娯楽&レジャー

1980年代の主な娯楽とレジャー

’80年代後半はバブル経済に向かう高揚感の中で、娯楽が「家庭内」から「屋外・都市型」へと大きく広がったレジャー黄金時代。最新のテクノロジーを駆使した遊びから華やかな都市文化まで、現代に通じるレジャーの多くがこの時代に花開いた。

ディスコブーム

田中康夫の小説「なんとなく、クリスタル」が大ヒットした時代。’80年代前半は赤坂の「ムゲン」や「ビブロス」、後半は六本木「キサナドゥ」麻布十番「マハラジャ」が若者たちの遊び場として人気を集め、ワンレン・ボディコンの若い女性のファッションが社会現象となった。

貸しレコード

ラジカセの普及や’79年に発売されたSONY「ウォークマン」によって、音楽を手軽に楽しむライフスタイルが一般化する中、高価なレコードを購入しなくても好きな音楽が存分に楽しめる「黎紅堂」「友&愛」などの貸しレコード店が若者たちの間で人気となった。

スキーブーム

’87年に公開され大ヒットした映画「私をスキーに連れてって」(主演:原田知世、主題歌:松任谷由実)の影響でスキーが一大ブームに。それまで不人気だった万座温泉スキー場などのゲレンデも多くの若者で賑わうほど、大きな経済効果を生んだ。

東京ディズニーランド

’83年4月15日に千葉県・浦安沖の埋め立て地に誕生、オープン当時の目標集客数1,000万人をわずか1年未満で達成するほどの人気を博した。夢の世界に入り込んだような数々のアトラクションは子供はもちろん大人たちの心も強烈に掴み、2001年に開園した東京ディズニーシーとともに、2026年1月には累計9億人超えの来場者数を誇る最強のテーマパークとして君臨を続ける。

ゴルフブーム

’70年代に青木功やジャンボ尾崎の活躍によって注目され人気となったゴルフは、’80年代になると接待ゴルフとしてビジネスの場でも大きなブームとなった。ゴルフ場を優遇的に利用できるゴルフ会員権は株式のように時価で売買され、投資や投機商品として相場が高騰し取引されるも、バブル崩壊で資産価値は急落した。

ファミコンブーム

’83年に任天堂から手の届きやすい価格の家庭用ゲーム機「ファミコン」が発売され、子供たちの間に空前の大ブームを巻き起こす。’85年には伝説的な大ヒットソフトとなる”スーパーマリオブラザーズ”が登場し、’86年の”ドラゴンクエスト”も熱狂的なファミコン人気を支えた。

ルービックキューブ

ハンガリーの建築学者により考案された立体パズルゲームで世界で大流行した。日本では’80年にツクダオリジナルから発売されると、初年度だけで400万個を売り上げる大ヒットとなった。’81年には東京・帝国ホテルで第1回「全日本キュービスト大会」が開かれ、6歳から68歳まで約400名の参加者が最短記録に挑んだ。優勝は当時16歳の高校生で、優勝賞品として自動車が贈られた。

海外旅行ブーム

’78年の成田空港開港、’85年のプラザ合意を発端とする円高の影響も受け、’80年代は海外旅行の市場が大きな広がりを見せた。国際線の年間日本人旅客数は’87年が869万人、’88年は1082万人にまで拡大。ハワイ、アメリカ西海岸などのリゾートをはじめ、憧れの欧州観光が人気を集めた。本場の焼き肉を食べに、日帰りや一泊での韓国旅行も、”独身貴族”と呼ばれる人々のトレンドとなった。

ボジョレーブーム

’80年代後半のバブル景気の中で爆発的なブームを巻き起こしたのがフランス産ワインの「ボジョレー・ヌーヴォー」。’85年から「11月の第3木曜日」が解禁日となるが、日付変更線の関係で日本は産地・フランスより8時間早く解禁日を迎えることから”世界最速の解禁”として航空会社や百貨店が大々的にキャンペーンを打ち、大きな社会現象となった。’88年の昭和天皇の病状悪化により熱狂的なムードは沈静化するも、日本人が日常の食卓でワインを楽しむ習慣のきっかけとなった。

なめ猫ブーム

学ランにハチマキという暴走族風のコスチュームに身を包んだ「なめ猫」グッズが’80年に登場。自動車免許を模した”なめ猫免許証”は1,200万枚を売り上げ、ポスターも600万枚という一大ブームを巻き起こした。’82年までに約200社から文具やレコード、写真集なども発売され、売上げは570億円以上に及んだ。主役のツッパリキャラクターの又吉(またきち)は実際はメス猫で、ブームの後に4匹の子供を産んだ後に、16年間の生涯を閉じた。

