歌手・アイドル(女性)
1971年「17才」でデビュー。”シンシア”の愛称でたちまちトップアイドルとなる。同年、日本レコード大賞で新人賞を受賞。「潮風のメロディ」「純潔」「傷つく世代」ほかヒット曲を連発し、同期の天地真理、小柳ルミ子とともに”新三人娘”として活躍した。’78年、当時在学していた上智大学での学業に専念するため引退。その後、写真家の篠山紀信と結婚。一時的に歌手活動を再開した時期もある。
1972年「ひなげしの花」で日本デビュー。それ以前も母国の香港で歌手として活動していた。’73年に発売した3枚目のシングル「草原の輝き」が大ヒットし、日本レコード大賞新人賞を受賞。その後も「小さな恋の物語」「ポケットいっぱいの秘密」「愛の迷い子」ほか多数のヒット曲を放つ。’76年に芸能活動を休止しトロント大学に留学。卒業と同時に芸能活動を再開した。
1972年、デビュー曲の「芽生え」が40万枚を超えるヒット。同年の日本レコード大賞・最優秀新人賞を受賞した。’73年「わたしの彼は左きき」が爆発的なヒットを記録し、日本レコード大賞・大衆賞、日本歌謡大賞・放送音楽賞。麻丘めぐみの代表曲となる。トレードマークの髪型”お姫様カット”は当時若い女性たちの間で流行した。元祖・清純派アイドルともいえる存在。
1973年、TBSドラマ『時間ですよ』のお手伝いさん役でデビュー。ドラマ内で歌う「赤い風船」で歌手デビューし50万枚を売り上げ、同年の日本レコード大賞で新人賞を受賞。以降も『寺内貫太郎一家』『時間ですよ・昭和元年』などのドラマ出演とともに歌手活動でもコンスタントにヒット曲を出し、”ミヨちゃん”の愛称でお茶の間に親しまれる存在となる。
『スター誕生!』で多数の指名を受け、1973年、映画『としごろ』の出演と同名のシングルで”人にめざめる14歳”をキャッチフレーズに芸能界デビュー。桜田淳子、森昌子とともに”花の中3トリオ”として人気アイドルとなる。5枚目のシングル「ひと夏の経験」以降オリコン上位の常連となり、宇崎竜童・阿木燿子による「横須賀ストーリー」で本格的な山口百恵の時代が到来、絶大な人気でトップアイドルとして不動の地位を確立する。’80年、映画『伊豆の踊子』やドラマ”赤いシリーズ”で共演した三浦友和との結婚により引退するも、昭和の伝説のスターとして今なお多くのファンに愛され続けている。
1974年『スター誕生!』で優勝、’75年「二重唱 (デュエット)」でデビュー。2枚目のシングル「ロマンス」が約90万枚のヒットとなり数々の新人賞を受賞。天まで届きそうな伸びやかで圧倒的な歌唱力で、その後も「思秋期」「シンデレラ・ハネムーン」「万華鏡」「すみれ色の涙」などで多くの賞を受賞した。’82年、『火曜サスペンス劇場』の主題歌「聖母たちのララバイ」が80万枚のヒットとなり、同年の日本歌謡大賞を受賞。2025年現在も歌手活動を続けている。
北海道札幌市出身。高校卒業後、地元の音楽喫茶で歌っていたところを平尾昌晃に見出され、1970年8月、「愛のきずな」でキングレコードからデビュー。同曲がヒットし、第12回日本レコード大賞新人賞を受賞。「愛のおもいで」「お嫁に行くなら」などを続けて発表した。’83年には橋幸夫とのデュエット曲「今夜は離さない」が大ヒットし、「デュエットの女王」と呼ばれるようになる。現在もディナーショーなどで歌手活動を続けており、2020年にはデビュー50周年を機に芸名を安倍里葎子から安倍理津子へ改めた。
東京都出身で児童劇団「日本児童」に所属し、1964年から子役として活動を始める。7歳でNHK連続テレビ小説『旅路』に出演し注目を集め、その後も映画やドラマで子役として活躍。’73年、フジテレビの『君こそスターだ!』で初代グランドチャンピオンとなり、翌’74年「ほほえみ」で歌手デビュー。キャッチフレーズは“そよ風みたいな女の子”。翌年の「素敵なラブリーボーイ」がヒットし、アイドルとして人気を確立する。以後、女優業でも活躍し、映画『恋の空中ブランコ』(’76年)やドラマ『がんばれ!レッドビッキーズ』(’78年)で主演。明るく健康的なイメージで多数のCMにも出演した。
