娯楽&レジャー

1980年代の主な娯楽とレジャー

’80年代後半はバブル経済に向かう高揚感の中で、娯楽が「家庭内」から「屋外・都市型」へと大きく広がったレジャー黄金時代。最新のテクノロジーを駆使した遊びから華やかな都市文化まで、現代に通じるレジャーの多くがこの時代に花開いた。

ディスコブーム

田中康夫の小説「なんとなく、クリスタル」が大ヒットした時代。’80年代前半は赤坂の「ムゲン」や「ビブロス」、後半は六本木「キサナドゥ」麻布十番「マハラジャ」が若者たちの遊び場として人気を集め、ワンレン・ボディコンの若い女性のファッションが社会現象となった。

貸しレコード

ラジカセの普及や’79年に発売されたSONY「ウォークマン」によって、音楽を手軽に楽しむライフスタイルが一般化する中、高価なレコードを購入しなくても好きな音楽が存分に楽しめる「黎紅堂」「友&愛」などの貸しレコード店が若者たちの間で人気となった。

スキーブーム

’87年に公開され大ヒットした映画「私をスキーに連れてって」(主演:原田知世、主題歌:松任谷由実)の影響でスキーが一大ブームに。それまで不人気だった万座温泉スキー場などのゲレンデも多くの若者で賑わうほど、大きな経済効果を生んだ。

東京ディズニーランド

’83年4月15日に千葉県・浦安沖の埋め立て地に誕生、オープン当時の目標集客数1,000万人をわずか1年未満で達成するほどの人気を博した。夢の世界に入り込んだような数々のアトラクションは子供はもちろん大人たちの心も強烈に掴み、2001年に開園した東京ディズニーシーとともに、2026年1月には累計9億人超えの来場者数を誇る最強のテーマパークとして君臨を続ける。

ゴルフブーム

’70年代に青木功やジャンボ尾崎の活躍によって注目され人気となったゴルフは、’80年代になると接待ゴルフとしてビジネスの場でも大きなブームとなった。ゴルフ場を優遇的に利用できるゴルフ会員権は株式のように時価で売買され、投資や投機商品として相場が高騰し取引されるも、バブル崩壊で資産価値は急落した。

ファミコンブーム

’83年に任天堂から手の届きやすい価格の家庭用ゲーム機「ファミコン」が発売され、子供たちの間に空前の大ブームを巻き起こす。’85年には伝説的な大ヒットソフトとなる”スーパーマリオブラザーズ”が登場し、’86年の”ドラゴンクエスト”も熱狂的なファミコン人気を支えた。

ルービックキューブ

ハンガリーの建築学者により考案された立体パズルゲームで世界で大流行した。日本では’80年にツクダオリジナルから発売されると、初年度だけで400万個を売り上げる大ヒットとなった。’81年には東京・帝国ホテルで第1回「全日本キュービスト大会」が開かれ、6歳から68歳まで約400名の参加者が最短記録に挑んだ。優勝は当時16歳の高校生で、優勝賞品として自動車が贈られた。

海外旅行ブーム

’78年の成田空港開港、’85年のプラザ合意を発端とする円高の影響も受け、’80年代は海外旅行の市場が大きな広がりを見せた。国際線の年間日本人旅客数は’87年が869万人、’88年は1082万人にまで拡大。ハワイ、アメリカ西海岸などのリゾートをはじめ、憧れの欧州観光が人気を集めた。本場の焼き肉を食べに、日帰りや一泊での韓国旅行も、”独身貴族”と呼ばれる人々のトレンドとなった。

ボジョレーブーム

’80年代後半のバブル景気の中で爆発的なブームを巻き起こしたのがフランス産ワインの「ボジョレー・ヌーヴォー」。’85年から「11月の第3木曜日」が解禁日となるが、日付変更線の関係で日本は産地・フランスより8時間早く解禁日を迎えることから”世界最速の解禁”として航空会社や百貨店が大々的にキャンペーンを打ち、大きな社会現象となった。’88年の昭和天皇の病状悪化により熱狂的なムードは沈静化するも、日本人が日常の食卓でワインを楽しむ習慣のきっかけとなった。

なめ猫ブーム

学ランにハチマキという暴走族風のコスチュームに身を包んだ「なめ猫」グッズが’80年に登場。自動車免許を模した”なめ猫免許証”は1,200万枚を売り上げ、ポスターも600万枚という一大ブームを巻き起こした。’82年までに約200社から文具やレコード、写真集なども発売され、売上げは570億円以上に及んだ。主役のツッパリキャラクターの又吉(またきち)は実際はメス猫で、ブームの後に4匹の子供を産んだ後に、16年間の生涯を閉じた。

カラオケブーム

’80年代前半のレーザーディスクの登場により、演奏のみだったカラオケが歌詞テロップのついた映像が流れるスタイルに変わった。これを機に’80年代中頃にカラオケボックスが誕生し、それまでスナックや宴会場など酒席の余興だったカラオケは老若男女を問わずに楽しめる娯楽となった。アイドルや歌謡曲が全盛期だった時代の中で、日々のストレス発散や趣味のひとつとして、カラオケは大きなブームとなっていった。

漫才・お笑いブーム

’80年代に入ると「花王名人劇場」や「THE MANZAI」を発端とする漫才ブームが到来。やすきよとともに若手のツービートや紳助・竜介らがテレビを賑わせ、’80年4月に放送開始の「お笑いスター誕生!!」からはB&B、おぼん・こぼんらが誕生、同年10月「笑ってる場合ですよ!」も始まり、ザ・ぼんち、太平サブロー・シロー、のりお・よしおなどのコンビや明石家さんま、山田邦子が人気を集め一大漫才ブーム・お笑いブームが訪れた。漫才師やお笑いタレントが社会的なステイタスを手に入れた時代だった。

1970年代の主な娯楽とレジャー

日本中が熱狂した大阪万博で幕を開けた1970年代は、より良い暮らしや楽しみを求める傾向が顕著になった時代で”一億総中流”という意識が人々の中に根付いた。海外旅行は庶民に手の届くものとなり、マイカーで出かけるレジャーも定着した。家族や仲間と楽しむボウリングは空前のブームとなり、「豊島園」「横浜ドリームランド」「よみうりランド」「東京サマーランド」などの大型レジャー施設は活況を呈した。’73年のオイルショックで節約を美徳とする側面を抱えながらも、明るい未来や暮らし、自由な生き方への期待も膨らみ続けた時代だった。

日本中が熱狂した大阪万博

’70年3月15日〜9月13日の183日間、吹田市千里丘陵で開催された「人類の進歩と調和」をテーマとする国際博覧会で77か国が参加、来場者数は史上最多の6,422万人を記録した昭和最大のイベント。岡本太郎による「太陽の塔」がシンボルとして大きな注目を集め、アポロ12号が地球に持ち帰った月の石の展示など、日本中を熱狂させる世界中のトピックスが一堂に会した。

空前のボウリングブーム

’70年頃から始まったブームは、中山律子や須田開代子などのスタープレイヤーの活躍やテレビ放送の影響で爆発的な人気を集め、’71年には約2,000万人がボウリングを楽しみ、’72年には全国に約3,700施設が存在する国民的レジャーとなった。爆発的なブームは’70年代半ば以降落ち着きを見せるが、以降は日本の代表的なレジャーのひとつとして定着した。

アマチュア無線ブーム

’70年代に若者を中心に広がり、その後「趣味の王様」として爆発的なブームを迎えた。’75年に日本のアマチュア無線局数は30万局を超え、米国を抜いて世界第1位となった。その後は’87年公開の映画「私をスキーに連れてって」の中でハンディ機が最先端の連絡ツールとして描かれたことをきっかけに若者の間で再びブームとなり、’95年、国内のアマチュア局数は過去最高の約136万局となった。

ゴーゴー喫茶

ディスコの前身となるゴーゴー喫茶が’60年代後半から’70年代前半にかけて若者の間で流行した。エレキバンドによる生演奏、ディスクジョッキーによる音楽に合せて踊る非日常的な時間と空間は、当時日本列島を揺るがすほどの人気だったグループサウンズブームと相まって、若者たちの心を強烈に捉えた。

ラジオの深夜放送

’67年に放送開始した「オールナイトニッポン(ニッポン放送)」「パックインミュージック(TBSラジオ)」、’69年「セイヤング(文化放送)」により、’70年代は深夜放送の黄金時代を迎えた。受験勉強などで自室で一人で過ごす若者にとって、ラジオのパーソナリティは友人のように近い距離感で若者の心を捉えた。リスナー参加型のハガキ文化も盛り上がりを見せ、多くの流行のフォークソングやニューミュージックもこの場から生まれた。

変身ヒーローブーム

’66年からの第一次怪獣ブームではウルトラマンや怪獣たちが脚光を浴びたが、’71年の第二次怪獣ブームは、変身ヒーローとして登場した「仮面ライダー(藤岡弘による本郷猛)」が「帰ってきたウルトラマン」の視聴率を上回る変身ヒーローの時代となった。バンダイから発売された「光る!回る!変身ベルト」は子供たちを熱狂させ、大ヒット商品となった。

コックリさんブーム

西洋の占いの一種「テーブル・ターニング」を起源とする降霊術で、キツネの霊とコミュニケーションが取れるとして小・中学生の間でブームとなった。鳥居と五十音表、数字を書いた紙の上に十円玉を置き、皆の人差し指をその上に添え、霊を呼んで質問してゆくもの。霊が来れば10円玉が動き出すとされたことから10円玉の動きに子供たちは興奮したが、その場を盛り上げるために誰かがわざと動かしているのでは、という疑心もつきもののゲームだった。

アンノン族

’70年創刊のファッション誌「an・an」、’71年創刊の同じく「non-no」による旅行特集により、独身女性の間で国内各地への旅行がブームとなった。有名観光地ではなく、当時はまだ知られていなかったスポットが取り上げられることが多く、軽井沢や清里高原、那須高原、京都の嵯峨野や大原などの新しい観光地に雑誌を持った多数の女性グループが訪れ、この女性たちがアンノン族と呼ばれた。

パンダブーム

’72年、日中国交の正常化を記念して中国から「カンカン・ランラン」の二頭のジャイアントパンダが贈呈されると、連日、老若男女が上野動物園に押し寄せる大フィーバーが巻き起こった。約2kmに及ぶ観覧の行列に2時間並んでもパンダが見られるのはたった30秒という爆発的な人気が続き、後の日中パンダ外交の礎となるムーブメントとなった。

超能力・オカルトブーム

’73年「ノストラダムスの大予言」がベストセラーとなり、’74年、映画「エクソシスト」の日本公開とスプーン曲げのユリ・ゲラーの来日により日本は空前の超能力・オカルトブームを迎えた。テレビの生放送では、スタジオのユリがブラウン管を通して送る念で視聴者の家の壊れた時計が動きだすなど、子供たちが興奮する特番が度々作られた。ほかにもテレビディレクターでUFO研究家の矢追 純一氏など、超能力界隈の人々がスポットライトを浴びた時代だった。

オセロブーム

ボードゲーム「オセロ」が’73年に日本で発売されると、初年度だけで30万個、3年間で約250万個を売り上げる大ブームとなった。白と黒の円状の石の数で勝敗が決まるシンプルなゲームながら、勝つためには囲碁のような知恵と戦略が必要で、子供たちのみならず大人たちまでもが夢中になって遊んだ。その後オセロゲームは世界中に普及し、2015年の時点で世界の競技人口は約6億人に達したと言われる。

女子プロレスブーム

’70年代中盤から、マッハ文朱、ミミ萩原、ビューティー・ペアなどの選手の登場により女子プロレスブームが到来。いずれもレコードデビューや映画、ドラマ出演も果たすなど、アイドル的な人気を誇った。ジャッキー佐藤とマキ上田によるビューティー・ペアは女子高生の間で大人気となり、デビュー曲「かけめぐる青春」は80万枚のビッグヒットとなった。

テレビ黄金時代

テレビの録画機が普及する前の’70年代は、観たい番組が始まるまでに急いで帰宅するのが当たり前の時代。テレビは日々の娯楽の中心であり、ドラマから音楽まで人々を夢中にさせる番組が多数作られた。水前寺清子主演の「ありがとう」や銭湯を舞台にした「時間ですよ」、「俺たちの旅」、「傷だらけの天使」「Gメン’75」、山口百恵の赤いシリーズなどの人気ドラマや、新御三家、新三人娘、花の中三トリオが出演する歌番組を観るために人々は家路を急いだ。

大型レジャー施設

「よみうりランド」(’64年開園)、「東京サマーランド」(’67年同)などの大型レジャー施設は、’70年代から’80年代にかけて全盛期を迎えた。’60年代後半から始まったマイカーの普及は、人々のレジャー先を「鉄道で行けるところ」から「車で自由に行ける郊外」へと劇的に広げ、「家族で車で行ける場所」として、大規模駐車場も備える郊外のレジャー施設が大人気となった。

スペースインベーダー

タイトーが’78年に発表したシューティングゲームで、飲食店やゲーム施設に広く設置され全国的なブームとなった。喫茶店のテーブルはこのゲームが組み込まれた筐体に変わり、多くの若者たちが熱中、ゲームをプレイするための100円玉が日本中から消えたと言われるほどの社会現象となった。しかし過熱するブームは国会で「青少年の非行につながる」と問題視されマスコミもこれに同調、ブームは徐々に終息した。

1960年代の主な娯楽とレジャー

高度経済成長真っ只中にあった’60年代は、それまで庶民の大きな楽しみだった映画に代わり、急速なテレビの普及によってテレビ番組が娯楽の中心となって行った。お茶の間を出れば、大型遊園地や自由化された海外旅行、ゴルフやボウリングといったレジャー要素の強いスポーツが大衆の楽しみとして広がり始めた。音楽シーンでは’50年代にエルヴィス・プレスリーの影響を受けて流行した平尾昌晃、ミッキー・カーチス、内田裕也らによるロカビリーが、’60年代半ばのベンチャーズやビートルズの来日を機に続々と誕生したグループサウンズに主役の座を明け渡し、日本列島が熱狂の渦に包まれるグループサウンズの時代が訪れた。

映画ブーム

黒澤明、溝口健二、小津安二郎監督らによる映画作品が大衆の娯楽として支持され、’58年、映画館の観客来場者数はのべ11億人を突破する映画黄金時代を迎えた。石原裕次郎や吉永小百合をはじめ銀幕のスターたちは国民的人気を誇り、植木等やクレイジーキャッツによる娯楽映画もブームとなった。東京五輪(’64年)を機に普及し始めたテレビの影響により’68年には観客数は約3億人に減少するも、戦後の娯楽施設として映画館は大きな存在だった。

フラフープ旋風

’58年、アメリカでフラフープが大流行したことを受けて東京のデパートでも販売されると、一ヶ月で80万本を売り上げる爆発的なブームとなった。美容と健康に良いとされたことで子供だけでなく大人たちもフラフープに興じるも、発売からほどなく、腸ねん転や内臓障害の事例が発生し、むしろ健康に悪影響を及ぼすとして児童に禁止令を出す小学校も現れた。日本中を沸かせたブームは、わずか40日ほどで急速に終焉した。

NHK紅白歌合戦

テレビの急速な普及に伴い、NHKの「紅白歌合戦」が国民的行事として不動の地位を確立。’60年(第11回)からカラー生放送となり、国民的歌手の美空ひばり、坂本九、ザ・ピーナッツ、橋 幸夫らが絢爛豪華なステージで一年を締めくくった。’63年の第14回では史上最高視聴率となる81.4%、約8,000万人が視聴するという驚異の数字を記録。この回は翌年に控えた東京オリンピックを意識し、渥美清が聖火ランナーとして入場し、「こんにちは赤ちゃん」が大ヒットした梓 みちよが初出場した。

素人のど自慢ブーム

’60年代、日本のテレビでは「素人のど自慢」番組が爆発的な人気を集めた。戦後すぐに始まったラジオ版の成功を受け、テレビの普及とともに一般人を主役とするオーディション形式で放送された。この時代、のど自慢は単なるレクリエーションではなくプロの歌手を輩出する役割も持ち、高校時代に函館で「NHKのど自慢」に出場し、宮田輝氏に見初められたことで歌手を志した北島三郎など、歌謡史に刻まれる存在でもあった。

ロカビリーブーム

’60年代初めは’50年代後半から続いたロカビリー旋風の余韻の中、平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチスら「ロカビリー三人男」が活躍した。ジャズ喫茶や日劇ウェスタン・カーニバルが熱狂の拠点となり、後に坂本九や内田裕也らも登場、独自の和製ポップスで音楽シーンを盛り上げた。ロカビリーは洋楽のカバーから和製ロックへの橋渡し役となり、その後のGSブームへとつながって行った。

ダッコちゃん人形

’60年4月、タカラ(現:タカラトミー)から発売された空気ビニール人形の「ダッコちゃん」が若者を中心に爆発的な人気を呼んだ。街にはダッコちゃんを腕やバッグに付けた若い女性や子供たちが続出し社会現象となった。初夏から夏にかけて最盛期を迎えるも、秋になると徐々にブームは終息。しかし当時、同じく大流行したフラフープを上回る勢いで、発売からわずか半年で推定240万個を売上げるブームとなった。

道ばた遊び

住宅街の道路の舗装が始まった’60年代、子供たちの主な遊び場は家の近くの道ばたや空き地だった。縄跳び、竹とんぼ、ベーゴマ、メンコ、おはじき、缶蹴り、ゴム跳び、けん玉、竹馬、だるまさんが転んだなどが定番で、舗装されたばかりの道路に近所の子供たちが集まり、日が暮れるまで遊びに興じた。また、自転車の荷台に舞台となる木箱を載せて街を回る「紙芝居屋さん」が存在し、子供たちを集めて黄金バットや月光仮面などの紙芝居を見せながら駄菓子を売るのも日常的な光景だった。

デパートの大食堂と屋上遊園地

観覧車やゴーカートで遊べるデパートの屋上遊園地は子供たちにとって「夢の国」だった。メリーゴーランドで遊んだ後、大食堂でお子様ランチを食べる休日は子供たちの最大の娯楽であり、買い物と食事、遊びがまとめて楽しめるデパートは家族にとってもテーマパークのような存在だった。夏場の屋上はビアガーデンとしてサラリーマンで賑わい、デパートの屋上は大人たちにとっても大事な憩いの空間だった。

国内旅行ブーム

’60年に昭和天皇の五女・貴子さまが新婚旅行で青島を訪れ、その2年後に当時の皇太子ご夫妻も訪れたことで、宮崎がロイヤルウェディングの象徴として大人気となった。これによって宮崎行きの新婚旅行専用列車も登場、南国・宮崎への新婚旅行がブームとなった。また、東京五輪の開催や’70年の大阪万博を控えて社会インフラの整備も本格化し、新幹線や東名・名神高速道路という鉄道・道路の二大幹線が開業。東京タワーを目指す修学旅行や国内の団体旅行、社員旅行も活発となった。

