひょうきん族』では何人トリオとしてレギュラー出演し、「ドゥーン」「何を言う・早見優」などのギャグで人気を博す。近年は明石家さんまの相方的存在として多数の番組で共演し、ギャグ芸と独特のツッコミで長年活躍する。

ラサール石井(コント赤信号)

早稲田大学ミュージカル研究会出身で、劇団テアトル・エコーを経て、一期下の渡辺正行・小宮孝泰らとコント赤信号を結成。渋谷の道頓堀劇場でコメディアンとして活動し、暴走族コントや『オレたちひょうきん族』などのテレビ出演で人気を獲得。舞台・テレビ・コントのほか、放送作家としても活躍し、俳優・演出家としても幅広い活動を展開している。

小堺一機

千葉県出身。1977年『ぎんざNOW!』の素人コメディアン道場でチャンピオンとなり芸能界入り。お笑いタレント、司会者、俳優として幅広く活躍し、『ライオンのごきげんよう』などのバラエティや映画・ドラマ・舞台に出演。NHKの大河ドラマ『八重の桜』や『初恋芸人』などでも存在感を示すなど、多才なキャリアを持つ。

渡辺正行(コント赤信号)

大学在学中の1977年に劇団テアトル・エコー養成所に入所し、ラサール石井や小宮孝泰と共にコントグループ「コント赤信号」を結成。リーダーとして活躍し、’80年『花王名人劇場』でテレビデビュー。暴走族コントで人気を博し、明石家さんまや島田紳助らから「ナベ」と呼ばれる。’88〜’96年には『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』でサブ司会者を務め、場を盛り上げる司会ぶりで「芸能界のスーパーサブ」と称される。

大平サブロー(太平サブロー・シロー)

高校卒業後に役者を経験したのち、1976年に大平シローと共に松竹芸能所属の漫才コンビ「太平サブロー・シロー」としてデビュー。厳しい相方との関係で一時解散や失踪も経験するが、後にコンビを復活。吉本興業へ移籍し、’80年代の漫才ブームに乗って人気漫才コンビとして地位を確立した。

大平シロー(太平サブロー・シロー)

子役としてアカデミー児童劇団に所属し、映画や在阪局のドラマに多数出演。中学の同級生であるオール阪神と知り合い、松竹芸能の養成所を経て、1976年に大平サブローと漫才コンビ「太平サブロー・シロー」としてデビュー。’80年代の漫才ブームに乗り人気を確立し、’88年には吉本から独立して東京での活動を開始した。

小宮孝泰(コント赤信号)

1979年に渡辺正行やラサール石井とともにコントトリオ「コント赤信号」を結成。声優としても『宇宙戦艦ヤマト』シリーズや『こちら葛飾区亀有公園前派出所』などに出演。’91年には「MCコミヤ」として音楽活動も行った。’84年の「赤信号劇団」旗揚げ以降は俳優活動に力を入れ、舞台や独り舞台、プロデュース、英語劇に取り組み、その後ITI国際演劇協会の会員にも就任している。

島田紳助(紳助・竜介)

1977年に松本竜介と漫才コンビ「紳助・竜介」を結成。徹底的に過去の漫才を研究し、若者向けの「ツッパリ漫才」を考案して’80年代の漫才ブームで全国的な人気を獲得した。’85年のコンビ解散後は、総合司会やプロデューサーとして数多くの番組で活躍。吉本興業所属として’74年から2011年の芸能界引退まで活動したが、暴力団関係者との交際発覚により2011年に引退した。

松本竜助(紳助・竜介)

1977年に島田紳助と漫才コンビ「紳助・竜介」を結成。西川のりお命名の芸名で、紳助が信頼できる相方として迎えられた。漫才ブームで吉本興業の看板芸人として人気を博すが、’85年にコンビ解散。以降、「竜助・モンタ」を結成するも短期間で解散し、吉本興業を退所した。

ガダルカナル・タカ(たけし軍団)

ビートたけし率いるたけし軍団の一員で、日本テレビ系『お笑いスター誕生』などで活躍。軍団入り後はタップダンスを習得し、映画やテレビで披露。1986年のフライデー襲撃事件で逮捕されるも復帰。以降、たけし軍団の大番頭的存在として出演しつつ、ローカル番組や在阪準キー局でのMCなどで幅広く活動。話術が巧みで「スーパーサブ」としても評価される。

ジミー大西

高校在学中から吉本にアルバイトとして入り、その後、正式に吉本の芸人として入社し、ぼんちおさむに弟子入りした。明石家さんまに才能を見出され付き人として面倒を見られながら、一発ギャグや天然ボケ芸を習得。「ジミーちゃんやってる?」「やってるやってる!」などの返しギャグで人気を博し、全国的に知られる天然ボケ芸人となった。ユーモアあふれる人柄が特徴。

そのまんま東(たけし軍団)

専修大学卒業後、1980年に『笑ってる場合ですよ!』のオーディションでデビューし、同番組でビートたけしの弟子第1号となった。デビュー当初は東英夫名義で活動したが、’82年前後から「そのまんま東」として活動。相方とのコンビ解散後、短期間の「ツーツーレロレロ」を経て、’83年にたけし軍団に加入。以来、軍団やピン芸人・タレントとして活躍した後、宮崎県知事として政治家に転身した。

栗田貫一

1983年に素人として『発表!日本ものまね大賞』で優勝し、郷ひろみや桑田佳祐などのモノマネで注目を集めた。’84年にプロ入りし、六本木のショーパブで活動。’87年には「オールスターものまね王座決定戦」で初優勝し、清水アキラ、コロッケ、ビジーフォーと並ぶ「ものまね四天王」と称される。’95年からは『ルパン三世』の声優も務める。

つまみ枝豆(たけし軍団)

ビートたけし率いるたけし軍団の一員で、地元の幼なじみガダルカナル・タカと共にコンビ「カージナルス」を結成。芸名は宴席での2択から決まり、軍団加入後はたけしの付き人・運転手を務めた。フライデー襲撃事件では不参加だったが、留守部隊として活動。たけしの指導でタップダンスを習得し、『座頭市』やテレビ番組で披露するなど、多方面で活躍している。

久本雅美

大阪出身。短大卒業後、劇団東京ヴォードヴィルショーの公演に感銘を受け上京し入団。その後、柴田理恵らとともにWAHAHA本舗を旗揚げし、過激な下ネタや型破りなスケッチで女性お笑い芸人として頭角を現す。’85年に『今夜は最高!』出演を機にテレビ進出し、トーク力を生かして人気に。’93~2010年まで『笑っていいとも!』に17年半出演し、タモリの片腕として存在感を示した。

グレート義太夫(たけし軍団)

もともとビートたけしのラジオリスナーで弟子入り志願し、特技のドラムを活かしてバックバンド『シークレット・ポリス』に参加。たけし軍団に正式加入し、『オレたちひょうきん族』など黄金期バラエティにも出演した。風貌から「グレート義太夫」と命名され、フライデー襲撃事件にも参加。近年は蜷川幸雄作品などで道化役を務め、コメディ・リリーフとして重宝される。

ダンカン(たけし軍団)

埼玉県出身で、元は立川流の落語家「立川談かん」として活動していた。ビートたけし率いるたけし軍団に加入後は、お笑いタレント、俳優、放送作家、映画監督として幅広く活躍。阪神タイガースの熱狂的ファンでもあり、スポーツ新聞への寄稿も行う。俳優としては北野武作品のみならずテレビドラマやNHK作品でも存在感を示している。

大森うたえもん(たけし軍団)

法政大学卒業後、教員試験不合格をきっかけにお笑い芸人を志す。テレビ局でADを務めつつ前説や拍手の練習を行い、のちにそのまんま東に見出され、コンビ「ツーツーレロレロ」に加入。たけし軍団の2番弟子となり、パロディや替え歌を中心とした芸風で「軍団の良心」と呼ばれ、野球やバラエティでも活躍。役者を志し独立する際にたけし軍団とオフィス北野を離れた。

井手らっきょ(たけし軍団)

スキンヘッドと裸芸がトレードマークのたけし軍団団員。学生時代に西城秀樹や水谷豊のものまねで注目され、久留米大学中退後に太田プロでデビュー。『笑っていいとも!』初期レギュラーも務め、映画や舞台でも俳優として活躍。たけし軍団入り後は裸芸を主体としたネタで人気を得た。

清水ミチコ

岐阜県出身のものまねタレントで、ピアノ弾き語りによる芸能人の緻密なパロディで高く評価される。1987年に新人発掘番組で注目を集め、『笑っていいとも!』出演を機に全国的な人気を獲得。ナレーター、俳優、ラジオパーソナリティーとしても活動し、三谷幸喜作品での出演など演技力にも定評がある。NHKでのナレーションやドラマへの出演など、多方面でその多才ぶりを発揮している。

コロッケ

1985年の『ものまね王座決定戦』で人気を獲得し、「ものまね四天王」の一人として活躍。その後、美川憲一のものまねで大ブレイクし、本人の再ブレイクにも貢献。「恩人」と感謝されるほどの関係を築き、共演も多い。豊富なレパートリーと強烈なデフォルメ表現で、日本を代表するものまね芸人として知られている。

山田邦子

東京都出身で1980年代の漫才ブームを背景に女性タレントとして芸能界に独自の地位を築いた。『ひょうきん族』『スーパーJOCKEY』『元気が出るテレビ』など人気番組で活躍し、『やまだかつてないテレビ』をはじめ自身がMCを務める番組も多数手がけた。俳優として朝ドラ『ノンちゃんの夢』にも出演し、乳がん公表後はチャリティー活動にも力を注いでいる。

石橋貴明(とんねるず)

高校時代に同級生の木梨憲武とコンビを組み、1980年「貴明&憲武(後のとんねるず)」を結成。素人参加番組『お笑いスター誕生』などで腕を磨き、’82年に同番組で10週勝ち抜きグランプリを獲得してプロデビュー。数年の下積みを経て’85年頃から人気を得る。尊敬する美空ひばりの「売れた年から芸歴を数える」という教えを守り、自身の芸歴は’85年を起点としている。

もたいまさこ

1978年に渡辺えり子らと劇団2○○を結成し、その特異なキャラクターと演技で注目を集める。’86年の退団後、金鳥「ゴン」のCMで放った「亭主元気で留守がいい」が話題となり流行語大賞銅賞を受賞して全国的に知られる存在となった。’88年には『やっぱり猫が好き』で室井滋・小林聡美と三姉妹役を演じ、飄々とした演技と独特の間で人気を確立。以後も小林聡美との共演が続き、多方面で活躍した。

柴田理恵

大学卒業後に劇団東京ヴォードヴィルショーへ入団し、1984年に久本雅美らとWAHAHA本舗を旗揚げ。看板女優として舞台に立ち続け、濃いキャラクターと確かな演技で評価を得た。『今夜は最高!』出演を機にバラエティへも進出し、幅広い層に親しまれるタレント性を示す。映画やドラマにも出演し、後年はハリウッド作品『ワイルド・スピードX3』で高校教師役を演じるなど活動の幅を拡大した。地方自治体の大使や副市長など公的分野でも活躍している。

室井滋

大学在学中の1981年、『風の歌を聴け』で映画デビューし、その後も村上春樹原作作品や自主映画で独自の存在感を示した。’88年には小林聡美・もたいまさこと共演した『やっぱり猫が好き』がヒットし、飾らない演技と独特のユーモアで一躍人気者となった。’80年代後半には映画・テレビ・音楽と活動領域を広げ、自由闊達なキャラクターと高い演技力で注目される存在となった。

木梨憲武(とんねるず)

高校時代に『TVジョッキー』の「ザ・チャレンジ」で多彩なものまねを披露し、5代目チャンピオンとなった。石橋貴明とは同番組での共演がきっかけでコンビを組み、1980年に「貴明&憲武」として活動開始、のちに「とんねるず」と改名する。『お笑いスター誕生!!』で10週勝ち抜きグランプリを獲得しプロデビュー後、『オールナイトフジ』出演から注目を集め、『夕やけニャンニャン』で一気にブレイク。歯に衣着せぬ言動と軽妙なキャラクターで人気を確立した。

野沢直子

高校卒業後に劇団の養成所を経て吉本興業入りし、1983年にデビュー。’85年『お昼だドン!』でテレビに登場し、突飛な話術やコミカルで奇抜なキャラクターが注目を集めた。『夢で逢えたら』『笑っていいとも!』『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』などの人気番組で活躍し、’88年にはパンク風コミックソング「おーわだばく」を収録したアルバム『はなぢ』を発表して話題に。後年は「女芸人のフォーマットを作った」とも評される存在となった。

松尾伴内(たけし軍団)

ビートたけしに憧れて出待ちを続け、1982年に念願の弟子入りを果たしたたけし軍団のメンバー。内弟子時代に芸名を現在のものに改め、「刑事ヨロシク」で俳優デビュー。たけしの元を離れた外部修行で明石家さんまの付き人を務め、小堺一機の舞台にも長年出演するなど幅広く活動。近年はさんまや小堺との仕事が多いが、騒動時にも軍団に残るなど義理堅い性格で、「まだ若手ですから」という台詞が持ちネタとなっている。

松尾貴史 (旧 キッチュ)

兵庫県出身で、大阪芸術大学デザイン学科を卒業した多才な俳優・タレント。ナレーター、コラムニスト、折り紙作家としても活動し、舞台やドラマで幅広い役柄をこなす。『マイ・フェア・レディ』などの舞台、ドラマ『獣になれない私たち』『インハンド』など出演作も多彩で、著書『違和感のススメ』では独自の視点を発信している。

ラッシャー板前(たけし軍団)

憧れのビートたけしに弟子入りするため何度も自宅を訪ね、長時間の張り込みの末に志願を果たした行動派の芸人。たけし軍団入り当初は力道川の名で活動し、のちにプロレスラー・ラッシャー木村にちなむ現在の芸名を名乗る。板前修行の経験があったことから料理も任され、芸人としての修行と並行して研鑽を積む。付き人時代は明石家さんまのサポートも務め、たけし軍団の中でも根気と行動力で存在感を示した。

松本人志(ダウンタウン)

小・中学校の同級生である浜田雅功とコンビを組み、1982年にNSC大阪校1期生として入学。’83年に「ダウンタウン」を正式結成し、関西での活動を経て’88年に『夢で逢えたら』で東京進出を果たした。島田紳助を強く敬愛し、紳助・竜介の漫才から大きな影響を受けたと語る。2024年から文藝春秋側との裁判に専念するため活動を休止していたが、2025年11月、配信サービス「DOWNTOWN+」の生配信で約1年10か月ぶりに芸能活動を再開した。

浜田雅功(ダウンタウン)

小・中学校時代に親しかった松本人志とともに吉本総合芸能学院(NSC)大阪校1期生として入学。松本とコンビを組み、当初の名前を経て「ダウンタウン」として活動。1987年の『4時ですよーだ』で関西で人気を獲得し、’88年の『夢で逢えたら』で東京進出。『ガキの使いやあらへんで!!』『ごっつええ感じ』『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』などで全国的に知られる人気タレントとなった。

内村光良(ウッチャンナンチャン)

熊本県出身で、南原清隆とお笑いコンビ「ウッチャンナンチャン」を結成。『お笑いスター誕生‼』を経てショートコントの第一人者として活躍し、1988年の『夢で逢えたら』で人気が爆発。『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば‼』など多数の看板番組を持ち、ソロでも『LIFE!~人生に捧げるコント』などで活躍。コントで培った演技力を生かし、俳優や『NHK紅白歌合戦』の司会としても高く評価されている。

山田邦子

1979年に川村短期大学へ進学し、早稲田大学寄席演芸研究会で学生漫才師として活動した。落語家を志し「可愛家マッハ」を名乗るが、漫談で才能を開花させ素人参加番組の常連として注目を集める。『笑ってる場合ですよ!』のオーディションを機に頭角を現し、’81年にバスガイドネタのレコード『邦子のかわい子ぶりっ子』でデビュー。「ぶりっ子」の流行語化とともに、お笑いブームの中で若手有望株として脚光を浴びた。

南原清隆(ウッチャンナンチャン)

香川県出身で、1985年に内村光良とお笑いコンビ「ウッチャンナンチャン」を結成。バラエティ番組出演のほか、スポーツキャスター、俳優、記者としても活躍。’92年の映画『七人のおたく』で日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。2011年からは日本テレビ『ヒルナンデス!』の総合司会を務め、映画やNHK大河ドラマ『義経』などにも出演している。

伊集院光

東京都出身で、落語家として六代目三遊亭円楽に弟子入りし三遊亭楽大を名乗る。1988年より「伊集院光」としてラジオ出演を開始。トーク力と雑学に長け、タレント・ラジオパーソナリティーとして幅広く活躍。主な出演はラジオ『伊集院光のオールナイトニッポン』『伊集院光 深夜の馬鹿力』、テレビ『クイズプレゼンバラエティーQさま!!』『雑学王』、NHK番組『100分de名著』『有吉のお金発見 突撃!カネオくん』など。

イッセー尾形

一人芝居を核に独自の笑いを追求してきた俳優・コメディアン。1981年『お笑いスター誕生!!』で金賞を獲得し注目され、『意地悪ばあさん』の早野巡査役で人気を確立。爆笑型が主流の中で地味ながらも繊細な人物観察を活かした芸風が支持された。海外巡業も行い、「アトムおじさん」など一人芝居の代表作を持つほか、映画・ドラマ・CM・司会・執筆・絵画まで活動は多岐にわたる。

肥後克広(ダチョウ倶楽部)

太田プロ所属のお笑いトリオ・ダチョウ倶楽部のリーダー。計算されたリアクション芸や「ヤー!」「聞いてないよォ」などの定番ギャグで一世を風靡し、体を張った笑いで支持を集めた。高校卒業後に上京し商業デザイナーを経て芸人を志し、浅草で修業。1985年に寺門ジモン、上島竜兵らとダチョウ倶楽部を結成し、南部虎弾脱退後は最年少ながら座長としてグループを率いた。

寺門ジモン(ダチョウ倶楽部)

ダチョウ倶楽部のメンバーで、説教役やダメ出し担当として独特の存在感を放つ。もともとは役者志望でテアトル・エコー附属養成所に在籍していたが、将来への不安からお笑い芸人に転身。同郷・同期でコンビを組んでいた上島竜兵と共に渡辺正行を訪ね、肥後克広、南部虎弾と合流してダチョウ倶楽部を結成した。近年は無類のグルメとしても知られ、飲食店を紹介する番組でMCを務めている。

上島竜兵(ダチョウ倶楽部)

ダチョウ倶楽部の大ボケ担当のお笑いタレント・俳優。俳優志望で青年座研究所、テアトル・エコー附属養成所に在籍し、同郷で同期の寺門ジモンに誘われ渡辺正行の下を訪ねたことからお笑いの道へ進む。寺門とのコンビを経て、南部虎弾、肥後克広と合流しダチョウ倶楽部を結成。体を張ったリアクション芸で国民的存在となり、「人をさげすんだ笑いは嫌」という信条を持った。2022年に61歳で死去。

俳優・女優 > 1980年代

─ 主な俳優・女優 (順不同) ─

1980

伊東四朗

三波伸介・戸塚睦夫とともに「てんぷくトリオ」として活動の後、喜劇役者として人気を得た。1977年のTBSドラマ『ムー』で演技力が注目され、’83年のNHK朝ドラ『おしん』で父親役を演じて俳優としての評価を確立。以後はコメディとシリアスの双方で活躍した。’92年から2015年にかけて『十津川警部シリーズ』で亀井刑事を好演し、渡瀬恒彦との名コンビで親しまれた。司会業でも『伊東家の食卓』などで人気を保ち、『白子のり』や『ヤクルト』のCMでも知られる。

渡瀬恒彦

1970年、『殺し屋人別帳』で主演デビュー。東映のアクションスターとして頭角を現す。’71年『現代やくざ 血桜三兄弟』などで注目され、激しいアクションで人気を得たが、’77年の事故を機に性格俳優へ転身。『事件』(’78年)で各映画賞を受賞し演技派として地位を確立。以後『おしん』『セーラー服と機関銃』などで幅広く活躍し、90年代以降は『十津川警部シリーズ』『おみやさん』『警視庁捜査一課9係』などテレビドラマで円熟の存在感を示した。

伊吹吾郎

1965年に日本映画テレビ演劇学院に入所し、翌年東宝ニューフェイス第7期生となる。’68年にフリーとなり『さむらい』でデビュー。’69年『無用ノ介』で主役に抜擢され、その劇画的な風貌で注目を集めた。東映と専属契約後、『五人の賞金稼ぎ』『仁義なき戦い』シリーズなどに出演。’83年から『水戸黄門』で渥美格之進役を17年間務め、全国的な人気を得た。近年は真面目な人柄とユーモアを併せ持つ俳優として幅広く活動している。

寺尾聰

劇団民藝創設者・宇野重吉の長男として生まれるが、俳優の道に反発し音楽へ傾倒。1965年にフォークグループ「ザ・サベージ」に参加し、「いつまでもいつまでも」「この手のひらに愛を」がヒットする。’68年、映画『黒部の太陽』で俳優デビューし石原裕次郎に師事、『大都会』『西部警察』など石原プロ作品で刑事役として人気を得た。’81年、「ルビーの指環」が大ヒットし日本レコード大賞を受賞。俳優・音楽両面で昭和を代表する存在となった。

森山周一郎

俳優、声優、ナレーター。日本大学藝術学部映画学科中退後、劇団東芸などを経て活動を開始し、1954年の舞台『長女』主演で初舞台を踏んだ。テレビではNHK連続ドラマ『夢見る白鳥』でデビューし、『特別機動捜査隊』などに出演。’70〜’90年代は時代劇やアクションで重厚な悪役を多く演じた。声優としては低く渋い声で吹き替えの草創期から活躍し、ジャン・ギャバンらを担当。アニメでは『紅の豚』のポルコ・ロッソ役で知られる。

大和田伸也

1968年に劇団四季へ入団し、舞台俳優として活動を始める。’72年、NHK連続テレビ小説『藍より青く』でヒロインの夫役を演じて注目を集め、以後『水戸黄門』で二代目渥美格之進役を務めて人気を確立した。映画『犬神の悪霊』で初主演し、中国映画『炎の女・秋瑾』にも出演。蜷川幸雄演出の『王女メディア』では北大路欣也と共演し海外公演も果たした。俳優業のほか『恐竜を掘ろう』で監督デビューし、声優やオペラにも挑戦するなど多彩に活躍している。

大和田獏

大学卒業後テレビ局への就職を志し、CBC訪問時にドラマ出演を勧められたことをきっかけに俳優の道へ進む。1973年『こんまい女』でデビューし、脚本家・花登筺から「夢を食べて夢のある大きな役者になれ」として「獏」の芸名を与えられる。橋田壽賀子・石井ふく子作品への出演が多く、幅広い役柄で親しまれた。’83年に岡江久美子と結婚。’98年から11年間『ワイド!スクランブル』の司会を務めたに。コロナでの岡江の死後は娘の勧めでSNSも開始している。

西田敏行

1968年に青年座俳優養成所に入り、’70年に卒業して青年座に入団。舞台『情痴』で注目を集め、’76年『いごこち満点』『三男三女婿一匹』で人気を得る。『池中玄太80キロ』『西遊記』などで国民的俳優となり、’81年に歌った「もしもピアノが弾けたなら」は大ヒットした。紅白歌合戦では司会・歌手・審査員など全ての形で出演経験を持つ。’86年『植村直己物語』で主演し俳優として高い評価を得た。以後『釣りバカ日誌』シリーズで国民的人気を確立した。

武田鉄矢

1973年の「母に捧げるバラード」で歌手デビューしヒットを得るが、一時期人気低迷を経験。’77年映画『幸福の黄色いハンカチ』で俳優として評価され、’79年ドラマ『3年B組金八先生』で主演し、主題歌「贈る言葉」も大ヒットした。’82年の海援隊解散後は漫画原作や脚本も手掛け、『お〜い!竜馬』『プロゴルファー織部金次郎』『幕末青春グラフィティ』シリーズに関与。2019年には「マルちゃん赤いきつねうどん」のCM出演がギネス世界記録に認定された。

風間杜夫

8歳から売れっ子子役として活躍したが、13歳で退団。その後早稲田大学で再び演劇活動を開始。斉木しげる、きたろう、大竹まことらと劇団「表現劇場」を結成。1972年に日活ロマンポルノで映画デビューし約20本に出演。’74年『勝海舟』でテレビ初出演、’77年からつかこうへい作品の常連となる。映画『蒲田行進曲』で注目を集め、『スチュワーデス物語』の村沢教官役で国民的人気を獲得。声優としても活動し、幅広いジャンルで存在感を示した。

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西田敏行

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武田鉄矢

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風間杜夫

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奥田瑛二

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火野正平

12歳で劇団こまどりに入り、1962年『少年探偵団』でデビュー。子役として人気を得る。’73年、「火野正平」と改名し、大河ドラマ『国盗り物語』の羽柴秀吉役で注目される。’70年代以降は『新・必殺仕置人』『服部半蔵・影の軍団』『長七郎江戸日記』など時代劇を中心に幅広く活躍。2011年から『にっぽん縦断 こころ旅』で自転車旅の姿が人気を博す。海外作品にも出演し、2021年『罪の声』で日本映画批評家大賞ゴールデン・グローリー賞を受賞した。

奥田瑛二

深夜スナックで働いていた頃、客の勧めでモデルを始め、CM出演などを経て俳優を志す。1976年『円盤戦争バンキッド』で主演デビューするが不遇時代が続き、公園で寝泊まりするほど生活が困窮した。’79年、日活作品で実力を認められ『宮本武蔵』や『男女7人夏物語』などの出演で人気を獲得。映画志向が強く、’86年『海と毒薬』で初主演し各賞を受賞、熊井啓監督作品で国際的評価を得る。以後も幅広い役柄をこなして50本以上の映画に出演した。

舘ひろし

原宿拠点の硬派バイクチーム「クールス」を率い、キャロルの親衛隊として名を広める。1975年、選抜メンバーによるロックバンド「クールス」のボーカルとしてデビューし、’77年にはソロデビューも果たす。東映社長・岡田茂の誘いで俳優活動も開始し、’76年『暴力教室』で映画デビュー、同年『男組 少年刑務所』で初主演。『皮ジャン反抗族』『薔薇の標的』など主演作が続き、テレビでは『西部警察』の巽総太郎役で人気を得た。

神田正輝

1973年、レストランで石原裕次郎に声を掛けられ日活見学に同行し、誘われるまま端役でドラマに出演して石原プロ入りした。’76年『大都会』シリーズで記者・刑事役を務め、松田優作らと激しいアクションもこなす。’80年から『太陽にほえろ!』のドック刑事として出演。その中心として後半期を支えた。’85年、松田聖子と結婚し「聖輝の結婚」と話題に。長女・沙也加をもうけるが’97年に離婚。同年から『旅サラダ』の総合司会として長く番組を牽引した。

室田日出男

1957年に東映ニューフェイス第4期として入社。二枚目の容姿ながら酒癖と気性の荒さ、組合活動への傾倒が災いし“干されの室田”と呼ばれるほど長い下積みを強いられた。深作欣二に見いだされて起用が増えるが、トラブル続きで東映を一度契約解除される。’75年に再契約し、『前略おふくろ様』などで存在感を示す。’78年に逮捕され謹慎するが、復帰後は『影武者』『魔界転生』などで独特の凄味を放ち、’92年にブルーリボン賞助演男優賞を受賞した。

柄本明

NHK大道具のアルバイトを経て1974年に自由劇場へ参加するが作風が合わず、’76年に退団しベンガル、綾田俊樹と劇団東京乾電池を結成する。特異な容貌と圧倒的な存在感で舞台・映画・テレビへ活動を広げ、下北沢を拠点に本多劇場などで重要な役割を果たす。’98年『カンゾー先生』で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞、2004年に毎日映画コンクール助演賞を受賞。紫綬褒章、旭日小綬章も受章し、日本演劇界を代表する名優として位置づけられている。

阿藤 海

大学卒業後に俳優座の舞台部へ入り、原田芳雄の薫陶と中村敦夫の誘いで俳優を志す。原田作品への出演が多く、高倉健との共演も重ねた。俳優座造反組とともに退座後は長く悪役・端役を務めたが、’88年『教師びんびん物語』の教頭・御前崎マキオ役で人気を獲得し、お茶の間に知られる存在となる。以後は俳優業に加え、旅・グルメ番組の名リポーターとして活躍し、「なんだかなー」の口癖でも広く親しまれた。2001年に芸名を阿藤快へ改めている。

鹿賀丈史

1972年に劇団四季へ入団。『ジーザス・クライスト・スーパースター』でジーザス役を務め注目され、『ヴェニスの商人』などで幅広い役柄をこなす。’80年に退団後は映画・テレビに進出し、『野獣死すべし』『悪霊島』『疑惑』などで助演・主演を重ね、日本アカデミー賞助演男優賞を複数受賞。’93年から『料理の鉄人』で美食アカデミー主宰として人気を博し「私の記憶が確かならば」の名台詞で広く知られる存在となった。

柴田恭兵

サラリーマンを経て1975年に東京キッドブラザースに入団し、ミュージカル『十月は黄昏の国』で舞台デビュー。’77年『大都会 PARTII』でテレビ初出演し、’78年『大追跡』で連続ドラマ初レギュラー、’79年『赤い嵐』で連ドラ初主演。『俺たちは天使だ!』で人気を確立し、’86年『あぶない刑事』で舘ひろしとコンビ主演し爆発的ヒットを記録、その後も『はみだし刑事情熱系』など主演作を重ね、連ドラ主演は20本以上の人気俳優となった。

小林薫

1971年から’80年まで唐十郎主宰の状況劇場に在籍し、退団時には唐が説得に包丁持参で訪れるエピソードが残る。舞台のみならずテレビドラマ『ふぞろいの林檎たち』『深夜食堂シリーズ』やNHK大河・銀河テレビ小説に多数出演し、映画やアニメでは『もののけ姫』『ゲド戦記』で声優も務めた。私生活では’84年に中村久美と結婚するも’95年に離婚、2009年に小梅と再婚。糸井重里とは30年来の友人関係にある。

山下真司

1975年に文学座附属研究所に入所、卒業後は劇団NLTに所属した。’79年、『太陽にほえろ!』でスニーカー刑事・五代潤役に抜擢され注目を集めた。’84年放送の『スクール☆ウォーズ』では熱血教師役を演じ、最高視聴率20%超のヒットとなり「俺はこれからお前たちを殴る」の台詞で広く知られる。以後、料理紀行番組『くいしん坊!万才』では9代目くいしん坊として全国各地を歩き、4年間の担当期間は歴代トップとなった。

三浦友和

20歳でTBS『シークレット部隊』でデビュー。1970年代には山口百恵との共演で「百恵友和コンビ」と呼ばれ絶大な人気を誇った。’80年に山口と結婚後は映画・舞台で着実に役柄を広げ、NHK大河『独眼竜政宗』では伊達成実を演じた。以降、日本アカデミー賞やブルーリボン賞の助演男優賞を多数受賞。2012年に紫綬褒章、2023年に旭日小綬章を受章し、硬軟自在の実力派俳優として活躍を続ける。

舘ひろし

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柄本明

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山下真司

(C)江戸村のとくぞう

三浦友和

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松平健

1974年に勝プロダクションに入り、’75年『座頭市物語』でデビュー。’76年に昼ドラ『人間の條件』で初主演を務めた。’78年、テレビ朝日『暴れん坊将軍』の主役・徳川吉宗に抜擢され、長寿時代劇スターとして認知される。NHK大河ドラマでは北条義時や武蔵坊弁慶、平清盛など歴史上の人物を多数演じ、刑事ドラマ『走れ!熱血刑事』でも主演。2004年には舞台パフォーマンスをもとに「マツケンサンバII」が全国発売され大ヒットした。

石田純一

大学在学中に演劇を学ぶため渡米し、帰国後の1978年に「演劇集団 円」の研究生となる。’79年NHK『あめりか物語』で俳優デビューし、’85~’89年にクイズ番組『TVプレイバック』でレギュラー出演して知名度を上げた。’88年のフジテレビ『抱きしめたい!』出演を機にトレンディドラマで活躍し、バブル期を代表する俳優に。’88年に松原千明と再婚し、’90年長女すみれ誕生。’91年には隠し子として長男・壱成の存在が報じられ、後に親子で共演も果たした。

渡辺裕之

1980年にコカ・コーラのCMで芸能活動を開始。’82年に大正製薬「リポビタンD」のCMキャラクターに抜擢され、端整な顔立ちと鍛えられた肉体で人気を博す。俳優としては映画『オン・ザ・ロード』でデビューし、テレビドラマ『愛の嵐』シリーズで二枚目俳優として注目され、高木美保とのコンビはゴールデンコンビと称された。2009年には短編映画『雪の花』で妻・原と初めて夫婦役で共演。2022年5月、自宅で死去。66歳没で、自死と報じられた。

榎木孝明

武蔵野美術大学在学中に芝居に没頭し、父の急死を機に1978年に劇団四季の研究生となり大学を中退。’84年、連続テレビ小説『ロマンス』でテレビデビューして以来、舞台・テレビ・映画・ラジオなど幅広く活躍する。’95年からはフジテレビ系『浅見光彦シリーズ』で主役の浅見光彦を演じ、原作者・内田康夫からも高く評価された。水彩画家としても知られ、作品は切手や絵葉書の図案にも採用されるなど芸術活動も精力的に行っている。

西岡德馬

1970年、大学卒業後に文学座に入団し杉村春子に指導を受けながら10年間活動。’79年に退団し芸名を本名の西岡德美から西岡德馬に改めた。その後、テレビ・映画で活躍し、『極道の妻たち』シリーズやヤクザ映画で幹部役を多く演じコワモテ俳優の印象を確立。NHK大河ドラマ『武田信玄』『風林火山』では同じ上杉家家臣役を演じ、『東京ラブストーリー』では部長役に抜擢され視聴者に強い印象を残した。戯曲『幕末純情伝』での演技がきっかけで同ドラマ出演が決まった。

長谷川初範

1975年に横浜放送映画専門学院演劇科に入学し、在学中にテレビ番組『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』で俳優デビュー。’80年『ウルトラマン80』で矢的猛役として初主演を果たす。1981年、橋本忍に抜擢され『幻の湖』で映画デビュー。’80年代後半に喘息で活動を制限した時期があったが、独自の方法で克服。その後もテレビ・映画で活躍し、芸名を一時「長谷川ショパン」に変更したが再び本名に戻している。

国広富之

1976年に松浦竹夫演劇研究所入所後、TBSドラマ『岸辺のアルバム』でデビューし、ゴールデン・アロー賞放送新人賞を受賞。八重歯を特徴とした甘いルックスでアイドル的人気を得る。『赤い絆』や『噂の刑事トミーとマツ』など人気ドラマで活躍し、’80年代の大映ドラマ常連となる。内田康夫原作『浅見光彦シリーズ』で初代浅見光彦役を務め、以降も多数のドラマに出演。趣味はスキューバダイビングと絵画で、画集出版など画家としても活動している。

伊武雅刀

1967年、NHK名古屋制作のテレビドラマ『高校生時代』で俳優デビュー。その後小劇場養成所や仲間と旗揚げした劇団で演技を続ける。’70年代に声の良さを活かしラジオやCMナレーション、声優業にも取り組み、『宇宙戦艦ヤマト』のデスラー総統役で注目を集めた。’76年、ラジオ『スネークマンショー』で過激なコントが話題となり知名度を拡大。2002年から2009年には『JET STREAM』の機長役としてラジオでも人気を博す。

益岡 徹

早稲田大学在学中に演劇に傾倒し、1980年に卒業後、仲代達矢主宰の無名塾に入団。初舞台『ソルネス』以降、『マクベス』『ハムレット』などで実力を磨きつつ映画にも進出。特異な役柄を経て、’88年『マルサの女2』で国税局査察官を好演し注目を集めた。長身で無表情の中にユーモアを滲ませる演技が持ち味。その後は『夜逃げ屋本舗』シリーズなどで名脇役として活躍し、コメディ演技にも定評がある。舞台も継続しており、重厚な役から人間味ある役まで幅広い表現を見せ続けている。

古尾谷雅人

20歳で劇団ひまわりに入り演劇活動を始め、初期は本名・古尾谷康雅で日活ロマンポルノに出演。1979年のドラマ『二人だけの儀式』で一般作に進出し、’80年の映画『ヒポクラテスたち』で演技が高く評価される。’83年の『若草学園物語』で主演し、主題歌で歌手デビューも果たす。映画やドラマで幅広い役柄を演じ、名脇役としての評価を確立した。職人気質でバラエティ出演は少なく、真摯に役へ向き合い続けたが、2003年に45歳で自死した。