カラオケブーム

’80年代前半のレーザーディスクの登場により、演奏のみだったカラオケが歌詞テロップのついた映像が流れるスタイルに変わった。これを機に’80年代中頃にカラオケボックスが誕生し、それまでスナックや宴会場など酒席の余興だったカラオケは老若男女を問わずに楽しめる娯楽となった。アイドルや歌謡曲が全盛期だった時代の中で、日々のストレス発散や趣味のひとつとして、カラオケは大きなブームとなっていった。

漫才・お笑いブーム

’80年代に入ると「花王名人劇場」や「THE MANZAI」を発端とする漫才ブームが到来。やすきよとともに若手のツービートや紳助・竜介らがテレビを賑わせ、’80年4月に放送開始の「お笑いスター誕生!!」からはB&B、おぼん・こぼんらが誕生、同年10月「笑ってる場合ですよ!」も始まり、ザ・ぼんち、太平サブロー・シロー、のりお・よしおなどのコンビや明石家さんま、山田邦子が人気を集め一大漫才ブーム・お笑いブームが訪れた。漫才師やお笑いタレントが社会的なステイタスを手に入れた時代だった。

1970年代の主な娯楽とレジャー

日本中が熱狂した大阪万博で幕を開けた1970年代は、より良い暮らしや楽しみを求める傾向が顕著になった時代で”一億総中流”という意識が人々の中に根付いた。海外旅行は庶民に手の届くものとなり、マイカーで出かけるレジャーも定着した。家族や仲間と楽しむボウリングは空前のブームとなり、「豊島園」「横浜ドリームランド」「よみうりランド」「東京サマーランド」などの大型レジャー施設は活況を呈した。’73年のオイルショックで節約を美徳とする側面を抱えながらも、明るい未来や暮らし、自由な生き方への期待も膨らみ続けた時代だった。

日本中が熱狂した大阪万博

’70年3月15日〜9月13日の183日間、吹田市千里丘陵で開催された「人類の進歩と調和」をテーマとする国際博覧会で77か国が参加、来場者数は史上最多の6,422万人を記録した昭和最大のイベント。岡本太郎による「太陽の塔」がシンボルとして大きな注目を集め、アポロ12号が地球に持ち帰った月の石の展示など、日本中を熱狂させる世界中のトピックスが一堂に会した。

空前のボウリングブーム

’70年頃から始まったブームは、中山律子や須田開代子などのスタープレイヤーの活躍やテレビ放送の影響で爆発的な人気を集め、’71年には約2,000万人がボウリングを楽しみ、’72年には全国に約3,700施設が存在する国民的レジャーとなった。爆発的なブームは’70年代半ば以降落ち着きを見せるが、以降は日本の代表的なレジャーのひとつとして定着した。

アマチュア無線ブーム

’70年代に若者を中心に広がり、その後「趣味の王様」として爆発的なブームを迎えた。’75年に日本のアマチュア無線局数は30万局を超え、米国を抜いて世界第1位となった。その後は’87年公開の映画「私をスキーに連れてって」の中でハンディ機が最先端の連絡ツールとして描かれたことをきっかけに若者の間で再びブームとなり、’95年、国内のアマチュア局数は過去最高の約136万局となった。

ゴーゴー喫茶

ディスコの前身となるゴーゴー喫茶が’60年代後半から’70年代前半にかけて若者の間で流行した。エレキバンドによる生演奏、ディスクジョッキーによる音楽に合せて踊る非日常的な時間と空間は、当時日本列島を揺るがすほどの人気だったグループサウンズブームと相まって、若者たちの心を強烈に捉えた。

ラジオの深夜放送

’67年に放送開始した「オールナイトニッポン(ニッポン放送)」「パックインミュージック(TBSラジオ)」、’69年「セイヤング(文化放送)」により、’70年代は深夜放送の黄金時代を迎えた。受験勉強などで自室で一人で過ごす若者にとって、ラジオのパーソナリティは友人のように近い距離感で若者の心を捉えた。リスナー参加型のハガキ文化も盛り上がりを見せ、多くの流行のフォークソングやニューミュージックもこの場から生まれた。

変身ヒーローブーム

’66年からの第一次怪獣ブームではウルトラマンや怪獣たちが脚光を浴びたが、’71年の第二次怪獣ブームは、変身ヒーローとして登場した「仮面ライダー(藤岡弘による本郷猛)」が「帰ってきたウルトラマン」の視聴率を上回る変身ヒーローの時代となった。バンダイから発売された「光る!回る!変身ベルト」は子供たちを熱狂させ、大ヒット商品となった。

