グループ > 1980年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

シャネルズ

1975年結成のドゥーワップ志向グループで、のちのラッツ&スターの前身。リードヴォーカルの鈴木雅之を中心に下町の仲間で組まれ、当初は「シャ・ナ・ナ」のコピーを中心に活動した。強烈な存在感を出すため、主要4人が黒塗りメイクと派手なタキシード姿でドゥーワップを歌う独自スタイルを確立。’80年に10人編成でデビューし、「ランナウェイ」がミリオンを記録、日本にドゥーワップ・ブームを巻き起こした。’83年にラッツ&スターへ改名してさらに活動を広げた。

HOUND DOG

1976年に大友康平を中心に結成されたロックバンドで、’80年「嵐の金曜日」でデビューした。メンバー交代を経ながらもライブ主義を貫き、ヒットがない時期から’83年に武道館を満員にし、’80年代後半には日本屈指の動員力を誇る存在となる。日本人バンド初の東京ドーム単独公演(’88年)、西武球場5days 17万5千人、武道館15日連続公演(’90年・現在も記録継続)など伝説的ライブを多数実施。代表曲は「ff(フォルティシモ)」「ラスト・ヒーロー」ほか、メロディアスなロッカバラードと力強い演奏で支持を集めた。

もんた&ブラザーズ

R&Bやソウルに根ざした強烈な歌唱力を持つ、もんたよしのりを中心に1980年に結成されたグループ。もんたはそれまでにフォークからブルースまで幅広い音楽経験を積み、’80年「ダンシング・オールナイト」で再デビュー。圧倒的ボーカルとソウルフルなサウンドで同曲は大ヒットし、数々の音楽賞を受賞、紅白にも出場した。もんた自身は俳優としても活動し、楽曲提供でも評価を得た。’84年「もんた&ブラザーズ」解散後、2023年10月の逝去直前までソロ活動を続けた。

ジューシィ・フルーツ

近田春夫のバックバンド「BEEF」から派生し、1980年にデビューしたロックバンド。ボーカル・奥野敦子(イリア)のファルセットと、テクノ風アレンジを取り入れた「ジェニーはご機嫌ななめ」が37万枚のヒットとなり注目を集めた。初期は近田のプロデュースでアルバムも成功し、テクノ歌謡として紹介されることが多かったが、本来はギター主体のロックバンドである。’84年に解散後、2009年に活動を再開し、2013年に事実上の再結成となった。

T.C.R.横浜銀蝿R.S.

正式名を“THE CRAZY RIDER 横浜銀蝿 ROLLING SPECIAL”とするロックンロールバンドで、翔・Johnny・TAKU・嵐の4人で構成される。出入りの店の店主に「銀蝿みたいにうるさい」と言われたことから名が付いた。ポンパドールに革ジャン、白いドカンという不良スタイルで登場し、ツッパリ・暴走族文化の波に乗って1980年代前半に若者から圧倒的な支持を得た。弟分を含む「銀蝿一家」も展開し、シンプルなロックンロールからコミックソングまで幅広い楽曲を発表。代表曲は’81年の「ツッパリHigh School Rock’n Roll (登校編)」。

雅夢

三浦和人と中川敏一によるフォークデュオで、名古屋のライブハウスでの共演をきっかけに結成された。ともに中学時代からフォークに傾倒し、デュオ名は喫茶店の名前に由来。結成当初からオリジナル曲にこだわり、1980年のヤマハポプコンで「愛はかげろう」が優秀曲賞を受賞、同曲でデビューし約69万枚の大ヒットとなる。以後「悲しくて」「追いかけて」などを発表し、アルバムも精力的に制作。繊細なメロディと叙情的な世界観が支持され、’80年代前半のフォークシーンを代表する存在となった。

スターダストレビュー

1979年に「アレレのレ」としてポプコンで優秀曲賞を受賞したことを起点に結成され、多様な音楽性を“レビュー”形式で届けたいという意図から現名に改名。’81年に「シュガーはお年頃」でデビューし、ジャズ・ポップ・ロックを自在に融合した洗練されたサウンドと高度なコーラスワークで支持を広げた。’84年「夢伝説」がルピスのCM曲としてヒットし知名度が上昇。’80年代後半には「Stay My Blue」「Be My Lady」「夏のシルエット」などCMタイアップが続き、安定した人気を獲得した。

 J-WALK

J-WALK(後のTHE JAYWALK)は1980年結成、1981年にデビューした。横断禁止無視を意味する“Jaywalking”に由来する名の通り、都会的で洒落たポップロックを特色とし、CMタイアップを多く手がけて時代感に合った楽曲を提供した。代表曲「何も言えなくて…夏」(’91年)は発売後じわじわと人気が上昇し、’93年に初の紅白出場を果たす大ヒットとなった。レナウン、黄桜、シチズン、三菱電機、リゲインなど企業広告の音楽も多く担当し、’90年代初頭のシティポップ的情緒と大人の哀愁を漂わせるサウンドで幅広い支持を得た。

THE MODS

1974年に福岡で結成され、’80年代パンク・ロックシーンを牽引したバンド。ブリティッシュビートや「めんたいロック」から強い影響を受け、荒々しく疾走感のあるサウンドで人気を獲得した。テレビ神奈川『ファイティング’80s』出演を機に全国的な注目を集め、’81年にロンドン録音でメジャーデビュー。。’83年の「激しい雨が」がCMで採用されスマッシュヒットし、続く「バラッドをお前に」もドラマ主題歌として上位にランクインするなど、ハードさと叙情性を併せ持つ楽曲で支持を広げた。

イモ欽トリオ

1981年、バラエティ番組『欽ドン!良い子悪い子普通の子』のレギュラー出演者、山口良一・西山浩司・長江健次の3人で結成されたユニット。番組発の企画ユニットの先駆けで、アイドル的要素を持つ異色の存在。デビュー曲「ハイスクールララバイ」は細野晴臣によるテクノポップ歌謡でミリオンセラーを記録し、『ザ・ベストテン』で8週連続1位を獲得するなど大ヒット。楽曲は長江がメインボーカル、山口と西山がコミカルなコーラス・振付で’80年代初期の歌謡界にインパクトを与えた。

アラジン

名古屋商科大学フォークソング研究会のメンバーを中心に結成された。バンド名は部室にあった石油ストーブ「アラジンブルーフレームヒーター」に由来する。学内ではフュージョンやバラード、ラテンなど多ジャンルに挑戦し、卒業間際に制作した「完全無欠のロックンローラー」でポプコングランプリを獲得。1981年末にデビューし、’82年に「ザ・ベストテン」にランクインしたが、目立ったヒットはなく、一発屋的な存在として知られる。

Sugar

1970年代後半に結成された3人組女声コーラス・グループ。メンバーはミキ、クミ、モーリで、当初は楽器演奏も行ったが後にコーラスに特化した。代表曲『ウエディング・ベル』は、振られた元恋人への辛辣な歌詞と美しいハーモニーで注目を集め、’81年にデビューしオリコン週間2位を記録。’82年には第33回NHK紅白歌合戦に出場するなど人気を博したが、’87年に解散した。

安全地帯

1973年、北海道旭川市で玉置浩二と武沢豊を中心に結成された。バンド名は道路交通法の「安全地帯」に由来する。’82年に「萠黄色のスナップ」でメジャーデビューし、’83年の「ワインレッドの心」が71.4万枚の大ヒットとなる。以降も「恋の予感」「熱視線」「悲しみにさよなら」など数々のヒット曲を発表し、’85年のアルバム『安全地帯IV』はオリコン週間・年間1位を獲得。’88年以降、活動休止と再開を繰り返しながらも、各メンバーのソロ活動と並行して現在も定期的に活動している。

BOØWY

群馬県出身の氷室京介、布袋寅泰、松井恒松を中心に東京で結成され、高橋まことが加入して4人編成で活動。’82年に「MORAL」でメジャーデビュー。8ビートを基調としたロックサウンドと斬新なビジュアルで支持を集め、アルバム『BEAT EMOTION』『PSYCHOPATH』はミリオンセラーを記録。シングル「MARIONETTE」で初登場1位を獲得し、’87年の渋谷公会堂ライブで解散を宣言。翌年の東京ドーム『LAST GIGS』で活動に終止符を打った。音楽性、ビジュアル、強気の姿勢で日本のロックシーンに大きな影響を与えた伝説的バンド。

シブがき隊

布川敏和・本木雅弘・薬丸裕英の3人によるジャニーズ事務所所属の男性アイドルグループ。1982年に「NAI・NAI 16」で歌手デビューし、第24回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞。ジャポニズムを取り入れた楽曲や企画性の高いノベルティソングで人気を集め、映画・ドラマ・バラエティ番組にも出演。’80年代前半の男性アイドルシーンをリードした。’88年8月に解隊宣言、同年11月に代々木第一体育館で解散コンサートを行い、グループ活動に幕を下ろした。

あみん

岡村孝子と加藤晴子による女性デュオで、主旋律を岡村、ハーモニーを加藤が担う繊細なコーラスワークが特徴。1982年に「待つわ」でレコードデビューし、同曲は109万枚のミリオンセラーとなり『NHK紅白歌合戦』にも出場した。ポプコン出身の実力派で、オリジナル曲へのこだわりから1stアルバムも自作中心に制作された。しかし加藤の学業優先と芸能界への不適合感から’83年に活動休止。以後、岡村はソロへ、加藤は一般生活へ進むが交流は継続。2002年に一夜限りで共演し、2007年に正式に活動再開した。

ヒロシ&キーボー

黒沢年雄の実弟・黒沢博と元OLのキーボーによる男女デュオ。1982年に「3年目の浮気」でデビューし、同曲はオリコン3週連続1位・130万枚の大ヒットを記録、日本有線大賞などで最優秀新人賞を受賞した。続けて「5年目の破局」などユニークな恋愛路線の楽曲を発表したが、’84年にコンビを解消。解散後も代表曲は替え歌・パロディで親しまれ、本人たちもラジオ企画で過激な替え歌に応じるなど話題を呼んだ。なお、歌詞内容が理由でNHK紅白歌合戦には出場できなかったとされる。

わらべ

『欽ちゃんのどこまでやるの!』から生まれた高部知子、倉沢淳美、高橋真美の3人による企画ユニットで、素朴な雰囲気で人気を得た。欽ちゃん番組の高視聴率とイモ欽トリオの成功を背景に、番組内で成長した“萩本家の三姉妹”を演じるためのオーディションで結成された。1982年に坂本龍一編曲のデビュー曲「めだかの兄妹」をリリースし、番組のエンディング曲として親しまれ、翌年のオリコン年間3位となる大ヒットを記録。パジャマとちゃんちゃんこ姿で歌う姿が話題になった。

 杉山清貴&オメガトライブ

プロデューサー藤田浩一を中心に結成された1980年代のプロジェクト型バンドで、林哲司ら制作陣が主導し、杉山清貴のボーカルで’83年にデビューした。夏・海・リゾートをテーマにした都会的サウンドで人気を博し、サザンやTUBEと並ぶ“夏バンド”として定着した。レコーディングはプロのスタジオミュージシャンが担当し、メンバーは提供曲を演じる形で活動したため、創作への関与が限られていた。やがて葛藤が生まれ、メンバーの総意で’85年に解散。以降はボーカルを交代しながら「オメガトライブ」名義のプロジェクトが続いた。

 C-C-B

ココナッツボーイズを前身とする1980年代のポップ・ロックバンドで、明るいカラフルなビジュアルとキャッチーな楽曲で人気を博した。ミニFM局の企画から生まれ、’83年にデビュー。’85年、筒美京平×松本隆による「Romanticが止まらない」がドラマ主題歌として大ヒットし、電子ドラムを叩きながら笠浩二がハイトーンで歌う独特のスタイルも話題となった。その後も「Lucky Chanceをもう一度」「ないものねだりのI Want You」などヒットを連発し、紅白出場や賞歴を重ねた。メンバー変動を経て’89年に解散し、再結成を挟みつつ現在は活動停止している。

チェッカーズ

福岡・久留米のアマチュアバンド文化から生まれた7人組ロックバンドで、1983年に「ギザギザハートの子守唄」でデビュー。ドゥーワップやロカビリーを下地にしつつアイドル性とバンド力を兼ね備え、’84年の「涙のリクエスト」で一躍全国的ブレイク。以降「哀しくてジェラシー」「ジュリアに傷心」などヒットを連発し、社会現象となる人気を獲得した。’86年以降は自作曲を増やしソロ活動も活発化。東京ドーム公演など大規模ライブも成功させた。メンバーの結婚や方向性の違いを経て、’92年の紅白歌合戦を最後に解散した。

レベッカ

1980年代後半、日本のバンドブームを牽引したロックバンドで「フレンズ」の大ヒットで国民的な人気を得た。木暮武彦を中心に結成され、NOKKOの個性的な歌声と存在感、そして土橋安騎夫によるサウンドプロデュースが特徴。’85年以降はシンセポップを導入し、海外女性シンガー的スタイルと少女心理を重ねた世界観で独自性を確立した。アルバム『REBECCA IV』がミリオンを達成し、武道館や東京ドーム公演も成功。’91年に解散したが、数度の再結成を経て2015年より活動を再開している。

一世風靡セピア

劇男一世風靡から派生した7人組の男性パフォーマンスユニットで、路上で培ったダイナミックな動きと集団表現を武器に1980年代の音楽界で注目を集めた。’84年に「今、我に正直に生きてみたい」でデビューし、「前略、道の上より」「汚れっちまった悲しみに…」などのヒットを放つ。個々の個性を混ぜ合わせた“セピア”という名の通り、多彩なキャラクターと力強い群舞が特徴。紅白出演は条件が合わず辞退した。’89年に解散し、哀川翔や柳葉敏郎、小木茂光らは俳優として活躍を広げた。

爆風スランプ

1982年結成、’84年デビューのロックバンドで、過激かつ奇抜なステージパフォーマンスで注目された。消火器噴射や着ぐるみ演奏など破天荒なライブから“コミックバンド”と見なされつつも、強力な演奏力で次第に評価を高める。代表曲「Runner」はメンバー脱退を機に生まれた名曲で大ヒットし、紅白にも出場。「大きな玉ねぎの下で」などのヒットも持つ。’80年代後半には実力派バンドとして確立したが、’90年代以降は低迷し、各メンバーがソロ活動を展開。’99年に活動休止となった。

バブルガム・ブラザーズ

Bro.TOMとBro.KORNが1983年に結成したデュオで、ブラックミュージックとコメディを融合した「和製ブルース・ブラザーズ」的スタイルが特徴。黒スーツにサングラスの統一衣装でライブハウスから活動を開始し、’85年にデビュー。’90年発売の「WON’T BE LONG」がカラオケを通じて大ヒットし、累計170万枚を超える代表曲となった。

TUBE

1985年デビューした神奈川県出身のロックバンド。サーフィン用語に由来する名称と夏を意識した楽曲から「湘南サウンド」の代表格とされる。初期は亜蘭知子や織田哲郎ら提供曲で活動し、’89年以降はメンバー自作曲が中心。’80年代から通年活動していたが、次第に夏季に特化し、ライブも夏のスタジアム公演を恒例化。’90〜2004年にシングル連続TOP10入り15年、アルバム連続TOP10入り27年を記録するなど安定した人気を誇る。

おニャン子クラブ

1985年、フジテレビ『夕やけニャンニャン』から誕生した女性アイドルグループで’87年まで活動。現役女子高生を中心に会員番号制やクラブ感覚の芸能活動で人気を博し「セーラー服を脱がさないで」などヒット曲を連発。グループ内ユニットやソロ活動も成功し、社会現象となった。メンバーの加入・脱退が常に行われる流動的な体制で、卒業式制度を先駆けて導入。活動期間は短く2年半ながら、’80年代後半の日本のアイドルシーンに大きな影響を与えた。

SHOW-YA

1985年にメジャーデビューした日本の女性ハードロックバンドで、’80年代のバンドブームにおける先駆的存在。前身は寺田と中村が所属した「メデューサ」で、’82年にヤマハ主催レディース部門で最優秀グランプリを獲得。デビュー当初はアイドルバンド路線で売り出されたが後にハードロック路線に回帰。’89年のアルバム『Outerlimits』で商業的成功を収め、『限界LOVERS』『私は嵐』などのヒットも生む。’91年にボーカル寺田脱退後、活動は停滞し、’98年に解散した。

うしろゆびさされ組

おニャン子クラブの高井麻巳子と岩井由紀子による2人組アイドルユニットで、1985年に結成、’87年解散。フジテレビのアニメ『ハイスクール!奇面組』のテーマソング用ユニットとして企画され、「かわいいシュール」をコンセプトに活動。結成直後のシングル『うしろゆびさされ組』を皮切りに、シングル6作・アルバム3作をリリースし、アニメ主題歌として幅広い支持を獲得。高井の卒業に伴い国立代々木競技場でのコンサートで解散。活動期間は約1年半だがグループ派生型ユニットの元祖とされ、後のモーニング娘。やAKB48系ユニットに影響を与えた。

聖飢魔II

1982年結成の日本のヘヴィメタルバンドで、「悪魔教布教」をテーマにした独自の世界観を持つ。メンバーは全員を悪魔と称し、デーモン閣下らが奇抜な衣装や歌舞伎風メイクでパフォーマンス。’85年にアルバム『聖飢魔II〜悪魔が来たりてヘヴィメタる』で地球デビューし、’86年のシングル『蝋人形の館』が大ヒット。演奏はヘヴィでラウド、ライブ「黒ミサ」では火吹きや血吐きなどの演出も行い話題を集めた。’99年12月31日に「地球征服完了」を宣言して解散。’80年代を代表する個性的なメタルバンドとして知られる。