時任三郎

1980年に舞台『ヘアー』で俳優デビューし、’81年にシングル「川の流れを抱いて眠りたい」で歌手デビュー。’83年のドラマ『ふぞろいの林檎たち』で注目を集め、以降多数のテレビドラマや映画に出演。’89年の栄養ドリンクCM「リゲイン」の牛若丸三郎太役で人気を獲得。子煩悩で’99年に家族とニュージーランドに移住、2003年に帰国。長身で医者やパイロット役など憧れられる職業を演じ、若い女性たちに人気が高かった。

陣内孝則

福岡出身で、高校時代からバンド『ザ・ロッカーズ』でボーカルを務め、1980年に上野義美にスカウトされメジャーデビュー。バンド解散後に俳優へ転身し、石井聰互監督『爆裂都市 BURST CITY』で映画デビュー。その後、トレンディドラマや映画に多数出演。’87年の映画『ちょうちん』で主演を務め、ブルーリボン賞と報知映画賞主演男優賞を受賞。コミカルから重厚まで幅広い役柄を演じ、バラエティ番組にも積極的に出演しひょうきんな性格で知られる。

渡辺謙

1982年に演劇集団 円の劇団員となり、テレビ『未知なる反乱』でデビュー、映画『瀬戸内少年野球団』『タンポポ』などに準主役級で出演。’87年のNHK大河『独眼竜政宗』で主役を演じ一躍人気となるも、’89年に急性骨髄性白血病を発症。闘病を経て’93年『炎立つ』で復帰、その後『御家人斬九郎』などで活躍し、2003年米映画『ラスト サムライ』出演で世界的評価を獲得し、『バットマン ビギンズ』など海外作品にも出演した。

真田広之

1965年、5歳で劇団ひまわりに入団。翌年、千葉真一主演作『浪曲子守唄』でデビューし、幼少期から千葉の作品で活躍。’73年にジャパンアクションクラブ(JAC)に入団し本格的に芸能活動を再開、真田広之の芸名を名乗り、スタントや空手を駆使したアクションで注目を集める。’82年『龍の忍者』で海外進出し、デューク真田として国際的に活躍。『麻雀放浪記』や『必殺4 恨みはらします』では主演や悪役に挑戦し、キネマ旬報賞など多数の主演男優賞を受賞した。

渡辺徹

1980年に高校卒業後、文学座附属演劇研究所本科に入所。’81年、テレビドラマ『太陽にほえろ!』の新人刑事役で俳優デビューし人気を獲得。’82年に歌手デビュー、’83年には映画『夜明けのランナー』でスクリーンデビューした。’85年に正式に文学座座員となり、舞台・テレビ・映画で活躍。’87年に榊原郁恵と結婚。司会者やナレーター、ラジオパーソナリティとしても活動し、後進育成や大学教授として教育にも携わった。

松平健

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渡辺謙

(C)首相官邸 (PMO)

真田広之

(C)Embassy of the United States in Japan

吉岡秀隆

(C)Dick Thomas Johnson from Tokyo, Japan

中井貴一

成蹊大学在学中の1981年、映画『連合艦隊』で俳優デビュー。’83年『ふぞろいの林檎たち』で知名度を急上昇させた。’88年NHK大河ドラマ『武田信玄』で主役を務め、高視聴率を記録。以後、時代劇や仁侠映画、コメディまで幅広く活躍。2003年『壬生義士伝』で主演男優賞を受賞。2004年には中国映画『天地英雄』で海外進出。2008年『風のガーデン』では減量を敢行して役作りに臨むなど、映画・テレビ・舞台で着実にキャリアを重ねる実力派俳優となる。

柳沢慎吾

1978年『ぎんざNOW!』の素人コメディアン道場で優勝し芸能界デビュー。お笑いコンビ「てっちゃんしんちゃん」を経て、’79年に柳沢順吾名義で『3年B組金八先生』のヤンキー生徒役でテレビドラマデビューし、俳優としての地位を確立した。以降、『ふぞろいの林檎たち』『翔んだカップル』などで活躍する一方、バラエティ番組では落ち着きのないキャラクターを披露。「あばよ!」の決めゼリフが大ブレイクし、俳優・タレント双方で人気を獲得した。

三上博史

1984年のTBS系ドラマ『無邪気な関係』で端役ながら注目を集め、’87年の映画『私をスキーに連れてって』でブレイク。以降、『君の瞳をタイホする!』などトレンディドラマで女性人気を獲得した後、『ウルトラマンをつくった男たち』や『ロマンの果てII・汚れっちまった悲しみに』などクセのある役に挑戦。『あなただけ見えない』では三重人格の主人公を演じ狂気も表現し、トレンディ俳優のイメージを払拭した。

佐藤B作

福島県出身の俳優。早稲田大学商学部に進学後中退し、薄田研二主宰の演技研究所を経て演劇の道に入る。方言の壁から役者として苦戦しつつ自由劇場で裏方経験を積み、1973年に劇団東京ヴォードヴィルショーを結成し座長を務める。’82年開始の萩本欽一司会『週刊欽曜日』にレギュラー出演し、個性的なコントで全国的な人気を獲得した。

仲村トオル

修大学在学中の1985年、『ビー・バップ・ハイスクール』映画化の主演オーディションに合格しデビュー。同作で日本アカデミー賞新人賞などを受賞した。’86年にはドラマ『あぶない刑事』に出演し、シリーズ全作品を通じて人気を獲得。以降、『ラブ・ストーリーを君に』や『チーム・バチスタの栄光』など多数の映画・ドラマに出演し、韓国映画『ロスト・メモリーズ』で大鐘賞助演男優賞も受賞した。妻は女優の鷲尾いさ子。

吉岡秀隆

4歳で劇団若草に入団し、5歳でテレビ時代劇『大江戸捜査網』で子役デビュー。1977年『八つ墓村』で映画初出演し、’81年『男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎』から第50作まで諏訪満男役でレギュラー出演。’81年より『北の国から』黒板純役として名子役として知られる。山田洋次監督作品や黒澤明作品に多数出演し、繊細で等身大の青年役や冷静な人物像を得意とする。

1980

赤木春恵

1940年に松竹ニューフェイスとして映画『二本松少年隊』でデビュー。当初の芸名は赤木春生で、戦時中の困難な状況下で生計を立てながら演技活動を続けた。帰国後に芸名を赤木春恵に改め、’48年に東映へ移籍。その後フリーとなり森繁劇団に参加。’70年代以降、橋田壽賀子や石井ふく子作品で活躍し、’79年から『3年B組金八先生』の女性校長役で当たり役を得る。’90年代には『渡る世間は鬼ばかり』でキミ役を演じ人気を博した。

小山内美江子

1951年に高校卒業後、女性では困難とされた映画監督を志し、スクリプターとして10年間現場で経験を積む。助監督の深作欣二らと交流を持ち、結婚・出産後に離婚し脚本家に転向。’62年『残りの幸福』で脚本デビューし、『3年B組金八先生』や誤算シリーズなど教育や子育てをテーマにした作品で知られる。円谷プロ初期の『ウルトラQ』にも関わった。’90年代から国際協力活動に取り組み、脚本家・社会活動家として活躍し、各種団体の理事も務める。

市原悦子

高校卒業後、銀行就職を控えていたが演劇への思いから劇団俳優座養成所6期生として入所。1957年『りこうなお嫁さん』でデビューし、新劇演劇賞やゴールデン・アロー賞新人賞を受賞。’72年に番衆プロを設立、’87年にはワンダー・プロダクションも設立。’75年より『まんが日本昔ばなし』で全登場人物の声を演じ、同年『赤い殺意』で高視聴率を獲得。’83年からは『家政婦は見た!』に主演し、四半世紀以上演じ続ける当たり役となった。

宮本信子

1963年に高校卒業後、文学座附属演劇研究所に入所。’64年に劇団青俳に参加後フリーとなる。’69年、NHKドラマで共演した伊丹十三と結婚。’84年、伊丹監督作『お葬式』で主演しブレイクし、その後すべての伊丹作品に出演して多彩な役を演じ、国内の映画賞を多数受賞。’97年の夫の死後、2007年に『眉山』で10年ぶりに映画復帰。2014年紫綬褒章、2022年『メタモルフォーゼの縁側』でダイヤモンド大賞受賞、同年旭日小綬章を受章した。

三田佳子

中学3年で児童劇団「ちどり」に入り、在学中からテレビ・ラジオに出演。高校卒業後の1960年、第二東映に入社し『殺られてたまるか』で18歳で女優デビュー。当初から主役級で起用され、東映の看板女優として多数の作品に出演。’67年にフリーとなり、テレビ・舞台を中心に活動。’74年にNHK制作部副部長・高橋康夫と結婚。’84年『Wの悲劇』や’86年『いのち』で高評価を受け、各映画賞を獲得し、国民的女優としての地位を確立した。

根岸明美

高校中退後の1948年に日劇ダンシングチームに入団し、’53年に『アナタハン』で主演デビュー。母は宝塚歌劇団出身で、幼少期から舞踊に親しむ。166cmの長身で豊満な肢体を生かしつつ、「肉体派女優」と見られることを嫌い演技力を磨き『赤ひげ』『どですかでん』など映画に出演。妖艶かつ演技派の魅力で人気を博し、本多猪四郎作品にも起用された。テレビでは『時間ですよ』『3年B組金八先生』などに出演。2008年、卵巣癌で73歳で死去した。

泉ピン子

1966年に三門マリ子名義で歌謡漫談家としてデビュー。’75年、『テレビ三面記事 ウィークエンダー』でリポーターに起用され、芸名を泉ピン子に改名。同年、東映映画『神戸国際ギャング』やテレビドラマ『花吹雪はしご一家』に出演し女優業に本格進出。’80年にドラマ『手ごろな女』で主演。’83年の連続テレビ小説『おしん』で母親役を演じ評価され、橋田壽賀子作品への出演が増加。’90年開始の『渡る世間は鬼ばかり』で代表作を築き、安定した演技で橋田ファミリーの旗頭となる。2014年に初の紅白出場、2019年に文化庁長官表彰と旭日小綬章を受章。

小川知子

バレエを習いながら東宝児童劇団に入り小学5年でドラマデビュー。子役として活躍しつつ、中学時代にはバラエティ番組の司会も務めた。1965年に東映へ入り映画に多数出演するが、18歳で同社と契約を解消。’68年「ゆうべの秘密」で歌手デビューし大ヒットを記録、紅白にも3年連続で出場した。その後は映画やドラマで大人の女性像を確立。’80年代には不倫ドラマで存在感を示し、後年は宗教団体の活動を巡って世間の注目を集めた。

松尾嘉代

16歳で今村昌平監督『にあんちゃん』でデビュー、清純派として注目を集める。日活退社後はTBSでホームドラマに多数出演し、’70年代には映画・テレビで性格俳優として地位を固める。結核の闘病後に復帰し、悪女や濃厚な演技を武器に活躍。’70年代末から’90年代前半には2時間ドラマの常連となり「サスペンスの女王」「元祖2時間ドラマの女王」と称された。『女たちの華麗な闘い』シリーズなどで強烈な悪女像を演じ、その存在感で作品を牽引した。

市原悦子

(C)朝日新聞社『文芸朝日』第3巻第4号(1964)

宮本信子

(C)Gorup de Besanez

三田佳子

(C)キネマ旬報社 - 『キネマ旬報』1962年9月下旬号

泉ピン子

(C)文部科学省ホームページ

いしだあゆみ

幼少期より児童劇団で活動。1961年に初舞台を踏み、1964年に芸名をいしだあゆみに改名し歌手としてデビュー。’68年の「ブルー・ライト・ヨコハマ」でミリオンセラーを記録し、紅白歌合戦に通算10回出場した。’73年『日本沈没』で演技力が評価され女優業にシフト。『青春の門 自立篇』『火宅の人』などで多数の映画賞を受賞し、テレビドラマ『北の国から』『金曜日の妻たちへ』などにも出演。歌手・女優双方で長年にわたり高い評価を受けた。

島田陽子

中学1年で劇団若草に入団。1970年のテレビドラマ『おさな妻』でデビューし、翌年『続・氷点』で辻口陽子役を演じて高視聴率を記録し人気女優となる。’74年『われら青春!』でヒロインを務め清純派女優として注目され、’80年の米テレビドラマ『将軍 SHŌGUN』でヒロインを演じゴールデングローブ賞主演女優賞を受賞し国際女優としても活躍。’92年に写真集『Kir Royal』を発売しベストセラーとなる。2022年、大腸がんによる多臓器不全で69歳で死去。

佐藤友美

名古屋の高級料亭に生まれ、日本舞踊「名古屋西川流」の名取。俳優座養成所第13期生卒業後、劇団三期会に籍を置き松竹と専属契約。1969年から『テレビナイトショー』のホステスを務めた。脱ぎっぷりの良さとハスキーボイス、大人びた美貌で「ヴァンプ女優」と称され、スクリーンで存在感を放つ。テレビドラマでは『金曜日の妻たちへ』『男たちによろしく』などに出演し、多方面で活躍した。

篠ひろ子

東北学院大学在学中にスカウトされ、東北放送『ホリデイ・イン・仙台』でローカルデビュー。歌手としても活動したが大ヒットはなく、その後女優に転身。1973年の『時間ですよ』で小料理屋の女将・お涼役を演じ、耐える女性像で知られる。一時期は篠ヒロコ名義で活動。’97年以降は夫の伊集院静と仙台に移住し女優業を休止。クリスチャンで洗礼名はテレジア。愛犬と共に暮らす家庭人でもあり、2023年に夫と死別した。

丘みつ子

高校卒業後モデルとして活動し、「ミス人魚コンテスト」準優勝を経て日活入り。映画『ある少女の告白 禁断の果実』で主演デビューし、その後沖雅也と共演。1980年代以降は多くの母親役を演じ「日本のお母さん」と称される。健康志向で水泳やマラソン、トライアスロンに挑戦し「マラソン女優」とも呼ばれたが、拒食症を経験。その後、陶芸に打ち込みアトリエを構える。箱根で自家農園や養蜂も行い、現在は小田原市に居住し、多彩な活動を続けている。

佳那晃子

トキワ松学園女子短大在学中に応募したミス『水滸伝』コンテストで二位となり芸能界入り。審査員の中村敦夫に見出され、彼の事務所から17歳で大関優子として映画デビュー。事務所解散後は新たな環境で役柄の幅に悩むが、『ザ・ウーマン』に挑む決意を固め、芸名を佳那晃子に改めた。くっきりした容貌と妖艶さで人気を博し、『魔界転生』では代役で抜擢される。ネフローゼ症候群での闘病を経て2009年に朗読劇で復帰した。

石田えり

高校入学後、東京音楽学院で演技・ダンスを学び、1976年『スターチャレンジ!!』のアシスタントでデビューする。’78年に映画『翼は心につけて』でスクリーンデビューし、青春ドラマや『ウルトラマン80』などで活躍。’81年『遠雷』で大胆な演技を見せ、日本アカデミー賞主演女優賞・新人俳優賞を受賞し実力派として認められる。『金曜日の妻たちへ』『昨日、悲別で』などで印象深い役を重ね、’88年からは『釣りバカ日誌』でみち子役を担当した。

大地真央

中学在学中に舞台に触れ、宝塚歌劇団への進学を志す。1971年に宝塚音楽学校に入学し、’73年に59期生として入団。星組で初舞台を踏み、翌年月組に配属され新進男役スターとして注目される。’82年に月組トップスターに就任し、黒木瞳らと共演。’85年に退団後は舞台女優として活動し、ミュージカル『風と共に去りぬ』のスカーレット役や『マイ・フェア・レディ』のイライザ役で高く評価され、主演公演は600回を超える実績を誇る。

夏目雅子

1976年に短大進学と同時に芸能界入りし、テレビドラマ『愛が見えますか…』で女優デビュー。’77年にカネボウ化粧品のキャンペーンガールとなり芸名を夏目雅子に改名、映画『トラック野郎・男一匹桃次郎』で映画デビューを果たす。’78年の『西遊記』で三蔵法師役を演じ注目を集め、その後もドラマ・映画で本格的な女優業を中心に活動。’84年に伊集院静と結婚するも、その後急性骨髄性白血病と診断され、闘病の末、’85年9月11日に27歳で死去。

松尾嘉代

(C)国際情報社 - 『映画情報』1965年3月号

いしだあゆみ

(C)国際情報社 - 『映画情報』1965年6月号

岸本加世子

(C)Dick Thomas Johnson from Tokyo, Japan

竹下景子

(C)内閣府ホームページ

樋口可南子

20歳でポーラテレビ小説『こおろぎ橋』に主演して女優デビュー。1980年に映画『戒厳令の夜』で映画初出演かつ初ヌードを披露し、ゴールデン・アロー賞新人賞を受賞。その後『北斎漫画』『もどり川』『卍』などで話題作に出演し、テレビドラマにも出演。’91年の写真集『Water Fruit 不測の事態』はベストセラーとなり、日本でヘアヌード解禁の契機となった。’93年に糸井重里と結婚、2000年代以降も多数の映画出演やCMで母親役などで活動。

浅野ゆう子

小学6年生ででスカウトされ、1974年に13歳でアイドル歌手としてデビュー。「恋はダン・ダン」で日本レコード大賞新人賞を受賞。テレビドラマ『太陽にほえろ!』や東宝映画に中学生ながら出演。その後、歌手活動よりもモデルやCMで注目され、’79年のカネボウ水着CMで大胆な姿を披露して話題となる。’80年代以降は企業広告やドラマ出演で活躍し、『抱きしめたい!』でブレイク。トレンディドラマの女王として女性からも高い支持を得た。

浅野温子

15歳で映画『エデンの海』に出演しデビュー。1977年にテレビ小説『文子とはつ』に合格し、翌年『高校大パニック』に出演。’80年代は角川映画『スローなブギにしてくれ』『汚れた英雄』で注目され、’83年『陽暉楼』で日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞。’88年のドラマ『抱きしめたい!』で浅野ゆう子と「W浅野」と呼ばれ人気を博し、’91年『101回目のプロポーズ』でも高視聴率を記録した。

岡本麗

俳優を志して上京し、俳優小劇場付属養成所に入所。1971年の劇団解散後は劇団暫や現代制作舎、のちにつかこうへい事務所の舞台に出演。’72年に日活ロマンポルノで映画初出演し、’75年に本格デビュー。以降ロマンポルノの常連となり、’77年の『不連続殺人事件』出演を契機に一般映画にも進出。’82年以降は一般作品への出演機会が増え、『蒲田行進曲』などに出演。’88年開始の『はぐれ刑事純情派』では田崎晴子刑事役で人気を得る。

渡辺えり子

1978年、もたいまさこと共に「劇団2○○」を結成し、’80年に「劇団3○○」と改名。舞台で脚本・演出・出演の三役を担い、’83年NHK連続テレビ小説『おしん』に出演して活動の場を広げた。同年『ゲゲゲのげ』で岸田國士戯曲賞を受賞し劇作家としても認められる。’97年劇団解散後、2001年に企画集団「宇宙堂」(後のオフィス3○○)を設立。2006年には関東学院大学客員教授に就任、現代芸術論を担当。2007年に芸名を「渡辺えり」に変更した。

岸本加世子

高校在学中に西城秀樹のコンサートでスカウトされ、1977年TBS連続ドラマ『ムー』でデビュー。久世光彦演出作品や向田邦子シリーズで頭角を現し、当初はアイドル女優としてドラマ・映画・歌手活動に幅広く活躍。’80年代以降は富士フイルムやトヨタなどのCMで人気を博し「それなりに写ります」が流行語となる。’98年の北野武監督『HANA-BI』をきっかけに北野作品の常連となり、『菊次郎の夏』で日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞。

竹下景子

高校時代にラジオ番組経由でNHK『中学生群像』に出演しデビュー。大学進学後に上京し三船プロ所属で女優活動を本格化、1973年『波の塔』で本格デビュー。’76年『クイズダービー』の回答者として人気を獲得。「お嫁さんにしたい女優No.1」とも称され、’70〜’80年代に多忙な女優として活躍。映画『犬笛』『ブルークリスマス』や『男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎』、テレビ『北の国から』などで評価され、現在もCMを含め多方面で活躍を続ける。

多岐川裕美

1974年、東京駅近くでアルバイト中の美しい女子大生として東映プロデューサーに発見され芸能界入りした。『聖獣学園』で22歳にして主演デビューし、東映ポルノ末期を飾る新人として注目を集める。’75年の『続・愛と誠』などで鮮烈な存在感を示し、のちにテレビへ活動の軸を移し、清純派スターとしてドラマ、CM、歌まで幅広く活躍。『俺たちは天使だ!』のユーコ役も代表的。歌ではカビ目のCMソング「酸っぱい経験」などがヒットした。

岡江久美子

1975年、TBSドラマ『お美津』で主演デビュー。’78年から『連想ゲーム』紅組レギュラーとして人気を得た。’83年に大和田獏と結婚。’90年代には『天までとどけ』で母親役を務め、国民的人気を確立。’96年から17年半にわたり『はなまるマーケット』の総合司会を務め、朝の顔として親しまれた。吹き替えや2時間ドラマでも活躍し、全薬工業のCMには約45年間出演した。2020年、新型コロナウイルスによる肺炎で逝去した。

沢田亜矢子

高輪プリンスホテル内のナイトスポットでピアノ弾き語りのアルバイト中にスカウトされ、1973年に岡田嘉子作詞のシングル「アザミの花」で歌手デビュー。同年に同曲を収録したファーストアルバムを発表した。’79年には日本テレビ『ルックルックこんにちは』の司会を務め、幅広い層に知られる存在となる。’84年以降は女優業に軸足を移し、テレビドラマや映画で活躍、特に『火曜サスペンス劇場』の常連として知られた。

池上季実子

1974年、中学2年でNHK少年ドラマシリーズ『まぼろしのペンフレンド』でデビュー。同年『純愛山河 愛と誠』で知名度を高める。憂いを帯びた表情と大人びた色気で愛憎劇を得意とし『草燃える』など時代劇ヒロインを務めた。’84年『陽暉楼』で日本アカデミー賞優秀主演女優賞、’89年『華の乱』で優秀助演女優賞を受賞し絶頂期を迎え、’90年代以降は2時間ドラマを中心に活動した。

片平なぎさ

1974年『スター誕生!』で合格し、翌年「純愛」でアイドル歌手としてデビュー、「美しい契り」で新人賞を受賞した。同年『青い山脈』で女優デビューし、やがて歌手活動を休止して演技に軸足を移す。『スチュワーデス物語』での悪女役が大きな話題となり、一方で役柄の影響に苦悩も抱えた。平成期以降は清楚で聡明、あるいは強い正義感を持つ女性像を多く演じ、数々の2時間ドラマシリーズで主演し「2時間ドラマの女王」と称された。

名取裕子

大学在学中に応募したカネボウ「ミス・サラダガール・コンテスト」で準優勝し芸能界入り。1976年に『星と嵐』で映画初出演し、翌年のTBS『おゆき』で本格デビュー。『3年B組金八先生』で人気を高める。映画『序の舞』『吉原炎上』では大胆な演技を見せ注目を集めた。松本清張作品には映画・ドラマ合わせて17本出演し「清張女優」と呼ばれ、’82年の主演作、松本清張の『指』は火曜サスペンス史上最高視聴率を記録した。

薬師丸ひろ子

中学1年で映画『野性の証明』でデビュー。1980年『翔んだカップル』で初主演し、’81年『セーラー服と機関銃』で主題歌もヒット。以降、『探偵物語』『里見八犬伝』『Wの悲劇』など主演映画が続き、’84年には『Wの悲劇』でブルーリボン賞主演女優賞を受賞。歌手としても活動し、シングル累計396万枚、アルバム189万枚を売り上げる。’91年結婚後、一時活動を控えるが’97年よりドラマ復帰。2000年代以降も活躍し、2024年には田中絹代賞を受賞した。

沢口靖子

1984年、第1回「東宝シンデレラ」グランプリに選ばれ、映画『刑事物語3 潮騒の詩』で女優デビュー。『ゴジラ』で日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞し、同作の挿入歌も歌唱。’85年、NHK連続テレビ小説『澪つくし』でヒロインを務め知名度を確立。’99年より『科捜研の女』で法医学研究員・榊マリコを演じ、シリーズ長寿化に貢献。2015年に橋田賞やクラリーノ美脚大賞特別賞を受賞、京都府警から感謝状も贈られるなど多方面で評価されている。

黒木瞳

(C)娛樂星聞

紺野美沙子

(C)文部科学省ホームページ

後藤久美子

(C)Dick Thomas Johnson from Tokyo, Japan

宮沢りえ

(C)Dick Thomas Johnson

石原 真理子

高校2年でスカウトされ、1980年に映画『翔んだカップル』でデビュー。テレビドラマ『ふぞろいの林檎たち』などで清純派女優として人気を得る一方、「ぷっつん女優」とも称される破天荒な言動でも注目された。’89年に渡米し’93年に石原真理絵に改名。2004年に帰国後、テレビ番組出演や語学披露を経て、2006年に石原真理子に芸名を戻し本格復帰。2009年に玉置浩二と短期間復縁するも破局し、現在は再び石原真理子として活動している。

手塚理美

小学生時代からジュニアモデルとして活動し、中学1年でユニチカマスコットガールに選ばれ芸能界デビュー。高校卒業後、雑誌グラビアで人気を博し、アイドル歌手としても活動。1981年にヌード写真集『少女だった』を発表し女優へ転身、翌年NHK連続テレビ小説『ハイカラさん』でヒロインを務め本名に改名。その後『ふぞろいの林檎たち』シリーズや映画『ア・ホーマンス』などで活躍。1990年に真田広之と結婚、2児をもうけるも1997年に離婚した。

高橋ひとみ

17歳で寺山修司演出の舞台『バルトークの青ひげ公の城』に合格し女優デビュー。1980年に映画デビュー。’83年、テレビドラマ『ふぞろいの林檎たち』で注目を集め、伊吹夏恵役を演じ出世作となった。’85年には『スケバン刑事』で海槌麗巳役を担当。’91年には歌手デビューし、シングル「X’mas Kissしてね」を発表。2000年代以降は連ドラの母親役や2時間ドラマの主婦・犯人役など幅広く出演し、女優として安定した活動を続けている。

秋野暢子

1974年、NHK銀河テレビ小説『おおさか・三月・三年』でデビューし、翌年には朝ドラ『おはようさん』のヒロインに18歳で抜擢されて注目を集める。『赤い運命』では山口百恵の相手役をいじめる吉野いづみ役で演技の幅を広げた。’86年『片翼だけの天使』でキネマ旬報主演女優賞を受賞し、以後は演技派としてドラマ、バラエティ、ワイドショーなど多方面で活躍。ダイエット関連の講演や出版も行う。2022年から食道がん治療のため活動を休止している。

黒木瞳

1979年に宝塚音楽学校入学、’81年に宝塚歌劇団入団。月組娘役として入団2年目でトップ娘役に就任し、『情熱のバルセロナ』などで活躍。’85年に退団後、翌年、映画『化身』で主演デビューし新人俳優賞を受賞。NHK連続テレビ小説『都の風』で人気を得た後、’97年の映画『失楽園』で主演女優賞を受賞し、一躍国民的女優となる。その後も『うたかた』『無影燈』など渡辺淳一原作作品で存在感を示す。

山口智子

青山学院女子短期大学家政学科卒業後、雑誌『ViVi』のモデルとして活動。1988年、NHK連続テレビ小説『純ちゃんの応援歌』のヒロイン・小野純子役で女優デビュー。’90年代にはトレンディードラマや火曜サスペンス劇場の主演を務め「連ドラクイーン」と称される。’95年に唐沢寿明と結婚後は女優業を縮小し、主婦業やセレクトショップ経営に注力。2012年以降はドラマ復帰も果たし、『ゴーイング マイ ホーム』などに出演。

田中裕子

明治大学文学部演劇学専攻卒業後、1978年に文学座に入団し女優活動を開始。’79年のNHKテレビ小説『マー姉ちゃん』でデビュー、’83年の『おしん』で主役を務め、国内外で高い評価を得る。映画『天城越え』でモントリオール世界映画祭主演女優賞受賞。セリフに情念を込める演技が特徴で、映画・ドラマ・舞台で多数受賞歴を持つ。歌手や司会活動も経験。’85年文学座退団後も活躍を続け、’89年に沢田研二と結婚。2010年に紫綬褒章を受章した。

森下愛子

高校1年生でスカウトされモデルとしてデビュー。1977年に『地獄の天使 紅い爆音』で映画デビューし、’78年『サード』で注目を浴びる。’86年に吉田拓郎と結婚したが、’88年に体調不良で芸能活動を一時休止。’99年に『美しい人』で復帰し、2000年代以降は宮藤官九郎脚本作品に常連出演。2021年に吉田のラジオ番組でリタイアを発表し、芸能活動を終えている。

安田成美

中学在学中にスカウトされ、1981年に花王「ビオレ」のCMでデビュー。『風の谷のナウシカ』イメージガールのオーディションで約7500人からグランプリを獲得し、翌年シングル「風の谷のナウシカ」で歌手デビュー。’89年『同・級・生』以降トレンディードラマで主演作が相次ぎ、’92年『素顔のままで』で最高視聴率31.9%を記録。’94年に木梨憲武と結婚し出産・休業。2000年に『リミット もしも、わが子が…』で復帰した。夫と共にカフェ経営も行う。

原田知世

1982年、中学3年生で「角川映画大型新人募集」に応募し特別賞を受賞、14歳で芸能界入り。翌年『時をかける少女』でスクリーンデビューし新人賞を受賞、角川三人娘の末っ娘としてアイドル的人気を得る。高校在学中も主演映画を続け、歌手としても映画主題歌を担当。’86年に角川春樹事務所から独立後、『私をスキーに連れてって』『彼女が水着にきがえたら』などでトレンディ映画のヒロインを務める。透明感のある清廉なイメージで幅広く活躍した。

小林聡美

1979年に『3年B組金八先生』でデビュー。’82年の大林宣彦監督作『転校生』で主演に抜擢され、日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞した。’88年には『やっぱり猫が好き』のきみえ役で個性派女優として人気を確立する。2014年『紙の月』でブルーリボン賞助演女優賞を受賞するなど演技力も高く評価され、多くのエッセイを出版する著述家としての顔も持つ。私生活では脚本家・三谷幸喜と結婚し、その後離婚している。

後藤久美子

1987年、NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』で愛姫の少女時代役として子役デビューし「ゴクミブーム」を巻き起こす。以降、『男はつらいよ』シリーズなどの映画に出演。’96年にフランス人F1レーサー・ジャン・アレジと渡仏し、事実婚で3人の子をもうけ、妻・母として生活を優先。年に1〜2本のCMやファッション誌での活動を続けつつ、2018年に23年ぶりに女優復帰を発表。2019年公開『男はつらいよ お帰り 寅さん』でスクリーン復帰した。

宮沢りえ

11歳でモデルとしてデビューし、1985年に明星食品「チャルメラ」CMで芸能活動を開始。’88年、映画『ぼくらの七日間戦争』で女優デビューし新人賞を受賞。’91年の写真集『Santa Fe』は150万部のベストセラーとなる。’90年代以降、映画『父と暮らせば』などで主演女優賞を受賞し本格派女優として評価を確立。CMや舞台、テレビでも活躍し、2018年に森田剛と結婚。2021年には34年ぶりに三井のリハウスCMに出演するなど長期的に活動を続けている。

田中美佐子

東洋女子短期大学在学中に劇団ひまわりに入り、1981年ドラマ『想い出づくり。』でデビュー。’82年映画『ダイアモンドは傷つかない』で主演を務め、第6回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞する。以後、ドラマ・映画・舞台で確かな演技力を発揮し活躍。’95年にお笑い芸人の深沢邦之と結婚し2002年に女児を出産するが、2023年に離婚。育児休業後、2005年『ブラザー☆ビート』で復帰し、以降も精力的に女優活動を続ける。

紺野美沙子

児童劇団出身で、1979年に3代目ユニチカマスコットガール、’80年にNHK連続テレビ小説『虹を織る』でヒロインを務めて注目される。慶應義塾大学文学部国文学専攻を卒業し、学位は文学士。’92年に篠田伸二と結婚し1子をもうける。’98年より国連開発計画親善大使として国際協力に携わり、2010年から朗読座を主宰。岐阜県図書館名誉館長や横綱審議委員会委員も務め、好角家として「元祖スー女」として知られる。2025年3月に親善大使を退任。

川上麻衣子

1979年に児童劇団ピノキオでレッスンを始め、’80年のNHKドラマ『絆』でデビュー。『3年B組金八先生』第2シリーズで優等生・迫田八重子を演じ一躍注目を浴びる。高校退学を機に一時芸能界を離れるが、市川崑監督作品『幸福』で復帰。篠山紀信撮影の写真集で10代にしてヌードも披露した。’88年『うれしはずかし物語』で映画初主演し、’96年『でべそ』で日本映画プロフェッショナル大賞主演女優賞を受賞。女優としての幅と艶やかなイメージで独自の存在感を示した。

若村麻由美

高校卒業後、仲代達矢主宰の俳優養成所「無名塾」に入塾。養成期間中の1987年、NHK連続テレビ小説『はっさい先生』で723名の中からヒロインに選ばれデビュー。以降、映画・テレビで幅広く活躍し、エランドール賞やギャラクシー賞個人賞を受賞。松本清張作品でも印象的な演技を残す。2003年に宗教団体代表の小野兼弘と結婚、2007年に夫が肝不全で死去以降、本格的に芸能活動を再開している。

鷲尾いさ子

新潟県新潟市出身、新潟清心女子高校卒業。高校在学中の1983年から『装苑』専属モデルとして表紙を24か月連続で飾り注目を集める。’85年に全日空水着キャンペーンガールに選ばれ、’86年公開の映画『野ゆき山ゆき海べゆき』でヌードを披露し女優として本格的に活動開始。’87年にはパリコレに出演し、’89年には「鉄骨飲料」CMでブレイク。’95年に俳優・仲村トオルと結婚し、二児の母となる。近年は芸能活動からは離れている。

賀来千香子

女子美大短大で生活デザインを学び、在学中に原宿でスカウトされ『JJ』モデルとしてデビューした。165cmの長身と股下83cmのスタイルで注目され、銀行や石油会社の広告にも起用される。1982年にTBS『白き牡丹に』で女優デビューし、『男女7人夏物語』などのヒット作に出演して人気を確立。’92年『ずっとあなたが好きだった』で“冬彦さん”の妻役を演じ大ブレイクし、続く『誰にも言えない』でも主演して高視聴率を記録した。

鈴木保奈美

1986年に女優デビュー。カネボウ化粧品のCMや「パパはニュースキャスター」「ノンちゃんの夢」などを経てトレンディドラマで注目を集める。その後、平成に入り’91年の月9ドラマ『東京ラブストーリー』で赤名リカを演じ大ブレイクし、社会現象を巻き起こす。その後もフジテレビの人気枠で主役に抜擢され、’90年代を代表する女優としての地位を確立した。

牧瀬里穂

昭和から平成に入った1989年「ミスビタミンCハイシーガールコンテスト」でグランプリを獲得してデビュー。同年のJR東海「クリスマス・エクスプレス」のCMの鮮烈な印象で一気にトップスターとなる。その後清純派としてCM出演も多く、契約社数は10社超に及んだ。’90年代は宮沢りえ、観月ありさと並び“3M”と呼ばれたが、本人は先輩に対する遠慮から実感は薄かったと語っている。

女性歌手・アイドル > 1980年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

松田聖子

1980年4月「裸足の季節」で歌手デビュー。キュートなルックスと甘い歌声で一世を風靡し、「青い珊瑚礁」「赤いスイートピー」などヒット曲を連発。髪型「聖子ちゃんカット」や衣装も社会現象に。ぶりっ子キャラでアイドル像を一新し、従来の“清純派”に自己演出の強さを加味。’80年代を代表するトップアイドルとして同世代女性のライフスタイルやファッションに大きな影響を与えた。’90年代以降も、作詞作曲や海外活動を行い、アイドルからアーティストへと進化。結婚・出産・離婚などを経ても第一線に立ち続ける、まさに“永遠のアイドル”と称される存在。

中森明菜

1981年、3度目の挑戦となった『スター誕生!』で合格し、’82年5月「スローモーション」でデビュー。翌年「少女A」でブレイクし、「飾りじゃないのよ涙は」「DESIRE」などで圧倒的な歌唱力と表現力を示す。松田聖子と対照的なクールで影のあるキャラクターを打ち出し、“アンチ・聖子”として人気を二分。歌に込められた情念とビジュアルの完成度が支持を集め、演歌やニューミュージックの要素も取り込んだ独自の世界観を築いた。私生活では波乱も多く、特に’89年の自殺未遂事件は世間に衝撃を与えたが、その脆さも彼女の魅力とされた。2020年代も復帰が待望される“孤高の歌姫”。

