女性歌手・アイドル > 1960年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

美空ひばり


江利チエミ、雪村いづみとともに”三人娘”として国民的人気を博し、中でも圧倒的な歌唱力と存在感で一世を風靡。’89年1月11日、最後のシングル『川の流れのように』が発売され、約半年後に54歳で永眠する平成初期に亘るまで、歌謡界・演歌界の絶対的なトップスターであり続けた。

ペギー葉山


『南国土佐を後にして』、青山学院大学のチャペルを描写した『学生時代』などのヒットで知られる。歌唱と訳詞を手掛けた『ドレミの歌』は時代を超えて広く親しまれ、1995年『紫綬褒章』、2004年に『旭日小綬章』も受章した。

雪村いづみ


1953年『思い出のワルツ』で歌手デビュー。美空ひばり、江利チエミとともに”三人娘”として人気を博す。『オーマイパパ』『青いカナリヤ』『約束』などのヒット曲を持つほか、’57年の東宝映画『青い山脈』に主演、映画黄金時代を築く立役者となる。

畠山 みどり

1962年『恋は神代の昔から』でレコードデビュー。袴を履いた巫女の衣装で歌謡浪曲を歌い、曲のヒットとともに一躍有名となる。以降も『出世街道』『馬鹿は死なゝきゃなおらない』などヒット曲多数。’70年代からはタレントや実業家としての活動が増え、演歌界きっての株トレーダーとしても知られる。

青江 三奈

1966年『恍惚のブルース』で歌手デビュー。セクシーなハスキーボイスで歌うブルース演歌で80万枚のヒットとなる。’68年、イントロ部分のため息で知られる『伊勢佐木町ブルース』が100万枚、『長崎ブルース』が120万枚のミリオンセラーに。NHK紅白歌合戦には’66年の初出場から16年連続で出場、ブルース演歌の女王としての地位を築いた。

島倉 千代子


1955年『この世の花』で歌手デビュー。同曲は200万枚を売り上げ人気歌手となる。その後も『東京だョおっ母さん』『からたち日記』ほか100万枚を超えるヒット曲を何作も持つ。’68年の『愛のさざなみ』では日本レコード大賞・特別賞を受賞した。また、’87年発売の『人生いろいろ』も130万枚の大ヒットとなり日本レコード大賞で最優秀歌唱賞を受賞。”お千代さん”の愛称で長年に亘り国民的歌手として多くの人に愛された。

森山加代子

1960年『月影のナポリ』でデビュー。楽曲はザ・ピーナッツとの競作だったが森山版は50万枚の大ヒットとなり、年末の『紅白歌合戦』にも初出場を果たす。その後も流行語にもなった『じんじろげ』ほかヒット曲を連発。’70年にリリースした『白い蝶のサンバ』はミリオンセラーの大ヒットとなった。

弘田三枝子

1961年にヘレン・シャピロのカバー曲『子供ぢゃないの』でデビュー。パンチの効いた歌声で洋楽をカバーしたが、’69年、洋楽カバーから路線を変えてリリースした『人形の家』がオリコンチャート首位を獲得。同年の日本レコード大賞歌唱賞にも輝いた代表作となる。

園まり


1956年、童謡歌手としてデビュー。その後渡辺プロダクションに所属先を変え、’62年『鍛冶屋のルンバ』でレコードデビュー。『逢いたくて逢いたくて』『夢は夜ひらく(藤圭子版も有)』ほか”園まり節”と呼ばれる多数のヒット曲を持つ。’66年-’67年にかけてマルベル堂女性歌手ブロマイド売上1位の人気となる。

森山良子

1967年、「この広い野原いっぱい」でデビュー。黒澤明の意向で黒澤プロダクションに所属し、デビュー当初は“日本のジョーン・バエズ”と呼ばれるフォークシンガーとして注目された。’69年、「禁じられた恋」がミリオンセラーとなり、日本レコード大賞大衆賞を受賞、NHK紅白歌合戦に初出場するなど、フォークから歌謡界へと活動の幅を広げた。’70年の大阪万博ではテーマソングを担当し、国民的歌手としての地位を確立した。

坂本スミ子

NHK大阪合唱団を経てラテン歌手としてデビュー。「ラテンの女王」として人気を得る。1961年からテレビ番組『夢であいましょう』で主題歌を担当、NHK紅白歌合戦に5年連続出場した。’71年「夜が明けて」「浮雲」とヒットを飛ばし、’73年「幼い子供のように」で東京音楽祭外国審査団賞を受賞。その後女優としても活躍し、ミュージカル『キャバレー』で’82年度文化庁芸術祭優秀賞を受賞した。

中山千夏

小学1年で毎日音楽コンクール優勝、子役としてドラマの主題歌や副主題歌を担当。高校時代はNHK人形劇『ひょっこりひょうたん島』の挿入歌を歌い、宇野誠一郎に師事してボイストレーニングを受ける。東宝ミュージカルにも出演。歌謡曲歌手としての本格デビューは1969年9月、ビクターレコードから「あなたの心に」を発表しオリコン2位を記録。レコード大賞新人賞にノミネートされ、その後多くのカバーが生まれた。

加藤登紀子

満洲国ハルビン生まれ、京都育ち。1965年、在学中に第2回日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝。’66年「誰も誰も知らない」でレコードデビュー。’71年「知床旅情」で日本レコード大賞歌唱賞を受賞。’72年に一時活動休止するも、’73年復帰。’78年「この空を飛べたら」、’87年「百万本のバラ」がヒット。中国公演や鴨川自然王国設立、映画やドラマ出演、他歌手への楽曲提供など、多彩な活動を展開。

三沢あけみ

1959年、東映ニューフェイスに合格し、テレビドラマ『笛吹童子』で三沢あけみとして芸能界デビュー。’63年「ふられ上手にほれ上手」で歌手デビュー。同年4月「島のブルース」が大ヒットし、第5回日本レコード大賞新人賞受賞と第14回NHK紅白歌合戦初出場を果たす。以降、「明日はお立ちか」「アリューシャン小唄」「涙の渡り鳥」「サガレン小唄」「お手を拝借」「木曽節」などでリバイバルヒットや紅白出場を重ねた。

高田美和

1962年、高校1年生で大映に入社し、三隅研次監督『青葉城の鬼』でデビュー。以後、『座頭市兇状旅』『大魔神』『眠狂四郎勝負』など時代劇や、『高校三年生』『青いくちづけ』『十七才は一度だけ』など現代映画で主演し、清純派スターとして人気を博す。’64年「十七才は一度だけ」で歌手としてもデビューし、以後もシングルを発表。’68年大映退社後はテレビや舞台に活動の場を移し、『2時のワイドショー』司会や『雲霧仁左衛門』などの舞台で活躍した。

梓みちよ

1962年デビュー。’63年にリリースした『こんにちは赤ちゃん』が大ヒットとなり、同年の日本レコード大賞の大賞を受賞、年末の紅白歌合戦にも初出場を果たす。その後低迷期を経て’74年に発売した『二人でお酒を』が大ヒット。床に座って歌う姿で人気をさらい、再びの日本レコード大賞に加え大衆賞も受賞し、紅白への復帰も果たした。

九重佑三子

1963年『シェリー』でレコードデビュー。’67年、テレビドラマ『コメットさん』でコメットさん役を演じ人気を博す。同年のNHK紅白歌合戦では史上最年少で紅組司会者に抜擢され、ロッテチョコレートのCMなどでもお茶の間に広く愛される存在となる。

都はるみ

1964年レコードデビュー。”はるみ節”と呼ばれる力強いこぶしが特徴で、同年発売された3作目『アンコ椿は恋の花』がミリオンセラーとなる。’76年、『北の宿から』で日本レコード大賞ほか数々の音楽賞を受賞。’84年に一度引退するもその後活動を再開し、2005年に芸術選奨文部科学大臣賞、2010年に紫綬褒章を受章している。

いしだあゆみ

子供の頃から児童劇団に所属し舞台活動を続ける。歌手としては1968年にリリースした『ブルー・ライト・ヨコハマ』が150万枚のミリオンセラーを記録し代表作に。映画『男はつらいよ』やテレビドラマ『金曜日の妻たちへ』『北の国から』などで女優としても活躍した。

水前寺清子

1964年『涙を抱いた渡り鳥』でデビュー。’68年に発売された『三百六十五歩のマーチ』は100万枚の大ヒットとなり、日本レコード大賞大衆賞を受賞した。’70年からはTBSドラマ『ありがとう』に主演、民放ドラマで史上最高視聴率となる56.3%を記録した。”チータ”の愛称で昭和・平成に亘り永く愛される存在となる。

奥村チヨ

1965年デビュー。黛ジュン、小川知子と「東芝3人娘」と呼ばれる。デビュー同年に『ごめんネ…ジロー』をヒットさせるほか、’70年前後に”恋三部作”としてリリースした『恋の奴隷』『恋狂い』『恋泥棒』の連続ヒットで人気歌手の仲間入りを果たした。

中尾 ミエ

1962年、16歳でレコードデビュー。デビュー曲の『可愛いベイビー』が大ヒットし一躍スターの仲間入りを果たす。園まり、伊東ゆかりと組んだ”スパーク三人娘”も人気を集め、TV界で一時代を築く。ものおじしない性格でトーク力も高いことから歌手活動のみならず、長年に亘り映画、ドラマ、バラエティ番組で活躍を続ける。

金井 克子

西野バレエ団出身で抜群のプロポーションを誇り、モデルとしても活躍。1962年レコードデビュー。’67年、西野バレエ団仲間の由美かおる、奈美悦子らとともにダンスグループ『レ・ガールズ』を結成しTVで活躍する。’73年、独特の振付けも話題となった『他人の関係』が100万枚以上のヒットとなり、日本レコード大賞企画賞を受賞した。

西田 佐知子


1956年レコードデビュー。’61年、世界的にヒットした『コーヒールンバ』のカバー曲を歌い一躍有名となる。’62年、『アカシアの雨がやむとき』で日本レコード大賞特別賞を受賞。以降は司会者の関口宏と結婚し、歌手活動をセーブした。

小川知子

1968年『ゆうべの秘密』でデビュー。同曲はオリコン1位を獲得する。後に『初恋のひと』もヒット。’80年代に入り連続ドラマ『金曜日の妻たちへ』などにも出演し女優としても活躍する。’84年にはアリスの谷村新司とのデュエット曲『忘れていいの-愛の幕切れ-』が話題となり、長年に亘り活躍を続けた。

和田アキ子

1968年歌手デビュー。迫力のある歌唱法で”和製リズム・アンド・ブルースの女王”として売り出す。2枚目のシングル『どしゃぶりの雨の中で』、4枚目の『笑って許して』のヒットで人気を確立。’72年に発売した『あの鐘を鳴らすのはあなた』で同年の日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞した。当時からタレントとしてさまざまなバラエティ番組でも活躍した。

カルメン・マキ

1969年、17歳で『時には母のない子のように』でデビュー。年齢に見合わない哀愁あふれる楽曲と歌唱でデビュー曲は100万枚を超える大ヒットとなった。翌年ロック歌手への転向を表明し、ロックバンドの結成と解散を重ねながら活動した。

由紀さおり

1965年に歌手デビューするがヒット曲に恵まれず、’69年、再デビュー曲としてリリースした『夜明けのスキャット』が150万枚のミリオンセラーとなる。その後も『手紙』『生きがい』などのヒット曲に恵まれ歌手として活躍するとともに、バラエティタレントや司会、女優としても才能を発揮、多岐にわたり活躍した。

千賀かほる

1969年、『真夜中のギター』でデビュー。同年、日本レコード大賞新人賞を受賞。デビュー前はOSK日本歌劇団に所属していた。『真夜中のギター』は現在もフォークソングの名曲として岩崎宏美や徳永英明ほか多くのアーティストのカバーアルバムで歌い継がれている。

平山 三紀

1970年デビュー。鼻にかかったハスキーボイスが特徴で、2枚目のシングル『真夏の出来事』がオリコン5位のヒット曲となる。以降も『ノアの箱舟』『フレンズ』とヒット曲が続き人気を集める。ばんばひろふみの元妻で、現在も音楽活動を続ける。

松尾 和子

ナイトクラブや進駐軍のキャンプで歌っていたところ人気となり、1959年に和田弘とマヒナスターズ、フランク永井との共唱作『グッド・ナイト/東京ナイト・クラブ』でデビュー。’60年に発売した第2弾『誰よりも君を愛す』が大ヒットとなり、ムード歌謡の女王となる。他に『お座敷小唄』『銀座ブルース』などヒット曲多数。

越路 吹雪

1951年まで宝塚歌劇団男役のトップスターとして活躍。その後は東宝専属となり舞台女優へ。同時にシャンソン歌手としても活動を始め、『愛の讃歌』『ラストダンスは私に』『サン・トワ・マミー』『ろくでなし』など数々のビッグヒットを放つ。日本のシャンソン界の女王となり、日本レコード大賞歌唱賞、文化庁芸術祭奨励賞など数々の賞を受賞した。

江利 チエミ

歌が好きで12歳の頃から進駐軍のキャンプで歌うようになりキャンプのアイドル的存在だった。1952年、15歳で『テネシーワルツ』でレコードデビュー、同曲は23万枚のヒットとなり、続く『ツゥー・ヤング』もヒット。歌唱力の高さから「美空ひばり以来の天才少女」と呼ばれ、雪村いづみを加えた”三人娘”として戦後の歌謡界で活躍、一世を風靡した。

吉永 小百合

1957年~59年の間にラジオ、テレビドラマ、映画界にデビュー。’62年に自身の主演映画『赤い蕾と白い花』の主題歌『寒い朝』でレコードデビュー、50万枚を超えるヒットとなる。続いて橋幸夫とのデュエット曲『いつでも夢を』が300万枚を超える爆発的ヒットを記録、’60年代の映画界・歌謡界に吉永小百合の一大旋風を巻き起こした。

倍賞 千恵子

1961年映画デビュー。’63年『下町の太陽』に主演。同タイトルの楽曲でレコードデビューし、日本レコード大賞新人賞を受賞した。以降、『さよならはダンスの後に』『忘れな草をあなたに』などのヒット曲に恵まれるとともに女優として活躍し、映画『男はつらいよ』の主人公・車寅次郎の妹さくら役などで知られる。

伊東 ゆかり

1958年レコードデビュー。以降、中尾ミエ・園まりとともに”スパーク三人娘”を結成し、『シャボン玉ホリデー』などのバラエティ番組に出演しお茶の間の人気者に。’67年発売の『小指の想い出』が爆発的なヒットとなり、以降もヒット曲に恵まれ、’60年代の歌謡界を語るに欠かせない存在となった。