テレビアニメブーム

’63年の「鉄腕アトム」の放送を皮切りに、日本は第一次アニメブームを迎えた。同年の「エイトマン」「鉄人28号」も子供たちを夢中にさせ、鉄腕アトムは最高視聴率40%という数字を叩き出した。「ジャングル大帝」「オバケのQ太郎」(’65年)、「魔法使いサリー」「おそ松くん」(’66年)、「巨人の星」「ゲゲゲの鬼太郎」「サイボーグ009」「妖怪人間ベム」(’68年)と人気作が続々と生まれ、テレビのカラー放送が進む中で、アニメブームは加速して行った。

ジャズ喫茶、名曲喫茶

高価なレコードや高品質な音響設備で音楽が楽しめるジャズ喫茶や名曲喫茶が、若者や文化人が最新の海外文化を享受できる場所として人気を集めた。新宿の「DUG(ダグ)」や「ACB(アシベ)」をはじめ日本全国に広がり、ジャズファンやミュージシャンの溜まり場となるとともに、寺山修司や村上春樹などの作家や文化人が集い交流するサロンとしての役割も担った。

グループサウンズブーム

エルヴィス・プレスリーの影響から人気となったロカビリーに代わり、’60年代になるとベンチャーズやビートルズに影響を受けたグループサウンズが大流行した。ザ・スパイダース、ザ・タイガース、ザ・テンプターズをはじめ、若い女性たちを熱狂させるグループが続々と登場しヒット曲を連発した。失神騒動まで起きる熱狂ぶりから”不良の音楽”としてNHK紅白歌合戦はほとんどのグループの出場を許さなかったものの、’70年代に入るまで驚異的な人気は続いた。

マイカーブーム

’66年、日産サニーとトヨタカローラが登場し、1000ccクラスの大衆車時代が幕を開けた。この年はマイカー元年と呼ばれ、’65年には約59万台だった乗用車の保有台数は、’70年には237万台へ激増した。自家用車の普及によって家族でのドライブや旅行といった新しいレジャー様式が定着し、急速なモータリゼーションとともに、東名高速道路の開通や大駐車場を備える郊外の大型レジャー施設の隆盛など、日本人の余暇の形が大きく広がっていった。

第一次怪獣ブーム

円谷英二による「ウルトラQ」(’66年)がテレビで怪獣ブームを巻き起こし、続く「ウルトラマン」が巨大ヒーローの決定版として最大30%を超える視聴率を記録。映画の技術がテレビに投入され、同年の「マグマ大使」は日本初のカラー特撮番組として放送された。等身大ヒーローでは「仮面の忍者 赤影」(’67)も人気を博した。「快獣ブースカ」「ジャイアントロボ」、映画「大怪獣ガメラ」も子供たちを熱狂させ、特撮ヒーローを含む第一次怪獣ブームが訪れた。

ミニスカート大流行

ロンドンのファッションデザイナー、マリー・クワントが発表し世界中で流行したミニスカートは、’67年に来日したイギリス人モデルのツイッギーによって日本でも大旋風を巻き起こした。吉永小百合など銀幕のスターや国民的歌手の美空ひばりがミニスカート姿を披露し、日本航空や全日空の客室乗務員の制服にもミニスカートが取り入れられた。従来の保守的な服装から女性たちを解放し、女性の自由と自立を象徴するファッションとして支持され、一般にも広く浸透して行った。

ヒット商品 > 1980年代

1980年代は経済成長が再び加速し、生活の中に「豊かさ」だけでなく「華やかさ」や「遊び」が求められるようになった。家電は高性能化・多機能化が進み、ビデオデッキやステレオが一般家庭に普及し、個人が好きな映像や音楽を選んで楽しむ環境が整った。ファッションや音楽ではアイドル文化やシティポップが隆盛し、テレビや雑誌がライフスタイルの指標として強い影響力を持つ。後半にはバブル経済へと向かい、消費は自己表現やステータスと結びつき、海外旅行やブランド志向も拡大した。’80年代は「憧れ」や「夢」を消費することで、自分の生き方を演出する感覚が社会全体に広がった時代だった。

 ─ 各年発売の主なヒット商品 ※古い年順(作成途中) ─ 

1980年代
高度成長期に形成された「標準的な家庭生活」を土台に、消費は家族単位から個人単位へと静かに軸足を移して行った。家電は一家に一台の時代を越え、用途別・個人別に細分化される。デジタル技術の導入とAV機器の進化により、娯楽は外出型から室内型へ、共有から選択へと変化し、昭和後半の生活像がほぼ完成形に近づいた時期。
1980年

・初代「レパード」(日産)
・初代「カムリ」(トヨタ)
・初代「クレスタ」(トヨタ)
ポータブルカセットテーププレーヤー
「ウォークマン」大ヒット(SONY)
・初代「ウォシュレット」(TOTO)
・雑誌「BRUTUS」創刊(マガジンハウス)
プラスチックモデル「ガンダム」大ブーム(バンダイ)
ルービックキューブ発売、'81年にかけて大ブームに
(ツクダオリジナル[現:メガハウス])
・「ホッカイロ」ヒット(白元)
・「ポカリスエット」(大塚製薬)
・マルちゃん「緑のたぬき」(東洋水産)
・「日清ソース焼そばU.F.O.」※リニューアル(日清食品)

1981年

・初代「ソアラ」(トヨタ)
・初代「シティ」(ホンダ)
「IBM Personal Computer 5150」大ヒット(IBM)
「雪見だいふく」大ヒット(ロッテ)

1982年

・初代「マーチ」(日産)
・「カローラ2」(トヨタ)
・初代「ビスタ」(トヨタ)
・初代「スプリンターカリブ」(トヨタ)
・PC「98シリーズ」(NEC)
・PC「FMシリーズ」(富士通)
・ウォシュレットキャンペーン
「おしりだって、洗ってほしい。」で業界シェア58%に(TOTO)
和製「タカラ・バービー人形」ヒット
(タカラ[現:タカラトミー])

1983年

・7代目「クラウン」宣伝文句"いつかはクラウン"で人気に
(トヨタ)
・省エネタイプの「インバーターエアコン」が主流に
・ひとびとのヒットビット「MSX」(SONY)
デジタルシンセサイザー「DX7」大ヒット(ヤマハ)
・ファミリーコンピューター(任天堂)
・入浴剤「バブ」(花王)
カプセルトイ「キン肉マン」大ヒット(バンダイ)
・「カロリーメイト」(大塚製薬)

1984年

・「Macintosh128K」(アップル)
・VHS-Cビデオムービー「GR-C1」(日本ビクター)
プラスチックモデル「ガンダム」シリーズ1億個突破
(バンダイ)
・「カントリーマアム」(不二家)
・「ハーゲンダッツ」青山1号店オープン

プラザ合意以降の円高を背景に、輸入品・海外文化に対する心理的距離が一気に縮まった。家電や日用品は高性能化・高付加価値化が進み、生活はすでに完成形に達していながら、さらに上を目指す「余剰の消費」へ向かう。昭和的生活様式が最も華やかに演出された時期であり、同時に次の時代への移行を内包していた。
1985年

プラザ合意を起点とするバブル経済の到来
・初代「カリーナED」(トヨタ)
・初代「トゥデイ」(ホンダ)
・初代「ハンディカム(CCD-V8)」(SONY)
AF一眼レフ「ミノルタα-7000」大ヒット(コニカミノルタ)
・携帯電話「ショルダーホン100型」(NTT)
ファミコンソフト「スーパーマリオブラザーズ」大ヒット
(任天堂)
ファミコンソフト「キン肉マンマッスルタッグマッチ」ヒット
(バンダイ)
・「ビックリマンチョコ悪魔vs天使シリーズ」大ヒット(ロッテ)

1986年

ラップトップPC「T-3100GX」大ヒット(東芝)
・手のひらサイズに再生機能がついた8ミリビデオカメラ
「CCD-V30」(SONY)
・VHS-Cビデオムービー「GR-C7/GR-C9」(日本ビクター)
ダブルステンレスボトル「サハラスリム」大ヒット
(タイガー)
・使い捨てカメラ「写ルンです」(富士フィルム)
・「リゲイン」(第一三共ヘルスケア)
・「サントリーモルツ」(サントリー)
・「ビックリマン」大流行(ロッテ)
スティックパック「ハイチュウ」爆発的ヒット(森永)
・DCブランドブーム最盛期

1987年

・高画質・多機能8ミリカメラ一体型ビデオ「CCD-V90」(SONY)
・片手で持てる携帯電話「TZ-802型」(NTT)
電子システム手帳「PA-7000」大ヒット(シャープ)
・ポケットベル急速に普及へ
・「聖闘士星矢」関連商品ヒット(バンダイ)
・マウスウォッシュ「モンダミン」(アース製薬)
「アサヒスーパードライ」爆発的ヒット(アサヒビール)
 →ビール市場は「ドライ戦争」へ

1988年

リクルート事件発生の年
・初代「セフィーロ」(日産)
・ニッサン セドリック「シーマ FPY31型」(日産)
・14型TFTカラー 液晶ディスプレイ(シャープ)
・ロゴ・タイトル編集機能がついた2代目ハンディカム
「CCD-F300」(SONY)
・空気清浄機能搭載エアコン「エオリア」
(松下電器産業[現:パナソニック])
・DDIセルラー、日本移動通信が携帯電話サービスを開始[現:KDDI/au]
「コアラのマーチ」大流行 ※1984発売(ロッテ)
・「果汁グミ」(明治)
・情報誌「Hanako」創刊(マガジンハウス)

ヒット商品 > 1970年代

1970年代は高度経済成長の終焉とともに、量的拡大から質的充足へと価値観が移行した時代だった。’70年の大阪万博は未来志向と技術立国の象徴として人々を熱狂させた一方、’73年のオイルショックは大量消費社会にブレーキをかけ、節約や合理性が生活に入り込んだ。カラーテレビは完全に定着し、クーラーや冷蔵庫は生活必需品として当たり前化する。若者文化ではフォークソングやニューミュージックが台頭し、個人の内面や等身大の感情を歌う表現が支持を集めた。豊かさの意味を問い直しながら、「便利さ」と「自分らしさ」を同時に求め始めた時代でもあった。

 ─ 各年発売の主なヒット商品 ※古い年順(作成途中) ─ 

1970年代
1970年の大阪万博を頂点に、日本の消費社会は「未来」「便利」「豊かさ」を前向きに享受する段階へ到達した。家電や日用品は生活必需を超え、暮らしを演出する存在へと変化する。一方で'73年のオイルショックはその流れに急ブレーキをかけ、生活者の意識を「拡大」から「見直し」に転換させた。5年間の中に、夢と不安の両方が凝縮された時期である。
1970年

大阪万博開催の年
・初代「ジムニー」(スズキ)
・初代「セリカ」(トヨタ)
・初代「カリーナ」(トヨタ)
電子ジャー「炊きたて」爆発的ヒット(タイガー)
・ファッション誌「anan」創刊(マガジンハウス)
"水に溶ける紙"などの「スパイシリーズ」がヒット
(サンスター文具)
・和風調味料「ほんだし」(味の素)
・マーガリン「マリーナ」(味の素)
・「ケンタッキーフライドチキン」1号店が名古屋にオープン
'71年にかけて空前のボウリングブーム到来

1971年 「ボウリングゲーム」大ヒット
・仮面ライダー1号変身ベルト「タイフーン」ヒット
(現:プレックス)
「アメリカン・クラッカー」流行
・ファッション誌「non-no」創刊(集英社)
・キャンデー「チェルシー」(明治)
・チョコレート「小枝」(森永)
・「ソフトエクレア」(不二家)
・サンキスト炭酸ドリンク缶(森永)
・カップヌードル(日清食品)
・「ククレカレー」(ハウス)
ニコちゃんマークの文具・グッズがブーム
・マクドナルド1号店「銀座・三越百貨店1階」オープン
1971~1974年 第2次ベビーブーム
1972年 沖縄返還の年
グアム残留日本兵、横井庄一さん帰還
ジャイアントパンダ「カンカン・ランラン」一大ブームに
4代目「スカイライン(C110型)」のCMで"ケンメリ"ブーム到来
・ホンダ「シビック」(ホンダ)
・初代「スプリンタートレノ」(トヨタ)
・「カローラレビン」(トヨタ)
・業界初の壁掛冷・暖房エアコン(松下電器産業[現:パナソニック])
ハイビスカス柄マインポット(NM型)歴史的ヒット(タイガー)
・「ソックタッチ」(白元)
・プッチンプリン(江崎グリコ)
1973年 ・初代「スターレット(パプリカスターレット)」(トヨタ)
・初代「ランサー」(三菱)
・野菜室付き3ドア冷凍冷蔵庫 「ニューアラスカ(SJ-3300X)」(シャープ)
ビニール製「スポーツカイト(凧)」ヒット
・'74年にかけて「オセロ」ゲーム大ヒット
(ツクダ)
・「シュガーカット」(浅田飴)
・「明治ブルガリアヨーグルト」(明治)
・「クノールカップスープ」(味の素)
・「ごはんですよ!」(桃屋)
「ノストラダムスの大予言」ヒット(祥伝社)
第1次オイルショックによるトイレットペーパー買占め騒動、商業施設の時短営業、ナイター開始時間の繰り上げ、深夜放送休止など
1974年 ユリ・ゲラー来日の年 → 超能力ブーム起きる
フィリピンルパング島残留日本兵、小野田寛郎さん帰還
「超合金マジンガーZ」大ヒット(バンダイ)
ジグゾーパズル流行
オイルショック後の混乱が落ち着き、日本の消費社会は「節約一辺倒」から「必要な楽しみを取り戻す」方向へと舵を切った時期。生活防衛意識を土台にしながらも、家庭内で完結する娯楽や快適性への需要が再び高まった。高価だが憧れの存在だった家電や設備が、少しずつ現実的な目標として意識され始める。
1975年 ・初代「ピッカリコニカ」(小西六写真工業[現:コニカミノルタ])
多機能デジタル腕時計「0634」大ヒット(セイコー)
「黒ひげ危機一発」ヒット(タカラトミー)
・「サッポロ一番 カップスター」(サンヨー食品)
・チョコスナック「きのこの山」(明治)
・箱入り「ハイチュウ」(森永)
・'70年代中頃から「ニュートラ(ニュートラディショナル)」流行
1976年

ロッキード事件発生の年
ホンダ「ロードパル」ヒット(ホンダ)
一眼レフカメラ「キヤノンAE-1」ヒット(キャノン)
・雑誌「POPEYE」創刊(マガジンハウス)
「およげ!たいやき君」と関連商品大流行
「パックマンゲーム」ヒット
・「日清焼そばU.F.O.」 (日清食品)
・「日清のどん兵衛きつね」(日清食品)

1977年 ・初代「チェイサー」(トヨタ)
パーソナルテレビ「サイテーション(KV-1375)」爆発的ヒット
(SONY)
ヤマハパッソル「S50」爆発的ヒット(ヤマハ発動機)
・布団乾燥機「AD-600」(三菱電機)
・VHS方式ビデオテープレコーダ「マックロード」(パナソニック)
・世界初オートフォーカスカメラ「コニカC35AF(ジャスピンコニカ)」
(小西六写真工業[現:コニカミノルタ])
・蛍光灯「パルック」(パナソニック)
・「スーパーカー」玩具、文具ブーム
・カプセル玩具の自動販売機登場
・「エンゼルパイ」2個紙箱入り(森永)
・「ビックリマンチョコ」(ロッテ)
・「日清のどん兵衛 きつねそば(赤)」(日清食品)
1978年 初代「プレリュード」デートカーとして若者中心に大ヒット
(ホンダ)
・「マツダサバンナRX-7」(マツダ)
・「ターセル」「コルサ」(トヨタ)
・初代「スープラ」(トヨタ)
・2画面のテレビ・イン・テレビ「CT-1804X」(シャープ)
ルームエアコン「RAS-2201WSL」ヒット(日立)
・「バービー人形」日本で発売開始
「モグラたたきゲーム」大ヒット(バンダイ)
「スライム」大流行(ツクダオリジナル[現:メガハウス])
・「ボンカレーゴールド」(大塚食品)
・「とんがりコーン」(ハウス)
1979年 ・第2次オイルショック
初代「アルト」大ヒット(スズキ)
フロントローディングVTR 「マイビデオV3(VC-6080)」大ヒット
(シャープ)
パーソナルコンピュータ「PC-8001」大ヒット(NEC)
・日本語ワープロ「書院」<WD-3000>(シャープ)
・ミニステレオカセットレコーダ「MR-U4」 ヒット(三洋電機)
・センサーオーブンレンジ(シャープ)
「キヤノンAF35M(キヤノンオートボーイ)」大ヒット(キャノン)
・ポータブルカセットテーププレーヤー初代「ウォークマン」(SONY)
 ※「ウォークマン」1号機
・セイコードレスクォーツ「Cal.1320」(セイコー)
「インベーダーゲーム」大流行
「ウルトラマン人形」大ヒット
「キャンディ・キャンディかんごふさんバッグ」大ヒット(バンダイ)
・「日清のどん兵衛 天ぷらうどん」(日清食品)
・「パイの実」(ロッテ)
・「うまい棒」(リスカ)
・'70年代末~'80年代初期「ハマトラ(横浜トラディショナル)」流行

ヒット商品 > 1960年代

1955年以降は「欲しかった家電」が「買える家電」になり、それが当たり前化に向かった。’60年代に入ると洋風の感覚が日常に入り込み、後半には「日本誕生以来の好景気」とされるいざなぎ景気が到来。’64年の東京オリンピックを契機とするカラーテレビの普及とともに、マイカーを含む3C(カラーテレビ・クーラー・カー)が一般家庭に浸透し始めた。海外旅行も自由化され、’66年は「マイカー元年」として家族でドライブを楽しむ習慣が生まれた。ベンチャーズやビートルズの来日により日本でも華やかなグループサウンズが続々と誕生し、人々は経済成長、若者人口の増加、メディアの拡張という時代背景の中で、人生を彩るさまざまな楽しみと豊かさを享受していった。