1974年「めざめ」で歌手デビュー。ヒット曲には自身が出演したドラマ『刑事犬カール』の主題歌「走れ風のように」や「横浜いれぶん」がある。歌手活動ではそれど目立たなかったものの、グラビアアイドルとしての人気は高くブロマイドは飛ぶように売れ、当時篠山紀信の撮影で知られた雑誌『GORO』の表紙を6回も飾った。’90年、俳優の竹中直人と結婚(再婚)している。
日本テレビ『スター誕生!』で優勝し、1974年「ひまわり娘」でデビュー。天真爛漫な笑顔と歌声でアイドルの仲間入りを果たす。’75年「乙女のワルツ」で日本テレビ音楽祭金の鳩賞や日本歌謡大賞放送音楽賞を受賞。’76年「きみ可愛いね」がオリコン週間9位にランクイン。同じく『スター誕生!』出身の城みちるとの交際も隠すことなく公表し、ファンに支持された。
1976年、フジテレビ『君こそスターだ!』第18代グランドチャンピオン。’77年、16歳でシングル「硝子坂」で歌手デビュー。4作目までオリコンTOP10に入るヒット曲を連発し、数々の新人賞に輝いた。’80年、サザンオールスターズの「私はピアノ」をカバーしたシングルが約50万枚のヒットとなり注目される。’85年、大相撲の人気力士・若嶋津六夫との婚約発表とともに芸能界引退を表明した。
『スター誕生!』出身、1978年「狼なんか怖くない」で歌手デビュー。タレ気味の目元と八重歯の可愛らしい容姿で”百万ドルの微笑”がキャッチフレーズだった。「失恋記念日」「春ラ!ラ!ラ!」ほかスマッシュヒットを重ねるも、’81年、歌手の長渕剛と結婚し芸能界を一時的に引退。’83年離婚により芸能界に復帰した。
1973年、初代ユニチカマスコットガール。、’74年、21歳の時「愛がはじまる時」で歌手デビュー。魅力的なルックスで人気となるもデビュー前のホステス業経験などがスキャンダルとなり人気が凋落。その後はこの件をバネにするように映画『蘇える金狼』で女優開眼を果たし、高い評価を得るとともに数々の作品で活躍する息の長い女優となった。現在もドラマ、映画、CM出演で活躍。
1974年5月、13歳で歌手デビュー。中学生でありながら大人びた外見でドラマ『太陽にほえろ!』の捜査第一係の内勤職役に抜擢され、以降、様々なドラマに出演する。’88年、フジテレビのトレンディドラマ『抱きしめたい!』で浅野温子とともに主演。”W浅野”として話題を集め、憧れのファッションリーダーとして女性たちから絶大な人気を獲得。バブル時代にもっとも輝いた女優のひとり。
1974年「小さな抵抗」で歌手デビュー。デビュー当時の芸名は近藤久美子だったが、’76年に本名の相本久美子に改名した。活動範囲は歌手のほか司会業やドラマ、バラエティ番組の出演など広範囲に亘り、マルチタレントの先駆け的存在とされる。’70年代は5年間、土居まさるとともに日本テレビ『TVジョッキー』の司会を務めたが、スタイルの良さに注目が集まり、雑誌の表紙やグラビアを飾る機会も多かった。
『劇団フジ』で子役として活動した後、’76年、映画『遺書 白い少女』でスクリーンデビュー。翌’77年「あこがれ」で歌手デビュー。”一億人の妹”として人気を集める中、同年の東宝映画『HOUSE/ハウス』で準主役となり女優としての活動も開始。’78年、TBSのドラマ『コメットさん』で初代・九重 佑三子に続く2代目コメットさん役を務め人気が爆発しトップアイドルの仲間入りを果たす。歌手としての代表作は’79年の「スプリング・サンバ」。
1974年、「ボーイフレンド」で歌手デビュー。ヒットには至らず歌手としての活動は目立たなかったが、’76年に資生堂バスボンのCMに起用されたことで人気がブレイク。CMソングの”バスボンの歌”が流行した(シングル化はされず)。その後発売した3枚目のシングル「恋人試験」がヒットし、お茶の間に広く親しまれる存在となった。
