男性歌手・アイドル > 1970年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

沢田研二

1967年、ザ・タイガースのボーカルとしてデビュー。愛称の”ジュリー”は本人の発案で、女優のジュリー・アンドリュースが好きだったことから。タイガース解散後に萩原健一らと新グループPYGを結成後、’71年に「君をのせて」でソロデビュー。PYGは個々の活動に重心が移り形骸化した後に自然消滅した。’73年の「危険なふたり」がオリコン1位を獲得し、’75年「時の過ぎゆくままに」がTBSドラマ『悪魔のようなあいつ』の挿入歌となり大ヒットした。ビロードのような声で放たれる圧倒的な歌唱、中性的な美貌と色気、独特のファッションとパフォーマンスでジュリー全盛期が到来し「勝手にしやがれ」ほか続々とヒット曲を連発、数々の音楽大賞を総ナメにし歌謡界を席巻する。未だにその人気と存在感を超える歌手はいないとも言われる、昭和歌謡界のスーパースター。

萩原健一

1967年、ザ・テンプターズのボーカルとしてデビュー。ショーケンの愛称で親しまれ「神様お願い!」や「エメラルドの伝説」などのヒット曲で一躍人気を博す。テンプターズ解散後、’71年に沢田研二らとロックバンドPYGを結成するも、並行して松竹映画『約束』やテレビドラマ『太陽にほえろ!』などで俳優活動も開始、マカロニ刑事役で人気を確立する。その後はNHK大河ドラマや日本テレビ『傷だらけの天使』『前略おふくろ様』ほか多数の映画作品でも主役を務め、俳優としての才能が高く評価され、後進にも大きな影響を与える存在となる。音楽活動も継続し、’79年の「大阪で生まれた女」’87年の「愚か者よ」がヒット。2019年、68歳で永眠した。

'70年代の音楽番組

’70年代の代表的な音楽番組は『夜のヒットスタジオ』(フジTV系、’68-’90年)、『ザ・ベストテン』(TBS系、’78–’89年)、『ステージ101』(NHK、’70–’74年)『ベスト30歌謡曲』(テレビ朝日系、’72-’76年、’78-’79年)『シオノギ ミュージックフェア』(’64年-)。夜ヒットは生演奏とフルコーラスにこだわり、アイドルからニューミュージック、ロック、演歌、海外アーティストも出演。オープニングのリレー方式で歌がつながる「オープニングメドレー」が名物で22年にわたり放送され人気を集めた。また、ザ・ベストテンはオリコンに準じたランキング形式で毎週のヒット曲を発表。視聴者からの投票(ハガキ)が評価に反映されるスタイルでランクインした出演者がミラーの扉から登場し、最高視聴率は41.9%を記録するなど国民的番組となった。黒柳徹子が司会を務めた。

郷ひろみ

1972年、NHK大河ドラマ『新・平家物語』出演を経て「男の子女の子」で歌手デビュー。中性的な魅力と華やかなルックスで人気を博し、「小さな体験」「よろしく哀愁」などのヒットを連発。西城秀樹、野口五郎と共に「新御三家」と呼ばれ’70年代のトップアイドルとなる。’80年代には「お嫁サンバ」「哀愁のカサブランカ」などで新たなイメージを打ち出し、以降も時代ごとに変化を取り入れた活動を展開。’99年「GOLDFINGER ’99」の大ヒットで再ブレイクし、その後も「2億4千万の瞳」など代表曲と共に精力的なライブ活動を続ける。長年にわたり第一線で活躍し続ける国民的スター。

西城秀樹

1972年「恋する季節」で歌手デビューし、圧倒的な歌唱力と情熱的なパフォーマンスで注目される。その後「激しい恋」「傷だらけのローラ」など次々とヒットを飛ばし、野口五郎、郷ひろみと共に「新御三家」として’70年代の歌謡界をけん引。’79年の「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」は200万枚を売り上げる国民的ヒットとなり、明るく健康的なイメージで幅広い世代に支持された。『寺内貫太郎一家』などドラマ・舞台・CMでも広く活躍した。2003年以降、脳梗塞の後遺症と闘いながらも歌手活動を続け、懸命にステージに立つ姿は多くの人々に感動を与えた。2018年に惜しまれつつ逝去。その情熱と努力は今も語り継がれている。

野口五郎

1971年「博多みれん」で演歌歌手としてデビューするもヒットせず、同年「青いリンゴ」で再デビューし、アイドルとして人気を博す。’72年「めぐり逢う青春」、’73年「オレンジの雨」、’74年「甘い生活」など、筒美京平らの手による叙情的な歌謡曲でヒットを重ね、郷ひろみ・西城秀樹と共に「新御三家」と呼ばれ活躍する。’70年代後半は「私鉄沿線」「針葉樹」「むさし野詩人」など大人の雰囲気の作品でも評価を得た。’80年代以降は俳優業や音楽活動を並行しつつ作曲家としても活動。近年もコンサートやメディア出演を継続しており、長年にわたって多方面で活躍を続けている。

にしきのあきら

1970年、CBSソニーより「ソニー演歌の騎士」として歌手デビューし、デビュー曲「もう恋なのか」で日本レコード大賞・最優秀新人賞を受賞、紅白歌合戦にも初出場した。翌’71年には「空に太陽がある限り」がオリコン週間3位の大ヒットとなり、代表曲となった。’70年代前半から中期にかけて、抜群の歌唱力と精悍なルックスで人気を博し、トランペットの演奏やスポーツ万能ぶりも話題となる。’70年代後半からは映画『野良猫ロック ワイルド・ジャンボ』『戦国自衛隊』、ドラマ、バラエティと幅広く活躍し、『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』などで“スターにしきの”の愛称で再注目を浴びた。

子門真人

1970年代から多数の特撮・アニメ主題歌を歌ったシンガーで’80年代も音楽界で活躍を続けた。’71年の『仮面ライダー』の主題歌「レッツゴー!!ライダーキック」の大ヒットで注目を集め、その後も円谷プロ作品など多くの主題歌を担当。『ひらけ!ポンキッキ』で’75年に発表された「およげ!たいやきくん」はオリコン史上初の初登場1位の快挙とともにミリオンヒットとなり、国民的歌声として知られるようになった。アフロヘアと眼鏡の風貌やコミカルな楽曲でも人気を博し、子ども番組や主題歌を通じて幅広い層に親しまれたが、代表曲となる2曲はいずれもアルバイト料や買取で歌唱したもので、多額となったはずの歌唱印税は受け取っていないとされる。

