ラジオ番組 > 1980年代

1980年代 1970年代 1960年代 ’80年代、深夜放送ブームは最盛期を迎え、若者の中心的メディアとして強い影響力を持った。「オールナイトニッポン」を軸にタモリ、ビートたけし、中島みゆきら個性豊かなパー … 続きを読む

ラジオ番組 > 1970年代

1980年代 1970年代 1960年代 1970年代は、’60年代後半に始まった深夜放送ブームが本格的に定着し、若者文化の中核を担った。「パック・イン・ミュージック」「オールナイトニッポン」「セイ!ヤング」 … 続きを読む

フード&ドリンク

FOOD & DRINK 昭和のフード&ドリンク 1980年代 1970年代 1960年代 ─ 主なフード&ドリンク ─ 1980年代 ─ グルメブームとバブルの味 ─ バブル経済の影響でイタリア … 続きを読む

海外ドラマ

1980年代 1970年代 1960年代 1980年代 主な海外ドラマ ※ 記載は日本での放送開始年 ※ ジェシカおばさんの事件簿 (’88)NHK 出演: アンジェラ・ランズベリー/ウィリアム・ウィンダム/ … 続きを読む

邦画&洋画

─ 配給収入ランキング ─ ※興行収入とは異なります。 1980年代 配給収入ランキング ’70年代> ’60年代> 【参考】’80年代の東京の邦画・洋画封切館料金(大人):1,300 … 続きを読む

漫画&雑誌

1980年代 1970年代 1960年代 – 各年に創刊された主な漫画雑誌・その他の雑誌 – 漫画 雑誌 1988Publications ・ AERA (朝日新聞出版) ・ SPA! (扶桑社) … 続きを読む

ラジオ番組 > 1960年代

1980年代 1970年代 1960年代 ’60年代のラジオは、テレビの普及により家庭の中心的位置づけから「個人が楽しむメディア」へ性格を変えていった。トランジスタラジオの普及により若者が自室で一人聴く習慣が … 続きを読む

CM

1960年代は高度経済成長期とともにテレビが急速に普及し、CMは「新しい生活への期待」をストレートに表現するメディアだった。商品名や機能を連呼することで印象づける手法が多く、マーブルチョコレートや文明堂のカステラ、ミツワ … 続きを読む

ドラマ > 1960年代

1960年代はテレビの普及とともにテレビドラマも急速に発展。町の銭湯を舞台に庶民の日常生活を描いたホームドラマ『時間ですよ』や都会派アクションの『キイハンター』をはじめ、時代劇から青春ドラマ、刑事ものや特撮ものに至るまで多彩なジャンルが制作された。白黒放送からカラーテレビへの移行期で映像技術が発達する中、スポンサー企業との関りも強く、『東芝日曜劇場(’56年~)』『花王愛の劇場』など大手企業による一社提供型番組が続々と登場した。

─ 主な人気ドラマ(初回放送年を記載) ─

'69年4月-'82年9月(TBS)

『ケンちゃんシリーズ』

「チャコちゃんシリーズ」に続き、1960年代後半から’70年代にかけて放送された子供向けホームドラマ。幼児から小学生とその家族を主な視聴対象とし、自営業者の家庭を中心に、子供の日常を温かく描いた。東京近郊の住宅地を舞台にした実写ロケも特色で、TBSの子供番組の看板的存在として高い人気を博した。映画化も行われたが、視聴率の低下を受けてシリーズは終了した。

'69年4月-'76年3月(東京12チャンネル)

『プレイガール』

東京12チャンネルで放送された東映制作のアクションドラマで、レギュラーが全員女性という斬新な編成が特徴。ミニスカート姿の女性たちが活躍する痛快なアクションと当時としては大胆なお色気表現を前面に押し出し、女性アクションドラマの新境地を切り開いた。東映の路線をテレビ化した作品として同局の名物番組となる。ドラマのタイトルロゴは、集英社『週刊プレイボーイ』のロゴを流用したもの。出演は沢たまき、緑魔子、大信田礼子、ひし美ゆり子、五月みどりなど。

'68年10月-'69年3月(フジテレビ)