ザ・タイガースのジュリーのファンだったことから渡辺プロダクションのスクールメイツに入り活動。その後TVのオーディション番組で優勝し、1974年11月、ピアノ弾き語りスタイルの「雨だれ」で歌手デビュー。20万枚のヒットとなり、翌年の日本レコード大賞/日本歌謡大賞などで新人賞を受賞した。4枚目のシングル「木綿のハンカチーフ」、5枚目の「赤いハイヒール」がオリコン最高2位を記録し、学園祭にもひっぱりだこの人気歌手となった。
アメリカ海軍軍人の父を持ち、本牧の米海軍の住居地域で育つ。1971年「白い週末」で歌手デビュー。’74年発売の「グッド・バイ・マイ・ラブ」のヒット後、キャンディーズや山口百恵のステージ衣装を手掛けるなどファッションデザインにも関心を示し、オリジナルブランドも立ち上げた。’80年に歌手の桑名正博(2012年永眠)と結婚。’80年代は「六本木心中」「あゝ無情」などパンクなファッションでロック色のあるヒット曲を連発し、カッコイイ女の代表格として人気を博した。
ニュー・ミュージック(女性)
1970年、フォークソンググループ・シューリークスの一員としてデビュー後、’74年に「あの頃のぼくは」でソロデビュー。翌年、かぐや姫の楽曲をカバーした3枚目のシングル「なごり雪」がオリコン最高4位の大ヒット。以降も伊勢正三作詞・作曲による「海岸通」などのヒット曲を持つ。芸名の”イルカ”は女子美術大学時代に所属していたフォークソング同好会で、皆が持つギターケースを「イルカの群れみたい」と言ったことから周囲にそう呼ばれるようになり、つけたもの。
1972年、20歳の時「たまねぎ」でシンガーソングライターとしてテビュー。同年、映画『夏の妹』にも出演し、歌とともに女優活動も開始。’74年のシングル「私は泣いています」が100万枚を超える大ヒットとなり一躍有名に。以降、自作の楽曲をかまやつひろし、桑名正博、沢田研二、都はるみなど多くのアーティストにアルバム曲などで提供し、作家としても活躍する。女優としてドラマ出演も多かった。2016年、64歳で永眠。
アメリカ人の父と日本人の母を持つ。1971年、藤田敏八監督の映画『八月の濡れた砂』の主題歌をB面に収録したシングル「小さな日曜日」でデビュー。’77年、井上陽水作詞・作曲による「ダンスはうまく踊れない 」をリリースし、翌年、井上陽水と結婚。結婚後は歌手活動を休止した時期もあったが、その後、資生堂、マックスファクター、ニッカウヰスキーのCMソングや夜のニュース番組のエンディングテーマなどで健在さを見せた。
高校在学中の1974年に「ジョイナス・フォーク・コンペティション」で優勝し’75年にエレックレコードからデビュー。弱い体質を抱えながらもフォークギター弾き語りで女の情念や怨念を土俗的なイメージで歌い上げ、低音の独特の歌唱と鋭い詞世界で熱狂的支持を獲得した。「中島みゆきのライバル」とも称され、’79〜’80年には『オールナイトニッポン』のDJを務め「深夜放送のマドンナ」として親しまれた。
1975年にシングル『さよなら ぼくの ともだち』でデビューし、’83年までに7枚のアルバムと4枚のシングルを発表した孤高のシンガーソングライター。独特のウィスパーボイスと孤独や喪失をテーマにした世界観で強いカルト的支持を集めたが、’83年のアルバム『狼少年 wolf boy』と一連の公演を最後に完全に活動を停止し、公の場から姿を消した。’76年11月発売の「ぼくたちの失敗」は’93年のドラマ『高校教師』の主題歌となり再評価され、100万枚に迫る大ヒットを記録。作品群のCD再発売とともに当時を知らない世代にも広く支持を広げた。
1973年、ヤマハのポピュラーソングコンテストと世界歌謡祭の2につの大会において、ピアノの弾き語りで歌う自身制作の楽曲「あなた」でグランプリをダブル受賞、同年12月にプロデビューした。澄み渡る高音で歌うデビュー曲「あなた」は200万枚を超える大ヒットに。その後大きなヒットは生まれていないが、’82年、自身のダイエット法を説いた著書『あきらめないで―小坂明子のやせる本』がベストセラーとなり、この頃から作曲家としての活動も開始。アニメやゲーム、アイドルなどに多くの楽曲を提供している。