尾崎紀世彦

1960年に「ヒロ・ハワイアンズ」でバンド活動を開始し、’67年からコーラス・グループ「ザ・ワンダース」で活躍。’70年8月に「別れの夜明け」でソロ歌手としてデビューするが、交通事故による入院で宣伝ができず苦戦。’71年3月リリースのセカンドシングル「また逢う日まで」が100万枚超の大ヒットを記録し、日本レコード大賞・日本歌謡大賞の大賞をダブル受賞。第22回NHK紅白歌合戦へも出場する。代表曲には「さよならをもう一度」や「雪が降る」などもあり、パワフルなバリトン歌唱と印象的なもみあげがトレードマーク。2012年5月30日に肝臓がんにより69歳で逝去、没後は特別功労賞や「大衆音楽の殿堂」入りを果たしている。

本郷直樹

1971年、『スターへばく進!!』という日本テレビのオーディション番組でグランドチャンピオンとなり、同年8月に「燃える恋人」で歌手デビュー。この曲で第13回日本レコード大賞新人賞を獲得し、“和製プレスリー”と呼ばれ人気を博した。以降は歌手活動と並行して俳優としても活躍し、ドラマ『アイちゃんが行く!』『特捜最前線』、映画『新・同棲時代―愛のくらし―』など多数に出演。’89年以降は演歌路線にイメージチェンジしつつ活動を続行。その後も困難な闘病生活を乗り越えながら芸能活動を継続し、2021年に心筋梗塞のため逝去した。

田中星児

1970年、NHKの音楽番組『ステージ101』のヤング101の一員として出演し、これが歌手としてのデビューのきっかけとなる。翌’71年より幼児番組『おかあさんといっしょ』の初代“うたのおにいさん”を務め、幼児番組界をけん引 。’76年、シングル「ビューティフル・サンデー」が大ヒットし、オリコン最高4位、紅白歌合戦初出場を果たす。以降も「北風小僧の寒太郎」などの楽曲で親しまれ、作曲家として「中山竜」のペンネームでNHK『みんなのうた』にも作品を提供し、幅広い世代に愛される存在となる。

伊丹幸雄

高校中退後、ザ・ワイルドワンズの付き人を経て1972年にCBSソニーから「青い麦」で歌手デビューし、オリコン22位を記録した。ワイルドワンズだった加瀬邦彦氏のプロデュースが功を奏し、当時は西城秀樹、田頭信幸とともに「新人三羽烏」と称された。以後「合言葉」「僕だけひとりぼっち」などシングルを発表し、ネオGSの旗手として活動。’80年代以降は俳優としても多くのドラマ・映画に出演し、バラエティ番組『オレたちひょうきん族』ではユニークなキャラクターも演じた。

丸山明宏(美輪明宏)

16歳でプロ歌手として活動を開始し、1957年、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」で「メケ・メケ」が大ヒットして一躍注目される歌手となった。’65年、シンガーソングライター的手法で制作・発表した「ヨイトマケの唄」が大きな話題となり、心に響く歌詞で再評価される。以降、俳優、演出家、声優、ナレーター、コメンテーターとしても活躍を広げ、文化人としての地位を築く。現在もテレビ・ラジオ番組や執筆、舞台など多岐にわたる活動を続け、唯一無二の存在として第一線に立ち続けている。

城みちる

1973年、中学3年でオーディション番組『スター誕生!』第7回チャンピオンに輝き、父の反対を押し切って芸能界入りした。’73年12月『イルカにのった少年』で東芝EMIから歌手デビュー、50万枚超のヒットとなり、日本レコード大賞新人賞を受賞。童顔で細身のルックスと確かな歌唱力で、「新新御三家」の一人と称されるほどの人気アイドルとなる。’77年、父との約束に従い10枚目のシングル発売後、20歳で歌手を引退し実家の電器店を継ぐため広島に戻る。

あおい輝彦

1962年、ジャニーズの創設メンバーとして芸能界入りしデビュー。’67年にグループ解散後はソロ歌手および俳優・声優へ転身。’68年にドラマ『おやじ太鼓』で俳優デビュー、’70年にはアニメ『あしたのジョー』で主人公・矢吹丈の声優を務めた。’71年シングル「二人の世界」がヒット、その後’76年の「あなただけを」がオリコン週間1位を6週連続獲得し紅白にも初出場した。俳優としては’88年から2000年まで『水戸黄門』で“助さん”役を12年間務め、幅広い世代に親しまれた。

あいざき進也

1973年、オーディション番組『スター・オン・ステージ あなたならOK!』でグランドチャンピオンに輝き、翌’74年1月「気になる17才」でデビュー。小柄な体型と中性的で甘い歌声、さらにバク転も披露する運動神経の良さから“元祖アクロバットアイドル”と称され、’70年代のアイドル全盛期に人気を博す。デビュー初期には「新新御三家」の一人として注目され、第1回FNS歌謡祭新人賞を受賞するなど華々しいスタートを切って活躍した。

中村雅俊

慶應義塾大学卒業後、1973年に文学座附属演劇研究所に入所し、’74年に日本テレビ系ドラマ『われら青春!』の主役に抜擢され俳優デビュー。挿入歌「ふれあい」で歌手デビューし、オリコンで10週連続1位を獲得するなどの大ヒットとなる。以降、俳優としてテレビドラマ34本を含む100本以上の主演作を持ち、映画や舞台にも出演。歌手としてもシングル55枚、アルバム41枚をリリースし、毎年全国コンサートツアーを開催。’82年には『第33回NHK紅白歌合戦』に初出場し、歌手としても人気を博す。

豊川誕

1975年4月「汚れなき悪戯」でデビュー。ジャニーズ事務所出身で、甘いルックスと歌声で人気を集めた。捨て子で、孤児院で育った時代を持つという生い立ちを隠さず、その背景を彷彿とさせる歌詞の2ndシングル「星めぐり」が10万枚を超えるヒットとなる。その後は歌手活動を経てプロボクサーやカーレーサー、ギフトショップの経営など多岐にわたるジャンルで活動、また2000年代に入ってからも歌手活動を行っている。