岸 洋子

東京藝術大学大学院声楽専攻科修了後、1962年にシャンソン歌手としてレコードデビュー。実力派歌手として注目を集め、’64年『夜明けのうた』で日本レコード大賞歌唱賞を受賞した。’70年にリリースした『希望』が約70万枚の大ヒットとなり、2度目となるレコード大賞歌唱賞を受賞。第43回選抜高校野球大会の入場行進曲にも採用された。

由美かおる

西野バレエ団に所属し、1960年代~80年代にかけて多数の映画、ドラマ、CMに出演。金井克子や奈美悦子などバレエ団仲間と結成したダンスグループ『レ・ガールズ』の活動でも人気を集め、愛らしく魅力的な容姿で和製マリリン・モンローとも称される存在となる。歌手としては『いたずらっぽい目』(’67年)などのヒット曲があるが、アース製薬蚊取り線香のCMキャラクターや時代劇『水戸黄門』の”かげろうお銀”役で広く知られる。

佐良 直美

1967年『世界は二人のために』でレコードデビュー。抜群の歌唱力で120万枚を売り上げ、同年の日本レコード大賞の新人賞を受賞し年末のNHK紅白にも初出場した。同曲は翌年の選抜高等学校野球大会の入場行進曲にも採用され、佐良 直美ブームが巻き起こる。その後も『いいじゃないの幸せならば』などがヒットするもタレントとしても才能を発揮、TBSのドラマ『ありがとう』のレギュラーなど多方面で活躍した。

渚ゆう子

沖縄出身の母と京都出身の父のもとに生まれ、幼少期から沖縄民謡と琉球舞踊を学ぶ。1964年に久葉真鶴の名で芸能界入りし、マヒナスターズの前唄を経て上京。浜口庫之助に師事し、’66年に「渚ゆう子」と改名。’67年「早くキスして」でレコードデビュー。’70年、ベンチャーズ作曲の「京都の恋」「京都慕情」が大ヒットし、全国的に人気歌手となる。

新谷のり子

幼少期から歌を好み、NHK児童合唱団で活動した。高校を中退して北海道から上京し、銀座のクラブで歌い始め、1969年に『フランシーヌの場合』でメジャーデビュー。政治的抗議のため焼身自殺した女性を題材にしたこの曲は、反安保の日に発売され約80万枚の大ヒットとなった。2枚目のシングル『さよならの総括』が不振に終わり、次第に表舞台から退く。その後はいずみたく事務所を経て労音で活動するが、歌う意味を見失い再び銀座のクラブに戻った。

仲宗根美樹

1961年、ドラマ『東京物語』の挿入歌「愛に生きる」で歌手デビュー。同年9月に発表した「川は流れる」が、人生を川の流れに重ねた歌詞と独特の無表情な歌唱で大ヒットし、ミリオンセラーを記録、第3回日本レコード大賞新人奨励賞を受賞した。翌’62年にはNHK紅白歌合戦に初出場し紅組のトップバッターを務めた。その後も「島育ち」「奄美恋しや」などヒットを続け、CMソング「有馬兵衛の向陽閣へ」でも知られた。’71年、歯科医師と結婚して芸能界を引退した。

朱里エイコ

舞踏家の母とオペラ歌手の父のもとで育つ。18歳で単身渡米し、ラスベガスやニューヨークなど全米各地で歌手・エンターテイナーとして活動、サラ・ヴォーンと同じ舞台にも立った。1966年に帰国後は人気が伸びなかったが、再渡米して実力を磨き、’71年にワーナー・パイオニアと契約。’72年に「北国行きで」が大ヒットし紅白に初出場した。以後、卓越した歌唱力とダンス、三味線やピアノの演奏を取り入れた多彩なステージで人気を博した。

内藤洋子

医師の家系に生まれ、小学5年の時にCM出演をきっかけに芸能界入り。1965年、黒澤明監督『赤ひげ』で女優デビューし、翌年のドラマ『氷点』で清純派女優として人気を博す。松山善三監督『その人は昔』の挿入歌「白馬のルンナ」が50万枚を超えるヒットとなり、歌手としても成功した。’70年に音楽家・喜多嶋修と結婚して引退し、’74年に家族とともに渡米。以後は絵本作家として活動している。

泉アキ

1966年、日本テレビ「あなた出番です」で優勝し、翌’67年に「恋はハートで」でクラウンレコードからデビュー。続く「夕焼けのあいつ」がヒットし、アイドル歌手として人気を得た。’72年に桂菊丸と結婚、家庭を築く一方で、’75年からテレビ朝日「独占!女の60分」にレポーターとして出演し、明るいキャラクターで人気を博す。以後、司会やクイズ番組などで幅広く活躍。さらに自動車レースにも挑戦し、’84年にはサファリラリーで日本人女性初の完走を果たした。

黛 ジュン

1964年のデビュー後、’67年に『恋のハレルヤ』で再デビュー。パンチのある声とミニスカートで歌う再デビュー4枚目のシングル『天使の誘惑』が大ヒットし、同年の日本レコード大賞に輝く。’67~’68年のレコード売上は500万枚。GS全盛期にもっとも活躍した女性シンガーでもある。

中村晃子

1965年レコードデビュー。GS全盛期にある’67年の発売にもかかわらず、7作目のシングル『虹色の湖』が80万枚の大ヒットとなり、黛ジュンとともに女性シンガーとして強烈な存在感を示す。衣装のミニスカートも時代の先鋒だった。’80年、TBSドラマ『離婚ともだち』の挿入歌『恋の綱わたり』が30万枚のヒットとなり再び注目された。

山本リンダ

雑誌モデルを経て15歳だった1966年に『こまっちゃうナ』で歌手デビュー、大ヒットを記録。以降大きなヒット曲に恵まれなかったものの、『仮面ライダー』などのドラマに出演し人気となる。’72年、大人の路線に変更しヘソ出しルックで歌った『どうにもとまらない』続く『狙いうち』が大ヒット、歌手・山本リンダの第二次ブームが訪れた。

男性歌手・アイドル > 1960年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

三橋美智也

北海道函館市出身。幼少より民謡歌手の母に鍛えられ、9歳で全道民謡コンクール優勝。その後は家計を助けるため巡業に参加し、津軽三味線を習いながら白川軍八郎一座で修行し、その後も園芸団などに参加して力をつける。19歳で上京し修行を積んだ後、1953年、キングレコードと契約し、翌年「酒の苦さよ」でデビュー。’55年「おんな船頭唄」が大ヒットし、「リンゴ村から」「哀愁列車」「古城」「達者でナ」などを次々とヒットさせた。民謡で培った伸びやかな高音と独特のこぶしで昭和30年代の歌謡界を牽引。「三橋で明けて三橋で暮れる」と称される人気を誇り、レコード売上は1億枚に達したとされる。

三波春夫

「お客様は神様です」のフレーズでも知られる、戦後日本に演歌で希望を与えた国民的大スター。第二次世界大戦に徴兵されて満州へ渡り、帰国後の1955年、浪曲師・民謡歌手としてデビュー。’57年「三波春夫」に芸名を改め歌謡界に進出。集団就職で上京した若者の心情を描いた2枚目の「チャンチキおけさ」が220万枚を売り上げる大ヒットとなり、’64年の東京五輪のテーマソング「東京五輪音頭」130万枚、’70年の大阪万博テーマソング「世界の国からこんにちは」300万枚などビッグヒットを連発した。功績は高く評価され、紫綬褒章、勲四等旭日小綬章、新潟県民栄誉賞など、栄誉ある数々の賞に輝いた。

村田英雄

福岡県出身。浪曲師の両親のもとに生まれ、幼少期から舞台に立つ。5歳で酒井雲に弟子入りし、13歳で真打に昇進、14歳で一座を率いた。戦後は浪曲師として活動するが、上京後に改名し、村田英雄として芸道を歩む。1958年、古賀政男に見出され、「無法松の一生」で歌手デビュー。浪曲の語りを生かした独自の歌唱で注目される。’61年、「王将」が大ヒットし、日本レコード大賞特別賞を受賞。三波春夫と並ぶ国民的スターとして人気を博す。以後「人生劇場」なども再評価され、演歌歌手として不動の地位を築いた。

北島三郎

1962年、「ブンガチャ節」で歌手デビューし、同年末に「なみだ船」で日本レコード大賞新人賞を受賞、演歌界に名乗りを上げる。’65年に「兄弟仁義」「帰ろかな」「函館の女」が相次いでヒットし、人気演歌歌手の地位を確立。映画『兄弟仁義』にも出演し、任侠演歌としてのキャリアを築いた。その後も「与作」「まつり」など数々の名曲を生み出し、紅白歌合戦には通算50回出場、13回トリ(大トリ)を務めるなど紅白史上最多出演記録を達成した。’72年に北島音楽事務所を設立し、以降は「原譲二」のペンネームで作詞・作曲・演出にも取り組むなど演歌の大御所として活動の幅を広げ、現在も第一線で活躍を続けている。

井沢八郎

中学卒業後に上京し、バンドマンとして活動しながら作曲家・大沢浄二に師事。1963年、東芝音楽工業から「男船」でレコードデビューし、30万枚を売り上げた。翌’64年の「 あゝ上野駅」は高度経済成長期の集団就職者の心情を描き大ヒットし、代表曲となった。この曲は上野駅の発車メロディにも採用されている。その後も「男傘」「北海の満月」などをヒットさせ、伸びやかなハイトーンの美声で長年演歌界で活躍した。晩年までショー・テレビ出演に取り組み、2007年に死去した。娘は歌手で女優の工藤夕貴。

一節太郎

“流しのギター弾き”として全国を巡り、作曲家・遠藤実の内弟子第1号として師事した。1963年、「浪曲子守唄」でレコードデビューを果たし、独特の歌唱法で薄幸な男の人生をしみじみと歌った同曲は発売後2年間で100万枚を突破、’99年までに200万枚を売り上げた。セルフスタイルの浪曲演歌として高い人気を博し、「出世子守唄」など“子守唄シリーズ”で世界観を確立。現在も第一線で活動を続け、男の情感を歌い続けている。

五木ひろし

1964年「コロムビア全国歌謡コンクール」で優勝しデビューを果たし、芸名を松山まさる、一条英一、三谷謙と改名するも苦戦した。’70年、『全日本歌謡選手権』で10週間勝ち抜きグランドチャンピオンとなり、’71年に「五木ひろし」として「よこはま・たそがれ」で再デビュー、大ヒットを記録した。以降、「夜空」「契り」「長良川艶歌」などヒットを重ね、紅白歌合戦には50回連続出場(歴代1位)し、日本レコード大賞の大賞や最優秀歌唱賞、金賞を歴代最多で受賞、コンサート動員数は延べ2,000万人以上にのぼる。福井県からは県民賞を受賞し、芸術選奨文部科学大臣賞、紫綬褒章、旭日小綬章も受章している。

千昌夫

17歳の時に作曲家・遠藤実に弟子入り。1965年に「君が好き」で歌手デビューした。翌’66年発売の「星影のワルツ」は、地道なリクエスト活動により’67年にミリオンセラーの大ヒットとなり、NHK紅白歌合戦に初出場を果たした。’77年にリリースされた「北国の春」は再び大ヒットを記録し、ミリオンセラーとなって日本レコード大賞ロングセラー賞を受賞、アジア各国でも広く親しまれた。 その後も「味噌汁の詩」「望郷酒場」「津軽平野」など数々の名曲を発表し、演歌界のレジェンドとして長年にわたり愛され続けている。

杉良太郎

1965年、日本コロムビアから「野郎笠」で歌手デビューした。翌’66年には俳優としてもデビューし、NHK時代劇『文五捕物絵図』で主演を務めて脚光を浴びた。その後『遠山の金さん』『右門捕物帖』『新五捕物帳』など時代劇を中心に1400本以上の作品で主演を続けた。歌手としては「すきま風」などのヒット曲を持ち、多才な活動を展開した。ま芸能活動とともに福祉活動にも長年取り組み、刑務所慰問や国際的な文化交流を通じて社会貢献を続け、法務省・厚労省・警察庁の特別監に委嘱されるなど公的にも評価されている。その功績により緑綬褒章、紫綬褒章、文化功労者など数々の表彰を受けている。

森進一

1965年、フジテレビ系『リズム歌合戦』で優勝し渡辺プロ入り。’66年6月に「女のためいき」でデビューし、この曲は35万枚を売り上げるヒットとなる。’68年には「盛り場ブルース」で第1回全日本有線放送大賞と日本有線大賞を受賞し、紅白歌合戦にも初出場を果たす。’69年の「港町ブルース」、’71年の「おふくろさん」、’74年の「襟裳岬」などが次々と大ヒットし、演歌界を代表する存在となる。紅白歌合戦には48回連続出場し、2021年には、歌手生活の功績が認められ旭日小綬章を受章した。

冠二郎

作詞家・三浦康照に師事し、1967年にビクターレコードより「命ひとつ」でデビューしたが、当初はヒットに恵まれなかった。’77年、テレビドラマ『海峡物語』主題歌の「旅の終りに」がミリオンセラーとなり、ようやく注目を集め、 その後’92年に「炎」で鮮烈なブレイクを果たし、“ネオ演歌”“アクション演歌”の旗手として若年層にも支持された。 さらに「酒場」「みれん酒」などのヒットで紅白歌合戦に3回出場、独自のキャラクターとステージ演出で幅広いファン層から愛された。

矢吹健

高校卒業後に上京し、作曲家・藤本卓也のもとで歌唱スタイルを磨いた。1968年に「あなたのブルース」でレコードデビュー。ハスキーでため息混じりの“ミスティーヴォイス”は強い個性を放ち、同曲で第10回日本レコード大賞新人賞(男性部門)、第1回日本有線大賞新人賞、第1回新宿音楽祭金賞を受賞し、ブレイクを果たした。その後も「真っ赤な夜のブルース」「蒸発のブルース」「うしろ姿」など数々のシングルを発表し、’70年代にかけて活躍。’80年代以降も自ら作詞作曲を手がけ、独自の音楽世界を追求したが、晩年は活動が限定的になり、2015年1月に逝去した(没年齢69歳)。

'60年代の演歌

戦後直後は「股旅もの」や「流れ者」的世界観から叙情的・抒情的な「哀愁の演歌」へ変化。’60年代は「ふるさと」「母」「人生の哀しみ」「別れ」などをテーマに、庶民の感情を歌うものが中心となった。三味線や尺八を中心にした伴奏に、浪曲的こぶしを抑えた歌唱法が導入され、美空ひばり、春日八郎、三橋美智也がその流れを牽引した。「函館の女」(’65・北島三郎)、「兄弟仁義」(’65)など、地方や人情をモチーフにしたご当地演歌も台頭し、北島三郎、村田英雄、三波春夫らが男の義理と人情の世界を力強く歌い上げた。和田弘とマヒナスターズ、ロス・インディオスなどの登場でムード歌謡も人気となり、都会的で艶のある「夜の演歌」も定着した。