ザ・ベストテン

1978年から’89年までTBSで放送された音楽番組。視聴者のハガキや売上、リクエストなどを独自集計し、毎週ベストテン形式で発表。黒柳徹子と久米宏の名コンビ司会が名物で、生放送ならではの臨場感とハプニングが魅力だった。ランクインした歌手の中継出演も多く、空港・駅・学校などからの生中継パフォーマンスは番組の名物に。沢田研二、松田聖子、中森明菜、近藤真彦、チェッカーズなど’80年代アイドルが多数ランクイン。中森明菜の「禁区」5週1位や、松田聖子の年間1位連発など記録も多い。アーティストと視聴者の距離が近い、テレビ黄金期の象徴的音楽番組だった。

小泉今日子

1981年テレビ番組「スター誕生!」でグランプリを獲得し、’82年3月「私の16才」で歌手デビュー。その後「学園天国」「渚のはいから人魚」「なんてったってアイドル」「木枯しに抱かれて」「あなたに会えてよかった」「優しい雨」など’80年代を代表するヒット曲を多数発表し、アイドル人気を確立。出演ドラマ・映画も多く、「あまちゃん」などNHK連続テレビ小説を含め女優としても高い評価を得た。2015年に自身の会社「明後日」を設立し、プロデューサーとして舞台・映像・音楽・出版に携わるほか、エッセイや書評など執筆活動も行う。

酒井法子

1986年「’86ミスヘアコロン・イメージガールコンテスト」で “BOMB!賞” を受賞し芸能界入り。’87年2月、シングル「男のコになりたい」で歌手デビュー。以後、アイドル歌手として代表曲に「夢冒険」「碧いうさぎ」など多数のヒットを放つ。歌手活動と並行して女優業でも活動し、ドラマ「ひとつ屋根の下」「星の金貨」などに出演。「星の金貨」の主題歌「碧いうさぎ」は大ヒットした。一時期薬物問題で表舞台から遠ざかるも、近年はデビュー35周年を記念したベストアルバムのリリースなど、変化する活動形態で芸能活動を継続している。

柏原芳恵

1979年『スター誕生!』(日本テレビ系)に出場し「お元気ですか」を歌って合格、グランドチャンピオン(最優秀賞)を獲得。’80年6月、フィリップス・レコードより「No.1」で“柏原よしえ”の芸名で歌手デビュー。’81年、「ハロー・グッバイ」(讃岐裕子のカバー)でヒット。これによりトップアイドルの地位を確立し、日本レコード大賞ゴールデン・アイドル賞を受賞。’82年10月、シングル「花梨」の発売と同時に表記を“柏原芳恵”へ改名。以降、中島みゆきなど作詞・作曲家との協力で「春なのに」「最愛」など深みのある楽曲も多数ヒットさせ、オリコンチャートでトップ10入りを繰り返した。

薬師丸ひろ子

1978年、14歳の時に映画『野性の証明』で女優デビューし一躍注目される。’81年、主演映画『セーラー服と機関銃』で映画主演を務め、その主題歌を歌って歌手デビュー。以後「探偵物語」「メインテーマ」「Woman “Wの悲劇”より」など、主演映画と主題歌でヒットを連発する。’90年代以降は映画・テレビドラマでの女優としての地位を確立し、シリアスな役柄から母親役まで演技の幅を広げる。代表作に『木更津キャッツアイ』『ALWAYS 三丁目の夕日』、『あまちゃん』『アンナチュラル』『エール』などがある。

中山美穂

1985年、テレビドラマ『毎度おさわがせします』(TBS)で女優デビュー。その後主演ドラマ『夏・体験物語』の主題歌「C」で歌手デビューし、同年の第27回日本レコード大賞で最優秀新人賞などを受賞。 以降は「ビー・バップ・ハイスクール」や「ただ泣きたくなるの」「世界中の誰よりきっと」(中山美穂 & WANDS)などのヒットで“トップアイドル”の地位を確立した。女優としてドラマや映画にも多数出演し、『Love Letter』でブルーリボン賞主演女優賞、『東京日和』で日本アカデミー賞優秀主演女優賞を獲得。2024年の逝去まで約40年にわたり、歌手・女優の両面で幅広い活躍を続けた。

工藤静香

1984年、14歳で「第3回ミス・セブンティーンコンテスト」の特別賞を受賞。セブンティーン・クラブの一員として’85年「ス・キ・ふたりとも!」で歌手デビュー。’86年、テレビ番組『夕やけニャンニャン』のオーディションを経ておニャン子クラブ会員番号38番として加入。’87年8月、シングル「禁断のテレパシー」でソロデビュー。これがオリコン1位を獲得し、その後「抱いてくれたらいいのに」「FU-JI-TSU」「MUGO・ん…色っぽい」などヒットを連発。’80年代後半には中山美穂・南野陽子・浅香唯とともに“アイドル四天王”の一人とされる。 2000年、木村拓哉と結婚後も歌手活動を継続。

荻野目洋子

1984年、シングル「未来航海」でデビュー。姉は女優の荻野目慶子。翌’85年にはユーロビート風のカバー曲「ダンシング・ヒーロー(Eat You Up)」で大ヒットを記録した。その後も「六本木純情派」「ギャラリー」などのヒット曲を生み出し、アイドル歌手として活躍。特に「ダンシング・ヒーロー」は、2017年に大阪府立登美丘高校ダンス部の「バブリーダンス」によって再注目され、オリコンデジタルシングルランキングで2位を記録するなど、再ブームを巻き起こした。

南野陽子

1985年6月、シングル「恥ずかしすぎて」で歌手デビュー。その後、テレビドラマ『スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説』で主演し、アイドル歌手としての地位を確立する。’87年にはシングル「楽園のDoor」がオリコンで1位を獲得し、シングル8作連続1位を記録するなど、80年代後半のトップアイドルの一人として活躍した。’92年からは女優業に専念し、映画『寒椿』で日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞するなど、女優としても高い評価を受けた。

浅香唯

1985年、シングル「夏少女」で歌手デビュー。その後、テレビドラマ『スケバン刑事III 少女忍法帖伝奇』で主演し、アイドル歌手としての地位を確立。’87年にはシングル「瞳にStorm」がオリコンで4位を記録し、シングル「虹のDreamer」では1位を獲得するなどヒットを連発した。’90年代には音楽性の幅を広げ、作詞・作曲を手がけるなど、アーティストとしての側面も強調した。’93年には芸名の使用を巡るトラブルから一時的に芸能活動を休止したが、’97年に「Yui」として活動を再開。その後、再び「浅香唯」として活動を再開し、音楽活動や女優業を続けている。

斉藤由貴

1984年、「ミスマガジン」でグランプリを受賞し芸能界入り。’85年2月にシングル「卒業」で歌手デビューし、オリコンで最高6位を記録。同年4月にはテレビドラマ『スケバン刑事』で主演を務め、アイドル歌手としての地位を確立した。’86年にはNHK連続テレビ小説『はね駒』のヒロインを演じ、平均視聴率40%を記録するヒット作となり、全国的な人気を得た。’90年代以降は女優業に専念し、映画『優駿 ORACIÓN』で日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞。近年では、2025年にデビュー40周年を迎え、シングル「Light a Shine~月はずっと見ている」をリリースし、音楽配信サービスでの楽曲公開も行った。

堀ちえみ

1981年、ホリプロスカウトキャラバンでグランプリを受賞し、’82年にシングル「潮風の少女」で歌手デビュー。その後、’83年のテレビドラマ『スチュワーデス物語』で主演を務め、アイドル歌手としての地位を確立した。’85年にはシングル「Ri・Bo・N」がオリコンで2位を記録し、同年のNHK紅白歌合戦に初出場を果たした。また、’87年には映画『潮騒』に出演し、女優としても活動の幅を広げた。2019年に舌がんと食道がんを公表し、手術とリハビリを経て、2024年には舌がんの完治を報告。デビュー41周年ライブツアーを開催し、ファンとの交流を深めた。

岩崎良美

1980年2月「赤と黒」で歌手デビュー。姉の岩崎宏美も著名な歌手であり、姉妹での活動が注目を集めた。’85年にはシングル「TOUCH」がテレビアニメ『タッチ』のオープニングテーマに起用され大ヒットを記録。これにより、再び注目を浴び、アイドル歌手としての地位を確立した。’90年代以降は女優業にも進出し、テレビドラマや映画などで幅広く活動。2008年にはファンタジーバンド「Sound Horizon」の6th Story CD『Moira』に参加し、音楽活動の幅を広げたが、コンサートには出演せず、後に井上あずみが代役を務めた。

松本典子

1984年第、5回「ミス・セブンティーンコンテスト」でグランプリを獲得し芸能界入り。’85年3月にシングル『春色のエアメール』でアイドル歌手としてデビューを果たす。同期には浅香唯・斉藤由貴・中山美穂・本田美奈子・南野陽子らがいた。甘いルックスと骨太な歌声で注目され、1stアルバム『Straw Hat』収録曲「いっぱいのかすみ草」は名曲と評価される。テレビドラマやバラエティ番組でも活躍し、正統派アイドルとして’80年代の新人賞レースで数々の賞を受賞した。

高見知佳

中学時代にテレビ愛媛のど自慢番組でスカウトされ芸能界入り。1978年にコロムビアからシングルでアイドル歌手としてデビューした。’84年には「くちびるヌード」が資生堂春のキャンペーンCMソングに起用され、フジテレビ『夜のヒットスタジオ』やTBS『ザ・ベストテン』、日本テレビ『ザ・トップテン』など音楽番組で披露され注目を集めた。アイドル歌手として活動する傍ら、映画『蒲田行進曲』やテレビドラマ、舞台にも出演し、バラエティ番組でも人気を博した。2022年、がん性腹膜炎により60歳で死去した。

河合奈保子

1979年、西城秀樹の「HIDEKIの弟・妹募集オーディション」で優勝し、’80年6月にシングル『大きな森の小さなお家』でアイドル歌手としてデビューした。当時のキャッチフレーズは「ほほえみさわやか カナリー・ガール」で、2枚目のシングル『ヤング・ボーイ』がヒットし、複数の音楽祭で新人賞を受賞した。’81年にはNHKホールでのリハーサル中に転落事故で腰椎圧迫骨折の重傷を負ったが、約2か月後に復帰。同年の第32回NHK紅白歌合戦に『スマイル・フォー・ミー』で初出場し、事故現場であるNHKホールでトップバッターを務めた。

森高千里

1986年、「第1回ポカリスエット・イメージガールコンテスト」でグランプリを受賞し、同年冬に上京。’87年5月、映画『あいつに恋して』の主題歌「NEW SEASON」で歌手デビューし、女優活動と並行して芸能活動を開始。’88年、アルバム『ミーハー』収録曲「ミーハー」で初めて作詞を手掛け、入院経験をもとに書いた「ザ・ストレス」で個性的な歌詞が注目され、以降ほぼ全曲を自ら作詞。’89年に「17才」がヒットし、’92年の「私がオバさんになっても」や『ROCK ALIVE』ツアーで全国を巡り、生音主体の演奏とコスプレを取り入れた独自のステージを展開した。

岡田有希子

1984年4月、シングル『ファースト・デイト』でアイドル歌手としてデビュー。同年の『ザ・ベストテン』や『ザ・トップテン』に出演し、デビュー曲や2枚目シングル『ヤング・ボーイ』で新人賞を総なめにした。’85年から全国コンサート『ハートにキッス』や『ファンタジアン』を開催し、多忙な中でドラマ出演もこなした。’86年1月に発売した『くちびるNetwork』はカネボウ化粧品春のバザールのCMソングに採用されオリコン初登場1位となる。絶頂期であった同年の突然の自死は大きな社会問題となった。

本田美奈子

中学時代に『スター誕生!』に出場し、松田聖子らの曲を歌ったが合格には至らなかった。その後原宿でスカウトされ、1985年「殺意のバカンス」でデビュー。5枚目のシングル「1986年のマリリン」が大ヒットし、アイドルとして人気を集める。その後ロックやミュージカルへと活動を広げ、『ミス・サイゴン』や『レ・ミゼラブル』で高い評価を得た。2003年にはクラシックアルバム『AVE MARIA』を発表し新境地を開いたが、急性骨髄性白血病を発症し、2005年、惜しまれながら38歳で逝去した。

松本伊代

中学3年の時に原宿でスカウトされ、1981年に『たのきん全力投球!』の田原俊彦の妹役で芸能界デビュー。同年「センチメンタル・ジャーニー」で歌手デビューし、一躍人気アイドルとなる。翌’82年には多くの新人賞を受賞し、「花の82年組」の一員として活躍した。’83年「時に愛は」がヒットし、以後もバラエティ番組で幅広く活動。’85年には自身のショップを開き、’93年にお笑いタレントのヒロミと結婚。2000年代以降もタレント活動を続けている。

早見優

1980年に当時住んでいたハワイでスカウトされ、山口百恵に憧れて単身帰国しサンミュージックに所属する。’82年に「急いで!初恋」で歌手デビュー。「花の82年組」の一員として注目を集め、日本レコード大賞新人賞を受賞した。’83年、コカ・コーラのCMソング「夏色のナンシー」がヒットし紅白に初出場、CNNにも紹介された。歌手と学業を両立する才色兼備のアイドして活動し、上智大学を卒業後に国際交流活動にも積極的に参加。’96年に結婚して母となり、2005年には松本伊代・堀ちえみと「キューティー★マミー」を結成した。現在もタレント活動を続ける。

菊池桃子

1984年、映画『パンツの穴』で注目を集め、同年「青春のいじわる」で歌手デビュー。親しみやすい雰囲気で人気を得、デビュー年に「SUMMER EYES」「雪にかいたLOVE LETTER」などがヒット、日本レコードセールス大賞女性新人賞を受賞した。’85年の「卒業-GRADUATION-」「もう逢えないかもしれない」から’87年まで7作連続でオリコン1位を記録し、資生堂や江崎グリコ、日立製作所など大手企業のCMキャラクターにも起用されCMや雑誌でも活躍。武道館公演はビートルズの公演の観客動員数を抜き最年少記録を樹立、トップアイドルの地位を確立した。

 石川秀美

1982年「妖精時代」でデビューし新人賞を受賞、松本伊代や小泉今日子、中森明菜らとともに「花の82年組」の一員として歌番組やドラマなどで活躍した。初期は松本隆作詞によるアイドルポップスを歌ったが、’85年頃からロック寄りの楽曲に挑戦し歌唱力を発揮した。後半はライブやアルバム制作に力を入れ、ドラマ出演でも注目された。’89年に薬丸裕英との交際が報じられ、1990年に婚約・結婚し出産を発表。その後は芸能界に本格復帰せず事実上引退した。

三田寛子

京都市出身で、1980年に雑誌『セブンティーン』のモデルに合格し上京。翌’81年、TBSドラマ『2年B組仙八先生』で俳優デビューした。’82年には酒井政利のプロデュースにより「駈けてきた処女」で歌手デビューし、早見優や松本伊代らとともに「花の82年組」と呼ばれた。その後『笑っていいとも!』で天然キャラクターとして人気を博し、『YOU』の司会や数々のドラマに出演するなど幅広く活躍した。’91年、歌舞伎役者の中村芝翫と結婚し梨園の妻となるが、近年も”元アイドル”としてメディア活動を続ける。

今井美樹

1983年にファッション誌『エムシーシスター』(mc Sister) のモデルとして活動を始め、’84年にドラマ『輝きたいの』で女優デビュー。’86年『黄昏のモノローグ』で歌手デビューし、翌年のアルバム『elfin』でブレイクした。資生堂のCMソング『彼女とTIP ON DUO』などのヒットを重ね、’91年ドラマ『あしたがあるから』の主題歌「PIECE OF MY WISH」で初のミリオンを記録。’92年以降は久石譲や布袋寅泰らと制作を行い、’96年「PRIDE」が最大のヒットとなった。’99年に布袋寅泰と結婚した。

森川由加里

1984年『ポッパーズMTV』のアシスタントとしてテレビ初出演し、’87年「雨のカルメン」で歌手デビュー。同年「SHOW ME」がドラマ『男女7人秋物語』の主題歌となり大ヒットした。以後、ボーイッシュなキャラクターでバラエティやドラマでも活躍し、全国ツアーや学園祭ライブを精力的に行った。’90年からはラジオ番組を通じてコンサートツアーを続け、「夢 元気!?」で賞を受賞。’90年代はライブ活動を中心に音楽を継続し、舞台や海外取材番組にも出演。2013年に布施明と結婚した。

石井明美

アルバイトで六本木のクラブ歌手をしていた際にスカウトされ、1986年に研音へ所属。同年ドラマ『男女7人夏物語』主題歌「CHA-CHA-CHA」でデビューし、80万枚を超える大ヒットを記録した。翌年には選抜高校野球の入場行進曲にも採用され、一躍人気歌手となった。’90年には「ランバダ」がヒットし、写真集出版や結婚・出産など話題も多かった。2000年代以降はユニット活動や再婚を経て、現在もコンサート「夢スター春・秋」に出演し歌手として活動を続けている。

伊藤智恵理

1987年、ドラマ『あぶない刑事』にゲスト出演後、同年『キスより簡単』にレギュラー出演し、挿入歌「パラダイス・ウォーカー」で歌手デビューした。「トキメキがいたくて」「夢かもしれない」などを発表し、’90年「天気になれ」が最後のシングルとなった。並行してバラエティやCMでも活躍。’96年に“Chieri”として音楽活動を再開し、アルバム『SKY SONGS』を発表。2000年以降は女優・タレント活動や記念ライブを行い、2015年に結婚し現在は家庭を中心に暮らしている。

麻倉未稀

中学から歌手を志し上京後、モデル活動を経て1981年「ミスティ・トワイライト」でデビューした。“都会派美人シンガー”として注目され、「黄昏ダンシング」で『ザ・ベストテン』に登場。’83年「フラッシュダンス」、’84年「ヒーロー」が大ヒットし、“洋楽カバーの女王”と呼ばれる存在となった。’90年代以降は写真集や映画で大胆な表現に挑戦する一方、ミュージカル女優としても活動を広げ、『麗しのサブリナ三姉妹物語』『アニー』などに出演した。

森口博子

福岡でスクールメイツに所属しバックダンサーを経験、数多くのオーディションに挑戦した末、1985年『勝ち抜き歌謡天国』で準優勝し、同年「水の星へ愛をこめて」で歌手デビューした。アニメ『Ζガンダム』の主題歌としてオリコン16位を記録したが、その後ヒットに恵まれず苦難を味わう。’88年『鎧伝サムライトルーパー』の「サムライハート」で再び注目を集め、アニメソング歌手として地位を築いた。以降は歌手、女優、バラエティで幅広く活動を続けている。

中山忍

姉・中山美穂を見送りに行った空港でスカウトされ、1988年ドラマ『オトコだろッ!』で女優デビュー、同年「小さな決心」で歌手デビューした。アイドルユニットでも活動したが’90年に歌手活動を休止し、以降は女優に専念。『刑事貴族3』などで清純派女優として人気を得た。’95年『ガメラ 大怪獣空中決戦』で鳥類学者役を演じて評価され、日本アカデミー賞優秀助演女優賞ほか多数を受賞。以後ドラマや映画、舞台で幅広く活躍を続けている。

細川直美

1988年「第2回全日本国民的美少女コンテスト」でグランプリを受賞し芸能界入り。アイドル歌手として新人賞レースにも参戦し、田村英里子や島崎和歌子らと同期デビューした。’93年のNHK朝ドラ『かりん』でヒロインを務め人気を獲得し、その後は女優として活躍。2002年に俳優の葛山信吾と結婚し、2女をもうける。結婚発表時には葛山の出演作『真珠夫人』と絡めた報道も話題となり、公私ともに注目を集めた。

マルシア

1985年、ブラジルで『TBS歌謡選手権』で準優勝し、翌年『外国人歌謡大賞』優勝を機に来日。作曲家猪俣公章の内弟子となる。’89年「ふりむけばヨコハマ」でデビューし、多くの新人賞を受賞して注目を集めた。その後はドラマやバラエティでも活躍し、女優・タレントとしても幅を広げる。’94年に大鶴義丹と結婚し、’97年に女児を出産するが2004年に離婚。離婚後も娘のため大鶴姓を名乗り活動を続けている。

秋本奈緒美

ジャズ好きの父の影響で幼少より同ジャンルに親しみ、サラ・ボーンに感銘を受け歌手を志す。長戸大幸にデモを送り続け、1982年にビクターからジャズ歌手としてデビュー。翌年『オールナイトフジ』初代司会を務め広く知られる存在となり、女優としても多彩に活動する。’90年代にはヌード写真集を発表し注目を集め、2019年には22年ぶりのアルバムをキングレコードから発売した。

西田ひかる

幼少期から13歳までを米ロサンゼルスで過ごした。アメリカンスクール・イン・ジャパン在学中にチアリーダーとして活動し、1979年にはスティーヴィー・ワンダーの楽曲「愛の園」でコーラス参加を経験した。’88年、日本エアシステム(JAS)のキャンペーンガールとしてデビューし、同年「フィフティーン」で歌手デビュー。清純派アイドルとして人気を集め、ドラマや映画にも出演。’91年、ドラマ『デパート!夏物語』の主題歌「ときめいて」がヒットし、第42回NHK紅白歌合戦に初出場。以後も「人生変えちゃう夏かもね」などCMソングがヒットした。デビュー直後から続くチャリティバザーを通じ、長年にわたり寄付活動も行っている。

大西結花

中学時代に「ミス・ロックンローラー・コンテスト」で準優勝後、スカウトされ芸能界入り。1984年、テレビドラマ『家族の晩餐』で女優デビューし、翌’85年にシングル『アラベスク・ロマネスク』でアイドル歌手デビューを果たした。第12回横浜音楽祭新人奨励賞を受賞し、デビュー時のキャッチフレーズは「不思議チック少女」。ドラマでは早熟や不良少女役で注目され、’85年公開の相米慎二監督『台風クラブ』で第7回ヨコハマ映画祭最優秀新人賞を受賞した。

伊藤麻衣子

1982年、ミスマガジンコンテスト初代グランプリを受賞し、’83年にシングル『微熱かナ』でアイドル歌手デビュー。デビュー時のキャッチコピーは「1億人のクラスメイト」で、以後シングルやアルバムを多数リリースしたが、同年デビュー組に目立ったヒットは少なく「不作の83年組」とも呼ばれた。’95年に芸名をいとうまい子に変更し、2000年代以降はバラエティ番組に活動の中心を移し、『お昼ですよ!愛・地球博』や『バイキング』などに出演。2016年3月に同番組を卒業するまで幅広く活躍した。

森尾由美

『Seventeen』の読者モデルとしてスカウトされ、1982年にフジテレビドラマ『ねらわれた学園』で女優デビュー。’83年にシングル「お・ね・が・い」でアイドル歌手デビューし、CM出演や『オールナイトフジ』司会、『元気が出るテレビ!!』などバラエティでも活躍した。’90年代にはトレンディドラマやTBS『愛の劇場シリーズ』の五つ子の母役で注目され、同枠の主演最多記録を持つ。声優としても『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の秋本・カトリーヌ・麗子役を10年以上演じ、日本在住ながら活動を続けている。

甲斐智枝美

1979年、日本テレビ『スター誕生!』で第29代グランドチャンピオンを獲得し芸能界入り。’80年、ホリプロ所属のアイドルとしてシングル「スタア」で歌手デビューし、キャッチフレーズは「KIRARI!瞳が語る」、愛称は「チェミイ」。’81年にはキャンペーン曲「Si! Si! C!」を発売したが、シングルのオリコン最高位は103位とヒットには恵まれず、歌手活動を縮小。その後は女優・タレント業に重心を移し、『GOGO! チアガール』『野々村病院物語』『高校聖夫婦』などドラマに出演。’87年には『見上げればいつも青空』でヒロインを務め、クイズ番組司会など多方面で活動した。

北原佐和子

『mcシスター』の読者モデルを経てオスカープロモーションにスカウトされ、1981年にミス・ヤングジャンプに選ばれグラビアデビュー。同年アイドルユニット「パンジー」を結成し、’82年18歳の誕生日にシングル「マイ・ボーイフレンド」でソロ歌手デビュー、「さわやか恋人一年生」のキャッチフレーズで’85年までにシングル10作、アルバム6作を発表。「花の82年組」の一人として人気を得た後、女優に転身し、時代劇や東海テレビ昼ドラに出演。20代から介護やボランティアに関心を持ち、2007年にホームヘルパー2級、2014年に介護福祉士資格を取得。介護現場の経験を生かし著書執筆や講演活動も行っている。

工藤夕貴

歌手井沢八郎の長女として生まれ、小学6年で渋谷でスカウトされ芸能界入り。TBS「ザ・ヒットステージ」でデビューし、毒舌中学生として注目され、CM「お湯をかける少女」で人気を得た。1984年『逆噴射家族』で映画出演し、挿入歌「野生時代」で歌手デビュー。翌年『台風クラブ』主演で高評価を受け、若手実力派女優として注目された。さらに声優やラジオパーソナリティとしても活動し、’90年『戦争と青春』で日本アカデミー賞優秀主演女優賞、ブルーリボン賞主演女優賞などを受賞した。

伊藤つかさ

子役として活動後、1980年『3年B組金八先生』で注目され、’81年「少女人形」で歌手デビューし人気アイドルとなる。’84年にビクターへ移籍し’86年まで音楽活動を続け、以後は女優業や声優にも進出。2002年に写真集でヌードを披露し話題となり、2006年に20年ぶりに歌手復帰。近年は過去音源の再発売や舞台出演など幅広く活動を続けている。

つちやかおり

1979年『3年B組金八先生』で女優デビューし、’82年「恋と涙の17才」で歌手デビューした。その後はドラマやバラエティ、グラビアなどで活躍したが、’91年に布川敏和と結婚し専業主婦となる。2012年に約20年ぶりに芸能界復帰を発表し、2014年に離婚を公表。近年はSNSや配信企画にも参加し活動を続けている。

石野陽子

高校在学中にスカウトされ芸能界入りし、1985年「テディーボーイ・ブルース」で歌手デビューした。石野真子の妹として当初から注目を浴び、歌唱に苦手意識を持ちながらもアイドルとして人気を得た。女優としてはドラマ『セーラー服通り』主演でブレイクし、志村けんとの掛け合いが光る『志村けんのだいじょうぶだぁ』でお茶の間の人気者となる。以降もテレビ・舞台に活動の場を広げ、2003年『てるてる家族』でスケートコーチ役、2020年『おちょやん』では芝居茶屋の女将役を好演し、幅広い演技力を示した。

中村由真

1985年ホリプロスカウトキャラバンで注目され、翌年「ヤングジャンプ」サマークイーンコンテストで1位となり芸能界入りした。’86年、ドラマ『スケバン刑事III』で風間三姉妹の次女・由真役を演じブレイク。’87年挿入歌「ジレンマ」で歌手デビューし、「シビアー」「パニック」なども発表。浅香唯・大西結花と結成したユニット「風間三姉妹」で主題歌「Remember」がオリコン1位を獲得し、人気アイドルとして活動した。

田中律子

12歳でモデルデビューし、1985年に『鶴ちゃんのいちごチャンネル』でテレビ初出演、ドラマでも女優として活動を始めた。’88年、筒美京平プロデュース「FRIENDSHIP」で歌手デビューし、シングル11枚とアルバム5枚を発表。同期はWinkや西田ひかるら。’89年『愛しあってるかい!』出演で注目され、’91年『101回目のプロポーズ』で人気女優となった。以後は女優業を中心にバラエティや司会でも活躍し、現在も幅広く活動を続けている。

 安田成美

中学時代にスカウトされ、1981年にCMでデビュー。’83年『風の谷のナウシカ』イメージガールに選ばれ、翌年同作のイメージソング「風の谷のナウシカ」で歌手デビューしオリコン10位のヒットとなった。’89年以降は『同・級・生』『素顔のままで』などトレンディードラマで主演し人気を確立。’94年に木梨憲武と結婚し、出産で一時休業したが2000年にドラマで復帰。以降も女優として活動を続ける一方、カフェ経営にも携わっている。

宮沢りえ

11歳でモデルとして活動を始め、1985年に明星食品CMで芸能界入り。’87年に初代リハウスガール”白鳥麗子”として注目を集め、’88年映画『ぼくらの七日間戦争』主演で女優デビュー、日本アカデミー賞新人賞を受賞した。’89年ドラマ初主演と同年「ドリームラッシュ」で歌手デビューし、翌年のシングルはオリコン1位を獲得、紅白にも出場した。’91年写真集『Santa Fe』が150万部超の大ヒットを記録し社会現象となった。’92年に貴乃花と婚約するが短期間で解消、’94年には流行語大賞も受賞するなど話題を集めた。

三原 順子

小学校時代から劇団で演技を学び、1979年『燃えろアタック』で本格的に女優デビュー。同年『3年B組金八先生』で不良少女役を演じ、セリフ「顔はやばいよ、ボディやんな」で注目を集めた。’80年「セクシー・ナイト」で歌手デビューしヒットを記録、以降も「いとしのサマーボーイ」などを発表した。アイドルらしからぬ大胆な発言や行動が話題となり、後にロックバンド活動や作詞にも取り組む。2010年には自民党から参議院議員選挙に立候補し、初当選を果たした。

松任谷由実


1972年、自身の作詞・作曲による『返事はいらない』で歌手デビュー。’75年、作家として提供した「いちご白書をもう一度」がオリコン1位を獲得すると注目され、TBSドラマの主題歌で6枚目のシングル『あの日にかえりたい』もオリコン1位を獲得。ここから過去の楽曲にも注目が集まり荒井由実ブームが到来、ニューミュージック界を牽引するアーティストとして快進撃が始まる。’76年に音楽プロデューサーの松任谷正隆と結婚し松任谷由実に改名。”呉田軽穂”の名で多くの歌手にも楽曲を提供し、発表される曲の殆どが名作として時代を超えて支持され、デビューから半世紀以上が経った現在も、ニューミュージック界のカリスマ的存在として活動を続ける。

中島みゆき


1975年、「アザミ嬢のララバイ」でレコードデビュー。同年『ポピュラーソング・コンテスト』で「時代」がグランプリを受賞し、歌手・作詞作曲家として注目を集める。’76年にファーストアルバム『私の声が聞こえますか』を発表、研ナオコへの提供曲「LA-LA-LA」「あばよ」などでソングライターとしても成功。’77年「わかれうた」がヒットし、歌手としての地位を確立する。代表作として’81年「悪女」がオリコン1位、’94年「空と君のあいだに」が147万枚のヒット。2000年にヤマハミュージックコミュニケーションズに移籍し、「地上の星/ヘッドライト・テールライト」がロングヒット。2006年芸術選奨文部科学大臣賞、2009年紫綬褒章を受章し、現在も精力的に作曲・歌手活動を続ける。

五輪真弓


芸術の発信地として知られた渋谷の小劇場のオーディションで歌唱したのをきっかけに1972年10月、CBS・ソニーからアルバム『少女』と同名シングルで歌手デビュー。オリコン最高6位を記録し「和製キャロル・キング」と称され、日本女性シンガーソングライターの草分けと評された。’76年にはフランスでアルバム制作に臨み、全フランス語アルバム『えとらんぜ』を発表、サルヴァトール・アダモのオランピア劇場公演にもゲスト出演する。’78年「さよならだけは言わないで」のヒットを機にテレビ出演が増加。’80年、B面予定の「恋人よ」がA面として発売され大ヒット、第22回日本レコード大賞金賞を受賞。以来コンサート活動を精力的に続け、日本のポップ・フォーク界で確固たる地位を築いた。

杏里


1978年、17歳でフォーライフ・レコードから「オリビアを聴きながら」でデビュー。歌唱力は高く評価されたが、初期はセールスが伸び悩み、曲調を変えながら定期的に作品を発表した。’82年、バックバンドの小林武史作曲の「思いきりアメリカン」が花王のCMで使用されヒットし、「夏」「海」のイメージが定着。’83年、角松敏生にプロデュースを委ねた5枚目アルバム『Bi・Ki・Ni』で洗練された音楽性を確立。8月にはアニメ『キャッツ♥アイ』主題歌「CAT’S EYE」を発売し初のオリコン1位を獲得、続く「悲しみがとまらない」とともにベスト10入りを果たす。同年12月には両曲を収録したアルバム『Timely!!』がオリコン1位となり、初出場の第34回NHK紅白歌合戦で不動の地位を確立した。

竹内まりや


1978年、23歳でシングル「戻っておいで・私の時間」とアルバム『BEGINNING』でデビュー。当時はアイドル的役割も担ったが、’79年の「SEPTEMBER」が長期チャートインし新人賞を受賞、サンレモ音楽祭にも出場した。’80年には「不思議なピーチパイ」がヒットし、自ら作詞作曲も手がけるようになるが、アイドル的活動に悩み、’81年には過酷なスケジュールで喉を痛め一時休業。’82年に山下達郎と結婚しメディア露出を減らす一方で作詞・作曲家として活動を開始。’84年、全曲自作のアルバム『VARIETY』をリリースしヒット、娘も誕生した。その後は家庭を優先しつつ、薬師丸ひろ子「元気を出して」、中山美穂「色・ホワイトブレンド」など多数のヒット曲を提供し、シンガーソングライターとして確固たる地位を築いた。

渡辺真知子


1975年、高校在学中にヤマハ主催『第9回ポピュラーソングコンテスト』に「オルゴールの恋唄」で出場し特別賞を受賞。’77年、洗足学園短期大学音楽科卒業後、同年11月にシングル「迷い道」でデビュー。’78年にはセカンドシングル「かもめが翔んだ日」が大ヒットし、第20回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞、音楽祭13賞も獲得。同年に「ブルー」、’79年に「たとえば…たとえば」「別れて そして」などヒットが続く。’80年の「唇よ、熱く君を語れ」はカネボウCM曲としてヒットし、軽快で力強い曲調が”女性の時代”を象徴する楽曲と評され、デビュー直後からシンガーソングライターとして順調にキャリアを築いた。

髙橋真梨子


中洲のナイトクラブに出演していた1972年、「ペドロ&カプリシャス」のペドロ梅村にスカウトされ前野曜子の後任として二代目ボーカルに参加。当時は芸名「高橋まり」。’73年に「ジョニィへの伝言」「五番街のマリーへ」がロングヒットとなる。’78年にペドロ&カプリシャスを脱退し、ソロ歌手「髙橋真梨子」として活動を開始。同年11月にシングル「あなたの空を翔びたい」でデビューし’79年から全国ツアーを開始。2019年まで41年間連続で開催し、2000人以上収容の大規模ホールで年間25公演以上を継続する唯一の女性ソロ歌手として昭和、平成、令和の3時代にわたりトップアーティストとして活動を続けている。

大橋純子


1974年に北海道から上京し、ヤマハ音楽振興会で働きながら仲間とバンド活動を始めた。同年アルバム『フィーリング・ナウ』でデビューし、尾崎紀世彦のツアーに同行して経験を積む。’76年にアルバム『ペイパー・ムーン』で初ヒットを得て、翌年には「大橋純子&美乃家セントラル・ステイション」として「シンプル・ラブ」をヒットさせた。’78年にはドラマ主題歌「たそがれマイ・ラブ」が大ヒットし、日本レコード大賞金賞を受賞。続く「サファリナイト」も支持を集めた。’79年に作曲家佐藤健と結婚し、「ビューティフル・ミー」で『NHK紅白歌合戦』に初出場。’81年発表の「シルエット・ロマンス」が’82年にかけてロングヒットとなり、最優秀歌唱賞を受賞するなど、歌唱力と表現力で高い評価を確立した。

八神純子


1974年の『ヤマハポピュラーソングコンテスト』で「雨の日のひとりごと」「幸せの時」の2曲同時入賞を果たし、同年にシングル「雨の日のひとりごと」でプレ・デビュー。’78年1月、20歳の誕生日に「思い出は美しすぎて」で本格デビューし、アルバムもヒットした。次作は不発となったが、同年9月の「みずいろの雨」が有線やラジオで支持を得て人気が急上昇し、『ザ・ベストテン』出演を機に全国区でブレイク。明るいトークで司会陣に親しまれ、存在感を高めた。「みずいろの雨」はオリコン2位、60万枚を売り上げる大ヒットとなり、同年末にリスナーズグランプリ最優秀新人賞を受賞。透明感ある歌声と確かな実力でシンガーソングライターとしての地位を確立した。

葛城ユキ

1973年、朝霧マチ名義で第6回ヤマハポピュラーソングコンテストに出場し「小さな出発」で歌唱賞を受賞。翌年に葛城ゆきと改名し、第7回同大会で「木曾は山の中」を歌い最優秀賞を獲得、さらに世界歌謡祭でも川上賞を受賞し、’74年にメジャーデビューした。当初はニューミュージック系の作品を発表したが、’70年代後半に「ユキ」と改名。’80年にはボニー・タイラーの楽曲をカバーした「哀しみのオーシャン」がヒットし、アルバム『寡黙』を発表。’83年には「ボヘミアン」をカバーして大ヒットさせ、力強い歌声で代表曲となった。