井上純一

1975年「恋人ならば」でレコードデビュー。デビュー時のキャッチフレーズは”ポストひろみ”だった。歌手としては目立つヒットはなかったものの、『ゆうひが丘の総理大臣』ほか多数のドラマ作品に出演し、お茶の間に馴染み深い俳優となった。

清水健太郎

TBSの人気番組『ぎんざNOW!』に出演し注目を集め、1976年11月「失恋レストラン」で歌手デビュー。同曲は翌年にかけて大ヒットし、’77年の新人賞を総ナメにした。以降は歌手と並行して俳優として活動し多数のドラマにも出演するも、薬物や交通事故などの不祥事も多く、表舞台から遠ざかった後、Vシネマで復活した。

太川陽介

1976年「陽だまりの中で」で歌手デビュー。’77年の「Lui-Lui」がヒットし、同年の新人賞を数々の音楽賞で受賞した。’79年にはNHKの人気音楽番組『レッツゴーヤング』の司会を務めるなどトーク力の高さでタレントとして多方面で活躍し、近年も『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』シリーズなどで親しまれる。配偶者は女優の藤吉久美子。

草川祐馬

1973年、よみうりテレビの視聴者参加番組で西城秀樹のモノマネで優勝しスカウトされ、’75年「若者時代」でレコードデビュー。歌手活動とともに俳優としてドラマ出演も多く、NHKの連続テレビ小説や『暴れん坊将軍』『必殺シリーズ』『水戸黄門』などの時代劇でも活躍する。

川崎麻世

西城秀樹の真似で出演したよみうりテレビの視聴者参加番組でグランドチャンピオンとなり、ジャニーズ事務所にスカウトされ、1976年「ラブ・ショック」でデビュー。ルックスの良さでブロマイドがヒットし、NHKの音楽番組『レッツゴーヤング』に”サンデーズ”の一員として起用され人気アイドルとなる。

森田健作

1975年「さらば涙と言おう」は青春ドラマ「おれは男だ!」の人気絶頂期にリリースされた主題歌で、爽やかな青春像の象徴としてヒット。歌手というよりは“青春スター”としての存在感が強く、その明朗なキャラクターが当時の若者に強く支持された。後に政治家としても活動。

湯原昌幸

1970年、ソロ歌手として「見知らぬ世界」でデビュー、翌年の「雨のバラード」が累計120万枚を売り上げる大ヒットへ。以降、マルチタレントとして司会や俳優、パネラー、レポーターとしても活躍。明快なトークと温かいキャラクターでお茶の間に親しまれた。2003年には「冬桜」がロングセラーとなり、第37回日本有線大賞・有線音楽優秀賞を受賞。以降も歌手活動を並行して継続する傍ら、講演やテレビ、地域イベントにも精力的に出演。荒木由美子との“おしどり夫婦”ぶりも知られる。

石橋正次

1970年、日活映画『非行少年 若者の砦』および『あしたのジョー』で俳優デビュー。同年、舞台俳優としての下地を固める。’72年に歌手として「夜明けの停車場」を発表しこの曲がヒットを記録。同年の第23回NHK紅白歌合戦に出場した。俳優としては『飛び出せ!青春』『アイアンキング』などのテレビドラマに多数出演し、不良少年役から刑事、時代劇、助演まで幅広く活躍。その後も舞台出演を続け、名バイプレーヤーとして多方面で活躍を続ける。

松崎しげる

1970年、シングル「8,760回のアイ・ラブ・ユー」でソロ歌手としてデビュー。当初はCMソング歌手として活動し、’72年の「黄色い麦わら帽子」がスマッシュヒットとなる。’76年にスペイン・マジョルカ音楽祭で「愛の微笑」が最優秀歌唱賞・第2位を獲得し、翌’77年に「愛のメモリー」としてリリースされ大ヒット。日本レコード大賞歌唱賞を受賞し、紅白にも初出場した。俳優・タレントとしても人気を獲得し、TBSの人気刑事ドラマ『噂の刑事トミーとマツ』の主演を務めた。その後も「ディナーショーキング」の異名にふさわしい精力的なライブ活動を続ける。

かまやつひろし

1958年よりロカビリー歌手として活動を始め、’60年に「殺し屋のテーマ/皆殺しの歌」でレコードデビュー。その後、’63年に「ザ・スパイダース」に加入し、作詞・作曲したデビュー曲「フリフリ」で人気の中心となる。’70年の同バンド解散後ソロへ転向し、’70年に独り録音による先駆的録音アルバム『ムッシュー』を発表。’75年には吉田拓郎作詞の「我が良き友よ」が大ヒットし世代を超えた支持を獲得した。以後もフォークやポップ、ジャズなど幅広いジャンルで活動を続け、メディアでも“ムッシュかまやつ”として親しまれた。

寺尾聰

1965年にGSバンド「ザ・サベージ」のベーシストとしてレコードデビューし、’68年に映画『黒部の太陽』で俳優デビュー。父は新劇界を代表する俳優・演出家の宇野重吉。その後は石原裕次郎率いる石原プロ所属の“石原軍団”としてドラマ『大都会』『西部警察』で刑事役を多く演じ、俳優としての存在感を確立。歌手としては’81年リリースのシングル「ルビーの指環」が大ヒットし、第23回日本レコード大賞をはじめ多くの賞を受賞し、アルバム『Reflections』は約164万枚の売上と記録的な成功を収めた。以後は音楽と俳優の両面で活躍し、唯一日本レコード大賞と日本アカデミー賞主演男優賞を同時に受賞したアーティストでもある。

細野晴臣

1969年、ロックバンド「エイプリル・フール」のベーシストとしてデビューし、’70年には大瀧詠一らと共に「はっぴいえんど」を結成、日本語ロックの基礎を築く。’73年よりソロ活動を開始し「ティン・パン・アレー」としても多彩な音楽表現を追求。’78年には坂本龍一、高橋幸宏とともにYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)を結成し、エレクトロニック音楽で世界的な人気を獲得。その後もソロ、プロデューサー、作曲家として活動し、ワールドミュージック、アンビエント、ゲーム音楽などジャンルの壁を超える多彩な展開を続けている。