 ─ 各年発売の主なヒット商品 ※古い年順(作成途中) ─

1960年以前
1924年 ・ラジオ(芝浦製作所[現:東芝])
・電気釜
1925年 ・「ケロリン」(内外薬品)
・日本初のマヨネーズ「キューピーマヨネーズ」
(食品工業[現:キューピー])
・「北海道バター」(雪印)
1926年 ・「ミルクチョコレート」(明治)
・「明治ココア」(明治)
1930年 ・日本初の電気洗濯機「ソーラー」(芝浦製作所[現:東芝])
 ※洗濯機は後の三種の神器
・日本初の電気冷蔵庫(1930年、芝浦製作所[現:東芝])
 ※冷蔵庫は後の三種の神器
・電気蓄音機
・芳香浴剤「バスクリン」(津村順天堂[現:ツムラ])
「江戸むらさき」ヒット(桃屋)
1931年 ・日本初の電気掃除機「VC-A型」(芝浦製作所[現:東芝])
・電気ミシン
1932年 ・黒電話「3号卓上電話機」(住友ベークライト)
・チューブ入りチョコレート「ソフトチョコレート」(森永)
1933年 「ヨーヨー」大流行
・酵母を使った栄養菓子「ビスコ」(江崎グリコ)
1934年 ・「北海道チーズ」(雪印)
1935年 ・「ハートチョコレート」(不二家)
1936年 ・扇風機「MURZ」(松下電器産業[現:パナソニック])
1937年 ・ラジオエレクトロラ「RE-48(ヨンパチ)」大ヒット (日本ビクター)
1940年 ・日本初の蛍光ランプ「FL20D-DL」(東芝ライテック)
1946年 「ラビットスクーター S-1型」爆発的ブーム(富士重工業)
1947年 ・家庭用ミシン第1号機トヨタミシン「HA-1」(アイシンコムセンター)
1947~1949年 第1次ベビーブーム
1949年 ・戦後の標準黒電話機 「4号電話機」(NTT)
1950年 ・電気毛布
・トースター
・ドライヤー
・カメラブームを牽引する「リコーフレックスⅢ」発売
(理研光学工業[現:リコー])
・テープレコーダー(東京通信工業[現:SONY])
・6型・婦人用手巻機械式腕時計(セイコー)
「きいちのぬり絵」ベストセラー
・国産プラスチック玩具
・「リズムボール」(バンダイ)
・キャラクター「ペコちゃん」(不二家)
・明治ハネーヨーグルト(明治)
・「赤缶カレー粉」(S&B食品)
1951年 ・大型フリクションの「B-29」玩具(タカラ[現:タカラトミー])
・「ロゼット洗顔パスタ」(ロゼット)
・「花王粉せんたく」(花王)
・「バヤリース」(朝日麦酒[現:アサヒ])
・「味の素」30g食卓瓶(味の素)
・明治コナミルク(明治)
・「ミルキー」(不二家)
1952年 ・音の静かな三菱扇風機「 D-10B」(三菱電機)
・「ホンダ カブF型」(ホンダ)
「風船ガム」流行
・電動玩具第一号「セダン型自動車」「上飛び飛行機」
1953年

・「日野・ルノー4CV」(日野自動車)
・日本初のウインド形エアコン「東芝ルームクーラー」
(芝浦製作所[現:東芝])
・テレビ放送受信用・八木式アンテナ「 VY1-0001」型
(八木アンテナ)
・白黒テレビ「TV3-14T」普及モデル(シャープ)
・白黒テレビ「17T-2」(富士通)
※白黒テレビは後の三種の神器
・「A型ヘルスメータ」(大和製衡)
・「オロナイン軟膏」(大塚製薬)
・マジックインキ大型「ML-T」(寺西化学工業)
・紙玩具「巻鳥」「カレイドスコープ」「音の出る絵本」

1954年

「マリリン・モンロー」来日の年
ミシン「320型」大ヒット(ジャノメミシン)
電動玩具流行
国産「ミルク飲み」人形流行
・「6Pチーズ」大量生産化(雪印)
・「スペアミントガム」(ロッテ)
・「パラソルチョコレート」(不二家)

1955年 ・初代「クラウン」誕生(トヨタ)
・「ヤマハ 125  YA-1」(ヤマハ発動機)
・トランジスタラジオ「TR-55」(東京通信工業[現:SONY])
日本初の自動式電気炊飯器「ER-4」大ヒット(東芝)
・環形蛍光ランプ「サークライン」 FCL30(東芝ライテック)
・電気こたつ(東芝)
・ナショナル電気カミソリ「MSIO」(松下電工)
・ラジオ・コントロール・バス
・「花王フェザーシャンプー」(花王)
・1粒で2度おいしい「アーモンドグリコ」(江崎グリコ)
1956年 バネ式遊具「ホッピング」大流行
・「でん六豆」(でん六)
1957年 ・初代「スカイライン(プリンス・スカイライン)」(プリンス自動車)
・「ダイハツ ミゼット DKA」(ダイハツ工業)
白黒テレビ「 T-14R1」普及価格で爆発的ヒット
(松下電器産業[現:パナソニック])
・三段階高さ調節式扇風機「キリン」(三洋電機)
66版カメラ「フジペット」大ヒット
(富士写真フイルム[現:富士フイルム])
・やぐらこたつ(東芝)
・日本初の飲料用自動販売機(ホシザキ)
「ジュース自動販売機」爆発的ヒット(ホシザキ電機)
・女性週刊誌「週刊女性」創刊(河出書房→主婦と生活社)
赤銅鈴之助「赤ザヤの刀」流行
髪型をアレンジできる「カール」人形人気
・「ホットケーキミックス」(森永)
・お口のエチケット「グリーンガム」(ロッテ)
1958年

・大衆車「スバル360」人気(富士重工業[現:SUBARU])
・初代 「スーパーカブ」(本田技研)
・ステレオ・レコード再生装置「STL-1S」(日本ビクター)
・ルームエアコン「ナショナル・ホームクーラー」
(松下電器産業[現:パナソニック])
・電子オルガン「EO-4420」(日本ビクター)
・初の国産たばこ販売機「TH-1型」(グローリー工業)
・女性週刊誌「女性自身」創刊(主婦と生活社)
・キッチンスケール(大和製衡)
・初代「野球盤」(エポック)
・日本初のプラモデル玩具「ノーチラス号」
「フラフープ」大流行
・ポリボトル容器の「キューピーマヨネーズ」(キューピー)
・「チキンラーメン」(日清食品)
・「アーモンドチョコレート」(江崎グリコ)

1959年 皇太子ご成婚の年
・初代「ブルーバード(ダットサン・ブルーバード)」(日産)
・日本初のトランジスタ式テレビ(東芝)
・日本初のカラーテレビ(東芝)
・日本初の電子レンジ(東芝)
ハーフ版カメラ「オリンパスペン」ヒット
(オリンパス光学工業[現:オリンパス])
・トランジスタ電子計算機「HITAC 301」(日立)
・人型ロボット「ロビイ」「スカイピンポン」
・プラモデル玩具「ノーチラス号」
・国産ミニチュアカー「世界の自動車シリーズ」(バンダイ)
ぬいぐるみ「モデルペット」人気
米国で「バービー」人形発売、爆発的ヒット(マテル社)
1960年~
家電はまだ贅沢品の延長線上にありつつも、分割払いの普及などによって一般家庭への浸透が進行。都市生活を中心に、食と娯楽の簡便化・大量化も始まった。1964年の東京オリンピックは、消費とメディア意識を一段階引き上げる決定的な契機となった。1960年代前半は「家電=家族の中心」「お菓子=テレビと結びついた消費」という構図がはっきり立ち上がった時期だった。
1960年 ・1960年代~アマチュア無線が「キングオブホビー」と呼ばれる黄金期へ
・初代「セドリック」(日産)
14型白黒テレビ「14-SB」“Xライン”(富士通ゼネラル)爆発的ヒット
→東芝・日立・松下も白黒テレビ発売、白黒テレビ普及率が50%に到達
・日本初の二槽式脱水乾燥洗濯機 「SW-400」(三洋電機)
 →電気洗濯機が都市部を中心に普及へ向かう
・衣料用洗剤「ザブ」(花王)
・「ポラロイド120」「ポラロイド160」カメラ日本発売(ポラロイド/ヤシカ)
西部劇の流行によるガン・ブーム
・「ごっこ遊び」シリーズ
ビニール人形「ダッコちゃん」大流行
(タカラビニール[現:タカラトミー])
・「ワンタッチカレー」(江崎グリコ)
・森永などの板チョコが国民的菓子として安定消費される段階へ
・「のりたま」(丸美屋)
・「ムーンライトクッキー」(森永)
・「クールミントガム」(ロッテ)
1961年

・電気冷蔵庫の普及→買いだめ・まとめ買いの生活様式広がる
・世界初家庭用壁掛け式エアコン「CLU-71」(芝浦製作所[現:東芝])
・かくはん式全自動洗濯機「スキャット」(日立)洗濯の電化
→セットで花王・ライオンなどの粉末洗剤も売れる
坂本九「上を向いて歩こう」爆発的ヒット
・プラレール「ハイウェーセット」(トミー[現:タカラトミー])
国産プラスチック玩具人気
・玩具輸出総額が輸出玩具産業面で世界第一位となる(286億円)
・森永・グリコなどのキャラメルが子どもの日常菓子として定着
・「エンゼルパイ」(森永)
・「マーブルチョコレート」(明治)
・「アイスクリームデラックス」(森永)

1962年

・初代「ミニカ」(三菱)
・初代「ファミリア」(マツダ)
・世界初のセパレート型ステレオ「PSC-5A」発売(パイオニア)
・SONYなどのトランジスタラジオ普及へ
・車で観るマイクロテレビ「TV5-303」(SONY)
・魔法瓶が家庭・職場で普及→保温が日常化
・日本初の量産電子レンジ「R-10」(シャープ)
全自動ハーフ版カメラ「リコー オートハーフ」ヒット(リコー)
・女性週刊誌「女性セブン」創刊(小学館)
・女性週刊誌「ヤングレディ」創刊(講談社)
・解熱鎮痛剤「バファリン」(ライオン)
・冷蔵庫用脱臭剤「ノンスメル」(白元)
・衣料用洗剤「ニュービーズ」ヒット(花王)
・ばね状玩具「スリンキー(トムボーイ)」
(三光発条[現:サンコースプリング])
第1次プラスチック・モデル・ブーム
(ゼロ戦・隼・戦艦大和・鉄人28号など)
・「着せ替え人形」
ドリンク剤「リポビタンD」空前のヒット(大塚製薬)
・「マルシンハンバーグ」(マルシンフーズ)
・「雪印カマンベールチーズ」「雪印スライスチーズ」(雪印)
・ハードキャンディ「コーヒータップ缶入」(森永)
・「ルック」チョコレート(不二家)

1963年 ・テープレコーダ「マイソニック」(松下)
・電気蚊取り器「ベープ」(フマキラー)
・「レーシングカー」
・「バービー人形」
・「バーモントカレー」(ハウス)
・「日清焼そば」(日清食品)
・「コーンフレーク」「コーンフロスト」(ケロッグ)
・「ナボナ」(亀屋万年堂)
1964年 東京オリンピック開催の年
・「東洋の魔女」金メダル獲得で空前のバレーボールブーム
 →「アタックNo.1」や「サインはV」制作される
・男性向け週刊誌「平凡パンチ」創刊
(平凡出版[現:マガジンハウス])
アイビールック流行
「ハンドルリモコン自動車」大ヒット(バンダイ)
・「タミーちゃん」
・「お話ミコちゃん」(トミー)
・「スーパーボール」(Wham-O社)
・入浴剤「バスロマン」(アース製薬)
・ロッテ初のチョコレート「ガーナミルクチョコレート」(ロッテ)
・「ハイクラウンチョコレート」(森永)
・「かっぱえびせん」(カルビー)
・「ネクター」(不二家)
・「クノールスープ」(味の素)
高度経済成長が最盛期に入り、耐久消費財は「持っているかどうか」から「より新しい・より便利なものへ更新するか」という段階へ移行した。家電は家庭内にほぼ行き渡り始め、関心は性能・デザイン・快適性へと向かう。一方で、個人消費・若者消費が急拡大し、音楽・ファッション・菓子といった分野で“流行を楽しむ”感覚が強まった。この5年間は、「家電=更新」「菓子=流行」「消費=楽しみ」がはっきり分かれて見え始める時期となる。
1965年 ザ・ベンチャーズ」来日の年
・初代「シルビア」(日産)
・初代「プレジデント」(日産)
「レーシングカーセット」大ブーム(バンダイ)
「オロナミンC ドリンク」大ヒット(大塚製薬)
・洗濯用洗剤「ブルーダイヤ」(ライオン)
・「エメロン」シャンプー(ライオン)
・「チョコレートボール」(森永)
1966年 「ザ・ビートルズ」来日の年
・初代「サニー」(日産)
・初代「カローラ」(トヨタ)
・日本初のターンテーブル式家庭用電子レンジ「R-600」(シャープ)
「クレイジー・フォーム」流行(バンダイ)
「オバケのQ太郎」大流行
第1次怪獣ブーム起きる
・食器・野菜用洗剤「ママレモン」(ライオン)
・チューブ入りケチャップ(カゴメ)
・「サッポロ一番(しょうゆ味)」(サンヨー食品)
・「明星チャルメラ」(明星食品)
・「ゴールデンカレー」(S&B食品)
・世界初の棒状チョコレート「ポッキー」(江崎グリコ)
1967年 GS(グループ・サウンズ)ブーム到来
ツィッギー来日、ミニスカート旋風巻き起こる
・「ホンダ・N360」(ホンダ)
・ドライタイプルームエアコン(日立)
・ルームエアコン「霧ヶ峰」(三菱電機)
「ツイスターゲーム」流行(任天堂)
「ウルトラハンド」大ヒット(任天堂)
象がふんでもこわれない「アーム筆入れ」大流行(サンスター文具)
・着せ替え人形・初代「リカちゃん」(タカラ[現:タカラトミー])
・「チョコボール」「チョコフレーク」「エールチョコレート」(森永)
1968年 ・初代「スプリンター(カローラスプリンター)」(トヨタ)
・初代「ローレル」(日産)
・「コロナマーク2」(トヨタ)
・トリニトロン方式カラーテレビ第1号「KV-1310」(SONY)
「わんぱくフリッパー」大ヒット(バンダイ)
・輸入ミニカー普及
「人生ゲーム」大ヒット(タカラトミー)
「マジソン・バッグ」発売、以降大ブームへ(エース)
・世界初の市販用レトルト食品「ボンカレー」(大塚食品)
・「ジャワカレー」(ハウス)
・インスタントラーメン「出前一丁」(日清食品)
・「サッポロ一番 みそラーメン」(サンヨー食品)
・「雪印ネオ マーガリンソフト」(現「ネオソフト」)(雪印)
・日本初のスナック菓子「カール」(明治)
・「ノースキャロライナ」(不二家)
三億円事件発生の年
1969年 ・初代「フェアレディZ」(日産)
・壁掛けクーラー「樹氷」(松下電器産業[現:パナソニック])
・「ママレンジ」(アサヒ玩具)
・「アポロ」チョコレート(明治)
・「ハイソフト」ミルクキャラメル(森永)

アニメ&ヒーロー > 1960年代

1960年代は、テレビアニメと特撮ヒーロー番組が急速に発展した。アニメは『鉄腕アトム』を嚆矢に毎週放送型のシリーズが定着し、ロボット・冒険・SFなど子ども向けのテーマが主流となった。低予算を補うための limited- animation が技法として確立し、後の日本的キャラクターデザインの基礎も形成された。一方、特撮ヒーロー番組は『ウルトラマン』『マグマ大使』『仮面の忍者 赤影』などが人気を獲得し、怪獣・変身・巨大ヒーローといった要素が確立していく。撮影技術の革新やミニチュア・スーツアクションの洗練により視覚表現が飛躍し、アニメとともに子ども文化を牽引するテレビ娯楽が社会的影響力を強めた。

─ 主なアニメ・特撮ヒーロー ─

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アニメ
animation

(C)「ねりまアニメ年表」(魔法使いサリー)著作者:光プロダクション・東映アニメーション

1969年12月7日 - 1971年11月28日
全104話(フジテレビ)

アタックNo.1

1969年10月5日 - 現在
(フジテレビ)

サザエさん

1969年10月5日 - 1970年12月27日
全65話(フジテレビ)

ムーミン(第1作)

1969年10月5日 - 1970年9月27日
全104話(フジテレビ)

ハクション大魔王

1969年10月2日 - 1971年9月30日
全105話(YTV)

タイガーマスク

1969年9月29日 - 1970年3月28日
全156話(日本テレビ)

男一匹ガキ大将

1969年9月29日 - 1970年3月28日
全156話(フジテレビ)

ピンチとパンチ

1969年4月6日 - 1969年9月28日
全26話(フジテレビ)

どろろ(第1作)

1969年4月6日 - 1969年9月28日
全26話(フジテレビ)

忍風カムイ外伝

1969年4月4日 - 1970年12月25日
全180話(NET)

もーれつア太郎(第1作)

1969年4月2日 - 1969年9月24日
全26話(フジテレビ)

紅三四郎

1969年4月1日 - 1969年9月23日
全52話(TBS)

ウメ星デンカ

1969年1月6日 - 1970年10月26日
全94話(NET)

ひみつのアッコちゃん(第1作)

1968年10月7日 - 1969年3月31日
全26話(フジテレビ)

妖怪人間ベム

1968年10月2日 - 1969年3月26日
全26話(フジテレビ)

ドカチン

1968年9月30日 - 1969年3月29日
全156話(日本テレビ)

夕やけ番長

1968年4月21日 - 1969年3月23日
全49話(TBS)

怪物くん

1968年4月5日 - 1968年9月27日
全26話(NET)

サイボーグ009(第1作)

1968年3月30日 - 1971年9月18日
全182話(YTV)

巨人の星

1968年1月12日 - 1968年5月27日
全20話(NET)

大魔王シャザーン

1968年1月3日 - 1969年3月30日
全65話(フジテレビ)

ゲゲゲの鬼太郎(第1作)

1967年7月3日 - 1967年9月18日 / 1969年12月29日 - 1970年3月30日
全26話(NET)

ピュンピュン丸

1967年4月5日 - 1967年10月4日
全26話(NET)

キングコング

1967年4月4日 - 1967年12月26日
全39話(TBS)

冒険ガボテン島

1967年4月2日 - 1968年4月14日
全108話(TBS)

パーマン

1967年4月2日 - 1968年4月7日
全52話(フジテレビ)

リボンの騎士

1967年4月2日 - 1968年3月31日
全52話(フジテレビ)

マッハGoGoGo(第1作)

1967年4月1日 - 1968年3月23日
全52話(YTV)

黄金バット

1967年1月7日 - 1967年9月30日
全40話(フジテレビ)

悟空の大冒険

1966年12月5日 - 1968年12月30日
全109話(NET)

魔法使いサリー(第1作)

1966年10月5日 - 1967年3月29日
全26話(フジテレビ)

新ジャングル大帝 進めレオ!

1966年10月4日 - 1968年9月27日
全104話(フジテレビ)

ロボタン(第1作)

1966年5月5日 - 1967年8月31日
全70話(フジテレビ)

ハリスの旋風

1966年2月5日 - 1967年3月4日
全56話(MBS)

おそ松くん(第1作)

1965年10月6日 - 1966年9月28日
全52話(フジテレビ)

ジャングル大帝

1965年8月29日 - 1967年6月28日
全96話(TBS)

オバケのQ太郎

1965年5月4日 - 1967年3月28日
全96話(TBS)

宇宙少年ソラン

1965年1月7日 - 1966年1月20日
全52話(TBS)

スーパージェッター

1964年8月3日 - 1965年9月27日
全59話(TBS)

ビッグX

1964年6月7日 - 1965年8月31日
全65話(NET)

少年忍者風のフジ丸

1964年1月21日 - 1964年10月27日
全38話(フジテレビ)

0戦はやと

1963年4月7日 - 1965年4月1日
全92話(NHK)

銀河少年隊(人形劇+アニメ)

1963年1月1日 - 1966年12月31日
全193話(フジテレビ)

鉄腕アトム(第1作)

1963年11月25日 - 1965年8月16日
全86話(NET)

狼少年ケン

1963年11月7日 - 1964年12月31日
全56話(TBS)

エイトマン

1963年10月20日 - 1965年11月24日
全97話(フジテレビ)

鉄人28号

ヒーロー
hero

(C)Eiga-Kevin2/2021

1969年10月5日 - 1970年8月16日
全45話(TBS)

サインはV!