中村あゆみ

1984年、高校3年で高橋研プロデュースの「MIDNIGHT KIDS」でデビュー。翌’85年に「翼の折れたエンジェル」が日清カップヌードルのCMに起用され大ヒットし、一躍注目を集めた。’85年夏にはREBECCAとのジョイントライブを行い、以後8月31日を「AYUMIDAY」として武道館などで恒例ライブを開催。代表曲には「ちょっとやそっとじゃCAN’T GET LOVE」「ともだち」、さらに鈴木みのるの入場曲「風になれ」がある。’87年以降は自作曲も手がけ、’94年の結婚、’99年の出産を機に活動を休止するが、2004年に再始動し現在も歌手として活動を続けている。

小林明子

東京大学教授の秘書や音楽出版会社勤務を経て、1984年に作家デビュー。翌’85年「恋におちて -Fall in love-」で歌手デビューし、ドラマ『金曜日の妻たちへIII』の主題歌として大ヒット、レコード大賞作曲奨励賞を受賞した。中森明菜らへの楽曲提供も行う。’88年にはリチャード・カーペンターのプロデュースでアルバム『City of Angels』を発表。’92年に渡英し、holi名義で活動を始め、’94年に元ジャパンのメンバーらとアルバムを制作、’95年にはパッセンジャーズ作品に参加した。2001年に結婚し、同年アルバム『Beloved』を発表。以降も交響楽団やハープとの共演など多彩な音楽活動を展開し、日英を拠点に活動を続けている。

渡辺美里

高校時代にミス・セブンティーンコンテストで歌唱部門を受賞し、1985年にEPIC・ソニーからデビューした。翌年、小室哲哉作曲の「My Revolution」が大ヒットし、一躍人気歌手となる。デビュー直後から西武ライオンズ球場など大規模スタジアムでの公演を成功させ、物怖じしないパフォーマンスで支持を得た。ラジオ番組のパーソナリティーも務め、アイドルとは異なるガールズポップの先駆的存在として活躍した。アルバムは9作がオリコン1位を獲得し、8年連続1位の記録を残している。小室哲哉や岡村靖幸、大江千里ら多くの作家陣と組み、エピックを代表するアーティストとして’80年代後半から’90年代前半の音楽シーンを牽引した。

浜田麻里

1983年、糸井重里のキャッチコピー「麻里ちゃんは、ヘビーメタル。」とともに、LOUDNESS樋口宗孝プロデュースのアルバム『Lunatic Doll〜暗殺警告』でデビューした。女性ロックヴォーカリストの旗手として注目を集め、当時のハードロックとしては異例のセールスを記録した。’85年に初シングル「Blue Revolution」を発表し、セルフプロデュースや全国ツアーも展開。’87年からはロサンゼルスで録音を行い、ポップスを取り入れた幅広い音楽性を示した。’88年にはソウル五輪中継テーマ「Heart and Soul」で初のオリコンTOP10入りを果たし、’89年「Return to Myself」が1位を獲得し代表曲となった。CMやドラマ出演はせず音楽活動に専念し、日本武道館公演を含む大規模ツアーも成功させた。

大貫妙子

東京出身。1973年、山下達郎らとシュガー・ベイブを結成し活動を開始した。グループ解散後の’76年、アルバム『グレイ・スカイズ』でソロデビューを果たす。以降、日本クラウン、RVC、ミディ、東芝EMIと移籍しながら作品を発表し、独自の都会的で洗練されたポップスを築いた。’98年には映画『東京日和』で第21回日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞し、映画音楽にも活動の場を広げた。2006年には任天堂ゲーム『MOTHER3』の楽曲を収録したCDで歌唱を担当し、同年公開の『劇場版 どうぶつの森』では主題歌「森へ行こう」を歌った。2008年には稲垣潤一と「サイレント・イヴ」をデュエット、2009年には大瀧詠一トリビュートで「君は天然色」をカバーするなど、幅広い活動を続けている。

中原めいこ

幼少期から歌手を志し、中学で作曲を始めた。17歳で郷ひろみのバックコーラスを務めるなど活動経験を積み、’82年に「今夜だけDANCE・DANCE・DANCE」でデビュー。’84年にカネボウのキャンペーンソング「君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。」がヒットし人気を確立するが、多忙により心身を消耗し’88年に活動を休止、’90年に拠点をニューヨークへ移した。’92年の日清パワーステーションでのライブを最後に歌手活動を停止し、その後は楽曲提供に携わるにとどまった。活動休止後はオリジナルアルバムが廃盤となったが、2010年代以降のシティ・ポップ再評価の流れで再発が進み、2022年には全10作品が復刻され再び注目を集めている。

飯島真理

国立音楽大学在学中にデモテープが認められ、歌手デビュー前にアニメ『超時空要塞マクロス』でリン・ミンメイ役を演じて注目を集めた。1983年、坂本龍一プロデュースによるアルバム『Rosé』でデビューし、翌年には劇場版主題歌「愛・おぼえていますか」が大ヒットを記録。以降はアニメ色を離れ、「1グラムの幸福」などを発表し、ライブ活動で「学園祭の女王」と呼ばれるほどの人気を得た。’85年のアルバム『midori』はオリコン2位となり、音楽活動に専念するため大学を中退した。’87年には山下達郎の勧めでMOON RECORDSに移籍し、セルフプロデュースによる『Coquettish Blue』を発表し、TOP10入りを果たした。

小比類巻かほる

幼少期から作曲や作詞に親しみ、10代でセミプロのバンド活動を行っていた。高校生時代、EPIC・ソニーにスカウトされ、1985年10月にシングル「Never Say Good-Bye」でデビュー。翌月にはファースト・アルバム『CALL MY NAME』をリリースするも、当初は大きな成功を得られなかった。売れるために企画会議や宣伝に積極的に関わり、渋谷パルコの壁画広告など新しいプロモーション手法を実践し注目を集めた。また、事務所勤務の傍ら夜間に楽曲制作に励むなど、アーティスト兼クリエイターとしての姿勢を早くから確立した。

岡村孝子

1981年、椙山女学園大学在学中に加藤晴子とデュオ「あみん」を結成。’82年、ポプコンで「待つわ」によりグランプリを受賞しデビュー。同曲は年間オリコン1位を記録した。’83年にあみん活動を休止後、上京してソロ活動を開始。’85年、ファンハウスよりソロデビュー。’86年に来生たかおのカバー「はぐれそうな天使」がCM起用され人気が高まり、’87年発表の「夢をあきらめないで」は応援歌として幅広い層から支持され代表作となった。楽曲は中学校の教科書にも採用されている。’90年代初頭にはOL世代の共感を集め「OLの教祖」と称され、ソロ活動を中心に歌詞や楽曲制作を続ける一方、2007年にはあみんとしても活動を再開した。

辛島美登里

奈良女子大学在学中の1983年、自作曲「雨の日」でポプコン関西四国地区代表としてグランプリを獲得し、同曲がビクターからシングル発売されデビュー。卒業後は上京しヤマハ音楽院で学びながら、’87年、シングル「Midnight Shout」で正式デビューした。’89年、シングル「時間旅行」を発売し歌手活動が本格化。’90年には「笑顔を探して」がアニメ『YAWARA!』主題歌、「サイレント・イヴ」がドラマ『クリスマス・イブ』主題歌となり、「サイレント・イヴ」はオリコン1位を獲得、日本ゴールドディスク大賞ベスト5シングル賞も受賞した。以降、ヒット曲のリリースに加え、NHK-FMやTBSラジオでDJも務め、作詞・作曲活動と歌手活動を両立させている。

椎名恵

1981年、「及川ちさ」名義でポプコンに出場し川上賞を受賞したことをきっかけに上京し本格的に音楽活動を開始。’83年には「ピーマンキッス」がフジテレビ『ひらけ!ポンキッキ』で放映された。’86年1月、シングル「今夜はANGEL」で歌手・椎名恵としてデビューし、『夜のヒットスタジオDELUXE』や『ザ・ベストテン』に出演。以降、ドラマ主題歌やCMタイアップ曲がヒットし実力派シンガーとして認知される。’88年には「お誕生日おめでとう」がNHK『みんなのうた』で放映。。2000年にはボーカルユニット“Voice of DREAM 2000”に参加しドラマ主題歌を担当。同年シングル「初恋と青空 toy box 〜classical〜」をリリースし、富良野チャペルコンサートにも出演。現在も活動を継続している。

谷村有美

幼少よりピアノやクラシックバレエに親しみ、小学校4年でビートルズのコピーバンドに参加、13歳で単身渡米。慶應義塾大学在学中の1986年、CBS・ソニー主催オーディション「ティーンズ・ポップ・コンテスト」で優勝し、’87年11月にシングル「Not For Sale」とアルバム『Believe In』でデビュー。歌手活動と並行してラジオDJやテレビ司会、エッセイ執筆、陶芸・書道など多方面で活躍した。’98年末から約2年間活動を休止し渡米してボイストレーニングに励むが、カラオケで歌う中で歌への情熱を再確認し2000年10月に活動を再開。以降もチャリティー活動やライブ出演など幅広く取り組んでいる。

山下久美子

1980年、博多のクラブで歌っていたところをスカウトされ、シングル「バスルームから愛をこめて」と同名アルバムで日本コロムビアからデビュー。’82年にシングル「赤道小町ドキッ」がヒットし注目を集めた。’85年に布袋寅泰と結婚、ジョイントコンサートに出演するなど活動を続けるが、’88年にライヴ『stop stop rock’n’roll』を最後に一時休止。’91年に活動を再開し、東芝EMIに移籍してシングル「Tonight (星の降る夜に)」とアルバム『JOY FOR U』を発表。’92年よりテレビドラマ出演など女優業にも挑戦。’97年に布袋と離婚、その後もCMやライブ出演、楽曲提供・コラボレーションアルバム『&Friends』シリーズなど多方面で活動を続けている。

EPO

1980年3月、シュガー・ベイブのカバーシングル『DOWN TOWN』でデビュー。同曲はフジテレビ『オレたちひょうきん族』のエンディングテーマに採用され、知名度を急上昇させた縁で「タケちゃんマンの歌」なども手掛けた。デビュー当初はグラビア出演も経験し、アイドル的要素も持ちながら活動した。’83年には資生堂CMソング「う、ふ、ふ、ふ、」が大ヒットし、代表曲となる。’84年からは他アーティストへの楽曲提供も始め、高見知佳の「くちびるヌード」や香坂みゆきの「ニュアンスしましょ」が資生堂CMに使用されるなど、歌手活動と作曲活動の両面で活躍した。

美空ひばり


1937年5月29日に神奈川県横浜市で生まれ、9歳でレコードデビューを果たす。’49年、11歳の時にコロムビアから「河童ブギウギ」でレコードデビューし、その後「悲しき口笛」などのヒット曲で一躍スターとなった。映画にも多数出演し、「東京キッド」「リンゴ追分」「港町十三番地」などの名曲を生み出した。’50年代から’60年代にかけては映画、舞台、テレビなど多方面で活躍し、歌謡界の女王としての地位を確立した。彼女の歌唱力と表現力は、当時の音楽シーンに大きな影響を与えた。’89年6月24日に52歳で逝去したが、彼女の音楽と映画は今もなお多くの人々に愛され続けている。没後には国民栄誉賞を受賞し、その功績が讃えられた。彼女のディスコグラフィーや詳細な情報は、日本コロムビアの公式サイトで確認できる。

小林幸子


1964年にシングル「ウソツキ鴎」でデビューし、20万枚を売り上げるヒットとなる。’79年に「おもいで酒」が大ヒットし、紅白歌合戦にも初出場を果たした。以降、紅白には2011年までに33回出場し、’88年と2004年には大トリを務めるなど長年にわたり活躍。’80年代から’90年代にかけては「雪椿」や「越後情話」などのヒット曲に恵まれ、演歌界のトップ歌手としての地位を確立。また、豪華な衣装での紅白出演や派手な演出で注目を集め、視覚的にも話題となった。2000年代以降も演歌からポップス、アニメソングまで幅広いジャンルで活動を展開している。

テレサ・テン


1953年1月台湾の雲林県で生まれた。10歳の時に台湾の素人のど自慢で優勝し、その後も各地のコンテストで優勝を重ねて注目を集め、14歳で歌手デビュー。レギュラー番組を持つなど台湾のエンターテインメント業界からアジア全域に活動の場を広げ”アジアの歌姫”と呼ばれる。日本では’74年、21歳の時に「今夜かしら明日かしら」でデビューし、2作目の「空港」で人気が高まり、翌年の「時の流れに身をまかせ」が大ヒット。これらの楽曲は彼女の代表作となり、日本の音楽シーンでも高く評価された。その後「つぐない」などもヒットし、彼女の音楽は広く親しまれた。’95年5月、急性喘息により香港で逝去するも、今も尚その存在は多くの人々に愛され続ける。

八代亜紀


中学卒業後に熊本でバスガイドとして就職するが、人前で話すのが苦手で3か月で退職。その後キャバレー歌手を経て上京し、銀座のクラブで歌っていた際に五木ひろしの紹介で芸能プロと出会い、1971年「愛は死んでも」でデビュー。日本テレビ『全日本歌謡選手権』で10週連続勝ち抜きグランドチャンピオンとなり注目を集め、’73年「なみだ恋」が120万枚の大ヒット。トラック野郎のアイドルとしても人気を博す。以降も「おんな港町」「愛の終着駅」などを発表し人気を確立。’79年「舟唄」、’80年「雨の慕情」が特に評価され、後者で日本レコード大賞を受賞、紅白歌合戦では2年連続大トリを務め「演歌の女王」と称された。晩年はジャズ、ブルースなども歌うようになりファン層を広げた。2023年12月、指定難病を患い73歳で逝去した。

石川さゆり


1972年、中学3年の夏休みに「ちびっ子歌謡大会」で合格しホリプロにスカウトされ芸能界入り、同年ドラマ『光る海』で女優デビューする。’73年に、桜田淳子と同じ白いエンジェルハットをトレードマークに「かくれんぼ」で歌手デビューするが、森昌子・山口百恵・桜田淳子ら同世代の人気に押され苦戦した。その後、二葉百合子に師事し基礎から学び直し、民謡や日舞にも取り組んで歌の表現力を磨いた。’77年「津軽海峡・冬景色」が大ヒットし数々の音楽賞を受賞、NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。続く「能登半島」「沈丁花」なども成功し、’80年代には「波止場しぐれ」「天城越え」「夫婦善哉」「風の盆恋歌」などの代表曲を発表、日本を代表する演歌歌手の地位を確立した。

瀬川瑛子


股旅歌謡やマドロス歌謡で人気を博した歌手・瀬川伸の娘として育ち、5歳から父の指導で歌を学び、父のステージの前座を経て1967年「涙の影法師」でデビューした。当初は「瀬川映子」を名乗り、地道に活動を重ねる。’70年「長崎の夜はむらさき」が50万枚のヒットとなるが、その後は低迷期を迎える。’83年には作曲家・船村徹の計らいで「矢切の渡し」を競作で歌い30万枚を売り上げ、再び注目を集めた。’86年「命くれない」が大ヒットし、翌年のオリコン年間1位・累計170万枚の大記録を達成、「一途に添い遂げる女」を歌う代表曲となった。その後も演歌歌手として活動を続け、日本歌謡界に確かな足跡を残した。

小柳ルミ子


宝塚音楽学校を首席で卒業後、1971年「わたしの城下町」でデビュー。160万枚を売り上げ同年のオリコン年間1位となり、日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞した。翌年の「瀬戸の花嫁」も大ヒットし、日本歌謡大賞を獲得。その後も「京のにわか雨」などヒットを重ね、天地真理、南沙織と並ぶ「新三人娘」として人気を博した。’70年代半ば以降「星の砂」「お久しぶりね」など多彩な楽曲で新境地を拓き、実力派歌手として評価を確立。’71年から’88年まで18年連続で紅白に出場した。女優としても『誘拐報道』『白蛇抄』で日本アカデミー賞を受賞するなど高い評価を得、志村けんとのコントなど
での活躍でも広く親しまれた。

森昌子


1971年『スター誕生!』に13歳で出場し、初代グランドチャンピオンとなる。父の反対を説得しホリプロに所属し、’72年「せんせい」でデビュー。当時のヘアスタイルはタワシ頭と呼ばれるショートカットで、いじられながらもお茶の間に愛される存在となる。その後デビューした桜田淳子、山口百恵とともに「花の中三トリオ」と呼ばれ、’73年には女性最年少15歳で紅白に出場。映画やバラエティでも活躍。’77年以降は「なみだの桟橋」から演歌路線へ転じ、歌唱力を高める。’83年「越冬つばめ」で日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。歌手活動に加え、ドラマ出演など女優としても活動の幅を広げた。

川中美幸


17歳の時、「春日はるみ」として歌手デビュー。歌のうまさが評判となったもののアイドル全盛期だった当時大きく注目はされず、2年間の活動のみで地元の大阪に戻る。その後、大阪で開催された『ネオン街音楽祭』に出場しグランプリを獲得し再デビューを決意。芸名を「川中美幸」に改め、21歳でシングル「あなたに命がけ」を発表するもヒットに至らず。1980年、24歳で発表した夫婦愛をテーマとするシングル「ふたり酒」がようやく実を結び、ミリオンセラーの大ヒットとなる。下町人情を歌わせたら右に出る者なしと評される。

松村和子

北海道遠別町に生まれ、苫小牧で育つ。高校時代に母から歌を学び、野口五郎に憧れて歌手を志した。1980年4月、「帰ってこいよ」でビクターからデビュー。津軽三味線をギターのように奏でる独自のスタイルと力強い高音による楽曲で”帰ってきた男衆演歌”として注目を集め、同曲は大ヒットし日本レコード大賞新人賞を受賞した。翌’81年には紅白歌合戦に初出場。民謡の要素を活かした演歌で独自の地位を築いた。

日野美歌

幼少期から歌手を志し、小学6年頃から本格的に歌唱を学び始めた。中学時代に『スター誕生!』へ応募するも不合格となるが、歌手への夢を諦めず、湘南女子高等学校卒業後にプロの道を歩む。1982年4月、「私のあなた」でテイチクからデビュー。同年12月、佳山明生との競作「氷雨」が大ヒットし、一躍注目を集める。翌1983年には紅白歌合戦に初出場。1986年には葵司朗とのデュエット「男と女のラブゲーム」が武田薬品工業のCMソングとして話題となりヒット。大人の情感を表現する歌声で、演歌とムード歌謡を融合させた独自のスタイルを確立した。

坂本冬美

1986年『勝ち抜き歌謡天国』で名人となり、「関西演歌大賞カラオケコンクール」でも優勝。番組出演を機に猪俣公章に見出され上京し、約2年間内弟子として修業を積む。’87年「あばれ太鼓」でデビューし、80万枚超を売り上げ、新人賞を総なめにして一躍人気歌手となった。翌年「祝い酒」がヒットし紅白初出場を果たす。以後「男の情話」「火の国の女」など男歌で人気を確立。’94年には三木たかし作曲の「夜桜お七」が大ヒット。紅白で通算8回歌唱し、’96年には初の紅組トリを務めた。

桂銀淑

1977年、高校生で韓国のモデルとしてデビューし、CM出演などで人気を得た。’79年に「歌って踊って」で歌手デビューし、翌年「待っている女心」でMBC新人賞を受賞、アイドル歌手として活躍した。’84年、作曲家・浜圭介に見出され来日し、翌’85年「大阪暮色」で日本デビュー。「すずめの涙」「夢おんな」「酔いどれて」などヒットを連発し、’88年「夢おんな」で日本有線大賞グランプリを受賞。同年から紅白に7年連続出場した。’90年にはアルバム『真夜中のシャワー』で日本レコード大賞アルバム大賞を受賞し、シングル中心の演歌界においてアルバムでも成功を収めた。

松原のぶえ


大分県耶馬溪町出身。幼少期から歌うことを好み、中学生で福岡のタレント養成所に通った。中学3年時に北島音楽事務所にスカウトされ、高校生で上京して歌手を志す。1979年、「おんなの出船」でデビューし、第21回日本レコード大賞新人賞をはじめ数々の新人賞を受賞。情感豊かな表現力で注目を集めた。’89年には女性演歌歌手に贈られるレコード大賞・美空ひばり賞の第1回受賞者となり、演歌界で確固たる地位を築いた。2002年に北島音楽事務所を離れ、自身の事務所「のぶえオフィス」を設立し、以後もステージ活動やテレビ出演など幅広く活躍を続けている。

香西かおり

幼少期から民謡で数々の賞を受賞し、「香西香」名義で民謡のレコードを発表していた。1975年に産経民謡大賞少年少女の部で入賞、翌年に準優勝。’82年に太陽神戸銀行へ入行するが、歌への情熱を捨てきれず退職し上京。’88年、「雨酒場」で演歌歌手としてデビューし、第30回日本レコード大賞新人賞を受賞。同曲はロングヒットとなり注目を集めた。’93年には「無言坂」で日本レコード大賞を受賞し、代表曲となる。以後も「浮寝草」などで高く評価され、演歌のみならずポップスや民謡など幅広いジャンルを歌いこなす実力派歌手として活躍を続けている。

城之内早苗

幼少期から民謡と三味線を学び、中学時代に『全日本演歌選手権』への応募をきっかけにスカウトされた。1985年、フジテレビ『夕やけニャンニャン』のオーディションで合格し、おニャン子クラブの会員番号17番としてデビュー後、’86年6月「あじさい橋」でソロデビューを果たし、演歌としては異例のオリコン初登場1位を記録した。グループ解散後は『走れ!歌謡曲』のパーソナリティや『ものまね王座決定戦』への出演など多方面で活躍。女優としても『江戸を斬る(第8部)』に出演し、’90年代以降はラジオ番組の司会やCM出演など活動の幅を広げた。

伍代夏子

1982年、「星ひろみ」としてデビューするも、事務所の倒産などで一時引退。’85年に「加川有希」名義で平松政次とのデュエット「夜明けまでヨコハマ」で再デビュー。’86年には本名の中川輝美名義で演歌を歌い始め、’87年に「伍代夏子」として再々デビューする。芸名は五木ひろしと八代亜紀にちなむ。「戻り川」が35万枚を超えるヒットとなり、’88年には東西有線の最優秀新人賞をダブル受賞する快挙を達成。’90年「忍ぶ雨」で紅白初出場を果たし、美貌と確かな歌唱力で“美人演歌歌手”としての人気を確立した。夫は役者の杉良太郎。

藤あや子

秋田県出身。小学4年から民謡を習い、高校卒業後も仕事を続けながら民謡歌手として活動した。19歳で秋田県主催の「ミス花嫁コンテスト」で優勝。1985年にNHK『勝ち抜き歌謡天国』で優勝し、’87年に「村勢真奈美」名義で「ふたり川」でデビュー。’89年に「藤あや子」と改名し「おんな」で再デビューした。’92年、「こころ酒」が大ヒットし、第25回日本有線大賞を受賞、紅白歌合戦にも初出場。以後ヒットを連ね、美貌と艶のある歌唱で人気を確立した。2010年には突発性難聴で休養するが、同年10月に復帰。秋田県の「食彩あきた応援大使」にも任命されている。

女性歌手・アイドル > 1970年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

天地真理

1971年、TBSドラマ『時間ですよ』でデビュー。ドラマ内で歌う「水色の恋」でレコードデビュー。愛らしいルックスと歌声でデビュー後は「ちいさな恋」「ひとりじゃないの」「虹をわたって」「恋する夏の日」など大ヒット曲を連発。同期デビューの南沙織、小柳ルミ子と”新三人娘”と呼ばれるも天地の人気は飛ぶ鳥を落とす勢いで、’70年代初期、日本中に熱狂的な天地真理ブームを巻き起こした。

南沙織
南沙織

1971年「17才」でデビュー。”シンシア”の愛称でたちまちトップアイドルとなる。同年、日本レコード大賞で新人賞を受賞。「潮風のメロディ」「純潔」「傷つく世代」ほかヒット曲を連発し、同期の天地真理、小柳ルミ子とともに”新三人娘”として活躍した。’78年、当時在学していた上智大学での学業に専念するため引退。その後、写真家の篠山紀信と結婚。一時的に歌手活動を再開した時期もある。

アグネス・チャン
アグネス・チャン

1972年「ひなげしの花」で日本デビュー。それ以前も母国の香港で歌手として活動していた。’73年に発売した3枚目のシングル「草原の輝き」が大ヒットし、日本レコード大賞新人賞を受賞。その後も「小さな恋の物語」「ポケットいっぱいの秘密」「愛の迷い子」ほか多数のヒット曲を放つ。’76年に芸能活動を休止しトロント大学に留学。卒業と同時に芸能活動を再開した。

麻丘めぐみ

1972年、デビュー曲の「芽生え」が40万枚を超えるヒット。同年の日本レコード大賞・最優秀新人賞を受賞した。’73年「わたしの彼は左きき」が爆発的なヒットを記録し、日本レコード大賞・大衆賞、日本歌謡大賞・放送音楽賞。麻丘めぐみの代表曲となる。トレードマークの髪型”お姫様カット”は当時若い女性たちの間で流行した。元祖・清純派アイドルともいえる存在。

浅田美代子
浅田美代子

1973年、TBSドラマ『時間ですよ』のお手伝いさん役でデビュー。ドラマ内で歌う「赤い風船」で歌手デビューし50万枚を売り上げ、同年の日本レコード大賞で新人賞を受賞。以降も『寺内貫太郎一家』『時間ですよ・昭和元年』などのドラマ出演とともに歌手活動でもコンスタントにヒット曲を出し、”ミヨちゃん”の愛称でお茶の間に親しまれる存在となる。

桜田淳子

人気オーディション番組『スター誕生!』で番組史上最多となる25社のスカウトを受け、1973年、14歳で「天使も夢見る」でデビュー。山口百恵、森昌子とともに”花の中3トリオ”としてブレイクし、「わたしの青い鳥」「はじめての出来事」ほかヒット曲多数。天性の勘の良さと恵まれた容姿で映画・ドラマでも活躍するも、’90年代に入ってしばらく経った頃、個人的な事情で芸能活動を停止した。

山口百恵

『スター誕生!』で多数の指名を受け、1973年、映画『としごろ』の出演と同名のシングルで”人にめざめる14歳”をキャッチフレーズに芸能界デビュー。桜田淳子、森昌子とともに”花の中3トリオ”として人気アイドルとなる。5枚目のシングル「ひと夏の経験」以降オリコン上位の常連となり、宇崎竜童・阿木燿子による「横須賀ストーリー」で本格的な山口百恵の時代が到来、絶大な人気でトップアイドルとして不動の地位を確立する。’80年、映画『伊豆の踊子』やドラマ”赤いシリーズ”で共演した三浦友和との結婚により引退するも、昭和の伝説のスターとして今なお多くのファンに愛され続けている。

岩崎宏美

1974年『スター誕生!』で優勝、’75年「二重唱 (デュエット)」でデビュー。2枚目のシングル「ロマンス」が約90万枚のヒットとなり数々の新人賞を受賞。天まで届きそうな伸びやかで圧倒的な歌唱力で、その後も「思秋期」「シンデレラ・ハネムーン」「万華鏡」「すみれ色の涙」などで多くの賞を受賞した。’82年、『火曜サスペンス劇場』の主題歌「聖母たちのララバイ」が80万枚のヒットとなり、同年の日本歌謡大賞を受賞。2025年現在も歌手活動を続けている。

岡田奈々

1975年「ひとりごと」で歌手デビュー。ポッキーの初代CMガールやエメロンシャンプーのCMに起用され、たちまちお茶の間の人気者となる。同年10月に放送開始した日本テレビ『俺たちの旅』では田中健の妹役で出演し、’76年、劇中歌の「青春の坂道」がヒットした。『俺たちの旅』の後、引き続き同局『俺たちの朝』に出演していた際、自宅に不審者が押し入り負傷。しかし事件の2日後には仕事に復帰し、華奢な外見の内側に宿る根性を見せつけた。

安倍理津子

北海道札幌市出身。高校卒業後、地元の音楽喫茶で歌っていたところを平尾昌晃に見出され、1970年8月、「愛のきずな」でキングレコードからデビュー。同曲がヒットし、第12回日本レコード大賞新人賞を受賞。「愛のおもいで」「お嫁に行くなら」などを続けて発表した。’83年には橋幸夫とのデュエット曲「今夜は離さない」が大ヒットし、「デュエットの女王」と呼ばれるようになる。現在もディナーショーなどで歌手活動を続けており、2020年にはデビュー50周年を機に芸名を安倍里葎子から安倍理津子へ改めた。

林寛子

東京都出身で児童劇団「日本児童」に所属し、1964年から子役として活動を始める。7歳でNHK連続テレビ小説『旅路』に出演し注目を集め、その後も映画やドラマで子役として活躍。’73年、フジテレビの『君こそスターだ!』で初代グランドチャンピオンとなり、翌’74年「ほほえみ」で歌手デビュー。キャッチフレーズは“そよ風みたいな女の子”。翌年の「素敵なラブリーボーイ」がヒットし、アイドルとして人気を確立する。以後、女優業でも活躍し、映画『恋の空中ブランコ』(’76年)やドラマ『がんばれ!レッドビッキーズ』(’78年)で主演。明るく健康的なイメージで多数のCMにも出演した。

川島なお美

高校時代にスクールメイツで歌とダンスを学び、平尾昌晃音楽教室でレッスンを受ける。1979年「シャンペンNo.5」で歌手デビューし、笑福亭鶴光のオールナイトニッポンでアシスタントを務めた。’81年、文化放送『ミスDJリクエストパレード』の火曜担当に抜擢され、“女子大生DJ”として人気を集め、女子大生ブームの象徴となる。’93年には写真集『WOMAN』で大胆なヘアヌードを披露し、妖艶な女優へと転身。’97年、ドラマ『失楽園』で主演し社会現象を巻き起こす。以後も舞台やテレビで活躍を続けたが、2015年、胆管がんのため死去。

木之内みどり

1974年「めざめ」で歌手デビュー。ヒット曲には自身が出演したドラマ『刑事犬カール』の主題歌「走れ風のように」や「横浜いれぶん」がある。歌手活動ではそれど目立たなかったものの、グラビアアイドルとしての人気は高くブロマイドは飛ぶように売れ、当時篠山紀信の撮影で知られた雑誌『GORO』の表紙を6回も飾った。’90年、俳優の竹中直人と結婚(再婚)している。

伊藤咲子

日本テレビ『スター誕生!』で優勝し、1974年「ひまわり娘」でデビュー。天真爛漫な笑顔と歌声でアイドルの仲間入りを果たす。’75年「乙女のワルツ」で日本テレビ音楽祭金の鳩賞や日本歌謡大賞放送音楽賞を受賞。’76年「きみ可愛いね」がオリコン週間9位にランクイン。同じく『スター誕生!』出身の城みちるとの交際も隠すことなく公表し、ファンに支持された。

榊原郁恵

1976年、高校2年で『第1回ホリプロタレントスカウトキャラバン』に参加し優勝。翌’77年「私の先生」で歌手デビュー。デビュー後は江崎グリコや雪印食品のCM、『ナッキーはつむじ風』などのドラマでも活躍。’78年、7枚目のシングル「夏のお嬢さん」が自身最大のヒット曲となる。’87年、俳優の渡辺徹(2022年永眠)と結婚。明るく好感度の高いキャラクターで、現在も多方面で活躍を続ける。

高田みづえ

1976年、フジテレビ『君こそスターだ!』第18代グランドチャンピオン。’77年、16歳でシングル「硝子坂」で歌手デビュー。4作目までオリコンTOP10に入るヒット曲を連発し、数々の新人賞に輝いた。’80年、サザンオールスターズの「私はピアノ」をカバーしたシングルが約50万枚のヒットとなり注目される。’85年、大相撲の人気力士・若嶋津六夫との婚約発表とともに芸能界引退を表明した。

石野真子

『スター誕生!』出身、1978年「狼なんか怖くない」で歌手デビュー。タレ気味の目元と八重歯の可愛らしい容姿で”百万ドルの微笑”がキャッチフレーズだった。「失恋記念日」「春ラ!ラ!ラ!」ほかスマッシュヒットを重ねるも、’81年、歌手の長渕剛と結婚し芸能界を一時的に引退。’83年離婚により芸能界に復帰した。

原田知世

1982年、14歳で”角川映画大型新人募集”に応募して芸能界入り。’83年、映画デビュー作となった『時をかける少女』で日本アカデミー賞をはじめ数々の新人賞を受賞。同タイトルのシングルはオリコン最高位2位のヒットとなった。歌手として大ヒットした「天国にいちばん近い島」、映画ではスキーブームの発端となった『私をスキーに連れてって』の代表作のほか、多数のCMなど多方面で大活躍した。

風吹ジュン
風吹ジュン

1973年、初代ユニチカマスコットガール。、’74年、21歳の時「愛がはじまる時」で歌手デビュー。魅力的なルックスで人気となるもデビュー前のホステス業経験などがスキャンダルとなり人気が凋落。その後はこの件をバネにするように映画『蘇える金狼』で女優開眼を果たし、高い評価を得るとともに数々の作品で活躍する息の長い女優となった。現在もドラマ、映画、CM出演で活躍。

浅野ゆう子
浅野ゆう子

1974年5月、13歳で歌手デビュー。中学生でありながら大人びた外見でドラマ『太陽にほえろ!』の捜査第一係の内勤職役に抜擢され、以降、様々なドラマに出演する。’88年、フジテレビのトレンディドラマ『抱きしめたい!』で浅野温子とともに主演。”W浅野”として話題を集め、憧れのファッションリーダーとして女性たちから絶大な人気を獲得。バブル時代にもっとも輝いた女優のひとり。

片平なぎさ

1974年『スター誕生!』で合格し翌年「純愛」で歌手デビュー。歌手活動とともに映画にも進出し、デビューから3年後には女優業に転向。’80年代から火曜サスペンス劇場、土曜ワイド劇場など2時間枠のドラマで親しまれるように。『赤い霊柩車シリーズ』などで主役を演じ、”2時間ドラマの女王”として安定の人気を獲得する。

相本久美子

1974年「小さな抵抗」で歌手デビュー。デビュー当時の芸名は近藤久美子だったが、’76年に本名の相本久美子に改名した。活動範囲は歌手のほか司会業やドラマ、バラエティ番組の出演など広範囲に亘り、マルチタレントの先駆け的存在とされる。’70年代は5年間、土居まさるとともに日本テレビ『TVジョッキー』の司会を務めたが、スタイルの良さに注目が集まり、雑誌の表紙やグラビアを飾る機会も多かった。

大場久美子

『劇団フジ』で子役として活動した後、’76年、映画『遺書 白い少女』でスクリーンデビュー。翌’77年「あこがれ」で歌手デビュー。”一億人の妹”として人気を集める中、同年の東宝映画『HOUSE/ハウス』で準主役となり女優としての活動も開始。’78年、TBSのドラマ『コメットさん』で初代・九重 佑三子に続く2代目コメットさん役を務め人気が爆発しトップアイドルの仲間入りを果たす。歌手としての代表作は’79年の「スプリング・サンバ」。

松本ちえこ
松本ちえこ

1974年、「ボーイフレンド」で歌手デビュー。ヒットには至らず歌手としての活動は目立たなかったが、’76年に資生堂バスボンのCMに起用されたことで人気がブレイク。CMソングの”バスボンの歌”が流行した(シングル化はされず)。その後発売した3枚目のシングル「恋人試験」がヒットし、お茶の間に広く親しまれる存在となった。

太田裕美

ザ・タイガースのジュリーのファンだったことから渡辺プロダクションのスクールメイツに入り活動。その後TVのオーディション番組で優勝し、1974年11月、ピアノ弾き語りスタイルの「雨だれ」で歌手デビュー。20万枚のヒットとなり、翌年の日本レコード大賞/日本歌謡大賞などで新人賞を受賞した。4枚目のシングル「木綿のハンカチーフ」、5枚目の「赤いハイヒール」がオリコン最高2位を記録し、学園祭にもひっぱりだこの人気歌手となった。

アン・ルイス

アメリカ海軍軍人の父を持ち、本牧の米海軍の住居地域で育つ。1971年「白い週末」で歌手デビュー。’74年発売の「グッド・バイ・マイ・ラブ」のヒット後、キャンディーズや山口百恵のステージ衣装を手掛けるなどファッションデザインにも関心を示し、オリジナルブランドも立ち上げた。’80年に歌手の桑名正博(2012年永眠)と結婚。’80年代は「六本木心中」「あゝ無情」などパンクなファッションでロック色のあるヒット曲を連発し、カッコイイ女の代表格として人気を博した。

桑江知子

1979年、軽快なシティポップス「私のハートはストップモーション」でデビュー。同曲はポーラ化粧品・春のキャンペーンのCMソングに採用されオリコン12位のヒットとなり、同年の日本レコード大賞最優秀新人賞をはじめ数々の新人賞を受賞した。以降、’80年の三菱自動車エテルナのCMソング「永遠(エテルナ)の朝」など都会的なサウンドの数々をリリースし、従来の歌謡曲のイメージから脱却し、ニューミュージック指向の歌手として活動した。