 米米CLUB

1982年結成の日本の大所帯バンドで、石井竜也(カールスモーキー石井)を中心に、ファンクミュージックを基盤に独自の演出を加えたエンターテインメント性の高い活動で知られる。ダンサーチームやサポートバンドを擁し、ライブでは寸劇や観客参加型のパフォーマンスを重視。’85年にCBSソニーからデビューし、「浪漫飛行」「君がいるだけで」などヒット曲を生む。奇抜な衣装やコント的MCで“イロモノ”扱いも受けたが、幅広い年齢層に人気を博す。’97年に一度解散するも、2006年に期間限定で再結成し、現在もスローペースで作品を発表する。

少年隊

ジャニーズ事務所から登場した男性アイドルグループで、錦織一清・植草克秀・東山紀之の3人で構成される。1982年に「ジャニーズ少年隊」として結成、バックダンサー経験を経て’85年にシングル「仮面舞踏会」でレコードデビューし、新人賞を総ナメにする人気を獲得。ダンスと歌を融合させたパフォーマンスが特徴で、’86年からはミュージカル『PLAYZONE』を主催し、紅白歌合戦にも8年連続出場。全盛期にはブロマイド売上第1位を記録。長期にわたりコンサート・テレビ・舞台で活躍し、2020年以降は事実上活動休止状態となるが、名前は存続している。

プリンセス・プリンセス

1983年のTDK主催オーディションで結成。デビュー前は「赤坂小町」「JULIAN MAMA」として活動した後、’86年に「PRINCESS PRINCESS」と改名しCBSソニーからミニアルバムで再デビュー。’87年にファーストシングル「恋はバランス」を発売し、’88年以降は「MY WILL」「19 GROWING UP」「GO AWAY BOY」「GET CRAZY!」などのヒットを連発。’89年には日本武道館公演を女性バンドとして初開催し、シングル「Diamonds」でミリオンセラーを達成、トップアーティストとしての地位を確立。ライブ中心の活動と自作楽曲へのこだわりも特徴である。

うしろ髪ひかれ隊

うしろゆびさされ組解散後の後継ユニットとして1987年に結成された、生稲晃子・工藤静香・斉藤満喜子の3人によるおニャン子系女性アイドルグループ。アニメ『ハイスクール!奇面組』主題歌「時の河を越えて」でデビューし、工藤の人気上昇により「静香のグループ」と評されがちだったが、センターポジションを曲や活動ごとに入れ替えるなどバランスを重視した方針をとった。制作面ではおニャン子と異なり音楽性を重視したプロデュースが行われ、高い楽曲クオリティが特徴で、’88年に活動停止した。

THE BLUE HEARTS

1985年に結成され、’87年「リンダリンダ」でメジャーデビュー。甲本ヒロトと真島昌利を中心に、シンプルで力強いサウンドと、ストレートながら高い文学性を評価された歌詞で支持を集めた。「TRAIN-TRAIN」「青空」「人にやさしく」「情熱の薔薇」などのヒットを放ち、日本のロックに大きな影響を与えた。前期はメッセージ性の強い独自の世界観を確立し、後期は幅広い音楽性を展開。’95年に解散したが、その楽曲は現在もCMや映像作品で使われ続けている。

光GENJI

1987年に結成された7人組男性アイドルグループで、ローラースケートを駆使した華やかなパフォーマンスで爆発的な人気を得た。デビュー曲「STAR LIGHT」や「パラダイス銀河」など、光や宇宙をテーマにした楽曲で社会現象となり、雑誌・ラジオ・音楽番組でも記録的な支持を獲得した。’88年には日本レコード大賞を受賞、オリコン年間シングルランキング上位を独占するなど圧倒的存在感を示す。末期に2名が脱退し「光GENJI SUPER 5」として活動後、’95年に解散した。

BUCK-TICK

1987年デビュー、ダークな世界観と先鋭的なポップセンスを融合した独自の音楽性を持つ。デビュー2年で日本武道館・東京ドーム公演を成功させ、3rdアルバム『TABOO』でオリコン1位を獲得。ビジュアル面・サウンド面ともに常に進化を続け、日本のロックシーンに大きな影響を与えた。デビュー以降長期にわたり精力的に活動し、記念映画公開や音楽賞受賞など評価も高い。2023年にボーカル櫻井敦司が逝去するも、残るメンバーで活動継続を表明し、新体制でも作品・ライブを展開している。

筋肉少女帯

大槻ケンヂと内田雄一郎を中心に1982年に結成されたロックバンド。初期は白塗りや包帯を巻く奇抜なパフォーマンスを特徴とし、ナゴムレコードからインディーズデビュー。’88年に『仏陀L』と『釈迦』でメジャー進出し、メンバー入れ替えを経て橘高文彦らが加入し体制が安定する。『日本印度化計画』『元祖高木ブー伝説』などユーモアと過激さを併せ持つ楽曲で注目を集め、コミックバンド的側面も話題となった。’90年には日本武道館で単独公演を行い人気を確立するが、バンドブーム衰退や事務所問題などから’98年に活動を休止した。

男闘呼組

1980年代後半に活躍したジャニーズ初の本格派ロックバンド。成田昭次・高橋一也(後の光一)・岡本健一を中心に結成され、前田耕陽を加えた4名体制でデビューに至った。’88年「DAYBREAK」が大ヒットし、「秋」「TIME ZONE」などで人気を確立し、日本レコード大賞最優秀新人賞や紅白出場を果たした。従来のアイドル像と異なり、ロック志向と演奏力を前面に出したスタイルが特徴。’93年、高橋の事務所退所を機に活動休止となり、メンバーはそれぞれの道へ進んだ。

チャゲ&飛鳥

高校の同級生であるChageとASKAにより1979年に結成され「ひとり咲き」でデビュー。’80年代から’86年にかけて「万里の河」「モーニングムーン」などヒットを重ね、’91年の「SAY YES」でオリコン13週連続1位・ダブルミリオンを記録。’90年代には「YAH YAH YAH」など複数のミリオンヒットを放ち、海外ツアーやMTVアンプラグド出演など国際的な活動も展開した。2009年に無期限活動休止、2013年再始動を目指すも、ASKAの健康問題や事件で白紙となり、2019年にASKAが脱退した。

一風堂

1979年に渋谷のディスカウントストア名を由来に結成され、当初は山本翔のバックバンドとして活動。’80年からシングル「ブレイクアウト・ジェネレーション」「ミステリアス・ナイト」やアルバム『NORMAL』『REAL』をリリースし、ニュー・ウェイヴやポップスの要素を取り入れたサウンドで注目された。’82年の「すみれ September Love」はカネボウCMソングとして大ヒットし、オリコン最高3位を記録。リーダー土屋昌巳やメンバーのソロ活動も活発で、海外アーティストのサポートも担当した。

B'z

1980年代後半にデビューした、ギタリスト松本孝弘とボーカリスト稲葉浩志によるロックユニット。’88年にシングルとアルバムを同時発売してデビューし、’90年に「太陽のKomachi Angel」で初のオリコン1位を獲得。その後ミリオンヒットを連発し、日本を代表する人気アーティストへと成長した。激しいロックサウンドと圧倒的歌唱力、松本によるギタープレイを核とした楽曲が特徴で、ライブ「LIVE-GYM」も精力的に展開。後年には国内売上でギネス認定され、世界的にも評価を受ける国民的ロックユニットとなった。

グループ > 1960年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

ハナ肇とクレイジーキャッツ

1955年結成、’59年「スーダラ節」でレコードデビュー。ハナ肇をリーダーとするコメディ色の強い音楽バンドでメンバーは植木等、谷啓、犬塚弘らが名を連ね「スーダラ節」「ハイそれまでよ」など数々のヒット曲を生み出した。人気バラエティ番組『シャボン玉ホリデー』では、音楽とコントを融合した斬新なスタイルでテレビ界にも大きな影響を与えた。

ザ・ドリフターズ

1956年結成、’64年「ドリフのズンドコ節」でレコードデビュー。いかりや長介を中心に結成されたバンド兼コメディグループ。当初は本格的な音楽活動も行い、ビートルズ来日公演では前座も務めた。代表曲は「ドリフのズンドコ節」「いい湯だな」。後にテレビ番組『8時だョ!全員集合』で国民的人気を獲得し、子どもから大人まで幅広い層に支持された。

スリーファンキーズ

1958年デビュー。アイ高野、山下敬二郎、長沢ロー(初期)による3人組男性ボーカルグループ。ロカビリー・ブームの中、アメリカンポップスを日本流にアレンジし人気となる。代表曲は「涙のギター」。当時の若者文化に大きな影響を与え、後のアイドルグループの先駆け的存在だった。

ザ・ピーナッツ

1959年4月デビュー。伊藤エミ・伊藤ユミの双子姉妹によるボーカルデュオ。人気バラエティ『シャボン玉ホリデー』に出演し息の合った美しいハーモニーと可憐なルックスで爆発的な人気を得た。代表曲は「恋のバカンス」「ふりむかないで」など。海外進出にも意欲的で、特にドイツ映画『モスラ対ゴジラ』では小美人役として出演し、世界的にも知られる存在となった。姉の伊藤エミと沢田研二との結婚により引退。

こまどり姉妹

1959年「浅草姉妹」でデビュー。実姉妹のデュオとして、下町の庶民感情を歌った演歌・歌謡で人気を集めた。生活苦から流しをしていた実話が「浅草姉妹」の詞にも反映。芸能界の“シンデレラ・ストーリー”として注目を浴び、テレビや映画にも出演。ド派手な衣装と歯に衣着せぬトークで、長年にわたり愛された姉妹デュオ。

ザ・キングトーンズ

1960年「ミスター・ロンリー」でデビュー。リードの内田正人による圧倒的な低音ボイスと、ソウルフルなコーラスが特徴。’68年「グッド・ナイト・ベイビー」が大ヒットし、和製ドゥーワップの金字塔に。黒人音楽の影響を色濃く受けた本格派グループとして、現在も根強いファンを持つ。

ジャニーズ

1964年12月デビュー。飯野おさみ、あおい輝彦、中谷良、真家ひろみの4人組男性アイドルグループで、代表曲は「若い涙」「涙くんさよなら」。アメリカンスタイルのショービジネスを日本に根付かせることを目指し、ミュージカルやテレビにも積極的に出演し人気となる。「ジャニーズ」という名前自体が、後の事務所名(ジャニーズ事務所)の由来となる。

鶴岡雅義と東京ロマンチカ

1966年「小樽のひとよ」でデビュー。ムード歌謡の王道をゆく、甘く濃厚な情感が特徴。美しいメロディと男性コーラスの響きが魅力で、「君は心の妻だから」「愛の奇跡」など多数のヒット曲を持つ。鶴岡はギタリスト兼リーダーとして作曲も手がけ、グループのサウンドの要となった。

ピンキーとキラーズ

1968年6月にデビューしたヴォーカルの今陽子(ピンキー)と男性4人のバンドによるグループ。黒いハットがグループのトレードマークで、今陽子の迫力ある歌唱と振り付けが話題を呼び、代表曲「恋の季節」は発売からわずか3か月でミリオンセラーを達成し、レコード大賞新人賞を受賞した。

レ・ガールズ

1967年に結成された女性ダンスグループ。西野バレエ団の中でもエース格だった金井克子、原田糸子、由美かおる、奈美悦子、江美早苗で構成され、本格的な歌とダンスで当時の若者から熱狂的な支持を集め、アイドルグループの草分け的存在とされた。同名の音楽バラエティ番組も制作され、’68年には映画『ミニミニ突撃隊』『初恋宣言』、’69年にはドラマ『フラワーアクション009ノ1』に主演。2006年に一部メンバーを除き再結成されている。

※画像:(C)国際情報社 – 『映画情報』1968年4月号

日本中が熱狂したグループ・サウンズ

グループ・サウンズの時代(1960年代後半)、日本の音楽は大きく変わった。それまでの演歌や歌謡曲と異なり、ビートルズに代表されるリバプールサウンドの影響を受け、エレキギターやドラムを使ったバンド形式の音楽が流行した。若者が中心となり、ザ・スパイダース、ザ・タイガース、ザ・テンプターズなどバンド名に「ザ・」がつくグループが多数登場した。

グループサウンズは派手な衣装、甘いマスク、ビートの効いた音楽や当時人々が憧れた欧米の空気も感じさせ、GSが出演する音楽フェスティバル「日劇ウエスタンカーニバル」では前売り券を求めて有楽町駅から東京駅付近まで約1kmの行列ができるほど熱狂的な人気となった。それは同時に、日本に芽生えた「若者文化」の象徴とも言える。グループサウンズは’70年代初頭には衰退するが、後の日本のロックやアイドル文化の礎となる重要なムーブメントだった。

ザ・スパイダース

​1965年5月​「フリフリ」でデビュー。堺正章、井上順、かまやつひろし、田邊昭知(現・田辺エージェンシー代表取締役社長・会長/2025年)、井上堯之、大野克夫らが在籍。当時は斬新だったミリタリー・ルックに身を包み、演奏力とユーモアも兼ね備える老舗バンドとしてGSブームを牽引した。ビートルズ的なサウンドが特徴で「夕陽が泣いている」「なんとなくなんとなく」「あの時君は若かった」などヒット曲多数。個々のメンバーの人気や評価が高く、GSブーム終焉の中でメンバーのソロ活動が増え、堺がTBSドラマ『時間ですよ』に出演するようになった’70年に解散した。

ザ・タイガース

1967年2月「僕のマリー」でデビュー。大阪の音楽喫茶『ナンバ一番』で”ファニーズ”というグループ名で歌っていたところ、共演していた内田裕也ほか複数の音楽人に声をかけられ上京、渡辺プロダクションのオーディションに合格しデビューに至る。ジュリー(沢田研二)を中心に華やかなルックスが特徴で、2曲目の「シーサイド・バウンド」で人気が爆発。女性ファンから絶大な支持を受け「モナリザの微笑」「君だけに愛を」「花の首飾り」などのヒットでGSを代表する存在となる。グループ名は大阪の阪神タイガースにちなんだもので、作曲家のすぎやまこういちによって命名された。活動期間は約4年間。

ザ・テンプターズ

1967年10月「忘れ得ぬ君」でデビュー。萩原健一(ショーケン)がヴォーカルを務め、タイガースよりもワイルドで不良っぽい雰囲気で人気を集めた。代表曲は「神様お願い!」「エメラルドの伝説」。硬派な魅力で男性ファンも多かった。GSブーム終焉の中、’70年12月に解散。当時はジュリーVSショーケンの構図をメディアは好み、ファン同士の確執も報じられたが、実際のところ2人は大親友と呼べるほど仲が良く、互いにリスペクトし合っての深い友情はショーケンの逝去まで続いている。

ジャッキー吉川とブルー・コメッツ

1966年デビュー。ドラムス担当のジャッキー吉川、ギターとヴォーカルの三原綱木、フルートとサックス、ヴォーカルの井上忠夫などが在籍。’67年に発売した「ブルー・シャトウ」が150万枚の大ヒットを記録し日本レコード大賞を受賞した。不良のイメージが強くNHKとは縁遠かったGSの中にあって、ザ・ワイルドワンズとともにNHKへの出演が許された国民的バンドだった。

ザ・サベージ

1966年7月「いつまでもいつまでも」でデビュー。後にソロでヒット曲「ルビーの指輪」を持つ寺尾聡がベースとヴォーカルを務めていた。知的で紳士的なイメージのグループで特に高校生・大学生に支持され、デビュー期はブルーコメッツやスパイダースとともにGS3大グループとして人気を集めた。

ヴィレッジ・シンガーズ

1966年10月デビュー。3枚目のシングル「バラ色の雲」が60万枚のヒットとなり、翌年の5枚目のシングル「亜麻色の髪の乙女」も60万枚を突破するセールスを記録した。甘いマスクのヴォーカルの清水道夫をはじめメンバーは短髪にスーツの好青年の印象で、GS界の貴公子とも呼ばれた。後に俳優として活躍する林ゆたかがドラムスを務めた。

ザ・ワイルドワンズ

1966年11月「想い出の渚」でデビュー。リードギター加瀬邦彦の特注の12弦ギターによるサウンドで100万枚を超える大ヒットを記録。加瀬のほか鳥塚しげき、島英二、植田芳暁、渡辺茂樹が所属し、それぞれに根強いファンを獲得した。’71年に一度解散したものの’79年に再集結、メンバー交代はありながら2025年現在も活動している。リーダーの加瀬邦彦( 2015年逝去)は全盛期の沢田研二を二人三脚で支えた音楽プロデューサーとしても知られる。

ザ・カーナビーツ 

1967年3月「好きさ好きさ好きさ」でデビュー。ヴォーカル兼ドラムスのアイ高野がドラムスティックを前方に突き出し「お前のすべてを~」と絶叫する見せ場が受けて爆発的なヒットとなる。アニマルズ風のR&Bサウンドが特徴でGSブームを盛り上げた。’69年9月に解散。

ザ・ジャガーズ

​1967年5月のデビュー曲「君に会いたい」が大ヒットするも、4枚目のシングル「キサナドゥーの伝説」発売の頃、メンバー全員が乗車する移動用のマイクロバスが交通事故を起こし、メンバー全員が負傷。療養中に代役としてジャズ喫茶に出演したオックスに人気を奪われる形で不運にも勢いを失った。’71年解散。