1969年6月22日 - 1971年4月4日
全92話(TBS)

柔道一直線

1968年10月3日 - 1969年3月29日
全26話(フジテレビ)

バンパイヤ

1968年9月15日 - 1969年3月9日
全26話(TBS)

怪奇大作戦

1967年10月11日 - 1968年4月1日
全26話(テレビ朝日)

ジャイアントロボ

1967年10月2日 - 1968年3月25日
全26話(フジテレビ)

怪獣王子

1967年10月1日 - 1968年9月8日
全49話(TBS)

ウルトラセブン

1967年7月3日 - 1968年12月30日
全79話(TBS)

コメットさん

1967年4月5日 - 1968年3月27日
全52話(関西テレビ)

仮面の忍者 赤影


1966年11月9日 - 1967年9月27日
全47話(日本テレビ)

快獣ブースカ

1966年10月6日 - 1967年3月30日
全26話(テレビ朝日)

悪魔くん

1966年7月17日 - 1967年4月9日
全39話(TBS)

ウルトラマン 空想特撮シリーズ

1966年7月4日 - 1967年6月26日
全64話(フジテレビ)

マグマ大使

1966年4月10日 - 1967年1月10日
全36話(NHK)

サンダーバード

1966年4月7日 - 9月28日
全26話(テレビ朝日)

忍者ハットリくん

1966年3月7日 - 1967年2月27日
全52話(日本テレビ)

丸出だめ夫

1966年1月2日 - 7月3日、1967年12月14日
全28話(TBS)

ウルトラQ

1964年1月3日 - 1966年3月31日
全130話(フジテレビ)

忍者部隊月光

1962年10月7日 - 1965年3月28日
全128話(TBS)

隠密剣士

1961年7月2日 - 1962年4月1日
全26話(フジテレビ)

新少年ジェット

1961年5月4日 - 1962年2月8日
全41話(テレビ朝日)

少年ケニヤ

1960年11月3日 - 1963年9月26日
全152話(フジテレビ)

少年探偵団

1960年8月4日 - 1961年4月27日
全39話(テレビ朝日)

ナショナルキッド

1960年7月7日 - 12月27日
全26話(テレビ朝日)

アラーの使者

1960年5月6日 - 12月30日
全35話(テレビ朝日)

笛吹童子

1960年4月5日 - 1961年6月27日
全65話(日本テレビ)

快傑ハリマオ

1960年3月7日 - 5月28日
全13話(フジテレビ)

鉄人28号

1960年1月5日 - 9月20日
全38話(テレビ朝日)

白馬童子

1959年7月12日 - 1960年3月27日
全38話(TBS)

豹の眼

1959年6月3日 - 1959年12月30日
全59話(テレビ朝日)

七色仮面

1959年4月1日 - 1960年3月27日
全56話(TBS)

まぼろし探偵

1959年3月7日 - 1960年5月28日
全65話(フジテレビ)

鉄腕アトム

1959年3月4日 - 1960年9月28日
全83話(フジテレビ)

少年ジェット

1959年2月3日 - 12月29日
全52話(テレビ朝日)

風小僧

1958年11月23日 - 1960年6月5日
全81話(日本テレビ)

怪人二十面相

1958年11月11日 - 1959年10月6日
全49話(日本テレビ)

遊星王子

1958年2月24日 - 1959年7月5日
全130話(TBS)

月光仮面

バラエティ > 1980年代

1980年代のバラエティは漫才ブームを契機に大きく転換した。若手漫才師の速いテンポの笑いが若者を惹きつけ、フジテレビを中心にアドリブ重視の番組が隆盛する。タモリ、ビートたけし、明石家さんまは社会的影響力を持つ存在となり、第三世代の登場で勢いは加速した。フジのプロデューサー横澤彪による土曜夜の『オレたちひょうきん族』が大人気となり、演出家テリー伊藤による『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』は過激かつ素人性を前面に出した企画を連発して大きな支持を集め、バラエティ黄金期が訪れた。

─ 主なバラエティ番組 ─

1946年1月 –

1946年にラジオで始まり、1953年からテレビ放送も開始された公開視聴者参加型の生放送音楽番組。素人出場者が歌を披露し、ゲスト歌手の指導やインタビューを交えながら評価される。1970年の改革で出場者数を25人に絞り、手持ちマイクやワイヤレスマイクを導入、歌唱だけでなく表現力も重視する構成に変更され、全国大会や特別賞も設けられ人気を回復。現在も各地域から生中継や録画で放送される長寿番組。

1958年5月 – 1987年9月

1958年から約24年間にわたりTBS系列で日曜昼に放送された長寿歌謡番組。開始当初はモノクロ・モノラルだったが、’69年にカラー化、’85年にはステレオ放送へ移行した。番組は時代に応じて副題やタイトルを変えつつ、終始ロッテの一社提供で継続された。長年司会を務めた玉置宏の「一週間のご無沙汰でした」で始まる語り口は名物となり、従来の美文調司会とは異なる個性的な進行で歌謡番組の新境地を切り開いた。

1959年3月 – 1981年9月

旬の芸能人やスポーツ選手をゲストに迎え、社会的話題として人物像に迫る月-土曜に放送された帯番組。映画スター出演制限の時代に、時事性を切り口として人気を博した。ゴールデン帯15分枠(19:45 – 20:00)で放送され、「出演すれば一人前」と称される存在感を確立。俳優司会の起用や早期のカラー化も話題となり、最高視聴率45.9%を記録した。歴代司会者は栗原玲児、石坂浩二、関口宏、吉永小百合、坂本九など。

1964年1月 – 2010年1月

1964年に始まったフジテレビの新春特別バラエティ番組で、『紅白歌合戦』『日本レコード大賞』と並ぶ年末年始の大型番組として親しまれた。芸能人がチームに分かれ、秘芸や余興を披露して得点を競う形式で高視聴率を長年維持。制作は渡辺プロダクションと共同で行われ、華やかな演出も名物となった。2010年元日の放送をもって47年の歴史に幕を下ろした。

1964年8月 –

日本の民放音楽番組として最長寿を誇るフジテレビ系のレギュラー番組で、1964年の開始以来、塩野義製薬一社提供の冠番組として放送されてきた。’67年にカラー化、’78年にステレオ化、2004年にはハイビジョン制作へ移行するなど、放送技術の進化も反映している。初代総合司会に越路吹雪、二代目に左幸子、三代目に長門裕之・南田洋子夫妻など落ち着いた進行役とゲスト同士の丁寧なトーク、質の高い歌唱演出が特徴で、海外の大物アーティストも多数出演した。初期は公開収録も行われたが、現在は観客を入れないスタジオ収録が基本となっている。

1965年11月 – 1990年3月

1965年から約24年半にわたり放送された日本初の深夜お色気ワイドショーで、基本は生放送。日本テレビとよみうりテレビが曜日別に制作し、大橋巨泉、愛川欽也、藤本義一らが司会を担当。ヌードや風俗といった刺激的題材から、前衛芸術、政治・社会問題まで幅広く扱い、深夜番組の可能性を拡張した。曜日ごとの特色ある企画も定着し、最高視聴率48%超を記録するなど、長寿かつ影響力の大きい番組として知られる。

1966年4月 – 1980年12月

TBSを幹事局とし、各地の系列局が持ち回りで制作・放送した視聴者参加型の歌合戦番組。審査員は市川昭介、笠置シヅ子、神津善行、山本直純など。日本各地の市民会館などで公開収録が行われ、家族単位の出場者が動物名を冠したチームとして歌声を競った。司会は獅子てんや・瀬戸わんやが担当した。当初はモノクロ放送だったが1970年4月からカラー化。約14年半にわたり放送され、昼間ながら平均15%を記録した時期もあったが、後年は視聴率が低下し、愛知県西尾市での収録を最後に終了した。

1966年5月 – 1968年4月 / 1968年5月 – 1996年3月ほか

1966年に『金曜夜席』を継ぐ形で始まった演芸バラエティ番組で、大喜利で座布団をやり取りする形式が特色。番組名は『氷点』をもじったものとされ、命名を巡る逸話も知られる。放送開始当初から一貫してカラー放送を行い、隔週で後楽園ホールにて公開収録されてきた。落語や講談などの演芸と大喜利を柱に、寄席文字を用いた独自の画面演出を守り続け、高視聴率を記録する長寿番組として日本のテレビ演芸史に刻まれる。

1968年11月 – 1990年10月

約22年間にわたり放送されたフジテレビの音楽番組で、原則生放送を特徴とした。1970年代前半までは歌謡バラエティ色が強かったが、’76年以降はアイドルや演歌に加え、ニューミュージック、ロック系、海外アーティストまで幅広く出演させ、生演奏・フルコーラスを基本とした構成で音楽番組の質を高めた。名物は出演歌手同士がリレー方式で他の歌手を紹介する番組オープニング。沢田研二「サムライ」での50畳の畳敷きの演出など、印象的なスタジオセットも特徴だった。司会は芳村真理を中心に前田武彦、三波伸介、井上順、古舘伊知郎らが務めた。演奏は長年ダン池田とニューブリードが担当し、番組の象徴的存在となった。芸能事務所の力関係も出演構成に影響を与えた点は、当時の音楽界を映す側面でもあった。

1969年1月 – 1986年3月 / 1989年10月 – 1990年3月ほか

田宮二郎が司会を務める1969年にテレビ朝日系列で始まったクイズ番組で、司会者を交代しながら3シリーズのレギュラー放送を経て、以後も特番として断続的に制作されている。1分間に12問、5秒ごとに出題される高速クイズに挑む形式で、「現代人の頭脳と反射神経を試す」ことを趣旨とした。巨大な時計台と高所の解答席、成績不振時に作動するペナルティ演出が象徴的で、全問1問1答・即断即答を求める厳格なルールも特徴。平均視聴率14%、最高29%を記録し、スピード感あふれる名物番組として強い印象を残した。

1969年7月 – 1982年9月

若者向けを前面に打ち出した公開バラエティ番組。ラジオ番組『歌え!MBSヤングタウン』のテレビ版として制作され、桂三枝や笑福亭仁鶴、やすし・きよしらが司会を担当。’70年代頃はまだ若手だった明石家さんまも観客席インタビューなどを受け持った。短いコーナーを連続させる構成と、芸人個人のキャラクターを生かす演出で人気を博し、吉本興業の若手芸人を全国区へ押し上げた。上方演芸界の勢力図を塗り替えた象徴的番組として知られる。

1969年10月 – 1971年3月 / 1971年10月 – 1985年9月

1969年から’85年までTBS系列で放送されたザ・ドリフターズの冠お笑いバラエティ番組。前半はドリフによる本格コント、後半は体操や合唱団を交えた企画で構成され、間に歌手ゲストの歌唱が挟まれた。全国各地の劇場から公開生放送を行い、大掛かりな舞台装置と体当たりの笑いで国民的人気を獲得。平均視聴率27%、最高50.5%を記録し、土曜夜の象徴的番組となった。

1969年10月 – 1981年3月

「NHK紅白歌合戦を毎週楽しめる番組」を発想源に、紅白対抗形式とベストテン風構成を融合させた歌謡番組。出演者は紅白各5組の計10組で、客観的ランキングではなく局側のキャスティングによって選ばれた。原則として渋谷公会堂から公開生放送で行われ、修学旅行生の紹介が定番演出となった。白組キャプテンは堺正章が一貫して務め、紅組は水前寺清子、今陽子、岡崎友紀らが担当。白組では野口五郎・郷ひろみ・西城秀樹の「新御三家」が、紅組では森昌子・桜田淳子・山口百恵の「花の中三トリオ」が人気を牽引し、演歌勢では五木ひろしや八代亜紀、和田アキ子らが常連として出演した。

1970年8月 –

水泳を題材に各局で放送されたアイドル中心のバラエティ番組。芸能人運動会の派生企画として始まり、当初は水泳競技の真剣勝負も行われていたが、全盛期には浮島戦や水上格闘など大型プールで女性アイドルが不安定な足場のゲームに挑む内容が主流となり、お色気要素が強まった。普段は見られない水着姿が話題を呼んだ一方、時代の風潮や自主規制の高まり、セクシーアイドル台頭の影響で次第に衰退した。

1971年1月 – 1982年12月

日本テレビ系列で日曜昼に生放送された視聴者参加型バラエティ番組。初代司会者は土居まさる。正式名称は『TVジョッキー日曜大行進』で、視聴者が電話やスタジオ参加で番組に加わる形式が特徴。白いギターやEDWINのジーンズなど豪華賞品も若者の憧れとなった。1970年にはコント55号による特別編成も行われ、’78年にはステレオ放送にも対応。’82年に終了し、後継番組としてビートたけしを司会とする『スーパージョッキー』が開始した。

1971年1月 – 現在

1971年に放送を開始した朝日放送テレビ制作の視聴者参加型トーク番組。全国ネットで毎週日曜昼に放送され、新婚夫婦を招いて出会いや結婚生活のエピソードを軽妙な掛け合いで紹介する。長寿番組として知られ、桂文枝が半世紀以上にわたり司会を務めたことでギネス世界記録にも認定された。放送開始から50年以上続く昼の名物番組である。

1971年10月 – 1983年9月

1971年に開始され、12年間にわたり放送された日本テレビの視聴者参加型歌手オーディション番組。企画者は作詞家の阿久悠で、カラーテレビ時代の特性を生かし「テレビの手でスターを生み出す」ことを目的に開始した。毎週、予選を経た5~7人の挑戦者が歌合戦形式で競い、日曜午前枠で長期育成を前提とした構成が特徴だった。初代司会は萩本欽一が務め、作詞家や作曲家の審査員による辛口審査の中でも参加者を励ます立場を貫いた。森昌子の合格以降、応募者は10代中心となり、新たな時代の歌謡界を牽引する山口百恵、桜田淳子、岩崎宏美、ピンク・レディーなどを続々と輩出。中森明菜は不合格を経験しながらも’81年の三度目の挑戦で392点という史上最高得点を記録し、強烈な印象を残した。

1972年4月 – 1982年4月

1970年代を代表するNHKの大型お笑い番組で、三波伸介を中心に構成された。土曜放送時代は「笑福亭仁鶴のお見合い」「演芸コーナー」「てんぷく笑劇場」の三本立てで、庶民的な笑いと人情味を融合。’73年に日曜へ移行後は「てんぷく笑劇場」「歌謡曲コーナー」「減点パパ(後に減点ファミリー)」を柱とし、家族向け娯楽番組として人気を確立した。’82年に10年間の歴史に幕を下ろした。

1973年4月 – 12月 / 1974年1月 – 1975年11月 / 1975年12月 – 1985年3月

横山やすし・西川きよしが司会を務めた公開収録形式のバラエティ番組。関西ローカルの深夜番組として始まり、放送枠拡大やネットチェンジを経て1975年末に全国ネット・ゴールデン帯へ進出した。ABCホールを拠点に展開され、人気コーナー「「フィーリングカップル5vs5」」やキダ・タロー作曲のテーマ音楽も親しまれた。最高視聴率36%を記録するなど高い人気を誇り、’85年に12年の歴史に幕を下ろした。

1973年10月 – 1984年3月

関西テレビで放送された視聴者参加型の恋愛バラエティ番組。深夜番組『ナイト・パンチ』の一企画から独立し、若者風俗を巧みに取り入れて人気を獲得、のちにフジテレビ系全国ネットへ昇格した。司会は桂三枝と西川きよしが務め、軽快な漫才調の進行と名物キャッチフレーズが番組の象徴となった。関西制作恋愛番組を代表する長寿番組として知られる

1973年11月 – 2000年10月 / 2012年 – 現在

1973年にフジテレビの特番として始まった不定期放送のものまね番組。第1回は高視聴率を記録し、森昌子が初代王者となった。’80年代後半以降は所ジョージらの司会のもと、淡谷のり子を審査員に迎え、笑いとパロディ性を重視した路線へ転換。コロッケや清水アキラら“ものまね四天王”を中心に人気を博し、’90年代のものまねブームを牽引した。

1975年4月 – 1975年9月 / 1976年4月 – 1986年3月 / 1986年4月 – 1986年9月

日本テレビ系で放送されたコント主体のバラエティ番組で、演出の白井荘也が松竹新喜劇に着想を得て企画した。坂上二郎、野口五郎、研ナオコを中心に始まり、視聴率の安定からレギュラー化。後に堺正章や郷ひろみ、西城秀樹ら新御三家が加わり、アイドルと喜劇を融合した構成で人気を博した。高田みづえがコメディエンヌとして注目を集めた点も特色だった。

1975年10月 – 1986年3月

一般視聴者も参加するトーク重視のクイズバラエティで、司会の久米宏と、コント55号の萩本欽一・坂上二郎が中心となって展開された。緊張感よりも会話の妙や間を楽しませる作風で、久米の軽妙な司会は全国的な人気を獲得した。出題時に正解を伏せるため使われた「ほにゃらら」という言葉は流行語となり、番組の象徴となった。日本のクイズ番組で初めてVTR問題を導入した点も特筆される。企画は萩本宅での新年会から生まれ、古今東西ゲームのスピード感をテレビに持ち込んだもので、生放送ならではのハプニングも名物だった。

1975年4月 – 1975年9月 / 1975年10月 – 1984年5月ほか

全国ニュースに載らないB級事件をリポーターがフリップや再現フィルムで解説する低予算ワイドショー的バラエティ。常時30%超の視聴率を記録した日テレの看板番組だった。朝枠の「テレビ三面記事」を週末プライム向けに発展させ、男性層を意識した内容に転換。司会は 加藤芳郎、リポーターに 泉ピン子大山のぶ代桂朝丸高見恭子青空はるおら。クインシー・ジョーンズ作曲・鬼警部アイアンサイドのテーマに乗せ、小早川正昭の「新聞によりますと…」で始まる語りが名物だった。

1975年10月 – 1978年3月 / 1978年10月 – 1979年4月ほか

よみうりテレビ制作で放送された視聴者参加型のスポーツバラエティ番組。一般参加者が風変わりな競技に挑み、日本一や新記録を目指す構成で人気を博した。中期以降は屋外ロケ中心となり、実況と演出を強めた展開が特徴。名物企画「鳥人間コンテスト」を生み、記録に挑む人間の可能性とロマンを描いた長寿番組。

1975年10月 – 1992年9月

「おいしい料理とおいしいお酒があれば、この世は天国」という芳村真理の挨拶で始まる、1975年に関東ローカルでスタートした新感覚の料理バラエティ番組。芳村を総合司会に、西川きよしやすし・きよし、久米宏らが出演。辻静雄監修の料理を紹介しつつ、ニュースや流行をテーマにした企画を展開し、1976年に全国ネットに昇格、人気番組に成長する。’88年以降はテーマ曲やコーナーの刷新、司会交代を経て、’90年にはトーク主体に大幅リニューアルされ、’92年まで17年間放送された。