1975年、高校在学中にヤマハ主催『第9回ポピュラーソングコンテスト』に「オルゴールの恋唄」で出場し特別賞を受賞。’77年、洗足学園短期大学音楽科卒業後、同年11月にシングル「迷い道」でデビュー。’78年にはセカンドシングル「かもめが翔んだ日」が大ヒットし、第20回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞、音楽祭13賞も獲得。同年に「ブルー」、’79年に「たとえば…たとえば」「別れて そして」などヒットが続く。’80年の「唇よ、熱く君を語れ」はカネボウCM曲としてヒットし、軽快で力強い曲調が”女性の時代”を象徴する楽曲と評され、デビュー直後からシンガーソングライターとして順調にキャリアを築いた。
1978年、17歳でフォーライフ・レコードから「オリビアを聴きながら」でデビュー。歌唱力は高く評価されたが、初期はセールスが伸び悩み、曲調を変えながら定期的に作品を発表した。’82年、バックバンドの小林武史作曲の「思いきりアメリカン」が花王のCMで使用されヒットし、「夏」「海」のイメージが定着。’83年、角松敏生にプロデュースを委ねた5枚目アルバム『Bi・Ki・Ni』で洗練された音楽性を確立。8月にはアニメ『キャッツ♥アイ』主題歌「CAT’S EYE」を発売し初のオリコン1位を獲得、続く「悲しみがとまらない」とともにベスト10入りを果たす。同年12月には両曲を収録したアルバム『Timely!!』がオリコン1位となり、初出場の第34回NHK紅白歌合戦で不動の地位を確立した。
京都市出身。8歳でクラシックピアノを始め、16歳頃から作詞作曲を手がける。高校時代、近畿放送のオーディション番組で注目され、1976年「冥想」で東芝EMIからデビュー。芸名「亜美」はフランス語で「友人」を意味する“ami”に由来する。松任谷正隆プロデュースのアルバム『SHADY』で“ポスト・ユーミン”と評され、翌年「マイ・ピュア・レディ」が資生堂CMに起用されヒット。以後、南沙織「春の予感」、杏里「オリビアを聴きながら」、髙橋真梨子「あなたの空を翔びたい」など提供曲も次々とヒットした。1980年にキャニオンへ移籍後、ロサンゼルス録音のアルバムを発表し、洗練されたポップサウンドで評価を高める。1985年『10番目のミュー』で日本レコード大賞優秀アルバム賞受賞。以降も作曲家・プロデューサーとして多方面で活動を続けている。
1974年の『ヤマハポピュラーソングコンテスト』で「雨の日のひとりごと」「幸せの時」の2曲同時入賞を果たし、同年にシングル「雨の日のひとりごと」でプレ・デビュー。’78年1月、20歳の誕生日に「思い出は美しすぎて」で本格デビューし、アルバムもヒットした。次作は不発となったが、同年9月の「みずいろの雨」が有線やラジオで支持を得て人気が急上昇し、『ザ・ベストテン』出演を機に全国区でブレイク。明るいトークで司会陣に親しまれ、存在感を高めた。「みずいろの雨」はオリコン2位、60万枚を売り上げる大ヒットとなり、同年末にリスナーズグランプリ最優秀新人賞を受賞。透明感ある歌声と確かな実力でシンガーソングライターとしての地位を確立した。
1978年、23歳でシングル「戻っておいで・私の時間」とアルバム『BEGINNING』でデビュー。当時はアイドル的役割も担ったが、’79年の「SEPTEMBER」が長期チャートインし新人賞を受賞、サンレモ音楽祭にも出場した。’80年には「不思議なピーチパイ」がヒットし、自ら作詞作曲も手がけるようになるが、アイドル的活動に悩み、’81年には過酷なスケジュールで喉を痛め一時休業。’82年に山下達郎と結婚しメディア露出を減らす一方で作詞・作曲家として活動を開始。’84年、全曲自作のアルバム『VARIETY』をリリースしヒット、娘も誕生した。その後は家庭を優先しつつ、薬師丸ひろ子「元気を出して」、中山美穂「色・ホワイトブレンド」など多数のヒット曲を提供し、シンガーソングライターとして確固たる地位を築いた。