小室等

多摩美術大学在学中の1963年に、ピーター・ポール&マリーに影響を受けたフォークグループ「PPMフォロワーズ」を結成しデビュー。その後’68年に「六文銭」を結成し、’71年には上條恒彦と共演した「出発の歌」で世界歌謡祭グランプリを受賞した。ソロでは’71年に「雨が空から降れば」でデビューし、’75年に井上陽水らとフォーライフ・レコードを設立、初代社長に就任する。自身の歌手活動に加え、テレビドラマや映画の音楽制作、ラジオパーソナリティ、コラム執筆など多岐にわたり活躍を続けている。。

大滝詠一

1969年「ヴァレンタイン・ブルー」(後のはっぴいえんど)に加入し、’70年にバンド・はっぴいえんどとしてデビューし日本語ロックを確立。’72年にソロ1stアルバム『大瀧詠一』を発表し、’74年には自身のレーベル「ナイアガラ・レーベル」を設立。’75年『Niagara Moon』をリリース。’78年の『Let’s Ondo Again』など斬新な企画も手がける。’81年、ソロ最大のヒット作『A LONG VACATION』が日本レコード大賞・最優秀アルバム賞を受賞、ミリオンセラーを記録し、日本のシティポップの金字塔となる。プロデューサー、作曲家としても後進を育成し、音楽文化に多大な影響を与え続けた。

南こうせつ

1970年にレコードデビューし、すぐにフォークグループ「かぐや姫」を結成。「神田川」「赤ちょうちん」「妹」などのヒットでミリオンセールスを連発し、’70年代フォークを代表する存在となった。解散後もソロとして「夏の少女」「夢一夜」など数々のヒットを生み、独自の語り口と音楽性で人気を博す。’75年には吉田拓郎と共に伝説的な野外オールナイト・コンサートを開催し、’76年には日本人ソロ歌手として初の武道館ワンマンも成功させた。さらに’80年代には「サマーピクニック」やチャリティ「広島ピースコンサート」など大型イベントも主導し、音楽を通じた社会的活動にも貢献した。

よしだたくろう

1970年6月、広島フォーク村のオムニバスに収録された「イメージの詩」でソロ歌手としてデビューし、翌年の全日本フォークジャンボリーでの「人間なんて」の歌唱が伝説となる。’72年「結婚しようよ」「旅の宿」が立て続けにヒットし、ミリオンセラーを記録。全国ツアーの先駆けとなり、音楽シーンに新たな潮流を生んだ。’75年には井上陽水らと共にフォーク系アーティスト主体のレーベル「フォーライフ・レコード」を設立し自主運営のモデルを確立。野外での大規模オールナイトライブ「つま恋コンサート」など革新的な活動で、シンガーソングライター文化の基礎を築いた。

岡林信康

1968年、「山谷ブルース」でレコード・デビュー。社会の底辺に生きる人々への視線を持つプロテスト・フォークを展開。「友よ」「手紙」などのメッセージ性の強い楽曲により“フォークの神様”と称される存在となった。’70年代初頭はギターのエレクトリック化やロックへの転換を模索し、バックバンドとしてHappy Endを起用する革新的な動きを見せた。その後は京都の山村に移住し、演歌や民謡のリズムも取り入れた独自の音楽性「エンヤトット」を確立。以降も精力的にライブ活動や音楽制作を継続している。

加藤和彦

1960年代後半、ザ・フォーク・クルセダーズのメンバーとして音楽活動を開始。’71年にはサディスティック・ミカ・バンドを結成し、日本のロックシーンに新風を吹き込んだ。その後はソロ活動や他アーティストへの楽曲提供、映画音楽の制作など、多方面で活躍。代表曲「あの素晴しい愛をもう一度」などを手掛け、日本の音楽シーンに多大な影響を与えた。彼の活動は音楽だけでなく、演劇や映画などの分野にも広がり、日本の音楽文化の発展に貢献した。

上條恒彦

東京・大森の雑貨店住み込みから新聞配達、うたごえ喫茶「灯」での歌唱など多彩な職を経て声を鍛え、1964年に労音勤務を機に歌手活動を始めた。’70年にNHK『ステージ101』へ出演し、翌年「六文銭」と共演した「出発の歌」でポピュラーソング・フェスティバルと世界歌謡祭のグランプリを受賞。’72年には紅白歌合戦初出場、「木枯し紋次郎」の主題歌「だれかが風の中で」が大ヒットした。俳優として『3年B組金八先生』で注目され、声優としても『リトル・マーメイド』のセバスチャン役などで知られる。

小椋佳

1967年に東大法学部を卒業し、日本勧業銀行に入行。銀行員として勤務しながら’71年に歌手デビューを果たす。’75年、布施明に提供した「シクラメンのかほり」が大ヒットし、作詞・作曲家としても注目される。銀行の理解を得て音楽活動を続け、’76年のNHKホール公演には11万通の応募が殺到、ライブ盤『遠ざかる風景』は大きな成功を収めた。その後、担当顧客だった資生堂の宣伝部長の依頼で資生堂CMソング「揺れるまなざし」などを生み出し、CM音楽の新時代を拓く。’93年に退職後は東大に再入学し、哲学修士号を取得。布施明、美空ひばり、中村雅俊ら多くの歌手に300曲以上を提供し、日本の叙情歌世界を確立した。

山本コウタロー

一橋大学在学中、フォークグループ「ソルティー・シュガー」を結成し、1970年に「走れコウタロー」を発表。この曲はコミカルな歌詞とキャッチーなメロディーで話題を呼び、同年の日本レコード大賞新人賞を受賞した。その後’74年には「山本コウタローとウィークエンド」を結成し、シングル「岬めぐり」をリリース。この曲も大ヒットし、彼の代表作となった。音楽活動にとどまらず、テレビ司会やラジオパーソナリティとしても活躍。また、平和や環境問題への関心から、広島でのチャリティコンサート「広島ピースコンサート」を企画・開催するなど、社会活動にも力を入れた。 2022年7月4日、脳内出血により73歳で死去。

泉谷しげる

1971年、ライブ盤『泉谷しげる登場』でフォークシンガーとしてデビューし、荒々しい歌声とぶっきらぼうなステージで注目を集める。’72年に発表した代表曲「春夏秋冬」が大ヒットし確固たる地位を築く。’75年には吉田拓郎、井上陽水、小室等と共にアーティスト主体のレーベル「フォーライフ・レコード」を設立し、業界に革新をもたらした。以降はシンガーソングライターとして活躍する一方、俳優や絵画、料理ライブ、社会貢献活動にも積極的に取り組み、多才な活動を続けている。