1976年1月 – 1992年12月

ロート製薬の一社提供で放送された全862回の長寿番組。司会の大橋巨泉がカナダで見たクイズ番組セレブリティ・ステークスをヒントに企画し、漫画家・はらたいらなどの解答者を競走馬に見立てて出場者が持ち点を賭ける競馬方式を採用した。巨泉と個性豊かな解答者との軽妙なやりとり、ギャンブル的なスリルが視聴者を引きつけた。本家が短命に終わったのに対し、本番組では問題は事前に知らされず、巨泉も収録直前に初見で臨む形式を徹底したことが緊張感を高めた。1979年6月30日放送回には視聴率40.8%(関東地区)を記録し、クイズ番組初の40%台を達成。1979年から1981年にかけて年間平均約30%を誇り、民放クイズ番組史上屈指の黄金期を築いた。

1976年2月 – 1996年3月 / 1996年4月 – 1997年9月 / 1997年10月 – 2014年3月ほか

1976年2月2日よりテレビ朝日系列で平日昼に放送されている黒柳徹子の冠トーク番組。原則として毎回1組のゲストを迎え、人物の人生や素顔に迫る対話を特徴とする。初回ゲストは森繁久彌で、以後も加山雄三やタモリなど常連出演者を生んだ。俳優や芸能人に加え、市民運動やボランティア関係者が登場する点も特色で、収録が長時間に及び2回放送となる例も少なくない。日本のテレビ史を代表する長寿番組の一つである。最多出演ゲストは53回で加山雄三、歴代の高視聴率を記録したゲストは三浦友和で1981年4月10日(金)の14.5%(※2025年時点)。

1976年4月 – 1994年3月

司会が出すお題に対し、出演者がフリップに即興でマンガを描いて競う大喜利形式のバラエティ番組。数回戦制を基本に構成され、当初は中京圏ローカル番組として開始されたが、後に全国放送へ拡大。土曜夕方の定番として高視聴率を記録し、正月特番「初笑いマンガ道場」も親しまれた。近年は配信や傑作選放送で再評価されている。

1976年4月 – 1998年9月

仕掛けた出来事で芸能人を驚かせ、その反応を楽しむフジの人気バラエティ番組。ジャニーズ事務所、ホリプロ、田辺エージェンシー、バーニングプロダクションなどに所属する当時のスターが多数出演し、後続の類似番組を生む先駆けとなった。1976年4月、三波伸介を司会に迎え、『木曜ビッグイベント スターどっきり㊙報告』として木曜20時枠でスタート。制作は『夜のヒットスタジオ』と同じ疋田拓プロデューサー率いる制作班が担当した。’79年には『スターどっきり生放送』と改題し生放送化するがレギュラー終了。その後は特番や再レギュラー化を挟みつつ、’98年まで断続的に放送された。レポーターには宮尾すすむ、小野ヤスシ、ダン池田、みのもんた、片岡鶴太郎、轟二郎らが名を連ねた。

1976年10月 – 1988年4月

フジテレビで放送された音楽系クイズバラエティで、後に特番として継続された。楽曲のイントロを当てるクイズの元祖として知られ、音楽や芸能に関する問題、歌手ゲストによる歌唱も交えた構成が特色。司会は高島忠夫が務め、「イェーイ!!」の掛け声も名物となった。日曜昼ながら安定した高視聴率を記録し、フジテレビを代表する長寿番組の一つとなった。

1976年10月 – 1986年9月

萩本欽一の冠番組として水曜21時枠で放送された公開コメディー番組。舞台に観客を入れ、萩本家を舞台とするホームドラマ形式で進行し、萩本と真屋順子が夫婦役を演じた。引っ越しや子どもの成長など設定を変化させながら長期的な物語性を持たせ、見栄晴や「わらべ」誕生の場ともなった。茶の間のテレビから番組が始まる独特の演出も特徴である。

1977年2月 – 1998年4月

フジテレビ系列で月1回放送されたお笑いバラエティ番組。ザ・ドリフターズの冠番組として、『8時だョ!全員集合』と並ぶ代表作である。各回ごとに設定されたテーマに基づくコントと、ゲスト歌手の歌を交互に構成し、いかりや長介が進行役を務めた。「雷様」「ばか兄弟」などの人気シリーズで高視聴率を記録し、長期にわたり国民的番組として親しまれた

1978年1月 – 1989年9月

『トップスターショー・歌ある限り』の後番組として始まった音楽ランキング番組で、毎週生放送で独自集計による邦楽ベストテンを発表した。司会は黒柳徹子と久米宏の名コンビが務め、新幹線の車中やホームで移動中の出演者が歌唱するなどの臨場感とリアリティも魅力となり、最高視聴率41.9%を記録する社会現象となった。ランキングはレコード売上、有線放送、ラジオリクエスト、はがき投票を合算したポイント制で決定され、空港の案内表示機を参考とする反転フラップ式のランキングボードを用いた発表演出が番組の象徴となった。歌手は原則として順位に応じて生出演し、海外・地方からの中継も多用された。番組終盤には出演者全員で集合写真を撮影し、視聴者にプレゼントするなど、参加型の仕掛けで高い支持を集めた。

1978年8月 –

1978年に日本テレビ開局記念の特別番組として始まったチャリティ番組で、視聴者からの寄付を国内外の福祉・環境保護・災害復興に役立てることを目的とする。毎年8月下旬の土曜夜から日曜夜にかけて生放送され、チャリティーマラソンやドラマ、ドキュメンタリー、応援ソングなど多彩な企画を展開。番組シンボルは太陽と地球をモチーフにした黄色を基調としたデザインで、番組オリジナルTシャツにも黄色が用いられた。徳光和夫が長年総合司会を務めた。

1978年10月 – 1991年3月

関西テレビ制作で1978年から’91年まで放送されたバラエティ番組。男性6人、女性5人の素人出演者の中から本物の新婚夫婦を推理する内容で、トークとゲーム性を融合した構成が特色。司会は上岡龍太郎が務め、横山ノックや桂文珍らが解答者として推理を展開した。関西色の強い軽妙な掛け合いと日曜昼の定番番組として長く親しまれた。

1979年10月 – 1985年9月

フジテレビ系列で放送されたクイズ番組で、米CBSの『マッチ・ゲーム』を基に企画された。司会は山城新伍が務め、毎回オーディションで選ばれた一般視聴者3人と、6人の芸能人解答者が共演した。収録は台本に頼らないぶっつけ本番で進行され、ゲーム性よりも司会者と出演者、視聴者との軽妙な言葉の応酬を重視したトーク色の強い構成が特徴である。山城自身は短命を予想していたが、結果的に6年間続く長寿番組となった。

1979年12月 – 2001年9月ほか

萩本欽一司会のもと1979年にスタートした視聴者参加型バラエティ番組。NHK紅白歌合戦への対抗企画として大晦日に始まり、素人参加者が工夫を凝らした仮装作品を披露する形式が人気を獲得。当初は仮装行列的内容が中心だったが、回を重ねるごとに完成度の高い表現へ進化し、恒例番組として定着した。香取慎吾の参加で番組名と司会体制を変えつつ、長年親しまれている。

1980年10月 – 1982年10月

平日昼12時台にフジテレビで生放送されていた帯バラエティ番組で、『森田一義アワー 笑っていいとも!』の前身にあたる。横澤彪のプロデュースにより、スタジオアルタから公開生放送を行い、B&Bを司会に、ツービート、明石家さんま、紳助・竜介ら漫才ブームの中心芸人が出演した。過激な企画も多く物議を醸したが、フジテレビの昼番組改革を象徴する存在となり、そのスタイルや出演者は後の『笑っていいとも!』や『ひょうきん族』へと継承された。

1980年10月 – 1982年3月 / 1982年4月 – 1983年3月

田原俊彦・近藤真彦・野村義男による”たのきんトリオ”を中心に、コント、歌、クイズ、ドラマなど多彩な企画を展開したバラエティ番組。スリル系ゲームなど体当たり企画も多く、毎回同世代の女性アイドルがゲスト出演し、松田聖子は常連としてコメディエンヌぶりを発揮した。2年目からはマスコットロボット「サンダユウ」も登場。当初は木曜ゴールデンの30分番組だったが、後に日曜昼の1時間公開番組へ移行し、約1年で終了した。

1980年10月 – 1994年3月

テレビ朝日が『23時ショー』の系譜を継いで放送した深夜番組で、情報性をより強化したナイトショーとして始まった。司会は作家の利根川裕が一貫して担当し、週4日・約55分編成で放送された。映画監督・山本晋也による風俗街リポートの「ほとんどビョーキ」は流行語となる一方、ロス疑惑、薬物問題、重大事件や事故など硬派な社会取材にも積極的で、ワイドショー的ニュース性を併せ持っていた。初期には田原総一朗らによる政治討論も行われ、後の討論番組の土壌を築いた。13年半にわたり放送され、1994年に『トゥナイト2』へと刷新された。

1981年4月 – 1986年3月

『NTV紅白歌のベストテン』を刷新した日本テレビの歌謡ランキング番組で、独自集計による邦楽ベスト10を毎週カウントダウン形式で発表し、歌手が生演奏で披露した。公開生放送を基本とし渋谷公会堂を中心に各地のホールやスタジオから放送され、『ザ・ベストテン』の要素も取り入れた構成で人気を博した。司会は堺正章と榊原郁恵。修学旅行生の紹介や地方・中継出演など臨場感ある演出も特徴で、同時代の音楽番組を代表する存在となった。

1981年4月 – 1982年4月 / 1982年9月4日 – 1989年10月

タモリ司会によるトーク・コントバラエティ番組で、ステレオ放送や文字多重放送を導入し、パイオニアの一社提供で放送された。毎回、メインゲスト1人と関係の深い女性パートナーを迎え、トーク、コント、ミュージカル、生歌や演奏を織り交ぜて展開した。前半はトークと短編コント、後半は長尺コントで構成され、終盤にはタモリが楽器演奏で参加する音楽コーナーが名物となった。番組構成は高平哲郎が担当し、WAHAHA本舗の面々も出演。平均視聴率12%を記録するなど人気を博した。

1981年5月 – 1989年10月

フジテレビが「楽しくなければテレビじゃない」を掲げ、制作側の自由度が高まった時代に誕生したバラエティ番組。漫才ブームに沸く若手芸人の勢いと制作意欲が結びつき低迷していた土曜20時台を立て直し、1980年代バラエティの代表格となった。「タケちゃんマン」「ブラックデビル」などの扮装も人気となり、平均視聴率17.8%、最高29.1%を記録した。在阪と東京の芸能プロダクション所属タレントが共演する編成は画期的で、吉本興業の東京進出にも影響を与えた。漫才を早期に廃し、ラフトラックや独自のコーナー配置、歌コーナーを設けない構成など実験性も特徴とした。オープニングには『ウィリアム・テル』序曲、エンディングにはEPOの『DOWN TOWN』が用いられた。

1982年10月 – 2014年3月

1982年10月に『笑ってる場合ですよ!』の後継として始まった平日昼の生放送バラエティで、スタジオアルタに一般客を入れる公開番組。タモリ独特の脱力した進行で番組の空気を作り上げた。看板企画「テレフォンショッキング」では、ゲストが友人を電話で紹介する連鎖形式が話題を呼び、思わぬ大物出演や生放送ならではのハプニングも名物となった。放送開始当初は短命が予想されたが半年足らずで視聴率は上昇し、以後25年連続で同時間帯民放首位を維持。いいとも青年隊や曜日レギュラーの交代も番組の新陳代謝を支え、2014年3月、31年半の歴史に幕を下ろした。

1982年10月 – 1985年9月

各コーナーを週刊誌の連載漫画に見立てて構成された萩本欽一司会のバラエティ番組。看板企画「ミュージカル・コメディー ザ・ちなみショー」では、萩本、風見慎吾、佐藤B作が定型の掛け合いで笑いを生み、「男と女のポエム」では清水由貴子と小西博之の歌唱が名物となった。やがて「欽ちゃんバンド」が人気を集め、コミック要素と本格演奏を併せ持つ異色コーナーに成長。ハプニングも含めて放送する姿勢が番組の魅力となり、後年は舞台劇形式を経て再びバンド中心の構成へと変化していった。

1982年10月 – 2023年4月

報道番組『日曜夕刊!こちらデスク』のパロディとして制作された『夕刊タモリ!こちらデス』を源流に持つ元祖脱力系を標榜した深夜バラエティ番組。1982年10月に金曜深夜枠で放送を開始し、タモリのシュールな芸風を前面に押し出した構成が特徴となった。『笑っていいとも!』と同時期に始まり、事務所代表・田邊昭知の後押しもあって、双方がタモリの代表作として長寿化する。簡素な公式情報体制や深夜ながら高視聴率を記録した点も象徴的で、40周年を迎えた2023年、全1939回の放送をもって終了した。

1983年1月 – 1999年3月

12年間続いた『TVジョッキー』の後継として放送開始され、ビートたけしを総合司会に、17年間にわたり継続した長寿番組。そのまんま東や松尾伴内などの”たけし軍団”もレギュラー出演し人気を集めた。当初は一般参加型だったが、『THEガンバルマン』を軸とするお笑い色を強め、やがて「熱湯コマーシャル」に象徴されるお色気路線へ転換した。生放送主体から隔週生放送・収録併用へ移行し、歌コーナーも事前収録が定着する。音楽番組低迷期には貴重なアイドル歌唱の場ともなり、1987年には20.5%の最高視聴率を記録。’99年に終了し、ジョッキーシリーズ28年の歴史に幕を下ろした。

1983年4月 – 1991年3月

秋本奈緒美と鳥越マリを初代司会に据え、深夜枠で放送されたフジテレビのバラエティ番組。とんねるずや片岡鶴太郎ら若手芸人、女子大生集団“オールナイターズ”を起用し、女子大生ブームの火付け役となった。初期は性風俗企画も含んだが、1984年以降は表現を軟化。深夜番組自粛要請を受け一度終了後、『オールナイトフジII』として再出発し、企画ユニットのレコードデビューなども話題を呼んだ。’91年に全400回で終了し、深夜文化を象徴する番組として記憶されている。

1984年10月 – 1990年12月

フジテレビ系列で平日13時から生放送されたトークバラエティで、20年間続いた昼ドラ枠をバラエティへ転換した番組。司会は当時20代の小堺一機で、毎回、人生経験豊かな女優・歌手の“おばさま”を招き、視聴者の悩み相談や本音トークを展開した。名物コーナー「いただきます劇場」では再現ドラマと“おばさまのご意見”が人気を集め、「エロガッパ」の流行語も誕生。新宿アルタからの公開生放送で、『笑っていいとも!』の観客がそのまま観覧する昼の名物番組となった。’91年からは『ライオンのごきげんよう』にリニューアルされ、収録も生ではなくフジテレビ内のスタジオでの公開収録となった。

1985年4月 – 2016年9月

明石家さんまの自宅マンションに見立てたセットに毎回ゲスト1組を招き、自由闊達なトークを繰り広げるバラエティ番組。床の間にはゲストに因んだ掛け軸が飾られ、私的空間に招かれたかのような距離感が特徴。当初は無観客だったが、2000年代以降は少人数の観客を入れて収録されている。制作は関西テレビで、放送時間は局ごとに異なる番組販売形式を基本とし、正月や改編期には全国ネットのスペシャル版も編成された。ゴールデン進出を敢えて避けた方針も番組の気安さを支え、1987年には平均視聴率31.8%を記録した。

1985年4月 – 1987年8月

『オールナイトフジ』の流れを汲む『オールナイトフジ女子高生スペシャル』から派生して企画された、生放送を基本とする夕方のバラエティ番組。番組名は当初『夕暮れニャンニャン』が検討されたが、当時の社会情勢を踏まえて現在のタイトルに改められた。開始直後から注目を集め、1985年夏から’86年初頭にかけては夕方帯としては異例の高視聴率を記録した。看板企画「アイドルを探せ」からはおニャン子クラブが誕生し、派生ユニットやソロ活動も含め一大アイドルブームを形成。新田恵利、国生さゆり、渡辺満里奈、工藤静香ら後のスターを多数輩出し、’80年代半ばのテレビ文化と若者文化を象徴する番組となった。

1985年4月 – 1996年10月

一般人に光を当てることで従来のバラエティ観を覆した、ドキュメントバラエティの元祖とされる番組。取るに足らない日常の出来事や人物を誇張して描く企画を多く生み、強いリアリティと同時に一過性の熱狂も生んだ。VTR主体や素人参加型の形式は後年の多くの番組に継承されている。番組名には日曜夜の憂鬱を吹き飛ばす意図が込められ、「元気が出る商事」という設定や大物俳優・歌手のレギュラー起用は企画初期のドラマ構想の名残であった。全盛期にはタレントショップ「元気が出るハウス」を展開し、後期には「ダンス甲子園」など努力の過程を描く企画や、他番組へのゲリラ出演でも話題を集めた。

1985年10月 – 1991年9月

所ジョージ司会のクイズ番組で、漢方薬メーカー・ツムラの一社提供により制作された。前身は『夜はタマたマ男だけ!!』内の同名コーナーで、好評を受けて独立番組としてスタートした。所が出題したお題に対し、3人の子供が言葉や絵、作文、ジェスチャーなどでヒントを提示し、それを手がかりに大人の解答者が答える形式が特徴。正解者には所の自画像を模した「所ジョージ人形」が贈られ、持ち帰りも可能だった。中期以降は学校ロケによる早押し問題や逆転要素の強いゲーム性の高いコーナーも導入され、子供の発想力と大人の推理力の対比を楽しむ番組として親しまれた。番組終了後、同枠は『平成教育委員会』へ引き継がれた。

1985年10月 – 2026年3月

1985年10月6日に放送を開始したTBS系の生放送バラエティで、毎週日曜昼に放送されている長寿番組。開始当初の司会は和田アキ子と松尾貴史。番組は生中継やゲストトークを軸に、予告なしの特別ゲスト登場などハプニング性も重視した構成が特徴で、ワイドショー的要素を持ちながらもバラエティとして制作された。’86年以降はセットや音楽を刷新し、和田の紅白歌合戦出場決定を祝う恒例演出も定着。’87年には放送枠を拡大し、’88年の「ダイエット体操」企画など話題性の高い企画も生み出した。

1986年4月 –

志村けんが演じる白塗りの殿様を中心とした時代劇風コントで、『8時だョ!全員集合』内の一企画として1977年に誕生した。ザ・ドリフターズ内での立場を反転させ、自由奔放なバカ殿が家老役のいかりや長介を翻弄する下剋上的構図が特徴で、当時の社会風俗や流行も巧みに取り込んだ。『ドリフ大爆笑』でも設定が発展し、腰元役の女性ゲストや下ネタを含む定型ギャグが定着。’86年には単独番組として独立し、’92年からはレギュラー番組化され、志村の代表作の一つとして広く親しまれた。