高校入学と同時に音楽活動を始め、各種オーディションに挑戦。ヤマハボーカルオーディション合格を経て合歓音楽院で研修を受ける。20歳のとき「フォーク音楽祭」に出場し、関西四国決勝大会でグランプリを獲得、全国大会でスカウトされる。1976年、アルバム『あとりえ』で日本コロムビアからデビュー。都会派ニューミュージックの女性シンガーとして注目される。’78年、「飛んでイスタンブール」が大ヒットし、第20回日本レコード大賞中山晋平賞を受賞、『紅白歌合戦』にも初出場した。同年「モンテカルロで乾杯」「マスカレード」などもヒット。’80年「Hey Lady 優しくなれるかい」を発表後、休業宣言し世界一周旅行へ。28か国を巡り帰国後に音楽・執筆・講演活動を再開した。
1974年、アルバム『フィーリングナウ』でデビュー。’78年、TBSドラマ『獅子のごとく』の主題歌「たそがれマイ・ラブ」がヒットし、同年の日本レコード大賞・金賞を受賞。華奢な体からは想像もできないダイナミックな抜群の歌唱でその後も「サファリナイト」などヒットさせ、CMとのタイアップ曲も多かった。’81年発売の「シルエット・ロマンス」(サンリオ出版 CFソング)は翌年になってロングヒットとなり、’82年の日本レコード大賞・最優秀歌唱賞を受賞した。
1972年、アルバムとシングルでレコードデビュー。’74年、ヤマハのポピュラーソングコンテストに自身の作詞・作曲による「お早ようございますの帽子屋さん」で入賞し、翌年この曲で再デビューする。デビュー後は多くの有名アイドルなどへの楽曲提供とともに著述活動も行い、童話集やエッセイ集、小説も刊行。作風は自身の音楽性とも共通するファンタジックな世界観が特徴で、作家としての才能を遺憾なく発揮している。
中洲のナイトクラブに出演していた1972年、「ペドロ&カプリシャス」のペドロ梅村にスカウトされ前野曜子の後任として二代目ボーカルに参加。当時は芸名「高橋まり」。’73年に「ジョニィへの伝言」「五番街のマリーへ」がロングヒットとなる。’78年にペドロ&カプリシャスを脱退し、ソロ歌手「髙橋真梨子」として活動を開始。同年11月にシングル「あなたの空を翔びたい」でデビューし’79年から全国ツアーを開始。2019年まで41年間連続で開催し、2000人以上収容の大規模ホールで年間25公演以上を継続する唯一の女性ソロ歌手として昭和、平成、令和の3時代にわたりトップアーティストとして活動を続けている。
芸術の発信地として知られた渋谷の小劇場のオーディションで歌唱したのをきっかけに1972年10月、CBS・ソニーからアルバム『少女』と同名シングルで歌手デビュー。オリコン最高6位を記録し「和製キャロル・キング」と称され、日本女性シンガーソングライターの草分けと評された。’76年にはフランスでアルバム制作に臨み、全フランス語アルバム『えとらんぜ』を発表、サルヴァトール・アダモのオランピア劇場公演にもゲスト出演する。’78年「さよならだけは言わないで」のヒットを機にテレビ出演が増加。’80年、B面予定の「恋人よ」がA面として発売され大ヒット、第22回日本レコード大賞金賞を受賞。以来コンサート活動を精力的に続け、日本のポップ・フォーク界で確固たる地位を築いた。
高校3年時の1977年に歌手を志し上京、米軍キャンプなどで演奏を重ね、六本木「バードランド」での飛び入り演奏をきっかけに世良譲から高く評価される。’79年11月「真夜中のドア〜Stay With Me」でデビューし、多くの新人賞を受賞。以後、’91年までにシングル17枚、アルバム15枚を発表し、都会的な感性を持つシティポップの旗手として活躍した。’90年代に入り、結婚を機に歌手活動を休止し、作曲家としてCMやアニメ音楽を手がけるも、2001年にがんを告知され闘病の末、2004年に44歳で死去。その後「真夜中のドア〜Stay With Me」が海外で再評価され、2020年にはSpotify世界1位を記録し、没後も国際的に愛され続けている。