『男はつらいよ』

渥美清主演。テキ屋稼業の旅人「フーテンの寅」こと車寅次郎が、折に触れて故郷・柴又に戻り騒動を巻き起こす人情喜劇。旅先で出会う女性マドンナに恋をするが、毎回成就せず別れを選ぶ構図を日本各地の風景とともに描いた。渥美と山田洋次の雑談から物語が生まれ、テキ屋を主人公に据えた斬新さが話題となる。1968~’69年にフジテレビで放送され、当初は不振だったが終盤に人気が高まり、衝撃的な最終回への抗議を機に映画化へと発展した。

'68年4月-'73年4月(TBS)

『キイハンター』

千葉真一の本格スタントを軸にしたアクションドラマの代表作で5年間にわたり放送され、最盛期には視聴率30%超を記録した。舞台は大都会東京。警察では対処不能な事件に挑む国際警察特別室の極秘チーム「キイハンター」が、国際的陰謀や犯罪組織と戦う。アクションを核に刑事劇、諜報、コメディなど多彩な要素を融合し、外国人俳優も多用した国際色豊かなスケールが特色。レギュラーは丹波哲郎、野際陽子ほか。

'67年7月-12月/'78年6月-'79年9月(TBS)

『コメットさん』

宇宙から来た少女が地球で人々の悩みを魔法で解決するファンタジードラマで、TBS系「ブラザー劇場」枠で2期にわたり放送された。第1期は1967~’68年に九重佑三子主演で制作され、途中からカラー化された。第2期は’78~’79年に大場久美子主演で放送。バトンを使う魔法や住み込みのお手伝いという設定、歌を重視した構成が共通し、『メアリーポピンズ』の影響も指摘される。

'67年4月-9月(テレビ朝日)

『白い巨塔』

山崎豊子の同名小説を原作とする初のテレビドラマ化作品。浪速大学を舞台に、野心的な外科医・財前五郎と良心的な医師・里見脩二という対照的な人物像を通して、医局制度の矛盾や医学界の腐敗を鋭く描いた。テレビ版では佐藤慶が財前、根上淳が里見を演じ、社会派ドラマとして高い評価を受けた。本作以降も繰り返し映像化され、時代ごとの医療現実を反映して描写が変化している。

※1978年のドラマ化では財前を田宮二郎、里見を山本學が演じている。

'66年4月-'67年4月(NHK)

『おはなはん』

NHK連続テレビ小説第6作として放送された全310回の長編ドラマ。明治中期の愛媛県大洲市を舞台に、明るくお茶目な女性・はなが、軍人との結婚と死別を経て、女手一つで子どもを育てながら人生の荒波を乗り越えていく姿を描く。原作は林謙一が母の思い出を綴った随筆で、新人だった樫山文枝が10代から80代までを演じ切り高い評価を得た。平均視聴率45.8%を記録し、朝ドラの地位を不動のものとした。

'66年2月-9月(フジテレビ)

『若者たち』

フジテレビで放送された連続ドラマで、毎日新聞の特集記事「ある家庭」を基に制作された。千葉県の海辺の町で両親を亡くした五人兄弟が、友情や恋愛、葛藤を抱えながら懸命に生きる姿を描く。回を追うごとに支持を広げ、主題歌も大ヒットしたが、在日韓国人差別を扱った回が社会情勢の影響で放送中止となり番組自体も打ち切られた。第3回ギャラクシー賞受賞作。出演者は田中邦衛、橋本功など。

'66年1月-12月(NHK)

『源義経』

NHK第4作目の大河ドラマで、村上元三の歴史小説『源義経』を原作・脚本として、源平合戦における英雄・源義経の生涯を描いた。雪中の逃避行から衣川館での最期、頼朝による奥州征伐までを通し、悲劇的な運命を背負った武将像を神話的英雄として描写している。義経役の尾上菊之助は史上最年少主演として注目され、武蔵坊弁慶役には前作『太閤記』に続き緒形拳が起用された。歌舞伎・映画界のスターを配した重厚な配役と演出で話題を集め、安定した高視聴率を記録した。

'66年1月-4月(テレビ朝日)