平浩二

1967年に歌手を目指して上京し、’69年に「なぜ泣かす」でテイチクレコードよりデビュー。’70年には「女の意地」(西田佐知子との競作)がヒットし、’72年にリリースした「バス・ストップ」がオリコンで大ヒットを記録した。その後も「夜明け前」「冬の駅」などのヒット曲を重ね、歌唱力と甘い歌声で人気を博した。2015年に故郷・佐世保市の初代名誉観光大使に就任し、地元にも貢献。現在も精力的に音楽活動を続け、2021年にはくも膜下出血から奇跡的に復帰しステージに返り咲いた。

橋幸夫

1960年に高校1年生でビクターのオーディションに合格し、作曲家・吉田正に師事した上で「潮来笠」でデビュー。同曲は爆発的なヒットとなり、日本レコード大賞新人賞の第1回受賞者となった。以降、吉永小百合とのデュエット「いつでも夢を」、そして「霧氷」でレコード大賞を連続受賞し、舟木一夫・西郷輝彦とともに「御三家」と称される人気歌手となった。紅白歌合戦には通算19回出場し、映画・テレビ・舞台でも俳優としても活躍。2023年5月に歌手活動から引退を表明した後も芸能や社会貢献活動に意欲的に取り組んだ。

フランク永井

1955年「恋人よわれに帰れ」でデビュー。低音の魅力で“ムード歌謡”を開拓。「有楽町で逢いましょう」など都会的な歌が人気を博す。サラリーマン層にも愛され、夜の街に寄り添うような歌唱が支持された。晩年は脳梗塞で活動制限されるも、不屈の精神で復帰した。

水原弘

1959年、永六輔作詞による「黒い花びら」でデビュー、60万枚に迫る大ヒットとなり、新人ながら第1回日本レコード大賞を受賞する。甘いルックスと低音による大人のムード歌謡で女性人気を集め、アース製薬のCM出演で後世にも広く知られる存在に。’78年、41歳で急逝。短命に終わった天才型歌手として記憶される。

石原裕次郎

1956年、映画『太陽の季節』で役者デビュー。同年の映画『狂った果実』で主演を務めるとともに、同名のシングルで歌手デビューした。日活映画のスターとして絶大な人気を誇り、’60年代には大型スターとして確固たる地位を築く。歌手としても「銀座の恋の物語」「夜霧よ今夜も有難う」などが大ヒット。男の哀愁を漂わせる歌唱と独特の色気で、芸能界随一のカリスマとして、没後も命日には大々的な特番が組まれる。

小林旭

1956年に映画『飢える魂』で役者デビューし、’58年「女を忘れろ」で歌手デビューした。役者として石原裕次郎と並ぶ日活のスターとなり、「渡り鳥」シリーズなどで日活黄金時代を築く。歌手としてもデビュー曲は大ヒット、続く「ダイナマイトが百五十屯」もヒットし、”マイトガイ”と呼ばれ国民的人気者となる。美空ひばりとは事実婚の関係にあり、関係の解消後も、映画『仁義なき戦い』や’75年発売の『昔の名前で出ています』’79年『赤いトラクター』(’77年~ヤンマーCMソング)’85年『熱き心に』の大ヒットなど長年にわたり活躍した。

坂本九

高校時代に日劇「ウエスタン・カーニバル」で歌手デビューし、その後「ダニー飯田とパラダイスキング」で活動を始めた。1960年には東芝音楽工業へ移籍し「悲しき六十才」が初ヒットとなる。’61年10月発売の「上を向いて歩こう」は、海外で“SUKIYAKI”のタイトルで’63年に米ビルボードHot 100で3週連続1位を記録。日本語曲として唯一の快挙である。以後も「見上げてごらん夜の星を」「明日があるさ」など多数のヒットを生み、映画・テレビ・司会など多方面で活躍し、福祉活動にも尽力した。’85年、日航123便墜落事故で43歳で急逝したが、その歌声と笑顔は今も多くの人々に愛され続けている。

守屋浩

1957年、「スイング・ウエスト」のバンドボーイとして芸能界入りし、 ’58年、日劇ウエスタンカーニバルで正式に歌手デビュー。堀威夫のプロデュースで芸名を「守屋浩」とする。代表曲に「僕は泣いちっち」「有難や節」「大学かぞえうた」「星空に両手を」などがあり、これらは当時のロカビリーブームの中で人気を博す。「星空に両手を」は島倉千代子とのデュエットで、約70万枚を売りあげるヒットとなる。 ’76年、歌手・俳優としての主な活動を引退し、ホリプロ(当時堀プロダクション)の社員となり、「ホリプロタレントスカウトキャラバン」を発案・運営。榊原郁恵らアイドルを発掘した。

加山雄三

慶應義塾大学法学部卒業後、1960年に東宝と専属契約を結び、映画『男対男』で俳優デビュー。翌’61年、『大学の若大将』で主演し“若大将”シリーズが始まるとともに、『夜の太陽』で歌手デビュー。’65年には主題歌「君といつまでも」が350万枚を超える大ヒットとなり、日本のポピュラー歌謡界における代表的存在となる。以降、若大将シリーズの俳優としての活躍のみならず、自作曲家(ペンネーム “弾 厚作”)としても名を馳せ、多重録音の導入など音楽的にも先駆的に活動する。

佐川満男

1962年「夜がわかれる」でデビュー。甘いマスクと柔らかい歌声で’63年「今は幸せかい」がヒットし、端正な青春スターとして人気を集める。のちに俳優業にも進出し、誠実な人柄と安定した演技力でドラマなどにも多数出演。歌手としても地道に活動を続けている。

ジェリー藤尾

1962年「悲しき願い」でデビュー。日系カナダ人の出自を持つ俳優兼歌手。「遠くへ行きたい」が代表曲で、同名の長寿番組のテーマとしても有名に。穏やかな語り口と情緒ある歌声で多くのファンを獲得した。俳優業でも活躍し、多文化背景を持つ存在として記憶される。

菅原洋一

’62年にレコードデビューし、’65年発売の「知りたくないの」が’67年に大ヒット、一躍人気歌手となる。’68年に日本レコード大賞歌唱賞、’70年には「今日でお別れ」でレコード大賞を受賞した。「忘れな草をあなたに」などヒット曲も多く、海外の著名アーティストとも共演。丸顔から「ハンバーグ」という愛称がつき、司会など多方面でも活躍。’83年にはシルヴィアとの「アマン」がデュエットの名曲として支持を得た。

アイ・ジョージ

流しの歌手から出発し、1953年に黒田春雄名でデビューするが方向性の不一致でレコード会社を退社し、再び流しとして全国を回る。’59年に大阪の高級クラブ「アロー」で人気を得て専属歌手となり、同年にアイ・ジョージとして再デビュー。以後、『硝子のジョニー』『赤いグラス』などのヒットを放ち、’60~’71年に紅白へ12年連続出場した。カーネギー・ホール公演を果たすなど国際的舞台にも立った。

高石友也

1960年代後半から2020年代まで活動した日本フォーク界の草分け的存在で「受験生ブルース」で知られる。アメリカ民謡の日本語カバーから出発し、反戦フォークの担い手として注目され、のちにブルーグラスや民謡などへ幅広く展開した。多彩な楽器を操り、ザ・ナターシャー・セブンでの活動や「宵々山コンサート」を主宰するなど地域文化にも貢献。テレビ番組の旅企画でも親しまれた。

田辺靖雄

1963年「夜の太陽」でデビュー。スマートな容姿で“和製プレスリー”とも呼ばれ、青春歌謡を中心に活躍する。のちに九重佑三子との「夫婦デュエット」でも知られ、芸能界きってのおしどり夫婦として話題となる。2001年より日本歌手協会理事長としても活動し、歌謡界の発展に尽力。

舟木一夫

1963年6月「高校三年生」でデビュー。学園ソングの代名詞的存在として爆発的ヒットとなった。「修学旅行」「学園広場」など青春歌謡を多く歌い、“橋・舟木・西郷”の御三家の一角として時代を牽引。学ラン姿がトレードマーク。近年も精力的にコンサート活動を続け、シニア層の心をつかんでいる。

三田明

1963年「美しい十代」でデビュー。さわやかな笑顔と高音の澄んだ声で青春歌謡を彩った。「十七才のこの胸に」などヒットを重ね、女性ファンの支持を集めた。のちに俳優や司会業にも活動の幅を広げる。2020年代に入っても歌手活動を継続中で、長年のファンに支えられている。

飯田久彦

1963年「ルイジアナ・ママ」でデビュー、日劇ウエスタンカーニバル出身。明るい歌声とアメリカンスタイルでティーン層に人気を博した。のちに東芝EMIや徳間ジャパンの重役としてプロデューサーに転身し、HOUND DOGや渡辺美里らを育てた。歌手から業界のキーパーソンへと変貌した稀有な存在。

佐々木功

1964年「君の瞳を見つめて」でデビュー。ロカビリー調の歌手として活躍後、’70年代にはアニメソングの王者に。「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」など、雄大で熱い歌唱で“アニソンの帝王”と呼ばれる。俳優・声優としても活動し、現在も尚全国のアニソンイベントに精力的に出演する現役歌手。

西郷輝彦

1964年12月「君だけを」でデビュー。“橋・舟木・西郷”の御三家のひとり。デビュー曲でいきなり大ヒットし、清潔感あるルックスと明朗な歌声で一躍トップアイドルとなる。青春歌謡から演歌まで幅広く歌い、「星のフラメンコ」なども大ヒット。後年は俳優としても活躍、特に時代劇で存在感を示した。

布施明

1965年「君に涙とほほえみを」でデビュー。圧倒的な声量と歌唱力で、歌謡界にクラシックやミュージカルの要素を持ち込んだ。「シクラメンのかほり」「積木の部屋」など大ヒットを連発。紅白出場は20回以上。近年も音楽劇やオーケストラとの共演など精力的に活動しており、日本を代表する本格派歌手の一人。

美川憲一

1965年「だけどだけどだけど」でデビュー。’66年「柳ヶ瀬ブルース」で大ブレイク。独特のコブシと演出力でムード歌謡界を代表する存在となる。’70年代に一時低迷するも、’80年代に再ブレイクし、コロッケのものまねをきっかけに新たな人気を獲得。個性的なキャラクターとともに、歌手としても再評価された。

マイク眞木

1966年、日本のフォーク黎明期を代表するヒット曲「バラが咲いた」でデビュー。爽やかなメロディと平易な歌詞が広く愛され、フォークソングの普及に貢献した。俳優・司会者としても活動し、芸能一家としても知られる。温かみのある歌声とナチュラルな存在感で長く親しまれている。

内田裕也

1967年「恋のカクテル」デデビューした和製ロックのパイオニア。商業歌謡の枠に収まらず、ロックンロールの精神を貫いた異端の存在。映画プロデュースや政治発言でも話題となり、歌手としては「コミック雑誌なんかいらない」など実験的な作品が多く、“ロック界のアウトロー”として伝説的な存在となる。

山田太郎

1963年「清らかな青春」でデビュー。’65年発売の「新聞少年」がヒットし、お茶の間の人気者となる。歌手のほか役者としても活動し、時代劇を中心にドラマに多数出演。馬主としても有名で、日本馬主協会連合会会長、中山馬主協会会長などの要職も務める。

バーブ佐竹

1967年「女心の唄」でデビュー。独特のビブラートと情感たっぷりの歌唱でムード歌謡に新風を吹き込んだ。「女心の唄」は100万枚超の大ヒット。低音の美しさと哀愁を帯びたメロディで中高年層の支持を集めた。私生活でも波乱万丈だったが、その姿がまたファンの心を打った。

美樹克彦

1967年「花はおそかった」でデビュー。都会的な感性と繊細な歌声でデビュー曲は大ヒット。作詞作曲も手がけるマルチな才能で、自己プロデュース型歌手の先駆けとなった。のちに麻丘めぐみなどへの楽曲提供でも知られ、歌謡界の裏方としても貢献。自身の活動も継続中。

尾藤イサオ

1969年「悲しき願い」でデビュー。ブルースとロックの要素を日本の歌謡に融合させた先駆者で、熱唱型でダイナミックな歌唱が特徴。「あしたのジョー」の主題歌などでも知られ、アニメ主題歌やテレビ出演も多い。独自のスタイルを貫き、異色ながらも存在感ある歌手として活躍した。

城卓矢

1969年「骨まで愛して」でデビュー。デビュー曲は大ヒットし、ムード歌謡の名曲として定着した。低音で甘い声と大人の色気を感じさせる歌唱が魅力。’70年代以降は表舞台からやや退くが、昭和歌謡の名歌手として根強い人気を持ち続けた。

ピーター

1969年10月「夜と朝のあいだに」でデビュー。中性的な美貌と艶のある歌声で異彩を放ち、デビュー曲はオリコン1位を記録。俳優としての活動も多く、「新宿鮫」などで実力派として評価された。性別やジャンルを超えた唯一無二の存在として、LGBTQ+の先駆的なシンボルともいわれる。歌手としても独特の世界観で長く愛された。

皆川おさむ

3歳の頃から、自身の叔母が主宰する児童合唱団に所属し『ヤン坊マー坊天気予報』のCMソングなどを歌う。1969年、6歳の時、イタリアの動揺を日本語でカバーした「黒ネコのタンゴ」でデビューすると、オリコンのシングルチャート14週連続1位という大ヒットとなり、一躍国民的幼児歌手となる。その後は一時芸能活動から離れるも、大人になってから舞台俳優として復帰。童謡歌手としての評価も高く、子ども番組などでも活躍した。レコードは現在も懐メロ番組で紹介されることが多い。

上條恒彦

高校卒業後1958年に長野から上京、住み込み雑貨店員や新聞配達など様々なアルバイトをしながら「歌声喫茶」で歌唱力を磨いた。’69年「雨よ降れ」で歌手としてレコードデビュー。’71年、「六文銭」と共演した「出発の歌」がヒットし、同年世界歌謡祭グランプリ・歌唱賞を受賞。’72年にはNHK紅白歌合戦に初出場し、時代劇『木枯し紋次郎』の主題歌「だれかが風の中で」が広く知られるヒット曲となる。歌手活動と並行して俳優・舞台俳優としても活動。「3年B組金八先生」で教師役を務め、舞台では『ラ・マンチャの男』の牢名主役など長期間にわたる出演を継続。声優としてもアニメや映画に声を寄せた。