短大在学中の1978年、CBSソニーに自作曲のカセットを送り、ディレクター金子文枝に才能を見出される。八王子から都内へ通学する中央線の車中で曲想を練り、のちに大ヒットする「異邦人」を着想。イラン音楽やポルトガルのファドなど異国的な響きに影響を受け、自身の音楽スタイルを形づくった。1979年、三洋電機のCMソングとして「異邦人―シルクロードのテーマ―」でデビュー。オリエンタルな旋律と透明感ある歌声が話題を呼び、『ザ・ベストテン』で1位を獲得、累計140万枚を超える大ヒットとなる。翌年にはアルバム『夢がたり』を発表し、ニューミュージックの新星として注目を集めた。デビュー期には一貫してピアノの弾き語りを貫き、独自の幻想的な世界観で聴衆を魅了した。
門あさ美 越美晴 石黒ケイ
演歌(女性)
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敗戦直後の1945年、母の私財で「青空楽団」を設立し、8歳で初舞台を踏む。’48年、横浜国際劇場で「美空ひばり」として舞台デビュー。’49年、映画『のど自慢狂時代』で初出演し「悲しき口笛」で一躍国民的スターとなる。以後「東京キッド」「リンゴ追分」などヒットを連発し、映画女優としても活躍。東映専属となり『べらんめえ芸者』など主演作を量産し、戦後映画界を支えた。歌手としても’60年「哀愁波止場」で日本レコード大賞歌唱賞、’65年「柔」で大賞受賞。以後も「悲しい酒」「真赤な太陽」など、江利チエミ、雪村いづみとともに”三人娘”として人気を博し、中でも圧倒的な歌唱力と存在感で国民的歌手としての地位を不動のものにした。’89年1月11日、最後のシングル『川の流れのように』が発売され、同年54歳で永眠するに亘るまで、歌謡界・演歌界の絶対的なトップスターであり続けた。
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1964年に「困るのことヨ」でデビューし、同年「アンコ椿は恋の花」がミリオンセラーとなり、第6回日本レコード大賞新人賞を受賞。力強いこぶし回しで人気を確立した。’73年にサンミュージックに移籍後、’76年「北の宿から」で日本レコード大賞などを受賞し、’80年「大阪しぐれ」で最優秀歌唱賞を受賞、日本レコード大賞で新人賞・大賞・最優秀歌唱賞の三冠を達成。’84年に一時引退し、’87年に音楽プロデューサーとして活動再開し、’89年の紅白出演を契機に’90年に歌手活動復帰。2005年に芸術選奨文部科学大臣賞、2006年に京都府文化賞功労賞、2010年に紫綬褒章を受章し、長年にわたり歌謡界で活躍を続けている。
1966年、中学3年生で北海道岩見沢市の温泉施設「きらく園」の専属歌手として活動を始め、’67年に上京。’69年9月「新宿の女」で歌手デビューした。’70年には「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」がオリコン連続首位を獲得し、アルバムも前人未踏の42週連続首位を記録。同年、第1回日本歌謡大賞大賞や日本レコード大賞大衆賞を受賞し、紅白歌合戦にも初出場した。’71年に前川清と結婚するも’72年に離婚。’79年に突如引退しアメリカに渡るが、’81年に藤圭似子として復帰、’82年に再婚し長女・光(宇多田ヒカル)を出産。’84年に藤圭子に芸名を戻し、その後は世界各国を旅しながら活動したが、2013年8月22日に62歳で逝去した。