『氷点』

朝日新聞で連載された三浦綾子の同名小説を原作とし、連載終了直後の’66年にNETテレビで全13話の連続ドラマとして放送された白黒作品。養女への憎悪と信仰、原罪を軸に、人間の愛と倫理の限界を描いた重厚な家庭劇で、新珠三千代が冷酷な養母・夏枝を演じ高い評価を得た。流行語も生み平均視聴率30%超、最終回42.7%を記録する大ヒットとなり、NETテレビ史上屈指の話題作となった。主演は新珠三千代、レギュラーに内藤洋子、岸田森、芦田伸介、市原悦子など。

'65年11月-'67年9月(TBS)

『サザエさん』

TBS系列で放送された実写ドラマ版。東京・世田谷区の一軒家を舞台に、磯野家の日常をテンポ良く描き、アニメ化以前は本作のイメージが広く定着していた。平均視聴率27.9%を記録する人気作となり、CMを途中に入れない演出など意欲的な試みも行われた。俳優のアドリブを多用した軽快な作風も特徴で、放送後は再放送もされたが、現在は映像の現存状況が不明とされている。サザエさん役は江利チエミ、マスオさん役は川崎敬三、ワカメ役はマーブルチョコレートのCMで人気だった上原ゆかりが務めた。

'65年7月-8月 '68年7月-9月(フジテレビ)

『愛染かつら』

1937年から’38年にかけて『婦人倶楽部』に連載された川口松太郎の小説を原作とするドラマで、’60~’70年代に繰り返しテレビドラマ化された。’65年版は昼メロの代表作として放送され、古典的で情念的な物語が高視聴率を記録し社会現象的な人気を得た。無名だった長内美那子の主演も話題となり、’68年には続編が制作された。以後も各局で帯や単発ドラマとして作られ続けた。

'65年6月-'80年1月(TBS)

『女と味噌汁』

平岩弓枝の同名小説を原作に、1965年からTBS「東芝日曜劇場」でシリーズ化された人気ドラマ。新宿弁天池界隈を舞台に、芸者のてまりが妹分とともに味噌汁とおにぎりの店を営みながら、小料理屋の夢を追う姿と花柳界の人間模様を描く。一話完結形式で、結婚や別れ、生と死といった女性の人生観を丁寧に描写し、15年にわたり安定した高視聴率を記録。主演は池内淳子で、池内の代表作の一つとなった。

'65年4月-'71年12月(TBS)

『ザ・ガードマン』

宇津井健が主役を務める全350話の長寿アクションドラマ。架空の警備会社「東京パトロール」を舞台に、背広姿の精鋭ガードマンたちが潜入捜査による大胆な行動で事件に立ち向かう姿を描いた。警備員を民間の特殊部隊として描いた斬新な設定が人気を博し、最盛期には視聴率40.5%を記録。昭和40年代アクションドラマブームの先駆けとなり、後続作品に大きな影響を与えた。KLMオランダ航空とのタイアップによる海外ロケの多さも特徴だった。レギュラー陣は藤巻潤、川津祐介、倉石功、稲葉義男、中条静夫、神山繁など。

'65年1月-12月(NHK)

『太閤記』

NHKで放送された第3作目の大河ドラマで、吉川英治の小説『新書太閤記』を原作に、豊臣秀吉の波瀾に満ちた生涯を描いた。主演の緒形拳は若さと猿のような風貌を重視して抜擢され、織田信長役の高橋幸治、石田三成役の石坂浩二ら若手中心の配役が話題を呼んだ。大規模ロケやヘリ空撮など新技術を積極的に導入し、史実解説を織り交ぜた演出は「社会科ドラマ」と評された。高視聴率を記録し、大河ドラマの表現と制作規模を大きく押し広げた。

'64年11月-'65年12月/'69年8月-'83年4月(TBS)

『水戸黄門』

江戸時代の水戸藩主・徳川光圀が諸国を漫遊し、悪を懲らし善を勧める姿を描いた勧善懲悪の時代劇。映画で定番化した後、テレビではTBSがドラマ化し、特に東野英治郎主演のナショナル劇場版が長寿番組となった。印籠を掲げ正体を明かす場面をはじめ、助・格や忍者が活躍する定型演出が確立され、2011年まで続いた国民的シリーズとして親しまれた。