男性歌手・アイドル > 1970年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

沢田研二

1967年、ザ・タイガースのボーカルとしてデビュー。愛称の”ジュリー”は本人の発案で、女優のジュリー・アンドリュースが好きだったことから。タイガース解散後に萩原健一らと新グループPYGを結成後、’71年に「君をのせて」でソロデビュー。PYGは個々の活動に重心が移り形骸化した後に自然消滅した。’73年の「危険なふたり」がオリコン1位を獲得し、’75年「時の過ぎゆくままに」がTBSドラマ『悪魔のようなあいつ』の挿入歌となり大ヒットした。ビロードのような声で放たれる圧倒的な歌唱、中性的な美貌と色気、独特のファッションとパフォーマンスでジュリー全盛期が到来し「勝手にしやがれ」ほか続々とヒット曲を連発、数々の音楽大賞を総ナメにし歌謡界を席巻する。未だにその人気と存在感を超える歌手はいないとも言われる、昭和歌謡界のスーパースター。

萩原健一

1967年、ザ・テンプターズのボーカルとしてデビュー。ショーケンの愛称で親しまれ「神様お願い!」や「エメラルドの伝説」などのヒット曲で一躍人気を博す。テンプターズ解散後、’71年に沢田研二らとロックバンドPYGを結成するも、並行して松竹映画『約束』やテレビドラマ『太陽にほえろ!』などで俳優活動も開始、マカロニ刑事役で人気を確立する。その後はNHK大河ドラマや日本テレビ『傷だらけの天使』『前略おふくろ様』ほか多数の映画作品でも主役を務め、俳優としての才能が高く評価され、後進にも大きな影響を与える存在となる。音楽活動も継続し、’79年の「大阪で生まれた女」’87年の「愚か者よ」がヒット。2019年、68歳で永眠した。

'70年代の音楽番組

’70年代の代表的な音楽番組は『夜のヒットスタジオ』(フジTV系、’68-’90年)、『ザ・ベストテン』(TBS系、’78–’89年)、『ステージ101』(NHK、’70–’74年)『ベスト30歌謡曲』(テレビ朝日系、’72-’76年、’78-’79年)『シオノギ ミュージックフェア』(’64年-)。夜ヒットは生演奏とフルコーラスにこだわり、アイドルからニューミュージック、ロック、演歌、海外アーティストも出演。オープニングのリレー方式で歌がつながる「オープニングメドレー」が名物で22年にわたり放送され人気を集めた。また、ザ・ベストテンはオリコンに準じたランキング形式で毎週のヒット曲を発表。視聴者からの投票(ハガキ)が評価に反映されるスタイルでランクインした出演者がミラーの扉から登場し、最高視聴率は41.9%を記録するなど国民的番組となった。黒柳徹子が司会を務めた。

郷ひろみ

1972年、NHK大河ドラマ『新・平家物語』出演を経て「男の子女の子」で歌手デビュー。中性的な魅力と華やかなルックスで人気を博し、「小さな体験」「よろしく哀愁」などのヒットを連発。西城秀樹、野口五郎と共に「新御三家」と呼ばれ’70年代のトップアイドルとなる。’80年代には「お嫁サンバ」「哀愁のカサブランカ」などで新たなイメージを打ち出し、以降も時代ごとに変化を取り入れた活動を展開。’99年「GOLDFINGER ’99」の大ヒットで再ブレイクし、その後も「2億4千万の瞳」など代表曲と共に精力的なライブ活動を続ける。長年にわたり第一線で活躍し続ける国民的スター。

西城秀樹

1972年「恋する季節」で歌手デビューし、圧倒的な歌唱力と情熱的なパフォーマンスで注目される。その後「激しい恋」「傷だらけのローラ」など次々とヒットを飛ばし、野口五郎、郷ひろみと共に「新御三家」として’70年代の歌謡界をけん引。’79年の「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」は200万枚を売り上げる国民的ヒットとなり、明るく健康的なイメージで幅広い世代に支持された。『寺内貫太郎一家』などドラマ・舞台・CMでも広く活躍した。2003年以降、脳梗塞の後遺症と闘いながらも歌手活動を続け、懸命にステージに立つ姿は多くの人々に感動を与えた。2018年に惜しまれつつ逝去。その情熱と努力は今も語り継がれている。

野口五郎

1971年「博多みれん」で演歌歌手としてデビューするもヒットせず、同年「青いリンゴ」で再デビューし、アイドルとして人気を博す。’72年「めぐり逢う青春」、’73年「オレンジの雨」、’74年「甘い生活」など、筒美京平らの手による叙情的な歌謡曲でヒットを重ね、郷ひろみ・西城秀樹と共に「新御三家」と呼ばれ活躍する。’70年代後半は「私鉄沿線」「針葉樹」「むさし野詩人」など大人の雰囲気の作品でも評価を得た。’80年代以降は俳優業や音楽活動を並行しつつ作曲家としても活動。近年もコンサートやメディア出演を継続しており、長年にわたって多方面で活躍を続けている。

にしきのあきら

1970年、CBSソニーより「ソニー演歌の騎士」として歌手デビューし、デビュー曲「もう恋なのか」で日本レコード大賞・最優秀新人賞を受賞、紅白歌合戦にも初出場した。翌’71年には「空に太陽がある限り」がオリコン週間3位の大ヒットとなり、代表曲となった。’70年代前半から中期にかけて、抜群の歌唱力と精悍なルックスで人気を博し、トランペットの演奏やスポーツ万能ぶりも話題となる。’70年代後半からは映画『野良猫ロック ワイルド・ジャンボ』『戦国自衛隊』、ドラマ、バラエティと幅広く活躍し、『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』などで“スターにしきの”の愛称で再注目を浴びた。

子門真人

1970年代から多数の特撮・アニメ主題歌を歌ったシンガーで’80年代も音楽界で活躍を続けた。’71年の『仮面ライダー』の主題歌「レッツゴー!!ライダーキック」の大ヒットで注目を集め、その後も円谷プロ作品など多くの主題歌を担当。『ひらけ!ポンキッキ』で’75年に発表された「およげ!たいやきくん」はオリコン史上初の初登場1位の快挙とともにミリオンヒットとなり、国民的歌声として知られるようになった。アフロヘアと眼鏡の風貌やコミカルな楽曲でも人気を博し、子ども番組や主題歌を通じて幅広い層に親しまれたが、代表曲となる2曲はいずれもアルバイト料や買取で歌唱したもので、多額となったはずの歌唱印税は受け取っていないとされる。

尾崎紀世彦

1960年に「ヒロ・ハワイアンズ」でバンド活動を開始し、’67年からコーラス・グループ「ザ・ワンダース」で活躍。’70年8月に「別れの夜明け」でソロ歌手としてデビューするが、交通事故による入院で宣伝ができず苦戦。’71年3月リリースのセカンドシングル「また逢う日まで」が100万枚超の大ヒットを記録し、日本レコード大賞・日本歌謡大賞の大賞をダブル受賞。第22回NHK紅白歌合戦へも出場する。代表曲には「さよならをもう一度」や「雪が降る」などもあり、パワフルなバリトン歌唱と印象的なもみあげがトレードマーク。2012年5月30日に肝臓がんにより69歳で逝去、没後は特別功労賞や「大衆音楽の殿堂」入りを果たしている。

本郷直樹

1971年、『スターへばく進!!』という日本テレビのオーディション番組でグランドチャンピオンとなり、同年8月に「燃える恋人」で歌手デビュー。この曲で第13回日本レコード大賞新人賞を獲得し、“和製プレスリー”と呼ばれ人気を博した。以降は歌手活動と並行して俳優としても活躍し、ドラマ『アイちゃんが行く!』『特捜最前線』、映画『新・同棲時代―愛のくらし―』など多数に出演。’89年以降は演歌路線にイメージチェンジしつつ活動を続行。その後も困難な闘病生活を乗り越えながら芸能活動を継続し、2021年に心筋梗塞のため逝去した。

田中星児

1970年、NHKの音楽番組『ステージ101』のヤング101の一員として出演し、これが歌手としてのデビューのきっかけとなる。翌’71年より幼児番組『おかあさんといっしょ』の初代“うたのおにいさん”を務め、幼児番組界をけん引 。’76年、シングル「ビューティフル・サンデー」が大ヒットし、オリコン最高4位、紅白歌合戦初出場を果たす。以降も「北風小僧の寒太郎」などの楽曲で親しまれ、作曲家として「中山竜」のペンネームでNHK『みんなのうた』にも作品を提供し、幅広い世代に愛される存在となる。

伊丹幸雄

高校中退後、ザ・ワイルドワンズの付き人を経て1972年にCBSソニーから「青い麦」で歌手デビューし、オリコン22位を記録した。ワイルドワンズだった加瀬邦彦氏のプロデュースが功を奏し、当時は西城秀樹、田頭信幸とともに「新人三羽烏」と称された。以後「合言葉」「僕だけひとりぼっち」などシングルを発表し、ネオGSの旗手として活動。’80年代以降は俳優としても多くのドラマ・映画に出演し、バラエティ番組『オレたちひょうきん族』ではユニークなキャラクターも演じた。

丸山明宏(美輪明宏)

16歳でプロ歌手として活動を開始し、1957年、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」で「メケ・メケ」が大ヒットして一躍注目される歌手となった。’65年、シンガーソングライター的手法で制作・発表した「ヨイトマケの唄」が大きな話題となり、心に響く歌詞で再評価される。以降、俳優、演出家、声優、ナレーター、コメンテーターとしても活躍を広げ、文化人としての地位を築く。現在もテレビ・ラジオ番組や執筆、舞台など多岐にわたる活動を続け、唯一無二の存在として第一線に立ち続けている。

城みちる

1973年、中学3年でオーディション番組『スター誕生!』第7回チャンピオンに輝き、父の反対を押し切って芸能界入りした。’73年12月『イルカにのった少年』で東芝EMIから歌手デビュー、50万枚超のヒットとなり、日本レコード大賞新人賞を受賞。童顔で細身のルックスと確かな歌唱力で、「新新御三家」の一人と称されるほどの人気アイドルとなる。’77年、父との約束に従い10枚目のシングル発売後、20歳で歌手を引退し実家の電器店を継ぐため広島に戻る。

あおい輝彦

1962年、ジャニーズの創設メンバーとして芸能界入りしデビュー。’67年にグループ解散後はソロ歌手および俳優・声優へ転身。’68年にドラマ『おやじ太鼓』で俳優デビュー、’70年にはアニメ『あしたのジョー』で主人公・矢吹丈の声優を務めた。’71年シングル「二人の世界」がヒット、その後’76年の「あなただけを」がオリコン週間1位を6週連続獲得し紅白にも初出場した。俳優としては’88年から2000年まで『水戸黄門』で“助さん”役を12年間務め、幅広い世代に親しまれた。

あいざき進也

1973年、オーディション番組『スター・オン・ステージ あなたならOK!』でグランドチャンピオンに輝き、翌’74年1月「気になる17才」でデビュー。小柄な体型と中性的で甘い歌声、さらにバク転も披露する運動神経の良さから“元祖アクロバットアイドル”と称され、’70年代のアイドル全盛期に人気を博す。デビュー初期には「新新御三家」の一人として注目され、第1回FNS歌謡祭新人賞を受賞するなど華々しいスタートを切って活躍した。

中村雅俊

慶應義塾大学卒業後、1973年に文学座附属演劇研究所に入所し、’74年に日本テレビ系ドラマ『われら青春!』の主役に抜擢され俳優デビュー。挿入歌「ふれあい」で歌手デビューし、オリコンで10週連続1位を獲得するなどの大ヒットとなる。以降、俳優としてテレビドラマ34本を含む100本以上の主演作を持ち、映画や舞台にも出演。歌手としてもシングル55枚、アルバム41枚をリリースし、毎年全国コンサートツアーを開催。’82年には『第33回NHK紅白歌合戦』に初出場し、歌手としても人気を博す。

豊川誕

1975年4月「汚れなき悪戯」でデビュー。ジャニーズ事務所出身で、甘いルックスと歌声で人気を集めた。捨て子で、孤児院で育った時代を持つという生い立ちを隠さず、その背景を彷彿とさせる歌詞の2ndシングル「星めぐり」が10万枚を超えるヒットとなる。その後は歌手活動を経てプロボクサーやカーレーサー、ギフトショップの経営など多岐にわたるジャンルで活動、また2000年代に入ってからも歌手活動を行っている。

井上純一

1975年「恋人ならば」でレコードデビュー。デビュー時のキャッチフレーズは”ポストひろみ”だった。歌手としては目立つヒットはなかったものの、『ゆうひが丘の総理大臣』ほか多数のドラマ作品に出演し、お茶の間に馴染み深い俳優となった。

清水健太郎

TBSの人気番組『ぎんざNOW!』に出演し注目を集め、1976年11月「失恋レストラン」で歌手デビュー。同曲は翌年にかけて大ヒットし、’77年の新人賞を総ナメにした。以降は歌手と並行して俳優として活動し多数のドラマにも出演するも、薬物や交通事故などの不祥事も多く、表舞台から遠ざかった後、Vシネマで復活した。

太川陽介

1976年「陽だまりの中で」で歌手デビュー。’77年の「Lui-Lui」がヒットし、同年の新人賞を数々の音楽賞で受賞した。’79年にはNHKの人気音楽番組『レッツゴーヤング』の司会を務めるなどトーク力の高さでタレントとして多方面で活躍し、近年も『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』シリーズなどで親しまれる。配偶者は女優の藤吉久美子。

草川祐馬

1973年、よみうりテレビの視聴者参加番組で西城秀樹のモノマネで優勝しスカウトされ、’75年「若者時代」でレコードデビュー。歌手活動とともに俳優としてドラマ出演も多く、NHKの連続テレビ小説や『暴れん坊将軍』『必殺シリーズ』『水戸黄門』などの時代劇でも活躍する。

川崎麻世

西城秀樹の真似で出演したよみうりテレビの視聴者参加番組でグランドチャンピオンとなり、ジャニーズ事務所にスカウトされ、1976年「ラブ・ショック」でデビュー。ルックスの良さでブロマイドがヒットし、NHKの音楽番組『レッツゴーヤング』に”サンデーズ”の一員として起用され人気アイドルとなる。

森田健作

1975年「さらば涙と言おう」は青春ドラマ「おれは男だ!」の人気絶頂期にリリースされた主題歌で、爽やかな青春像の象徴としてヒット。歌手というよりは“青春スター”としての存在感が強く、その明朗なキャラクターが当時の若者に強く支持された。後に政治家としても活動。

湯原昌幸

1970年、ソロ歌手として「見知らぬ世界」でデビュー、翌年の「雨のバラード」が累計120万枚を売り上げる大ヒットへ。以降、マルチタレントとして司会や俳優、パネラー、レポーターとしても活躍。明快なトークと温かいキャラクターでお茶の間に親しまれた。2003年には「冬桜」がロングセラーとなり、第37回日本有線大賞・有線音楽優秀賞を受賞。以降も歌手活動を並行して継続する傍ら、講演やテレビ、地域イベントにも精力的に出演。荒木由美子との“おしどり夫婦”ぶりも知られる。