宝塚音楽学校を首席で卒業後、1971年「わたしの城下町」でデビュー。160万枚を売り上げ同年のオリコン年間1位となり、日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞した。翌年の「瀬戸の花嫁」も大ヒットし、日本歌謡大賞を獲得。その後も「京のにわか雨」などヒットを重ね、天地真理、南沙織と並ぶ「新三人娘」として人気を博した。’70年代半ば以降「星の砂」「お久しぶりね」など多彩な楽曲で新境地を拓き、実力派歌手として評価を確立。’71年から’88年まで18年連続で紅白に出場した。女優としても『誘拐報道』『白蛇抄』で日本アカデミー賞を受賞するなど高い評価を得、志村けんとのコントなどでの活躍でも広く親しまれた。
1972年、中学3年の夏休みに「ちびっ子歌謡大会」で合格しホリプロにスカウトされ芸能界入り、同年ドラマ『光る海』で女優デビューする。’73年に、桜田淳子と同じ白いエンジェルハットをトレードマークに「かくれんぼ」で歌手デビューするが、森昌子・山口百恵・桜田淳子ら同世代の人気に押され苦戦した。その後、二葉百合子に師事し基礎から学び直し、民謡や日舞にも取り組んで歌の表現力を磨いた。’77年「津軽海峡・冬景色」が大ヒットし数々の音楽賞を受賞、NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。続く「能登半島」「沈丁花」なども成功し、’80年代には「波止場しぐれ」「天城越え」「夫婦善哉」「風の盆恋歌」などの代表曲を発表、日本を代表する演歌歌手の地位を確立した。
1971年『スター誕生!』に13歳で出場し、初代グランドチャンピオンとなる。父の反対を説得しホリプロに所属し、’72年「せんせい」でデビュー。当時のヘアスタイルはタワシ頭と呼ばれるショートカットで、いじられながらもお茶の間に愛される存在となる。その後デビューした桜田淳子、山口百恵とともに「花の中三トリオ」と呼ばれ、’73年には女性最年少15歳で紅白に出場。映画やバラエティでも活躍。’77年以降は「なみだの桟橋」から演歌路線へ転じ、歌唱力を高める。’83年「越冬つばめ」で日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。歌手活動に加え、ドラマ出演など女優としても活動の幅を広げた。
1972年にサンミュージック・タレントスクールへ入学し、翌年RCAレコードから「少女は大人になりました」でデビュー。’76年、テレビドラマ『大都会-闘いの日々-』にレギュラー出演し、挿入歌「赤提灯の女」をポリドールから発売。’78年、渡哲也の「みちづれ」をカバーしたシングルが大ヒットし、翌’79年から’80年にかけて38週連続でオリコン20位以内を記録するロングセラーとなった。以後、「夫婦きどり」「あなたの妻と呼ばれたい」「友禅流し」など情念を込めた作品で人気を確立し、哀愁と力強さを併せ持つ独自の歌唱で支持を得た。
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1964年にシングル「ウソツキ鴎」でデビューし、20万枚を売り上げるヒットとなる。’79年に「おもいで酒」が大ヒットし、紅白歌合戦にも初出場を果たした。以降、紅白には2011年までに33回出場し、’88年と2004年には大トリを務めるなど長年にわたり活躍。’80年代から’90年代にかけては「雪椿」や「越後情話」などのヒット曲に恵まれ、演歌界のトップ歌手としての地位を確立。また、豪華な衣装での紅白出演や派手な演出で注目を集め、視覚的にも話題となった。2000年代以降も演歌からポップス、アニメソングまで幅広いジャンルで活動を展開している。
中学卒業後に熊本でバスガイドとして就職するが、人前で話すのが苦手で3か月で退職。その後キャバレー歌手を経て上京し、銀座のクラブで歌っていた際に五木ひろしの紹介で芸能プロと出会い、1971年「愛は死んでも」でデビュー。日本テレビ『全日本歌謡選手権』で10週連続勝ち抜きグランドチャンピオンとなり注目を集め、’73年「なみだ恋」が120万枚の大ヒット。トラック野郎のアイドルとしても人気を博す。以降も「おんな港町」「愛の終着駅」などを発表し人気を確立。’79年「舟唄」、’80年「雨の慕情」が特に評価され、後者で日本レコード大賞を受賞、紅白歌合戦では2年連続大トリを務め「演歌の女王」と称された。晩年はジャズ、ブルースなども歌うようになりファン層を広げた。2023年12月、指定難病を患い73歳で逝去した。