1986年5月 – 1989年4月

TBS系列で放送されたアトラクション型バラエティ番組。ビートたけしが城主を務める難攻不落の「たけし城」を舞台に、谷隼人率いる約100人の一般参加者が数々の体力・知力ゲームに挑戦した。攻撃軍は次々と脱落し、最終的に城主を討ち取った者のみが賞金100万円を獲得できるが、成功例は極めて少なかった。番組は“体で遊ぶファミコン”という発想から生まれ、総工費1億円の巨大セットや派手な演出も話題となった。バブル期を象徴するスケールの大きさと独自性で高い人気を博した。

1986年10月 – 1992年3月

三菱電機一社提供のもと「三菱タイムトリップ」を冠する、日曜夜に放送された回顧型バラエティ番組。懐かしのテレビ番組やCM映像を紹介し、ゲストの思い出や当時の裏話を交えたトークを展開した。司会は三宅裕司と山瀬まみが務め、初期には泉麻人がコメンテーターとして番組の調査役を担った。後半には視聴者投稿を検証するコーナーも設けられ、貴重な映像資料の発掘が人気を博した。出演者交代やリニューアルを経ながら安定した支持を集めたが、編成改革により1992年に終了した。

1987年4月 – 1998年4月

笑福亭鶴瓶と上岡龍太郎が台本や打ち合わせを一切行わず、60分間ひたすら即興トークを繰り広げる異色のトークバラエティ。時事問題から私生活の逸話まで自在に行き交う言葉の応酬が支持を集め、関西ローカル深夜番組ながら全国ネットへと拡大した。公開収録形式も特徴で、観客との一体感が番組の熱量を高めた。1988年にはギャラクシー賞を受賞し、上岡の知名度を飛躍的に高める代表作となった。’98年に一度終了後、『LIVE PAPEPO 鶴+龍』として復活し、2000年の上岡引退まで続いた。

1987年10月 – 1994年12月

IVSテレビ制作と関西テレビの共同制作による深夜バラエティで、1987年から’94年まで放送された。司会はとんねるず、構成・総合演出をテリー伊藤が担当。前番組『上海紅鯨団が行く』の流れを汲みつつ、集団見合い企画が定着すると爆発的な人気を獲得し、「ねるとん」は集団見合パーティーの代名詞となった。土曜深夜にもかかわらず高視聴率を記録し、最高24.7%を達成。深夜番組として異例の影響力を持ち、’80年代後半のテレビ文化を象徴する存在となった。

1987年11月 – 1993年9月

毎週月曜20時台に放送された志村けんの冠お笑いバラエティで、志村がドリフターズから離れて本格的に展開したコントを中心とする番組。前身番組『志村けんの失礼しまぁーす!』の路線を改め、ロケを廃しスタジオコントに特化。タイトルは『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』内の「だいじょうぶだぁ教」に由来する。構成は前半にコントを集中させ、後半にクイズやゲームを配置する二部構成で、「一番見せたいものを先に出す」という志村の哲学が反映されていた。出演者には田代まさしや桑野信義、石野陽子、松居直美など分野横断的な顔触れが揃い、番組終了後も特番として2020年まで継続された。

1988年3月 –

スタジオを探偵事務所に見立て、視聴者から寄せられた依頼を探偵局員が調査する形式の番組。人捜しや物捜しといった本格調査から、街頭インタビューや実験企画まで内容は多岐にわたり、短い依頼は「小ネタ」としてまとめて放送される。依頼者は原則実名・顔出し出演で、強烈な個性が話題を呼ぶことも多い。初代局長は上岡龍太郎で、歯に衣着せぬコメントを軸に、VTRを見る視聴者が探偵と局長の両視点を行き来する二重構造を持つ点が画期的とされた。長寿番組として5,000件以上の依頼を扱い、民放連賞最優秀賞も受賞している。

1988年11月 – 1990年9月 / 1990年10月 – 1995年3月ほか

明石家さんまが“先生”となり、子供たちと繰り広げるスタジオトークを軸にしたバラエティ番組。1988年11月月曜19時枠で放送開始され、子供の本音や珍発言を巧みに引き出すさんまの話術が人気を博した。番組では企画コーナーも交え、ナレーション役のキャラクター「ワシャガエル」を富田耕生が長年担当した。放送枠移動を重ねつつ’96年に第1期を終了後、『やっぱりさんま大先生』を経て再び改題し第2期へ突入。新キャラクターの登場などで形を変えながら2003年まで続き、後継番組ではさんまが全国の小学校を訪れる形式へと発展した。

1988年4月 – 1989年2月

TBSの土曜深夜枠で生放送された音楽色の強いバラエティ番組。前身番組『パッパラパラダイス』の出演者・スタッフを引き継ぎ、日比谷シャンテ内のサテライトスタジオから放送された。初期のキャッチフレーズは「ふり向けば新しい深夜ライブ」で、1960年代ポップスやオールディーズを中心に据えた構成が特徴だった。番組内でデビューした9人組ヴォーカルグループ・エンジェルスや、ゲストによる生ライヴも見どころとなった。原宿歩行者天国のバンド特集では、後にカブキロックスとなるメンバーも登場している。オープニングは「モスラの歌」のカバーを用い、三宅裕司、小倉久寛、嘉門達夫、YOUらが出演。当初はTBS単独放送だったが、後に中部日本放送でも放送された。

1986年1月 – 1992年3月

1986年1月にTBSで開始されたバラエティ番組で『8時だョ!全員集合』終了後、加藤茶と志村けんの二人を前面に据える形で企画された。制作陣もドリフ番組の系譜を引くスタッフが中心となっている。前半はロケ中心のコメディドラマ『THE DETECTIVE STORY』で、緻密なセットを用いた計算されたギャグと掛け合いが展開され、後半は公開スタジオによるホームビデオ紹介やプレゼント企画で構成された。特に一般家庭の映像を扱うホームビデオ紹介は画期的で、番組フォーマットは海外にも輸出された。志村けんの人気上昇とともに高視聴率を記録し、『オレたちひょうきん族』を押しのけて土曜20時枠の主導権を奪還、「土8戦争」と称される話題を生んだ。最高視聴率は’87年11月の加藤茶結婚披露宴特集回で36.0%を記録した。

1987年10月 – 1991年3月

村上龍の冠トーク番組で、JTの一社提供により放送された。村上がホストとなり、ジャズバー風のスタジオに著名人を招いて対談する形式をとり、テーマ曲にはバド・パウエルの「クレオパトラの夢」が用いられた。作家である村上が司会を務めるという異色性から、沈黙が続く場面や噛み合わない対話も編集されずにそのまま放送され、従来のトーク番組とは異なる空気感が話題となった。とんねるずを別々に出演させた回や笑福亭鶴瓶出演時の険悪な空気など、伝説的エピソードも多い。歴代アシスタントは岡部まり、ジュリー・ドレフュスなど。1990年に放送枠を移動し、’91年3月に約3年半の放送を終えた。

1988年10月 – 1996年9月

毎週水曜20時台に放送されたクイズバラエティ番組で、1988年に発足した「日本テレビクイズプロジェクト」の第1弾として企画された。世界各地や日本の多様な商売・職業を現地取材VTRで紹介し、それを題材にスタジオでクイズとトークを展開する構成が特徴で「世界は商売によるショーである」という理念が番組名に込められている。番組は“店”に見立てられ、初代司会の逸見政孝が「店長」を務め、独特の掛け声と身振りで進行した。逸見没後は福澤朗が2代目店長(若旦那)に就任し、渡辺正行が大番頭として番組を支え続けた。得点は「ショーバイマネー」と呼ばれ、商売になぞらえた演出と軽妙な司会進行により、高い人気を博した。

1988年10月 – 1997年3月

とんねるずが司会を務め、多彩なゲストを迎えたコント中心のバラエティ番組。火曜ワイドスペシャル内の単発企画として始まり、「仮面ノリダー」の人気を追い風に1988年10月からレギュラー化された。ドラマや映画、音楽の大胆なパロディや強烈なキャラクター造形が話題を呼び、チェッカーズや宮沢りえなど時代を象徴する豪華ゲストも毎週出演した。放送枠は高視聴率番組『ザ・ベストテン』の裏という異例の編成だったが、開始直後から成功を収め、平成に入った’89年から’94年まで6年連続で年間平均視聴率1位を記録した。タイトルは当初別案も検討されたが、「みなさんへの感謝」を込めた現在の名称に落ち着いた。

1988年10月 – 1991年11月

ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、清水ミチコ、野沢直子が出演した深夜のコントバラエティで、のちの「お笑い第三世代」を象徴する番組として知られる。各回のテーマに沿ったショートコントや連続ドラマ形式のコントを軸に「ガララニョロロ」「伊集院みどり」など数々の名物キャラクターを生んだほか、「バッハスタジオII」ではレギュラー陣がバンドに挑戦し、当時の人気バンドが講師として登場した。1988年に関東ローカルで開始後、’89年から全国ネットに昇格し高視聴率を記録。番組名は『夢であいましょう』に由来し、伝説的番組として現在も語り継がれている。

1988年10月 – 1990年3月 / 1990年10月 – 1991年9月

マンションの一室で暮らす恩田家三姉妹の日常を描いたシチュエーション・コメディで、長女をもたいまさこ、次女を室井滋、三女を小林聡美が演じた。深夜枠で始まった第1シーズンは高視聴率を獲得し、1990年からはゴールデンタイムに昇格。基本的に舞台は一室のみ、出演者も三姉妹と飼い猫に限定され、舞台劇のような一発撮りに近い手法で制作されたため、アドリブやハプニングもそのまま放送された。脚本は当初バラエティ作家陣が担当し、後に三谷幸喜がメインとなる。独特の空気感と会話劇が評価され、深夜ドラマの名作として高い支持を得た。

バラエティ > 1970年代

1970年代のバラエティ番組は、萩本欽一を中心に「素人の力」の面白さを前面に押し出す展開が特徴だった。コント55号で磨いた技術を背景に、萩本は司会者として素人の自然な反応を巧みに引き出し、欽ちゃん番組はのきなみ高視聴率を記録。その流れは関西発の視聴者参加番組にも波及した。なかでも『パンチDEデート』は素人同士の公開見合いという斬新な形式で人気を博した。一般の若者が主役となり、関西芸人の進行によって、ボケとツッコミの感覚が全国に浸透していった。

─ 主なバラエティ番組 ─

1946年1月 –

1946年にラジオで始まり、’53年からテレビ放送も開始された公開視聴者参加型の生放送音楽番組。素人出場者が歌を披露し、ゲスト歌手の指導やインタビューを交えながら評価される。’70年の改革で出場者数を25人に絞り、手持ちマイクやワイヤレスマイクを導入、歌唱だけでなく表現力も重視する構成に変更され、全国大会や特別賞も設けられ人気を回復。現在も各地域から生中継や録画で放送される長寿番組。

1958年5月 – 1987年9月

1958年から約24年間にわたりTBS系列で日曜昼に放送された長寿歌謡番組。開始当初はモノクロ・モノラルだったが、’69年にカラー化、’85年にはステレオ放送へ移行した。番組は時代に応じて副題やタイトルを変えつつ、終始ロッテの一社提供で継続された。長年司会を務めた玉置宏の「一週間のご無沙汰でした」で始まる語り口は名物となり、従来の美文調司会とは異なる個性的な進行で歌謡番組の新境地を切り開いた。

1959年3月 – 1981年9月

旬の芸能人やスポーツ選手をゲストに迎え、社会的話題として人物像に迫る月-土曜に放送された帯番組。映画スター出演制限の時代に、時事性を切り口として人気を博した。ゴールデン帯15分枠(19:45 – 20:00)で放送され、「出演すれば一人前」と称される存在感を確立。俳優司会の起用や早期のカラー化も話題となり、最高視聴率45.9%を記録した。歴代司会者は栗原玲児、石坂浩二、関口宏、吉永小百合、坂本九など。

1959年6月 – 1970年3月

初代司会者に、当時人気ロカビリー歌手だったミッキー・カーチスを起用、渡辺プロダクションと作曲家のすぎやまこういちが企画を主導した音楽番組。デビュー後まもないザ・ピーナッツやジャッキー吉川とブルーコメッツがレギュラー出演し、後のGSブームのきっかけとなった番組でもある。後にフジテレビで制作される「ミュージックフェア」「夜のヒットスタジオ」の土台でもあり、視覚でも音楽を楽しませるスタイルの走りだった。

1961年6月 – 1972年10月 / 1976年10月 – 1977年3月

日本テレビと渡辺プロダクションが制作した音楽バラエティ番組で、ザ・ピーナッツを主役に開始された。牛乳石鹸一社提供のもと、コント・歌・トークを中心に、ハナ肇とクレージーキャッツやザ・タイガースとともに多彩なゲストが参加し、多くの流行ギャグを生んだ。全回カラーVTR収録で放送され、植木等の名フレーズなどで高視聴率を記録。1972年に第1期が終了し、’76年にはピンク・レディー出演による第2期が深夜枠で放送された。

1961年8月 – 1972年2月 / 1975年10月 – 1982年3月

1960年代から1980年代にかけ、2期にわたって放送された人気の視聴者参加型番組。松下電器産業の一社提供番組で、正式な番組名は「ナショナルプライスクイズ ズバリ!当てましょう(後に変更)」だった。4組のペア回答者が品物の値段を推理して当てるもので、値段当てクイズの元祖番組。家電ブーム真っ最中の時世で、一発で値段を当てる”ズバリ賞”の商品は、当時100万円相当のナショナル電化製品一式だった。

1964年1月 – 2010年1月

1964年に始まったフジテレビの新春特別バラエティ番組で、『紅白歌合戦』『日本レコード大賞』と並ぶ年末年始の大型番組として親しまれた。芸能人がチームに分かれ、秘芸や余興を披露して得点を競う形式で高視聴率を長年維持。制作は渡辺プロダクションと共同で行われ、華やかな演出も名物となった。2010年元日の放送をもって47年の歴史に幕を下ろした。

1964年4月 – 1968年3月 / 1972年4月 – 1973年3月 / 1976年4月 – 1977年12月

初代NHKホールでの公開放送として始まったNHKの音楽番組で、パイロット版からカラー放送を行った点が特徴。初期は倍賞千恵子、アントニオ古賀、金井克子が司会を務め、後に中尾ミエが加わった。第2期以降はタイトル表記を改め、101スタジオから生放送に移行。司会は山川静夫が中心となり、フォーリーブスやキャンディーズがレギュラー出演した。第3期では山川が単独司会となり、長期にわたりNHKを代表する歌番組として親しまれた。

1964年8月 –

日本の民放音楽番組として最長寿を誇るフジテレビ系のレギュラー番組で、1964年の開始以来、塩野義製薬一社提供の冠番組として放送されてきた。’67年にカラー化、’78年にステレオ化、2004年にはハイビジョン制作へ移行するなど、放送技術の進化も反映している。初代総合司会に越路吹雪、二代目に左幸子、三代目に長門裕之・南田洋子夫妻など落ち着いた進行役とゲスト同士の丁寧なトーク、質の高い歌唱演出が特徴で、海外の大物アーティストも多数出演した。初期は公開収録も行われたが、現在は観客を入れないスタジオ収録が基本となっている。

1964年11月 – 1977年9月

視聴者参加型の人気番組。視聴者の推薦で集められた有名人の“そっくりさん”5人が出演し、審査員の投票によってチャンピオンを決定した。本人がゲストとして登場することも特徴で、歌手の場合は持ち歌を披露し、それ以外の場合はイメージに合わせた歌や振り付けで競った。優勝者にはトロフィーと賞金5万円が贈られた。チャンピオンが揃うと大会が開かれ、グランドチャンピオンにはゴールデントロフィー、推薦者と行くヨーロッパ旅行、賞金10万円が授与された。司会は当初小野栄一が務め、’68年の『そっくりショー日本一!』への改題を機に青空はるお・青空あきおへ交代。番組は『新そっくりショー』などの形式変更を経ながら続き、’66年には最高視聴率43.9%を記録するなど高い人気を誇った。

1965年11月 – 1990年3月

1965年から約24年半にわたり放送された日本初の深夜お色気ワイドショーで、基本は生放送。日本テレビとよみうりテレビが曜日別に制作し、大橋巨泉、愛川欽也、藤本義一らが司会を担当。ヌードや風俗といった刺激的題材から、前衛芸術、政治・社会問題まで幅広く扱い、深夜番組の可能性を拡張した。曜日ごとの特色ある企画も定着し、最高視聴率48%超を記録するなど、長寿かつ影響力の大きい番組として知られる。

1966年4月 – 1980年12月

TBSを幹事局とし、各地の系列局が持ち回りで制作・放送した視聴者参加型の歌合戦番組。審査員は市川昭介、笠置シヅ子、神津善行、山本直純など。日本各地の市民会館などで公開収録が行われ、家族単位の出場者が動物名を冠したチームとして歌声を競った。司会は獅子てんや・瀬戸わんやが担当した。当初はモノクロ放送だったが1970年4月からカラー化。約14年半にわたり放送され、昼間ながら平均15%を記録した時期もあったが、後年は視聴率が低下し、愛知県西尾市での収録を最後に終了した。

1966年5月 – 1968年4月 / 1968年5月 – 1996年3月ほか

1966年に『金曜夜席』を継ぐ形で始まった演芸バラエティ番組で、大喜利で座布団をやり取りする形式が特色。番組名は『氷点』をもじったものとされ、命名を巡る逸話も知られる。放送開始当初から一貫してカラー放送を行い、隔週で後楽園ホールにて公開収録されてきた。落語や講談などの演芸と大喜利を柱に、寄席文字を用いた独自の画面演出を守り続け、高視聴率を記録する長寿番組として日本のテレビ演芸史に刻まれる。

1966年10月 – 1971年4月 / 1973年10月 – 1974年4月

プラチナ萬年筆の一社提供による音楽バラエティ番組。集英社『明星』の協賛を受けて開始され、当初は『プラチナアワー 明星ゴールデンショー』の題名で放送された。藤村有弘が司会を務め、由美かおる、フォーリーブスらが出演し、歌謡界の若手を積極的に起用した構成が特徴だった。第2期ではジャニーズ・ジュニアの公募も行われ、後のスターを見い出す場ともなり、アイドル文化の形成に一定の役割を果たした。

1967年11月 – 1969年3月 / 1969年4月 – 1971年3月ほか

1966年放送の『びっくりショー』を発展させ、世界各国の出演者が驚異的な芸を披露した。’70年大阪万博に着想を得た企画で、万博会場での収録も行われた。司会は主に八木治郎が務め、高視聴率を記録したが、編成変更後に低迷。番組は形を変えつつ継続・復活を重ね、国際色豊かな見世物番組として人気を博した。

1968年4月 – 1971年9月

東京ヴィデオ・ホールから毎日生放送された昼のバラエティ番組で、前田武彦を司会にコント55号がレギュラーとして活躍した。多数の芸人や歌手を迎え、コントやゲームで流行語を生み、時に前衛的企画も放送。出演者の多忙化に伴い司会や構成を刷新しつつ継続したが、カラー化を機に1970年9月で終了し、『ハイヌーンショー』へ移行した。