荒井由実

1972年、自身の作詞・作曲による「返事はいらない」で歌手デビュー。’75年、TBSドラマの主題歌で6枚目のシングル「あの日にかえりたい」でオリコン1位を獲得し、ここから過去の楽曲にも注目が集まり荒井由実ブームが到来、ニューミュージック界を牽引するアーティストとして快進撃が始まる。’76年に音楽プロデューサーの松任谷正隆と結婚し松任谷由実へ。”呉田軽穂”の名で多くの歌手にも楽曲を提供し、発表される曲の殆どが名作として時代を超えて愛され、天才的アーティストとして現役活動を続ける。

中島みゆき

1975年、ヤマハ音楽振興会が主催する第9回ポピュラーソング・コンテストに「傷ついた翼」で入賞、同年「アザミ嬢のララバイ」でデビュー。続く第10回ポプコンには「時代」で参加しグランプリを受賞、同年ヤマハ世界歌謡祭でもグランプリを受賞した。’70年代~2000年代に亘り自身が歌う楽曲のみならず数多くのアーティストに作品を提供し、すべての年代でオリコンシングルチャート1位を獲得する唯一無二のヒットメーカーでもある。「わかれうた」「悪女」「糸」ほかヒット曲多数、2025年現在もトップアーティストとして活躍を続ける。

イルカ
イルカ

1970年、フォークソンググループ・シューリークスの一員としてデビュー後、’74年に「あの頃のぼくは」でソロデビュー。翌年、かぐや姫の楽曲をカバーした3枚目のシングル「なごり雪」がオリコン最高4位の大ヒット。以降も伊勢正三作詞・作曲による「海岸通」などのヒット曲を持つ。芸名の”イルカ”は女子美術大学時代に所属していたフォークソング同好会で、皆が持つギターケースを「イルカの群れみたい」と言ったことから周囲にそう呼ばれるようになり、つけたもの。

りりィ

1972年、20歳の時「たまねぎ」でシンガーソングライターとしてテビュー。同年、映画『夏の妹』にも出演し、歌とともに女優活動も開始。’74年のシングル「私は泣いています」が100万枚を超える大ヒットとなり一躍有名に。以降、自作の楽曲をかまやつひろし、桑名正博、沢田研二、都はるみなど多くのアーティストにアルバム曲などで提供し、作家としても活躍する。女優としてドラマ出演も多かった。2016年、64歳で永眠。

石川セリ

アメリカ人の父と日本人の母を持つ。1971年、藤田敏八監督の映画『八月の濡れた砂』の主題歌をB面に収録したシングル「小さな日曜日」でデビュー。’77年、井上陽水作詞・作曲による「ダンスはうまく踊れない 」をリリースし、翌年、井上陽水と結婚。結婚後は歌手活動を休止した時期もあったが、その後、資生堂、マックスファクター、ニッカウヰスキーのCMソングや夜のニュース番組のエンディングテーマなどで健在さを見せた。

しばたはつみ


歌手の松本伊代は親戚(はとこ)にあたる。1968年に”はつみかんな”名でデビューし、小川ローザと”OH! モーレツ”のキャッチフレーズで知られるコスモ石油のCMソングなど歌うもその後アメリカ留学し、’74年しばたはつみとして再デビュー。ジャズやソウル、ロックまで幅広く歌える実力派歌手として活躍し、’77年「マイ・ラグジュアリー・ナイト」のヒットで紅白出場歌手となった。2010年に永眠するまで、ジャズボーカリストとして世界中で精力的にライブ活動を行った。

山崎ハコ

高校在学中の1974年に「ジョイナス・フォーク・コンペティション」で優勝し’75年にエレックレコードからデビュー。弱い体質を抱えながらもフォークギター弾き語りで女の情念や怨念を土俗的なイメージで歌い上げ、低音の独特の歌唱と鋭い詞世界で熱狂的支持を獲得した。「中島みゆきのライバル」とも称され、’79〜’80年には『オールナイトニッポン』のDJを務め「深夜放送のマドンナ」として親しまれた。

森田童子

1975年にシングル『さよなら ぼくの ともだち』でデビューし、’83年までに7枚のアルバムと4枚のシングルを発表した孤高のシンガーソングライター。独特のウィスパーボイスと孤独や喪失をテーマにした世界観で強いカルト的支持を集めたが、’83年のアルバム『狼少年 wolf boy』と一連の公演を最後に完全に活動を停止し、公の場から姿を消した。’76年11月発売の「ぼくたちの失敗」は’93年のドラマ『高校教師』の主題歌となり再評価され、100万枚に迫る大ヒットを記録。作品群のCD再発売とともに当時を知らない世代にも広く支持を広げた。

石黒ケイ

高校時代に結成した「ビーバブ」で活動し、1974年の相鉄ジョイナス・フォーク・コンペティション決勝進出を契機にデビュー。筒美京平プロデュースの「恋人時間」でデビュー後、ジャズミュージシャンとの共演作『アドリブ』『アンダートーン』や横浜をテーマにした『YOKOHAMA RAGTIME』など多彩な作品を発表し、アルバムは計14枚に及ぶ。’89年に一度引退するが、2004年に未発表ライブ音源を発表し、翌2005年に活動を本格再開。現在も横浜を拠点にライブ活動を行っている。

小坂明子

1973年、ヤマハのポピュラーソングコンテストと世界歌謡祭の2につの大会において、ピアノの弾き語りで歌う自身制作の楽曲「あなた」でグランプリをダブル受賞、同年12月にプロデビューした。澄み渡る高音で歌うデビュー曲「あなた」は200万枚を超える大ヒットに。その後大きなヒットは生まれていないが、’82年、自身のダイエット法を説いた著書『あきらめないで―小坂明子のやせる本』がベストセラーとなり、この頃から作曲家としての活動も開始。アニメやゲーム、アイドルなどに多くの楽曲を提供している。

渡辺真知子

1975年、高校在学中にヤマハ主催『第9回ポピュラーソングコンテスト』に「オルゴールの恋唄」で出場し特別賞を受賞。’77年、洗足学園短期大学音楽科卒業後、同年11月にシングル「迷い道」でデビュー。’78年にはセカンドシングル「かもめが翔んだ日」が大ヒットし、第20回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞、音楽祭13賞も獲得。同年に「ブルー」、’79年に「たとえば…たとえば」「別れて そして」などヒットが続く。’80年の「唇よ、熱く君を語れ」はカネボウCM曲としてヒットし、軽快で力強い曲調が”女性の時代”を象徴する楽曲と評され、デビュー直後からシンガーソングライターとして順調にキャリアを築いた。

矢野顕子

幼少期を青森で過ごす。3歳から音楽を学び、クラシックからジャズに傾倒。中学時代から父とジャズ喫茶に通い、1971年に青山学院高等部進学のため上京したが、ジャズへの情熱から中退。安部譲二の自宅に居候し、青山のジャズクラブ「ロブロイ」でピアノ演奏を始める。スタジオミュージシャンとして活動しながら山下洋輔や坂田明らと共演、筒美京平にも認められ音楽人脈を広げた。’72年にはキャラメル・ママのセッションに参加、翌年バンド「ザリバ」でシングルを発表。’76年、アルバム『JAPANESE GIRL』でソロデビューし、日本語と洋楽を融合させた独自の音楽性で注目を集めた。

杏里

1978年、17歳でフォーライフ・レコードから「オリビアを聴きながら」でデビュー。歌唱力は高く評価されたが、初期はセールスが伸び悩み、曲調を変えながら定期的に作品を発表した。’82年、バックバンドの小林武史作曲の「思いきりアメリカン」が花王のCMで使用されヒットし、「夏」「海」のイメージが定着。’83年、角松敏生にプロデュースを委ねた5枚目アルバム『Bi・Ki・Ni』で洗練された音楽性を確立。8月にはアニメ『キャッツ♥アイ』主題歌「CAT’S EYE」を発売し初のオリコン1位を獲得、続く「悲しみがとまらない」とともにベスト10入りを果たす。同年12月には両曲を収録したアルバム『Timely!!』がオリコン1位となり、初出場の第34回NHK紅白歌合戦で不動の地位を確立した。

尾崎亜美

京都市出身。8歳でクラシックピアノを始め、16歳頃から作詞作曲を手がける。高校時代、近畿放送のオーディション番組で注目され、1976年「冥想」で東芝EMIからデビュー。芸名「亜美」はフランス語で「友人」を意味する“ami”に由来する。松任谷正隆プロデュースのアルバム『SHADY』で“ポスト・ユーミン”と評され、翌年「マイ・ピュア・レディ」が資生堂CMに起用されヒット。以後、南沙織「春の予感」、杏里「オリビアを聴きながら」、髙橋真梨子「あなたの空を翔びたい」など提供曲も次々とヒットした。1980年にキャニオンへ移籍後、ロサンゼルス録音のアルバムを発表し、洗練されたポップサウンドで評価を高める。1985年『10番目のミュー』で日本レコード大賞優秀アルバム賞受賞。以降も作曲家・プロデューサーとして多方面で活動を続けている。

八神純子

1974年の『ヤマハポピュラーソングコンテスト』で「雨の日のひとりごと」「幸せの時」の2曲同時入賞を果たし、同年にシングル「雨の日のひとりごと」でプレ・デビュー。’78年1月、20歳の誕生日に「思い出は美しすぎて」で本格デビューし、アルバムもヒットした。次作は不発となったが、同年9月の「みずいろの雨」が有線やラジオで支持を得て人気が急上昇し、『ザ・ベストテン』出演を機に全国区でブレイク。明るいトークで司会陣に親しまれ、存在感を高めた。「みずいろの雨」はオリコン2位、60万枚を売り上げる大ヒットとなり、同年末にリスナーズグランプリ最優秀新人賞を受賞。透明感ある歌声と確かな実力でシンガーソングライターとしての地位を確立した。

竹内まりや

1978年、23歳でシングル「戻っておいで・私の時間」とアルバム『BEGINNING』でデビュー。当時はアイドル的役割も担ったが、’79年の「SEPTEMBER」が長期チャートインし新人賞を受賞、サンレモ音楽祭にも出場した。’80年には「不思議なピーチパイ」がヒットし、自ら作詞作曲も手がけるようになるが、アイドル的活動に悩み、’81年には過酷なスケジュールで喉を痛め一時休業。’82年に山下達郎と結婚しメディア露出を減らす一方で作詞・作曲家として活動を開始。’84年、全曲自作のアルバム『VARIETY』をリリースしヒット、娘も誕生した。その後は家庭を優先しつつ、薬師丸ひろ子「元気を出して」、中山美穂「色・ホワイトブレンド」など多数のヒット曲を提供し、シンガーソングライターとして確固たる地位を築いた。

庄野真代

高校入学と同時に音楽活動を始め、各種オーディションに挑戦。ヤマハボーカルオーディション合格を経て合歓音楽院で研修を受ける。20歳のとき「フォーク音楽祭」に出場し、関西四国決勝大会でグランプリを獲得、全国大会でスカウトされる。1976年、アルバム『あとりえ』で日本コロムビアからデビュー。都会派ニューミュージックの女性シンガーとして注目される。’78年、「飛んでイスタンブール」が大ヒットし、第20回日本レコード大賞中山晋平賞を受賞、『紅白歌合戦』にも初出場した。同年「モンテカルロで乾杯」「マスカレード」などもヒット。’80年「Hey Lady 優しくなれるかい」を発表後、休業宣言し世界一周旅行へ。28か国を巡り帰国後に音楽・執筆・講演活動を再開した。

阿川泰子

鎌倉生まれ、名古屋育ち。椙山女学園高校卒業後に上京し、文学座付属演技研究所に入るが1年で退学。東宝映画『華麗なる一族』『青春の門』などに端役で出演したのち、女優業を離れる。銀座のクラブでジャズと出会い、1973年に鈴木章治の紹介でジャズ・ボーカリストとして活動開始、翌年「鈴木章治とリズム・エース」の専属シンガーとなる。六本木や赤坂で人気を集め、’78年アルバム『Yasuko “Love-Bird”』でレコードデビュー。トミー・フラナガンら世界的ミュージシャンと共演し、澄んだ声質は“シュガー・ボイス”と呼ばれ、CM出演などでジャズ界に新風を吹き込んだ。

大橋純子

1974年、アルバム『フィーリングナウ』でデビュー。’78年、TBSドラマ『獅子のごとく』の主題歌「たそがれマイ・ラブ」がヒットし、同年の日本レコード大賞・金賞を受賞。華奢な体からは想像もできないダイナミックな抜群の歌唱でその後も「サファリナイト」などヒットさせ、CMとのタイアップ曲も多かった。’81年発売の「シルエット・ロマンス」(サンリオ出版 CFソング)は翌年になってロングヒットとなり、’82年の日本レコード大賞・最優秀歌唱賞を受賞した。

谷山浩子

1972年、アルバムとシングルでレコードデビュー。’74年、ヤマハのポピュラーソングコンテストに自身の作詞・作曲による「お早ようございますの帽子屋さん」で入賞し、翌年この曲で再デビューする。デビュー後は多くの有名アイドルなどへの楽曲提供とともに著述活動も行い、童話集やエッセイ集、小説も刊行。作風は自身の音楽性とも共通するファンタジックな世界観が特徴で、作家としての才能を遺憾なく発揮している。

髙橋真梨子

中洲のナイトクラブに出演していた1972年、「ペドロ&カプリシャス」のペドロ梅村にスカウトされ前野曜子の後任として二代目ボーカルに参加。当時は芸名「高橋まり」。’73年に「ジョニィへの伝言」「五番街のマリーへ」がロングヒットとなる。’78年にペドロ&カプリシャスを脱退し、ソロ歌手「髙橋真梨子」として活動を開始。同年11月にシングル「あなたの空を翔びたい」でデビューし’79年から全国ツアーを開始。2019年まで41年間連続で開催し、2000人以上収容の大規模ホールで年間25公演以上を継続する唯一の女性ソロ歌手として昭和、平成、令和の3時代にわたりトップアーティストとして活動を続けている。

五輪真弓

芸術の発信地として知られた渋谷の小劇場のオーディションで歌唱したのをきっかけに1972年10月、CBS・ソニーからアルバム『少女』と同名シングルで歌手デビュー。オリコン最高6位を記録し「和製キャロル・キング」と称され、日本女性シンガーソングライターの草分けと評された。’76年にはフランスでアルバム制作に臨み、全フランス語アルバム『えとらんぜ』を発表、サルヴァトール・アダモのオランピア劇場公演にもゲスト出演する。’78年「さよならだけは言わないで」のヒットを機にテレビ出演が増加。’80年、B面予定の「恋人よ」がA面として発売され大ヒット、第22回日本レコード大賞金賞を受賞。以来コンサート活動を精力的に続け、日本のポップ・フォーク界で確固たる地位を築いた。

松原みき

高校3年時の1977年に歌手を志し上京、米軍キャンプなどで演奏を重ね、六本木「バードランド」での飛び入り演奏をきっかけに世良譲から高く評価される。’79年11月「真夜中のドア〜Stay With Me」でデビューし、多くの新人賞を受賞。以後、’91年までにシングル17枚、アルバム15枚を発表し、都会的な感性を持つシティポップの旗手として活躍した。’90年代に入り、結婚を機に歌手活動を休止し、作曲家としてCMやアニメ音楽を手がけるも、2001年にがんを告知され闘病の末、2004年に44歳で死去。その後「真夜中のドア〜Stay With Me」が海外で再評価され、2020年にはSpotify世界1位を記録し、没後も国際的に愛され続けている。

久保田早紀

短大在学中の1978年、CBSソニーに自作曲のカセットを送り、ディレクター金子文枝に才能を見出される。八王子から都内へ通学する中央線の車中で曲想を練り、のちに大ヒットする「異邦人」を着想。イラン音楽やポルトガルのファドなど異国的な響きに影響を受け、自身の音楽スタイルを形づくった。1979年、三洋電機のCMソングとして「異邦人―シルクロードのテーマ―」でデビュー。オリエンタルな旋律と透明感ある歌声が話題を呼び、『ザ・ベストテン』で1位を獲得、累計140万枚を超える大ヒットとなる。翌年にはアルバム『夢がたり』を発表し、ニューミュージックの新星として注目を集めた。デビュー期には一貫してピアノの弾き語りを貫き、独自の幻想的な世界観で聴衆を魅了した。

門あさ美 越美晴 石黒ケイ

美空ひばり


敗戦直後の1945年、母の私財で「青空楽団」を設立し、8歳で初舞台を踏む。’48年、横浜国際劇場で「美空ひばり」として舞台デビュー。’49年、映画『のど自慢狂時代』で初出演し「悲しき口笛」で一躍国民的スターとなる。以後「東京キッド」「リンゴ追分」などヒットを連発し、映画女優としても活躍。東映専属となり『べらんめえ芸者』など主演作を量産し、戦後映画界を支えた。歌手としても’60年「哀愁波止場」で日本レコード大賞歌唱賞、’65年「柔」で大賞受賞。以後も「悲しい酒」「真赤な太陽」など、江利チエミ、雪村いづみとともに”三人娘”として人気を博し、中でも圧倒的な歌唱力と存在感で国民的歌手としての地位を不動のものにした。’89年1月11日、最後のシングル『川の流れのように』が発売され、同年54歳で永眠するに亘るまで、歌謡界・演歌界の絶対的なトップスターであり続けた。

都はるみ


1964年に「困るのことヨ」でデビューし、同年「アンコ椿は恋の花」がミリオンセラーとなり、第6回日本レコード大賞新人賞を受賞。力強いこぶし回しで人気を確立した。’73年にサンミュージックに移籍後、’76年「北の宿から」で日本レコード大賞などを受賞し、’80年「大阪しぐれ」で最優秀歌唱賞を受賞、日本レコード大賞で新人賞・大賞・最優秀歌唱賞の三冠を達成。’84年に一時引退し、’87年に音楽プロデューサーとして活動再開し、’89年の紅白出演を契機に’90年に歌手活動復帰。2005年に芸術選奨文部科学大臣賞、2006年に京都府文化賞功労賞、2010年に紫綬褒章を受章し、長年にわたり歌謡界で活躍を続けている。

水前寺清子


15歳で「コロムビア歌謡コンクール」に出場し2位となり、星野哲郎の勧めでデビューの機会を得る。その後クラウンレコードに移籍し「涙を抱いた渡り鳥」で念願のデビューを果たす。’65年から’86年まで『NHK紅白歌合戦』に22回連続出場し、紅組司会やトリも務めた。’68年「三百六十五歩のマーチ」などのヒットとともに’70年にはTBSドラマ『ありがとう』に主演し高視聴率を記録するが、歌手活動優先のため第3シリーズで降板した。’94年には「C.C.レモン」のCMソングで話題となる。長年にわたり、現在も歌手として幅広く活動している。

藤圭子

1966年、中学3年生で北海道岩見沢市の温泉施設「きらく園」の専属歌手として活動を始め、’67年に上京。’69年9月「新宿の女」で歌手デビューした。’70年には「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」がオリコン連続首位を獲得し、アルバムも前人未踏の42週連続首位を記録。同年、第1回日本歌謡大賞大賞や日本レコード大賞大衆賞を受賞し、紅白歌合戦にも初出場した。’71年に前川清と結婚するも’72年に離婚。’79年に突如引退しアメリカに渡るが、’81年に藤圭似子として復帰、’82年に再婚し長女・光(宇多田ヒカル)を出産。’84年に藤圭子に芸名を戻し、その後は世界各国を旅しながら活動したが、2013年8月22日に62歳で逝去した。

小柳ルミ子

宝塚音楽学校を首席で卒業後、1971年「わたしの城下町」でデビュー。160万枚を売り上げ同年のオリコン年間1位となり、日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞した。翌年の「瀬戸の花嫁」も大ヒットし、日本歌謡大賞を獲得。その後も「京のにわか雨」などヒットを重ね、天地真理、南沙織と並ぶ「新三人娘」として人気を博した。’70年代半ば以降「星の砂」「お久しぶりね」など多彩な楽曲で新境地を拓き、実力派歌手として評価を確立。’71年から’88年まで18年連続で紅白に出場した。女優としても『誘拐報道』『白蛇抄』で日本アカデミー賞を受賞するなど高い評価を得、志村けんとのコントなどでの活躍でも広く親しまれた。

石川さゆり

1972年、中学3年の夏休みに「ちびっ子歌謡大会」で合格しホリプロにスカウトされ芸能界入り、同年ドラマ『光る海』で女優デビューする。’73年に、桜田淳子と同じ白いエンジェルハットをトレードマークに「かくれんぼ」で歌手デビューするが、森昌子・山口百恵・桜田淳子ら同世代の人気に押され苦戦した。その後、二葉百合子に師事し基礎から学び直し、民謡や日舞にも取り組んで歌の表現力を磨いた。’77年「津軽海峡・冬景色」が大ヒットし数々の音楽賞を受賞、NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。続く「能登半島」「沈丁花」なども成功し、’80年代には「波止場しぐれ」「天城越え」「夫婦善哉」「風の盆恋歌」などの代表曲を発表、日本を代表する演歌歌手の地位を確立した。

森昌子

1971年『スター誕生!』に13歳で出場し、初代グランドチャンピオンとなる。父の反対を説得しホリプロに所属し、’72年「せんせい」でデビュー。当時のヘアスタイルはタワシ頭と呼ばれるショートカットで、いじられながらもお茶の間に愛される存在となる。その後デビューした桜田淳子、山口百恵とともに「花の中三トリオ」と呼ばれ、’73年には女性最年少15歳で紅白に出場。映画やバラエティでも活躍。’77年以降は「なみだの桟橋」から演歌路線へ転じ、歌唱力を高める。’83年「越冬つばめ」で日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。歌手活動に加え、ドラマ出演など女優としても活動の幅を広げた。

牧村三枝子

1972年にサンミュージック・タレントスクールへ入学し、翌年RCAレコードから「少女は大人になりました」でデビュー。’76年、テレビドラマ『大都会-闘いの日々-』にレギュラー出演し、挿入歌「赤提灯の女」をポリドールから発売。’78年、渡哲也の「みちづれ」をカバーしたシングルが大ヒットし、翌’79年から’80年にかけて38週連続でオリコン20位以内を記録するロングセラーとなった。以後、「夫婦きどり」「あなたの妻と呼ばれたい」「友禅流し」など情念を込めた作品で人気を確立し、哀愁と力強さを併せ持つ独自の歌唱で支持を得た。

西崎緑

7歳のとき作曲家の遠藤実に見いだされ、「ちいさなプリンセス」で歌手デビュー。翌年、田端義夫とのデュエット「ねんねん船唄」がヒットした。子役として映画やテレビでも活躍し、14歳で平尾昌晃に師事して歌唱力を磨く。1974年、ドラマ『暗闇仕留人』の主題歌「旅愁」がミリオンセラーとなり、挿入歌「さざなみ」などとともに代表作となった。俳優としても『コメットさん』(第1期)にレギュラー出演し、のちに『必殺シリーズ』では複数作品に登場。歌と演技を両立させた多才な芸能活動で知られる。

小林幸子


1964年にシングル「ウソツキ鴎」でデビューし、20万枚を売り上げるヒットとなる。’79年に「おもいで酒」が大ヒットし、紅白歌合戦にも初出場を果たした。以降、紅白には2011年までに33回出場し、’88年と2004年には大トリを務めるなど長年にわたり活躍。’80年代から’90年代にかけては「雪椿」や「越後情話」などのヒット曲に恵まれ、演歌界のトップ歌手としての地位を確立。また、豪華な衣装での紅白出演や派手な演出で注目を集め、視覚的にも話題となった。2000年代以降も演歌からポップス、アニメソングまで幅広いジャンルで活動を展開している。

八代亜紀

中学卒業後に熊本でバスガイドとして就職するが、人前で話すのが苦手で3か月で退職。その後キャバレー歌手を経て上京し、銀座のクラブで歌っていた際に五木ひろしの紹介で芸能プロと出会い、1971年「愛は死んでも」でデビュー。日本テレビ『全日本歌謡選手権』で10週連続勝ち抜きグランドチャンピオンとなり注目を集め、’73年「なみだ恋」が120万枚の大ヒット。トラック野郎のアイドルとしても人気を博す。以降も「おんな港町」「愛の終着駅」などを発表し人気を確立。’79年「舟唄」、’80年「雨の慕情」が特に評価され、後者で日本レコード大賞を受賞、紅白歌合戦では2年連続大トリを務め「演歌の女王」と称された。晩年はジャズ、ブルースなども歌うようになりファン層を広げた。2023年12月、指定難病を患い73歳で逝去した。

西川峰子

1973年、「第3回全日本歌謡コンテスト」で優勝し芸能界入り。翌’74年、「やまびこ演歌」のキャッチフレーズでビクターから「あなたにあげる」で歌手デビュー。同曲はオリコン1位を獲得する大ヒットとなり、第16回日本レコード大賞新人賞などを受賞した。その後もヒットを重ね、’75年から4年連続で『NHK紅白歌合戦』に出場。喉を痛めて声が出にくくなったことを契機に女優へ転身。’77年の映画『人間の証明』で女優デビューを果たし、’87年『吉原炎上』での体当たり演技が話題となる。以後は女優・タレントとしても幅広く活動。

天童よしみ

7歳でのど自慢番組に初出演し、毎日放送『素人名人会』で名人賞を受賞。以後、多くの大会で優勝を重ねる。フジテレビ『日清ちびっこのどじまん』出演をきっかけに日本コロムビアから「大ちゃん数え唄/いなかっぺ大将」を吉田よしみ名義で発売。1972年『全日本歌謡選手権』で10週連続勝ち抜き、7代目グランドチャンピオンとなり、「風が吹く」でキャニオンレコードから正式デビュー。その後10年の低迷を経て、’85年に「道頓堀人情」がヒット。’96年の「珍島物語」は130万枚を超えるロングヒットとなった。

川中美幸

17歳の時、「春日はるみ」として歌手デビュー。歌のうまさが評判となったもののアイドル全盛期だった当時大きく注目はされず、2年間の活動のみで地元の大阪に戻る。その後、大阪で開催された『ネオン街音楽祭』に出場しグランプリを獲得し再デビューを決意。芸名を「川中美幸」に改め、21歳でシングル「あなたに命がけ」を発表するもヒットに至らず。1980年、24歳で発表した夫婦愛をテーマとするシングル「ふたり酒」がようやく実を結び、ミリオンセラーの大ヒットとなる。下町人情を歌わせたら右に出る者なしと評される。

瀬川瑛子


股旅歌謡やマドロス歌謡で人気を博した歌手・瀬川伸の娘として育ち、5歳から父の指導で歌を学び、父のステージの前座を経て1967年「涙の影法師」でデビューした。当初は「瀬川映子」を名乗り、地道に活動を重ねる。’70年「長崎の夜はむらさき」が50万枚のヒットとなるが、その後は低迷期を迎える。’83年には作曲家・船村徹の計らいで「矢切の渡し」を競作で歌い30万枚を売り上げ、再び注目を集めた。’86年「命くれない」が大ヒットし、翌年のオリコン年間1位・累計170万枚の大記録を達成、「一途に添い遂げる女」を歌う代表曲となった。その後も演歌歌手として活動を続け、日本歌謡界に確かな足跡を残した。

金沢明子

16歳で日本民謡協会主催の全国大会に優勝し、『秋田船方節』で注目を集める。1975年、アルバム『若い民謡』でデビューし、「民謡界の百恵ちゃん」と呼ばれた。NHK『夜の指定席 民謡をあなたに』で原田直之と司会を務め、ジーパン姿で民謡を歌う斬新なスタイルが話題となる。津軽民謡を中心に300曲に及ぶレパートリーを築き、’82年には大瀧詠一プロデュースの「イエロー・サブマリン音頭」がヒットし、代表曲となった。

青江三奈


高校卒業後デパート勤務を経てクラブ歌手となり、「銀巴里」などで歌い始める。1966年、『恍惚のブルース』でメジャーデビューし、80万枚を売り上げ注目を集めた。ハスキーボイスを生かしたブルース調の歌唱が特徴で、’68年には『伊勢佐木町ブルース』(100万枚)、『長崎ブルース』(120万枚)が連続ヒット。「伊勢佐木町ブルース」で日本レコード大賞歌唱賞などを受賞した。翌’69年の『池袋の夜』は150万枚を売り上げ、最大のヒットとなった。同年は年間売上1位を記録し、“ため息路線”の代表的歌手として森進一と並び称された。

梶芽衣子

高校在学中にスカウトされ、1965年に日活へ入社し本名・太田雅子で映画『悲しき別れの歌』に出演。青春スターとして注目されるが、のちに芸名を「梶芽衣子」と改める。’70年『野良猫ロック』シリーズで人気を確立し、日活退社後は東映へ移籍。『銀蝶シリーズ』に続く『女囚さそり』シリーズで強烈な女性像を演じ、一躍カルト的存在となった。’70年に1st.シングル「仁義子守唄」をリリース、’72年の「恨み節」と’73年「修羅の花」は、梶の熱烈なファンであるタランティーノの映画『キル・ビル』でも使用された。

松原のぶえ

中学時代に福岡のタレント養成所に通い、3年生のとき北島音楽事務所にスカウトされる。高校進学後に上京し、1979年「おんなの出船」でデビュー。情感豊かな歌唱で注目され、第21回日本レコード大賞新人賞をはじめ数々の新人賞を受賞した。以降も地道に歌手活動を続け、’89年には女性演歌歌手に贈られる第1回レコード大賞・美空ひばり賞を受賞。2002年に北島音楽事務所を離れ、独立して「のぶえオフィス」を設立。現在もステージやメディアを中心に、艶のある声と人情味あふれる歌で多くのファンに親しまれている。

テレサ・テン

1953年1月台湾の雲林県で生まれた。10歳の時に台湾の素人のど自慢で優勝し、その後も各地のコンテストで優勝を重ねて注目を集め、14歳で歌手デビュー。レギュラー番組を持つなど台湾のエンターテインメント業界からアジア全域に活動の場を広げ”アジアの歌姫”と呼ばれる。日本では’74年、21歳の時に「今夜かしら明日かしら」でデビューし、2作目の「空港」で人気が高まり、翌年の「時の流れに身をまかせ」が大ヒット。これらの楽曲は彼女の代表作となり、日本の音楽シーンでも高く評価された。その後「つぐない」などもヒットし、彼女の音楽は広く親しまれた。’95年5月、急性喘息により香港で逝去するも、今も尚その存在は多くの人々に愛され続ける。

北原ミレイ

高校在学中から浜松の作曲家・佐伯一郎に師事し、卒業後に上京。ナイトクラブで歌いながらヘンリー倉田にジャズ、浜口庫之助にポピュラー音楽、大本恭敬にカンツォーネを学び表現力を磨いた。歌う姿を水原弘に注目され、作詞家・阿久悠の推薦で1970年「ざんげの値打ちもない」でデビュー。情念を込めた独特の歌唱で注目を集める。’75年の「石狩挽歌」が大ヒットし、代表曲となる。その後も活動を続け、2006年には35周年記念曲「女友達」を発売し、円熟した表現力で女性の心情を歌い続けている。

女性歌手・アイドル > 1960年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

美空ひばり


江利チエミ、雪村いづみとともに”三人娘”として国民的人気を博し、中でも圧倒的な歌唱力と存在感で一世を風靡。’89年1月11日、最後のシングル『川の流れのように』が発売され、約半年後に54歳で永眠する平成初期に亘るまで、歌謡界・演歌界の絶対的なトップスターであり続けた。

ペギー葉山


『南国土佐を後にして』、青山学院大学のチャペルを描写した『学生時代』などのヒットで知られる。歌唱と訳詞を手掛けた『ドレミの歌』は時代を超えて広く親しまれ、1995年『紫綬褒章』、2004年に『旭日小綬章』も受章した。

雪村いづみ


1953年『思い出のワルツ』で歌手デビュー。美空ひばり、江利チエミとともに”三人娘”として人気を博す。『オーマイパパ』『青いカナリヤ』『約束』などのヒット曲を持つほか、’57年の東宝映画『青い山脈』に主演、映画黄金時代を築く立役者となる。

畠山 みどり

1962年『恋は神代の昔から』でレコードデビュー。袴を履いた巫女の衣装で歌謡浪曲を歌い、曲のヒットとともに一躍有名となる。以降も『出世街道』『馬鹿は死なゝきゃなおらない』などヒット曲多数。’70年代からはタレントや実業家としての活動が増え、演歌界きっての株トレーダーとしても知られる。

青江 三奈

1966年『恍惚のブルース』で歌手デビュー。セクシーなハスキーボイスで歌うブルース演歌で80万枚のヒットとなる。’68年、イントロ部分のため息で知られる『伊勢佐木町ブルース』が100万枚、『長崎ブルース』が120万枚のミリオンセラーに。NHK紅白歌合戦には’66年の初出場から16年連続で出場、ブルース演歌の女王としての地位を築いた。

島倉 千代子


1955年『この世の花』で歌手デビュー。同曲は200万枚を売り上げ人気歌手となる。その後も『東京だョおっ母さん』『からたち日記』ほか100万枚を超えるヒット曲を何作も持つ。’68年の『愛のさざなみ』では日本レコード大賞・特別賞を受賞した。また、’87年発売の『人生いろいろ』も130万枚の大ヒットとなり日本レコード大賞で最優秀歌唱賞を受賞。”お千代さん”の愛称で長年に亘り国民的歌手として多くの人に愛された。

森山加代子

1960年『月影のナポリ』でデビュー。楽曲はザ・ピーナッツとの競作だったが森山版は50万枚の大ヒットとなり、年末の『紅白歌合戦』にも初出場を果たす。その後も流行語にもなった『じんじろげ』ほかヒット曲を連発。’70年にリリースした『白い蝶のサンバ』はミリオンセラーの大ヒットとなった。

弘田三枝子

1961年にヘレン・シャピロのカバー曲『子供ぢゃないの』でデビュー。パンチの効いた歌声で洋楽をカバーしたが、’69年、洋楽カバーから路線を変えてリリースした『人形の家』がオリコンチャート首位を獲得。同年の日本レコード大賞歌唱賞にも輝いた代表作となる。

園まり


1956年、童謡歌手としてデビュー。その後渡辺プロダクションに所属先を変え、’62年『鍛冶屋のルンバ』でレコードデビュー。『逢いたくて逢いたくて』『夢は夜ひらく(藤圭子版も有)』ほか”園まり節”と呼ばれる多数のヒット曲を持つ。’66年-’67年にかけてマルベル堂女性歌手ブロマイド売上1位の人気となる。

森山良子

1967年、「この広い野原いっぱい」でデビュー。黒澤明の意向で黒澤プロダクションに所属し、デビュー当初は“日本のジョーン・バエズ”と呼ばれるフォークシンガーとして注目された。’69年、「禁じられた恋」がミリオンセラーとなり、日本レコード大賞大衆賞を受賞、NHK紅白歌合戦に初出場するなど、フォークから歌謡界へと活動の幅を広げた。’70年の大阪万博ではテーマソングを担当し、国民的歌手としての地位を確立した。

坂本スミ子

NHK大阪合唱団を経てラテン歌手としてデビュー。「ラテンの女王」として人気を得る。1961年からテレビ番組『夢であいましょう』で主題歌を担当、NHK紅白歌合戦に5年連続出場した。’71年「夜が明けて」「浮雲」とヒットを飛ばし、’73年「幼い子供のように」で東京音楽祭外国審査団賞を受賞。その後女優としても活躍し、ミュージカル『キャバレー』で’82年度文化庁芸術祭優秀賞を受賞した。

中山千夏

小学1年で毎日音楽コンクール優勝、子役としてドラマの主題歌や副主題歌を担当。高校時代はNHK人形劇『ひょっこりひょうたん島』の挿入歌を歌い、宇野誠一郎に師事してボイストレーニングを受ける。東宝ミュージカルにも出演。歌謡曲歌手としての本格デビューは1969年9月、ビクターレコードから「あなたの心に」を発表しオリコン2位を記録。レコード大賞新人賞にノミネートされ、その後多くのカバーが生まれた。

加藤登紀子

満洲国ハルビン生まれ、京都育ち。1965年、在学中に第2回日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝。’66年「誰も誰も知らない」でレコードデビュー。’71年「知床旅情」で日本レコード大賞歌唱賞を受賞。’72年に一時活動休止するも、’73年復帰。’78年「この空を飛べたら」、’87年「百万本のバラ」がヒット。中国公演や鴨川自然王国設立、映画やドラマ出演、他歌手への楽曲提供など、多彩な活動を展開。

三沢あけみ

1959年、東映ニューフェイスに合格し、テレビドラマ『笛吹童子』で三沢あけみとして芸能界デビュー。’63年「ふられ上手にほれ上手」で歌手デビュー。同年4月「島のブルース」が大ヒットし、第5回日本レコード大賞新人賞受賞と第14回NHK紅白歌合戦初出場を果たす。以降、「明日はお立ちか」「アリューシャン小唄」「涙の渡り鳥」「サガレン小唄」「お手を拝借」「木曽節」などでリバイバルヒットや紅白出場を重ねた。