石橋正次

1970年、日活映画『非行少年 若者の砦』および『あしたのジョー』で俳優デビュー。同年、舞台俳優としての下地を固める。’72年に歌手として「夜明けの停車場」を発表しこの曲がヒットを記録。同年の第23回NHK紅白歌合戦に出場した。俳優としては『飛び出せ!青春』『アイアンキング』などのテレビドラマに多数出演し、不良少年役から刑事、時代劇、助演まで幅広く活躍。その後も舞台出演を続け、名バイプレーヤーとして多方面で活躍を続ける。

松崎しげる

1970年、シングル「8,760回のアイ・ラブ・ユー」でソロ歌手としてデビュー。当初はCMソング歌手として活動し、’72年の「黄色い麦わら帽子」がスマッシュヒットとなる。’76年にスペイン・マジョルカ音楽祭で「愛の微笑」が最優秀歌唱賞・第2位を獲得し、翌’77年に「愛のメモリー」としてリリースされ大ヒット。日本レコード大賞歌唱賞を受賞し、紅白にも初出場した。俳優・タレントとしても人気を獲得し、TBSの人気刑事ドラマ『噂の刑事トミーとマツ』の主演を務めた。その後も「ディナーショーキング」の異名にふさわしい精力的なライブ活動を続ける。

かまやつひろし

1958年よりロカビリー歌手として活動を始め、’60年に「殺し屋のテーマ/皆殺しの歌」でレコードデビュー。その後、’63年に「ザ・スパイダース」に加入し、作詞・作曲したデビュー曲「フリフリ」で人気の中心となる。’70年の同バンド解散後ソロへ転向し、’70年に独り録音による先駆的録音アルバム『ムッシュー』を発表。’75年には吉田拓郎作詞の「我が良き友よ」が大ヒットし世代を超えた支持を獲得した。以後もフォークやポップ、ジャズなど幅広いジャンルで活動を続け、メディアでも“ムッシュかまやつ”として親しまれた。

寺尾聰

1965年にGSバンド「ザ・サベージ」のベーシストとしてレコードデビューし、’68年に映画『黒部の太陽』で俳優デビュー。父は新劇界を代表する俳優・演出家の宇野重吉。その後は石原裕次郎率いる石原プロ所属の“石原軍団”としてドラマ『大都会』『西部警察』で刑事役を多く演じ、俳優としての存在感を確立。歌手としては’81年リリースのシングル「ルビーの指環」が大ヒットし、第23回日本レコード大賞をはじめ多くの賞を受賞し、アルバム『Reflections』は約164万枚の売上と記録的な成功を収めた。以後は音楽と俳優の両面で活躍し、唯一日本レコード大賞と日本アカデミー賞主演男優賞を同時に受賞したアーティストでもある。

細野晴臣

1969年、ロックバンド「エイプリル・フール」のベーシストとしてデビューし、’70年には大瀧詠一らと共に「はっぴいえんど」を結成、日本語ロックの基礎を築く。’73年よりソロ活動を開始し「ティン・パン・アレー」としても多彩な音楽表現を追求。’78年には坂本龍一、高橋幸宏とともにYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)を結成し、エレクトロニック音楽で世界的な人気を獲得。その後もソロ、プロデューサー、作曲家として活動し、ワールドミュージック、アンビエント、ゲーム音楽などジャンルの壁を超える多彩な展開を続けている。

小室等

多摩美術大学在学中の1963年に、ピーター・ポール&マリーに影響を受けたフォークグループ「PPMフォロワーズ」を結成しデビュー。その後’68年に「六文銭」を結成し、’71年には上條恒彦と共演した「出発の歌」で世界歌謡祭グランプリを受賞した。ソロでは’71年に「雨が空から降れば」でデビューし、’75年に井上陽水らとフォーライフ・レコードを設立、初代社長に就任する。自身の歌手活動に加え、テレビドラマや映画の音楽制作、ラジオパーソナリティ、コラム執筆など多岐にわたり活躍を続けている。。

大滝詠一

1969年「ヴァレンタイン・ブルー」(後のはっぴいえんど)に加入し、’70年にバンド・はっぴいえんどとしてデビューし日本語ロックを確立。’72年にソロ1stアルバム『大瀧詠一』を発表し、’74年には自身のレーベル「ナイアガラ・レーベル」を設立。’75年『Niagara Moon』をリリース。’78年の『Let’s Ondo Again』など斬新な企画も手がける。’81年、ソロ最大のヒット作『A LONG VACATION』が日本レコード大賞・最優秀アルバム賞を受賞、ミリオンセラーを記録し、日本のシティポップの金字塔となる。プロデューサー、作曲家としても後進を育成し、音楽文化に多大な影響を与え続けた。

南こうせつ

1970年にレコードデビューし、すぐにフォークグループ「かぐや姫」を結成。「神田川」「赤ちょうちん」「妹」などのヒットでミリオンセールスを連発し、’70年代フォークを代表する存在となった。解散後もソロとして「夏の少女」「夢一夜」など数々のヒットを生み、独自の語り口と音楽性で人気を博す。’75年には吉田拓郎と共に伝説的な野外オールナイト・コンサートを開催し、’76年には日本人ソロ歌手として初の武道館ワンマンも成功させた。さらに’80年代には「サマーピクニック」やチャリティ「広島ピースコンサート」など大型イベントも主導し、音楽を通じた社会的活動にも貢献した。

よしだたくろう

1970年6月、広島フォーク村のオムニバスに収録された「イメージの詩」でソロ歌手としてデビューし、翌年の全日本フォークジャンボリーでの「人間なんて」の歌唱が伝説となる。’72年「結婚しようよ」「旅の宿」が立て続けにヒットし、ミリオンセラーを記録。全国ツアーの先駆けとなり、音楽シーンに新たな潮流を生んだ。’75年には井上陽水らと共にフォーク系アーティスト主体のレーベル「フォーライフ・レコード」を設立し自主運営のモデルを確立。野外での大規模オールナイトライブ「つま恋コンサート」など革新的な活動で、シンガーソングライター文化の基礎を築いた。

岡林信康

1968年、「山谷ブルース」でレコード・デビュー。社会の底辺に生きる人々への視線を持つプロテスト・フォークを展開。「友よ」「手紙」などのメッセージ性の強い楽曲により“フォークの神様”と称される存在となった。’70年代初頭はギターのエレクトリック化やロックへの転換を模索し、バックバンドとしてHappy Endを起用する革新的な動きを見せた。その後は京都の山村に移住し、演歌や民謡のリズムも取り入れた独自の音楽性「エンヤトット」を確立。以降も精力的にライブ活動や音楽制作を継続している。

加藤和彦

1960年代後半、ザ・フォーク・クルセダーズのメンバーとして音楽活動を開始。’71年にはサディスティック・ミカ・バンドを結成し、日本のロックシーンに新風を吹き込んだ。その後はソロ活動や他アーティストへの楽曲提供、映画音楽の制作など、多方面で活躍。代表曲「あの素晴しい愛をもう一度」などを手掛け、日本の音楽シーンに多大な影響を与えた。彼の活動は音楽だけでなく、演劇や映画などの分野にも広がり、日本の音楽文化の発展に貢献した。

上條恒彦

東京・大森の雑貨店住み込みから新聞配達、うたごえ喫茶「灯」での歌唱など多彩な職を経て声を鍛え、1964年に労音勤務を機に歌手活動を始めた。’70年にNHK『ステージ101』へ出演し、翌年「六文銭」と共演した「出発の歌」でポピュラーソング・フェスティバルと世界歌謡祭のグランプリを受賞。’72年には紅白歌合戦初出場、「木枯し紋次郎」の主題歌「だれかが風の中で」が大ヒットした。俳優として『3年B組金八先生』で注目され、声優としても『リトル・マーメイド』のセバスチャン役などで知られる。

小椋佳

1967年に東大法学部を卒業し、日本勧業銀行に入行。銀行員として勤務しながら’71年に歌手デビューを果たす。’75年、布施明に提供した「シクラメンのかほり」が大ヒットし、作詞・作曲家としても注目される。銀行の理解を得て音楽活動を続け、’76年のNHKホール公演には11万通の応募が殺到、ライブ盤『遠ざかる風景』は大きな成功を収めた。その後、担当顧客だった資生堂の宣伝部長の依頼で資生堂CMソング「揺れるまなざし」などを生み出し、CM音楽の新時代を拓く。’93年に退職後は東大に再入学し、哲学修士号を取得。布施明、美空ひばり、中村雅俊ら多くの歌手に300曲以上を提供し、日本の叙情歌世界を確立した。

山本コウタロー

一橋大学在学中、フォークグループ「ソルティー・シュガー」を結成し、1970年に「走れコウタロー」を発表。この曲はコミカルな歌詞とキャッチーなメロディーで話題を呼び、同年の日本レコード大賞新人賞を受賞した。その後’74年には「山本コウタローとウィークエンド」を結成し、シングル「岬めぐり」をリリース。この曲も大ヒットし、彼の代表作となった。音楽活動にとどまらず、テレビ司会やラジオパーソナリティとしても活躍。また、平和や環境問題への関心から、広島でのチャリティコンサート「広島ピースコンサート」を企画・開催するなど、社会活動にも力を入れた。 2022年7月4日、脳内出血により73歳で死去。

泉谷しげる

1971年、ライブ盤『泉谷しげる登場』でフォークシンガーとしてデビューし、荒々しい歌声とぶっきらぼうなステージで注目を集める。’72年に発表した代表曲「春夏秋冬」が大ヒットし確固たる地位を築く。’75年には吉田拓郎、井上陽水、小室等と共にアーティスト主体のレーベル「フォーライフ・レコード」を設立し、業界に革新をもたらした。以降はシンガーソングライターとして活躍する一方、俳優や絵画、料理ライブ、社会貢献活動にも積極的に取り組み、多才な活動を続けている。

なぎら健壱

1970年、中津川・全日本フォークジャンボリーに飛び入り参加し注目を集め、’72年にアルバム『万年床』でデビュー。 ’74年には「悲惨な戦い」が話題となり、放送禁止ながらヒットを記録する。また、’75年12月に幼児向け番組『ひらけ!ポンキッキ』で発表され大ヒットした「およげ!たいやきくん」のB面、「いっぽんでもニンジン」も代表曲として知られる。以降はカントリーフォークを基調に、俳優、タレント、エッセイストとしてもマルチに活躍。バラエティやテレビ、ラジオ、執筆活動にも定評があり、下町文化への深い造詣を武器に“語り部”として支持されている。

井上陽水

1969年、「アンドレ・カンドレ」の名義で「カンドレ・マンドレ」でデビュー。’72年、本名の井上陽水名義で「人生が二度あれば」で再デビューし、同年発表のアルバム『断絶』収録の「傘がない」が若者の心をつかみ注目を集める。’73年以降、『氷の世界』『二色の独楽』などのアルバムがミリオンセールを達成し、日本の音楽シーンをアルバム中心へと導く重大な存在となった。その独自の世界観と卓越した作詞作曲・歌唱力により音楽界で確固たる地位を築き、’90年9月に東宝映画『少年時代』(監督・篠田正浩、原作・藤子不二雄Ⓐ)の主題歌として制作された「少年時代」は、CMや学校教材などにも採用されロングセラーの名作となる。2020年代に入ってもカバーやメディア使用が相次ぎ、世代を超えて愛され続けている。

あがた森魚

1969年、上京して明治大学に進学し音楽活動を開始。’71年、フォークグループ「はちみつぱい」と共に中津川フォークジャンボリーに出演し注目を集める。’72年、キングレコードのベルウッド・レコードからシングル「赤色エレジー」でメジャーデビュー。この曲は林静一の同名漫画にインスパイアされ、フォークロックと日本の大正浪漫を融合させた独自の世界観でヒットを記録。その後もアルバム『乙女の儚夢』『噫無情』『日本少年』などを発表し、’70年代の日本の音楽シーンにおいて重要な存在となる。

谷村新司

1971年、堀内孝雄、矢沢透と共にフォークグループ「アリス」を結成し、’72年にシングル「走っておいで恋人よ」でデビュー。’75年「今はもうだれも」、’77年「冬の稲妻」などのヒットによりグループは注目を集める。’78年にアリス解散後ソロ活動を開始し、’80年に発表した「昴(すばる)」が大ヒット。その後も「群青」「22歳」などのヒット曲を生み出し、シンガーソングライターとしての地位を確立。また、作詞家・作曲家としても活躍し、山口百恵の「いい日旅立ち」や加山雄三との共作「サライ」など多くのヒット曲を手掛けた。2023年、74歳で逝去するまでアジア各国での活動も積極的に行い、国際的な音楽交流にも貢献した。

矢沢永吉

1972年、ロックバンド「キャロル」のボーカルとしてデビューし、若者を中心に熱狂的な支持を得る。’75年キャロル解散後ソロ活動を開始。9月21日、シングル「アイ・ラヴ・ユー、OK」、アルバム「I LOVE YOU,OK」でソロデビューを果たす。初期のライブツアーではファンの反発に直面しつつも着実に支持を広げ、’77年には日本武道館で初の単独ライブを成功させる。以降、精力的なライブ活動を展開し、オリコンアルバムランキングベスト10入り最多記録(51作)を保持するなど、ロック界のカリスマとして君臨し続けている。

ばんばひろふみ

1971年、高山厳・今井弘志とフォークグループ「バンバン」を結成。「いちご白書をもう一度」(’75年、荒井由実作詞作曲)がミリオンセラーとなり一気に脚光を浴びる。バンバン解散後の’78年ソロ活動へ転身し、「SACHIKO」(’79年)はヒット曲として知られる。以降、深夜ラジオ番組「ヤングタウン」「セイヤング」で人気パーソナリティーとして活躍。俳優としてもNHK連続テレビ小説『わかば』や『水戸黄門』などに出演し、多彩な活動を続けている。

さだまさし

1972年、吉田政美とフォークデュオ「グレープ」を結成、’73年『グレープ』として「精霊流し」でメジャー・デビュー。「精霊流し」は1974年にオリコン2位を記録するヒットとなる。’76年の解散後、’77年にソロアルバム『帰去来』を発表しソロ歌手として本格始動。’77〜’80年代には「雨やどり」「案山子」「関白宣言」など数々の代表曲を世に送り出し、トップシンガーとしての地位を確立する。温かな語り口と独自の世界観で全国を熱くし、ソロコンサートの通算公演回数は4,400回を超える日本記録を誇る。作家や俳優、小説家としても多彩に活動し、現在も文化的影響が非常に大きい人物。