オックス

1968年5月「ガール・フレンド」でデビュー。オルガンの赤松愛とリードヴォーカルの野口ヒデトの人気が高く、メンバーとファンが演奏中に失神する場面があったことから「失神バンド」として知られる。デビュー曲や「スワンの涙」がヒット。野口は端正なルックスで、ザ・タイガースの沢田研二やザ・テンプターズの萩原健一とともに多くの女性ファンを獲得した。後に演歌歌手・真木ひでととして活躍。

ザ・モップス

​1967年11月「朝まで待てない」でデビュー。鈴木ヒロミツがヴォーカルを務める、日本におけるサイケデリック・ロックの草分け的バンド。テレビ出演の多いGSグループとは一線を画し、ジャズ喫茶や米軍キャンプ場を主戦場とするGS界の異端児だった。「たどりついたらいつも雨ふり」「すずき・ひろみつの気楽に行こう」などがヒットした。’74年に解散。

パープル・シャドウズ

1968年3月「小さなスナック」でデビュー。デビュー曲は47万枚の大ヒットとなるが、その後ヒット曲には恵まれなかった。(’69年にリリースした「別れても好きな人」は不発だったが、10年後の’79年にロス・インディオス&シルヴィア盤が発売されて大ヒットとなった。)若さを売りにする他のグループとは異なり、七三分けの髪型のサラリーマンスタイルで落ち着いたサウンドを繰り出すムード歌謡の雰囲気も持つグループだった。

フォー・セインツ

1965年デビュー。代表曲は「小さな日記」(’68年)。爽やかなハーモニーが魅力で、青春フォークとグループサウンズの橋渡し的存在。テレビ出演も多く、清潔感あるイメージで若者の支持を集めた。日本におけるコーラスグループ系フォークの先駆けとして評価されている。

ザ・フォーク・クルセダーズ

1967年、自主制作盤「帰って来たヨッパライ」でデビュー(正式な全国発売は’67年12月)。ラジオで人気となり、ミリオンセラーを記録。関西大学の学生バンドが一夜にして国民的グループに。風刺とユーモアに満ちた楽曲が特徴で、「イムジン河」は放送禁止騒動も話題に。’68年に人気絶頂で解散し“伝説のフォークグループ”と称される。加藤和彦はのちにサディスティック・ミカ・バンドなどで活躍。

ジローズ

1969年、テレビ番組『リブ・ヤング!』の挿入歌「戦争を知らない子供たち」でデビュー。同曲が反戦フォークとして大ヒット。堺武男と杉田二郎によるデュオで、明快なメッセージと覚えやすいメロディが支持された。解散後、杉田はソロで活躍、「男どうし」などもヒット。時代の空気を象徴するグループとして記憶されている。

ミニコラム ─ この時代の気になる人々 [六本木野獣会]

1961年に結成された、すぎやまこういちと田辺靖雄を中心とする富裕層ティーンの遊び人グループ。本来は「野獣会」と呼ばれた。赤坂・六本木に集ったことから「六本木族」と混同され「六本木野獣会」とも呼ばれる。メンバーには峰岸徹、中尾彬、大原麗子、小川知子、井上順、ムッシュかまやつら後にスターとなる若者が多く最大30人規模。赤坂のカフェ「シャンゼリゼ」を拠点に、当時の都会的な若者文化の象徴となり、映画やテレビにも影響を与えたが、主要メンバーの売出しに伴い数年で自然消滅した。

ダークダックス

1951年結成。テレビ時代の草創期から活躍した男声コーラスグループ。「ともしび」「雪山讃歌」などフォーク調の楽曲で親しまれた。学究肌のメンバーが多く、ロシア民謡や唱歌の紹介にも尽力。バラエティ出演も多く、親しみやすい知性派グループとして世代を問わず人気を得た。

和田弘とマヒナスターズ

1953年結成。’57年「お百度こいさん」でヒットし、’59年「誰よりも君を愛す」でレコード大賞受賞。ラテン調ムード歌謡を確立した草分け的存在で、ジャズやマンボの要素も取り入れた。和田のギターと阿蘇しのぶら多彩なボーカリストが魅力で、当時の歌謡界に多大な影響を与えた。

デューク・エイセス

1955年結成。アメリカンポップスから民謡、童謡まで幅広く歌う男声コーラス。’60年代には「筑波山麓合唱団」「女ひとり」など、叙情性あふれる楽曲で注目された。ユーモアと品のあるパフォーマンスで教育番組やCMでも活躍。美しいハーモニーと豊かな表現力で高い評価を得た。

ソルティー・シュガー

1969年「走れコウタロー」でデビュー。駅伝をテーマにしたユーモラスな楽曲が異例のヒット。コミカルなイメージながら、メンバーの多くはのちにプロの作家やプロデューサーとして音楽業界に関わる。風刺と笑いの要素を併せ持つ、異色のフォークユニットとして記憶される。

ベッツィ&クリス

1969年、「白い色は恋人の色」でデビュー。アメリカ人女性二人組による異色のフォークデュオで、流暢な日本語と美しいハーモニーで話題に。続く「花のように」もヒット。短期間の活動ながら、日本のフォーク界に強烈な印象を残した。のちに帰国し、活動は自然消滅的に終了。

じゅん&ネネ

スクールメイツ出身の森くるみ(じゅん)と筑紫恵子(ネネ)の女性デュオ。1964年にクッキーズとしてデビューし、’68年にじゅん&ネネへ改名。コシノジュンコと平尾昌晃が名付けた。キングレコードから再デビューした「愛するってこわい」が80万枚を売り上げ一躍人気デュオとなるが’72年に解散。じゅんはソロ活動後に結婚し芸能界を引退。ネネは留学を経て音楽活動を継続した。

黒沢明とロス・プリモス

1967年「ラブユー東京」でデビュー。都会の夜を感じさせるムード歌謡の代表格。切ない恋心を甘い歌声で歌い上げ、「たそがれの銀座」「ラブユー貧乏」なども人気。夜の酒場やカラオケで定番のナンバーとなり、サラリーマン世代の共感を得た。メンバーチェンジを重ねながら長期にわたり活動。

内山田洋とクール・ファイブ

1969年「長崎は今日も雨だった」でデビュー。前川清の甘く深い歌声と、ムード歌謡の美しいハーモニーで一世を風靡。「中の島ブルース」「そして、神戸」などヒット多数。和装・洋装を取り入れたスタイルも斬新で、ムード歌謡を現代風に洗練させた存在。解散後も前川はソロで活躍。

ロス・インディオス

1969年「コモエスタ赤坂」でブレイク。ラテン歌謡を日本風にアレンジしたムード歌謡グループとして活躍。男女デュエットの形も多く、’80年代にシルヴィアとの「別れても好きな人」で再ブレイク。酒場の哀愁や恋心を情熱的に歌い上げ、長年愛されるグループに。

フォーリーブス

1968年9月デビュー。北公次、青山孝、江木俊夫、永井秀一の4人によるジャニーズ事務所の男性アイドルグループ。代表曲は「ブルドッグ」「地球はひとつ」など。歌とダンスを本格的に取り入れたパフォーマンスで、テレビ、コンサート、舞台など幅広く活躍し、ジャニーズ系アイドルの基本スタイルを築いた。

ヒデとロザンナ

1968年デビュー。日本人の出門英(ヒデ)とイタリア人歌手ロザンナによる男女デュオ。代表曲「愛の奇跡」は異国情緒たっぷりの美しいハーモニーで大ヒットした。プライベートでも結婚し、夫婦デュオとして活動していたが、後にヒデの早逝により惜しまれながら活動を終了した。

 この時代の流行 ─

アイビールック

1950年代のアメリカ東海岸・名門大学アイビーリーグの学生たちの装いに由来し、三つボタンのブレザー、ボタンダウンシャツ、コットンパンツ、ローファー、七三分けの髪型を基本とする端正な紳士的スタイル。日本では’60年代にVANと『MEN’S CLUB』が普及を牽引し、定番コーディネートを提示することで若者に広まった。銀座みゆき通りの「みゆき族」など街の若者文化とも結びつき、写真集『TAKE IVY』の発表などを通じて独自のファッション文化として定着した。

ビリー・バンバン

1969年「白いブランコ」でデビュー。菅原兄弟によるハーモニーデュオ。繊細で叙情的な楽曲が多く、フォークというよりメロウなポップスとしても親しまれた。兄・孝の病気による活動休止を乗り越え、’91年「また君に恋してる」で再ブレイク。長寿グループとして根強い人気を持つ。

ブレッド&バター

1969年のデビュー曲は「マリエ」(’70年発表)。岩沢兄弟によるユニットで、日本の“湘南サウンド”の源流的存在。アメリカ西海岸の影響を受けた都会的で洗練されたサウンドは、後のシティポップに通じる。長く音楽活動を続け、ミュージシャンからの評価も高い。

トワ・エ・モワ

1969年「或る日突然」でデビュー。白鳥英美子と芥川澄夫の男女デュオで、柔らかいハーモニーと知的なイメージが特徴。「空よ」「誰もいない海」などがヒット。’72年札幌五輪のテーマ「虹と雪のバラード」でも注目を集めた。女性フォークの先駆け的存在としても重要。

グループ > 1970年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

赤い鳥

1969年結成、’70年代を中心に活動し’74年に解散した。各メンバーがボーカルを担当する美しいハーモニーが特徴。民謡や子守唄を取り入れつつ、ソフトロック的要素も兼ね備え関西フォークとは一線を画した。’69年ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストでグランプリを獲得、’70年にシングル『人生/赤い花白い花』とアルバム『FLY WITH THE RED BIRDS』でメジャーデビュー。’71年の『竹田の子守唄/翼をください』は100万枚を超えるヒットとなった。解散後、元メンバーは紙ふうせん、ハイ・ファイ・セット、ハミング・バードを結成した。

はっぴいえんど

1970年代前半に活動したロックバンドで、細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂により結成された。松本の巧みな日本語詞と大瀧・細野の作曲により、日本語ロックの基礎を築き、民俗的・文学的要素を音楽に取り入れた。アメリカのロックやフォークの影響を受けつつ、日本語歌詞を中心にした独自の音楽性を展開。全日本フォークジャンボリーへの出演や、代表曲「風をあつめて」のヒットで注目された。後続の日本のロックバンドや松田聖子らの楽曲に大きな影響を与え、バックバンド活動やサポート参加も行った。

オフコース

1970年にシングル『群衆の中で』でデビュー。初期はフォークソング的なアコースティック中心の曲を演奏し、’72年から小田和正と鈴木康博のデュオ体制を経て、’76年に松尾一彦、清水仁、大間ジローが加わりバンドサウンドを確立。’79年以降の「さよなら」などのヒットで人気を獲得し、テレビ出演をほとんどせずレコード制作とコンサートに専念する独自路線を貫いた。’82年の鈴木脱退後も活動を再開し、’89年に解散した。

殿さまキングス

1967年結成。元々はコミックバンドとしてお笑い番組に出演していたが、’70年代に歌謡コーラス・グループに転向し成功を収めた。リーダー長田あつしら4人編成で、’73年の「なみだの操」、’75年の「夫婦鏡」が連続ミリオンヒットとなり史上初の快挙を達成。演歌系のほかリズム曲やワールドミュージックにも意欲的に取り組んだ。’80年代にはポップス要素も取り入れ、’90年に解散後はメンバーがソロや懐メロ番組で活動を継続した。

かぐや姫

南こうせつを中心に活動。第1期は南・森進一郎・大島三平の3人でデビューし、短期間でシングル3枚とアルバム1枚を発表。第2期は南・伊勢正三・山田パンダの編成で1971年に再結成し、シングル『青春』で再デビュー。’73年の『神田川』が160万枚の大ヒットとなり、フォークシーンで絶大な人気を得た。グループ名は第2期から「かぐや姫」となり、映画化の影響やレコード会社との意向により解散は早まり、’75年の東京公演をもって活動終了。メンバーはソロや別ユニットで活動を継続した。

RCサクセション

忌野清志郎を中心に結成されたロックバンドで「King of Rock」「King of Live」と称され、日本語ロックの確立やライブパフォーマンス文化に大きな影響を与えた。基本的に忌野が作詞・作曲した楽曲をバンドでアレンジし演奏するスタイルをとり、共作も行った。1982年には坂本龍一との「い・け・な・いルージュマジック」がヒットし、過激なMVなどで注目を集めた。RCとしての活動はその後も続き、自身のレーベル設立など革新的な試みを行ったが、’91年以降活動休止、2009年の忌野死去により事実上解散した。

森田公一とトップギャラン

1969年結成。腕利きミュージシャンの集合体として知られる。’70年代に「青春時代」などのヒット曲を生み、’77年には第28回NHK紅白歌合戦に出演した。デビュー後、’75年にCBS・ソニーへ移籍してから安定した人気を獲得。’81年に解散したが、’90年には森田の作曲家30周年を記念してトップギャランⅡとして再結成され、後にオリジナルメンバーに狩人の加藤久仁彦を迎え再び活動を継続した。バンド名は帆船の上檣に由来し、メンバー全員がリーダー経験者であることを象徴している。

チューリップ

1968年にザ・フォーシンガーズとして結成され、’70年代に財津和夫を中心に本格活動を開始した。ビートルズに影響を受けたメロディとコーラス、メンバー全員が作詞・作曲・ボーカル・コーラスを担当するスタイルが特徴。’73年「心の旅」、’74年「青春の影」、’75年「サボテンの花」、’79年「虹とスニーカーの頃」などヒットを連発し、ツインボーカルを活かした楽曲で人気を獲得。’79年以降メンバー交代が相次ぎ一時低迷したが、後に再結成され、オリジナルメンバーでのライブ活動を展開した。

 敏いとうとハッピー&ブルー

1971年に敏いとうが結成した日本のムード歌謡グループ。’73年に森本英世を2代目リードボーカルに迎え、’74年の『わたし祈ってます』をはじめ、『星降る街角』『よせばいいのに』などヒット曲を連発し、「ムード歌謡の帝王」と称された。’83年に森本脱退後、一時活動休止も経験するが、’96年以降再開。リードボーカルは変遷しつつ、2021年には「新✩SHINSEI敏いとうとハッピー&ブルー」として後継グループが正式認定され、現在も活動を継続している。

シモンズ

大阪出身の女性フォークデュオで、田中ユミと玉井タエにより1970年代初頭に活動した関西フォーク系グループ。グループ名は「サイモン&ガーファンクル」のサイモンに由来する。高校時代からライブ活動を行い、上京後にRCAレコードからデビュー。デビュー曲『恋人もいないのに』が60万枚超の大ヒットとなり、’71年の日本レコード大賞新人賞を受賞。’74年に玉井の結婚で一時休止するも、’78年にテレビドラマ主題歌で再開し翌年に解散した。CMソングも多数手掛け、特に明治製菓「チェルシー」の曲が有名である。

チェリッシュ

愛知県出身の松崎好孝と松崎悦子による夫婦フォークデュオ。1968年に松崎好孝を中心とした4人組で名古屋にて結成、’70年に悦子が加入し第1期チェリッシュとなる。’71年、音楽コンテストでグランプリを獲得後、シングル『なのにあなたは京都へゆくの』でデビュー。’72年に男女デュオ体制となり、第2期チェリッシュとして活動。’73年の『てんとう虫のサンバ』『避暑地の恋』など多数のヒット曲を生み、結婚後も夫婦デュオとして全国ツアーやテレビ出演を行い、清純で親しみやすいメロディーと歌唱で人気を博した。

かぐや姫

南こうせつを中心に活動したフォークグループ。第1期は南、森進一郎、大島三平の3人組で「酔いどれかぐや姫」などを発表し、1年間でシングル3枚とアルバム1枚を残した後に解散。第2期は南が伊勢正三と山田パンダを加え再結成し、1971年のシングル『青春』で再デビュー。’73年に『神田川』が160万枚の大ヒットとなり、深夜放送のリスナーを中心に人気を獲得した。映画化やレコード会社の意向によりアーティストの意思が制約されたこともあり、’75年4月に解散した。

ガロ

1970年から’76年まで活動した、堀内護(MARK)、日高富明(TOMMY)、大野真澄(VOCAL)の3人組フォークロックグループ。全員がボーカルとギターを担当し、卓越したコーラスワークと演奏技術で知られ、「和製CSN&Y」と称された。’73年には「学生街の喫茶店」「君の誕生日」「ロマンス」がヒットし一世を風靡。元々はCSN&Yのコピーバンドとして活動を開始し、初期から都会的でファンタジックな楽曲を制作。後期にはソフトロックやプログレッシブ・ロック、ハード・ロック的要素も取り入れ、多様な音楽性を示した。

ペドロ&カプリシャス

リーダーのペドロ梅村を中心に結成されたバンド。ジャズやフォーク、ラテンロックなど洋楽の要素を取り入れたアダルト・コンテンポラリーなサウンドで人気を集めた。1971年に前野曜子を迎えデビュー曲「別れの朝」がヒットし、’73年には高橋まり(現・髙橋真梨子)を迎えて「ジョニィへの伝言」「五番街のマリーへ」などのヒット曲を生む。ボーカルは世代交代を繰り返しながら活動を継続し、’70年代に洗練されたメロディと洋楽的アレンジで多くのファンを魅了した。