コックリさんブーム

西洋の占いの一種「テーブル・ターニング」を起源とする降霊術で、キツネの霊とコミュニケーションが取れるとして小・中学生の間でブームとなった。鳥居と五十音表、数字を書いた紙の上に十円玉を置き、皆の人差し指をその上に添え、霊を呼んで質問してゆくもの。霊が来れば10円玉が動き出すとされたことから10円玉の動きに子供たちは興奮したが、その場を盛り上げるために誰かがわざと動かしているのでは、という疑心もつきもののゲームだった。

アンノン族

’70年創刊のファッション誌「an・an」、’71年創刊の同じく「non-no」による旅行特集により、独身女性の間で国内各地への旅行がブームとなった。有名観光地ではなく、当時はまだ知られていなかったスポットが取り上げられることが多く、軽井沢や清里高原、那須高原、京都の嵯峨野や大原などの新しい観光地に雑誌を持った多数の女性グループが訪れ、この女性たちがアンノン族と呼ばれた。

パンダブーム

’72年、日中国交の正常化を記念して中国から「カンカン・ランラン」の二頭のジャイアントパンダが贈呈されると、連日、老若男女が上野動物園に押し寄せる大フィーバーが巻き起こった。約2kmに及ぶ観覧の行列に2時間並んでもパンダが見られるのはたった30秒という爆発的な人気が続き、後の日中パンダ外交の礎となるムーブメントとなった。

超能力・オカルトブーム

’73年「ノストラダムスの大予言」がベストセラーとなり、’74年、映画「エクソシスト」の日本公開とスプーン曲げのユリ・ゲラーの来日により日本は空前の超能力・オカルトブームを迎えた。テレビの生放送では、スタジオのユリがブラウン管を通して送る念で視聴者の家の壊れた時計が動きだすなど、子供たちが興奮する特番が度々作られた。ほかにもテレビディレクターでUFO研究家の矢追 純一氏など、超能力界隈の人々がスポットライトを浴びた時代だった。

オセロブーム

ボードゲーム「オセロ」が’73年に日本で発売されると、初年度だけで30万個、3年間で約250万個を売り上げる大ブームとなった。白と黒の円状の石の数で勝敗が決まるシンプルなゲームながら、勝つためには囲碁のような知恵と戦略が必要で、子供たちのみならず大人たちまでもが夢中になって遊んだ。その後オセロゲームは世界中に普及し、2015年の時点で世界の競技人口は約6億人に達したと言われる。

女子プロレスブーム

’70年代中盤から、マッハ文朱、ミミ萩原、ビューティー・ペアなどの選手の登場により女子プロレスブームが到来。いずれもレコードデビューや映画、ドラマ出演も果たすなど、アイドル的な人気を誇った。ジャッキー佐藤とマキ上田によるビューティー・ペアは女子高生の間で大人気となり、デビュー曲「かけめぐる青春」は80万枚のビッグヒットとなった。

テレビ黄金時代

テレビの録画機が普及する前の’70年代は、観たい番組が始まるまでに急いで帰宅するのが当たり前の時代。テレビは日々の娯楽の中心であり、ドラマから音楽まで人々を夢中にさせる番組が多数作られた。水前寺清子主演の「ありがとう」や銭湯を舞台にした「時間ですよ」、「俺たちの旅」、「傷だらけの天使」「Gメン’75」、山口百恵の赤いシリーズなどの人気ドラマや、新御三家、新三人娘、花の中三トリオが出演する歌番組を観るために人々は家路を急いだ。

大型レジャー施設

「よみうりランド」(’64年開園)、「東京サマーランド」(’67年同)などの大型レジャー施設は、’70年代から’80年代にかけて全盛期を迎えた。’60年代後半から始まったマイカーの普及は、人々のレジャー先を「鉄道で行けるところ」から「車で自由に行ける郊外」へと劇的に広げ、「家族で車で行ける場所」として、大規模駐車場も備える郊外のレジャー施設が大人気となった。

スペースインベーダー

タイトーが’78年に発表したシューティングゲームで、飲食店やゲーム施設に広く設置され全国的なブームとなった。喫茶店のテーブルはこのゲームが組み込まれた筐体に変わり、多くの若者たちが熱中、ゲームをプレイするための100円玉が日本中から消えたと言われるほどの社会現象となった。しかし過熱するブームは国会で「青少年の非行につながる」と問題視されマスコミもこれに同調、ブームは徐々に終息した。