7歳でのど自慢番組に初出演し、毎日放送『素人名人会』で名人賞を受賞。以後、多くの大会で優勝を重ねる。フジテレビ『日清ちびっこのどじまん』出演をきっかけに日本コロムビアから「大ちゃん数え唄/いなかっぺ大将」を吉田よしみ名義で発売。1972年『全日本歌謡選手権』で10週連続勝ち抜き、7代目グランドチャンピオンとなり、「風が吹く」でキャニオンレコードから正式デビュー。その後10年の低迷を経て、’85年に「道頓堀人情」がヒット。’96年の「珍島物語」は130万枚を超えるロングヒットとなった。
17歳の時、「春日はるみ」として歌手デビュー。歌のうまさが評判となったもののアイドル全盛期だった当時大きく注目はされず、2年間の活動のみで地元の大阪に戻る。その後、大阪で開催された『ネオン街音楽祭』に出場しグランプリを獲得し再デビューを決意。芸名を「川中美幸」に改め、21歳でシングル「あなたに命がけ」を発表するもヒットに至らず。1980年、24歳で発表した夫婦愛をテーマとするシングル「ふたり酒」がようやく実を結び、ミリオンセラーの大ヒットとなる。下町人情を歌わせたら右に出る者なしと評される。
16歳で日本民謡協会主催の全国大会に優勝し、『秋田船方節』で注目を集める。1975年、アルバム『若い民謡』でデビューし、「民謡界の百恵ちゃん」と呼ばれた。NHK『夜の指定席 民謡をあなたに』で原田直之と司会を務め、ジーパン姿で民謡を歌う斬新なスタイルが話題となる。津軽民謡を中心に300曲に及ぶレパートリーを築き、’82年には大瀧詠一プロデュースの「イエロー・サブマリン音頭」がヒットし、代表曲となった。
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高校卒業後デパート勤務を経てクラブ歌手となり、「銀巴里」などで歌い始める。1966年、『恍惚のブルース』でメジャーデビューし、80万枚を売り上げ注目を集めた。ハスキーボイスを生かしたブルース調の歌唱が特徴で、’68年には『伊勢佐木町ブルース』(100万枚)、『長崎ブルース』(120万枚)が連続ヒット。「伊勢佐木町ブルース」で日本レコード大賞歌唱賞などを受賞した。翌’69年の『池袋の夜』は150万枚を売り上げ、最大のヒットとなった。同年は年間売上1位を記録し、“ため息路線”の代表的歌手として森進一と並び称された。
中学時代に福岡のタレント養成所に通い、3年生のとき北島音楽事務所にスカウトされる。高校進学後に上京し、1979年「おんなの出船」でデビュー。情感豊かな歌唱で注目され、第21回日本レコード大賞新人賞をはじめ数々の新人賞を受賞した。以降も地道に歌手活動を続け、’89年には女性演歌歌手に贈られる第1回レコード大賞・美空ひばり賞を受賞。2002年に北島音楽事務所を離れ、独立して「のぶえオフィス」を設立。現在もステージやメディアを中心に、艶のある声と人情味あふれる歌で多くのファンに親しまれている。
1953年1月台湾の雲林県で生まれた。10歳の時に台湾の素人のど自慢で優勝し、その後も各地のコンテストで優勝を重ねて注目を集め、14歳で歌手デビュー。レギュラー番組を持つなど台湾のエンターテインメント業界からアジア全域に活動の場を広げ”アジアの歌姫”と呼ばれる。日本では’74年、21歳の時に「今夜かしら明日かしら」でデビューし、2作目の「空港」で人気が高まり、翌年の「時の流れに身をまかせ」が大ヒット。これらの楽曲は彼女の代表作となり、日本の音楽シーンでも高く評価された。その後「つぐない」などもヒットし、彼女の音楽は広く親しまれた。’95年5月、急性喘息により香港で逝去するも、今も尚その存在は多くの人々に愛され続ける。