'63年6月-9月(TBS)

『図々しい奴』

TBSで放送された大映テレビ室制作の連続ドラマ。主演は大映の大部屋俳優だった丸井太郎で、本作をきっかけに一躍注目を集めた。厚かましくも憎めない主人公の生き様をユーモラスに描き、谷啓が歌う同名主題歌も話題となった。最高視聴率45.1%を記録する大ヒット作となり、後年には漫画化もされるなど幅広い人気を得た。

'62年10月-'69年3月(TBS)

『チャコちゃんシリーズ』

『パパの育児手帳』(’62年10月-’63年5月)、『チャコちゃん社長』(1964年7月-10月)、『チャコちゃんハーイ!』(’65年2月-’66年1月)、『チャコちゃん』(’66年2月-’67年3月)、『チャコねえちゃん』(’67年4月-’68年3月)、『チャコとケンちゃん』(’68年4月-’69年3月)までお茶の間で絶大な人気を得た児童向けのシリーズ。四方晴美演じるチャコの家族や友人の間で起きるトラブルを解決する一話完結物語で、ほのぼのした昭和の家族や家庭を等身大で描いた。四方は『チャコとケンちゃん』で降板するが番組の人気は衰えず、その後チャコの弟・ケンちゃん(宮脇康之)を主役とするケンちゃんシリーズに移行した。

'61年10月-'77年3月(テレビ朝日)

『特別機動捜査隊』

国内初の1時間テレビ映画として毎週放送された刑事ドラマで、事件発生から犯人逮捕までの初動捜査の過程を時系列で描く点が特色だった。刑事たちは物語進行役に徹し、事件や犯人像を中心に据えたリアルな構成が特徴。警視庁提供の実際の事件を基にした描写や、「警視三〇三、直ちに現場へ急行せよ」の決まり文句は強い印象を残した。高視聴率を記録し、全国に機動捜査隊設置が広がる契機ともなった。

'61年7月-'64年7月(TBS)

『月曜日の男』

TBS系列で放送された全159話のアクションドラマ。推理作家・持統院丈太郎、通称JJが主人公で、黒い帽子を被りスポーツカーを駆って難事件を解決する姿が描かれた。主演のニヒルなヒーロー像と水原弘の主題歌が人気を博し、最高視聴率は40%を超えた。生放送作品のため現存映像はなく、途中からはコルベットで国道を縦断する企画も展開され、当時としては斬新な演出が話題となった。

'61年4月-'64年12月(NHK)

『若い季節』

NHK総合で放送された、当時としては珍しいミュージカル風テレビドラマ。銀座に本社を置くライバル化粧品会社「プランタン」と「トレビアン」を舞台に、社員たちの騒動を歌と笑いで描いた。クレイジーキャッツをはじめ渡辺プロの人気タレントが多数出演し、高視聴率を記録した。生放送で制作され、台本が放送当日に届くこともあったという。映画化も2度され、終了後は同枠が大河ドラマの放送枠となった。

'64年1月-12月(NHK)

『赤穂浪士』

NHKで放送された2作目の大河ドラマで、大佛次郎の同名小説を原作とする。大石内蔵助に長谷川一夫を迎え、歌舞伎・新劇・歌謡界の豪華キャストが集結した。赤穂浪士が討ち入りを決意するまでの苦悩と人間模様を一年かけて描き、討ち入り後の切腹までを丁寧に放送した。討ち入り回は視聴率53%を記録し、大河史上最高記録となった。芥川也寸志のテーマ曲も強烈な印象を残した。

'58年4月-'66年3月(NHK)

『事件記者』

NHKで放送された長寿テレビドラマ。警視庁詰め新聞記者が集う「桜田クラブ」と居酒屋「ひさご」を舞台に、事件を追う記者たちの取材合戦と人間模様を描いた群像劇。原作・脚本の島田一男は元新聞記者で、自身の体験や実在の記者をモデルにリアルな筆致で描写した。新聞記者を主人公とした斬新さが支持され、大ヒット作として8年間放送され、後に映画化もされた。