1960年代の主な娯楽とレジャー

高度経済成長真っ只中にあった’60年代は、それまで庶民の大きな楽しみだった映画に代わり、急速なテレビの普及によってテレビ番組が娯楽の中心となって行った。お茶の間を出れば、大型遊園地や自由化された海外旅行、ゴルフやボウリングといったレジャー要素の強いスポーツが大衆の楽しみとして広がり始めた。音楽シーンでは’50年代にエルヴィス・プレスリーの影響を受けて流行した平尾昌晃、ミッキー・カーチス、内田裕也らによるロカビリーが、’60年代半ばのベンチャーズやビートルズの来日を機に続々と誕生したグループサウンズに主役の座を明け渡し、日本列島が熱狂の渦に包まれるグループサウンズの時代が訪れた。

映画ブーム

黒澤明、溝口健二、小津安二郎監督らによる映画作品が大衆の娯楽として支持され、’58年、映画館の観客来場者数はのべ11億人を突破する映画黄金時代を迎えた。石原裕次郎や吉永小百合をはじめ銀幕のスターたちは国民的人気を誇り、植木等やクレイジーキャッツによる娯楽映画もブームとなった。東京五輪(’64年)を機に普及し始めたテレビの影響により’68年には観客数は約3億人に減少するも、戦後の娯楽施設として映画館は大きな存在だった。

フラフープ旋風

’58年、アメリカでフラフープが大流行したことを受けて東京のデパートでも販売されると、一ヶ月で80万本を売り上げる爆発的なブームとなった。美容と健康に良いとされたことで子供だけでなく大人たちもフラフープに興じるも、発売からほどなく、腸ねん転や内臓障害の事例が発生し、むしろ健康に悪影響を及ぼすとして児童に禁止令を出す小学校も現れた。日本中を沸かせたブームは、わずか40日ほどで急速に終焉した。

NHK紅白歌合戦

テレビの急速な普及に伴い、NHKの「紅白歌合戦」が国民的行事として不動の地位を確立。’60年(第11回)からカラー生放送となり、国民的歌手の美空ひばり、坂本九、ザ・ピーナッツ、橋 幸夫らが絢爛豪華なステージで一年を締めくくった。’63年の第14回では史上最高視聴率となる81.4%、約8,000万人が視聴するという驚異の数字を記録。この回は翌年に控えた東京オリンピックを意識し、渥美清が聖火ランナーとして入場し、「こんにちは赤ちゃん」が大ヒットした梓 みちよが初出場した。

素人のど自慢ブーム

’60年代、日本のテレビでは「素人のど自慢」番組が爆発的な人気を集めた。戦後すぐに始まったラジオ版の成功を受け、テレビの普及とともに一般人を主役とするオーディション形式で放送された。この時代、のど自慢は単なるレクリエーションではなくプロの歌手を輩出する役割も持ち、高校時代に函館で「NHKのど自慢」に出場し、宮田輝氏に見初められたことで歌手を志した北島三郎など、歌謡史に刻まれる存在でもあった。

ロカビリーブーム

’60年代初めは’50年代後半から続いたロカビリー旋風の余韻の中、平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチスら「ロカビリー三人男」が活躍した。ジャズ喫茶や日劇ウェスタン・カーニバルが熱狂の拠点となり、後に坂本九や内田裕也らも登場、独自の和製ポップスで音楽シーンを盛り上げた。ロカビリーは洋楽のカバーから和製ロックへの橋渡し役となり、その後のGSブームへとつながって行った。

ダッコちゃん人形

’60年4月、タカラ(現:タカラトミー)から発売された空気ビニール人形の「ダッコちゃん」が若者を中心に爆発的な人気を呼んだ。街にはダッコちゃんを腕やバッグに付けた若い女性や子供たちが続出し社会現象となった。初夏から夏にかけて最盛期を迎えるも、秋になると徐々にブームは終息。しかし当時、同じく大流行したフラフープを上回る勢いで、発売からわずか半年で推定240万個を売上げるブームとなった。

道ばた遊び

住宅街の道路の舗装が始まった’60年代、子供たちの主な遊び場は家の近くの道ばたや空き地だった。縄跳び、竹とんぼ、ベーゴマ、メンコ、おはじき、缶蹴り、ゴム跳び、けん玉、竹馬、だるまさんが転んだなどが定番で、舗装されたばかりの道路に近所の子供たちが集まり、日が暮れるまで遊びに興じた。また、自転車の荷台に舞台となる木箱を載せて街を回る「紙芝居屋さん」が存在し、子供たちを集めて黄金バットや月光仮面などの紙芝居を見せながら駄菓子を売るのも日常的な光景だった。