南佳孝

1972年、『リブ・ヤング!』シンガーソングライターコンテストで3位入賞し、’73年9月、松本隆プロデュースによるアルバム『摩天楼のヒロイン』でデビュー。洗練された都会派シティポップの旗手として注目される。’76年の移籍後は全曲作詞作曲のアルバム『忘れられた夏』を発表しソングライターとしての才能を発揮。’79年には「モンロー・ウォーク」がヒットし、郷ひろみによるカバー(「セクシー・ユー」)でも話題に。’81年に映画主題歌「スローなブギにしてくれ」で再び注目を集める。以降、楽曲提供、プロデュース、CM・ナレーション、ラテンやジャズ、ボサノヴァへの展開など、多彩な音楽活動を現在も続けている。

上田正樹

1972年12月「金色の太陽が燃える朝に」でデビュー。’74年に「上田正樹とサウストゥサウス」を結成。’75年に「この熱い魂を伝えたいんや」を発表し注目を浴びた。その後ソロ活動を開始し、’83年には「悲しい色やね」がシングルチャート1位となるなど、数々のヒットを飛ばした。また、Ray CharlesやB.B. King、Junior Wellsなどのブルースアーティストと共演し、Tower of PowerやWar、Ike & Tina、Neville BrothersなどのR&Bバンドとも共演を果たした。2001年にはインドネシアの歌姫REZAとデュエットし「Forever Peace」が17週間連続1位を獲得するなど、アジアでも高い評価を得ている。現在も年間100本以上のライブをこなし、アルバムも毎年コンスタントに発表している。

タケカワユキヒデ

東京外国語大学在学中の1975年、全曲英詞のアルバム『走り去るロマン』でソロアーティストとしてデビュー。翌’76年、ミッキー吉野らと共にバンド「ゴダイゴ」を結成し、作曲とボーカルを担当。「ガンダーラ」「モンキー・マジック」「銀河鉄道999」「ビューティフル・ネーム」など数々のヒット曲を生み出し、グループの人気を牽引。’85年のゴダイゴ活動休止後はソロ活動を再開し、他のアーティストへの楽曲提供やプロデュースを手掛けるなど幅広い音楽活動を展開。また、テレビやラジオの出演、講演活動など、多方面で活躍している。近年では、三女・武川基らと「T’s COMPANY」を結成し、親子での音楽活動も行っている。

浜田省吾

1972年、広島時代の音楽仲間と共にロックバンド「愛奴(AIDO)」を結成し、’75年にドラマーとしてプロデビュー
するも、シンガーソングライターとしての道を志し、’76年にソロデビューを果たす。シングル「路地裏の少年」とアルバム『生まれたところを遠く離れて』でソロ活動を開始し、その後、毎年コンスタントにシングルとアルバムをリリース 。’82年には自身のツアーを“ON THE ROAD”と名付け、数多くのツアーや大規模野外コンサートを成功させ、’98年からは4年がかりで世紀をまたぐ全196公演・延べ動員数約60万人という他に類を見ないロングツアーを敢行するなど、常に変わらないスタンスで活動を続けている。代表曲は「悲しみは雪のように」(’81年)や「もうひとつの土曜日」(’85年)ほか。

桑名正博

1972年、ロックバンド「ファニー・カンパニー」を結成し「スウィートホーム大阪」でデビュー。’74年の解散後、’75年よりソロ活動を開始し、「哀愁トゥナイト」「サード・レディー」などを発表。’79年のカネボウのCMソング「セクシャルバイオレットNo.1」は大ヒットし、彼の代表作となった。’80年、当時人気を博していた歌手のアン・ルイスと結婚し愛息に恵まれるも’84年に離婚。その後は家業の廻船問屋を継ぐため故郷の大阪に戻り、事業を営むなどした。2012年10月、心不全により59歳で逝去。晩年は社会貢献活動にも熱心に取り組んでいた。

山下達郎

1975年、シュガー・ベイブとしてシングル「DOWNTOWN」とアルバム『SONGS』でデビュー。その後バンド活動を経て’76年にソロ活動を開始。’80年のシングル「RIDE ON TIME」が大ヒットし、広く知られるようになった。’83年のアルバム『MELODIES』に収録された「クリスマス・イブ」は、’89年にオリコンチャートで1位を記録し、30年以上にわたりチャートインし続けるなど、日本のクリスマスソングの定番となった。また、妻である竹内まりやの全作品のアレンジやプロデュースを手掛けるなど、音楽プロデューサーとしても活躍している。

因幡晃

秋田県出身。高校卒業後、父と同じく鉱山技師として働く傍ら作曲を始め、1975年に「わかって下さい」で第10回ヤマハ・ポピュラーソングコンテスト最優秀曲賞を受賞し、同年の第6回世界歌謡祭でも入賞を果たす。この成果を契機に’76年にディスコメイトレコードから同曲でデビューを果たす。「わかって下さい」は長期間にわたりベストテン入りとなった。その後エピック・ソニー、バップ、プラッツ、日本コロムビアなどのレコード会社を経て、2014年には杉田二郎、堀内孝雄、ばんばひろふみ、高山厳と共にスーパーユニット「ブラザーズ5」を結成、ソロ活動と並行してライブ活動を行っている。

高中正義

1971年、高校在学中にグループ「フライド・エッグ」へベーシストとして参加したのがプロ活動のきっかけ。’72年にギタリストとして「サディスティック・ミカ・バンド」に加入し本格的に活動を始める。’76年、ソロ・デビュー・アルバム『Seychelles』を発表し、トロピカルでメロディアスなギター・インスト曲を得意とするスタイルを確立
。’79年の『Jolly Jive』収録「Blue Lagoon」で人気が爆発し、’81年にはコンセプトアルバム『虹伝説』で日本レコード大賞企画賞を受賞。’82年『Saudade』はオリコン・アルバムチャート1位を記録するなど、インスト・フュージョン界の先駆者として第一線で活躍を続ける。

来生たかお

1974年に作曲家としてデビューし、’76年10月には「浅い夢」でシンガーソングライターとしてソロ歌手デビューを果たす。’81年に自身が歌った「夢の途中」がヒットし、薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」主題歌のセルフカバーとしても知られる。シンガー活動と並行し作曲家としても活躍し、大橋純子「シルエット・ロマンス」、中森明菜「セカンド・ラブ」「スローモーション」、しばたはつみ「マイ・ラグジュアリー・ナイト」など多数のヒット曲を提供した。現在まで約400曲を手掛けるシンガーソングライターとして精力的に活動中。

やしきたかじん

1976年、クニ河内プロデュースのアルバム『TAKAJIN』とシングル「ゆめいらんかね」でメジャー・デビュー。’81年にはアニメ映画『機動戦士ガンダム』テーマ曲「砂の十字架」を歌い注目を集める。’82年に大阪へ戻り、以後は関西を拠点に活動。代表曲に「やっぱ好きやねん」(’86)、「あんた」(’84)、「東京」(’93)などがあり、大阪愛を込めた歌詞と情熱的な語り口で、関西で絶大な人気を誇った。テレビ司会やラジオパーソナリティとしても活躍し、関西ローカルの顔として愛された。2014年1月、食道がんで逝去した。

岸田智史

1976年、“岸田智史”名義で「蒼い旅」で歌手デビュー(作詞・谷村新司、作曲・岸田智史)。続く’79年、自身の出演ドラマ『愛と喝采と』の挿入歌だった「きみの朝」が大ヒット(オリコン1位、年間15位)し、代表曲となる。同年発表のアルバム『モーニング』も成功し歌手として確固たる地位を確立。俳優としても『1年B組新八先生』や『渡る世間は鬼ばかり』などに出演し活動を広げ、ミュージカルやナレーターなど多方面でも活躍。

松山千春

1975年「全国フォーク音楽祭」北海道大会で落選したものの制作スタッフに才能を見出され、’76年に北海道のラジオ番組で『千春のひとりうた』としてメディアデビューを果たし、’77年1月、シングル「旅立ち/初恋」でメジャーデビュー。続く’78年の「季節の中で」が大ヒットし一気に全国区のスターとなる。以降、「大空と大地の中で」「長い夜」「君を忘れない」など数多くの代表曲を生み、フォークシンガーとして長年にわたり第一線を走り続けている。

長渕剛

1977年、ポプコン入賞曲「雨の嵐山」でビクターからデビューするもしばらく低迷し一時帰郷。’78年、シングル「巡恋歌」で本格デビュー、’80年、シングル「順子」で初のオリコン1位を獲得し、その後「勇次」「ろくなもんじゃねぇ」「乾杯」「とんぼ」など数々のヒット曲を連発。俳優としてもTBS系ドラマ『家族ゲーム』『とんぼ』ほか、映画『オルゴール』『英二』などで主演を務め幅広く活躍する。

原田真二

1976年、高校2年生でフォーライフ新人オーディションに合格し、’77年10月、18歳で「てぃーんず ぶるーす」で拓郎プロデュースによる衝撃のデビューを果たす。その後「キャンディ」「シャドー・ボクサー」と3ヶ月連続リリースし全てがオリコン同時トップ20入りの快挙を成し遂げる。’78年2月には1stアルバム『Feel Happy』が初登場1位、4週連続でチャート首位を獲得。その後もシンガーソングライターとして楽曲提供、プロデュース、チャリティ活動など多岐にわたる活動を展開。音楽的なセンスとメディア戦略で、’70年代後半のJ-POPを象徴する存在となった。

さとう宗幸

1978年5月、ラジオ番組でのリスナー投稿をもとに作曲した「青葉城恋唄」でメジャーデビュー。曲は東北・仙台の情景を描いた叙情歌として大ヒットし、当年の新人賞を多数受賞し紅白にも初出場。「地方発の歌」として全国的な注目を集めた。以降は俳優としても活躍し、’81年には『2年B組仙八先生』主演、’87年にはNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』に出演。司会者やローカルタレントとしても長く親しまれている。

財津和夫

1972年、グループサウンズ「チューリップ」のリーダー兼ボーカルとしてデビューしグループの中心メンバーとして活躍、「心の旅」「サボテンの花」などのヒットを放つ。’70年代後半ソロでの活動も開始し、’78年にソロシングル「二人だけの夜」をリリース。2ndシングルの「Wake Up」はSEIKOのCMソングに起用されヒットを収めた。同時に作曲家としても活動し、松田聖子などに楽曲を提供。シンガーソングライター兼ヒットメーカーとして音楽界での地位を確立する。以降も作詞・作曲家として多くのアーティストに楽曲を提供し、音楽シーンに多大な影響を与え続けている。ソロ活動とともにチューリップもメンバー交代を重ねながら活動を続け、’89年に解散した。

坂本龍一

東京芸術大学で作曲と民族音楽学を学び、1970年代からスタジオミュージシャンとして活動を開始。’78年に細野晴臣、高橋幸宏とともにテクノポップグループ「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」を結成し、世界的な成功を収める。グループの活動と並行してソロアーティストとしても活躍し、映画『戦場のメリークリスマス』の音楽で’87年にアカデミー作曲賞を受賞。その後も映画音楽やアルバム制作を通じ、ジャンルを超えた音楽活動を展開し続けた。2023年3月28日、71歳で逝去。その多彩な音楽性と国際的な影響力で、世界中の音楽シーンに多大な貢献をした。

円広志

大学生だった時に結成したロックバンド「ZOOM」でボーカルを担当。1974年、ヤマハ主催のロックフェスティバル「大阪8・8ロックデイ」で入賞し一躍関西で人気のバンドとなる。当時バンドのローディーには後に世良公則&ツイストで大人気となる世良公則がいた。「ZOOM」は’77年に解散し、’78年に円個人でヤマハのポプコンに出場する機会を得、自作の「夢想花」でグランプリを受賞。同じくヤマハ主催の『第9回世界歌謡祭』でもグランプリを獲得し、シングル第一弾となった同曲は80万枚の大ヒットとなる。その後は本名の篠原義彦名で作曲家としても活動、森昌子の「越冬つばめ」などがある。

ポプコンイメージ

'70年代の音楽イベント

1970年代の音楽シーンに大きな影響を与えたのが、ヤマハ音楽振興会が主催した「ヤマハポピュラーソングコンテスト(通称:ポプコン)だった。’69年から’86年まで開催されたフォーク、ポップス、ロックのオリジナル楽曲コンテストで、新人ミュージシャンの登竜門として大きな役割を果たし、中島みゆき「時代」、クリスタルキング「大都会」など多数のアーティストや名曲が生まれた。’70年代はシンガーソングライター系が特に注目を浴び、八神純子やチャゲ&飛鳥など若き才能が数多く巣立っていった。

野村将希

1970年6月、シングル「一度だけなら」で歌手デビュー。新人賞複数受賞とともに、第21回NHK紅白歌合戦に初出場し、いきなり注目を浴びる。その後アメリカで音楽留学を経て帰国。’82年、芸名を野村将希に改名し、演歌歌手として活動を継続。俳優としても活躍し、’87年からTBSドラマ『水戸黄門』で“飛猿”役としてレギュラー出演し幅広い認知を獲得する。以降、歌手兼役者として長く活動を続け、現在も精力的に舞台やテレビに出演している。長男はプロサッカー選手の野村政孝、次男は俳優の野村祐希。

五木ひろし

1964年、16歳で「コロムビア全国歌謡コンクール」に優勝し、上京して作曲家・上原げんとの内弟子となる。’65年、松山まさるの芸名で「新宿駅から/信濃路の果て」でデビューするがヒットには至らず。その後も芸名を改めながら活動するも成功には結びつかなかった。転機となったのは’70年、テレビ番組『全日本歌謡選手権』への出場。10週連続勝ち抜きでグランドチャンピオンとなり、ヒットメーカーの作詞家・山口洋子と作曲家・平尾昌晃のコンビによる「よこはま・たそがれ」で再デビューを果たし、大ヒットを記録。以降、演歌界のトップスターとしてヒット曲を飛ばしながら活躍を続ける。

真木ひでと

1960年代にグループサウンズ「オックス」のヴォーカルとして野口ヒデト名で活動。オックスは「ガールフレンド」「スワンの涙」などのヒット曲で人気となり、野口ヒデトは沢田研二や萩原健一とともにGSブームを牽引する存在となる。オックス解散後は芸名を真木ひでとに改め演歌歌手としてソロデビューし、テレビやラジオ出演の活動を続けた。GS時代の経験を生かした舞台パフォーマンスと演歌の表現力を融合させ、幅広いファン層に支持された。GSと演歌の両方で活躍した希少な存在として知られる。

三善英史

渋谷区・円山町で芸者の息子として誕生。整った容姿から渋谷でスカウトされ、1972年、演歌歌手として「雨」でデビュー。同曲は大ヒットし、日本レコード大賞・新人賞ほか数々の新人賞を受賞した。デビュー翌年より3年連続でNHK紅白歌合戦に出場し演歌歌手として活躍。ユニチャームのCMに女装して出演するなど、ユニークな存在感でも注目された。2006年「夢グループ」の所属となり、現在も歌手活動を続けている。