ファッション

1980

\TOPICS/

個性的なデザイナーの感性を前面に出したDCブランドが若者の支持を集め、ブランド志向が一段と強まった。

大型ファッションビルの登場とともに流行の規模も拡大し、日本独自のファッション文化が成熟していった。

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サーファーファッション

’70年代後半から始まったアメリカ西海岸文化への憧れがピークに達して登場したのがサーファーファッション。海に行かないのに格好だけを真似る「陸(おか)サーファー」という言葉が生まれるほど、当時の若者の間で圧倒的な支持を得た。 絶大な人気だった「POPEYE」、女性誌では赤文字系雑誌の「JJ」に新たに「CanCam」も加わると、女子大生の間では、エンジェル・フライトのパンタロンにプルメリアデザインのアクセサリーを合わせるきれいめサーファースタイルが空前のブームとなった。ファラ・フォーセット・メジャーズを手本とする、左右の髪に段をつけ(レイヤー)て後ろに流すサーファーカットも、この時代のトレンドだった。

竹の子族

’80年代初頭、独自の派手な衣装で踊る若者たちのグループ「竹の子族」が爆発的ブームとなる。当時の原宿竹下通りにあった「ブティック竹の子」で販売されていた服を着ていたことが名前の由来。アラビアの衣装を思わせるゆったりとしたシルエットのつなぎのような服がトレードマークで、赤、ピンク、紫、ターコイズブルーといった鮮やかな原色が好まれ、背中には漢字でグループ名や自分の名前が刺繍されていた。毎週日曜日、原宿・代々木公園横の歩行者天国にラジカセを持ち寄りディスコサウンドで踊る若者はピーク時は4,000人以上、ギャラリーは10万人/日に達したと言われる。

DCブランド

’70年代後半から’80年代に日本で流行した「デザイナーズ&キャラクターズ」の略称で、デザイナーの個性や独自の世界観を前面に出したファッションブランドの総称。既製服中心だった従来のアパレルに対し、少量生産と強いデザイン性で若者の支持を集めた。’80年代に最盛期を迎え、黒を基調とした装いの「カラス族」も登場した。代表的なデザイナーには三宅一生、川久保玲、山本耀司らがおり、渋谷や原宿のファッションビルを拠点に一大ブームを築いた。

スタジャン

’60年代、VAN Jacket(ヴァンヂャケット)がアイビー・トラッドスタイルとして広めた後、’80年代に大学のサークルなどでチームウェアとして作る文化が広がり人気が再燃した。DCブランドブームの中、メンズ・ビギ(MEN’S BIGI) のスタジャンは’84年〜’85年頃に「10万円近くする高級スタジャン」として若者にとって憧れのステータスアイテムとなり、’85年に誕生したブランド「セーラーズ 」の製品はマイケル・ジャクソンやおニャン子クラブの衣装にも採用されたことで社会現象となった。

ケミカルウォッシュジーンズ

漂白剤(次亜塩素酸ソーダ)を染み込ませた軽石をデニム生地と一緒に洗浄・脱色する加工技術によるケミカルウォッシュデニムが流行した。まだら模様や霜降り状の激しい色ムラが特徴で、ストーンウォッシュよりコントラストが強く、ヴィンテージ風や個性的なファッションスタイルを演出するアイテムして支持された。ジャケットやスカートも人気となった。

コンサバ

’70年代のニュートラ、ハマトラの系譜を継いで、保守的(コンサバティブ)な装いが、特に女子大生や若いOLの間で圧倒的な支持を得た。DCブランドや竹の子族のような個性的で尖ったファッションの対極として、誰からも好感を持たれる紺のブレザー(紺ブレ)や金ボタンのジャケット、キュロットスカート、パールのネックレスなどが定番だった。クレージュやピンキー&ダイアン、エルメスやヴィトンなどの高級バッグも必需品だった。女性誌「JJ」がコンサバ女子のバイブルで、コンサバファッションに身を包む読者モデルたちは「JJモデル」と呼ばれ、憧れの的となった。