高田美和

1962年、高校1年生で大映に入社し、三隅研次監督『青葉城の鬼』でデビュー。以後、『座頭市兇状旅』『大魔神』『眠狂四郎勝負』など時代劇や、『高校三年生』『青いくちづけ』『十七才は一度だけ』など現代映画で主演し、清純派スターとして人気を博す。’64年「十七才は一度だけ」で歌手としてもデビューし、以後もシングルを発表。’68年大映退社後はテレビや舞台に活動の場を移し、『2時のワイドショー』司会や『雲霧仁左衛門』などの舞台で活躍した。

梓みちよ

1962年デビュー。’63年にリリースした『こんにちは赤ちゃん』が大ヒットとなり、同年の日本レコード大賞の大賞を受賞、年末の紅白歌合戦にも初出場を果たす。その後低迷期を経て’74年に発売した『二人でお酒を』が大ヒット。床に座って歌う姿で人気をさらい、再びの日本レコード大賞に加え大衆賞も受賞し、紅白への復帰も果たした。

九重佑三子

1963年『シェリー』でレコードデビュー。’67年、テレビドラマ『コメットさん』でコメットさん役を演じ人気を博す。同年のNHK紅白歌合戦では史上最年少で紅組司会者に抜擢され、ロッテチョコレートのCMなどでもお茶の間に広く愛される存在となる。

都はるみ

1964年レコードデビュー。”はるみ節”と呼ばれる力強いこぶしが特徴で、同年発売された3作目『アンコ椿は恋の花』がミリオンセラーとなる。’76年、『北の宿から』で日本レコード大賞ほか数々の音楽賞を受賞。’84年に一度引退するもその後活動を再開し、2005年に芸術選奨文部科学大臣賞、2010年に紫綬褒章を受章している。

いしだあゆみ

子供の頃から児童劇団に所属し舞台活動を続ける。歌手としては1968年にリリースした『ブルー・ライト・ヨコハマ』が150万枚のミリオンセラーを記録し代表作に。映画『男はつらいよ』やテレビドラマ『金曜日の妻たちへ』『北の国から』などで女優としても活躍した。

水前寺清子

1964年『涙を抱いた渡り鳥』でデビュー。’68年に発売された『三百六十五歩のマーチ』は100万枚の大ヒットとなり、日本レコード大賞大衆賞を受賞した。’70年からはTBSドラマ『ありがとう』に主演、民放ドラマで史上最高視聴率となる56.3%を記録した。”チータ”の愛称で昭和・平成に亘り永く愛される存在となる。

奥村チヨ

1965年デビュー。黛ジュン、小川知子と「東芝3人娘」と呼ばれる。デビュー同年に『ごめんネ…ジロー』をヒットさせるほか、’70年前後に”恋三部作”としてリリースした『恋の奴隷』『恋狂い』『恋泥棒』の連続ヒットで人気歌手の仲間入りを果たした。

中尾 ミエ

1962年、16歳でレコードデビュー。デビュー曲の『可愛いベイビー』が大ヒットし一躍スターの仲間入りを果たす。園まり、伊東ゆかりと組んだ”スパーク三人娘”も人気を集め、TV界で一時代を築く。ものおじしない性格でトーク力も高いことから歌手活動のみならず、長年に亘り映画、ドラマ、バラエティ番組で活躍を続ける。

金井 克子

西野バレエ団出身で抜群のプロポーションを誇り、モデルとしても活躍。1962年レコードデビュー。’67年、西野バレエ団仲間の由美かおる、奈美悦子らとともにダンスグループ『レ・ガールズ』を結成しTVで活躍する。’73年、独特の振付けも話題となった『他人の関係』が100万枚以上のヒットとなり、日本レコード大賞企画賞を受賞した。

西田 佐知子


1956年レコードデビュー。’61年、世界的にヒットした『コーヒールンバ』のカバー曲を歌い一躍有名となる。’62年、『アカシアの雨がやむとき』で日本レコード大賞特別賞を受賞。以降は司会者の関口宏と結婚し、歌手活動をセーブした。

小川知子

1968年『ゆうべの秘密』でデビュー。同曲はオリコン1位を獲得する。後に『初恋のひと』もヒット。’80年代に入り連続ドラマ『金曜日の妻たちへ』などにも出演し女優としても活躍する。’84年にはアリスの谷村新司とのデュエット曲『忘れていいの-愛の幕切れ-』が話題となり、長年に亘り活躍を続けた。

和田アキ子

1968年歌手デビュー。迫力のある歌唱法で”和製リズム・アンド・ブルースの女王”として売り出す。2枚目のシングル『どしゃぶりの雨の中で』、4枚目の『笑って許して』のヒットで人気を確立。’72年に発売した『あの鐘を鳴らすのはあなた』で同年の日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞した。当時からタレントとしてさまざまなバラエティ番組でも活躍した。

カルメン・マキ

1969年、17歳で『時には母のない子のように』でデビュー。年齢に見合わない哀愁あふれる楽曲と歌唱でデビュー曲は100万枚を超える大ヒットとなった。翌年ロック歌手への転向を表明し、ロックバンドの結成と解散を重ねながら活動した。

由紀さおり

1965年に歌手デビューするがヒット曲に恵まれず、’69年、再デビュー曲としてリリースした『夜明けのスキャット』が150万枚のミリオンセラーとなる。その後も『手紙』『生きがい』などのヒット曲に恵まれ歌手として活躍するとともに、バラエティタレントや司会、女優としても才能を発揮、多岐にわたり活躍した。

千賀かほる

1969年、『真夜中のギター』でデビュー。同年、日本レコード大賞新人賞を受賞。デビュー前はOSK日本歌劇団に所属していた。『真夜中のギター』は現在もフォークソングの名曲として岩崎宏美や徳永英明ほか多くのアーティストのカバーアルバムで歌い継がれている。

平山 三紀

1970年デビュー。鼻にかかったハスキーボイスが特徴で、2枚目のシングル『真夏の出来事』がオリコン5位のヒット曲となる。以降も『ノアの箱舟』『フレンズ』とヒット曲が続き人気を集める。ばんばひろふみの元妻で、現在も音楽活動を続ける。

松尾 和子

ナイトクラブや進駐軍のキャンプで歌っていたところ人気となり、1959年に和田弘とマヒナスターズ、フランク永井との共唱作『グッド・ナイト/東京ナイト・クラブ』でデビュー。’60年に発売した第2弾『誰よりも君を愛す』が大ヒットとなり、ムード歌謡の女王となる。他に『お座敷小唄』『銀座ブルース』などヒット曲多数。

越路 吹雪

1951年まで宝塚歌劇団男役のトップスターとして活躍。その後は東宝専属となり舞台女優へ。同時にシャンソン歌手としても活動を始め、『愛の讃歌』『ラストダンスは私に』『サン・トワ・マミー』『ろくでなし』など数々のビッグヒットを放つ。日本のシャンソン界の女王となり、日本レコード大賞歌唱賞、文化庁芸術祭奨励賞など数々の賞を受賞した。

江利 チエミ

歌が好きで12歳の頃から進駐軍のキャンプで歌うようになりキャンプのアイドル的存在だった。1952年、15歳で『テネシーワルツ』でレコードデビュー、同曲は23万枚のヒットとなり、続く『ツゥー・ヤング』もヒット。歌唱力の高さから「美空ひばり以来の天才少女」と呼ばれ、雪村いづみを加えた”三人娘”として戦後の歌謡界で活躍、一世を風靡した。

吉永 小百合

1957年~59年の間にラジオ、テレビドラマ、映画界にデビュー。’62年に自身の主演映画『赤い蕾と白い花』の主題歌『寒い朝』でレコードデビュー、50万枚を超えるヒットとなる。続いて橋幸夫とのデュエット曲『いつでも夢を』が300万枚を超える爆発的ヒットを記録、’60年代の映画界・歌謡界に吉永小百合の一大旋風を巻き起こした。

倍賞 千恵子

1961年映画デビュー。’63年『下町の太陽』に主演。同タイトルの楽曲でレコードデビューし、日本レコード大賞新人賞を受賞した。以降、『さよならはダンスの後に』『忘れな草をあなたに』などのヒット曲に恵まれるとともに女優として活躍し、映画『男はつらいよ』の主人公・車寅次郎の妹さくら役などで知られる。

伊東 ゆかり

1958年レコードデビュー。以降、中尾ミエ・園まりとともに”スパーク三人娘”を結成し、『シャボン玉ホリデー』などのバラエティ番組に出演しお茶の間の人気者に。’67年発売の『小指の想い出』が爆発的なヒットとなり、以降もヒット曲に恵まれ、’60年代の歌謡界を語るに欠かせない存在となった。

岸 洋子

東京藝術大学大学院声楽専攻科修了後、1962年にシャンソン歌手としてレコードデビュー。実力派歌手として注目を集め、’64年『夜明けのうた』で日本レコード大賞歌唱賞を受賞した。’70年にリリースした『希望』が約70万枚の大ヒットとなり、2度目となるレコード大賞歌唱賞を受賞。第43回選抜高校野球大会の入場行進曲にも採用された。

由美かおる

西野バレエ団に所属し、1960年代~80年代にかけて多数の映画、ドラマ、CMに出演。金井克子や奈美悦子などバレエ団仲間と結成したダンスグループ『レ・ガールズ』の活動でも人気を集め、愛らしく魅力的な容姿で和製マリリン・モンローとも称される存在となる。歌手としては『いたずらっぽい目』(’67年)などのヒット曲があるが、アース製薬蚊取り線香のCMキャラクターや時代劇『水戸黄門』の”かげろうお銀”役で広く知られる。

佐良 直美

1967年『世界は二人のために』でレコードデビュー。抜群の歌唱力で120万枚を売り上げ、同年の日本レコード大賞の新人賞を受賞し年末のNHK紅白にも初出場した。同曲は翌年の選抜高等学校野球大会の入場行進曲にも採用され、佐良 直美ブームが巻き起こる。その後も『いいじゃないの幸せならば』などがヒットするもタレントとしても才能を発揮、TBSのドラマ『ありがとう』のレギュラーなど多方面で活躍した。

渚ゆう子

沖縄出身の母と京都出身の父のもとに生まれ、幼少期から沖縄民謡と琉球舞踊を学ぶ。1964年に久葉真鶴の名で芸能界入りし、マヒナスターズの前唄を経て上京。浜口庫之助に師事し、’66年に「渚ゆう子」と改名。’67年「早くキスして」でレコードデビュー。’70年、ベンチャーズ作曲の「京都の恋」「京都慕情」が大ヒットし、全国的に人気歌手となる。

新谷のり子

幼少期から歌を好み、NHK児童合唱団で活動した。高校を中退して北海道から上京し、銀座のクラブで歌い始め、1969年に『フランシーヌの場合』でメジャーデビュー。政治的抗議のため焼身自殺した女性を題材にしたこの曲は、反安保の日に発売され約80万枚の大ヒットとなった。2枚目のシングル『さよならの総括』が不振に終わり、次第に表舞台から退く。その後はいずみたく事務所を経て労音で活動するが、歌う意味を見失い再び銀座のクラブに戻った。

仲宗根美樹

1961年、ドラマ『東京物語』の挿入歌「愛に生きる」で歌手デビュー。同年9月に発表した「川は流れる」が、人生を川の流れに重ねた歌詞と独特の無表情な歌唱で大ヒットし、ミリオンセラーを記録、第3回日本レコード大賞新人奨励賞を受賞した。翌’62年にはNHK紅白歌合戦に初出場し紅組のトップバッターを務めた。その後も「島育ち」「奄美恋しや」などヒットを続け、CMソング「有馬兵衛の向陽閣へ」でも知られた。’71年、歯科医師と結婚して芸能界を引退した。

朱里エイコ

舞踏家の母とオペラ歌手の父のもとで育つ。18歳で単身渡米し、ラスベガスやニューヨークなど全米各地で歌手・エンターテイナーとして活動、サラ・ヴォーンと同じ舞台にも立った。1966年に帰国後は人気が伸びなかったが、再渡米して実力を磨き、’71年にワーナー・パイオニアと契約。’72年に「北国行きで」が大ヒットし紅白に初出場した。以後、卓越した歌唱力とダンス、三味線やピアノの演奏を取り入れた多彩なステージで人気を博した。

内藤洋子

医師の家系に生まれ、小学5年の時にCM出演をきっかけに芸能界入り。1965年、黒澤明監督『赤ひげ』で女優デビューし、翌年のドラマ『氷点』で清純派女優として人気を博す。松山善三監督『その人は昔』の挿入歌「白馬のルンナ」が50万枚を超えるヒットとなり、歌手としても成功した。’70年に音楽家・喜多嶋修と結婚して引退し、’74年に家族とともに渡米。以後は絵本作家として活動している。

泉アキ

1966年、日本テレビ「あなた出番です」で優勝し、翌’67年に「恋はハートで」でクラウンレコードからデビュー。続く「夕焼けのあいつ」がヒットし、アイドル歌手として人気を得た。’72年に桂菊丸と結婚、家庭を築く一方で、’75年からテレビ朝日「独占!女の60分」にレポーターとして出演し、明るいキャラクターで人気を博す。以後、司会やクイズ番組などで幅広く活躍。さらに自動車レースにも挑戦し、’84年にはサファリラリーで日本人女性初の完走を果たした。

黛 ジュン

1964年のデビュー後、’67年に『恋のハレルヤ』で再デビュー。パンチのある声とミニスカートで歌う再デビュー4枚目のシングル『天使の誘惑』が大ヒットし、同年の日本レコード大賞に輝く。’67~’68年のレコード売上は500万枚。GS全盛期にもっとも活躍した女性シンガーでもある。

中村晃子

1965年レコードデビュー。GS全盛期にある’67年の発売にもかかわらず、7作目のシングル『虹色の湖』が80万枚の大ヒットとなり、黛ジュンとともに女性シンガーとして強烈な存在感を示す。衣装のミニスカートも時代の先鋒だった。’80年、TBSドラマ『離婚ともだち』の挿入歌『恋の綱わたり』が30万枚のヒットとなり再び注目された。

山本リンダ

雑誌モデルを経て15歳だった1966年に『こまっちゃうナ』で歌手デビュー、大ヒットを記録。以降大きなヒット曲に恵まれなかったものの、『仮面ライダー』などのドラマに出演し人気となる。’72年、大人の路線に変更しヘソ出しルックで歌った『どうにもとまらない』続く『狙いうち』が大ヒット、歌手・山本リンダの第二次ブームが訪れた。

男性歌手・アイドル > 1960年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

三橋美智也

北海道函館市出身。幼少より民謡歌手の母に鍛えられ、9歳で全道民謡コンクール優勝。その後は家計を助けるため巡業に参加し、津軽三味線を習いながら白川軍八郎一座で修行し、その後も園芸団などに参加して力をつける。19歳で上京し修行を積んだ後、1953年、キングレコードと契約し、翌年「酒の苦さよ」でデビュー。’55年「おんな船頭唄」が大ヒットし、「リンゴ村から」「哀愁列車」「古城」「達者でナ」などを次々とヒットさせた。民謡で培った伸びやかな高音と独特のこぶしで昭和30年代の歌謡界を牽引。「三橋で明けて三橋で暮れる」と称される人気を誇り、レコード売上は1億枚に達したとされる。

三波春夫

「お客様は神様です」のフレーズでも知られる、戦後日本に演歌で希望を与えた国民的大スター。第二次世界大戦に徴兵されて満州へ渡り、帰国後の1955年、浪曲師・民謡歌手としてデビュー。’57年「三波春夫」に芸名を改め歌謡界に進出。集団就職で上京した若者の心情を描いた2枚目の「チャンチキおけさ」が220万枚を売り上げる大ヒットとなり、’64年の東京五輪のテーマソング「東京五輪音頭」130万枚、’70年の大阪万博テーマソング「世界の国からこんにちは」300万枚などビッグヒットを連発した。功績は高く評価され、紫綬褒章、勲四等旭日小綬章、新潟県民栄誉賞など、栄誉ある数々の賞に輝いた。

村田英雄

福岡県出身。浪曲師の両親のもとに生まれ、幼少期から舞台に立つ。5歳で酒井雲に弟子入りし、13歳で真打に昇進、14歳で一座を率いた。戦後は浪曲師として活動するが、上京後に改名し、村田英雄として芸道を歩む。1958年、古賀政男に見出され、「無法松の一生」で歌手デビュー。浪曲の語りを生かした独自の歌唱で注目される。’61年、「王将」が大ヒットし、日本レコード大賞特別賞を受賞。三波春夫と並ぶ国民的スターとして人気を博す。以後「人生劇場」なども再評価され、演歌歌手として不動の地位を築いた。

北島三郎

1962年、「ブンガチャ節」で歌手デビューし、同年末に「なみだ船」で日本レコード大賞新人賞を受賞、演歌界に名乗りを上げる。’65年に「兄弟仁義」「帰ろかな」「函館の女」が相次いでヒットし、人気演歌歌手の地位を確立。映画『兄弟仁義』にも出演し、任侠演歌としてのキャリアを築いた。その後も「与作」「まつり」など数々の名曲を生み出し、紅白歌合戦には通算50回出場、13回トリ(大トリ)を務めるなど紅白史上最多出演記録を達成した。’72年に北島音楽事務所を設立し、以降は「原譲二」のペンネームで作詞・作曲・演出にも取り組むなど演歌の大御所として活動の幅を広げ、現在も第一線で活躍を続けている。

井沢八郎

中学卒業後に上京し、バンドマンとして活動しながら作曲家・大沢浄二に師事。1963年、東芝音楽工業から「男船」でレコードデビューし、30万枚を売り上げた。翌’64年の「 あゝ上野駅」は高度経済成長期の集団就職者の心情を描き大ヒットし、代表曲となった。この曲は上野駅の発車メロディにも採用されている。その後も「男傘」「北海の満月」などをヒットさせ、伸びやかなハイトーンの美声で長年演歌界で活躍した。晩年までショー・テレビ出演に取り組み、2007年に死去した。娘は歌手で女優の工藤夕貴。

一節太郎

“流しのギター弾き”として全国を巡り、作曲家・遠藤実の内弟子第1号として師事した。1963年、「浪曲子守唄」でレコードデビューを果たし、独特の歌唱法で薄幸な男の人生をしみじみと歌った同曲は発売後2年間で100万枚を突破、’99年までに200万枚を売り上げた。セルフスタイルの浪曲演歌として高い人気を博し、「出世子守唄」など“子守唄シリーズ”で世界観を確立。現在も第一線で活動を続け、男の情感を歌い続けている。

五木ひろし

1964年「コロムビア全国歌謡コンクール」で優勝しデビューを果たし、芸名を松山まさる、一条英一、三谷謙と改名するも苦戦した。’70年、『全日本歌謡選手権』で10週間勝ち抜きグランドチャンピオンとなり、’71年に「五木ひろし」として「よこはま・たそがれ」で再デビュー、大ヒットを記録した。以降、「夜空」「契り」「長良川艶歌」などヒットを重ね、紅白歌合戦には50回連続出場(歴代1位)し、日本レコード大賞の大賞や最優秀歌唱賞、金賞を歴代最多で受賞、コンサート動員数は延べ2,000万人以上にのぼる。福井県からは県民賞を受賞し、芸術選奨文部科学大臣賞、紫綬褒章、旭日小綬章も受章している。

千昌夫

17歳の時に作曲家・遠藤実に弟子入り。1965年に「君が好き」で歌手デビューした。翌’66年発売の「星影のワルツ」は、地道なリクエスト活動により’67年にミリオンセラーの大ヒットとなり、NHK紅白歌合戦に初出場を果たした。’77年にリリースされた「北国の春」は再び大ヒットを記録し、ミリオンセラーとなって日本レコード大賞ロングセラー賞を受賞、アジア各国でも広く親しまれた。 その後も「味噌汁の詩」「望郷酒場」「津軽平野」など数々の名曲を発表し、演歌界のレジェンドとして長年にわたり愛され続けている。

杉良太郎

1965年、日本コロムビアから「野郎笠」で歌手デビューした。翌’66年には俳優としてもデビューし、NHK時代劇『文五捕物絵図』で主演を務めて脚光を浴びた。その後『遠山の金さん』『右門捕物帖』『新五捕物帳』など時代劇を中心に1400本以上の作品で主演を続けた。歌手としては「すきま風」などのヒット曲を持ち、多才な活動を展開した。ま芸能活動とともに福祉活動にも長年取り組み、刑務所慰問や国際的な文化交流を通じて社会貢献を続け、法務省・厚労省・警察庁の特別監に委嘱されるなど公的にも評価されている。その功績により緑綬褒章、紫綬褒章、文化功労者など数々の表彰を受けている。

森進一

1965年、フジテレビ系『リズム歌合戦』で優勝し渡辺プロ入り。’66年6月に「女のためいき」でデビューし、この曲は35万枚を売り上げるヒットとなる。’68年には「盛り場ブルース」で第1回全日本有線放送大賞と日本有線大賞を受賞し、紅白歌合戦にも初出場を果たす。’69年の「港町ブルース」、’71年の「おふくろさん」、’74年の「襟裳岬」などが次々と大ヒットし、演歌界を代表する存在となる。紅白歌合戦には48回連続出場し、2021年には、歌手生活の功績が認められ旭日小綬章を受章した。

冠二郎

作詞家・三浦康照に師事し、1967年にビクターレコードより「命ひとつ」でデビューしたが、当初はヒットに恵まれなかった。’77年、テレビドラマ『海峡物語』主題歌の「旅の終りに」がミリオンセラーとなり、ようやく注目を集め、 その後’92年に「炎」で鮮烈なブレイクを果たし、“ネオ演歌”“アクション演歌”の旗手として若年層にも支持された。 さらに「酒場」「みれん酒」などのヒットで紅白歌合戦に3回出場、独自のキャラクターとステージ演出で幅広いファン層から愛された。

矢吹健

高校卒業後に上京し、作曲家・藤本卓也のもとで歌唱スタイルを磨いた。1968年に「あなたのブルース」でレコードデビュー。ハスキーでため息混じりの“ミスティーヴォイス”は強い個性を放ち、同曲で第10回日本レコード大賞新人賞(男性部門)、第1回日本有線大賞新人賞、第1回新宿音楽祭金賞を受賞し、ブレイクを果たした。その後も「真っ赤な夜のブルース」「蒸発のブルース」「うしろ姿」など数々のシングルを発表し、’70年代にかけて活躍。’80年代以降も自ら作詞作曲を手がけ、独自の音楽世界を追求したが、晩年は活動が限定的になり、2015年1月に逝去した(没年齢69歳)。

'60年代の演歌

戦後直後は「股旅もの」や「流れ者」的世界観から叙情的・抒情的な「哀愁の演歌」へ変化。’60年代は「ふるさと」「母」「人生の哀しみ」「別れ」などをテーマに、庶民の感情を歌うものが中心となった。三味線や尺八を中心にした伴奏に、浪曲的こぶしを抑えた歌唱法が導入され、美空ひばり、春日八郎、三橋美智也がその流れを牽引した。「函館の女」(’65・北島三郎)、「兄弟仁義」(’65)など、地方や人情をモチーフにしたご当地演歌も台頭し、北島三郎、村田英雄、三波春夫らが男の義理と人情の世界を力強く歌い上げた。和田弘とマヒナスターズ、ロス・インディオスなどの登場でムード歌謡も人気となり、都会的で艶のある「夜の演歌」も定着した。

平浩二

1967年に歌手を目指して上京し、’69年に「なぜ泣かす」でテイチクレコードよりデビュー。’70年には「女の意地」(西田佐知子との競作)がヒットし、’72年にリリースした「バス・ストップ」がオリコンで大ヒットを記録した。その後も「夜明け前」「冬の駅」などのヒット曲を重ね、歌唱力と甘い歌声で人気を博した。2015年に故郷・佐世保市の初代名誉観光大使に就任し、地元にも貢献。現在も精力的に音楽活動を続け、2021年にはくも膜下出血から奇跡的に復帰しステージに返り咲いた。

橋幸夫

1960年に高校1年生でビクターのオーディションに合格し、作曲家・吉田正に師事した上で「潮来笠」でデビュー。同曲は爆発的なヒットとなり、日本レコード大賞新人賞の第1回受賞者となった。以降、吉永小百合とのデュエット「いつでも夢を」、そして「霧氷」でレコード大賞を連続受賞し、舟木一夫・西郷輝彦とともに「御三家」と称される人気歌手となった。紅白歌合戦には通算19回出場し、映画・テレビ・舞台でも俳優としても活躍。2023年5月に歌手活動から引退を表明した後も芸能や社会貢献活動に意欲的に取り組んだ。

フランク永井

1955年「恋人よわれに帰れ」でデビュー。低音の魅力で“ムード歌謡”を開拓。「有楽町で逢いましょう」など都会的な歌が人気を博す。サラリーマン層にも愛され、夜の街に寄り添うような歌唱が支持された。晩年は脳梗塞で活動制限されるも、不屈の精神で復帰した。

水原弘

1959年、永六輔作詞による「黒い花びら」でデビュー、60万枚に迫る大ヒットとなり、新人ながら第1回日本レコード大賞を受賞する。甘いルックスと低音による大人のムード歌謡で女性人気を集め、アース製薬のCM出演で後世にも広く知られる存在に。’78年、41歳で急逝。短命に終わった天才型歌手として記憶される。

石原裕次郎

1956年、映画『太陽の季節』で役者デビュー。同年の映画『狂った果実』で主演を務めるとともに、同名のシングルで歌手デビューした。日活映画のスターとして絶大な人気を誇り、’60年代には大型スターとして確固たる地位を築く。歌手としても「銀座の恋の物語」「夜霧よ今夜も有難う」などが大ヒット。男の哀愁を漂わせる歌唱と独特の色気で、芸能界随一のカリスマとして、没後も命日には大々的な特番が組まれる。

小林旭

1956年に映画『飢える魂』で役者デビューし、’58年「女を忘れろ」で歌手デビューした。役者として石原裕次郎と並ぶ日活のスターとなり、「渡り鳥」シリーズなどで日活黄金時代を築く。歌手としてもデビュー曲は大ヒット、続く「ダイナマイトが百五十屯」もヒットし、”マイトガイ”と呼ばれ国民的人気者となる。美空ひばりとは事実婚の関係にあり、関係の解消後も、映画『仁義なき戦い』や’75年発売の『昔の名前で出ています』’79年『赤いトラクター』(’77年~ヤンマーCMソング)’85年『熱き心に』の大ヒットなど長年にわたり活躍した。

坂本九

高校時代に日劇「ウエスタン・カーニバル」で歌手デビューし、その後「ダニー飯田とパラダイスキング」で活動を始めた。1960年には東芝音楽工業へ移籍し「悲しき六十才」が初ヒットとなる。’61年10月発売の「上を向いて歩こう」は、海外で“SUKIYAKI”のタイトルで’63年に米ビルボードHot 100で3週連続1位を記録。日本語曲として唯一の快挙である。以後も「見上げてごらん夜の星を」「明日があるさ」など多数のヒットを生み、映画・テレビ・司会など多方面で活躍し、福祉活動にも尽力した。’85年、日航123便墜落事故で43歳で急逝したが、その歌声と笑顔は今も多くの人々に愛され続けている。

守屋浩

1957年、「スイング・ウエスト」のバンドボーイとして芸能界入りし、 ’58年、日劇ウエスタンカーニバルで正式に歌手デビュー。堀威夫のプロデュースで芸名を「守屋浩」とする。代表曲に「僕は泣いちっち」「有難や節」「大学かぞえうた」「星空に両手を」などがあり、これらは当時のロカビリーブームの中で人気を博す。「星空に両手を」は島倉千代子とのデュエットで、約70万枚を売りあげるヒットとなる。 ’76年、歌手・俳優としての主な活動を引退し、ホリプロ(当時堀プロダクション)の社員となり、「ホリプロタレントスカウトキャラバン」を発案・運営。榊原郁恵らアイドルを発掘した。

加山雄三

慶應義塾大学法学部卒業後、1960年に東宝と専属契約を結び、映画『男対男』で俳優デビュー。翌’61年、『大学の若大将』で主演し“若大将”シリーズが始まるとともに、『夜の太陽』で歌手デビュー。’65年には主題歌「君といつまでも」が350万枚を超える大ヒットとなり、日本のポピュラー歌謡界における代表的存在となる。以降、若大将シリーズの俳優としての活躍のみならず、自作曲家(ペンネーム “弾 厚作”)としても名を馳せ、多重録音の導入など音楽的にも先駆的に活動する。

佐川満男

1962年「夜がわかれる」でデビュー。甘いマスクと柔らかい歌声で’63年「今は幸せかい」がヒットし、端正な青春スターとして人気を集める。のちに俳優業にも進出し、誠実な人柄と安定した演技力でドラマなどにも多数出演。歌手としても地道に活動を続けている。

ジェリー藤尾

1962年「悲しき願い」でデビュー。日系カナダ人の出自を持つ俳優兼歌手。「遠くへ行きたい」が代表曲で、同名の長寿番組のテーマとしても有名に。穏やかな語り口と情緒ある歌声で多くのファンを獲得した。俳優業でも活躍し、多文化背景を持つ存在として記憶される。

菅原洋一

’62年にレコードデビューし、’65年発売の「知りたくないの」が’67年に大ヒット、一躍人気歌手となる。’68年に日本レコード大賞歌唱賞、’70年には「今日でお別れ」でレコード大賞を受賞した。「忘れな草をあなたに」などヒット曲も多く、海外の著名アーティストとも共演。丸顔から「ハンバーグ」という愛称がつき、司会など多方面でも活躍。’83年にはシルヴィアとの「アマン」がデュエットの名曲として支持を得た。

アイ・ジョージ

流しの歌手から出発し、1953年に黒田春雄名でデビューするが方向性の不一致でレコード会社を退社し、再び流しとして全国を回る。’59年に大阪の高級クラブ「アロー」で人気を得て専属歌手となり、同年にアイ・ジョージとして再デビュー。以後、『硝子のジョニー』『赤いグラス』などのヒットを放ち、’60~’71年に紅白へ12年連続出場した。カーネギー・ホール公演を果たすなど国際的舞台にも立った。

高石友也

1960年代後半から2020年代まで活動した日本フォーク界の草分け的存在で「受験生ブルース」で知られる。アメリカ民謡の日本語カバーから出発し、反戦フォークの担い手として注目され、のちにブルーグラスや民謡などへ幅広く展開した。多彩な楽器を操り、ザ・ナターシャー・セブンでの活動や「宵々山コンサート」を主宰するなど地域文化にも貢献。テレビ番組の旅企画でも親しまれた。

田辺靖雄

1963年「夜の太陽」でデビュー。スマートな容姿で“和製プレスリー”とも呼ばれ、青春歌謡を中心に活躍する。のちに九重佑三子との「夫婦デュエット」でも知られ、芸能界きってのおしどり夫婦として話題となる。2001年より日本歌手協会理事長としても活動し、歌謡界の発展に尽力。

舟木一夫

1963年6月「高校三年生」でデビュー。学園ソングの代名詞的存在として爆発的ヒットとなった。「修学旅行」「学園広場」など青春歌謡を多く歌い、“橋・舟木・西郷”の御三家の一角として時代を牽引。学ラン姿がトレードマーク。近年も精力的にコンサート活動を続け、シニア層の心をつかんでいる。

三田明

1963年「美しい十代」でデビュー。さわやかな笑顔と高音の澄んだ声で青春歌謡を彩った。「十七才のこの胸に」などヒットを重ね、女性ファンの支持を集めた。のちに俳優や司会業にも活動の幅を広げる。2020年代に入っても歌手活動を継続中で、長年のファンに支えられている。

飯田久彦

1963年「ルイジアナ・ママ」でデビュー、日劇ウエスタンカーニバル出身。明るい歌声とアメリカンスタイルでティーン層に人気を博した。のちに東芝EMIや徳間ジャパンの重役としてプロデューサーに転身し、HOUND DOGや渡辺美里らを育てた。歌手から業界のキーパーソンへと変貌した稀有な存在。

佐々木功

1964年「君の瞳を見つめて」でデビュー。ロカビリー調の歌手として活躍後、’70年代にはアニメソングの王者に。「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」など、雄大で熱い歌唱で“アニソンの帝王”と呼ばれる。俳優・声優としても活動し、現在も尚全国のアニソンイベントに精力的に出演する現役歌手。

西郷輝彦

1964年12月「君だけを」でデビュー。“橋・舟木・西郷”の御三家のひとり。デビュー曲でいきなり大ヒットし、清潔感あるルックスと明朗な歌声で一躍トップアイドルとなる。青春歌謡から演歌まで幅広く歌い、「星のフラメンコ」なども大ヒット。後年は俳優としても活躍、特に時代劇で存在感を示した。

布施明

1965年「君に涙とほほえみを」でデビュー。圧倒的な声量と歌唱力で、歌謡界にクラシックやミュージカルの要素を持ち込んだ。「シクラメンのかほり」「積木の部屋」など大ヒットを連発。紅白出場は20回以上。近年も音楽劇やオーケストラとの共演など精力的に活動しており、日本を代表する本格派歌手の一人。

美川憲一

1965年「だけどだけどだけど」でデビュー。’66年「柳ヶ瀬ブルース」で大ブレイク。独特のコブシと演出力でムード歌謡界を代表する存在となる。’70年代に一時低迷するも、’80年代に再ブレイクし、コロッケのものまねをきっかけに新たな人気を獲得。個性的なキャラクターとともに、歌手としても再評価された。

マイク眞木

1966年、日本のフォーク黎明期を代表するヒット曲「バラが咲いた」でデビュー。爽やかなメロディと平易な歌詞が広く愛され、フォークソングの普及に貢献した。俳優・司会者としても活動し、芸能一家としても知られる。温かみのある歌声とナチュラルな存在感で長く親しまれている。

内田裕也

1967年「恋のカクテル」デデビューした和製ロックのパイオニア。商業歌謡の枠に収まらず、ロックンロールの精神を貫いた異端の存在。映画プロデュースや政治発言でも話題となり、歌手としては「コミック雑誌なんかいらない」など実験的な作品が多く、“ロック界のアウトロー”として伝説的な存在となる。

山田太郎

1963年「清らかな青春」でデビュー。’65年発売の「新聞少年」がヒットし、お茶の間の人気者となる。歌手のほか役者としても活動し、時代劇を中心にドラマに多数出演。馬主としても有名で、日本馬主協会連合会会長、中山馬主協会会長などの要職も務める。

バーブ佐竹

1967年「女心の唄」でデビュー。独特のビブラートと情感たっぷりの歌唱でムード歌謡に新風を吹き込んだ。「女心の唄」は100万枚超の大ヒット。低音の美しさと哀愁を帯びたメロディで中高年層の支持を集めた。私生活でも波乱万丈だったが、その姿がまたファンの心を打った。

美樹克彦

1967年「花はおそかった」でデビュー。都会的な感性と繊細な歌声でデビュー曲は大ヒット。作詞作曲も手がけるマルチな才能で、自己プロデュース型歌手の先駆けとなった。のちに麻丘めぐみなどへの楽曲提供でも知られ、歌謡界の裏方としても貢献。自身の活動も継続中。

尾藤イサオ

1969年「悲しき願い」でデビュー。ブルースとロックの要素を日本の歌謡に融合させた先駆者で、熱唱型でダイナミックな歌唱が特徴。「あしたのジョー」の主題歌などでも知られ、アニメ主題歌やテレビ出演も多い。独自のスタイルを貫き、異色ながらも存在感ある歌手として活躍した。

城卓矢

1969年「骨まで愛して」でデビュー。デビュー曲は大ヒットし、ムード歌謡の名曲として定着した。低音で甘い声と大人の色気を感じさせる歌唱が魅力。’70年代以降は表舞台からやや退くが、昭和歌謡の名歌手として根強い人気を持ち続けた。

ピーター

1969年10月「夜と朝のあいだに」でデビュー。中性的な美貌と艶のある歌声で異彩を放ち、デビュー曲はオリコン1位を記録。俳優としての活動も多く、「新宿鮫」などで実力派として評価された。性別やジャンルを超えた唯一無二の存在として、LGBTQ+の先駆的なシンボルともいわれる。歌手としても独特の世界観で長く愛された。

皆川おさむ

3歳の頃から、自身の叔母が主宰する児童合唱団に所属し『ヤン坊マー坊天気予報』のCMソングなどを歌う。1969年、6歳の時、イタリアの動揺を日本語でカバーした「黒ネコのタンゴ」でデビューすると、オリコンのシングルチャート14週連続1位という大ヒットとなり、一躍国民的幼児歌手となる。その後は一時芸能活動から離れるも、大人になってから舞台俳優として復帰。童謡歌手としての評価も高く、子ども番組などでも活躍した。レコードは現在も懐メロ番組で紹介されることが多い。