なぎら健壱

1970年、中津川・全日本フォークジャンボリーに飛び入り参加し注目を集め、’72年にアルバム『万年床』でデビュー。 ’74年には「悲惨な戦い」が話題となり、放送禁止ながらヒットを記録する。また、’75年12月に幼児向け番組『ひらけ!ポンキッキ』で発表され大ヒットした「およげ!たいやきくん」のB面、「いっぽんでもニンジン」も代表曲として知られる。以降はカントリーフォークを基調に、俳優、タレント、エッセイストとしてもマルチに活躍。バラエティやテレビ、ラジオ、執筆活動にも定評があり、下町文化への深い造詣を武器に“語り部”として支持されている。

井上陽水

1969年、「アンドレ・カンドレ」の名義で「カンドレ・マンドレ」でデビュー。’72年、本名の井上陽水名義で「人生が二度あれば」で再デビューし、同年発表のアルバム『断絶』収録の「傘がない」が若者の心をつかみ注目を集める。’73年以降、『氷の世界』『二色の独楽』などのアルバムがミリオンセールを達成し、日本の音楽シーンをアルバム中心へと導く重大な存在となった。その独自の世界観と卓越した作詞作曲・歌唱力により音楽界で確固たる地位を築き、’90年9月に東宝映画『少年時代』(監督・篠田正浩、原作・藤子不二雄Ⓐ)の主題歌として制作された「少年時代」は、CMや学校教材などにも採用されロングセラーの名作となる。2020年代に入ってもカバーやメディア使用が相次ぎ、世代を超えて愛され続けている。

あがた森魚

1969年、上京して明治大学に進学し音楽活動を開始。’71年、フォークグループ「はちみつぱい」と共に中津川フォークジャンボリーに出演し注目を集める。’72年、キングレコードのベルウッド・レコードからシングル「赤色エレジー」でメジャーデビュー。この曲は林静一の同名漫画にインスパイアされ、フォークロックと日本の大正浪漫を融合させた独自の世界観でヒットを記録。その後もアルバム『乙女の儚夢』『噫無情』『日本少年』などを発表し、’70年代の日本の音楽シーンにおいて重要な存在となる。

谷村新司

1971年、堀内孝雄、矢沢透と共にフォークグループ「アリス」を結成し、’72年にシングル「走っておいで恋人よ」でデビュー。’75年「今はもうだれも」、’77年「冬の稲妻」などのヒットによりグループは注目を集める。’78年にアリス解散後ソロ活動を開始し、’80年に発表した「昴(すばる)」が大ヒット。その後も「群青」「22歳」などのヒット曲を生み出し、シンガーソングライターとしての地位を確立。また、作詞家・作曲家としても活躍し、山口百恵の「いい日旅立ち」や加山雄三との共作「サライ」など多くのヒット曲を手掛けた。2023年、74歳で逝去するまでアジア各国での活動も積極的に行い、国際的な音楽交流にも貢献した。

矢沢永吉

1972年、ロックバンド「キャロル」のボーカルとしてデビューし、若者を中心に熱狂的な支持を得る。’75年キャロル解散後ソロ活動を開始。9月21日、シングル「アイ・ラヴ・ユー、OK」、アルバム「I LOVE YOU,OK」でソロデビューを果たす。初期のライブツアーではファンの反発に直面しつつも着実に支持を広げ、’77年には日本武道館で初の単独ライブを成功させる。以降、精力的なライブ活動を展開し、オリコンアルバムランキングベスト10入り最多記録(51作)を保持するなど、ロック界のカリスマとして君臨し続けている。

ばんばひろふみ

1971年、高山厳・今井弘志とフォークグループ「バンバン」を結成。「いちご白書をもう一度」(’75年、荒井由実作詞作曲)がミリオンセラーとなり一気に脚光を浴びる。バンバン解散後の’78年ソロ活動へ転身し、「SACHIKO」(’79年)はヒット曲として知られる。以降、深夜ラジオ番組「ヤングタウン」「セイヤング」で人気パーソナリティーとして活躍。俳優としてもNHK連続テレビ小説『わかば』や『水戸黄門』などに出演し、多彩な活動を続けている。

さだまさし

1972年、吉田政美とフォークデュオ「グレープ」を結成、’73年『グレープ』として「精霊流し」でメジャー・デビュー。「精霊流し」は1974年にオリコン2位を記録するヒットとなる。’76年の解散後、’77年にソロアルバム『帰去来』を発表しソロ歌手として本格始動。’77〜’80年代には「雨やどり」「案山子」「関白宣言」など数々の代表曲を世に送り出し、トップシンガーとしての地位を確立する。温かな語り口と独自の世界観で全国を熱くし、ソロコンサートの通算公演回数は4,400回を超える日本記録を誇る。作家や俳優、小説家としても多彩に活動し、現在も文化的影響が非常に大きい人物。

南佳孝

1972年、『リブ・ヤング!』シンガーソングライターコンテストで3位入賞し、’73年9月、松本隆プロデュースによるアルバム『摩天楼のヒロイン』でデビュー。洗練された都会派シティポップの旗手として注目される。’76年の移籍後は全曲作詞作曲のアルバム『忘れられた夏』を発表しソングライターとしての才能を発揮。’79年には「モンロー・ウォーク」がヒットし、郷ひろみによるカバー(「セクシー・ユー」)でも話題に。’81年に映画主題歌「スローなブギにしてくれ」で再び注目を集める。以降、楽曲提供、プロデュース、CM・ナレーション、ラテンやジャズ、ボサノヴァへの展開など、多彩な音楽活動を現在も続けている。

上田正樹

1972年12月「金色の太陽が燃える朝に」でデビュー。’74年に「上田正樹とサウストゥサウス」を結成。’75年に「この熱い魂を伝えたいんや」を発表し注目を浴びた。その後ソロ活動を開始し、’83年には「悲しい色やね」がシングルチャート1位となるなど、数々のヒットを飛ばした。また、Ray CharlesやB.B. King、Junior Wellsなどのブルースアーティストと共演し、Tower of PowerやWar、Ike & Tina、Neville BrothersなどのR&Bバンドとも共演を果たした。2001年にはインドネシアの歌姫REZAとデュエットし「Forever Peace」が17週間連続1位を獲得するなど、アジアでも高い評価を得ている。現在も年間100本以上のライブをこなし、アルバムも毎年コンスタントに発表している。