1968年11月 – 1990年10月

約22年間にわたり放送されたフジテレビの音楽番組で、原則生放送を特徴とした。1970年代前半までは歌謡バラエティ色が強かったが、’76年以降はアイドルや演歌に加え、ニューミュージック、ロック系、海外アーティストまで幅広く出演させ、生演奏・フルコーラスを基本とした構成で音楽番組の質を高めた。名物は出演歌手同士がリレー方式で他の歌手を紹介する番組オープニング。沢田研二「サムライ」での50畳の畳敷きの演出など、印象的なスタジオセットも特徴だった。司会は芳村真理を中心に前田武彦、三波伸介、井上順、古舘伊知郎らが務めた。演奏は長年ダン池田とニューブリードが担当し、番組の象徴的存在となった。芸能事務所の力関係も出演構成に影響を与えた点は、当時の音楽界を映す側面でもあった。

1969年1月 – 1986年3月 / 1989年10月 – 1990年3月ほか

田宮二郎が司会を務める1969年にテレビ朝日系列で始まったクイズ番組で、司会者を交代しながら3シリーズのレギュラー放送を経て、以後も特番として断続的に制作されている。1分間に12問、5秒ごとに出題される高速クイズに挑む形式で、「現代人の頭脳と反射神経を試す」ことを趣旨とした。巨大な時計台と高所の解答席、成績不振時に作動するペナルティ演出が象徴的で、全問1問1答・即断即答を求める厳格なルールも特徴。平均視聴率14%、最高29%を記録し、スピード感あふれる名物番組として強い印象を残した。

1969年7月 – 1982年9月

若者向けを前面に打ち出した公開バラエティ番組。ラジオ番組『歌え!MBSヤングタウン』のテレビ版として制作され、桂三枝や笑福亭仁鶴、やすし・きよしらが司会を担当。’70年代頃はまだ若手だった明石家さんまも観客席インタビューなどを受け持った。短いコーナーを連続させる構成と、芸人個人のキャラクターを生かす演出で人気を博し、吉本興業の若手芸人を全国区へ押し上げた。上方演芸界の勢力図を塗り替えた象徴的番組として知られる。

1969年10月 – 1981年3月

「NHK紅白歌合戦を毎週楽しめる番組」を発想源に、紅白対抗形式とベストテン風構成を融合させた歌謡番組。出演者は紅白各5組の計10組で、客観的ランキングではなく局側のキャスティングによって選ばれた。原則として渋谷公会堂から公開生放送で行われ、修学旅行生の紹介が定番演出となった。白組キャプテンは堺正章が一貫して務め、紅組は水前寺清子、今陽子、岡崎友紀らが担当。白組では野口五郎・郷ひろみ・西城秀樹の「新御三家」が、紅組では森昌子・桜田淳子・山口百恵の「花の中三トリオ」が人気を牽引し、演歌勢では五木ひろしや八代亜紀、和田アキ子らが常連として出演した。

1969年10月 – 1970年3月 / 1970年10月 – 1971年3月

大橋巨泉と前田武彦の掛け合いによる生放送パートと、事前収録の大量ショートコントで構成されたバラエティ番組。米国番組『ラフ・イン』をモデルに、矢継ぎ早にコントを連ねる斬新な演出を採用し「アッと驚く為五郎」などの流行語を生んだ。膨大な台本と徹底した制作体制でも知られ、1960年代末のテレビ表現に大きな影響を与えた。

1969年10月 – 1971年3月 / 1971年10月 – 1985年9月

1969年から’85年までTBS系列で放送されたザ・ドリフターズの冠お笑いバラエティ番組。前半はドリフによる本格コント、後半は体操や合唱団を交えた企画で構成され、間に歌手ゲストの歌唱が挟まれた。全国各地の劇場から公開生放送を行い、大掛かりな舞台装置と体当たりの笑いで国民的人気を獲得。平均視聴率27%、最高50.5%を記録し、土曜夜の象徴的番組となった。

1970年1月 – 1976年12月

歌合戦形式で行われた視聴者参加型オーディション番組で、アマチュアとプロ歌手が同じ舞台で競う。司会は長沢純や浜村淳が務め、ヒットに恵まれない歌手にとっては再起の登竜門となり、五木ひろしや八代亜紀などがグランドチャンピオンから演歌界のスターへと飛躍した。毎回5人(後に6人)が出場し、鈴木淳や山口洋子などによる審査で70点以上で勝ち抜き、10週連続でグランドチャンピオンに到達するとトロフィーや契約権が与えられた。大阪近郊を中心に公開収録され、演出性の高い審査発表も名物だったが、視聴率の低迷により1976年末に終了した。

1970年4月 – 1979年9月

芳村真理司会のもと、若手歌手や俳優のカップルを招いて恋愛トークや演出で盛り上げるバラエティ番組。多くは番組設定上の組み合わせだったが、山口百恵&三浦友和など実際の交際や結婚へ発展した例もあり話題を呼んだ。後期にはタレントと一般視聴者の参加回も導入。放送時間帯やスポンサー変更を経て展開され、現在は映像資料が少ない幻の番組として知られている。

1970年8月 –

水泳を題材に各局で放送されたアイドル中心のバラエティ番組。芸能人運動会の派生企画として始まり、当初は水泳競技の真剣勝負も行われていたが、全盛期には浮島戦や水上格闘など大型プールで女性アイドルが不安定な足場のゲームに挑む内容が主流となり、お色気要素が強まった。普段は見られない水着姿が話題を呼んだ一方、時代の風潮や自主規制の高まり、セクシーアイドル台頭の影響で次第に衰退した。

1971年1月 – 1982年12月 –

日本テレビ系列で日曜昼に生放送された視聴者参加型バラエティ番組。初代司会者は土居まさる。正式名称は『TVジョッキー日曜大行進』で、視聴者が電話やスタジオ参加で番組に加わる形式が特徴。白いギターやEDWINのジーンズなど豪華賞品も若者の憧れとなった。1970年にはコント55号による特別編成も行われ、’78年にはステレオ放送にも対応。’82年に終了し、後継番組としてビートたけしを司会とする『スーパージョッキー』が開始した。

1971年1月 – 現在

1971年に放送を開始した朝日放送テレビ制作の視聴者参加型トーク番組。全国ネットで毎週日曜昼に放送され、新婚夫婦を招いて出会いや結婚生活のエピソードを軽妙な掛け合いで紹介する。長寿番組として知られ、桂文枝が半世紀以上にわたり司会を務めたことでギネス世界記録にも認定された。放送開始から50年以上続く昼の名物番組である。

1971年4月 – 1973年12月 / 1977年10月 – 1979年9月

1970年代にNETテレビ(のちのテレビ朝日)で放送された深夜のアダルト向けバラエティ番組。生放送を軸に過激な色気を売り物としつつ、政治問題など硬派な話題も扱い『11PM』と並ぶ深夜番組として注目を集めた。曜日別に司会者を置き、ケーシー高峰、筒井康隆、愛川欽也、高島忠夫ら多彩な顔触れが出演し、初期の金曜には上方演芸も紹介した。一方で低俗番組との批判を受け、’73年の深夜放送自粛を機に一度終了。’77年に再開後は’79年まで放送され、後続番組へと流れを引き継いだ。

1971年10月 – 1983年9月

1971年に開始され、12年間にわたり放送された日本テレビの視聴者参加型歌手オーディション番組。企画者は作詞家の阿久悠で、カラーテレビ時代の特性を生かし「テレビの手でスターを生み出す」ことを目的に開始した。毎週、予選を経た5~7人の挑戦者が歌合戦形式で競い、日曜午前枠で長期育成を前提とした構成が特徴だった。初代司会は萩本欽一が務め、作詞家や作曲家の審査員による辛口審査の中でも参加者を励ます立場を貫いた。森昌子の合格以降、応募者は10代中心となり、新たな時代の歌謡界を牽引する山口百恵、桜田淳子、岩崎宏美、ピンク・レディーなどを続々と輩出。中森明菜は不合格を経験しながらも’81年の三度目の挑戦で392点という史上最高得点を記録し、強烈な印象を残した。

1972年1月 – 1976年3月 / 1978年7月 – 1979年3月

毎回30曲をランキング形式で紹介する音楽番組で、スタジオには出演歌手30人分の大型ランキングボードが常設されていた。ボードには顔写真や曲名、順位推移、ポイントなど詳細なデータが表示され、歌手の登場に合わせて該当部分が点灯する演出が特徴だった。第2期以降は表示形式を簡略化し、上位10曲ではフラップ式ボードも使用。司会は愛川欽也、森田健作、井上順らが務め、エンディングでは観客へのサインプレゼントも行われた。

1972年4月 – 1982年4月

1970年代を代表するNHKの大型お笑い番組で、三波伸介を中心に構成された。土曜放送時代は「笑福亭仁鶴のお見合い」「演芸コーナー」「てんぷく笑劇場」の三本立てで、庶民的な笑いと人情味を融合。’73年に日曜へ移行後は「てんぷく笑劇場」「歌謡曲コーナー」「減点パパ(後に減点ファミリー)」を柱とし、家族向け娯楽番組として人気を確立した。’82年に10年間の歴史に幕を下ろした。

1972年10月 – 1974年6月 / 1974年7月 – 1977年4月ほか

1972年から’79年までTBSで生放送された素人参加型情報バラエティ番組。銀座テレサからの観客参加形式で、司会のせんだみつおが人気を博した。中高生の帰宅時間帯を狙った月曜 – 金曜 17:00 – 17:30などの編成で高視聴率を獲得し、「しろうとコメディアン道場」から関根勤、小堺一機、竹中直人らが登場。音楽企画も充実し、国内外の著名ミュージシャンが出演。若者文化と街の熱気を伝えた番組として知られる。

1973年4月 – 9月 / 1974年4月 – 1975年3月 / 1975年10月 – 1976年3月

1973年から’76年にかけて日本テレビで放送されたコント55号の冠お笑い番組。浅草松竹演芸場での公開収録による舞台コントを中心に構成され、簡潔ながらも独自の間と身体性を生かした笑いで高い人気を得た。舞台全景を重視した撮影手法や「なんでそーなるの!?」のアイキャッチも特徴で、コンビを代表する番組の一つとして知られる。

1973年4月 – 12月 / 1974年1月 – 1975年11月 / 1975年12月 – 1985年3月

横山やすし・西川きよしが司会を務めた公開収録形式のバラエティ番組。関西ローカルの深夜番組として始まり、放送枠拡大やネットチェンジを経て1975年末に全国ネット・ゴールデン帯へ進出した。ABCホールを拠点に展開され、人気コーナー「「フィーリングカップル5vs5」」やキダ・タロー作曲のテーマ音楽も親しまれた。最高視聴率36%を記録するなど高い人気を誇り、’85年に12年の歴史に幕を下ろした。

1973年10月 – 1975年9月 / 1975年10月 – 1979年6月

日本テレビで生放送された深夜帯の大型バラエティ番組。和田アキ子とタモリが初共演し、せんだみつおらとの奔放な掛け合いで人気を獲得した。制作は井原高忠が担当し、型破りで過激な演出が特徴。ザ・デストロイヤーやマギー・ミネンコなども人気を集め、初回低視聴率から急上昇し全盛期には30%超を記録したが、主要出演者の降板が相次ぎ、人気低迷の末に終了した。

1973年10月 – 1980年3月

フジテレビ系列局で放送された視聴者参加型の歌手オーディション番組で、『スター誕生!』のライバル的存在として知られる。初代司会者は三波伸介。渡辺プロダクションが制作協力し、林寛子、高田みづえ、石川ひとみ、越美晴らを輩出した。グランドチャンピオン決定時にはくす玉や紙吹雪、風船を用いた派手な演出が行われ、時期によってはゴンドラ式の合格発表も採用された。番組内ではコントやミニゲームなどの娯楽要素も盛り込まれ、後年のアイドル発掘番組へとつながる一系譜を成した。

1973年10月 – 1984年3月

関西テレビで放送された視聴者参加型の恋愛バラエティ番組。深夜番組『ナイト・パンチ』の一企画から独立し、若者風俗を巧みに取り入れて人気を獲得、のちにフジテレビ系全国ネットへ昇格した。司会は桂三枝と西川きよしが務め、軽快な漫才調の進行と名物キャッチフレーズが番組の象徴となった。関西制作恋愛番組を代表する長寿番組として知られる。

1973年11月 – 2000年10月 / 2012年 – 現在

1973年にフジテレビの特番として始まった不定期放送のものまね番組。第1回は高視聴率を記録し、森昌子が初代王者となった。’80年代後半以降は所ジョージらの司会のもと、淡谷のり子を審査員に迎え、笑いとパロディ性を重視した路線へ転換。コロッケや清水アキラら“ものまね四天王”を中心に人気を博し、’90年代のものまねブームを牽引した。

1975年4月 – 1975年9月 / 1976年4月 – 1986年3月 / 1986年4月 – 1986年9月

日本テレビ系で放送されたコント主体のバラエティ番組で、演出の白井荘也が松竹新喜劇に着想を得て企画した。坂上二郎、野口五郎、研ナオコを中心に始まり、視聴率の安定からレギュラー化。後に堺正章や郷ひろみ、西城秀樹ら新御三家が加わり、アイドルと喜劇を融合した構成で人気を博した。高田みづえがコメディエンヌとして注目を集めた点も特色だった。

1975年4月 – 1975年9月 / 1975年10月 – 1984年5月ほか

全国ニュースに載らないB級事件をリポーターがフリップや再現フィルムで解説する低予算ワイドショー的バラエティ。常時30%超の視聴率を記録した日テレの看板番組だった。朝枠の「テレビ三面記事」を週末プライム向けに発展させ、男性層を意識した内容に転換。司会は 加藤芳郎、リポーターに 泉ピン子大山のぶ代桂朝丸高見恭子青空はるおら。クインシー・ジョーンズ作曲・鬼警部アイアンサイドのテーマに乗せ、小早川正昭の「新聞によりますと…」で始まる語りが名物だった。

1975年4月 – 1980年3月

萩本欽一が企画・主演を務めたフジテレビ土曜夜のバラエティ番組。ラジオのヒットを受けて1975年にレギュラー化され、当初は『萩本欽一ショー』を冠した。視聴者投稿ハガキと萩本の即興的アドリブを軸に、NGも笑いに変える自由な演出が特徴で、「バカウケ」などの流行語も生んだ。この手法は後のフジ系バラエティに大きな影響を与えた。

1975年10月 – 1986年3月

一般視聴者も参加するトーク重視のクイズバラエティで、司会の久米宏と、コント55号の萩本欽一・坂上二郎が中心となって展開された。緊張感よりも会話の妙や間を楽しませる作風で、久米の軽妙な司会は全国的な人気を獲得した。出題時に正解を伏せるため使われた「ほにゃらら」という言葉は流行語となり、番組の象徴となった。日本のクイズ番組で初めてVTR問題を導入した点も特筆される。企画は萩本宅での新年会から生まれ、古今東西ゲームのスピード感をテレビに持ち込んだもので、生放送ならではのハプニングも名物だった。

1975年10月 – 1978年3月 / 1978年10月 – 1979年4月ほか

よみうりテレビ制作で放送された視聴者参加型のスポーツバラエティ番組。一般参加者が風変わりな競技に挑み、日本一や新記録を目指す構成で人気を博した。中期以降は屋外ロケ中心となり、実況と演出を強めた展開が特徴。名物企画「鳥人間コンテスト」を生み、記録に挑む人間の可能性とロマンを描いた長寿番組。

1976年1月 – 1992年12月

ロート製薬の一社提供で放送された全862回の長寿番組。司会の大橋巨泉がカナダで見たクイズ番組セレブリティ・ステークスをヒントに企画し、漫画家・はらたいらなどの解答者を競走馬に見立てて出場者が持ち点を賭ける競馬方式を採用した。巨泉と個性豊かな解答者との軽妙なやりとり、ギャンブル的なスリルが視聴者を引きつけた。本家が短命に終わったのに対し、本番組では問題は事前に知らされず、巨泉も収録直前に初見で臨む形式を徹底したことが緊張感を高めた。1979年6月30日放送回には視聴率40.8%(関東地区)を記録し、クイズ番組初の40%台を達成。1979年から1981年にかけて年間平均約30%を誇り、民放クイズ番組史上屈指の黄金期を築いた。

1976年2月 – 1996年3月 / 1996年4月 – 1997年9月 / 1997年10月 – 2014年3月ほか

1976年2月2日よりテレビ朝日系列で平日昼に放送されている黒柳徹子の冠トーク番組。原則として毎回1組のゲストを迎え、人物の人生や素顔に迫る対話を特徴とする。初回ゲストは森繁久彌で、以後も加山雄三やタモリなど常連出演者を生んだ。俳優や芸能人に加え、市民運動やボランティア関係者が登場する点も特色で、収録が長時間に及び2回放送となる例も少なくない。日本のテレビ史を代表する長寿番組の一つである。最多出演ゲストは53回で加山雄三、歴代の高視聴率を記録したゲストは三浦友和で1981年4月10日(金)の14.5%(※2025年時点)。

1976年4月 – 1994年3月

司会が出すお題に対し、出演者がフリップに即興でマンガを描いて競う大喜利形式のバラエティ番組。数回戦制を基本に構成され、当初は中京圏ローカル番組として開始されたが、後に全国放送へ拡大。土曜夕方の定番として高視聴率を記録し、正月特番「初笑いマンガ道場」も親しまれた。近年は配信や傑作選放送で再評価されている。

1976年4月 – 1998年9月

仕掛けた出来事で芸能人を驚かせ、その反応を楽しむフジの人気バラエティ番組。ジャニーズ事務所、ホリプロ、田辺エージェンシー、バーニングプロダクションなどに所属する当時のスターが多数出演し、後続の類似番組を生む先駆けとなった。1976年4月、三波伸介を司会に迎え、『木曜ビッグイベント スターどっきり㊙報告』として木曜20時枠でスタート。制作は『夜のヒットスタジオ』と同じ疋田拓プロデューサー率いる制作班が担当した。’79年には『スターどっきり生放送』と改題し生放送化するがレギュラー終了。その後は特番や再レギュラー化を挟みつつ、’98年まで断続的に放送された。レポーターには宮尾すすむ、小野ヤスシ、ダン池田、みのもんた、片岡鶴太郎、轟二郎らが名を連ねた。

1976年10月 – 1986年9月

萩本欽一の冠番組として水曜21時枠で放送された公開コメディー番組。舞台に観客を入れ、萩本家を舞台とするホームドラマ形式で進行し、萩本と真屋順子が夫婦役を演じた。引っ越しや子どもの成長など設定を変化させながら長期的な物語性を持たせ、見栄晴や「わらべ」誕生の場ともなった。茶の間のテレビから番組が始まる独特の演出も特徴である。

1976年10月 – 1988年4月

フジテレビで放送された音楽系クイズバラエティで、後に特番として継続された。楽曲のイントロを当てるクイズの元祖として知られ、音楽や芸能に関する問題、歌手ゲストによる歌唱も交えた構成が特色。司会は高島忠夫が務め、「イェーイ!!」の掛け声も名物となった。日曜昼ながら安定した高視聴率を記録し、フジテレビを代表する長寿番組の一つとなった。