上條恒彦

高校卒業後1958年に長野から上京、住み込み雑貨店員や新聞配達など様々なアルバイトをしながら「歌声喫茶」で歌唱力を磨いた。’69年「雨よ降れ」で歌手としてレコードデビュー。’71年、「六文銭」と共演した「出発の歌」がヒットし、同年世界歌謡祭グランプリ・歌唱賞を受賞。’72年にはNHK紅白歌合戦に初出場し、時代劇『木枯し紋次郎』の主題歌「だれかが風の中で」が広く知られるヒット曲となる。歌手活動と並行して俳優・舞台俳優としても活動。「3年B組金八先生」で教師役を務め、舞台では『ラ・マンチャの男』の牢名主役など長期間にわたる出演を継続。声優としてもアニメや映画に声を寄せた。

男性歌手・アイドル > 1970年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

沢田研二

1967年、ザ・タイガースのボーカルとしてデビュー。愛称の”ジュリー”は本人の発案で、女優のジュリー・アンドリュースが好きだったことから。タイガース解散後に萩原健一らと新グループPYGを結成後、’71年に「君をのせて」でソロデビュー。PYGは個々の活動に重心が移り形骸化した後に自然消滅した。’73年の「危険なふたり」がオリコン1位を獲得し、’75年「時の過ぎゆくままに」がTBSドラマ『悪魔のようなあいつ』の挿入歌となり大ヒットした。ビロードのような声で放たれる圧倒的な歌唱、中性的な美貌と色気、独特のファッションとパフォーマンスでジュリー全盛期が到来し「勝手にしやがれ」ほか続々とヒット曲を連発、数々の音楽大賞を総ナメにし歌謡界を席巻する。未だにその人気と存在感を超える歌手はいないとも言われる、昭和歌謡界のスーパースター。

萩原健一

1967年、ザ・テンプターズのボーカルとしてデビュー。ショーケンの愛称で親しまれ「神様お願い!」や「エメラルドの伝説」などのヒット曲で一躍人気を博す。テンプターズ解散後、’71年に沢田研二らとロックバンドPYGを結成するも、並行して松竹映画『約束』やテレビドラマ『太陽にほえろ!』などで俳優活動も開始、マカロニ刑事役で人気を確立する。その後はNHK大河ドラマや日本テレビ『傷だらけの天使』『前略おふくろ様』ほか多数の映画作品でも主役を務め、俳優としての才能が高く評価され、後進にも大きな影響を与える存在となる。音楽活動も継続し、’79年の「大阪で生まれた女」’87年の「愚か者よ」がヒット。2019年、68歳で永眠した。

'70年代の音楽番組

’70年代の代表的な音楽番組は『夜のヒットスタジオ』(フジTV系、’68-’90年)、『ザ・ベストテン』(TBS系、’78–’89年)、『ステージ101』(NHK、’70–’74年)『ベスト30歌謡曲』(テレビ朝日系、’72-’76年、’78-’79年)『シオノギ ミュージックフェア』(’64年-)。夜ヒットは生演奏とフルコーラスにこだわり、アイドルからニューミュージック、ロック、演歌、海外アーティストも出演。オープニングのリレー方式で歌がつながる「オープニングメドレー」が名物で22年にわたり放送され人気を集めた。また、ザ・ベストテンはオリコンに準じたランキング形式で毎週のヒット曲を発表。視聴者からの投票(ハガキ)が評価に反映されるスタイルでランクインした出演者がミラーの扉から登場し、最高視聴率は41.9%を記録するなど国民的番組となった。黒柳徹子が司会を務めた。

郷ひろみ

1972年、NHK大河ドラマ『新・平家物語』出演を経て「男の子女の子」で歌手デビュー。中性的な魅力と華やかなルックスで人気を博し、「小さな体験」「よろしく哀愁」などのヒットを連発。西城秀樹、野口五郎と共に「新御三家」と呼ばれ’70年代のトップアイドルとなる。’80年代には「お嫁サンバ」「哀愁のカサブランカ」などで新たなイメージを打ち出し、以降も時代ごとに変化を取り入れた活動を展開。’99年「GOLDFINGER ’99」の大ヒットで再ブレイクし、その後も「2億4千万の瞳」など代表曲と共に精力的なライブ活動を続ける。長年にわたり第一線で活躍し続ける国民的スター。

西城秀樹

1972年「恋する季節」で歌手デビューし、圧倒的な歌唱力と情熱的なパフォーマンスで注目される。その後「激しい恋」「傷だらけのローラ」など次々とヒットを飛ばし、野口五郎、郷ひろみと共に「新御三家」として’70年代の歌謡界をけん引。’79年の「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」は200万枚を売り上げる国民的ヒットとなり、明るく健康的なイメージで幅広い世代に支持された。『寺内貫太郎一家』などドラマ・舞台・CMでも広く活躍した。2003年以降、脳梗塞の後遺症と闘いながらも歌手活動を続け、懸命にステージに立つ姿は多くの人々に感動を与えた。2018年に惜しまれつつ逝去。その情熱と努力は今も語り継がれている。

野口五郎

1971年「博多みれん」で演歌歌手としてデビューするもヒットせず、同年「青いリンゴ」で再デビューし、アイドルとして人気を博す。’72年「めぐり逢う青春」、’73年「オレンジの雨」、’74年「甘い生活」など、筒美京平らの手による叙情的な歌謡曲でヒットを重ね、郷ひろみ・西城秀樹と共に「新御三家」と呼ばれ活躍する。’70年代後半は「私鉄沿線」「針葉樹」「むさし野詩人」など大人の雰囲気の作品でも評価を得た。’80年代以降は俳優業や音楽活動を並行しつつ作曲家としても活動。近年もコンサートやメディア出演を継続しており、長年にわたって多方面で活躍を続けている。

にしきのあきら

1970年、CBSソニーより「ソニー演歌の騎士」として歌手デビューし、デビュー曲「もう恋なのか」で日本レコード大賞・最優秀新人賞を受賞、紅白歌合戦にも初出場した。翌’71年には「空に太陽がある限り」がオリコン週間3位の大ヒットとなり、代表曲となった。’70年代前半から中期にかけて、抜群の歌唱力と精悍なルックスで人気を博し、トランペットの演奏やスポーツ万能ぶりも話題となる。’70年代後半からは映画『野良猫ロック ワイルド・ジャンボ』『戦国自衛隊』、ドラマ、バラエティと幅広く活躍し、『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』などで“スターにしきの”の愛称で再注目を浴びた。

子門真人

1970年代から多数の特撮・アニメ主題歌を歌ったシンガーで’80年代も音楽界で活躍を続けた。’71年の『仮面ライダー』の主題歌「レッツゴー!!ライダーキック」の大ヒットで注目を集め、その後も円谷プロ作品など多くの主題歌を担当。『ひらけ!ポンキッキ』で’75年に発表された「およげ!たいやきくん」はオリコン史上初の初登場1位の快挙とともにミリオンヒットとなり、国民的歌声として知られるようになった。アフロヘアと眼鏡の風貌やコミカルな楽曲でも人気を博し、子ども番組や主題歌を通じて幅広い層に親しまれたが、代表曲となる2曲はいずれもアルバイト料や買取で歌唱したもので、多額となったはずの歌唱印税は受け取っていないとされる。

尾崎紀世彦

1960年に「ヒロ・ハワイアンズ」でバンド活動を開始し、’67年からコーラス・グループ「ザ・ワンダース」で活躍。’70年8月に「別れの夜明け」でソロ歌手としてデビューするが、交通事故による入院で宣伝ができず苦戦。’71年3月リリースのセカンドシングル「また逢う日まで」が100万枚超の大ヒットを記録し、日本レコード大賞・日本歌謡大賞の大賞をダブル受賞。第22回NHK紅白歌合戦へも出場する。代表曲には「さよならをもう一度」や「雪が降る」などもあり、パワフルなバリトン歌唱と印象的なもみあげがトレードマーク。2012年5月30日に肝臓がんにより69歳で逝去、没後は特別功労賞や「大衆音楽の殿堂」入りを果たしている。

本郷直樹

1971年、『スターへばく進!!』という日本テレビのオーディション番組でグランドチャンピオンとなり、同年8月に「燃える恋人」で歌手デビュー。この曲で第13回日本レコード大賞新人賞を獲得し、“和製プレスリー”と呼ばれ人気を博した。以降は歌手活動と並行して俳優としても活躍し、ドラマ『アイちゃんが行く!』『特捜最前線』、映画『新・同棲時代―愛のくらし―』など多数に出演。’89年以降は演歌路線にイメージチェンジしつつ活動を続行。その後も困難な闘病生活を乗り越えながら芸能活動を継続し、2021年に心筋梗塞のため逝去した。

田中星児

1970年、NHKの音楽番組『ステージ101』のヤング101の一員として出演し、これが歌手としてのデビューのきっかけとなる。翌’71年より幼児番組『おかあさんといっしょ』の初代“うたのおにいさん”を務め、幼児番組界をけん引 。’76年、シングル「ビューティフル・サンデー」が大ヒットし、オリコン最高4位、紅白歌合戦初出場を果たす。以降も「北風小僧の寒太郎」などの楽曲で親しまれ、作曲家として「中山竜」のペンネームでNHK『みんなのうた』にも作品を提供し、幅広い世代に愛される存在となる。

伊丹幸雄

高校中退後、ザ・ワイルドワンズの付き人を経て1972年にCBSソニーから「青い麦」で歌手デビューし、オリコン22位を記録した。ワイルドワンズだった加瀬邦彦氏のプロデュースが功を奏し、当時は西城秀樹、田頭信幸とともに「新人三羽烏」と称された。以後「合言葉」「僕だけひとりぼっち」などシングルを発表し、ネオGSの旗手として活動。’80年代以降は俳優としても多くのドラマ・映画に出演し、バラエティ番組『オレたちひょうきん族』ではユニークなキャラクターも演じた。

丸山明宏(美輪明宏)

16歳でプロ歌手として活動を開始し、1957年、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」で「メケ・メケ」が大ヒットして一躍注目される歌手となった。’65年、シンガーソングライター的手法で制作・発表した「ヨイトマケの唄」が大きな話題となり、心に響く歌詞で再評価される。以降、俳優、演出家、声優、ナレーター、コメンテーターとしても活躍を広げ、文化人としての地位を築く。現在もテレビ・ラジオ番組や執筆、舞台など多岐にわたる活動を続け、唯一無二の存在として第一線に立ち続けている。

城みちる

1973年、中学3年でオーディション番組『スター誕生!』第7回チャンピオンに輝き、父の反対を押し切って芸能界入りした。’73年12月『イルカにのった少年』で東芝EMIから歌手デビュー、50万枚超のヒットとなり、日本レコード大賞新人賞を受賞。童顔で細身のルックスと確かな歌唱力で、「新新御三家」の一人と称されるほどの人気アイドルとなる。’77年、父との約束に従い10枚目のシングル発売後、20歳で歌手を引退し実家の電器店を継ぐため広島に戻る。

あおい輝彦

1962年、ジャニーズの創設メンバーとして芸能界入りしデビュー。’67年にグループ解散後はソロ歌手および俳優・声優へ転身。’68年にドラマ『おやじ太鼓』で俳優デビュー、’70年にはアニメ『あしたのジョー』で主人公・矢吹丈の声優を務めた。’71年シングル「二人の世界」がヒット、その後’76年の「あなただけを」がオリコン週間1位を6週連続獲得し紅白にも初出場した。俳優としては’88年から2000年まで『水戸黄門』で“助さん”役を12年間務め、幅広い世代に親しまれた。

あいざき進也

1973年、オーディション番組『スター・オン・ステージ あなたならOK!』でグランドチャンピオンに輝き、翌’74年1月「気になる17才」でデビュー。小柄な体型と中性的で甘い歌声、さらにバク転も披露する運動神経の良さから“元祖アクロバットアイドル”と称され、’70年代のアイドル全盛期に人気を博す。デビュー初期には「新新御三家」の一人として注目され、第1回FNS歌謡祭新人賞を受賞するなど華々しいスタートを切って活躍した。

中村雅俊

慶應義塾大学卒業後、1973年に文学座附属演劇研究所に入所し、’74年に日本テレビ系ドラマ『われら青春!』の主役に抜擢され俳優デビュー。挿入歌「ふれあい」で歌手デビューし、オリコンで10週連続1位を獲得するなどの大ヒットとなる。以降、俳優としてテレビドラマ34本を含む100本以上の主演作を持ち、映画や舞台にも出演。歌手としてもシングル55枚、アルバム41枚をリリースし、毎年全国コンサートツアーを開催。’82年には『第33回NHK紅白歌合戦』に初出場し、歌手としても人気を博す。

豊川誕

1975年4月「汚れなき悪戯」でデビュー。ジャニーズ事務所出身で、甘いルックスと歌声で人気を集めた。捨て子で、孤児院で育った時代を持つという生い立ちを隠さず、その背景を彷彿とさせる歌詞の2ndシングル「星めぐり」が10万枚を超えるヒットとなる。その後は歌手活動を経てプロボクサーやカーレーサー、ギフトショップの経営など多岐にわたるジャンルで活動、また2000年代に入ってからも歌手活動を行っている。

井上純一

1975年「恋人ならば」でレコードデビュー。デビュー時のキャッチフレーズは”ポストひろみ”だった。歌手としては目立つヒットはなかったものの、『ゆうひが丘の総理大臣』ほか多数のドラマ作品に出演し、お茶の間に馴染み深い俳優となった。

清水健太郎

TBSの人気番組『ぎんざNOW!』に出演し注目を集め、1976年11月「失恋レストラン」で歌手デビュー。同曲は翌年にかけて大ヒットし、’77年の新人賞を総ナメにした。以降は歌手と並行して俳優として活動し多数のドラマにも出演するも、薬物や交通事故などの不祥事も多く、表舞台から遠ざかった後、Vシネマで復活した。

太川陽介

1976年「陽だまりの中で」で歌手デビュー。’77年の「Lui-Lui」がヒットし、同年の新人賞を数々の音楽賞で受賞した。’79年にはNHKの人気音楽番組『レッツゴーヤング』の司会を務めるなどトーク力の高さでタレントとして多方面で活躍し、近年も『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』シリーズなどで親しまれる。配偶者は女優の藤吉久美子。

草川祐馬

1973年、よみうりテレビの視聴者参加番組で西城秀樹のモノマネで優勝しスカウトされ、’75年「若者時代」でレコードデビュー。歌手活動とともに俳優としてドラマ出演も多く、NHKの連続テレビ小説や『暴れん坊将軍』『必殺シリーズ』『水戸黄門』などの時代劇でも活躍する。

川崎麻世

西城秀樹の真似で出演したよみうりテレビの視聴者参加番組でグランドチャンピオンとなり、ジャニーズ事務所にスカウトされ、1976年「ラブ・ショック」でデビュー。ルックスの良さでブロマイドがヒットし、NHKの音楽番組『レッツゴーヤング』に”サンデーズ”の一員として起用され人気アイドルとなる。

森田健作

1975年「さらば涙と言おう」は青春ドラマ「おれは男だ!」の人気絶頂期にリリースされた主題歌で、爽やかな青春像の象徴としてヒット。歌手というよりは“青春スター”としての存在感が強く、その明朗なキャラクターが当時の若者に強く支持された。後に政治家としても活動。

湯原昌幸

1970年、ソロ歌手として「見知らぬ世界」でデビュー、翌年の「雨のバラード」が累計120万枚を売り上げる大ヒットへ。以降、マルチタレントとして司会や俳優、パネラー、レポーターとしても活躍。明快なトークと温かいキャラクターでお茶の間に親しまれた。2003年には「冬桜」がロングセラーとなり、第37回日本有線大賞・有線音楽優秀賞を受賞。以降も歌手活動を並行して継続する傍ら、講演やテレビ、地域イベントにも精力的に出演。荒木由美子との“おしどり夫婦”ぶりも知られる。

石橋正次

1970年、日活映画『非行少年 若者の砦』および『あしたのジョー』で俳優デビュー。同年、舞台俳優としての下地を固める。’72年に歌手として「夜明けの停車場」を発表しこの曲がヒットを記録。同年の第23回NHK紅白歌合戦に出場した。俳優としては『飛び出せ!青春』『アイアンキング』などのテレビドラマに多数出演し、不良少年役から刑事、時代劇、助演まで幅広く活躍。その後も舞台出演を続け、名バイプレーヤーとして多方面で活躍を続ける。

松崎しげる

1970年、シングル「8,760回のアイ・ラブ・ユー」でソロ歌手としてデビュー。当初はCMソング歌手として活動し、’72年の「黄色い麦わら帽子」がスマッシュヒットとなる。’76年にスペイン・マジョルカ音楽祭で「愛の微笑」が最優秀歌唱賞・第2位を獲得し、翌’77年に「愛のメモリー」としてリリースされ大ヒット。日本レコード大賞歌唱賞を受賞し、紅白にも初出場した。俳優・タレントとしても人気を獲得し、TBSの人気刑事ドラマ『噂の刑事トミーとマツ』の主演を務めた。その後も「ディナーショーキング」の異名にふさわしい精力的なライブ活動を続ける。

かまやつひろし

1958年よりロカビリー歌手として活動を始め、’60年に「殺し屋のテーマ/皆殺しの歌」でレコードデビュー。その後、’63年に「ザ・スパイダース」に加入し、作詞・作曲したデビュー曲「フリフリ」で人気の中心となる。’70年の同バンド解散後ソロへ転向し、’70年に独り録音による先駆的録音アルバム『ムッシュー』を発表。’75年には吉田拓郎作詞の「我が良き友よ」が大ヒットし世代を超えた支持を獲得した。以後もフォークやポップ、ジャズなど幅広いジャンルで活動を続け、メディアでも“ムッシュかまやつ”として親しまれた。

寺尾聰

1965年にGSバンド「ザ・サベージ」のベーシストとしてレコードデビューし、’68年に映画『黒部の太陽』で俳優デビュー。父は新劇界を代表する俳優・演出家の宇野重吉。その後は石原裕次郎率いる石原プロ所属の“石原軍団”としてドラマ『大都会』『西部警察』で刑事役を多く演じ、俳優としての存在感を確立。歌手としては’81年リリースのシングル「ルビーの指環」が大ヒットし、第23回日本レコード大賞をはじめ多くの賞を受賞し、アルバム『Reflections』は約164万枚の売上と記録的な成功を収めた。以後は音楽と俳優の両面で活躍し、唯一日本レコード大賞と日本アカデミー賞主演男優賞を同時に受賞したアーティストでもある。

細野晴臣

1969年、ロックバンド「エイプリル・フール」のベーシストとしてデビューし、’70年には大瀧詠一らと共に「はっぴいえんど」を結成、日本語ロックの基礎を築く。’73年よりソロ活動を開始し「ティン・パン・アレー」としても多彩な音楽表現を追求。’78年には坂本龍一、高橋幸宏とともにYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)を結成し、エレクトロニック音楽で世界的な人気を獲得。その後もソロ、プロデューサー、作曲家として活動し、ワールドミュージック、アンビエント、ゲーム音楽などジャンルの壁を超える多彩な展開を続けている。

小室等

多摩美術大学在学中の1963年に、ピーター・ポール&マリーに影響を受けたフォークグループ「PPMフォロワーズ」を結成しデビュー。その後’68年に「六文銭」を結成し、’71年には上條恒彦と共演した「出発の歌」で世界歌謡祭グランプリを受賞した。ソロでは’71年に「雨が空から降れば」でデビューし、’75年に井上陽水らとフォーライフ・レコードを設立、初代社長に就任する。自身の歌手活動に加え、テレビドラマや映画の音楽制作、ラジオパーソナリティ、コラム執筆など多岐にわたり活躍を続けている。。

大滝詠一

1969年「ヴァレンタイン・ブルー」(後のはっぴいえんど)に加入し、’70年にバンド・はっぴいえんどとしてデビューし日本語ロックを確立。’72年にソロ1stアルバム『大瀧詠一』を発表し、’74年には自身のレーベル「ナイアガラ・レーベル」を設立。’75年『Niagara Moon』をリリース。’78年の『Let’s Ondo Again』など斬新な企画も手がける。’81年、ソロ最大のヒット作『A LONG VACATION』が日本レコード大賞・最優秀アルバム賞を受賞、ミリオンセラーを記録し、日本のシティポップの金字塔となる。プロデューサー、作曲家としても後進を育成し、音楽文化に多大な影響を与え続けた。

南こうせつ

1970年にレコードデビューし、すぐにフォークグループ「かぐや姫」を結成。「神田川」「赤ちょうちん」「妹」などのヒットでミリオンセールスを連発し、’70年代フォークを代表する存在となった。解散後もソロとして「夏の少女」「夢一夜」など数々のヒットを生み、独自の語り口と音楽性で人気を博す。’75年には吉田拓郎と共に伝説的な野外オールナイト・コンサートを開催し、’76年には日本人ソロ歌手として初の武道館ワンマンも成功させた。さらに’80年代には「サマーピクニック」やチャリティ「広島ピースコンサート」など大型イベントも主導し、音楽を通じた社会的活動にも貢献した。

よしだたくろう

1970年6月、広島フォーク村のオムニバスに収録された「イメージの詩」でソロ歌手としてデビューし、翌年の全日本フォークジャンボリーでの「人間なんて」の歌唱が伝説となる。’72年「結婚しようよ」「旅の宿」が立て続けにヒットし、ミリオンセラーを記録。全国ツアーの先駆けとなり、音楽シーンに新たな潮流を生んだ。’75年には井上陽水らと共にフォーク系アーティスト主体のレーベル「フォーライフ・レコード」を設立し自主運営のモデルを確立。野外での大規模オールナイトライブ「つま恋コンサート」など革新的な活動で、シンガーソングライター文化の基礎を築いた。

岡林信康

1968年、「山谷ブルース」でレコード・デビュー。社会の底辺に生きる人々への視線を持つプロテスト・フォークを展開。「友よ」「手紙」などのメッセージ性の強い楽曲により“フォークの神様”と称される存在となった。’70年代初頭はギターのエレクトリック化やロックへの転換を模索し、バックバンドとしてHappy Endを起用する革新的な動きを見せた。その後は京都の山村に移住し、演歌や民謡のリズムも取り入れた独自の音楽性「エンヤトット」を確立。以降も精力的にライブ活動や音楽制作を継続している。

加藤和彦

1960年代後半、ザ・フォーク・クルセダーズのメンバーとして音楽活動を開始。’71年にはサディスティック・ミカ・バンドを結成し、日本のロックシーンに新風を吹き込んだ。その後はソロ活動や他アーティストへの楽曲提供、映画音楽の制作など、多方面で活躍。代表曲「あの素晴しい愛をもう一度」などを手掛け、日本の音楽シーンに多大な影響を与えた。彼の活動は音楽だけでなく、演劇や映画などの分野にも広がり、日本の音楽文化の発展に貢献した。

上條恒彦

東京・大森の雑貨店住み込みから新聞配達、うたごえ喫茶「灯」での歌唱など多彩な職を経て声を鍛え、1964年に労音勤務を機に歌手活動を始めた。’70年にNHK『ステージ101』へ出演し、翌年「六文銭」と共演した「出発の歌」でポピュラーソング・フェスティバルと世界歌謡祭のグランプリを受賞。’72年には紅白歌合戦初出場、「木枯し紋次郎」の主題歌「だれかが風の中で」が大ヒットした。俳優として『3年B組金八先生』で注目され、声優としても『リトル・マーメイド』のセバスチャン役などで知られる。

小椋佳

1967年に東大法学部を卒業し、日本勧業銀行に入行。銀行員として勤務しながら’71年に歌手デビューを果たす。’75年、布施明に提供した「シクラメンのかほり」が大ヒットし、作詞・作曲家としても注目される。銀行の理解を得て音楽活動を続け、’76年のNHKホール公演には11万通の応募が殺到、ライブ盤『遠ざかる風景』は大きな成功を収めた。その後、担当顧客だった資生堂の宣伝部長の依頼で資生堂CMソング「揺れるまなざし」などを生み出し、CM音楽の新時代を拓く。’93年に退職後は東大に再入学し、哲学修士号を取得。布施明、美空ひばり、中村雅俊ら多くの歌手に300曲以上を提供し、日本の叙情歌世界を確立した。

山本コウタロー

一橋大学在学中、フォークグループ「ソルティー・シュガー」を結成し、1970年に「走れコウタロー」を発表。この曲はコミカルな歌詞とキャッチーなメロディーで話題を呼び、同年の日本レコード大賞新人賞を受賞した。その後’74年には「山本コウタローとウィークエンド」を結成し、シングル「岬めぐり」をリリース。この曲も大ヒットし、彼の代表作となった。音楽活動にとどまらず、テレビ司会やラジオパーソナリティとしても活躍。また、平和や環境問題への関心から、広島でのチャリティコンサート「広島ピースコンサート」を企画・開催するなど、社会活動にも力を入れた。 2022年7月4日、脳内出血により73歳で死去。

泉谷しげる

1971年、ライブ盤『泉谷しげる登場』でフォークシンガーとしてデビューし、荒々しい歌声とぶっきらぼうなステージで注目を集める。’72年に発表した代表曲「春夏秋冬」が大ヒットし確固たる地位を築く。’75年には吉田拓郎、井上陽水、小室等と共にアーティスト主体のレーベル「フォーライフ・レコード」を設立し、業界に革新をもたらした。以降はシンガーソングライターとして活躍する一方、俳優や絵画、料理ライブ、社会貢献活動にも積極的に取り組み、多才な活動を続けている。

なぎら健壱

1970年、中津川・全日本フォークジャンボリーに飛び入り参加し注目を集め、’72年にアルバム『万年床』でデビュー。 ’74年には「悲惨な戦い」が話題となり、放送禁止ながらヒットを記録する。また、’75年12月に幼児向け番組『ひらけ!ポンキッキ』で発表され大ヒットした「およげ!たいやきくん」のB面、「いっぽんでもニンジン」も代表曲として知られる。以降はカントリーフォークを基調に、俳優、タレント、エッセイストとしてもマルチに活躍。バラエティやテレビ、ラジオ、執筆活動にも定評があり、下町文化への深い造詣を武器に“語り部”として支持されている。

井上陽水

1969年、「アンドレ・カンドレ」の名義で「カンドレ・マンドレ」でデビュー。’72年、本名の井上陽水名義で「人生が二度あれば」で再デビューし、同年発表のアルバム『断絶』収録の「傘がない」が若者の心をつかみ注目を集める。’73年以降、『氷の世界』『二色の独楽』などのアルバムがミリオンセールを達成し、日本の音楽シーンをアルバム中心へと導く重大な存在となった。その独自の世界観と卓越した作詞作曲・歌唱力により音楽界で確固たる地位を築き、’90年9月に東宝映画『少年時代』(監督・篠田正浩、原作・藤子不二雄Ⓐ)の主題歌として制作された「少年時代」は、CMや学校教材などにも採用されロングセラーの名作となる。2020年代に入ってもカバーやメディア使用が相次ぎ、世代を超えて愛され続けている。

あがた森魚

1969年、上京して明治大学に進学し音楽活動を開始。’71年、フォークグループ「はちみつぱい」と共に中津川フォークジャンボリーに出演し注目を集める。’72年、キングレコードのベルウッド・レコードからシングル「赤色エレジー」でメジャーデビュー。この曲は林静一の同名漫画にインスパイアされ、フォークロックと日本の大正浪漫を融合させた独自の世界観でヒットを記録。その後もアルバム『乙女の儚夢』『噫無情』『日本少年』などを発表し、’70年代の日本の音楽シーンにおいて重要な存在となる。

谷村新司

1971年、堀内孝雄、矢沢透と共にフォークグループ「アリス」を結成し、’72年にシングル「走っておいで恋人よ」でデビュー。’75年「今はもうだれも」、’77年「冬の稲妻」などのヒットによりグループは注目を集める。’78年にアリス解散後ソロ活動を開始し、’80年に発表した「昴(すばる)」が大ヒット。その後も「群青」「22歳」などのヒット曲を生み出し、シンガーソングライターとしての地位を確立。また、作詞家・作曲家としても活躍し、山口百恵の「いい日旅立ち」や加山雄三との共作「サライ」など多くのヒット曲を手掛けた。2023年、74歳で逝去するまでアジア各国での活動も積極的に行い、国際的な音楽交流にも貢献した。

矢沢永吉

1972年、ロックバンド「キャロル」のボーカルとしてデビューし、若者を中心に熱狂的な支持を得る。’75年キャロル解散後ソロ活動を開始。9月21日、シングル「アイ・ラヴ・ユー、OK」、アルバム「I LOVE YOU,OK」でソロデビューを果たす。初期のライブツアーではファンの反発に直面しつつも着実に支持を広げ、’77年には日本武道館で初の単独ライブを成功させる。以降、精力的なライブ活動を展開し、オリコンアルバムランキングベスト10入り最多記録(51作)を保持するなど、ロック界のカリスマとして君臨し続けている。

ばんばひろふみ

1971年、高山厳・今井弘志とフォークグループ「バンバン」を結成。「いちご白書をもう一度」(’75年、荒井由実作詞作曲)がミリオンセラーとなり一気に脚光を浴びる。バンバン解散後の’78年ソロ活動へ転身し、「SACHIKO」(’79年)はヒット曲として知られる。以降、深夜ラジオ番組「ヤングタウン」「セイヤング」で人気パーソナリティーとして活躍。俳優としてもNHK連続テレビ小説『わかば』や『水戸黄門』などに出演し、多彩な活動を続けている。

さだまさし

1972年、吉田政美とフォークデュオ「グレープ」を結成、’73年『グレープ』として「精霊流し」でメジャー・デビュー。「精霊流し」は1974年にオリコン2位を記録するヒットとなる。’76年の解散後、’77年にソロアルバム『帰去来』を発表しソロ歌手として本格始動。’77〜’80年代には「雨やどり」「案山子」「関白宣言」など数々の代表曲を世に送り出し、トップシンガーとしての地位を確立する。温かな語り口と独自の世界観で全国を熱くし、ソロコンサートの通算公演回数は4,400回を超える日本記録を誇る。作家や俳優、小説家としても多彩に活動し、現在も文化的影響が非常に大きい人物。

南佳孝

1972年、『リブ・ヤング!』シンガーソングライターコンテストで3位入賞し、’73年9月、松本隆プロデュースによるアルバム『摩天楼のヒロイン』でデビュー。洗練された都会派シティポップの旗手として注目される。’76年の移籍後は全曲作詞作曲のアルバム『忘れられた夏』を発表しソングライターとしての才能を発揮。’79年には「モンロー・ウォーク」がヒットし、郷ひろみによるカバー(「セクシー・ユー」)でも話題に。’81年に映画主題歌「スローなブギにしてくれ」で再び注目を集める。以降、楽曲提供、プロデュース、CM・ナレーション、ラテンやジャズ、ボサノヴァへの展開など、多彩な音楽活動を現在も続けている。

上田正樹

1972年12月「金色の太陽が燃える朝に」でデビュー。’74年に「上田正樹とサウストゥサウス」を結成。’75年に「この熱い魂を伝えたいんや」を発表し注目を浴びた。その後ソロ活動を開始し、’83年には「悲しい色やね」がシングルチャート1位となるなど、数々のヒットを飛ばした。また、Ray CharlesやB.B. King、Junior Wellsなどのブルースアーティストと共演し、Tower of PowerやWar、Ike & Tina、Neville BrothersなどのR&Bバンドとも共演を果たした。2001年にはインドネシアの歌姫REZAとデュエットし「Forever Peace」が17週間連続1位を獲得するなど、アジアでも高い評価を得ている。現在も年間100本以上のライブをこなし、アルバムも毎年コンスタントに発表している。

タケカワユキヒデ

東京外国語大学在学中の1975年、全曲英詞のアルバム『走り去るロマン』でソロアーティストとしてデビュー。翌’76年、ミッキー吉野らと共にバンド「ゴダイゴ」を結成し、作曲とボーカルを担当。「ガンダーラ」「モンキー・マジック」「銀河鉄道999」「ビューティフル・ネーム」など数々のヒット曲を生み出し、グループの人気を牽引。’85年のゴダイゴ活動休止後はソロ活動を再開し、他のアーティストへの楽曲提供やプロデュースを手掛けるなど幅広い音楽活動を展開。また、テレビやラジオの出演、講演活動など、多方面で活躍している。近年では、三女・武川基らと「T’s COMPANY」を結成し、親子での音楽活動も行っている。

浜田省吾

1972年、広島時代の音楽仲間と共にロックバンド「愛奴(AIDO)」を結成し、’75年にドラマーとしてプロデビュー
するも、シンガーソングライターとしての道を志し、’76年にソロデビューを果たす。シングル「路地裏の少年」とアルバム『生まれたところを遠く離れて』でソロ活動を開始し、その後、毎年コンスタントにシングルとアルバムをリリース 。’82年には自身のツアーを“ON THE ROAD”と名付け、数多くのツアーや大規模野外コンサートを成功させ、’98年からは4年がかりで世紀をまたぐ全196公演・延べ動員数約60万人という他に類を見ないロングツアーを敢行するなど、常に変わらないスタンスで活動を続けている。代表曲は「悲しみは雪のように」(’81年)や「もうひとつの土曜日」(’85年)ほか。

桑名正博

1972年、ロックバンド「ファニー・カンパニー」を結成し「スウィートホーム大阪」でデビュー。’74年の解散後、’75年よりソロ活動を開始し、「哀愁トゥナイト」「サード・レディー」などを発表。’79年のカネボウのCMソング「セクシャルバイオレットNo.1」は大ヒットし、彼の代表作となった。’80年、当時人気を博していた歌手のアン・ルイスと結婚し愛息に恵まれるも’84年に離婚。その後は家業の廻船問屋を継ぐため故郷の大阪に戻り、事業を営むなどした。2012年10月、心不全により59歳で逝去。晩年は社会貢献活動にも熱心に取り組んでいた。

山下達郎

1975年、シュガー・ベイブとしてシングル「DOWNTOWN」とアルバム『SONGS』でデビュー。その後バンド活動を経て’76年にソロ活動を開始。’80年のシングル「RIDE ON TIME」が大ヒットし、広く知られるようになった。’83年のアルバム『MELODIES』に収録された「クリスマス・イブ」は、’89年にオリコンチャートで1位を記録し、30年以上にわたりチャートインし続けるなど、日本のクリスマスソングの定番となった。また、妻である竹内まりやの全作品のアレンジやプロデュースを手掛けるなど、音楽プロデューサーとしても活躍している。

因幡晃

秋田県出身。高校卒業後、父と同じく鉱山技師として働く傍ら作曲を始め、1975年に「わかって下さい」で第10回ヤマハ・ポピュラーソングコンテスト最優秀曲賞を受賞し、同年の第6回世界歌謡祭でも入賞を果たす。この成果を契機に’76年にディスコメイトレコードから同曲でデビューを果たす。「わかって下さい」は長期間にわたりベストテン入りとなった。その後エピック・ソニー、バップ、プラッツ、日本コロムビアなどのレコード会社を経て、2014年には杉田二郎、堀内孝雄、ばんばひろふみ、高山厳と共にスーパーユニット「ブラザーズ5」を結成、ソロ活動と並行してライブ活動を行っている。

高中正義

1971年、高校在学中にグループ「フライド・エッグ」へベーシストとして参加したのがプロ活動のきっかけ。’72年にギタリストとして「サディスティック・ミカ・バンド」に加入し本格的に活動を始める。’76年、ソロ・デビュー・アルバム『Seychelles』を発表し、トロピカルでメロディアスなギター・インスト曲を得意とするスタイルを確立
。’79年の『Jolly Jive』収録「Blue Lagoon」で人気が爆発し、’81年にはコンセプトアルバム『虹伝説』で日本レコード大賞企画賞を受賞。’82年『Saudade』はオリコン・アルバムチャート1位を記録するなど、インスト・フュージョン界の先駆者として第一線で活躍を続ける。

来生たかお

1974年に作曲家としてデビューし、’76年10月には「浅い夢」でシンガーソングライターとしてソロ歌手デビューを果たす。’81年に自身が歌った「夢の途中」がヒットし、薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」主題歌のセルフカバーとしても知られる。シンガー活動と並行し作曲家としても活躍し、大橋純子「シルエット・ロマンス」、中森明菜「セカンド・ラブ」「スローモーション」、しばたはつみ「マイ・ラグジュアリー・ナイト」など多数のヒット曲を提供した。現在まで約400曲を手掛けるシンガーソングライターとして精力的に活動中。

やしきたかじん

1976年、クニ河内プロデュースのアルバム『TAKAJIN』とシングル「ゆめいらんかね」でメジャー・デビュー。’81年にはアニメ映画『機動戦士ガンダム』テーマ曲「砂の十字架」を歌い注目を集める。’82年に大阪へ戻り、以後は関西を拠点に活動。代表曲に「やっぱ好きやねん」(’86)、「あんた」(’84)、「東京」(’93)などがあり、大阪愛を込めた歌詞と情熱的な語り口で、関西で絶大な人気を誇った。テレビ司会やラジオパーソナリティとしても活躍し、関西ローカルの顔として愛された。2014年1月、食道がんで逝去した。