タケカワユキヒデ

東京外国語大学在学中の1975年、全曲英詞のアルバム『走り去るロマン』でソロアーティストとしてデビュー。翌’76年、ミッキー吉野らと共にバンド「ゴダイゴ」を結成し、作曲とボーカルを担当。「ガンダーラ」「モンキー・マジック」「銀河鉄道999」「ビューティフル・ネーム」など数々のヒット曲を生み出し、グループの人気を牽引。’85年のゴダイゴ活動休止後はソロ活動を再開し、他のアーティストへの楽曲提供やプロデュースを手掛けるなど幅広い音楽活動を展開。また、テレビやラジオの出演、講演活動など、多方面で活躍している。近年では、三女・武川基らと「T’s COMPANY」を結成し、親子での音楽活動も行っている。

浜田省吾

1972年、広島時代の音楽仲間と共にロックバンド「愛奴(AIDO)」を結成し、’75年にドラマーとしてプロデビュー
するも、シンガーソングライターとしての道を志し、’76年にソロデビューを果たす。シングル「路地裏の少年」とアルバム『生まれたところを遠く離れて』でソロ活動を開始し、その後、毎年コンスタントにシングルとアルバムをリリース 。’82年には自身のツアーを“ON THE ROAD”と名付け、数多くのツアーや大規模野外コンサートを成功させ、’98年からは4年がかりで世紀をまたぐ全196公演・延べ動員数約60万人という他に類を見ないロングツアーを敢行するなど、常に変わらないスタンスで活動を続けている。代表曲は「悲しみは雪のように」(’81年)や「もうひとつの土曜日」(’85年)ほか。

桑名正博

1972年、ロックバンド「ファニー・カンパニー」を結成し「スウィートホーム大阪」でデビュー。’74年の解散後、’75年よりソロ活動を開始し、「哀愁トゥナイト」「サード・レディー」などを発表。’79年のカネボウのCMソング「セクシャルバイオレットNo.1」は大ヒットし、彼の代表作となった。’80年、当時人気を博していた歌手のアン・ルイスと結婚し愛息に恵まれるも’84年に離婚。その後は家業の廻船問屋を継ぐため故郷の大阪に戻り、事業を営むなどした。2012年10月、心不全により59歳で逝去。晩年は社会貢献活動にも熱心に取り組んでいた。

山下達郎

1975年、シュガー・ベイブとしてシングル「DOWNTOWN」とアルバム『SONGS』でデビュー。その後バンド活動を経て’76年にソロ活動を開始。’80年のシングル「RIDE ON TIME」が大ヒットし、広く知られるようになった。’83年のアルバム『MELODIES』に収録された「クリスマス・イブ」は、’89年にオリコンチャートで1位を記録し、30年以上にわたりチャートインし続けるなど、日本のクリスマスソングの定番となった。また、妻である竹内まりやの全作品のアレンジやプロデュースを手掛けるなど、音楽プロデューサーとしても活躍している。

因幡晃

秋田県出身。高校卒業後、父と同じく鉱山技師として働く傍ら作曲を始め、1975年に「わかって下さい」で第10回ヤマハ・ポピュラーソングコンテスト最優秀曲賞を受賞し、同年の第6回世界歌謡祭でも入賞を果たす。この成果を契機に’76年にディスコメイトレコードから同曲でデビューを果たす。「わかって下さい」は長期間にわたりベストテン入りとなった。その後エピック・ソニー、バップ、プラッツ、日本コロムビアなどのレコード会社を経て、2014年には杉田二郎、堀内孝雄、ばんばひろふみ、高山厳と共にスーパーユニット「ブラザーズ5」を結成、ソロ活動と並行してライブ活動を行っている。

高中正義

1971年、高校在学中にグループ「フライド・エッグ」へベーシストとして参加したのがプロ活動のきっかけ。’72年にギタリストとして「サディスティック・ミカ・バンド」に加入し本格的に活動を始める。’76年、ソロ・デビュー・アルバム『Seychelles』を発表し、トロピカルでメロディアスなギター・インスト曲を得意とするスタイルを確立
。’79年の『Jolly Jive』収録「Blue Lagoon」で人気が爆発し、’81年にはコンセプトアルバム『虹伝説』で日本レコード大賞企画賞を受賞。’82年『Saudade』はオリコン・アルバムチャート1位を記録するなど、インスト・フュージョン界の先駆者として第一線で活躍を続ける。

来生たかお

1974年に作曲家としてデビューし、’76年10月には「浅い夢」でシンガーソングライターとしてソロ歌手デビューを果たす。’81年に自身が歌った「夢の途中」がヒットし、薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」主題歌のセルフカバーとしても知られる。シンガー活動と並行し作曲家としても活躍し、大橋純子「シルエット・ロマンス」、中森明菜「セカンド・ラブ」「スローモーション」、しばたはつみ「マイ・ラグジュアリー・ナイト」など多数のヒット曲を提供した。現在まで約400曲を手掛けるシンガーソングライターとして精力的に活動中。

やしきたかじん

1976年、クニ河内プロデュースのアルバム『TAKAJIN』とシングル「ゆめいらんかね」でメジャー・デビュー。’81年にはアニメ映画『機動戦士ガンダム』テーマ曲「砂の十字架」を歌い注目を集める。’82年に大阪へ戻り、以後は関西を拠点に活動。代表曲に「やっぱ好きやねん」(’86)、「あんた」(’84)、「東京」(’93)などがあり、大阪愛を込めた歌詞と情熱的な語り口で、関西で絶大な人気を誇った。テレビ司会やラジオパーソナリティとしても活躍し、関西ローカルの顔として愛された。2014年1月、食道がんで逝去した。

岸田智史

1976年、“岸田智史”名義で「蒼い旅」で歌手デビュー(作詞・谷村新司、作曲・岸田智史)。続く’79年、自身の出演ドラマ『愛と喝采と』の挿入歌だった「きみの朝」が大ヒット(オリコン1位、年間15位)し、代表曲となる。同年発表のアルバム『モーニング』も成功し歌手として確固たる地位を確立。俳優としても『1年B組新八先生』や『渡る世間は鬼ばかり』などに出演し活動を広げ、ミュージカルやナレーターなど多方面でも活躍。