1976年10月 – 1977年12月

スタジオに観客を招いて行われた公開型の音楽番組で、演歌からポップスまで幅広い歌手を毎回迎えて構成された。司会は二谷英明と久米宏が務め、歌唱の合間には二谷とゲストによるトークが展開された。収録はTBS本館Gスタジオで行われ、演奏は宮間利之とニューハードらが担当。エンディングには森田公一とトップギャランの「青春時代」などが用いられ、最終回ではレコード大賞候補歌手が集結し、後番組『ザ・ベストテン』へのバトンタッチが演出された。

1977年2月 – 1998年4月

フジテレビ系列で月1回放送されたお笑いバラエティ番組。ザ・ドリフターズの冠番組として、『8時だョ!全員集合』と並ぶ代表作である。各回ごとに設定されたテーマに基づくコントと、ゲスト歌手の歌を交互に構成し、いかりや長介が進行役を務めた。「雷様」「ばか兄弟」などの人気シリーズで高視聴率を記録し、長期にわたり国民的番組として親しまれた。

1978年1月 – 1989年9月

『トップスターショー・歌ある限り』の後番組として始まった音楽ランキング番組で、毎週生放送で独自集計による邦楽ベストテンを発表した。司会は黒柳徹子と久米宏の名コンビが務め、新幹線の車中やホームで移動中の出演者が歌唱するなどの臨場感とリアリティも魅力となり、最高視聴率41.9%を記録する社会現象となった。ランキングはレコード売上、有線放送、ラジオリクエスト、はがき投票を合算したポイント制で決定され、空港の案内表示機を参考とする反転フラップ式のランキングボードを用いた発表演出が番組の象徴となった。歌手は原則として順位に応じて生出演し、海外・地方からの中継も多用された。番組終盤には出演者全員で集合写真を撮影し、視聴者にプレゼントするなど、参加型の仕掛けで高い支持を集めた。

1978年10月 – 1991年3月

関西テレビ制作で1978年から’91年まで放送されたバラエティ番組。男性6人、女性5人の素人出演者の中から本物の新婚夫婦を推理する内容で、トークとゲーム性を融合した構成が特色。司会は上岡龍太郎が務め、横山ノックや桂文珍らが解答者として推理を展開した。関西色の強い軽妙な掛け合いと日曜昼の定番番組として長く親しまれた。

1979年12月 – 2001年9月ほか

萩本欽一司会のもと1979年にスタートした視聴者参加型バラエティ番組。NHK紅白歌合戦への対抗企画として大晦日に始まり、素人参加者が工夫を凝らした仮装作品を披露する形式が人気を獲得。当初は仮装行列的内容が中心だったが、回を重ねるごとに完成度の高い表現へ進化し、恒例番組として定着した。香取慎吾の参加で番組名と司会体制を変えつつ、長年親しまれている。

バラエティ > 1960年代

1960年代のバラエティ番組は、アメリカ型のショーを手本に、歌・踊り・コントを融合した総合娯楽として発展した。井原高忠が『光子の窓』で導入した演出手法を基盤に、『夢であいましょう』『シャボン玉ホリデー』などが人気を集め、テレビは国民的娯楽として定着していく。一方で視聴者参加型企画も広がり、過激な演出や悪ふざけが物議を醸す場面も生まれ、番組内容のあり方をめぐる議論が起こった。そうした試行錯誤の中から、『笑点』や『8時だョ!全員集合』のように、完成度の高いテレビ的笑いを確立する番組が登場した。

─ 主なバラエティ番組 ─

1946年1月 –

1946年にラジオで始まり、’53年からテレビ放送も開始された公開視聴者参加型の生放送音楽番組。素人出場者が歌を披露し、ゲスト歌手の指導やインタビューを交えながら評価される。’70年の改革で出場者数を25人に絞り、手持ちマイクやワイヤレスマイクを導入、歌唱だけでなく表現力も重視する構成に変更され、全国大会や特別賞も設けられ人気を回復。現在も各地域から生中継や録画で放送される長寿番組。

1958年5月 – 1987年9月

1958年から約24年間にわたりTBS系列で日曜昼に放送された長寿歌謡番組。開始当初はモノクロ・モノラルだったが、’69年にカラー化、’85年にはステレオ放送へ移行した。番組は時代に応じて副題やタイトルを変えつつ、終始ロッテの一社提供で継続された。長年司会を務めた玉置宏の「一週間のご無沙汰でした」で始まる語り口は名物となり、従来の美文調司会とは異なる個性的な進行で歌謡番組の新境地を切り開いた。

1958年5月 – 1960年12月

『花椿ショウ 光子の窓』は、1958年から’60年まで日本テレビで放送された草笛光子の冠による音楽バラエティ番組。資生堂一社提供のもと、歌とコントを融合した本格的ショーとして制作された。日本テレビと東宝テレビ部の共同製作で、当時24歳の草笛を中心に、小島正雄、三國一朗、徳川夢声、トニー谷らが出演し、洗練された演出が特徴であった。番組末期には実験的にカラー放送も行われ、芸術祭参加作「イグアノドンの卵」は奨励賞を受賞するなど高い評価を得た。日本の音楽バラエティの基礎を築いた先駆的番組だった。

1959年3月 – 1981年9月

旬の芸能人やスポーツ選手をゲストに迎え、社会的話題として人物像に迫る帯番組。映画スター出演制限の時代に、時事性を切り口として人気を博した。ゴールデン帯15分枠で放送され、「出演すれば一人前」と称される存在感を確立。俳優司会の起用や早期のカラー化も話題となり、最高視聴率45.9%を記録した。歴代司会者は栗原玲児、石坂浩二、関口宏、吉永小百合、坂本九など。

1959年6月 – 1970年3月

初代司会者に、当時人気ロカビリー歌手だったミッキー・カーチスを起用、渡辺プロダクションと作曲家のすぎやまこういちが企画を主導した音楽番組。デビュー後まもないザ・ピーナッツやジャッキー吉川とブルーコメッツがレギュラー出演し、後のGSブームのきっかけとなった番組でもある。後にフジテレビで制作される「ミュージックフェア」「夜のヒットスタジオ」の土台でもあり、視覚でも音楽を楽しませるスタイルの走りだった。

1961年4月 – 1966年4月

日本のテレビ放送初期に制作されたバラエティ番組で、1959年放送の『午後のおしゃべり』が前身。毎回テーマを設定し、ショートコントを軸に踊りやジャズ演奏、外国曲の歌唱を挟んで構成された。歌手のコント出演や芸人の歌唱企画は後続番組の原型となった。初代ホステス中嶋弘子の独特な挨拶も話題を呼び、後に黒柳徹子が司会を担当。’66年、後継番組『夢をあなたに』へ移行して終了した。

1961年6月 – 1972年10月 / 1976年10月 – 1977年3月

日本テレビと渡辺プロダクションが制作した音楽バラエティ番組で、ザ・ピーナッツを主役に開始された。牛乳石鹸一社提供のもと、コント・歌・トークを中心に、ハナ肇とクレージーキャッツやザ・タイガースとともに多彩なゲストが参加し、多くの流行ギャグを生んだ。全回カラーVTR収録で放送され、植木等の名フレーズなどで高視聴率を記録。1972年に第1期が終了し、’76年にはピンク・レディー出演による第2期が深夜枠で放送された。

1961年8月 – 1972年2月 / 1975年10月 – 1982年3月

1960年代から1980年代にかけ、2期にわたって放送された人気の視聴者参加型番組。松下電器産業の一社提供番組で、正式な番組名は「ナショナルプライスクイズ ズバリ!当てましょう(後に変更)」だった。4組のペア回答者が品物の値段を推理して当てるもので、値段当てクイズの元祖番組。家電ブーム真っ最中の時世で、一発で値段を当てる”ズバリ賞”の商品は、当時100万円相当のナショナル電化製品一式だった。

1962年5月 – 1968年3月

大阪・ABCホールでの公開放送形式を採った時代劇風コメディ番組。編集技術が未成熟だった初期には、昼間に収録した映像をほぼそのまま放送する撮って出し方式で制作され、出演者とスタッフの高度な技量が評価された。大規模な火薬を用いた迫力ある演出や、1967年には朝日放送初の自社制作カラーテレビ番組も実現。「あたり前田のクラッカー」など数々の流行語を生み、後続作や派生作品へと展開された。

1964年1月 – 2010年1月

1964年に始まったフジテレビの新春特別バラエティ番組で、『紅白歌合戦』『日本レコード大賞』と並ぶ年末年始の大型番組として親しまれた。芸能人がチームに分かれ、秘芸や余興を披露して得点を競う形式で高視聴率を長年維持。制作は渡辺プロダクションと共同で行われ、華やかな演出も名物となった。2010年元日の放送をもって47年の歴史に幕を下ろした。

1964年4月 – 1968年3月 / 1972年4月 – 1973年3月 / 1976年4月 – 1977年12月

初代NHKホールでの公開放送として始まったNHKの音楽番組で、パイロット版からカラー放送を行った。初期は倍賞千恵子、アントニオ古賀、金井克子が司会を務め、後に中尾ミエが加わった。第2期以降はタイトル表記を改め、101スタジオから生放送に移行。司会は山川静夫が中心となり、フォーリーブスやキャンディーズがレギュラー出演した。第3期では山川が単独司会となり、長期にわたりNHKを代表する歌番組として親しまれた。

1964年8月 –

日本の民放音楽番組として最長寿を誇るフジテレビ系のレギュラー番組で、1964年の開始以来、塩野義製薬一社提供の冠番組として放送されてきた。’67年にカラー化、’78年にステレオ化、2004年にはハイビジョン制作へ移行するなど、放送技術の進化も反映している。初代総合司会に越路吹雪、二代目に左幸子、三代目に長門裕之・南田洋子夫妻など落ち着いた進行役とゲスト同士の丁寧なトーク、質の高い歌唱演出が特徴で、海外の大物アーティストも多数出演した。初期は公開収録も行われたが、現在は観客を入れないスタジオ収録が基本となっている。

1964年11月 – 1977年9月

視聴者参加型の人気番組。視聴者の推薦で集められた有名人の“そっくりさん”5人が出演し、審査員の投票によってチャンピオンを決定した。本人がゲストとして登場することも特徴で、歌手の場合は持ち歌を披露し、それ以外の場合はイメージに合わせた歌や振り付けで競った。優勝者にはトロフィーと賞金5万円が贈られた。チャンピオンが揃うと大会が開かれ、グランドチャンピオンにはゴールデントロフィー、推薦者と行くヨーロッパ旅行、賞金10万円が授与された。司会は当初小野栄一が務め、’68年の『そっくりショー日本一!』への改題を機に青空はるお・青空あきおへ交代。番組は『新そっくりショー』などの形式変更を経ながら続き、’66年には最高視聴率43.9%を記録するなど高い人気を誇った。

1965年3月 – 1966年4月

1965年から’66年にかけて日本テレビで放送された寄席風演芸番組で『笑点』の前身にあたる。立川談志の発案により、大喜利を中心とした構成で、ブラックユーモアを交えた玄人好みの内容が特徴だった。読売ホールで収録され、隔週放送ながら深夜帯で支持を獲得。その実績を踏まえ、番組は発展的に解消され、日曜夕方枠の『笑点』へと継承された。

1965年11月 – 1990年3月

1965年から約24年半にわたり放送された日本初の深夜お色気ワイドショーで、基本は生放送。日本テレビとよみうりテレビが曜日別に制作し、大橋巨泉、愛川欽也、藤本義一らが司会を担当。ヌードや風俗といった刺激的題材から、前衛芸術、政治・社会問題まで幅広く扱い、深夜番組の可能性を拡張した。曜日ごとの特色ある企画も定着し、最高視聴率48%超を記録するなど、長寿かつ影響力の大きい番組として知られる。

1966年4月 – 1980年12月

TBSを幹事局とし、各地の系列局が持ち回りで制作・放送した視聴者参加型の歌合戦番組。審査員は市川昭介、笠置シヅ子、神津善行、山本直純など。日本各地の市民会館などで公開収録が行われ、家族単位の出場者が動物名を冠したチームとして歌声を競った。司会は獅子てんや・瀬戸わんやが担当した。当初はモノクロ放送だったが1970年4月からカラー化。約14年半にわたり放送され、昼間ながら平均15%を記録した時期もあったが、後年は視聴率が低下し、愛知県西尾市での収録を最後に終了した。

1966年5月 – 1968年4月 / 1968年5月 – 1996年3月ほか

1966年に『金曜夜席』を継ぐ形で始まった演芸バラエティ番組で、大喜利で座布団をやり取りする形式が特色。番組名は『氷点』をもじったものとされ、命名を巡る逸話も知られる。放送開始当初から一貫してカラー放送を行い、隔週で後楽園ホールにて公開収録されてきた。落語や講談などの演芸と大喜利を柱に、寄席文字を用いた独自の画面演出を守り続け、高視聴率を記録する長寿番組として日本のテレビ演芸史に刻まれる。

1966年8月 – 11月

ロート製薬の一社提供で放送された視聴者参加型バラエティ番組で、一般応募の参加者が常人には真似できない特技や超人技を披露した。司会はてんぷくトリオの三波伸介・戸塚睦夫・伊東四朗が務め、三波は驚異的な芸が登場するたびに決めぜりふ「びっくりしたなあ、もう」で番組を盛り上げた。1967年には内容を発展させ、『万国びっくりショー』へとリニューアルされた。

1966年10月 – 1971年4月 / 1973年10月 – 1974年4月

プラチナ萬年筆の一社提供による音楽バラエティ番組。集英社『明星』の協賛を受けて開始され、当初は『プラチナアワー 明星ゴールデンショー』の題名で放送された。藤村有弘が司会を務め、由美かおる、フォーリーブスらが出演し、歌謡界の若手を積極的に起用した構成が特徴だった。第2期ではジャニーズ・ジュニアの公募も行われ、後のスターを見い出す場ともなり、アイドル文化の形成に一定の役割を果たした。

1967年11月 – 1969年3月 / 1969年4月 – 1971年3月ほか

1966年放送の『びっくりショー』を発展させ、世界各国の出演者が驚異的な芸を披露した。’70年大阪万博に着想を得た企画で、万博会場での収録も行われた。司会は主に八木治郎が務め、高視聴率を記録したが、編成変更後に低迷。番組は形を変えつつ継続・復活を重ね、国際色豊かな見世物番組として人気を博した。

1968年4月 – 1971年9月

東京ヴィデオ・ホールから毎日生放送された昼のバラエティ番組で、前田武彦を司会にコント55号がレギュラーとして活躍した。多数の芸人や歌手を迎え、コントやゲームで流行語を生み、時に前衛的企画も放送。出演者の多忙化に伴い司会や構成を刷新しつつ継続したが、カラー化を機に1970年9月で終了し、『ハイヌーンショー』へ移行した。

1968年11月 – 1990年10月

約22年間にわたり放送されたフジテレビの音楽番組で、原則生放送を特徴とした。1970年代前半までは歌謡バラエティ色が強かったが、’76年以降はアイドルや演歌に加え、ニューミュージック、ロック系、海外アーティストまで幅広く出演させ、生演奏・フルコーラスを基本とした構成で音楽番組の質を高めた。名物は出演歌手同士がリレー方式で他の歌手を紹介する番組オープニング。沢田研二「サムライ」での50畳の畳敷きの演出など、印象的なスタジオセットも特徴だった。司会は芳村真理を中心に前田武彦、三波伸介、井上順、古舘伊知郎らが務めた。演奏は長年ダン池田とニューブリードが担当し、番組の象徴的存在となった。芸能事務所の力関係も出演構成に影響を与えた点は、当時の音楽界を映す側面でもあった。

1969年1月 – 1986年3月 / 1989年10月 – 1990年3月ほか

田宮二郎が司会を務める1969年にテレビ朝日系列で始まったクイズ番組で、司会者を交代しながら3シリーズのレギュラー放送を経て、以後も特番として断続的に制作されている。1分間に12問、5秒ごとに出題される高速クイズに挑む形式で、「現代人の頭脳と反射神経を試す」ことを趣旨とした。巨大な時計台と高所の解答席、成績不振時に作動するペナルティ演出が象徴的で、全問1問1答・即断即答を求める厳格なルールも特徴。平均視聴率14%、最高29%を記録し、スピード感あふれる名物番組として強い印象を残した。

1969年4月 – 1970年3月

NHK大河ドラマ『天と地と』を強く意識し、日曜20時台制覇を掲げて制作されたバラエティ番組。コント55号を進行役に据え、番組内番組的構成と刺激的な企画で話題を集め、特に脱衣野球拳は社会現象となった。視聴率は裏番組を上回る成功を収めたが、内容への批判も多く、約1年で終了。後に野球拳企画は独立番組として放送された。

1969年7月 – 1982年9月

若者向けを前面に打ち出した公開バラエティ番組。ラジオ番組『歌え!MBSヤングタウン』のテレビ版として制作され、桂三枝や笑福亭仁鶴、やすし・きよしらが司会を担当。短いコーナーを連続させる構成と、芸人個人のキャラクターを生かす演出で人気を博し、吉本興業の若手芸人を全国区へ押し上げた。上方演芸界の勢力図を塗り替えた象徴的番組として知られる。

1969年10月 – 1981年3月

「NHK紅白歌合戦を毎週楽しめる番組」を発想源に、紅白対抗形式とベストテン風構成を融合させた歌謡番組。出演者は紅白各5組の計10組で、客観的ランキングではなく局側のキャスティングによって選ばれた。原則として渋谷公会堂から公開生放送で行われ、修学旅行生の紹介が定番演出となった。白組キャプテンは堺正章が一貫して務め、紅組は水前寺清子、今陽子、岡崎友紀らが担当。白組では野口五郎・郷ひろみ・西城秀樹の「新御三家」が、紅組では森昌子・桜田淳子・山口百恵の「花の中三トリオ」が人気を牽引し、演歌勢では五木ひろしや八代亜紀、和田アキ子らが常連として出演した。

1969年10月 – 1970年3月 / 1970年10月 – 1971年3月

大橋巨泉と前田武彦の掛け合いによる生放送パートと、事前収録の大量ショートコントで構成されたバラエティ番組。米国番組『ラフ・イン』をモデルに、矢継ぎ早にコントを連ねる斬新な演出を採用し「アッと驚く為五郎」などの流行語を生んだ。膨大な台本と徹底した制作体制でも知られ、1960年代末のテレビ表現に大きな影響を与えた。

1969年10月 – 1971年3月 / 1971年10月 – 1985年9月

1969年から’85年までTBS系列で放送されたザ・ドリフターズの冠お笑いバラエティ番組。前半はドリフによる本格コント、後半は体操や合唱団を交えた企画で構成され、間に歌手ゲストの歌唱が挟まれた。全国各地の劇場から公開生放送を行い、大掛かりな舞台装置と体当たりの笑いで国民的人気を獲得。平均視聴率27%、最高50.5%を記録し、土曜夜の象徴的番組となった。