プレッピー

アメリカの名門私立校やアイビーリーグの学生の服装を手本にした上品でカジュアルなスタイル。紺ブレザー、ボタンダウンシャツ、チノパン、カーディガン、ローファーなどを組み合わせ、知的で育ちの良さを感じさせる雰囲気を持つ。日本では’80年代に大きなブームとなり、「Tommy Hilfiger」「RALPH LAUREN」などのアイテムが人気となったを集めた。ニュートラやハマトラと並んで、若者の定番ファッションとして広まった。

ワンレン&ボディコン

バブル経済絶頂期を象徴する、最も華やかでパワフルなファッションスタイル。女性たちが「強く美しくセクシー」であることを楽しんだ時代の象徴で、ワンレングスの髪に体のラインを強調するワンピースを合わせたスタイルがトレンドとなる。ディスコ「マハラジャ」や’90年代になって「ジュリアナ東京」も加わると、フロアに設けられたお立ち台の上で派手な音楽に合わせて乱舞する女性たちが話題となった。髪型は前髪を作らないセクシーなワンレングスから、作った前髪を立ち上げてスプレーで固めてトサカ状にするスタイルへと派手に変化(進化?)していった。バブル時代の強い女性像を演出するファッションとしては、男性的なシルエットを作る「肩パッド入りの服」も大流行した。

渋カジ

’80年代後半から’90年代初頭にかけて、東京・渋谷の街に集まる若者(主に団塊ジュニア世代の高校生・大学生)の間で渋谷カジュアル「渋カジ」が爆発的に流行した。 特定のブランドやデザイナーが主導したものではなく、若者たちが既存のアイテムを独自の感性で組み合わせることで生まれた「ストリート発」のファッションである点が特徴。渋谷のチーマー(若者グループ)たちが自分たちの所属を示すアイコンとして特定のアイテムを着用し、それが流行を牽引た側面も持つ。

1970

\TOPICS/

若者文化の成熟とともにファッションは多様化し、トラッド中心の時代から個性を求める流れへ移った。

原宿や渋谷といった街が流行の発信地となった。

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パンタロン

’60年代に続き、裾が広がるフレアパンツのパンタロンが脚長・細見え効果で大流行した。’72年にはスカートの生産量を抜き、男女問わずに支持されるユニセックスファッションの主流アイテムとなった。パンタロンにフリンジ付きのベストやタイダイ柄のシャツを合わせるヒッピースタイルを経て、’70年代後半はに女子大生に支持されるスタイルに変化した。

フォークロア&エスニック

ヒッピーたちのエコロジー指向による素朴なファッションとして、ヨーロッパの農家の日常着や中南米の民族衣装風の要素を取り入れたフォークロアやエスニックスタイルが愛された。刺繍入りブラウス、ロングスカート、ベストなど、’60年代のヒッピースタイルに装飾的な要素が加わり、女性のファッションとして広がりを見せた。

マジソンバッグ

歴史的なスポーツアリーナ、ニューヨークの「マジソン・スクエア・ガーデン」の名を冠したボストン型のバッグが’68年の発売からが’70年代半ばにかけて日本中で大流行した。「MADISON SQUARE GARDEN」の文字がプリントされた紺色のポリ塩化ビニールのバッグはアメリカへの憧れを刺激し、中・高生の通学用バッグとして大人気を博した。あまりの人気に模造品も出回り、すべて含めると当時の日本の5人に1人が所有する計算となる2000万個を売り上げた。このバッグはマジソン・スクエア・ガーデンが販売したものではなく、日本のバッグメーカー、エース社によるものが”本物”だった。

ジーンズ

’60年代のヒッピー文化のムーブメントをベースに、自然体で安価なデニム素材が支持され、ベルボトムやブーツカットのパンツが大流行した。海外ブランドのLevi’s、Lee、Wrangler、国内の EDWIN、Big John、Bobsonのブルージーンズが人気となり、’70年代後半になると、Calvin KleinやRalph Laurenが洗練された高価なジーンズを提案するようになった。