松山千春

1975年「全国フォーク音楽祭」北海道大会で落選したものの制作スタッフに才能を見出され、’76年に北海道のラジオ番組で『千春のひとりうた』としてメディアデビューを果たし、’77年1月、シングル「旅立ち/初恋」でメジャーデビュー。続く’78年の「季節の中で」が大ヒットし一気に全国区のスターとなる。以降、「大空と大地の中で」「長い夜」「君を忘れない」など数多くの代表曲を生み、フォークシンガーとして長年にわたり第一線を走り続けている。

長渕剛

1977年、ポプコン入賞曲「雨の嵐山」でビクターからデビューするもしばらく低迷し一時帰郷。’78年、シングル「巡恋歌」で本格デビュー、’80年、シングル「順子」で初のオリコン1位を獲得し、その後「勇次」「ろくなもんじゃねぇ」「乾杯」「とんぼ」など数々のヒット曲を連発。俳優としてもTBS系ドラマ『家族ゲーム』『とんぼ』ほか、映画『オルゴール』『英二』などで主演を務め幅広く活躍する。

原田真二

1976年、高校2年生でフォーライフ新人オーディションに合格し、’77年10月、18歳で「てぃーんず ぶるーす」で拓郎プロデュースによる衝撃のデビューを果たす。その後「キャンディ」「シャドー・ボクサー」と3ヶ月連続リリースし全てがオリコン同時トップ20入りの快挙を成し遂げる。’78年2月には1stアルバム『Feel Happy』が初登場1位、4週連続でチャート首位を獲得。その後もシンガーソングライターとして楽曲提供、プロデュース、チャリティ活動など多岐にわたる活動を展開。音楽的なセンスとメディア戦略で、’70年代後半のJ-POPを象徴する存在となった。

さとう宗幸

1978年5月、ラジオ番組でのリスナー投稿をもとに作曲した「青葉城恋唄」でメジャーデビュー。曲は東北・仙台の情景を描いた叙情歌として大ヒットし、当年の新人賞を多数受賞し紅白にも初出場。「地方発の歌」として全国的な注目を集めた。以降は俳優としても活躍し、’81年には『2年B組仙八先生』主演、’87年にはNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』に出演。司会者やローカルタレントとしても長く親しまれている。

財津和夫

1972年、グループサウンズ「チューリップ」のリーダー兼ボーカルとしてデビューしグループの中心メンバーとして活躍、「心の旅」「サボテンの花」などのヒットを放つ。’70年代後半ソロでの活動も開始し、’78年にソロシングル「二人だけの夜」をリリース。2ndシングルの「Wake Up」はSEIKOのCMソングに起用されヒットを収めた。同時に作曲家としても活動し、松田聖子などに楽曲を提供。シンガーソングライター兼ヒットメーカーとして音楽界での地位を確立する。以降も作詞・作曲家として多くのアーティストに楽曲を提供し、音楽シーンに多大な影響を与え続けている。ソロ活動とともにチューリップもメンバー交代を重ねながら活動を続け、’89年に解散した。

坂本龍一

東京芸術大学で作曲と民族音楽学を学び、1970年代からスタジオミュージシャンとして活動を開始。’78年に細野晴臣、高橋幸宏とともにテクノポップグループ「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」を結成し、世界的な成功を収める。グループの活動と並行してソロアーティストとしても活躍し、映画『戦場のメリークリスマス』の音楽で’87年にアカデミー作曲賞を受賞。その後も映画音楽やアルバム制作を通じ、ジャンルを超えた音楽活動を展開し続けた。2023年3月28日、71歳で逝去。その多彩な音楽性と国際的な影響力で、世界中の音楽シーンに多大な貢献をした。

円広志

大学生だった時に結成したロックバンド「ZOOM」でボーカルを担当。1974年、ヤマハ主催のロックフェスティバル「大阪8・8ロックデイ」で入賞し一躍関西で人気のバンドとなる。当時バンドのローディーには後に世良公則&ツイストで大人気となる世良公則がいた。「ZOOM」は’77年に解散し、’78年に円個人でヤマハのポプコンに出場する機会を得、自作の「夢想花」でグランプリを受賞。同じくヤマハ主催の『第9回世界歌謡祭』でもグランプリを獲得し、シングル第一弾となった同曲は80万枚の大ヒットとなる。その後は本名の篠原義彦名で作曲家としても活動、森昌子の「越冬つばめ」などがある。

ポプコンイメージ

'70年代の音楽イベント

1970年代の音楽シーンに大きな影響を与えたのが、ヤマハ音楽振興会が主催した「ヤマハポピュラーソングコンテスト(通称:ポプコン)だった。’69年から’86年まで開催されたフォーク、ポップス、ロックのオリジナル楽曲コンテストで、新人ミュージシャンの登竜門として大きな役割を果たし、中島みゆき「時代」、クリスタルキング「大都会」など多数のアーティストや名曲が生まれた。’70年代はシンガーソングライター系が特に注目を浴び、八神純子やチャゲ&飛鳥など若き才能が数多く巣立っていった。

野村将希

1970年6月、シングル「一度だけなら」で歌手デビュー。新人賞複数受賞とともに、第21回NHK紅白歌合戦に初出場し、いきなり注目を浴びる。その後アメリカで音楽留学を経て帰国。’82年、芸名を野村将希に改名し、演歌歌手として活動を継続。俳優としても活躍し、’87年からTBSドラマ『水戸黄門』で“飛猿”役としてレギュラー出演し幅広い認知を獲得する。以降、歌手兼役者として長く活動を続け、現在も精力的に舞台やテレビに出演している。長男はプロサッカー選手の野村政孝、次男は俳優の野村祐希。

五木ひろし

1964年、16歳で「コロムビア全国歌謡コンクール」に優勝し、上京して作曲家・上原げんとの内弟子となる。’65年、松山まさるの芸名で「新宿駅から/信濃路の果て」でデビューするがヒットには至らず。その後も芸名を改めながら活動するも成功には結びつかなかった。転機となったのは’70年、テレビ番組『全日本歌謡選手権』への出場。10週連続勝ち抜きでグランドチャンピオンとなり、ヒットメーカーの作詞家・山口洋子と作曲家・平尾昌晃のコンビによる「よこはま・たそがれ」で再デビューを果たし、大ヒットを記録。以降、演歌界のトップスターとしてヒット曲を飛ばしながら活躍を続ける。