中条きよし

1968年に芸名「高波晃」として歌手デビューを果たす。その後「渥美健」に改名して再デビューしたが成功には至らず、’73年にオーディション番組『全日本歌謡選手権』で10週連続勝ち抜きグランドチャンピオンとなったことを契機に、’74年に「中条きよし」という芸名で3度目のデビューを果たす。デビュー曲「うそ」は150万枚以上の大ヒットとなり、第16回日本レコード大賞大衆賞を受賞。以後、「うすなさけ」「理由」などのヒットを経て、演歌界の主要な存在として活躍を続けた。2022年、参議院議員となり芸能活動を終了した。

細川たかし

1975年4月シングル「心のこり」で歌手デビューし、第17回日本レコード大賞最優秀新人賞など数々の新人賞を受賞し、一躍注目される演歌歌手となる。’82年「北酒場」、’83年に「矢切の渡し」で日本レコード大賞を連続受賞、’84年には「浪花節だよ人生は」で史上初の三冠(歌唱賞)を達成し、演歌界の頂点に君臨した。以降も「望郷じょんから」「さだめ川」「北国へ」などヒット曲を連発し、NHK紅白歌合戦への出場を続けた。民謡で鍛えた圧倒的な声量と表現力、幅広いメディアでの活躍によって、演歌を代表する大御所歌手として長年にわたり支持されている。

新沼謙治

日本テレビ系オーディション番組「スター誕生!」から1976年2月1日に「おもいで岬」でデビュー。デビュー2作目「嫁に来ないか」が大ヒットし、第18回日本レコード大賞新人賞を獲得、NHK紅白歌合戦にも初出場を果たす。以後、「ヘッドライト」「酒とふたりづれ」「津軽恋女」など数多くのヒット曲を生み、紅白には通算13回出演した。歌手活動のみならず、映画『二百三高地』やドラマ『私鉄沿線97分署』『炎立つ』などへの出演も果たし、俳優としても活動。

角川博

クラブ歌手として広島や博多で歌っていたところをスカウトされ、1976年4月「涙ぐらし」で歌手デビュー。デビュー直後に日本レコード大賞新人賞や日本有線大賞新人賞を獲得し、一躍注目を集めた 。’78年には「許してください」でNHK紅白歌合戦に初出場を果たし、以後合計3回出場した。ものまねが得意で、美空ひばりや三波春夫、森進一など幅広いレパートリーを持ち、テレビのバラエティ番組にも多く出演してタレントとしても活躍。近年は自身の事務所を設立し、音楽・タレント活動を継続している。

山本譲二

1974年に芸名「伊達春樹」でシングル「夜霧のあなた」で歌手としてデビューしたが、当初はヒットに至らなかった。その後、北島三郎の付き人となり修業を重ねた後、「そばにおいでよ」「北ものがたり」を本名の山本譲二名でリリース、演歌歌手としての基盤を築く。’80年に発表した「みちのくひとり旅」が約10か月かけて大ヒットし、ミリオンセールスを記録、’81年末の日本レコード大賞ロングセラー賞とNHK紅白歌合戦初出場を果たした。以後も「奥州路」「海鳴り」「夢街道」などで数々の賞を受賞し、演歌界を代表する歌手として長年にわたり活躍を続けている。

渥美二郎

高校を中退後、地元の北千住で”演歌師”として流しの歌手活動を行った後、1976年10月、「可愛いおまえ」でレコードデビューした。 ’78年2月発売の「夢追い酒」は約250万枚の大ヒットとなり、彼の代表曲として演歌界に確固たる地位を築く。以後、「忘れてほしい」「他人酒」「釜山港へ帰れ」など多数のヒット曲を発表し、紅白歌合戦出場やロングセラー賞受賞を果たす。その後も演歌師としての原点を忘れず、ギター演奏を取り入れたステージやチャリティ活動等、現在に至るまで精力的に活動を続けている。

吉幾三

1973年3月、「山岡英二」としてヤンマーディーゼルのコマーシャルソング「恋人は君ひとり」で歌手デビューするも成功に至らず。’77年11月「吉幾三」と改名し、自作曲「俺はぜったい!プレスリー」でフォーク歌手として再デビューし大きな注目を浴びる。’84年には千昌夫に提供した「津軽平野」がヒットし、同年11月には「俺ら東京さ行ぐだ」でさらなるブレイクを果たす。’86年発売の「雪國」は紅白出場につながる大ヒットとなり、演歌歌手としての確固たる地位を築いた。

佳山明生

1970年より作曲家・古賀政男を師事し、’77年12月にシングル「氷雨」で歌手デビュー。芸名の佳山明生は、美輪明宏から名づけられた。「氷雨」は発売当初は売れ行きが振るわなかったが、有線放送での地道なリクエストを経て再々々発売された’82年7月盤がブレイクし、’83年には旭川有線大賞・全日本有線放送大賞グランプリを受賞、同年の日本レコード大賞ロングセラー賞も受賞した。その後は出身地の「函館観光大使」に就任するなど、地元にも貢献しながら演歌界で独自の存在感を築いている。

男性歌手・アイドル > 1980年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

田原俊彦

1979年、TBSドラマ『3年B組金八先生』で俳優デビュー。問題児・沢村正治役で注目を集めた。’80年6月「哀愁でいと」で歌手デビュー、洋楽のカバーながらアイドル的な人気を得て大ヒット。以降「ハッとして!Good」「恋=Do!」など多くのヒット曲を連発し、’80年代を代表するトップアイドルに。明るくキレのあるダンスとキャッチーな楽曲で人気を博し『ザ・ベストテン』『夜のヒットスタジオ』などの音楽番組にも多数出演。俳優としても主演ドラマを多数持ち、マルチに活躍した。

近藤真彦

1979年、『3年B組金八先生』でドラマデビュー。性格に難のある生徒・星野清を演じ注目を集めた。’80年12月「スニーカーぶる~す」で歌手デビューしオリコン初登場1位を記録。以降「ギンギラギンにさりげなく」「ハイティーン・ブギ」など多くのヒット曲を放ち、たのきんトリオの一員として一世を風靡した。ソロアイドルとしても絶大な人気を誇り、日本レコード大賞を受賞するなど歌手として高い評価を得た。俳優・レーサーとしても幅広く活躍。

沖田浩之

1980年、TBSドラマ『3年B組金八先生』(第2シリーズ)で不良生徒・松浦悟役としてドラマデビュー。
’81年3月、筒美京平作曲・阿木燿子作詞の「E気持」で歌手デビューし、オリコン最高位8位、13週のチャートインを記録するヒットとなる。以降、「半熟期」「はみだしチャンピオン」「俺をよろしく」など計13枚のシングルと4枚のアルバムをリリース。原宿・竹の子族出身の異色アイドルとして人気を博し、ミュージカルやドラマで俳優としても活躍した。’99年没。

堤大二郎

1980年、テレビ東京系『ぼくら野球探偵団』(主演・星空天馬役)で俳優デビュー。’81年4月、シングル「燃えてパッション」で歌手デビュー。NHK『レッツ・ゴー・ヤング』の男性アイドルユニット「サンデーズ」の一員としても活動し人気を博す。その後は数枚のシングルをリリースし、’84年には映画『零戦燃ゆ』で映画デビュー 。以後は俳優業に専念し、大河ドラマや時代劇を中心に多数出演、『太平記』『水戸黄門』など、堅実な俳優として幅広く活躍している。

ひかる一平

1981年、TBSドラマ『2年B組仙八先生』で俳優デビューし、好青年役で人気を集める。同年4月、シングル「青空オンリー・ユー」で歌手デビュー。甘いマスクと親しみやすいキャラクターで注目され、たのきんトリオに続くアイドルとして活躍。続く「君にクラクラ」「バレンタインデー・キッスじゃなく」など数枚のシングルをリリース。音楽番組やドラマにも出演を重ねたが、後年は俳優業に比重を移し、舞台やテレビでの活動を中心にキャリアを継続している。

竹本孝之

1981年、TBSドラマ『2年B組仙八先生』で俳優デビュー。明朗なキャラクターで注目され、同年6月に「てれてZin Zin」で歌手デビュー。フジ系『君こそスターだ!』出身で、「とっておきの君」「サヨナラ模様」などを次々とリリース。’82年にはNHK紅白歌合戦に初出場を果たす。’80年代中盤以降は音楽活動を縮小し俳優業に軸足を移すが、’90年代には農業と音楽活動を両立する“歌う農業人”として再び注目を集め、現在もライブや舞台などで地道な活動を続けている。

新田純一

1981年、TBSドラマ『2年B組仙八先生』で俳優デビュー。アイドル性の高いルックスで注目を集め、翌’82年2月に「Hop・Step・愛」で歌手デビュー。明るく親しみやすいキャラクターで人気を得、「君をさがして」「想い出パズル」などのシングルを発表。バラエティ番組やドラマでも幅広く活躍したが、’80年代後半以降は歌手活動が次第に減少。以後は舞台や地方営業、バンド活動などを中心に活動を続け、2020年代もライブを行うなど、根強いファンに支えられて現役を貫いている。

本田恭章

1981年、TBSドラマ『2年B組仙八先生』で俳優デビュー。’82年5月、「0909させて」で歌手デビュー。その後「ジュテーム・スキャンダル」「☆BOY」「サヨナラのSEXY BELL」などのシングルをリリースし、アイドル歌手としての地位を確立。’83年には作曲家・玉置浩二との共作を果たし、音楽性の幅を広げる。’84年にはシングル「SHAKE&SHAKEパラダイス」をリリースし、同年11月には日本武道館でのライブを成功させるなどアイドル歌手として活動。その後音楽活動を縮小し俳優業に専念。テレビドラマや舞台などで俳優としての地位を確立した。

風見慎吾

1982年、TBS『欽ちゃんの週刊欽曜日』でタレントデビュー。’83年5月「僕笑っちゃいます」で歌手デビューを果たす。作曲は吉田拓郎が担当し、オリコン週間ランキングでは最高6位を記録、33万枚以上の売上を記録するヒットとなった。その後もアイドル歌手として活動。「涙のtake a chance」では当時最先端だったブレイクダンスを取り入れ、ダンスパフォーマンスでも注目を浴びた。劇団「劇男一世風靡」の立ち上メンバーとしても知られる。

渡辺徹

1981年ドラマ『太陽にほえろ!』で新人刑事「ラガー」を演じ俳優デビュー。スマートなルックスと存在感でお茶の間の人気を獲得し、’82年、EPICソニーよりシングル「彼〈ライバル〉」で歌手デビュー。続く2nd「約束」はグリコ「アーモンドチョコレート」のCMソングに採用され、累計50万枚以上の大ヒットを記録し代表曲となる。以降、映画や舞台へも活動を広げ、’83年には映画『夜明けのランナー』で銀幕デビュー。文学座座員として数々の舞台に出演し演技力が高く評価された。2022年、61歳没。

野村義男

1979年、ドラマ『3年B組金八先生』で俳優デビュー。本人役で出演し、若者を中心に注目を集めた。’83年6月「待たせてSorry」で歌手デビュー。ジャニーズ所属の『たのきんトリオ』の一員として爽やかなルックスと明るいキャラクターで’80年代前半に人気を博した。ソロ活動を続けながらギタリストとしても活躍し、作詞作曲にも挑戦。ドラマや舞台出演もこなし、俳優としての評価も高い。現在も音楽と俳優活動を両立、根強いファンに支えられている。

吉川晃司

1984年、主演映画『すかんぴんウォーク』で俳優としてデビュー。同作の主題歌「モニカ」で同時に歌手デビューを果たし、日本歌謡大賞最優秀新人賞ほか数々の新人賞を数々受賞するヒットとなる。’88年には布袋寅泰とのユニットCOMPLEXを結成。ソロとしては作詞・作曲・プロデュースも手がけ、ロックアーティストとして確固たる地位を築く。俳優としても多数の映画やドラマに出演。NHK大河ドラマ『天地人』『八重の桜』や映画『るろうに剣心』『チーム・バチスタの栄光』などで存在感を発揮し、高く評価されている。

五十嵐浩晃

1979年、第1回CBS・ソニーSDオーディションに合格し、’80年5月、シングル「愛は風まかせ」とアルバム『NORTHERN SCENE』でソロデビュー。同年11月にリリースした3rdシングル「ペガサスの朝」が明治チョコレートCMソングとして評判を呼び、オリコン最高3位・売上50万枚超の大ヒットとなりブレイク。続く「ディープ・パープル」もヒットを記録し、多彩なメロディと透明感ある歌声で注目を集める。その後もラジオパーソナリティやテレビ出演、楽曲提供など幅広く活動。現在は札幌市在住、専門学校の名誉学校長として後進育成に努める一方、ライブや楽曲制作を継続している。

村下孝蔵

1979年、CBS・ソニー全国オーディションで最優秀に選ばれプロへ。翌’80年5月、シングル「月あかり」でメジャーデビュー。広島を拠点に地道なライブを続けながら徐々に支持を獲得。’82年「ゆうこ」、’83年「初恋」「踊り子」が相次いでヒットし、特に「初恋」はオリコン最高3位を記録。透明感ある声と叙情的な歌詞、洗練されたギターテクニックが持ち味で、数々のライブやコンスタントなアルバム発表を重ねる。他アーティストへの楽曲提供や天満敦子とのコンサートなど音楽表現の幅も広く追求。’99年6月24日、脳内出血のため急逝(享年46)。

堀江淳

1979年、CBS・ソニー主催「第1回SDオーディション」に合格し音楽界へ進出。’81年4月、シングル「メモリーグラス」で正式デビュー。同曲はオリコン3位、セールス約70万枚を記録し一躍注目され、日本作曲大賞 優秀曲賞、日本有線大賞 新人賞などを受賞。透き通るような中性的な歌声とメロディアスな作風が評価され、以後もコンスタントにシングルやアルバムを発表しながら、作詞作曲や他アーティストへの提供も行う。現在もライブ・新作制作を継続し幅広い世代に支持されている。

角松敏生

1981年6月、シングル「YOKOHAMA Twilight Time」とアルバム『SEA BREEZE』を同日リリースしメジャーデビュー。大学在学中に送ったデモが評価され正式デビューに至る。’80年代中盤には中森明菜、西城秀樹、中山美穂などへの作品提供でも注目を集め、以後も私小説的世界観を歌詞に反映しながら活動。’93年に一時アーティスト活動を“凍結”しプロデューサー業に専念、’98年に復帰。現在も作曲・ライブ活動を継続、シティポップの礎を築いたアーティストとして支持されている。