ツナギ、サロペット

’60年代後半からのヒッピー文化の影響によるデニム素材の普及を背景に、’70年代の日本では、それまでの「作業着」という枠を超え、ツナギ(オールインワン/ジャンプスーツ)やサロペット(オーバーオール)が若者を中心にファッションアイテムとして大流行した。サロペットのインナーにカラフルなタイトTシャツやタートルネックを合わせるスタイルが定番で、子供から大人まで幅広い世代に普及した。

アーノルド・パーマー

’60年代後半から’70年代にかけて日本で爆発的な大ブームとなった。それまでのゴルフウェアのイメージを覆し、おしゃれなタウンカジュアルとして日本のファッションシーンに定着。胸元に4色傘のロゴが刺繍されたポロシャツやセーターが、日本における「ワンポイントマークブーム」の火付け役となった。

フィッシャーマンズセーター

「VOGUE」誌で紹介され、マリリン・モンローやグレース・ケリーなどのセレブリティも愛用したことで’50年代から’60年代にかけて世界中で大流行したフィッシャーマンズセーター(アランセーター)が、’70年代初め、トラッドの流行とともに日本でも広く普及した。元々はアイルランドやイギリスの漁師が着ていたワークウェア(仕事着)だが、保温性と防寒性の高さ、美しい縄編みの魅力で、その後もトレンドに左右されない定番の冬物アイテムとして定着した。

アメカジ

アイビーの流れを受け、よりラフでカジュカルにアレンジされたアメリカン・カジュアル、通称アメカジがファッションのジャンルとして確立した。マウンテンパーカーやバックパックなどのアウトドア要素を取り入れた「ヘビーデューティ(機能美)」スタイルが登場し、雑誌「POPEYE (ポパイ)」がアメリカ西海岸のライフスタイルや最新ファッションを伝えたことで、タイトなTシャツにショートパンツやホットパンツ、スニーカーという西海岸風ファッションも人気を集めた。この流れは、後の’80年代の”渋谷カジュアル(渋カジ)”へとつながって行った。

「JUN」ファッション

アメリカ東海岸の大学生風スタイルの「VAN」とは異なる都会的なファッションを提案したのが「JUN」で、’70年代になると”JUN MEN”や”JUN ROPE”などのラインで人気となる。クラシックエレガンスをブランドコンセプトとし、フランスやイタリアの雰囲気を取り入れた細身のシルエットが洒落たヨーロピアンスタイルとして若者の心を捉えた。’70年代後半にはパリ志向のブランド「Nicole」などと連携し、’80年代のDCブランドブームの土台を形成した。

サファリルック

探検隊の服のようなデザインで、サファリジャケットやウエストベルト付きのシャツなど、アースカラーやベージュ系の色が多かった。’70年代半ばに世界的に流行し、「anan (アンアン)」「non-no (ノンノ)」「MEN’S CLUB (メンズクラブ)」など日本の若者雑誌でもよく紹介された。もともとは貴族の狩猟服だったが、イヴ・サンローランなどのハイブランドがファッションとして昇華させ、世界的なトレンドとなった。

ニュートラ

トラディショナルがベースの正統派ブレザーやカーディガン、ワンピースに、エルメスやルイ・ヴィトン、グッチ、フェンディやセリーヌといった高級ブランドバッグをコーディネートするお嬢様スタイル。神戸・山手エリアに住む富裕層の女性たちが好むスタイルとして「an・an」「JJ」「non-no」などのファッション誌で頻繁に取り上げられ、女子大生を中心に一大ブームとなった。ニュートラディショナル略して”ニュートラ”という名称は「an・an」が名付け親とされる。

ハマトラ

神戸発のニュートラに対し、関東のトラディショナルスタイルとして、横浜・元町に本店を構えるブランドのワードローブでコーディネートする横浜発のトラディショナル”ハマトラ”が大流行した。異国的で洒落た港町のお嬢様学校フェリス女学院に通う女子大生をイメージした装いで、ミハマの靴とキタムラのバッグ、フクゾー洋品店のアイテムがハマトラファッションに欠かせない「三種の神器」となった。人気のファッション誌が特集を重ねたことによって、元町ブランドは全国的な知名度と人気を得た。