青い三角定規

1971年、西口久美子、岩久茂、高田真理の3人で結成された。作曲家いずみたくが深く関わり、’72年にはドラマ『飛び出せ!青春』主題歌「太陽がくれた季節」が100万枚を超える大ヒットとなり『日本レコード大賞』新人賞を受賞、NHK紅白歌合戦にも初出場した。メンバー間の方向性の違いから’73年に解散。その後、西口はソロ歌手・女優、岩久は作曲家、高田は一時歌手後に芸能界を引退。解散後、いずみたくのプロデュースで新メンバーによる新「青い三角定規」が短期間活動した。

アリス

1971年、谷村新司、堀内孝雄、矢沢透の3人で結成。’72年シングル「走っておいで恋人よ」でデビューし、下積みの地道なツアー活動を経てファン層を拡大した。谷村のラジオ出演やオリジナル曲「帰らざる日々」「冬の稲妻」「チャンピオン」などのヒットにより知名度を高め、’78年には日本人アーティストとして初めて日本武道館3日間公演を成功させ、一時代を築いた。全国の主要ホールや野球場でも満員公演を実施し、’70年代を代表する人気グループとなった。

ビリーバンバン

兄・菅原孝と弟・菅原進による東京都出身の兄弟フォークデュオ。1968年に兄弟デュオとして再編され、’69年にシングル「白いブランコ」でメジャーデビュー。弁舌さわやかな兄と口下手な弟という対照的なコンビが特色で、一躍フォークシンガーの代表格となった。’72年にはテレビドラマ主題歌「さよならをするために」が約80万枚のヒットを記録しNHK紅白歌合戦にも出場。その後活動は続くが、’76年に解散。兄は司会者、弟は歌手・作曲家として独自の道を歩んだ。

宮史郎とぴんからトリオ

宮史郎を中心に結成された音曲漫才出身の歌謡コーラスグループ。1963年に宮五郎、並木ひろしとともに「ぴんからトリオ」として活動を開始し、’72年に自主制作の「女のみち」が420万枚を売り上げ大ヒット。続く「女のねがい」「女のゆめ」も大ヒットし、昭和歌謡界で人気を博した。’73年に並木脱退後「ぴんから兄弟」として活動。第15回日本レコード大賞大衆ヒット賞受賞、第24回紅白歌合戦にも出演。その後宮史郎はソロ転向し、『片恋酒』などのヒットを重ね、演歌・ナツメロ界で長年活躍した。

フィンガー5

沖縄出身の5人兄妹による歌って踊る歌謡アイドルグループで、四男・晃の変声期前のハイトーンボイスを軸に1970年代に爆発的な人気を得た。米兵向けバーで洋楽に親しみ、ソウルやモータウンを基盤とした高い歌唱力とダンスが特徴。’60年代後半からバンド活動を続け、紆余曲折ののち’72年に再デビュー。’73年の「個人授業」が145万枚超の大ヒットとなり、「恋のダイヤル6700」「学園天国」などミリオンを連発した。子どもらしいルックスとパワフルなパフォーマンスで社会現象的ブームを巻き起こした。

海援隊

1971年に結成された男性3人組フォークグループ。福岡・照和を拠点にブルースロックからフォークへと作風を変えながら活動した。泉谷しげるの後押しで’72年にエレックからデビューし、「母に捧げるバラード」がヒット。武田の表現力と3人のハーモニーが支持された。低迷期を経て’77年に「あんたが大将」で再浮上し、’79年にはドラマ『3年B組金八先生』主題歌「贈る言葉」がミリオンを記録。’70年代フォークの中でも叙情性と社会性を併せ持つ独自の存在として定着した。

キャロル

1972年に結成。矢沢永吉とジョニー大倉を中心に革ジャンとリーゼントをまとった50’sスタイルで一躍注目を浴びた。ビートルズの初期ロックを源流に、日本語オリジナル曲で勝負した点が大きな革新で、矢沢作曲・大倉作詞の体制が音楽性を支えた。『リブ・ヤング!』出演を契機に一気にブレイク。「ルイジアンナ」「ファンキー・モンキー・ベイビー」などがヒットし、若者文化を象徴する社会現象となる。過激な人気ゆえトラブルも多く、内紛や不祥事を抱えつつ、’75年に解散した。

ゴールデン・ハーフ

1970年代前半に活動した女性アイドルグループで、全員がハーフという設定で人気を集めた。’69年、日本テレビ系『ドリフターズ大作戦』のマスコットガールとしてエバ、マリア、ユミ、マーガレット、タミ、ミキの6人で結成され、渡辺プロダクションに所属。’70年8月、スリー・キャッツの「黄色いサクランボ」をカバーしてデビューした。その後「チョット・マッテ・クダサイ」「ロコモーション」などで人気を高めた。編成の変遷を経て4人組時代に人気が最高潮となるが、’73年にリーダー小林ユミが脱退。’74年「メロンの気持」を最後に解散した。

あのねのね

京都産業大学の学生だった清水国明と原田伸郎によって結成されたフォークデュオで、1970年代中期から活動を本格化した。’73年に「赤とんぼの唄」でデビューし、ブラックユーモアを効かせたコミックソングと軽妙なトークで人気を獲得。「魚屋のオッサンの唄」などが代表曲で、ラジオ・テレビでも活躍した。一方で「雪が降っています」「嫁ぐ朝に」などの抒情的な曲も持ち味とした。その後休止期間を経て「ネコ・ニャンニャンニャン」などを再びヒットさせた。

ダ・カーポ

久保田広子と榊原まさとしによるフォークデュオで、1973年にデビュー。翌年の「結婚するって本当ですか」が60万枚の大ヒットとなり代表曲となる。広子の柔らかな美声と確かな歌唱力、親しみやすいメロディーを特長とし、フォークに加えて童謡・唱歌や民謡のアレンジにも積極的に取り組んだ。グループ名は演奏記号「D.C.」に由来し「初心を忘れない」思いを込めたもの。広子と榊原は’80年に結婚した。

ぴんから兄弟

宮五郎・宮史郎兄弟を中心にした歌謡コーラスグループで、元は1963年結成の音曲漫才「ぴんからトリオ」が母体。’72年、自主制作盤「女のみち」が有線放送から火がつき420万枚の大ヒット、続く「女のねがい」「女のゆめ」もミリオン級となり社会現象化した。これを機に音曲漫才から本格的な演歌・コーラス路線へ転換。’73年に並木ひろしが脱退し「ぴんから兄弟」と改名。同年レコード大賞・大衆ヒット賞受賞、NHK紅白にも出場するなど’70年代前半の演歌ブームを代表する存在となった。

キャンディーズ

スクールメイツ出身のラン・スー・ミキにより結成され、1972年にNHK番組のマスコットガールとして登場、’73年「あなたに夢中」でデビューした。当初は目立たない存在だったが、’75年「年下の男の子」でランをセンターに据えて大ブレイクし、大学生を中心に熱狂的人気を獲得。「春一番」「やさしい悪魔」などヒットを連発し、バラエティ番組でも親しみやすいコントで人気を確立。女性の髪型を真似る流行も生んだ。’77年、人気絶頂の中で突然の解散を発表し「普通の女の子に戻りたい」は時代の象徴的フレーズとなった。

グレープ

さだまさしと吉田正美による1972年結成のフォークデュオで、’76年に解散した。高校時代からの友人同士で、長崎で自主的に活動を始め、地元メディアの後押しを受けて’73年「雪の朝」でデビュー。当初は無名だったが’74年の「精霊流し」が深夜ラジオをきっかけに全国的ヒットとなり、日本レコード大賞作詩賞を受賞。「追伸」「無縁坂」などを発表し人気を確立。一方でロック志向も強く、ジャズギターやヴァイオリンを生かした多彩なサウンドに挑戦した。男性デュオの成功例として後の音楽界にも影響を残した。

ダウン・タウン・ブギウギ・バンド

宇崎竜童を中心に1973年に結成された、日本語ロックブームを決定づけた存在。ブルースを基調にしたロックに奇抜な語り口やユーモアを取り入れ、「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」などのヒットで人気を獲得。ツナギ姿のステージ衣装も話題となり、’75年には紅白歌合戦に初のロックバンドとして出場した。’79年以降は過去曲を封印し、’80年に改名してシリアスなブルース・ロックを追求。’81年に解散したが、のちに断続的に再結成している。

クラフト

1970年代半ばに活躍した日本のフォーク・ロックグループで、さだまさし作詞・作曲のセカンド・シングル「僕にまかせてください」やサード・シングル「さよならコンサート」がヒットした。’75年に注目を集め、’78年に一度解散したが、2012年の『FRIENDSHIP JAMBOREE』を契機にライブ活動を再開。メンバーは三井誠(ボーカル・ギター・ピアノ)、森谷有孝(ギター)、松藤一美(ドラムス)、浜田金吾(ベース)で、解散後も各自が作曲やライブ活動など音楽活動を継続している。

ずうとるび

1970年代に活躍したバンドグループで、日本テレビ「笑点」の”ちびっ子大喜利”出演者を中心に結成され、’74年に「透明人間」でレコードデビューした。バラエティ番組出演でも人気を博し、「みかん色の恋」「恋があぶない」などのヒット曲を持つ。’77年に中心人物の山田隆夫が脱退後も新メンバーを加えて活動を継続し、’82年に一度解散したが、2020年に山田を含む5人で再結成。歌とダンスを組み合わせたパフォーマンスやバンド演奏で幅広い人気を得た。

ジョー山中

神奈川県横浜市出身のミュージシャン・俳優・元プロボクサー。1968年に内田裕也の誘いでロックバンド「フラワー・トラベリン・バンド」にボーカルとして参加し、’70年アルバム『ANYWHERE』でデビュー。’71年にはバンドの2ndアルバム『SATORI』を北米で同時発売し、EL&Pと共演するなど国際的に活躍。’73年のバンド解散後はソロに転向し、’74年アルバム『Joe』をリリース。’77年には映画『人間の証明』の主題歌「人間の証明のテーマ」が約51万枚のヒットを記録し、国内外のロックシーンで高く評価された。

山本コウタローとウィークエンド

山本コウタローとウィークエンドは、1974年に山本コウタロー、森一美、板垣秀雄で結成されたフォークグループ。デビュー曲「岬めぐり」がオリコン5位の大ヒットとなり、「走れコウタロー」と共に現在も歌い継がれる名曲となった。’76年以降はグループ名を「ウィークエンド」に改称。山本は’70年代TBSラジオ『パック・イン・ミュージック』の金曜パーソナリティを担当し、太平洋戦争の取材経験も持つ。後にアメリカでの生活を経て著書『アメリカあげます』を発表し、テレビ司会やタレント活動など多方面で活躍した。

 紙ふうせん

1974年に結成された日本のフォークデュオ。メンバーは元「赤い鳥」の後藤悦治郎と平山泰代で、夫婦としてデュオ活動を開始した。’77年の「冬が来る前に」がヒットし代表曲となる。フォークソングの創作だけでなく、民謡や各地の伝承歌の取材も行い、原点を探求する姿勢を持つ。テレビ出演は少ないが、フジテレビ『夜のヒットスタジオ』やTBS『ザ・ベストテン』にも登場。「翼をください」など赤い鳥時代の楽曲も引き継ぎ、関西を拠点に息の長い活動を続けた。

さくらと一郎

徳川一郎と初代さくら(河野さくら)によるデュエット歌手で、1974年に結成。デビュー曲「昭和枯れすゝき」が150万枚の大ヒットとなり一躍人気を獲得した。’78年に初代さくらが離脱後、二代目さくら(山岡さくら)が加入し、現在も「さくらと一郎」として活動を継続している。昭和歌謡の情緒を生かした楽曲が特徴。現在もテレビ挿入歌やカラオケ指導など幅広く活動し、「昭和枯れすゝき」をはじめ、長年にわたり親しまれる歌謡デュオである。

ふきのとう

北海道出身の山木康世と細坪基佳によるフォークデュオで、1970年代のフォーク・ニューミュージックブームを牽引した。’74年に「白い冬」でデビューし「風来坊」「春雷」「やさしさとして想い出として」などのヒットを生む。二人はソロ活動も並行しつつ、’81年には自身のレーベル「Silverland」を設立。デビュー10周年の’84年日比谷野外音楽堂コンサートや、’87年日本武道館公演を成功させた。’92年にラストライブを行い解散。18年間の活動でフォークシーンに独自の存在感を残し、再結成は現在も行われていない。

甲斐バンド

1974年に甲斐よしひろを中心に結成されたロックバンドで、デビュー曲は「バス通り」。’80年代初頭にかけて「HERO」「安奈」などのヒットで日本のロックシーンを牽引し、NHKホールや日本武道館での大型コンサートを成功させた。独自の演出やスタジアム・野外公演にも挑戦し、圧倒的なライブ動員力を誇った。’86年に解散するまでに12年間活動し、解散後も再結成やプレミアム・ライブが行われ、甲斐よしひろはソロとしても活動を続けている。

1975年にかぐや姫の伊勢正三と猫の大久保一久によって結成されたフォークデュオ。デビュー曲「22才の別れ」がいきなり大ヒットし、女性ファンを中心に高い人気を獲得した。以後「海岸通」「あいつ」「北国列車」などヒット曲を多数生んだ。フォークの持ち味を重視し、テレビ歌番組への出演は最小限に抑えたことも特徴。’79年に活動を休止したが、その後もソロコンサートや特別ライブで断続的に共演し、フォークデュオとしての存在感を長く保った。

ハイ・ファイ・セット

1974年結成の日本のコーラスグループで、’75年に荒井由実作詞・作曲の「卒業写真」でレコードデビュー。山本潤子(ソプラノ)、山本俊彦(テナー)、大川茂(バス)の3人による美しいハーモニーと洗練されたアレンジでニューミュージック全盛期に人気を博した。’77年には「フィーリング」がヒットし紅白歌合戦にも出演。’80年に一時活動停止するも再開し、ジャズやCMソングなど新境地を開拓。’92年の活動休止を経て、’94年に解散した。

 河島英五とホモ・サピエンス

1975年にメジャーデビューしたグループで、河島英五がリーダーを務めた。’76年の「酒と泪と男と女」が全国的ヒットとなり、河島の名を広く知らしめた。フォーク調の哀愁ある楽曲を得意とし、「時代おくれ」など親父世代に愛される曲も多数。海外のフォルクローレ曲を日本語にアレンジするなど、独自の音楽性も持っていた。グループ活動後も河島はソロやテレビ出演、チャリティコンサートなど幅広く活躍し、日本のフォーク・ニューミュージック界において影響力を持った。

シュガー・ベイブ

1973年に結成され、’76年まで活動した日本のポップスバンド。自主制作盤「ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY」のメンバーを中心に結成され、分数和音やフラット5th、シャープ9thなど複雑なコード進行を駆使し、コーラスを重視した音作りで一部ファンから支持を得た。’70年代初頭の日本のロック・サブカルチャーでは独自のスタイルであったが、当時は評価や商業的成功に恵まれず、構造的宿命もあって’76年に解散した。

ザ・リリーズ

双子の姉妹、燕奈緒美と燕真由美による女性アイドルデュオ。北海道夕張市出身で1975年、東芝EMIから「水色のときめき」でデビュー。2ndシングル「好きよキャプテン」が大ヒットした。デビュー当初はフォーク調バラードが中心で、歌手活動と並行しテレビ番組や時代劇への出演などタレントとしても活躍した。結婚・出産により’86年に活動休止したが、2005年の再結成以降は東京を拠点にライブや歌番組に出演している。

ゴダイゴ

1976年にデビューしたプログレッシブ・ロックバンドで、’70年代後半から’80年代前半にかけて「ガンダーラ」「モンキー・マジック」「銀河鉄道999」などヒットを連発し、日本の音楽界に大きな影響を与えた。ミッキー吉野、タケカワユキヒデらを中心に活動し、コーラスや演奏に高度な技術を駆使。テレビドラマや映画主題歌にも多数参加した。’85年に一度解散するが、’99年以降断続的に再結成、2006年に恒久的再始動。多国籍メンバーによる革新的なサウンドと映像との連動で、国内外にファンを持つロックバンドとして知られる。

ピンク・レディー

根本美鶴代(ミー)と増田啓子(ケイ)による女性デュオで1970年代後半に活動。’76年『スター誕生!』出演後、同年「ペッパー警部」でデビューした。以降「S・O・S」「カルメン’77」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド」「UFO」「サウスポー」など多数のヒットを連発し、連続ミリオンセラーを記録。子供から大人まで幅広い支持を集め、テレビ出演や商品化も盛んに行われた。オリコン連続1位・ミリオンセラー記録は当時の新記録で、ディスコ・ポップス系アイドルの先駆けとして音楽史に残る存在となった。

クリスタルキング

1971年に九州で結成されたロックバンドで、低音ボーカルのムッシュ吉﨑とハイトーンボーカルの田中昌之によるツインボーカルが特徴。’76年にデビューし、’79年に世界歌謡祭グランプリを契機に再デビュー。代表曲「大都会」は累計150万枚を売り上げるミリオンヒットとなり、「蜃気楼」「セシル」などもヒット。NHK紅白歌合戦出場やアニメ主題歌担当などで広く知られ、特に「大都会」と「愛をとりもどせ!!」は今も人気が高い。’80年代以降メンバー変動があり、現在はムッシュ吉﨑によるソロプロジェクトとして活動している。

サーカス

1978年デビューの男女2名ずつによる4人組コーラスグループで、ハートウォームなコーラスワークと個々の高い歌唱力が特徴。アカペラも得意とし、コーラスグループの先駆者として評価された。デビュー曲「Mr.サマータイム」は発売同年に100万枚を突破する大ヒットとなり、その他「アメリカン・フィーリング」「Woman in Love」などのヒット曲がある。コンサートやCD制作、TV・ラジオ出演のほか、コーラスワークショップやソロ活動、夫婦ユニット「J&O」なども展開。現在も国内外で活動を継続している。