デパートの大食堂と屋上遊園地

観覧車やゴーカートで遊べるデパートの屋上遊園地は子供たちにとって「夢の国」だった。メリーゴーランドで遊んだ後、大食堂でお子様ランチを食べる休日は子供たちの最大の娯楽であり、買い物と食事、遊びがまとめて楽しめるデパートは家族にとってもテーマパークのような存在だった。夏場の屋上はビアガーデンとしてサラリーマンで賑わい、デパートの屋上は大人たちにとっても大事な憩いの空間だった。

国内旅行ブーム

’60年に昭和天皇の五女・貴子さまが新婚旅行で青島を訪れ、その2年後に当時の皇太子ご夫妻も訪れたことで、宮崎がロイヤルウェディングの象徴として大人気となった。これによって宮崎行きの新婚旅行専用列車も登場、南国・宮崎への新婚旅行がブームとなった。また、東京五輪の開催や’70年の大阪万博を控えて社会インフラの整備も本格化し、新幹線や東名・名神高速道路という鉄道・道路の二大幹線が開業。東京タワーを目指す修学旅行や国内の団体旅行、社員旅行も活発となった。

テレビアニメブーム

’63年の「鉄腕アトム」の放送を皮切りに、日本は第一次アニメブームを迎えた。同年の「エイトマン」「鉄人28号」も子供たちを夢中にさせ、鉄腕アトムは最高視聴率40%という数字を叩き出した。「ジャングル大帝」「オバケのQ太郎」(’65年)、「魔法使いサリー」「おそ松くん」(’66年)、「巨人の星」「ゲゲゲの鬼太郎」「サイボーグ009」「妖怪人間ベム」(’68年)と人気作が続々と生まれ、テレビのカラー放送が進む中で、アニメブームは加速して行った。

ジャズ喫茶、名曲喫茶

高価なレコードや高品質な音響設備で音楽が楽しめるジャズ喫茶や名曲喫茶が、若者や文化人が最新の海外文化を享受できる場所として人気を集めた。新宿の「DUG(ダグ)」や「ACB(アシベ)」をはじめ日本全国に広がり、ジャズファンやミュージシャンの溜まり場となるとともに、寺山修司や村上春樹などの作家や文化人が集い交流するサロンとしての役割も担った。

グループサウンズブーム

エルヴィス・プレスリーの影響から人気となったロカビリーに代わり、’60年代になるとベンチャーズやビートルズに影響を受けたグループサウンズが大流行した。ザ・スパイダース、ザ・タイガース、ザ・テンプターズをはじめ、若い女性たちを熱狂させるグループが続々と登場しヒット曲を連発した。失神騒動まで起きる熱狂ぶりから”不良の音楽”としてNHK紅白歌合戦はほとんどのグループの出場を許さなかったものの、’70年代に入るまで驚異的な人気は続いた。

マイカーブーム

’66年、日産サニーとトヨタカローラが登場し、1000ccクラスの大衆車時代が幕を開けた。この年はマイカー元年と呼ばれ、’65年には約59万台だった乗用車の保有台数は、’70年には237万台へ激増した。自家用車の普及によって家族でのドライブや旅行といった新しいレジャー様式が定着し、急速なモータリゼーションとともに、東名高速道路の開通や大駐車場を備える郊外の大型レジャー施設の隆盛など、日本人の余暇の形が大きく広がっていった。

第一次怪獣ブーム

円谷英二による「ウルトラQ」(’66年)がテレビで怪獣ブームを巻き起こし、続く「ウルトラマン」が巨大ヒーローの決定版として最大30%を超える視聴率を記録。映画の技術がテレビに投入され、同年の「マグマ大使」は日本初のカラー特撮番組として放送された。等身大ヒーローでは「仮面の忍者 赤影」(’67)も人気を博した。「快獣ブースカ」「ジャイアントロボ」、映画「大怪獣ガメラ」も子供たちを熱狂させ、特撮ヒーローを含む第一次怪獣ブームが訪れた。

ミニスカート大流行

ロンドンのファッションデザイナー、マリー・クワントが発表し世界中で流行したミニスカートは、’67年に来日したイギリス人モデルのツイッギーによって日本でも大旋風を巻き起こした。吉永小百合など銀幕のスターや国民的歌手の美空ひばりがミニスカート姿を披露し、日本航空や全日空の客室乗務員の制服にもミニスカートが取り入れられた。従来の保守的な服装から女性たちを解放し、女性の自由と自立を象徴するファッションとして支持され、一般にも広く浸透して行った。