稲垣潤一

1982年1月、東芝EMI(EXPRESSレーベル)よりシングル「雨のリグレット」でソロデビュー、《スーパーポップボーカル》のキャッチコピーで売り出される。同年10月リリースの3rdシングル「ドラマティック・レイン」が自身初のオリコンTOP10入り。’83年には「夏のクラクション」「ロング・バージョン」などヒットを連発し、AORシンガーとしての地位を確立。’92年にリリースされた「クリスマスキャロルの頃には」はオリコン140万枚超のミリオンヒットとなり、冬の定番ソングとなった。以降もオリジナル・アルバム多数を重ね、日本レコード大賞やゴールドディスク賞などを受賞。現在もライブ活動や企画アルバム制作、演奏活動を精力的に継続し、幅広い世代に支持されている。

柳ジョージ

1975年「柳ジョージ&レイニーウッド」を結成し、’78年のアルバム『TIME IN CHANGES』でメジャーデビュー。’79年には「雨に泣いてる…」がドラマ主題歌に起用され大ヒットを記録し、4thアルバム『RAINY WOOD AVENUE』がオリコン1位に。’81年末バンド解散後ソロ活動へ転身し、’82年にはレイ・チャールズと共演。疾走感あるブルースロックと情感あるギタープレイで“和製クラプトン”とも称され支持を集めた。2005年レイニーウッド再結成、2008年フジロックにも出演。2011年10月10日、腎不全のため63歳で逝去。

三好鉄生

1979年、30歳の時にオーディションで歌唱力を評価されプロ入り。’82年3月、アルファレコードより自作曲「アイ・ラヴ・ユーこの街」でシンガーソングライターとしてデビュー。同年8月リリースのセカンド「涙をふいて」が中外製薬CMソングに起用されヒットを記録し、全国的な注目を集める 。俳優としては同曲が主題歌となったTBS系ドラマ『人間万事塞翁が丙午』で俳優デビューし(’82年)、以降も『刑事ヨロシク』『西部警察 PART III』などに出演 。’87年には「すごい男の唄」がサントリーCMソングに採用されスマッシュヒットし、以後もライブ活動と録音を継続。現在は三貴哲成名義に改め、多彩な音楽活動を続けている。

大江千里

1975年のヤマハPOPSONGコンテスト出場などを経て、’81年にCBS・ソニーからスカウトされ音楽業界へ 。’83年5月、シングル「ワラビーぬぎすてて」とアルバム『WAKU WAKU』でEPICソニーよりメジャーデビューし、透明感ある歌声と作詞作曲の才能で注目を集める 。以降、「十人十色」「格好悪いふられ方」「ありがとう」などヒット連発。2008年渡米しNYのThe New Schoolでジャズを学び、2012年にジャズピアニストとして再デビュー。自身のレーベルPND Recordsを設立しジャズ作品をリリース、現在も世界各地でライブ活動を展開中。

大澤誉志幸

1978年に駒澤大学在学中にロックバンド「クラウディ・スカイ」を結成し、’81年4月に同バンドのボーカル&ギターとしてビクターからデビューするもヒットなし、年末に解散後渡米。その後帰国し楽曲提供で頭角を現す。’83年6月、ソロ名義でシングル「彼女には判らない (Why don’t you know)」、アルバム『まずいリズムでベルが鳴る』でEpicソニーからソロデビュー。中森明菜や沢田研二などへの楽曲提供とともに自身も「そして僕は途方に暮れる」などヒットを連発し、シンガー/メロディーメーカーとして確固たる地位を築いた。

近田春夫

慶應在学中から内田裕也のバックでキーボードを務め、音楽界と出版界の両方で活動を広げた。1972年に「近田春夫&ハルヲフォン」を結成し、映画音楽も「塚田みのる」名義で手がける。’70年代後半からは俳優、声優、パーソナリティとしてメディアを横断して活躍した。「日本の歌謡曲の音楽性」を早期に評価し、コラム「THE 歌謡曲」連載やカバーアルバムでその魅力を提示。ジューシィ・フルーツをデビューさせ、作曲家・プロデューサーとしてもヒットを生んだ。

尾崎豊

青山学院高等部在学中の1983年12月1日、シングル「15の夜」とアルバム『十七歳の地図』でCBS・ソニーよりメジャーデビューし、高校生シンガーとして一躍注目される。透き通る歌声と等身大の歌詞、若者の反抗と葛藤を描いた世界観が共感を呼び、「卒業」「I LOVE YOU」「OH MY LITTLE GIRL」など次々とヒットを放つ。’85年にはアルバム『回帰線』でレコード大賞優秀アルバム賞を受賞するなど音楽性の評価も髙かった。’92年4月25日、26歳で急逝したが、没後もそのメッセージ性あふれる作品が支持され、多くのアーティストにカバーされ続ける。現在も若者の“教祖”的存在として音楽界に大きな影響を与え続けている。

伊豆田洋之

高校卒業後に画家を志して渡米し、イリノイ州立大およびカリフォルニア大学ロサンゼルス校に在籍後、ロサンゼルスのピアノバーで弾き語り中にスカウトされ帰国。’84年7月、シングル・アルバム『Rose Bud Days』でメジャーデビューし音楽活動を開始した。以後「ネオンの海で I LOVE YOU」「笑顔にダーツ」「迷路」「LAST SEASON」などのシングルやアルバムをリリースし、シティ・ポップ系の滋味あるバラードで人気を得る。現在もライブ活動や作品制作を続け、“日本のポール・マッカートニー”とも称される高い音楽性で支持されている。

鈴木雅之

1975年、友人たちとブルーアイド・ソウル風の男性グループ「シャネルズ」を結成。’80年にシングル「ランナウェイ」でメジャーデビューしミリオンヒットを記録する。’83年にバンド名をラッツ&スターに改名し、「め組のひと」「Tシャツに口紅」など数々のヒットを連発し人気を博す。’86年、自身のソロ活動を本格化させ「ガラス越しに消えた夏」でソロデビュー。以後「もう涙はいらない」「違う、そうじゃない」などのヒットを重ね、ベスト盤『Martini』シリーズはミリオンセラーとなる。2019年以降はアニメ『かぐや様は告らせたい』の主題歌を担当し“アニソン界の大型新人”とも称される。

久保田利伸

駒澤大学在学中の1985年、田原俊彦らに楽曲提供し作家デビュー 。翌’86年6月、シングル「失意のダウンタウン」でメジャー歌手デビューを果たす 。同年9月にアルバム『Shake It Paradise』をリリースし、R&Bやファンクを取り入れたスタイルで異彩を放つ 。’88年にはアルバム『Such A Funky Thang!』がオリコン首位に輝き、「Dance If You Want It」などヒット連発 。’95年にアメリカへ拠点を移し、’96年の「LA・LA・LA LOVE SONG」が月9ドラマ主題歌として大ヒット。日本のR&Bを切り開いたパイオニアとして現在も国内外で高い評価を受ける。

奥田民生

’87年、ロックバンド・UNICORNのボーカリストとしてメジャーデビューし「大迷惑」「働く男」「すばらしい日々」などのヒット曲で’80〜90年代のバンドブームを牽引。’93年にバンド解散後、1年間の“充電期間”を経て’94年にシングル「愛のために」でソロ活動を本格始動。以降「イージュー★ライダー」「さすらい」など数々の名曲を発表。PUFFYや木村カエラのプロデュース、井上陽水とのユニットなど多彩な音楽活動を展開。現在も独自のスタイルで演奏・制作・プロデュースを続け、音楽界の第一線で活躍中。

池田政典

ジャパンアクションクラブ(JAC)第12期生として俳優デビューし、’86年5月、TBSドラマでテレビ初出演。同年8月、東芝EMIからシングル「ハートブレーカーは踊れない」で歌手デビューし、グラビアでも注目を集めた。’87年5月「NIGHT OF SUMMER SIDE」がアニメ『きまぐれオレンジ☆ロード』の主題歌に起用され音楽番組でも注目される。’88年の「Formula Wind」もヒットするが、’92年「愛のセレブレーション」以降、歌手活動は休止。以後は俳優と声優業に専念し『るろうに剣心』の志々雄真実役などアニメでも存在感を示し、現在も活動を継続している。

KAN

’87年、シングル『テレビの中に』でソロ歌手としてメジャー・デビュー(ポリドール)。’90年9月、代表曲『愛は勝つ』をシングルリリース。累計200万枚超の大ヒットを記録し、オリコン週間シングル1位を8週連続、年間チャート3位となる。同曲は第33回日本レコード大賞ポップス・ロック部門大賞を受賞し、NHK紅白歌合戦にも出演。その後も多数の楽曲がチャート上位に入り、’90年代前半には5曲のトップ10シングル、4枚のトップ10アルバムを生む2010年時点でのCD総売上は約460万枚に達する。2023年11月、61歳没。

玉置浩二

’73年、高校時代にバンド「安全地帯」を結成し、’82年2月、シングル『萌黄色のスナップ』でグループはメジャー・デビュー。’83年には「ワインレッドの心」’84年「恋の予感」、’85年「悲しみにさよなら」など複数のヒットを連発し、日本の’80年代ロック・ポップスを代表するバンドとなる。’87年末ソロ活動を開始し『All I Do』などをリリース。その後も「田園」をはじめヒット曲を生み出し、作詞・作曲にも注力。2012年には自主レーベル“SALTMODERATE”を立ち上げ、バンドとソロ双方で精力的に活動。オーケストラ公演も行い、現代も高い評価を受け続けている。

氷室京介

’82年、伝説的なロックバンドBOØWYのボーカリストとして『MORAL』でレコードデビュー、日本のロックシーンに革命をもたらす。’88年、BOØWY解散後わずか3カ月でソロ第1弾シングル「ANGEL」でデビューし、オリコン年間チャートで8位に入るヒットとなる。’92年には「KISS ME」でミリオンセールスを達成、’93年のアルバム『Memories Of Blue』も150万枚以上を売り上げ、ソロアーティストとして不動の地位を確立。’97年からはロサンゼルスに拠点を移し制作と活動を継続。独自の“ヒムロック”スタイルで音楽界に強い影響を与えた存在となっている。

布袋寅泰

’80年末、氷室京介らと共に結成した「暴威」(後のBOØWY)で’82年3月発売のアルバム『MORAL』にてギタリストとしてデビュー、日本のロックシーンで絶大な存在となる。’88年10月、BOØWY解散後すぐにソロ1stアルバム『GUITARHYTHM』で独立、精緻なギターサウンドで新境地を切り開いた。’89年には吉川晃司とのユニット「COMPLEX」を結成し、大型ヒットを放つ。以降は作詞・作曲・プロデュースとマルチに活躍し、2003年には映画『KILL BILL』に「Battle Without Honor or Humanity」が使用され世界的にも名を轟かせた。2012年からはロンドンを拠点に活動を展開し、国際的な舞台でのライブ・制作を続けている。

徳永英明

’86年1月、シングル「Rainy Blue」とアルバム『Girl』でメジャー歌手デビューを果たし、その透明感のある歌声で注目を集める。’87年の「輝きながら…」が初のヒットとなり、その後も「風のエオリア」「最後の言い訳」「夢を信じて」「壊れかけのRadio」など数々の代表曲をリリース。2005年以降、「VOCALIST」シリーズで女性アーティストの名曲をカバーするスタイルを打ち出し、ロングセラーを記録、歌声と表現力により新たな価値を築く。現在もコンサートツアーや新作リリースを継続中で、多くの世代に支持されるベテランボーカリストとして活躍している。

竜鉄也

中学2年で失明し、その後26歳で再び全盲となるが、独学でアコーディオンを習得し岐阜・高山地方を中心に「流し」として演歌を歌いながら修行を積む。’80年6月、デビュー曲「奥飛騨慕情」をトリオレコードから発表し、ミリオンセラーを記録。翌’81年には第32回NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。楽曲には「紬の女」「哀愁の高山」などがあり、作詞・作曲も手がけた。2000年頃に脳卒中で療養に入り引退。2010年12月、クモ膜下出血により74歳で逝去。

山川豊

三重県鳥羽市生まれ。’81年2月、デビュー曲「函館本線」で歌手デビューを果たし、同年末の第23回日本レコード大賞・新人賞など多くの新人賞を受賞した。’86年には「ときめきワルツ」で初のNHK紅白歌合戦出場を果たし、それ以降2005年までに11回の出場を重ねる。’98年の「アメリカ橋」が大ヒットし、「ニューヨーク物語り」「霧雨のシアトル」といった“アメリカ3部作”も話題を呼ぶ。現在もライブや新曲リリースなど精力的に活動を続ける、日本を代表する演歌歌手の一人。実兄は同じく演歌歌手の鳥羽一郎。

尾形大作

’81年「THE MATATABI」をキャッチフレーズにデビューし、’86年に発表した「無錫旅情」が約48.6万枚の売上を記録し大ヒットを遂げる。’87年には第38回NHK紅白歌合戦に初出場し、翌年も出場を果たす。’88年は「敬天愛人 幕末青春グラフティ」で第30回日本レコード大賞企画賞を受賞。’90年には独立に関する記者会見を行うが、所属事務所とのトラブルにより一時歌手活動を休止。福岡に戻り、地域密着型の演歌歌手として活動を再開し、テレビドラマやVシネマ、CM出演など多方面で活躍。現在もCDを発売し、地域イベントなどに出演している。

鳥羽一郎

漁師や板前を経て、演歌への道を断ち切れず27歳で上京し、巨匠・船村徹に内弟子として約3年間修行を積む。’82年8月、シングル「兄弟船」で歌手デビュー。同曲は海の男の哀愁を描いた代表作となり大ヒットを記録。。’85年にNHK紅白歌合戦初出場を果たし、その後20回以上の出場を重ねる。海難遺児支援などチャリティ活動にも力を入れ、紺綬褒章を7度受章。現在も「海の男」演歌の旗手として精力的に活動を続けている。

梅沢富美男

大衆演劇「梅沢劇団」で1歳7ヶ月で初舞台を踏み、15歳から本格的に舞台俳優として活動。20代後半に女形が評判となり「下町の玉三郎」と称され大衆演劇界のスターに成長。’82年に歌手としても活動を開始し、小椋佳作詞作曲「夢芝居」が大ヒット。’83年にNHK紅白歌合戦で歌唱し一躍歌謡界でも脚光を浴びた。その後、舞台座長として劇団を率いながらテレビ・映画・バラエティなど多方面で活躍。タレントやコメンテーターとしても人気を博し、現在も精力的に舞台とメディアで存在感を放ち続けている。

'80年代の演歌の傾向

1980年代の演歌は都会的な歌謡曲とは反対に、地方の町やふるさとを舞台とする楽曲が多く作られ、ヒットした。竜鉄也「奥飛騨慕情」(’80)、山本譲二「みちのくひとり旅」(’81)、大川栄策「さざんかの宿」(’82)、細川たかし「矢切の渡し」(’83)、石川さゆり「天城越え」(’86)など、旅情とともに男女の哀切を情熱的に描いた作品が大ヒットし、演歌の地方指向や「ふるさと回帰」が目立った時代だった。