狩人

兄・加藤久仁彦と弟・加藤高道によるフォークデュオで、1977年に「あずさ2号」でデビュー。同曲は累計80万枚を売り上げ『第10回新宿音楽祭』金賞や『第19回日本レコード大賞』新人賞を受賞した。デビュー当初からハーモニーと歌唱力が高く評価され、「コスモス街道」「若き旅人」「アメリカ橋」などのヒット曲を持つ。テレビ出演やラジオ活動、コンサートで人気を獲得。’90年代に一度解散するも、東日本大震災を契機に2012年に再結成され、地元福島や全国で活動を続けている。

レイジー

1973年結成のロックバンドで、影山ヒロノブを中心に高崎晃、井上俊次、田中宏幸、樋口宗孝らが在籍。’77年にデビューし、当初はアイドル路線のポップスを強いられたが、ステージではハードロックを演奏し独自性を追求した。メンバーのツインボーカルや高崎のギタープレイが注目され、アルバム『Rock Diamond』や『宇宙船地球号』ではハードロック色を前面に押し出した。’80年以降、ヘヴィメタル宣言で原点回帰を図ったが、音楽性の違いや事務所との確執により1981年5月に解散した。

柳ジョージ&レイニーウッド

1975年に柳ジョージを中心に結成されたロック・R&Bバンドで、’81年に解散。ブルースロックを基盤としたR&B色の強い楽曲と柳の個性的なボーカル、上綱克彦や石井清登らの高いソングライティング力で人気を獲得した。’78年の「雨に泣いてる…」でブレイクし、’79年のアルバム『RAINY WOOD AVENUE』ではオリコン1位を記録。玄人受けする大人のロックバンドとして支持され、日本武道館公演で解散後も柳ジョージはソロ活動を展開した。

世良公則&ツイスト

1977年に世良公則を中心に結成。’78年のデビュー曲「あんたのバラード」で注目を集め、独特なワイルドなボーカルとパフォーマンスで若者を熱狂させた。オリコンチャートで複数のヒットを記録し、デビューアルバムも1位を獲得。女性ファンを中心に支持を広げ、ロックの大衆化に貢献。「ロック御三家」の一角として歌謡曲全盛期にロックをメジャー化し、テレビ出演やアイドル誌登場で新たな潮流を作った。代表曲に「あんたのバラード」「銃爪」「宿無し」「燃えろいい女」などがある。

平尾昌晃・畑中葉子

1978年に発売されたデュエット曲「カナダからの手紙」が大ヒット。畑中葉子は平尾の音楽スクール生の中から選ばれ、本曲でデビューした。同曲の影響で日本人観光客のカナダ訪問者が3割増加する現象も生まれた。同年の第29回NHK紅白歌合戦に白組として出演し、男女デュエットの白組歌唱という異例の形で話題となった。以降もデュエット曲をリリースしたが、ランキング入りは本曲のみ。日清食品CMの替え歌にも採用されるなど、’70年代後半の音楽界で話題を呼んだペアだった。

シーナ&ザ・ロケッツ

1978年に鮎川誠と妻シーナを中心に結成されたロックンロール・バンド。福岡でバンド活動していた鮎川の経験を背景に、上京後、同年10月に『涙のハイウェイ』でメジャーデビュー。’79年にYMOメンバーの協力でアルバム『真空パック』を発表、シングル「ユー・メイ・ドリーム」がCMに起用されブレイク。以降もYMOとの共演や国内ツアー参加を重ね、’81年には米国でもアルバムをリリース。’70年代末の日本ロックシーンにおける重要バンドであった。

イエロー・マジック・オーケストラ

1978年に細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一の3人で結成。シンセサイザーとコンピュータを駆使した電子音楽を基盤に、東洋趣味を取り入れた「ライディーン」などの独自のサウンドで、’70年代末から’80年代初頭のテクノ・ニュー・ウェイヴムーブメントの中心となった。国内外で高い注目を集め、レコードリリースや海外ツアーも展開。ビジュアル面でも「赤い人民服」や「テクノカット」で特徴的なイメージを確立し、黄色人種ならではの音楽コンセプト「イエローマジック」を提唱、世界的にも注目される存在となった。

サザンオールスターズ

1974年に青山学院大学で結成され、’78年に「勝手にシンドバッド」でメジャーデビュー。桑田佳祐を中心に幅広いテーマの楽曲を制作し、ラブソングやバラードから風刺・反戦・郷土愛まで表現。独自の「巻き舌唱法」と日本語の美を活かした歌詞表現を使い分ける。長年にわたり数多くのヒット曲を生み出し、社会貢献や被災地支援にも取り組む。メンバー間の緊密な信頼関係と演奏技術の高さで「国民的ロックバンド」と称され、バンドだけでなくスタッフも含めた大所帯の音楽集団として活動を続けている。

SHŌGUN

1978年に芳野藤丸を中心とした腕利きスタジオ・ミュージシャンで結成され、当初はOne Line Band名義で活動。’79年、ケーシー・ランキン加入後、テレビドラマ『俺たちは天使だ!』の音楽担当として抜擢され、バンド名をSHŌGUNに変更。「男達のメロディー」が50万枚超のヒットを記録し、『探偵物語』やテレビアニメ映画『大恐竜時代』などの音楽も手がけた。メンバー全員がデビュー時点で10年以上の経験を持つ実力派で、短期間で国内外に存在感を示した。

ファッション

1980

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個性的なデザイナーの感性を前面に出したDCブランドが若者の支持を集め、ブランド志向が一段と強まった。

大型ファッションビルの登場とともに流行の規模も拡大し、日本独自のファッション文化が成熟していった。

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サーファーファッション

’70年代後半から始まったアメリカ西海岸文化への憧れがピークに達して登場したのがサーファーファッション。海に行かないのに格好だけを真似る「陸(おか)サーファー」という言葉が生まれるほど、当時の若者の間で圧倒的な支持を得た。 絶大な人気だった「POPEYE」、女性誌では赤文字系雑誌の「JJ」に新たに「CanCam」も加わると、女子大生の間では、エンジェル・フライトのパンタロンにプルメリアデザインのアクセサリーを合わせるきれいめサーファースタイルが空前のブームとなった。ファラ・フォーセット・メジャーズを手本とする、左右の髪に段をつけ(レイヤー)て後ろに流すサーファーカットも、この時代のトレンドだった。

竹の子族

’80年代初頭、独自の派手な衣装で踊る若者たちのグループ「竹の子族」が爆発的ブームとなる。当時の原宿竹下通りにあった「ブティック竹の子」で販売されていた服を着ていたことが名前の由来。アラビアの衣装を思わせるゆったりとしたシルエットのつなぎのような服がトレードマークで、赤、ピンク、紫、ターコイズブルーといった鮮やかな原色が好まれ、背中には漢字でグループ名や自分の名前が刺繍されていた。毎週日曜日、原宿・代々木公園横の歩行者天国にラジカセを持ち寄りディスコサウンドで踊る若者はピーク時は4,000人以上、ギャラリーは10万人/日に達したと言われる。

DCブランド

’70年代後半から’80年代に日本で流行した「デザイナーズ&キャラクターズ」の略称で、デザイナーの個性や独自の世界観を前面に出したファッションブランドの総称。既製服中心だった従来のアパレルに対し、少量生産と強いデザイン性で若者の支持を集めた。’80年代に最盛期を迎え、黒を基調とした装いの「カラス族」も登場した。代表的なデザイナーには三宅一生、川久保玲、山本耀司らがおり、渋谷や原宿のファッションビルを拠点に一大ブームを築いた。

スタジャン

’60年代、VAN Jacket(ヴァンヂャケット)がアイビー・トラッドスタイルとして広めた後、’80年代に大学のサークルなどでチームウェアとして作る文化が広がり人気が再燃した。DCブランドブームの中、メンズ・ビギ(MEN’S BIGI) のスタジャンは’84年〜’85年頃に「10万円近くする高級スタジャン」として若者にとって憧れのステータスアイテムとなり、’85年に誕生したブランド「セーラーズ 」の製品はマイケル・ジャクソンやおニャン子クラブの衣装にも採用されたことで社会現象となった。

ケミカルウォッシュジーンズ

漂白剤(次亜塩素酸ソーダ)を染み込ませた軽石をデニム生地と一緒に洗浄・脱色する加工技術によるケミカルウォッシュデニムが流行した。まだら模様や霜降り状の激しい色ムラが特徴で、ストーンウォッシュよりコントラストが強く、ヴィンテージ風や個性的なファッションスタイルを演出するアイテムして支持された。ジャケットやスカートも人気となった。

コンサバ

’70年代のニュートラ、ハマトラの系譜を継いで、保守的(コンサバティブ)な装いが、特に女子大生や若いOLの間で圧倒的な支持を得た。DCブランドや竹の子族のような個性的で尖ったファッションの対極として、誰からも好感を持たれる紺のブレザー(紺ブレ)や金ボタンのジャケット、キュロットスカート、パールのネックレスなどが定番だった。クレージュやピンキー&ダイアン、エルメスやヴィトンなどの高級バッグも必需品だった。女性誌「JJ」がコンサバ女子のバイブルで、コンサバファッションに身を包む読者モデルたちは「JJモデル」と呼ばれ、憧れの的となった。

プレッピー

アメリカの名門私立校やアイビーリーグの学生の服装を手本にした上品でカジュアルなスタイル。紺ブレザー、ボタンダウンシャツ、チノパン、カーディガン、ローファーなどを組み合わせ、知的で育ちの良さを感じさせる雰囲気を持つ。日本では’80年代に大きなブームとなり、「Tommy Hilfiger」「RALPH LAUREN」などのアイテムが人気となったを集めた。ニュートラやハマトラと並んで、若者の定番ファッションとして広まった。

ワンレン&ボディコン

バブル経済絶頂期を象徴する、最も華やかでパワフルなファッションスタイル。女性たちが「強く美しくセクシー」であることを楽しんだ時代の象徴で、ワンレングスの髪に体のラインを強調するワンピースを合わせたスタイルがトレンドとなる。ディスコ「マハラジャ」や’90年代になって「ジュリアナ東京」も加わると、フロアに設けられたお立ち台の上で派手な音楽に合わせて乱舞する女性たちが話題となった。髪型は前髪を作らないセクシーなワンレングスから、作った前髪を立ち上げてスプレーで固めてトサカ状にするスタイルへと派手に変化(進化?)していった。バブル時代の強い女性像を演出するファッションとしては、男性的なシルエットを作る「肩パッド入りの服」も大流行した。

渋カジ

’80年代後半から’90年代初頭にかけて、東京・渋谷の街に集まる若者(主に団塊ジュニア世代の高校生・大学生)の間で渋谷カジュアル「渋カジ」が爆発的に流行した。 特定のブランドやデザイナーが主導したものではなく、若者たちが既存のアイテムを独自の感性で組み合わせることで生まれた「ストリート発」のファッションである点が特徴。渋谷のチーマー(若者グループ)たちが自分たちの所属を示すアイコンとして特定のアイテムを着用し、それが流行を牽引た側面も持つ。

1970

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若者文化の成熟とともにファッションは多様化し、トラッド中心の時代から個性を求める流れへ移った。

原宿や渋谷といった街が流行の発信地となった。

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パンタロン

’60年代に続き、裾が広がるフレアパンツのパンタロンが脚長・細見え効果で大流行した。’72年にはスカートの生産量を抜き、男女問わずに支持されるユニセックスファッションの主流アイテムとなった。パンタロンにフリンジ付きのベストやタイダイ柄のシャツを合わせるヒッピースタイルを経て、’70年代後半はに女子大生に支持されるスタイルに変化した。

フォークロア&エスニック

ヒッピーたちのエコロジー指向による素朴なファッションとして、ヨーロッパの農家の日常着や中南米の民族衣装風の要素を取り入れたフォークロアやエスニックスタイルが愛された。刺繍入りブラウス、ロングスカート、ベストなど、’60年代のヒッピースタイルに装飾的な要素が加わり、女性のファッションとして広がりを見せた。

マジソンバッグ

歴史的なスポーツアリーナ、ニューヨークの「マジソン・スクエア・ガーデン」の名を冠したボストン型のバッグが’68年の発売からが’70年代半ばにかけて日本中で大流行した。「MADISON SQUARE GARDEN」の文字がプリントされた紺色のポリ塩化ビニールのバッグはアメリカへの憧れを刺激し、中・高生の通学用バッグとして大人気を博した。あまりの人気に模造品も出回り、すべて含めると当時の日本の5人に1人が所有する計算となる2000万個を売り上げた。このバッグはマジソン・スクエア・ガーデンが販売したものではなく、日本のバッグメーカー、エース社によるものが”本物”だった。

ジーンズ

’60年代のヒッピー文化のムーブメントをベースに、自然体で安価なデニム素材が支持され、ベルボトムやブーツカットのパンツが大流行した。海外ブランドのLevi’s、Lee、Wrangler、国内の EDWIN、Big John、Bobsonのブルージーンズが人気となり、’70年代後半になると、Calvin KleinやRalph Laurenが洗練された高価なジーンズを提案するようになった。

ツナギ、サロペット

’60年代後半からのヒッピー文化の影響によるデニム素材の普及を背景に、’70年代の日本では、それまでの「作業着」という枠を超え、ツナギ(オールインワン/ジャンプスーツ)やサロペット(オーバーオール)が若者を中心にファッションアイテムとして大流行した。サロペットのインナーにカラフルなタイトTシャツやタートルネックを合わせるスタイルが定番で、子供から大人まで幅広い世代に普及した。

アーノルド・パーマー

’60年代後半から’70年代にかけて日本で爆発的な大ブームとなった。それまでのゴルフウェアのイメージを覆し、おしゃれなタウンカジュアルとして日本のファッションシーンに定着。胸元に4色傘のロゴが刺繍されたポロシャツやセーターが、日本における「ワンポイントマークブーム」の火付け役となった。

フィッシャーマンズセーター

「VOGUE」誌で紹介され、マリリン・モンローやグレース・ケリーなどのセレブリティも愛用したことで’50年代から’60年代にかけて世界中で大流行したフィッシャーマンズセーター(アランセーター)が、’70年代初め、トラッドの流行とともに日本でも広く普及した。元々はアイルランドやイギリスの漁師が着ていたワークウェア(仕事着)だが、保温性と防寒性の高さ、美しい縄編みの魅力で、その後もトレンドに左右されない定番の冬物アイテムとして定着した。

アメカジ

アイビーの流れを受け、よりラフでカジュカルにアレンジされたアメリカン・カジュアル、通称アメカジがファッションのジャンルとして確立した。マウンテンパーカーやバックパックなどのアウトドア要素を取り入れた「ヘビーデューティ(機能美)」スタイルが登場し、雑誌「POPEYE (ポパイ)」がアメリカ西海岸のライフスタイルや最新ファッションを伝えたことで、タイトなTシャツにショートパンツやホットパンツ、スニーカーという西海岸風ファッションも人気を集めた。この流れは、後の’80年代の”渋谷カジュアル(渋カジ)”へとつながって行った。

「JUN」ファッション

アメリカ東海岸の大学生風スタイルの「VAN」とは異なる都会的なファッションを提案したのが「JUN」で、’70年代になると”JUN MEN”や”JUN ROPE”などのラインで人気となる。クラシックエレガンスをブランドコンセプトとし、フランスやイタリアの雰囲気を取り入れた細身のシルエットが洒落たヨーロピアンスタイルとして若者の心を捉えた。’70年代後半にはパリ志向のブランド「Nicole」などと連携し、’80年代のDCブランドブームの土台を形成した。

サファリルック

探検隊の服のようなデザインで、サファリジャケットやウエストベルト付きのシャツなど、アースカラーやベージュ系の色が多かった。’70年代半ばに世界的に流行し、「anan (アンアン)」「non-no (ノンノ)」「MEN’S CLUB (メンズクラブ)」など日本の若者雑誌でもよく紹介された。もともとは貴族の狩猟服だったが、イヴ・サンローランなどのハイブランドがファッションとして昇華させ、世界的なトレンドとなった。

ニュートラ

トラディショナルがベースの正統派ブレザーやカーディガン、ワンピースに、エルメスやルイ・ヴィトン、グッチ、フェンディやセリーヌといった高級ブランドバッグをコーディネートするお嬢様スタイル。神戸・山手エリアに住む富裕層の女性たちが好むスタイルとして「an・an」「JJ」「non-no」などのファッション誌で頻繁に取り上げられ、女子大生を中心に一大ブームとなった。ニュートラディショナル略して”ニュートラ”という名称は「an・an」が名付け親とされる。

ハマトラ

神戸発のニュートラに対し、関東のトラディショナルスタイルとして、横浜・元町に本店を構えるブランドのワードローブでコーディネートする横浜発のトラディショナル”ハマトラ”が大流行した。異国的で洒落た港町のお嬢様学校フェリス女学院に通う女子大生をイメージした装いで、ミハマの靴とキタムラのバッグ、フクゾー洋品店のアイテムがハマトラファッションに欠かせない「三種の神器」となった。人気のファッション誌が特集を重ねたことによって、元町ブランドは全国的な知名度と人気を得た。