「BOAT HOUSE」のトレーナー

’79年、青山学院の前にできた小さな店に連日若者たちの行列ができ、ブランド名とボートクルーのロープがデザインされたブルーのトレーナーが飛ぶように売れ一躍社会現象となった。アイビーと海とトラッドをコンセプトとするファッションブランド「BOAT HOUSE」の製品は、加山雄三が映画で着用したことが人気の火付け役だったとされる。若大将と湘南といった爽快なマリンテイストが感度の高い層に支持され、「POPEYE」誌などのマスコミによって人気が過熱していった。

1960

\TOPICS/

高度経済成長の中で若者文化が広がり、アメリカ志向のトラッドが流行し、

後半にはアメリカのカウンターカルチャーの影響も入り、ジーンズやヒッピー風の自由な装いも若者の間に広がった。

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ミニスカート

1959年にデザイナーのマリー・クワントが発表し世界中でブームとなったミニスカートは、’67年に来日したイギリス人モデルのツイッギーによって日本でも大流行した。同時に、ツイッギーの前髪を流したコンパクトなショートヘアも流行した。

モンドリアン・ルック

イヴ・サンローランがオランダの画家ピエト・モンドリアンの抽象画をモチーフにデザインした服で、原色(赤、青、黄)と非彩色(白、黒)のみを使った格子状デザインのAラインのミニワンピースが注目された。

アイビールック

1950年代、アメリカ東海岸の有名名門大学群「アイビー・リーグ」の学生たちが好んだトラディショナルファッションで、日本では男性ファッション誌の「MEN’S CLUB」とヴァンヂャケット創業者の石津謙介氏により大きな広がりを見せた。銀座のみゆき通りをアイビールックに身を包んだ若者たちが闊歩し、彼らは”みゆき族”と呼ばれた。

パンタロン

1964年、シャネルが膝下から裾にかけて釣鐘状に広がるシルエットのパンツが特徴のパンタロンスーツを発表。イヴ・サンローランもこれに続き、ウーマン・リブの台頭とともに女性もズボンを履く時代が本格的に訪れた。

モッズスタイル

ロンドンの若者たちが好んだイタリアンテイストの細身のスーツ(モッズスーツ)をスクーターの汚れから守るため、アメリカ軍放出品のモッズコート (M-51)を羽織るスタイルが定番化した。’60年代半ばのビートルの活躍により、日本を含む世界中で流行した。

ヒッピースタイル

ベトナム戦争下で愛と平和(ラブ&ピース)を掲げ、消費社会や既存の秩序に反発する自然回帰の精神を反映したスタイルで、長髪にヒゲを蓄え、ビーズのネックレスや木綿のバンダナを着用する男性、足元まであるマキシドレス姿の女性、丸いサングラスやバンダナ、ビーズのネックレスなどの小物が流行した。

サイケデリック&ポップ

ヒッピー文化やLSDの幻覚体験に由来する、極彩色・蛍光色・流動的な幾何学柄を用いた派手なスタイル。鮮やかな原色や蛍光カラーを多用し、ペイズリー柄やフラワーモチーフを主流に、ミニドレス、Tシャツ、ベルボトムパンツ、ペーパードレスなどが人気を集めた。

ツナギ、サロペット

ヒッピー文化の影響によるデニム素材の普及を背景に、’70年代の日本では、それまでの「作業着」という枠を超え、ツナギ(オールインワン/ジャンプスーツ)やサロペット(オーバーオール)が若者を中心にファッションアイテムとして大流行した。サロペットのインナーにカラフルなタイトTシャツやタートルネックを合わせるスタイルが定番で、子供から大人まで幅広い世代で普及した。

レナウン・ルック

服飾メーカーのレナウンによるブランドで、640通りのコーディネートができる「イエイエ(Ye-Ye)」シリーズを発表。ミニスカート、鮮やかなニットウエア、Aラインワンピース、カラフルなタイツなどが「イエイエスタイル」として若い女性たちの間で熱狂的な人気を集めた。明るくポップな「ワンサカ娘」のCMで明るく陽気な女性のイメージを打ち出し、ヤングカジュアルの代表格となった。