真木ひでと

1960年代にグループサウンズ「オックス」のヴォーカルとして野口ヒデト名で活動。オックスは「ガールフレンド」「スワンの涙」などのヒット曲で人気となり、野口ヒデトは沢田研二や萩原健一とともにGSブームを牽引する存在となる。オックス解散後は芸名を真木ひでとに改め演歌歌手としてソロデビューし、テレビやラジオ出演の活動を続けた。GS時代の経験を生かした舞台パフォーマンスと演歌の表現力を融合させ、幅広いファン層に支持された。GSと演歌の両方で活躍した希少な存在として知られる。

三善英史

渋谷区・円山町で芸者の息子として誕生。整った容姿から渋谷でスカウトされ、1972年、演歌歌手として「雨」でデビュー。同曲は大ヒットし、日本レコード大賞・新人賞ほか数々の新人賞を受賞した。デビュー翌年より3年連続でNHK紅白歌合戦に出場し演歌歌手として活躍。ユニチャームのCMに女装して出演するなど、ユニークな存在感でも注目された。2006年「夢グループ」の所属となり、現在も歌手活動を続けている。

中条きよし

1968年に芸名「高波晃」として歌手デビューを果たす。その後「渥美健」に改名して再デビューしたが成功には至らず、’73年にオーディション番組『全日本歌謡選手権』で10週連続勝ち抜きグランドチャンピオンとなったことを契機に、’74年に「中条きよし」という芸名で3度目のデビューを果たす。デビュー曲「うそ」は150万枚以上の大ヒットとなり、第16回日本レコード大賞大衆賞を受賞。以後、「うすなさけ」「理由」などのヒットを経て、演歌界の主要な存在として活躍を続けた。2022年、参議院議員となり芸能活動を終了した。

細川たかし

1975年4月シングル「心のこり」で歌手デビューし、第17回日本レコード大賞最優秀新人賞など数々の新人賞を受賞し、一躍注目される演歌歌手となる。’82年「北酒場」、’83年に「矢切の渡し」で日本レコード大賞を連続受賞、’84年には「浪花節だよ人生は」で史上初の三冠(歌唱賞)を達成し、演歌界の頂点に君臨した。以降も「望郷じょんから」「さだめ川」「北国へ」などヒット曲を連発し、NHK紅白歌合戦への出場を続けた。民謡で鍛えた圧倒的な声量と表現力、幅広いメディアでの活躍によって、演歌を代表する大御所歌手として長年にわたり支持されている。

新沼謙治

日本テレビ系オーディション番組「スター誕生!」から1976年2月1日に「おもいで岬」でデビュー。デビュー2作目「嫁に来ないか」が大ヒットし、第18回日本レコード大賞新人賞を獲得、NHK紅白歌合戦にも初出場を果たす。以後、「ヘッドライト」「酒とふたりづれ」「津軽恋女」など数多くのヒット曲を生み、紅白には通算13回出演した。歌手活動のみならず、映画『二百三高地』やドラマ『私鉄沿線97分署』『炎立つ』などへの出演も果たし、俳優としても活動。

角川博

クラブ歌手として広島や博多で歌っていたところをスカウトされ、1976年4月「涙ぐらし」で歌手デビュー。デビュー直後に日本レコード大賞新人賞や日本有線大賞新人賞を獲得し、一躍注目を集めた 。’78年には「許してください」でNHK紅白歌合戦に初出場を果たし、以後合計3回出場した。ものまねが得意で、美空ひばりや三波春夫、森進一など幅広いレパートリーを持ち、テレビのバラエティ番組にも多く出演してタレントとしても活躍。近年は自身の事務所を設立し、音楽・タレント活動を継続している。

山本譲二

1974年に芸名「伊達春樹」でシングル「夜霧のあなた」で歌手としてデビューしたが、当初はヒットに至らなかった。その後、北島三郎の付き人となり修業を重ねた後、「そばにおいでよ」「北ものがたり」を本名の山本譲二名でリリース、演歌歌手としての基盤を築く。’80年に発表した「みちのくひとり旅」が約10か月かけて大ヒットし、ミリオンセールスを記録、’81年末の日本レコード大賞ロングセラー賞とNHK紅白歌合戦初出場を果たした。以後も「奥州路」「海鳴り」「夢街道」などで数々の賞を受賞し、演歌界を代表する歌手として長年にわたり活躍を続けている。

渥美二郎

高校を中退後、地元の北千住で”演歌師”として流しの歌手活動を行った後、1976年10月、「可愛いおまえ」でレコードデビューした。 ’78年2月発売の「夢追い酒」は約250万枚の大ヒットとなり、彼の代表曲として演歌界に確固たる地位を築く。以後、「忘れてほしい」「他人酒」「釜山港へ帰れ」など多数のヒット曲を発表し、紅白歌合戦出場やロングセラー賞受賞を果たす。その後も演歌師としての原点を忘れず、ギター演奏を取り入れたステージやチャリティ活動等、現在に至るまで精力的に活動を続けている。

吉幾三

1973年3月、「山岡英二」としてヤンマーディーゼルのコマーシャルソング「恋人は君ひとり」で歌手デビューするも成功に至らず。’77年11月「吉幾三」と改名し、自作曲「俺はぜったい!プレスリー」でフォーク歌手として再デビューし大きな注目を浴びる。’84年には千昌夫に提供した「津軽平野」がヒットし、同年11月には「俺ら東京さ行ぐだ」でさらなるブレイクを果たす。’86年発売の「雪國」は紅白出場につながる大ヒットとなり、演歌歌手としての確固たる地位を築いた。

佳山明生

1970年より作曲家・古賀政男を師事し、’77年12月にシングル「氷雨」で歌手デビュー。芸名の佳山明生は、美輪明宏から名づけられた。「氷雨」は発売当初は売れ行きが振るわなかったが、有線放送での地道なリクエストを経て再々々発売された’82年7月盤がブレイクし、’83年には旭川有線大賞・全日本有線放送大賞グランプリを受賞、同年の日本レコード大賞ロングセラー賞も受賞した。その後は出身地の「函館観光大使」に就任するなど、地元にも貢献しながら演歌界で独自の存在感を築いている。