「BOAT HOUSE」のトレーナー

’79年、青山学院の前にできた小さな店に連日若者たちの行列ができ、ブランド名とボートクルーのロープがデザインされたブルーのトレーナーが飛ぶように売れ一躍社会現象となった。アイビーと海とトラッドをコンセプトとするファッションブランド「BOAT HOUSE」の製品は、加山雄三が映画で着用したことが人気の火付け役だったとされる。若大将と湘南といった爽快なマリンテイストが感度の高い層に支持され、「POPEYE」誌などのマスコミによって人気が過熱していった。

1960

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高度経済成長の中で若者文化が広がり、アメリカ志向のトラッドが流行し、

後半にはアメリカのカウンターカルチャーの影響も入り、ジーンズやヒッピー風の自由な装いも若者の間に広がった。

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ミニスカート

1959年にデザイナーのマリー・クワントが発表し世界中でブームとなったミニスカートは、’67年に来日したイギリス人モデルのツイッギーによって日本でも大流行した。同時に、ツイッギーの前髪を流したコンパクトなショートヘアも流行した。

モンドリアン・ルック

イヴ・サンローランがオランダの画家ピエト・モンドリアンの抽象画をモチーフにデザインした服で、原色(赤、青、黄)と非彩色(白、黒)のみを使った格子状デザインのAラインのミニワンピースが注目された。

アイビールック

1950年代、アメリカ東海岸の有名名門大学群「アイビー・リーグ」の学生たちが好んだトラディショナルファッションで、日本では男性ファッション誌の「MEN’S CLUB」とヴァンヂャケット創業者の石津謙介氏により大きな広がりを見せた。銀座のみゆき通りをアイビールックに身を包んだ若者たちが闊歩し、彼らは”みゆき族”と呼ばれた。

パンタロン

1964年、シャネルが膝下から裾にかけて釣鐘状に広がるシルエットのパンツが特徴のパンタロンスーツを発表。イヴ・サンローランもこれに続き、ウーマン・リブの台頭とともに女性もズボンを履く時代が本格的に訪れた。

モッズスタイル

ロンドンの若者たちが好んだイタリアンテイストの細身のスーツ(モッズスーツ)をスクーターの汚れから守るため、アメリカ軍放出品のモッズコート (M-51)を羽織るスタイルが定番化した。’60年代半ばのビートルの活躍により、日本を含む世界中で流行した。

ヒッピースタイル

ベトナム戦争下で愛と平和(ラブ&ピース)を掲げ、消費社会や既存の秩序に反発する自然回帰の精神を反映したスタイルで、長髪にヒゲを蓄え、ビーズのネックレスや木綿のバンダナを着用する男性、足元まであるマキシドレス姿の女性、丸いサングラスやバンダナ、ビーズのネックレスなどの小物が流行した。

サイケデリック&ポップ

ヒッピー文化やLSDの幻覚体験に由来する、極彩色・蛍光色・流動的な幾何学柄を用いた派手なスタイル。鮮やかな原色や蛍光カラーを多用し、ペイズリー柄やフラワーモチーフを主流に、ミニドレス、Tシャツ、ベルボトムパンツ、ペーパードレスなどが人気を集めた。

ツナギ、サロペット

ヒッピー文化の影響によるデニム素材の普及を背景に、’70年代の日本では、それまでの「作業着」という枠を超え、ツナギ(オールインワン/ジャンプスーツ)やサロペット(オーバーオール)が若者を中心にファッションアイテムとして大流行した。サロペットのインナーにカラフルなタイトTシャツやタートルネックを合わせるスタイルが定番で、子供から大人まで幅広い世代で普及した。

レナウン・ルック

服飾メーカーのレナウンによるブランドで、640通りのコーディネートができる「イエイエ(Ye-Ye)」シリーズを発表。ミニスカート、鮮やかなニットウエア、Aラインワンピース、カラフルなタイツなどが「イエイエスタイル」として若い女性たちの間で熱狂的な人気を集めた。明るくポップな「ワンサカ娘」のCMで明るく陽気な女性のイメージを打ち出し、ヤングカジュアルの代表格となった。

娯楽&レジャー

1980年代の主な娯楽とレジャー

’80年代後半はバブル経済に向かう高揚感の中で、娯楽が「家庭内」から「屋外・都市型」へと大きく広がったレジャー黄金時代。最新のテクノロジーを駆使した遊びから華やかな都市文化まで、現代に通じるレジャーの多くがこの時代に花開いた。

ディスコブーム

田中康夫の小説「なんとなく、クリスタル」が大ヒットした時代。’80年代前半は赤坂の「ムゲン」や「ビブロス」、後半は六本木「キサナドゥ」麻布十番「マハラジャ」が若者たちの遊び場として人気を集め、ワンレン・ボディコンの若い女性のファッションが社会現象となった。

貸しレコード

ラジカセの普及や’79年に発売されたSONY「ウォークマン」によって、音楽を手軽に楽しむライフスタイルが一般化する中、高価なレコードを購入しなくても好きな音楽が存分に楽しめる「黎紅堂」「友&愛」などの貸しレコード店が若者たちの間で人気となった。

スキーブーム

’87年に公開され大ヒットした映画「私をスキーに連れてって」(主演:原田知世、主題歌:松任谷由実)の影響でスキーが一大ブームに。それまで不人気だった万座温泉スキー場などのゲレンデも多くの若者で賑わうほど、大きな経済効果を生んだ。

東京ディズニーランド

’83年4月15日に千葉県・浦安沖の埋め立て地に誕生、オープン当時の目標集客数1,000万人をわずか1年未満で達成するほどの人気を博した。夢の世界に入り込んだような数々のアトラクションは子供はもちろん大人たちの心も強烈に掴み、2001年に開園した東京ディズニーシーとともに、2026年1月には累計9億人超えの来場者数を誇る最強のテーマパークとして君臨を続ける。

ゴルフブーム

’70年代に青木功やジャンボ尾崎の活躍によって注目され人気となったゴルフは、’80年代になると接待ゴルフとしてビジネスの場でも大きなブームとなった。ゴルフ場を優遇的に利用できるゴルフ会員権は株式のように時価で売買され、投資や投機商品として相場が高騰し取引されるも、バブル崩壊で資産価値は急落した。

ファミコンブーム

’83年に任天堂から手の届きやすい価格の家庭用ゲーム機「ファミコン」が発売され、子供たちの間に空前の大ブームを巻き起こす。’85年には伝説的な大ヒットソフトとなる”スーパーマリオブラザーズ”が登場し、’86年の”ドラゴンクエスト”も熱狂的なファミコン人気を支えた。

ルービックキューブ

ハンガリーの建築学者により考案された立体パズルゲームで世界で大流行した。日本では’80年にツクダオリジナルから発売されると、初年度だけで400万個を売り上げる大ヒットとなった。’81年には東京・帝国ホテルで第1回「全日本キュービスト大会」が開かれ、6歳から68歳まで約400名の参加者が最短記録に挑んだ。優勝は当時16歳の高校生で、優勝賞品として自動車が贈られた。

海外旅行ブーム

’78年の成田空港開港、’85年のプラザ合意を発端とする円高の影響も受け、’80年代は海外旅行の市場が大きな広がりを見せた。国際線の年間日本人旅客数は’87年が869万人、’88年は1082万人にまで拡大。ハワイ、アメリカ西海岸などのリゾートをはじめ、憧れの欧州観光が人気を集めた。本場の焼き肉を食べに、日帰りや一泊での韓国旅行も、”独身貴族”と呼ばれる人々のトレンドとなった。

ボジョレーブーム

’80年代後半のバブル景気の中で爆発的なブームを巻き起こしたのがフランス産ワインの「ボジョレー・ヌーヴォー」。’85年から「11月の第3木曜日」が解禁日となるが、日付変更線の関係で日本は産地・フランスより8時間早く解禁日を迎えることから”世界最速の解禁”として航空会社や百貨店が大々的にキャンペーンを打ち、大きな社会現象となった。’88年の昭和天皇の病状悪化により熱狂的なムードは沈静化するも、日本人が日常の食卓でワインを楽しむ習慣のきっかけとなった。

なめ猫ブーム

学ランにハチマキという暴走族風のコスチュームに身を包んだ「なめ猫」グッズが’80年に登場。自動車免許を模した”なめ猫免許証”は1,200万枚を売り上げ、ポスターも600万枚という一大ブームを巻き起こした。’82年までに約200社から文具やレコード、写真集なども発売され、売上げは570億円以上に及んだ。主役のツッパリキャラクターの又吉(またきち)は実際はメス猫で、ブームの後に4匹の子供を産んだ後に、16年間の生涯を閉じた。

カラオケブーム

’80年代前半のレーザーディスクの登場により、演奏のみだったカラオケが歌詞テロップのついた映像が流れるスタイルに変わった。これを機に’80年代中頃にカラオケボックスが誕生し、それまでスナックや宴会場など酒席の余興だったカラオケは老若男女を問わずに楽しめる娯楽となった。アイドルや歌謡曲が全盛期だった時代の中で、日々のストレス発散や趣味のひとつとして、カラオケは大きなブームとなっていった。

漫才・お笑いブーム

’80年代に入ると「花王名人劇場」や「THE MANZAI」を発端とする漫才ブームが到来。やすきよとともに若手のツービートや紳助・竜介らがテレビを賑わせ、’80年4月に放送開始の「お笑いスター誕生!!」からはB&B、おぼん・こぼんらが誕生、同年10月「笑ってる場合ですよ!」も始まり、ザ・ぼんち、太平サブロー・シロー、のりお・よしおなどのコンビや明石家さんま、山田邦子が人気を集め一大漫才ブーム・お笑いブームが訪れた。漫才師やお笑いタレントが社会的なステイタスを手に入れた時代だった。

1970年代の主な娯楽とレジャー

日本中が熱狂した大阪万博で幕を開けた1970年代は、より良い暮らしや楽しみを求める傾向が顕著になった時代で”一億総中流”という意識が人々の中に根付いた。海外旅行は庶民に手の届くものとなり、マイカーで出かけるレジャーも定着した。家族や仲間と楽しむボウリングは空前のブームとなり、「豊島園」「横浜ドリームランド」「よみうりランド」「東京サマーランド」などの大型レジャー施設は活況を呈した。’73年のオイルショックで節約を美徳とする側面を抱えながらも、明るい未来や暮らし、自由な生き方への期待も膨らみ続けた時代だった。

日本中が熱狂した大阪万博

’70年3月15日〜9月13日の183日間、吹田市千里丘陵で開催された「人類の進歩と調和」をテーマとする国際博覧会で77か国が参加、来場者数は史上最多の6,422万人を記録した昭和最大のイベント。岡本太郎による「太陽の塔」がシンボルとして大きな注目を集め、アポロ12号が地球に持ち帰った月の石の展示など、日本中を熱狂させる世界中のトピックスが一堂に会した。

空前のボウリングブーム

’70年頃から始まったブームは、中山律子や須田開代子などのスタープレイヤーの活躍やテレビ放送の影響で爆発的な人気を集め、’71年には約2,000万人がボウリングを楽しみ、’72年には全国に約3,700施設が存在する国民的レジャーとなった。爆発的なブームは’70年代半ば以降落ち着きを見せるが、以降は日本の代表的なレジャーのひとつとして定着した。

アマチュア無線ブーム

’70年代に若者を中心に広がり、その後「趣味の王様」として爆発的なブームを迎えた。’75年に日本のアマチュア無線局数は30万局を超え、米国を抜いて世界第1位となった。その後は’87年公開の映画「私をスキーに連れてって」の中でハンディ機が最先端の連絡ツールとして描かれたことをきっかけに若者の間で再びブームとなり、’95年、国内のアマチュア局数は過去最高の約136万局となった。

ゴーゴー喫茶

ディスコの前身となるゴーゴー喫茶が’60年代後半から’70年代前半にかけて若者の間で流行した。エレキバンドによる生演奏、ディスクジョッキーによる音楽に合せて踊る非日常的な時間と空間は、当時日本列島を揺るがすほどの人気だったグループサウンズブームと相まって、若者たちの心を強烈に捉えた。

ラジオの深夜放送

’67年に放送開始した「オールナイトニッポン(ニッポン放送)」「パックインミュージック(TBSラジオ)」、’69年「セイヤング(文化放送)」により、’70年代は深夜放送の黄金時代を迎えた。受験勉強などで自室で一人で過ごす若者にとって、ラジオのパーソナリティは友人のように近い距離感で若者の心を捉えた。リスナー参加型のハガキ文化も盛り上がりを見せ、多くの流行のフォークソングやニューミュージックもこの場から生まれた。

変身ヒーローブーム

’66年からの第一次怪獣ブームではウルトラマンや怪獣たちが脚光を浴びたが、’71年の第二次怪獣ブームは、変身ヒーローとして登場した「仮面ライダー(藤岡弘による本郷猛)」が「帰ってきたウルトラマン」の視聴率を上回る変身ヒーローの時代となった。バンダイから発売された「光る!回る!変身ベルト」は子供たちを熱狂させ、大ヒット商品となった。

コックリさんブーム

西洋の占いの一種「テーブル・ターニング」を起源とする降霊術で、キツネの霊とコミュニケーションが取れるとして小・中学生の間でブームとなった。鳥居と五十音表、数字を書いた紙の上に十円玉を置き、皆の人差し指をその上に添え、霊を呼んで質問してゆくもの。霊が来れば10円玉が動き出すとされたことから10円玉の動きに子供たちは興奮したが、その場を盛り上げるために誰かがわざと動かしているのでは、という疑心もつきもののゲームだった。

アンノン族

’70年創刊のファッション誌「an・an」、’71年創刊の同じく「non-no」による旅行特集により、独身女性の間で国内各地への旅行がブームとなった。有名観光地ではなく、当時はまだ知られていなかったスポットが取り上げられることが多く、軽井沢や清里高原、那須高原、京都の嵯峨野や大原などの新しい観光地に雑誌を持った多数の女性グループが訪れ、この女性たちがアンノン族と呼ばれた。

パンダブーム

’72年、日中国交の正常化を記念して中国から「カンカン・ランラン」の二頭のジャイアントパンダが贈呈されると、連日、老若男女が上野動物園に押し寄せる大フィーバーが巻き起こった。約2kmに及ぶ観覧の行列に2時間並んでもパンダが見られるのはたった30秒という爆発的な人気が続き、後の日中パンダ外交の礎となるムーブメントとなった。

超能力・オカルトブーム

’73年「ノストラダムスの大予言」がベストセラーとなり、’74年、映画「エクソシスト」の日本公開とスプーン曲げのユリ・ゲラーの来日により日本は空前の超能力・オカルトブームを迎えた。テレビの生放送では、スタジオのユリがブラウン管を通して送る念で視聴者の家の壊れた時計が動きだすなど、子供たちが興奮する特番が度々作られた。ほかにもテレビディレクターでUFO研究家の矢追 純一氏など、超能力界隈の人々がスポットライトを浴びた時代だった。

オセロブーム

ボードゲーム「オセロ」が’73年に日本で発売されると、初年度だけで30万個、3年間で約250万個を売り上げる大ブームとなった。白と黒の円状の石の数で勝敗が決まるシンプルなゲームながら、勝つためには囲碁のような知恵と戦略が必要で、子供たちのみならず大人たちまでもが夢中になって遊んだ。その後オセロゲームは世界中に普及し、2015年の時点で世界の競技人口は約6億人に達したと言われる。

女子プロレスブーム

’70年代中盤から、マッハ文朱、ミミ萩原、ビューティー・ペアなどの選手の登場により女子プロレスブームが到来。いずれもレコードデビューや映画、ドラマ出演も果たすなど、アイドル的な人気を誇った。ジャッキー佐藤とマキ上田によるビューティー・ペアは女子高生の間で大人気となり、デビュー曲「かけめぐる青春」は80万枚のビッグヒットとなった。

テレビ黄金時代

テレビの録画機が普及する前の’70年代は、観たい番組が始まるまでに急いで帰宅するのが当たり前の時代。テレビは日々の娯楽の中心であり、ドラマから音楽まで人々を夢中にさせる番組が多数作られた。水前寺清子主演の「ありがとう」や銭湯を舞台にした「時間ですよ」、「俺たちの旅」、「傷だらけの天使」「Gメン’75」、山口百恵の赤いシリーズなどの人気ドラマや、新御三家、新三人娘、花の中三トリオが出演する歌番組を観るために人々は家路を急いだ。

大型レジャー施設

「よみうりランド」(’64年開園)、「東京サマーランド」(’67年同)などの大型レジャー施設は、’70年代から’80年代にかけて全盛期を迎えた。’60年代後半から始まったマイカーの普及は、人々のレジャー先を「鉄道で行けるところ」から「車で自由に行ける郊外」へと劇的に広げ、「家族で車で行ける場所」として、大規模駐車場も備える郊外のレジャー施設が大人気となった。

スペースインベーダー

タイトーが’78年に発表したシューティングゲームで、飲食店やゲーム施設に広く設置され全国的なブームとなった。喫茶店のテーブルはこのゲームが組み込まれた筐体に変わり、多くの若者たちが熱中、ゲームをプレイするための100円玉が日本中から消えたと言われるほどの社会現象となった。しかし過熱するブームは国会で「青少年の非行につながる」と問題視されマスコミもこれに同調、ブームは徐々に終息した。