岸田智史

1976年、“岸田智史”名義で「蒼い旅」で歌手デビュー(作詞・谷村新司、作曲・岸田智史)。続く’79年、自身の出演ドラマ『愛と喝采と』の挿入歌だった「きみの朝」が大ヒット(オリコン1位、年間15位)し、代表曲となる。同年発表のアルバム『モーニング』も成功し歌手として確固たる地位を確立。俳優としても『1年B組新八先生』や『渡る世間は鬼ばかり』などに出演し活動を広げ、ミュージカルやナレーターなど多方面でも活躍。

松山千春

1975年「全国フォーク音楽祭」北海道大会で落選したものの制作スタッフに才能を見出され、’76年に北海道のラジオ番組で『千春のひとりうた』としてメディアデビューを果たし、’77年1月、シングル「旅立ち/初恋」でメジャーデビュー。続く’78年の「季節の中で」が大ヒットし一気に全国区のスターとなる。以降、「大空と大地の中で」「長い夜」「君を忘れない」など数多くの代表曲を生み、フォークシンガーとして長年にわたり第一線を走り続けている。

長渕剛

1977年、ポプコン入賞曲「雨の嵐山」でビクターからデビューするもしばらく低迷し一時帰郷。’78年、シングル「巡恋歌」で本格デビュー、’80年、シングル「順子」で初のオリコン1位を獲得し、その後「勇次」「ろくなもんじゃねぇ」「乾杯」「とんぼ」など数々のヒット曲を連発。俳優としてもTBS系ドラマ『家族ゲーム』『とんぼ』ほか、映画『オルゴール』『英二』などで主演を務め幅広く活躍する。

原田真二

1976年、高校2年生でフォーライフ新人オーディションに合格し、’77年10月、18歳で「てぃーんず ぶるーす」で拓郎プロデュースによる衝撃のデビューを果たす。その後「キャンディ」「シャドー・ボクサー」と3ヶ月連続リリースし全てがオリコン同時トップ20入りの快挙を成し遂げる。’78年2月には1stアルバム『Feel Happy』が初登場1位、4週連続でチャート首位を獲得。その後もシンガーソングライターとして楽曲提供、プロデュース、チャリティ活動など多岐にわたる活動を展開。音楽的なセンスとメディア戦略で、’70年代後半のJ-POPを象徴する存在となった。

さとう宗幸

1978年5月、ラジオ番組でのリスナー投稿をもとに作曲した「青葉城恋唄」でメジャーデビュー。曲は東北・仙台の情景を描いた叙情歌として大ヒットし、当年の新人賞を多数受賞し紅白にも初出場。「地方発の歌」として全国的な注目を集めた。以降は俳優としても活躍し、’81年には『2年B組仙八先生』主演、’87年にはNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』に出演。司会者やローカルタレントとしても長く親しまれている。

財津和夫

1972年、グループサウンズ「チューリップ」のリーダー兼ボーカルとしてデビューしグループの中心メンバーとして活躍、「心の旅」「サボテンの花」などのヒットを放つ。’70年代後半ソロでの活動も開始し、’78年にソロシングル「二人だけの夜」をリリース。2ndシングルの「Wake Up」はSEIKOのCMソングに起用されヒットを収めた。同時に作曲家としても活動し、松田聖子などに楽曲を提供。シンガーソングライター兼ヒットメーカーとして音楽界での地位を確立する。以降も作詞・作曲家として多くのアーティストに楽曲を提供し、音楽シーンに多大な影響を与え続けている。ソロ活動とともにチューリップもメンバー交代を重ねながら活動を続け、’89年に解散した。

坂本龍一

東京芸術大学で作曲と民族音楽学を学び、1970年代からスタジオミュージシャンとして活動を開始。’78年に細野晴臣、高橋幸宏とともにテクノポップグループ「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」を結成し、世界的な成功を収める。グループの活動と並行してソロアーティストとしても活躍し、映画『戦場のメリークリスマス』の音楽で’87年にアカデミー作曲賞を受賞。その後も映画音楽やアルバム制作を通じ、ジャンルを超えた音楽活動を展開し続けた。2023年3月28日、71歳で逝去。その多彩な音楽性と国際的な影響力で、世界中の音楽シーンに多大な貢献をした。

円広志

大学生だった時に結成したロックバンド「ZOOM」でボーカルを担当。1974年、ヤマハ主催のロックフェスティバル「大阪8・8ロックデイ」で入賞し一躍関西で人気のバンドとなる。当時バンドのローディーには後に世良公則&ツイストで大人気となる世良公則がいた。「ZOOM」は’77年に解散し、’78年に円個人でヤマハのポプコンに出場する機会を得、自作の「夢想花」でグランプリを受賞。同じくヤマハ主催の『第9回世界歌謡祭』でもグランプリを獲得し、シングル第一弾となった同曲は80万枚の大ヒットとなる。その後は本名の篠原義彦名で作曲家としても活動、森昌子の「越冬つばめ」などがある。

ポプコンイメージ

'70年代の音楽イベント

1970年代の音楽シーンに大きな影響を与えたのが、ヤマハ音楽振興会が主催した「ヤマハポピュラーソングコンテスト(通称:ポプコン)だった。’69年から’86年まで開催されたフォーク、ポップス、ロックのオリジナル楽曲コンテストで、新人ミュージシャンの登竜門として大きな役割を果たし、中島みゆき「時代」、クリスタルキング「大都会」など多数のアーティストや名曲が生まれた。’70年代はシンガーソングライター系が特に注目を浴び、八神純子やチャゲ&飛鳥など若き才能が数多く巣立っていった。

野村将希

1970年6月、シングル「一度だけなら」で歌手デビュー。新人賞複数受賞とともに、第21回NHK紅白歌合戦に初出場し、いきなり注目を浴びる。その後アメリカで音楽留学を経て帰国。’82年、芸名を野村将希に改名し、演歌歌手として活動を継続。俳優としても活躍し、’87年からTBSドラマ『水戸黄門』で“飛猿”役としてレギュラー出演し幅広い認知を獲得する。以降、歌手兼役者として長く活動を続け、現在も精力的に舞台やテレビに出演している。長男はプロサッカー選手の野村政孝、次男は俳優の野村祐希。

五木ひろし

1964年、16歳で「コロムビア全国歌謡コンクール」に優勝し、上京して作曲家・上原げんとの内弟子となる。’65年、松山まさるの芸名で「新宿駅から/信濃路の果て」でデビューするがヒットには至らず。その後も芸名を改めながら活動するも成功には結びつかなかった。転機となったのは’70年、テレビ番組『全日本歌謡選手権』への出場。10週連続勝ち抜きでグランドチャンピオンとなり、ヒットメーカーの作詞家・山口洋子と作曲家・平尾昌晃のコンビによる「よこはま・たそがれ」で再デビューを果たし、大ヒットを記録。以降、演歌界のトップスターとしてヒット曲を飛ばしながら活躍を続ける。

真木ひでと

1960年代にグループサウンズ「オックス」のヴォーカルとして野口ヒデト名で活動。オックスは「ガールフレンド」「スワンの涙」などのヒット曲で人気となり、野口ヒデトは沢田研二や萩原健一とともにGSブームを牽引する存在となる。オックス解散後は芸名を真木ひでとに改め演歌歌手としてソロデビューし、テレビやラジオ出演の活動を続けた。GS時代の経験を生かした舞台パフォーマンスと演歌の表現力を融合させ、幅広いファン層に支持された。GSと演歌の両方で活躍した希少な存在として知られる。

三善英史

渋谷区・円山町で芸者の息子として誕生。整った容姿から渋谷でスカウトされ、1972年、演歌歌手として「雨」でデビュー。同曲は大ヒットし、日本レコード大賞・新人賞ほか数々の新人賞を受賞した。デビュー翌年より3年連続でNHK紅白歌合戦に出場し演歌歌手として活躍。ユニチャームのCMに女装して出演するなど、ユニークな存在感でも注目された。2006年「夢グループ」の所属となり、現在も歌手活動を続けている。

中条きよし

1968年に芸名「高波晃」として歌手デビューを果たす。その後「渥美健」に改名して再デビューしたが成功には至らず、’73年にオーディション番組『全日本歌謡選手権』で10週連続勝ち抜きグランドチャンピオンとなったことを契機に、’74年に「中条きよし」という芸名で3度目のデビューを果たす。デビュー曲「うそ」は150万枚以上の大ヒットとなり、第16回日本レコード大賞大衆賞を受賞。以後、「うすなさけ」「理由」などのヒットを経て、演歌界の主要な存在として活躍を続けた。2022年、参議院議員となり芸能活動を終了した。

細川たかし

1975年4月シングル「心のこり」で歌手デビューし、第17回日本レコード大賞最優秀新人賞など数々の新人賞を受賞し、一躍注目される演歌歌手となる。’82年「北酒場」、’83年に「矢切の渡し」で日本レコード大賞を連続受賞、’84年には「浪花節だよ人生は」で史上初の三冠(歌唱賞)を達成し、演歌界の頂点に君臨した。以降も「望郷じょんから」「さだめ川」「北国へ」などヒット曲を連発し、NHK紅白歌合戦への出場を続けた。民謡で鍛えた圧倒的な声量と表現力、幅広いメディアでの活躍によって、演歌を代表する大御所歌手として長年にわたり支持されている。

新沼謙治

日本テレビ系オーディション番組「スター誕生!」から1976年2月1日に「おもいで岬」でデビュー。デビュー2作目「嫁に来ないか」が大ヒットし、第18回日本レコード大賞新人賞を獲得、NHK紅白歌合戦にも初出場を果たす。以後、「ヘッドライト」「酒とふたりづれ」「津軽恋女」など数多くのヒット曲を生み、紅白には通算13回出演した。歌手活動のみならず、映画『二百三高地』やドラマ『私鉄沿線97分署』『炎立つ』などへの出演も果たし、俳優としても活動。

角川博

クラブ歌手として広島や博多で歌っていたところをスカウトされ、1976年4月「涙ぐらし」で歌手デビュー。デビュー直後に日本レコード大賞新人賞や日本有線大賞新人賞を獲得し、一躍注目を集めた 。’78年には「許してください」でNHK紅白歌合戦に初出場を果たし、以後合計3回出場した。ものまねが得意で、美空ひばりや三波春夫、森進一など幅広いレパートリーを持ち、テレビのバラエティ番組にも多く出演してタレントとしても活躍。近年は自身の事務所を設立し、音楽・タレント活動を継続している。

山本譲二

1974年に芸名「伊達春樹」でシングル「夜霧のあなた」で歌手としてデビューしたが、当初はヒットに至らなかった。その後、北島三郎の付き人となり修業を重ねた後、「そばにおいでよ」「北ものがたり」を本名の山本譲二名でリリース、演歌歌手としての基盤を築く。’80年に発表した「みちのくひとり旅」が約10か月かけて大ヒットし、ミリオンセールスを記録、’81年末の日本レコード大賞ロングセラー賞とNHK紅白歌合戦初出場を果たした。以後も「奥州路」「海鳴り」「夢街道」などで数々の賞を受賞し、演歌界を代表する歌手として長年にわたり活躍を続けている。

渥美二郎

高校を中退後、地元の北千住で”演歌師”として流しの歌手活動を行った後、1976年10月、「可愛いおまえ」でレコードデビューした。 ’78年2月発売の「夢追い酒」は約250万枚の大ヒットとなり、彼の代表曲として演歌界に確固たる地位を築く。以後、「忘れてほしい」「他人酒」「釜山港へ帰れ」など多数のヒット曲を発表し、紅白歌合戦出場やロングセラー賞受賞を果たす。その後も演歌師としての原点を忘れず、ギター演奏を取り入れたステージやチャリティ活動等、現在に至るまで精力的に活動を続けている。

吉幾三

1973年3月、「山岡英二」としてヤンマーディーゼルのコマーシャルソング「恋人は君ひとり」で歌手デビューするも成功に至らず。’77年11月「吉幾三」と改名し、自作曲「俺はぜったい!プレスリー」でフォーク歌手として再デビューし大きな注目を浴びる。’84年には千昌夫に提供した「津軽平野」がヒットし、同年11月には「俺ら東京さ行ぐだ」でさらなるブレイクを果たす。’86年発売の「雪國」は紅白出場につながる大ヒットとなり、演歌歌手としての確固たる地位を築いた。

佳山明生

1970年より作曲家・古賀政男を師事し、’77年12月にシングル「氷雨」で歌手デビュー。芸名の佳山明生は、美輪明宏から名づけられた。「氷雨」は発売当初は売れ行きが振るわなかったが、有線放送での地道なリクエストを経て再々々発売された’82年7月盤がブレイクし、’83年には旭川有線大賞・全日本有線放送大賞グランプリを受賞、同年の日本レコード大賞ロングセラー賞も受賞した。その後は出身地の「函館観光大使」に就任するなど、地元にも貢献しながら演歌界で独自の存在感を築いている。

男性歌手・アイドル > 1980年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

田原俊彦

1979年、TBSドラマ『3年B組金八先生』で俳優デビュー。問題児・沢村正治役で注目を集めた。’80年6月「哀愁でいと」で歌手デビュー、洋楽のカバーながらアイドル的な人気を得て大ヒット。以降「ハッとして!Good」「恋=Do!」など多くのヒット曲を連発し、’80年代を代表するトップアイドルに。明るくキレのあるダンスとキャッチーな楽曲で人気を博し『ザ・ベストテン』『夜のヒットスタジオ』などの音楽番組にも多数出演。俳優としても主演ドラマを多数持ち、マルチに活躍した。

近藤真彦

1979年、『3年B組金八先生』でドラマデビュー。性格に難のある生徒・星野清を演じ注目を集めた。’80年12月「スニーカーぶる~す」で歌手デビューしオリコン初登場1位を記録。以降「ギンギラギンにさりげなく」「ハイティーン・ブギ」など多くのヒット曲を放ち、たのきんトリオの一員として一世を風靡した。ソロアイドルとしても絶大な人気を誇り、日本レコード大賞を受賞するなど歌手として高い評価を得た。俳優・レーサーとしても幅広く活躍。

沖田浩之

1980年、TBSドラマ『3年B組金八先生』(第2シリーズ)で不良生徒・松浦悟役としてドラマデビュー。
’81年3月、筒美京平作曲・阿木燿子作詞の「E気持」で歌手デビューし、オリコン最高位8位、13週のチャートインを記録するヒットとなる。以降、「半熟期」「はみだしチャンピオン」「俺をよろしく」など計13枚のシングルと4枚のアルバムをリリース。原宿・竹の子族出身の異色アイドルとして人気を博し、ミュージカルやドラマで俳優としても活躍した。’99年没。

堤大二郎

1980年、テレビ東京系『ぼくら野球探偵団』(主演・星空天馬役)で俳優デビュー。’81年4月、シングル「燃えてパッション」で歌手デビュー。NHK『レッツ・ゴー・ヤング』の男性アイドルユニット「サンデーズ」の一員としても活動し人気を博す。その後は数枚のシングルをリリースし、’84年には映画『零戦燃ゆ』で映画デビュー 。以後は俳優業に専念し、大河ドラマや時代劇を中心に多数出演、『太平記』『水戸黄門』など、堅実な俳優として幅広く活躍している。

ひかる一平

1981年、TBSドラマ『2年B組仙八先生』で俳優デビューし、好青年役で人気を集める。同年4月、シングル「青空オンリー・ユー」で歌手デビュー。甘いマスクと親しみやすいキャラクターで注目され、たのきんトリオに続くアイドルとして活躍。続く「君にクラクラ」「バレンタインデー・キッスじゃなく」など数枚のシングルをリリース。音楽番組やドラマにも出演を重ねたが、後年は俳優業に比重を移し、舞台やテレビでの活動を中心にキャリアを継続している。

竹本孝之

1981年、TBSドラマ『2年B組仙八先生』で俳優デビュー。明朗なキャラクターで注目され、同年6月に「てれてZin Zin」で歌手デビュー。フジ系『君こそスターだ!』出身で、「とっておきの君」「サヨナラ模様」などを次々とリリース。’82年にはNHK紅白歌合戦に初出場を果たす。’80年代中盤以降は音楽活動を縮小し俳優業に軸足を移すが、’90年代には農業と音楽活動を両立する“歌う農業人”として再び注目を集め、現在もライブや舞台などで地道な活動を続けている。

新田純一

1981年、TBSドラマ『2年B組仙八先生』で俳優デビュー。アイドル性の高いルックスで注目を集め、翌’82年2月に「Hop・Step・愛」で歌手デビュー。明るく親しみやすいキャラクターで人気を得、「君をさがして」「想い出パズル」などのシングルを発表。バラエティ番組やドラマでも幅広く活躍したが、’80年代後半以降は歌手活動が次第に減少。以後は舞台や地方営業、バンド活動などを中心に活動を続け、2020年代もライブを行うなど、根強いファンに支えられて現役を貫いている。

本田恭章

1981年、TBSドラマ『2年B組仙八先生』で俳優デビュー。’82年5月、「0909させて」で歌手デビュー。その後「ジュテーム・スキャンダル」「☆BOY」「サヨナラのSEXY BELL」などのシングルをリリースし、アイドル歌手としての地位を確立。’83年には作曲家・玉置浩二との共作を果たし、音楽性の幅を広げる。’84年にはシングル「SHAKE&SHAKEパラダイス」をリリースし、同年11月には日本武道館でのライブを成功させるなどアイドル歌手として活動。その後音楽活動を縮小し俳優業に専念。テレビドラマや舞台などで俳優としての地位を確立した。

風見慎吾

1982年、TBS『欽ちゃんの週刊欽曜日』でタレントデビュー。’83年5月「僕笑っちゃいます」で歌手デビューを果たす。作曲は吉田拓郎が担当し、オリコン週間ランキングでは最高6位を記録、33万枚以上の売上を記録するヒットとなった。その後もアイドル歌手として活動。「涙のtake a chance」では当時最先端だったブレイクダンスを取り入れ、ダンスパフォーマンスでも注目を浴びた。劇団「劇男一世風靡」の立ち上メンバーとしても知られる。

渡辺徹

1981年ドラマ『太陽にほえろ!』で新人刑事「ラガー」を演じ俳優デビュー。スマートなルックスと存在感でお茶の間の人気を獲得し、’82年、EPICソニーよりシングル「彼〈ライバル〉」で歌手デビュー。続く2nd「約束」はグリコ「アーモンドチョコレート」のCMソングに採用され、累計50万枚以上の大ヒットを記録し代表曲となる。以降、映画や舞台へも活動を広げ、’83年には映画『夜明けのランナー』で銀幕デビュー。文学座座員として数々の舞台に出演し演技力が高く評価された。2022年、61歳没。

野村義男

1979年、ドラマ『3年B組金八先生』で俳優デビュー。本人役で出演し、若者を中心に注目を集めた。’83年6月「待たせてSorry」で歌手デビュー。ジャニーズ所属の『たのきんトリオ』の一員として爽やかなルックスと明るいキャラクターで’80年代前半に人気を博した。ソロ活動を続けながらギタリストとしても活躍し、作詞作曲にも挑戦。ドラマや舞台出演もこなし、俳優としての評価も高い。現在も音楽と俳優活動を両立、根強いファンに支えられている。

吉川晃司

1984年、主演映画『すかんぴんウォーク』で俳優としてデビュー。同作の主題歌「モニカ」で同時に歌手デビューを果たし、日本歌謡大賞最優秀新人賞ほか数々の新人賞を数々受賞するヒットとなる。’88年には布袋寅泰とのユニットCOMPLEXを結成。ソロとしては作詞・作曲・プロデュースも手がけ、ロックアーティストとして確固たる地位を築く。俳優としても多数の映画やドラマに出演。NHK大河ドラマ『天地人』『八重の桜』や映画『るろうに剣心』『チーム・バチスタの栄光』などで存在感を発揮し、高く評価されている。

五十嵐浩晃

1979年、第1回CBS・ソニーSDオーディションに合格し、’80年5月、シングル「愛は風まかせ」とアルバム『NORTHERN SCENE』でソロデビュー。同年11月にリリースした3rdシングル「ペガサスの朝」が明治チョコレートCMソングとして評判を呼び、オリコン最高3位・売上50万枚超の大ヒットとなりブレイク。続く「ディープ・パープル」もヒットを記録し、多彩なメロディと透明感ある歌声で注目を集める。その後もラジオパーソナリティやテレビ出演、楽曲提供など幅広く活動。現在は札幌市在住、専門学校の名誉学校長として後進育成に努める一方、ライブや楽曲制作を継続している。

村下孝蔵

1979年、CBS・ソニー全国オーディションで最優秀に選ばれプロへ。翌’80年5月、シングル「月あかり」でメジャーデビュー。広島を拠点に地道なライブを続けながら徐々に支持を獲得。’82年「ゆうこ」、’83年「初恋」「踊り子」が相次いでヒットし、特に「初恋」はオリコン最高3位を記録。透明感ある声と叙情的な歌詞、洗練されたギターテクニックが持ち味で、数々のライブやコンスタントなアルバム発表を重ねる。他アーティストへの楽曲提供や天満敦子とのコンサートなど音楽表現の幅も広く追求。’99年6月24日、脳内出血のため急逝(享年46)。

堀江淳

1979年、CBS・ソニー主催「第1回SDオーディション」に合格し音楽界へ進出。’81年4月、シングル「メモリーグラス」で正式デビュー。同曲はオリコン3位、セールス約70万枚を記録し一躍注目され、日本作曲大賞 優秀曲賞、日本有線大賞 新人賞などを受賞。透き通るような中性的な歌声とメロディアスな作風が評価され、以後もコンスタントにシングルやアルバムを発表しながら、作詞作曲や他アーティストへの提供も行う。現在もライブ・新作制作を継続し幅広い世代に支持されている。

角松敏生

1981年6月、シングル「YOKOHAMA Twilight Time」とアルバム『SEA BREEZE』を同日リリースしメジャーデビュー。大学在学中に送ったデモが評価され正式デビューに至る。’80年代中盤には中森明菜、西城秀樹、中山美穂などへの作品提供でも注目を集め、以後も私小説的世界観を歌詞に反映しながら活動。’93年に一時アーティスト活動を“凍結”しプロデューサー業に専念、’98年に復帰。現在も作曲・ライブ活動を継続、シティポップの礎を築いたアーティストとして支持されている。

稲垣潤一

1982年1月、東芝EMI(EXPRESSレーベル)よりシングル「雨のリグレット」でソロデビュー、《スーパーポップボーカル》のキャッチコピーで売り出される。同年10月リリースの3rdシングル「ドラマティック・レイン」が自身初のオリコンTOP10入り。’83年には「夏のクラクション」「ロング・バージョン」などヒットを連発し、AORシンガーとしての地位を確立。’92年にリリースされた「クリスマスキャロルの頃には」はオリコン140万枚超のミリオンヒットとなり、冬の定番ソングとなった。以降もオリジナル・アルバム多数を重ね、日本レコード大賞やゴールドディスク賞などを受賞。現在もライブ活動や企画アルバム制作、演奏活動を精力的に継続し、幅広い世代に支持されている。

柳ジョージ

1975年「柳ジョージ&レイニーウッド」を結成し、’78年のアルバム『TIME IN CHANGES』でメジャーデビュー。’79年には「雨に泣いてる…」がドラマ主題歌に起用され大ヒットを記録し、4thアルバム『RAINY WOOD AVENUE』がオリコン1位に。’81年末バンド解散後ソロ活動へ転身し、’82年にはレイ・チャールズと共演。疾走感あるブルースロックと情感あるギタープレイで“和製クラプトン”とも称され支持を集めた。2005年レイニーウッド再結成、2008年フジロックにも出演。2011年10月10日、腎不全のため63歳で逝去。

三好鉄生

1979年、30歳の時にオーディションで歌唱力を評価されプロ入り。’82年3月、アルファレコードより自作曲「アイ・ラヴ・ユーこの街」でシンガーソングライターとしてデビュー。同年8月リリースのセカンド「涙をふいて」が中外製薬CMソングに起用されヒットを記録し、全国的な注目を集める 。俳優としては同曲が主題歌となったTBS系ドラマ『人間万事塞翁が丙午』で俳優デビューし(’82年)、以降も『刑事ヨロシク』『西部警察 PART III』などに出演 。’87年には「すごい男の唄」がサントリーCMソングに採用されスマッシュヒットし、以後もライブ活動と録音を継続。現在は三貴哲成名義に改め、多彩な音楽活動を続けている。

大江千里

1975年のヤマハPOPSONGコンテスト出場などを経て、’81年にCBS・ソニーからスカウトされ音楽業界へ 。’83年5月、シングル「ワラビーぬぎすてて」とアルバム『WAKU WAKU』でEPICソニーよりメジャーデビューし、透明感ある歌声と作詞作曲の才能で注目を集める 。以降、「十人十色」「格好悪いふられ方」「ありがとう」などヒット連発。2008年渡米しNYのThe New Schoolでジャズを学び、2012年にジャズピアニストとして再デビュー。自身のレーベルPND Recordsを設立しジャズ作品をリリース、現在も世界各地でライブ活動を展開中。

大澤誉志幸

1978年に駒澤大学在学中にロックバンド「クラウディ・スカイ」を結成し、’81年4月に同バンドのボーカル&ギターとしてビクターからデビューするもヒットなし、年末に解散後渡米。その後帰国し楽曲提供で頭角を現す。’83年6月、ソロ名義でシングル「彼女には判らない (Why don’t you know)」、アルバム『まずいリズムでベルが鳴る』でEpicソニーからソロデビュー。中森明菜や沢田研二などへの楽曲提供とともに自身も「そして僕は途方に暮れる」などヒットを連発し、シンガー/メロディーメーカーとして確固たる地位を築いた。

近田春夫

慶應在学中から内田裕也のバックでキーボードを務め、音楽界と出版界の両方で活動を広げた。1972年に「近田春夫&ハルヲフォン」を結成し、映画音楽も「塚田みのる」名義で手がける。’70年代後半からは俳優、声優、パーソナリティとしてメディアを横断して活躍した。「日本の歌謡曲の音楽性」を早期に評価し、コラム「THE 歌謡曲」連載やカバーアルバムでその魅力を提示。ジューシィ・フルーツをデビューさせ、作曲家・プロデューサーとしてもヒットを生んだ。

尾崎豊

青山学院高等部在学中の1983年12月1日、シングル「15の夜」とアルバム『十七歳の地図』でCBS・ソニーよりメジャーデビューし、高校生シンガーとして一躍注目される。透き通る歌声と等身大の歌詞、若者の反抗と葛藤を描いた世界観が共感を呼び、「卒業」「I LOVE YOU」「OH MY LITTLE GIRL」など次々とヒットを放つ。’85年にはアルバム『回帰線』でレコード大賞優秀アルバム賞を受賞するなど音楽性の評価も髙かった。’92年4月25日、26歳で急逝したが、没後もそのメッセージ性あふれる作品が支持され、多くのアーティストにカバーされ続ける。現在も若者の“教祖”的存在として音楽界に大きな影響を与え続けている。

伊豆田洋之

高校卒業後に画家を志して渡米し、イリノイ州立大およびカリフォルニア大学ロサンゼルス校に在籍後、ロサンゼルスのピアノバーで弾き語り中にスカウトされ帰国。’84年7月、シングル・アルバム『Rose Bud Days』でメジャーデビューし音楽活動を開始した。以後「ネオンの海で I LOVE YOU」「笑顔にダーツ」「迷路」「LAST SEASON」などのシングルやアルバムをリリースし、シティ・ポップ系の滋味あるバラードで人気を得る。現在もライブ活動や作品制作を続け、“日本のポール・マッカートニー”とも称される高い音楽性で支持されている。

鈴木雅之

1975年、友人たちとブルーアイド・ソウル風の男性グループ「シャネルズ」を結成。’80年にシングル「ランナウェイ」でメジャーデビューしミリオンヒットを記録する。’83年にバンド名をラッツ&スターに改名し、「め組のひと」「Tシャツに口紅」など数々のヒットを連発し人気を博す。’86年、自身のソロ活動を本格化させ「ガラス越しに消えた夏」でソロデビュー。以後「もう涙はいらない」「違う、そうじゃない」などのヒットを重ね、ベスト盤『Martini』シリーズはミリオンセラーとなる。2019年以降はアニメ『かぐや様は告らせたい』の主題歌を担当し“アニソン界の大型新人”とも称される。

久保田利伸

駒澤大学在学中の1985年、田原俊彦らに楽曲提供し作家デビュー 。翌’86年6月、シングル「失意のダウンタウン」でメジャー歌手デビューを果たす 。同年9月にアルバム『Shake It Paradise』をリリースし、R&Bやファンクを取り入れたスタイルで異彩を放つ 。’88年にはアルバム『Such A Funky Thang!』がオリコン首位に輝き、「Dance If You Want It」などヒット連発 。’95年にアメリカへ拠点を移し、’96年の「LA・LA・LA LOVE SONG」が月9ドラマ主題歌として大ヒット。日本のR&Bを切り開いたパイオニアとして現在も国内外で高い評価を受ける。

奥田民生

’87年、ロックバンド・UNICORNのボーカリストとしてメジャーデビューし「大迷惑」「働く男」「すばらしい日々」などのヒット曲で’80〜90年代のバンドブームを牽引。’93年にバンド解散後、1年間の“充電期間”を経て’94年にシングル「愛のために」でソロ活動を本格始動。以降「イージュー★ライダー」「さすらい」など数々の名曲を発表。PUFFYや木村カエラのプロデュース、井上陽水とのユニットなど多彩な音楽活動を展開。現在も独自のスタイルで演奏・制作・プロデュースを続け、音楽界の第一線で活躍中。

池田政典

ジャパンアクションクラブ(JAC)第12期生として俳優デビューし、’86年5月、TBSドラマでテレビ初出演。同年8月、東芝EMIからシングル「ハートブレーカーは踊れない」で歌手デビューし、グラビアでも注目を集めた。’87年5月「NIGHT OF SUMMER SIDE」がアニメ『きまぐれオレンジ☆ロード』の主題歌に起用され音楽番組でも注目される。’88年の「Formula Wind」もヒットするが、’92年「愛のセレブレーション」以降、歌手活動は休止。以後は俳優と声優業に専念し『るろうに剣心』の志々雄真実役などアニメでも存在感を示し、現在も活動を継続している。

KAN

’87年、シングル『テレビの中に』でソロ歌手としてメジャー・デビュー(ポリドール)。’90年9月、代表曲『愛は勝つ』をシングルリリース。累計200万枚超の大ヒットを記録し、オリコン週間シングル1位を8週連続、年間チャート3位となる。同曲は第33回日本レコード大賞ポップス・ロック部門大賞を受賞し、NHK紅白歌合戦にも出演。その後も多数の楽曲がチャート上位に入り、’90年代前半には5曲のトップ10シングル、4枚のトップ10アルバムを生む2010年時点でのCD総売上は約460万枚に達する。2023年11月、61歳没。

玉置浩二

’73年、高校時代にバンド「安全地帯」を結成し、’82年2月、シングル『萌黄色のスナップ』でグループはメジャー・デビュー。’83年には「ワインレッドの心」’84年「恋の予感」、’85年「悲しみにさよなら」など複数のヒットを連発し、日本の’80年代ロック・ポップスを代表するバンドとなる。’87年末ソロ活動を開始し『All I Do』などをリリース。その後も「田園」をはじめヒット曲を生み出し、作詞・作曲にも注力。2012年には自主レーベル“SALTMODERATE”を立ち上げ、バンドとソロ双方で精力的に活動。オーケストラ公演も行い、現代も高い評価を受け続けている。

氷室京介

’82年、伝説的なロックバンドBOØWYのボーカリストとして『MORAL』でレコードデビュー、日本のロックシーンに革命をもたらす。’88年、BOØWY解散後わずか3カ月でソロ第1弾シングル「ANGEL」でデビューし、オリコン年間チャートで8位に入るヒットとなる。’92年には「KISS ME」でミリオンセールスを達成、’93年のアルバム『Memories Of Blue』も150万枚以上を売り上げ、ソロアーティストとして不動の地位を確立。’97年からはロサンゼルスに拠点を移し制作と活動を継続。独自の“ヒムロック”スタイルで音楽界に強い影響を与えた存在となっている。

布袋寅泰

’80年末、氷室京介らと共に結成した「暴威」(後のBOØWY)で’82年3月発売のアルバム『MORAL』にてギタリストとしてデビュー、日本のロックシーンで絶大な存在となる。’88年10月、BOØWY解散後すぐにソロ1stアルバム『GUITARHYTHM』で独立、精緻なギターサウンドで新境地を切り開いた。’89年には吉川晃司とのユニット「COMPLEX」を結成し、大型ヒットを放つ。以降は作詞・作曲・プロデュースとマルチに活躍し、2003年には映画『KILL BILL』に「Battle Without Honor or Humanity」が使用され世界的にも名を轟かせた。2012年からはロンドンを拠点に活動を展開し、国際的な舞台でのライブ・制作を続けている。

徳永英明

’86年1月、シングル「Rainy Blue」とアルバム『Girl』でメジャー歌手デビューを果たし、その透明感のある歌声で注目を集める。’87年の「輝きながら…」が初のヒットとなり、その後も「風のエオリア」「最後の言い訳」「夢を信じて」「壊れかけのRadio」など数々の代表曲をリリース。2005年以降、「VOCALIST」シリーズで女性アーティストの名曲をカバーするスタイルを打ち出し、ロングセラーを記録、歌声と表現力により新たな価値を築く。現在もコンサートツアーや新作リリースを継続中で、多くの世代に支持されるベテランボーカリストとして活躍している。

竜鉄也

中学2年で失明し、その後26歳で再び全盲となるが、独学でアコーディオンを習得し岐阜・高山地方を中心に「流し」として演歌を歌いながら修行を積む。’80年6月、デビュー曲「奥飛騨慕情」をトリオレコードから発表し、ミリオンセラーを記録。翌’81年には第32回NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。楽曲には「紬の女」「哀愁の高山」などがあり、作詞・作曲も手がけた。2000年頃に脳卒中で療養に入り引退。2010年12月、クモ膜下出血により74歳で逝去。

山川豊

三重県鳥羽市生まれ。’81年2月、デビュー曲「函館本線」で歌手デビューを果たし、同年末の第23回日本レコード大賞・新人賞など多くの新人賞を受賞した。’86年には「ときめきワルツ」で初のNHK紅白歌合戦出場を果たし、それ以降2005年までに11回の出場を重ねる。’98年の「アメリカ橋」が大ヒットし、「ニューヨーク物語り」「霧雨のシアトル」といった“アメリカ3部作”も話題を呼ぶ。現在もライブや新曲リリースなど精力的に活動を続ける、日本を代表する演歌歌手の一人。実兄は同じく演歌歌手の鳥羽一郎。

尾形大作

’81年「THE MATATABI」をキャッチフレーズにデビューし、’86年に発表した「無錫旅情」が約48.6万枚の売上を記録し大ヒットを遂げる。’87年には第38回NHK紅白歌合戦に初出場し、翌年も出場を果たす。’88年は「敬天愛人 幕末青春グラフティ」で第30回日本レコード大賞企画賞を受賞。’90年には独立に関する記者会見を行うが、所属事務所とのトラブルにより一時歌手活動を休止。福岡に戻り、地域密着型の演歌歌手として活動を再開し、テレビドラマやVシネマ、CM出演など多方面で活躍。現在もCDを発売し、地域イベントなどに出演している。

鳥羽一郎

漁師や板前を経て、演歌への道を断ち切れず27歳で上京し、巨匠・船村徹に内弟子として約3年間修行を積む。’82年8月、シングル「兄弟船」で歌手デビュー。同曲は海の男の哀愁を描いた代表作となり大ヒットを記録。。’85年にNHK紅白歌合戦初出場を果たし、その後20回以上の出場を重ねる。海難遺児支援などチャリティ活動にも力を入れ、紺綬褒章を7度受章。現在も「海の男」演歌の旗手として精力的に活動を続けている。

梅沢富美男

大衆演劇「梅沢劇団」で1歳7ヶ月で初舞台を踏み、15歳から本格的に舞台俳優として活動。20代後半に女形が評判となり「下町の玉三郎」と称され大衆演劇界のスターに成長。’82年に歌手としても活動を開始し、小椋佳作詞作曲「夢芝居」が大ヒット。’83年にNHK紅白歌合戦で歌唱し一躍歌謡界でも脚光を浴びた。その後、舞台座長として劇団を率いながらテレビ・映画・バラエティなど多方面で活躍。タレントやコメンテーターとしても人気を博し、現在も精力的に舞台とメディアで存在感を放ち続けている。

'80年代の演歌の傾向

1980年代の演歌は都会的な歌謡曲とは反対に、地方の町やふるさとを舞台とする楽曲が多く作られ、ヒットした。竜鉄也「奥飛騨慕情」(’80)、山本譲二「みちのくひとり旅」(’81)、大川栄策「さざんかの宿」(’82)、細川たかし「矢切の渡し」(’83)、石川さゆり「天城越え」(’86)など、旅情とともに男女の哀切を情熱的に描いた作品が大ヒットし、演歌の地方指向や「ふるさと回帰」が目立った時代だった。