1960年代の主な娯楽とレジャー

高度経済成長真っ只中にあった’60年代は、それまで庶民の大きな楽しみだった映画に代わり、急速なテレビの普及によってテレビ番組が娯楽の中心となって行った。お茶の間を出れば、大型遊園地や自由化された海外旅行、ゴルフやボウリングといったレジャー要素の強いスポーツが大衆の楽しみとして広がり始めた。音楽シーンでは’50年代にエルヴィス・プレスリーの影響を受けて流行した平尾昌晃、ミッキー・カーチス、内田裕也らによるロカビリーが、’60年代半ばのベンチャーズやビートルズの来日を機に続々と誕生したグループサウンズに主役の座を明け渡し、日本列島が熱狂の渦に包まれるグループサウンズの時代が訪れた。

映画ブーム

黒澤明、溝口健二、小津安二郎監督らによる映画作品が大衆の娯楽として支持され、’58年、映画館の観客来場者数はのべ11億人を突破する映画黄金時代を迎えた。石原裕次郎や吉永小百合をはじめ銀幕のスターたちは国民的人気を誇り、植木等やクレイジーキャッツによる娯楽映画もブームとなった。東京五輪(’64年)を機に普及し始めたテレビの影響により’68年には観客数は約3億人に減少するも、戦後の娯楽施設として映画館は大きな存在だった。

フラフープ旋風

’58年、アメリカでフラフープが大流行したことを受けて東京のデパートでも販売されると、一ヶ月で80万本を売り上げる爆発的なブームとなった。美容と健康に良いとされたことで子供だけでなく大人たちもフラフープに興じるも、発売からほどなく、腸ねん転や内臓障害の事例が発生し、むしろ健康に悪影響を及ぼすとして児童に禁止令を出す小学校も現れた。日本中を沸かせたブームは、わずか40日ほどで急速に終焉した。

NHK紅白歌合戦

テレビの急速な普及に伴い、NHKの「紅白歌合戦」が国民的行事として不動の地位を確立。’60年(第11回)からカラー生放送となり、国民的歌手の美空ひばり、坂本九、ザ・ピーナッツ、橋 幸夫らが絢爛豪華なステージで一年を締めくくった。’63年の第14回では史上最高視聴率となる81.4%、約8,000万人が視聴するという驚異の数字を記録。この回は翌年に控えた東京オリンピックを意識し、渥美清が聖火ランナーとして入場し、「こんにちは赤ちゃん」が大ヒットした梓 みちよが初出場した。

素人のど自慢ブーム

’60年代、日本のテレビでは「素人のど自慢」番組が爆発的な人気を集めた。戦後すぐに始まったラジオ版の成功を受け、テレビの普及とともに一般人を主役とするオーディション形式で放送された。この時代、のど自慢は単なるレクリエーションではなくプロの歌手を輩出する役割も持ち、高校時代に函館で「NHKのど自慢」に出場し、宮田輝氏に見初められたことで歌手を志した北島三郎など、歌謡史に刻まれる存在でもあった。

ロカビリーブーム

’60年代初めは’50年代後半から続いたロカビリー旋風の余韻の中、平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチスら「ロカビリー三人男」が活躍した。ジャズ喫茶や日劇ウェスタン・カーニバルが熱狂の拠点となり、後に坂本九や内田裕也らも登場、独自の和製ポップスで音楽シーンを盛り上げた。ロカビリーは洋楽のカバーから和製ロックへの橋渡し役となり、その後のGSブームへとつながって行った。

ダッコちゃん人形

’60年4月、タカラ(現:タカラトミー)から発売された空気ビニール人形の「ダッコちゃん」が若者を中心に爆発的な人気を呼んだ。街にはダッコちゃんを腕やバッグに付けた若い女性や子供たちが続出し社会現象となった。初夏から夏にかけて最盛期を迎えるも、秋になると徐々にブームは終息。しかし当時、同じく大流行したフラフープを上回る勢いで、発売からわずか半年で推定240万個を売上げるブームとなった。

道ばた遊び

住宅街の道路の舗装が始まった’60年代、子供たちの主な遊び場は家の近くの道ばたや空き地だった。縄跳び、竹とんぼ、ベーゴマ、メンコ、おはじき、缶蹴り、ゴム跳び、けん玉、竹馬、だるまさんが転んだなどが定番で、舗装されたばかりの道路に近所の子供たちが集まり、日が暮れるまで遊びに興じた。また、自転車の荷台に舞台となる木箱を載せて街を回る「紙芝居屋さん」が存在し、子供たちを集めて黄金バットや月光仮面などの紙芝居を見せながら駄菓子を売るのも日常的な光景だった。

デパートの大食堂と屋上遊園地

観覧車やゴーカートで遊べるデパートの屋上遊園地は子供たちにとって「夢の国」だった。メリーゴーランドで遊んだ後、大食堂でお子様ランチを食べる休日は子供たちの最大の娯楽であり、買い物と食事、遊びがまとめて楽しめるデパートは家族にとってもテーマパークのような存在だった。夏場の屋上はビアガーデンとしてサラリーマンで賑わい、デパートの屋上は大人たちにとっても大事な憩いの空間だった。

国内旅行ブーム

’60年に昭和天皇の五女・貴子さまが新婚旅行で青島を訪れ、その2年後に当時の皇太子ご夫妻も訪れたことで、宮崎がロイヤルウェディングの象徴として大人気となった。これによって宮崎行きの新婚旅行専用列車も登場、南国・宮崎への新婚旅行がブームとなった。また、東京五輪の開催や’70年の大阪万博を控えて社会インフラの整備も本格化し、新幹線や東名・名神高速道路という鉄道・道路の二大幹線が開業。東京タワーを目指す修学旅行や国内の団体旅行、社員旅行も活発となった。

テレビアニメブーム

’63年の「鉄腕アトム」の放送を皮切りに、日本は第一次アニメブームを迎えた。同年の「エイトマン」「鉄人28号」も子供たちを夢中にさせ、鉄腕アトムは最高視聴率40%という数字を叩き出した。「ジャングル大帝」「オバケのQ太郎」(’65年)、「魔法使いサリー」「おそ松くん」(’66年)、「巨人の星」「ゲゲゲの鬼太郎」「サイボーグ009」「妖怪人間ベム」(’68年)と人気作が続々と生まれ、テレビのカラー放送が進む中で、アニメブームは加速して行った。

ジャズ喫茶、名曲喫茶

高価なレコードや高品質な音響設備で音楽が楽しめるジャズ喫茶や名曲喫茶が、若者や文化人が最新の海外文化を享受できる場所として人気を集めた。新宿の「DUG(ダグ)」や「ACB(アシベ)」をはじめ日本全国に広がり、ジャズファンやミュージシャンの溜まり場となるとともに、寺山修司や村上春樹などの作家や文化人が集い交流するサロンとしての役割も担った。

グループサウンズブーム

エルヴィス・プレスリーの影響から人気となったロカビリーに代わり、’60年代になるとベンチャーズやビートルズに影響を受けたグループサウンズが大流行した。ザ・スパイダース、ザ・タイガース、ザ・テンプターズをはじめ、若い女性たちを熱狂させるグループが続々と登場しヒット曲を連発した。失神騒動まで起きる熱狂ぶりから”不良の音楽”としてNHK紅白歌合戦はほとんどのグループの出場を許さなかったものの、’70年代に入るまで驚異的な人気は続いた。

マイカーブーム

’66年、日産サニーとトヨタカローラが登場し、1000ccクラスの大衆車時代が幕を開けた。この年はマイカー元年と呼ばれ、’65年には約59万台だった乗用車の保有台数は、’70年には237万台へ激増した。自家用車の普及によって家族でのドライブや旅行といった新しいレジャー様式が定着し、急速なモータリゼーションとともに、東名高速道路の開通や大駐車場を備える郊外の大型レジャー施設の隆盛など、日本人の余暇の形が大きく広がっていった。

第一次怪獣ブーム

円谷英二による「ウルトラQ」(’66年)がテレビで怪獣ブームを巻き起こし、続く「ウルトラマン」が巨大ヒーローの決定版として最大30%を超える視聴率を記録。映画の技術がテレビに投入され、同年の「マグマ大使」は日本初のカラー特撮番組として放送された。等身大ヒーローでは「仮面の忍者 赤影」(’67)も人気を博した。「快獣ブースカ」「ジャイアントロボ」、映画「大怪獣ガメラ」も子供たちを熱狂させ、特撮ヒーローを含む第一次怪獣ブームが訪れた。

ミニスカート大流行

ロンドンのファッションデザイナー、マリー・クワントが発表し世界中で流行したミニスカートは、’67年に来日したイギリス人モデルのツイッギーによって日本でも大旋風を巻き起こした。吉永小百合など銀幕のスターや国民的歌手の美空ひばりがミニスカート姿を披露し、日本航空や全日空の客室乗務員の制服にもミニスカートが取り入れられた。従来の保守的な服装から女性たちを解放し、女性の自由と自立を象徴するファッションとして支持され、一般にも広く浸透して行った。

ヒット商品 > 1980年代

1980年代は経済成長が再び加速し、生活の中に「豊かさ」だけでなく「華やかさ」や「遊び」が求められるようになった。家電は高性能化・多機能化が進み、ビデオデッキやステレオが一般家庭に普及し、個人が好きな映像や音楽を選んで楽しむ環境が整った。ファッションや音楽ではアイドル文化やシティポップが隆盛し、テレビや雑誌がライフスタイルの指標として強い影響力を持つ。後半にはバブル経済へと向かい、消費は自己表現やステータスと結びつき、海外旅行やブランド志向も拡大した。’80年代は「憧れ」や「夢」を消費することで、自分の生き方を演出する感覚が社会全体に広がった時代だった。

 ─ 各年発売の主なヒット商品 ※古い年順(作成途中) ─ 

1980年代
高度成長期に形成された「標準的な家庭生活」を土台に、消費は家族単位から個人単位へと静かに軸足を移して行った。家電は一家に一台の時代を越え、用途別・個人別に細分化される。デジタル技術の導入とAV機器の進化により、娯楽は外出型から室内型へ、共有から選択へと変化し、昭和後半の生活像がほぼ完成形に近づいた時期。
1980年

・初代「レパード」(日産)
・初代「カムリ」(トヨタ)
・初代「クレスタ」(トヨタ)
ポータブルカセットテーププレーヤー
「ウォークマン」大ヒット(SONY)
・初代「ウォシュレット」(TOTO)
・雑誌「BRUTUS」創刊(マガジンハウス)
プラスチックモデル「ガンダム」大ブーム(バンダイ)
ルービックキューブ発売、'81年にかけて大ブームに
(ツクダオリジナル[現:メガハウス])
・「ホッカイロ」ヒット(白元)
・「ポカリスエット」(大塚製薬)
・マルちゃん「緑のたぬき」(東洋水産)
・「日清ソース焼そばU.F.O.」※リニューアル(日清食品)

1981年

・初代「ソアラ」(トヨタ)
・初代「シティ」(ホンダ)
「IBM Personal Computer 5150」大ヒット(IBM)
「雪見だいふく」大ヒット(ロッテ)

1982年

・初代「マーチ」(日産)
・「カローラ2」(トヨタ)
・初代「ビスタ」(トヨタ)
・初代「スプリンターカリブ」(トヨタ)
・PC「98シリーズ」(NEC)
・PC「FMシリーズ」(富士通)
・ウォシュレットキャンペーン
「おしりだって、洗ってほしい。」で業界シェア58%に(TOTO)
和製「タカラ・バービー人形」ヒット
(タカラ[現:タカラトミー])

1983年

・7代目「クラウン」宣伝文句"いつかはクラウン"で人気に
(トヨタ)
・省エネタイプの「インバーターエアコン」が主流に
・ひとびとのヒットビット「MSX」(SONY)
デジタルシンセサイザー「DX7」大ヒット(ヤマハ)
・ファミリーコンピューター(任天堂)
・入浴剤「バブ」(花王)
カプセルトイ「キン肉マン」大ヒット(バンダイ)
・「カロリーメイト」(大塚製薬)

1984年

・「Macintosh128K」(アップル)
・VHS-Cビデオムービー「GR-C1」(日本ビクター)
プラスチックモデル「ガンダム」シリーズ1億個突破
(バンダイ)
・「カントリーマアム」(不二家)
・「ハーゲンダッツ」青山1号店オープン

プラザ合意以降の円高を背景に、輸入品・海外文化に対する心理的距離が一気に縮まった。家電や日用品は高性能化・高付加価値化が進み、生活はすでに完成形に達していながら、さらに上を目指す「余剰の消費」へ向かう。昭和的生活様式が最も華やかに演出された時期であり、同時に次の時代への移行を内包していた。
1985年

プラザ合意を起点とするバブル経済の到来
・初代「カリーナED」(トヨタ)
・初代「トゥデイ」(ホンダ)
・初代「ハンディカム(CCD-V8)」(SONY)
AF一眼レフ「ミノルタα-7000」大ヒット(コニカミノルタ)
・携帯電話「ショルダーホン100型」(NTT)
ファミコンソフト「スーパーマリオブラザーズ」大ヒット
(任天堂)
ファミコンソフト「キン肉マンマッスルタッグマッチ」ヒット
(バンダイ)
・「ビックリマンチョコ悪魔vs天使シリーズ」大ヒット(ロッテ)

1986年

ラップトップPC「T-3100GX」大ヒット(東芝)
・手のひらサイズに再生機能がついた8ミリビデオカメラ
「CCD-V30」(SONY)
・VHS-Cビデオムービー「GR-C7/GR-C9」(日本ビクター)
ダブルステンレスボトル「サハラスリム」大ヒット
(タイガー)
・使い捨てカメラ「写ルンです」(富士フィルム)
・「リゲイン」(第一三共ヘルスケア)
・「サントリーモルツ」(サントリー)
・「ビックリマン」大流行(ロッテ)
スティックパック「ハイチュウ」爆発的ヒット(森永)
・DCブランドブーム最盛期

1987年

・高画質・多機能8ミリカメラ一体型ビデオ「CCD-V90」(SONY)
・片手で持てる携帯電話「TZ-802型」(NTT)
電子システム手帳「PA-7000」大ヒット(シャープ)
・ポケットベル急速に普及へ
・「聖闘士星矢」関連商品ヒット(バンダイ)
・マウスウォッシュ「モンダミン」(アース製薬)
「アサヒスーパードライ」爆発的ヒット(アサヒビール)
 →ビール市場は「ドライ戦争」へ

1988年

リクルート事件発生の年
・初代「セフィーロ」(日産)
・ニッサン セドリック「シーマ FPY31型」(日産)
・14型TFTカラー 液晶ディスプレイ(シャープ)
・ロゴ・タイトル編集機能がついた2代目ハンディカム
「CCD-F300」(SONY)
・空気清浄機能搭載エアコン「エオリア」
(松下電器産業[現:パナソニック])
・DDIセルラー、日本移動通信が携帯電話サービスを開始[現:KDDI/au]
「コアラのマーチ」大流行 ※1984発売(ロッテ)
・「果汁グミ」(明治)
・情報誌「Hanako」創刊(マガジンハウス)

ヒット商品 > 1970年代

1970年代は高度経済成長の終焉とともに、量的拡大から質的充足へと価値観が移行した時代だった。’70年の大阪万博は未来志向と技術立国の象徴として人々を熱狂させた一方、’73年のオイルショックは大量消費社会にブレーキをかけ、節約や合理性が生活に入り込んだ。カラーテレビは完全に定着し、クーラーや冷蔵庫は生活必需品として当たり前化する。若者文化ではフォークソングやニューミュージックが台頭し、個人の内面や等身大の感情を歌う表現が支持を集めた。豊かさの意味を問い直しながら、「便利さ」と「自分らしさ」を同時に求め始めた時代でもあった。

 ─ 各年発売の主なヒット商品 ※古い年順(作成途中) ─ 

1970年代
1970年の大阪万博を頂点に、日本の消費社会は「未来」「便利」「豊かさ」を前向きに享受する段階へ到達した。家電や日用品は生活必需を超え、暮らしを演出する存在へと変化する。一方で'73年のオイルショックはその流れに急ブレーキをかけ、生活者の意識を「拡大」から「見直し」に転換させた。5年間の中に、夢と不安の両方が凝縮された時期である。
1970年

大阪万博開催の年
・初代「ジムニー」(スズキ)
・初代「セリカ」(トヨタ)
・初代「カリーナ」(トヨタ)
電子ジャー「炊きたて」爆発的ヒット(タイガー)
・ファッション誌「anan」創刊(マガジンハウス)
"水に溶ける紙"などの「スパイシリーズ」がヒット
(サンスター文具)
・和風調味料「ほんだし」(味の素)
・マーガリン「マリーナ」(味の素)
・「ケンタッキーフライドチキン」1号店が名古屋にオープン
'71年にかけて空前のボウリングブーム到来

1971年 「ボウリングゲーム」大ヒット
・仮面ライダー1号変身ベルト「タイフーン」ヒット
(現:プレックス)
「アメリカン・クラッカー」流行
・ファッション誌「non-no」創刊(集英社)
・キャンデー「チェルシー」(明治)
・チョコレート「小枝」(森永)
・「ソフトエクレア」(不二家)
・サンキスト炭酸ドリンク缶(森永)
・カップヌードル(日清食品)
・「ククレカレー」(ハウス)
ニコちゃんマークの文具・グッズがブーム
・マクドナルド1号店「銀座・三越百貨店1階」オープン
1971~1974年 第2次ベビーブーム
1972年 沖縄返還の年
グアム残留日本兵、横井庄一さん帰還
ジャイアントパンダ「カンカン・ランラン」一大ブームに
4代目「スカイライン(C110型)」のCMで"ケンメリ"ブーム到来
・ホンダ「シビック」(ホンダ)
・初代「スプリンタートレノ」(トヨタ)
・「カローラレビン」(トヨタ)
・業界初の壁掛冷・暖房エアコン(松下電器産業[現:パナソニック])
ハイビスカス柄マインポット(NM型)歴史的ヒット(タイガー)
・「ソックタッチ」(白元)
・プッチンプリン(江崎グリコ)
1973年 ・初代「スターレット(パプリカスターレット)」(トヨタ)
・初代「ランサー」(三菱)
・野菜室付き3ドア冷凍冷蔵庫 「ニューアラスカ(SJ-3300X)」(シャープ)
ビニール製「スポーツカイト(凧)」ヒット
・'74年にかけて「オセロ」ゲーム大ヒット
(ツクダ)
・「シュガーカット」(浅田飴)
・「明治ブルガリアヨーグルト」(明治)
・「クノールカップスープ」(味の素)
・「ごはんですよ!」(桃屋)
「ノストラダムスの大予言」ヒット(祥伝社)
第1次オイルショックによるトイレットペーパー買占め騒動、商業施設の時短営業、ナイター開始時間の繰り上げ、深夜放送休止など
1974年 ユリ・ゲラー来日の年 → 超能力ブーム起きる
フィリピンルパング島残留日本兵、小野田寛郎さん帰還
「超合金マジンガーZ」大ヒット(バンダイ)
ジグゾーパズル流行
オイルショック後の混乱が落ち着き、日本の消費社会は「節約一辺倒」から「必要な楽しみを取り戻す」方向へと舵を切った時期。生活防衛意識を土台にしながらも、家庭内で完結する娯楽や快適性への需要が再び高まった。高価だが憧れの存在だった家電や設備が、少しずつ現実的な目標として意識され始める。
1975年 ・初代「ピッカリコニカ」(小西六写真工業[現:コニカミノルタ])
多機能デジタル腕時計「0634」大ヒット(セイコー)
「黒ひげ危機一発」ヒット(タカラトミー)
・「サッポロ一番 カップスター」(サンヨー食品)
・チョコスナック「きのこの山」(明治)
・箱入り「ハイチュウ」(森永)
・'70年代中頃から「ニュートラ(ニュートラディショナル)」流行
1976年

ロッキード事件発生の年
ホンダ「ロードパル」ヒット(ホンダ)
一眼レフカメラ「キヤノンAE-1」ヒット(キャノン)
・雑誌「POPEYE」創刊(マガジンハウス)
「およげ!たいやき君」と関連商品大流行
「パックマンゲーム」ヒット
・「日清焼そばU.F.O.」 (日清食品)
・「日清のどん兵衛きつね」(日清食品)

1977年 ・初代「チェイサー」(トヨタ)
パーソナルテレビ「サイテーション(KV-1375)」爆発的ヒット
(SONY)
ヤマハパッソル「S50」爆発的ヒット(ヤマハ発動機)
・布団乾燥機「AD-600」(三菱電機)
・VHS方式ビデオテープレコーダ「マックロード」(パナソニック)
・世界初オートフォーカスカメラ「コニカC35AF(ジャスピンコニカ)」
(小西六写真工業[現:コニカミノルタ])
・蛍光灯「パルック」(パナソニック)
・「スーパーカー」玩具、文具ブーム
・カプセル玩具の自動販売機登場
・「エンゼルパイ」2個紙箱入り(森永)
・「ビックリマンチョコ」(ロッテ)
・「日清のどん兵衛 きつねそば(赤)」(日清食品)
1978年 初代「プレリュード」デートカーとして若者中心に大ヒット
(ホンダ)
・「マツダサバンナRX-7」(マツダ)
・「ターセル」「コルサ」(トヨタ)
・初代「スープラ」(トヨタ)
・2画面のテレビ・イン・テレビ「CT-1804X」(シャープ)
ルームエアコン「RAS-2201WSL」ヒット(日立)
・「バービー人形」日本で発売開始
「モグラたたきゲーム」大ヒット(バンダイ)
「スライム」大流行(ツクダオリジナル[現:メガハウス])
・「ボンカレーゴールド」(大塚食品)
・「とんがりコーン」(ハウス)
1979年 ・第2次オイルショック
初代「アルト」大ヒット(スズキ)
フロントローディングVTR 「マイビデオV3(VC-6080)」大ヒット
(シャープ)
パーソナルコンピュータ「PC-8001」大ヒット(NEC)
・日本語ワープロ「書院」<WD-3000>(シャープ)
・ミニステレオカセットレコーダ「MR-U4」 ヒット(三洋電機)
・センサーオーブンレンジ(シャープ)
「キヤノンAF35M(キヤノンオートボーイ)」大ヒット(キャノン)
・ポータブルカセットテーププレーヤー初代「ウォークマン」(SONY)
 ※「ウォークマン」1号機
・セイコードレスクォーツ「Cal.1320」(セイコー)
「インベーダーゲーム」大流行
「ウルトラマン人形」大ヒット
「キャンディ・キャンディかんごふさんバッグ」大ヒット(バンダイ)
・「日清のどん兵衛 天ぷらうどん」(日清食品)
・「パイの実」(ロッテ)
・「うまい棒」(リスカ)
・'70年代末~'80年代初期「ハマトラ(横浜トラディショナル)」流行

ヒット商品 > 1960年代

1955年以降は「欲しかった家電」が「買える家電」になり、それが当たり前化に向かった。’60年代に入ると洋風の感覚が日常に入り込み、後半には「日本誕生以来の好景気」とされるいざなぎ景気が到来。’64年の東京オリンピックを契機とするカラーテレビの普及とともに、マイカーを含む3C(カラーテレビ・クーラー・カー)が一般家庭に浸透し始めた。海外旅行も自由化され、’66年は「マイカー元年」として家族でドライブを楽しむ習慣が生まれた。ベンチャーズやビートルズの来日により日本でも華やかなグループサウンズが続々と誕生し、人々は経済成長、若者人口の増加、メディアの拡張という時代背景の中で、人生を彩るさまざまな楽しみと豊かさを享受していった。

 ─ 各年発売の主なヒット商品 ※古い年順(作成途中) ─

1960年以前
1924年 ・ラジオ(芝浦製作所[現:東芝])
・電気釜
1925年 ・「ケロリン」(内外薬品)
・日本初のマヨネーズ「キューピーマヨネーズ」
(食品工業[現:キューピー])
・「北海道バター」(雪印)
1926年 ・「ミルクチョコレート」(明治)
・「明治ココア」(明治)
1930年 ・日本初の電気洗濯機「ソーラー」(芝浦製作所[現:東芝])
 ※洗濯機は後の三種の神器
・日本初の電気冷蔵庫(1930年、芝浦製作所[現:東芝])
 ※冷蔵庫は後の三種の神器
・電気蓄音機
・芳香浴剤「バスクリン」(津村順天堂[現:ツムラ])
「江戸むらさき」ヒット(桃屋)
1931年 ・日本初の電気掃除機「VC-A型」(芝浦製作所[現:東芝])
・電気ミシン
1932年 ・黒電話「3号卓上電話機」(住友ベークライト)
・チューブ入りチョコレート「ソフトチョコレート」(森永)
1933年 「ヨーヨー」大流行
・酵母を使った栄養菓子「ビスコ」(江崎グリコ)
1934年 ・「北海道チーズ」(雪印)
1935年 ・「ハートチョコレート」(不二家)
1936年 ・扇風機「MURZ」(松下電器産業[現:パナソニック])
1937年 ・ラジオエレクトロラ「RE-48(ヨンパチ)」大ヒット (日本ビクター)
1940年 ・日本初の蛍光ランプ「FL20D-DL」(東芝ライテック)
1946年 「ラビットスクーター S-1型」爆発的ブーム(富士重工業)
1947年 ・家庭用ミシン第1号機トヨタミシン「HA-1」(アイシンコムセンター)
1947~1949年 第1次ベビーブーム
1949年 ・戦後の標準黒電話機 「4号電話機」(NTT)
1950年 ・電気毛布
・トースター
・ドライヤー
・カメラブームを牽引する「リコーフレックスⅢ」発売
(理研光学工業[現:リコー])
・テープレコーダー(東京通信工業[現:SONY])
・6型・婦人用手巻機械式腕時計(セイコー)
「きいちのぬり絵」ベストセラー
・国産プラスチック玩具
・「リズムボール」(バンダイ)
・キャラクター「ペコちゃん」(不二家)
・明治ハネーヨーグルト(明治)
・「赤缶カレー粉」(S&B食品)
1951年 ・大型フリクションの「B-29」玩具(タカラ[現:タカラトミー])
・「ロゼット洗顔パスタ」(ロゼット)
・「花王粉せんたく」(花王)
・「バヤリース」(朝日麦酒[現:アサヒ])
・「味の素」30g食卓瓶(味の素)
・明治コナミルク(明治)
・「ミルキー」(不二家)
1952年 ・音の静かな三菱扇風機「 D-10B」(三菱電機)
・「ホンダ カブF型」(ホンダ)
「風船ガム」流行
・電動玩具第一号「セダン型自動車」「上飛び飛行機」
1953年

・「日野・ルノー4CV」(日野自動車)
・日本初のウインド形エアコン「東芝ルームクーラー」
(芝浦製作所[現:東芝])
・テレビ放送受信用・八木式アンテナ「 VY1-0001」型
(八木アンテナ)
・白黒テレビ「TV3-14T」普及モデル(シャープ)
・白黒テレビ「17T-2」(富士通)
※白黒テレビは後の三種の神器
・「A型ヘルスメータ」(大和製衡)
・「オロナイン軟膏」(大塚製薬)
・マジックインキ大型「ML-T」(寺西化学工業)
・紙玩具「巻鳥」「カレイドスコープ」「音の出る絵本」

1954年

「マリリン・モンロー」来日の年
ミシン「320型」大ヒット(ジャノメミシン)
電動玩具流行
国産「ミルク飲み」人形流行
・「6Pチーズ」大量生産化(雪印)
・「スペアミントガム」(ロッテ)
・「パラソルチョコレート」(不二家)

1955年 ・初代「クラウン」誕生(トヨタ)
・「ヤマハ 125  YA-1」(ヤマハ発動機)
・トランジスタラジオ「TR-55」(東京通信工業[現:SONY])
日本初の自動式電気炊飯器「ER-4」大ヒット(東芝)
・環形蛍光ランプ「サークライン」 FCL30(東芝ライテック)
・電気こたつ(東芝)
・ナショナル電気カミソリ「MSIO」(松下電工)
・ラジオ・コントロール・バス
・「花王フェザーシャンプー」(花王)
・1粒で2度おいしい「アーモンドグリコ」(江崎グリコ)
1956年 バネ式遊具「ホッピング」大流行
・「でん六豆」(でん六)
1957年 ・初代「スカイライン(プリンス・スカイライン)」(プリンス自動車)
・「ダイハツ ミゼット DKA」(ダイハツ工業)
白黒テレビ「 T-14R1」普及価格で爆発的ヒット
(松下電器産業[現:パナソニック])
・三段階高さ調節式扇風機「キリン」(三洋電機)
66版カメラ「フジペット」大ヒット
(富士写真フイルム[現:富士フイルム])
・やぐらこたつ(東芝)
・日本初の飲料用自動販売機(ホシザキ)
「ジュース自動販売機」爆発的ヒット(ホシザキ電機)
・女性週刊誌「週刊女性」創刊(河出書房→主婦と生活社)
赤銅鈴之助「赤ザヤの刀」流行
髪型をアレンジできる「カール」人形人気
・「ホットケーキミックス」(森永)
・お口のエチケット「グリーンガム」(ロッテ)
1958年

・大衆車「スバル360」人気(富士重工業[現:SUBARU])
・初代 「スーパーカブ」(本田技研)
・ステレオ・レコード再生装置「STL-1S」(日本ビクター)
・ルームエアコン「ナショナル・ホームクーラー」
(松下電器産業[現:パナソニック])
・電子オルガン「EO-4420」(日本ビクター)
・初の国産たばこ販売機「TH-1型」(グローリー工業)
・女性週刊誌「女性自身」創刊(主婦と生活社)
・キッチンスケール(大和製衡)
・初代「野球盤」(エポック)
・日本初のプラモデル玩具「ノーチラス号」
「フラフープ」大流行
・ポリボトル容器の「キューピーマヨネーズ」(キューピー)
・「チキンラーメン」(日清食品)
・「アーモンドチョコレート」(江崎グリコ)

1959年 皇太子ご成婚の年
・初代「ブルーバード(ダットサン・ブルーバード)」(日産)
・日本初のトランジスタ式テレビ(東芝)
・日本初のカラーテレビ(東芝)
・日本初の電子レンジ(東芝)
ハーフ版カメラ「オリンパスペン」ヒット
(オリンパス光学工業[現:オリンパス])
・トランジスタ電子計算機「HITAC 301」(日立)
・人型ロボット「ロビイ」「スカイピンポン」
・プラモデル玩具「ノーチラス号」
・国産ミニチュアカー「世界の自動車シリーズ」(バンダイ)
ぬいぐるみ「モデルペット」人気
米国で「バービー」人形発売、爆発的ヒット(マテル社)
1960年~
家電はまだ贅沢品の延長線上にありつつも、分割払いの普及などによって一般家庭への浸透が進行。都市生活を中心に、食と娯楽の簡便化・大量化も始まった。1964年の東京オリンピックは、消費とメディア意識を一段階引き上げる決定的な契機となった。1960年代前半は「家電=家族の中心」「お菓子=テレビと結びついた消費」という構図がはっきり立ち上がった時期だった。
1960年 ・1960年代~アマチュア無線が「キングオブホビー」と呼ばれる黄金期へ
・初代「セドリック」(日産)
14型白黒テレビ「14-SB」“Xライン”(富士通ゼネラル)爆発的ヒット
→東芝・日立・松下も白黒テレビ発売、白黒テレビ普及率が50%に到達
・日本初の二槽式脱水乾燥洗濯機 「SW-400」(三洋電機)
 →電気洗濯機が都市部を中心に普及へ向かう
・衣料用洗剤「ザブ」(花王)
・「ポラロイド120」「ポラロイド160」カメラ日本発売(ポラロイド/ヤシカ)
西部劇の流行によるガン・ブーム
・「ごっこ遊び」シリーズ
ビニール人形「ダッコちゃん」大流行
(タカラビニール[現:タカラトミー])
・「ワンタッチカレー」(江崎グリコ)
・森永などの板チョコが国民的菓子として安定消費される段階へ
・「のりたま」(丸美屋)
・「ムーンライトクッキー」(森永)
・「クールミントガム」(ロッテ)
1961年

・電気冷蔵庫の普及→買いだめ・まとめ買いの生活様式広がる
・世界初家庭用壁掛け式エアコン「CLU-71」(芝浦製作所[現:東芝])
・かくはん式全自動洗濯機「スキャット」(日立)洗濯の電化
→セットで花王・ライオンなどの粉末洗剤も売れる
坂本九「上を向いて歩こう」爆発的ヒット
・プラレール「ハイウェーセット」(トミー[現:タカラトミー])
国産プラスチック玩具人気
・玩具輸出総額が輸出玩具産業面で世界第一位となる(286億円)
・森永・グリコなどのキャラメルが子どもの日常菓子として定着
・「エンゼルパイ」(森永)
・「マーブルチョコレート」(明治)
・「アイスクリームデラックス」(森永)

1962年

・初代「ミニカ」(三菱)
・初代「ファミリア」(マツダ)
・世界初のセパレート型ステレオ「PSC-5A」発売(パイオニア)
・SONYなどのトランジスタラジオ普及へ
・車で観るマイクロテレビ「TV5-303」(SONY)
・魔法瓶が家庭・職場で普及→保温が日常化
・日本初の量産電子レンジ「R-10」(シャープ)
全自動ハーフ版カメラ「リコー オートハーフ」ヒット(リコー)
・女性週刊誌「女性セブン」創刊(小学館)
・女性週刊誌「ヤングレディ」創刊(講談社)
・解熱鎮痛剤「バファリン」(ライオン)
・冷蔵庫用脱臭剤「ノンスメル」(白元)
・衣料用洗剤「ニュービーズ」ヒット(花王)
・ばね状玩具「スリンキー(トムボーイ)」
(三光発条[現:サンコースプリング])
第1次プラスチック・モデル・ブーム
(ゼロ戦・隼・戦艦大和・鉄人28号など)
・「着せ替え人形」
ドリンク剤「リポビタンD」空前のヒット(大塚製薬)
・「マルシンハンバーグ」(マルシンフーズ)
・「雪印カマンベールチーズ」「雪印スライスチーズ」(雪印)
・ハードキャンディ「コーヒータップ缶入」(森永)
・「ルック」チョコレート(不二家)

1963年 ・テープレコーダ「マイソニック」(松下)
・電気蚊取り器「ベープ」(フマキラー)
・「レーシングカー」
・「バービー人形」
・「バーモントカレー」(ハウス)
・「日清焼そば」(日清食品)
・「コーンフレーク」「コーンフロスト」(ケロッグ)
・「ナボナ」(亀屋万年堂)
1964年 東京オリンピック開催の年
・「東洋の魔女」金メダル獲得で空前のバレーボールブーム
 →「アタックNo.1」や「サインはV」制作される
・男性向け週刊誌「平凡パンチ」創刊
(平凡出版[現:マガジンハウス])
アイビールック流行
「ハンドルリモコン自動車」大ヒット(バンダイ)
・「タミーちゃん」
・「お話ミコちゃん」(トミー)
・「スーパーボール」(Wham-O社)
・入浴剤「バスロマン」(アース製薬)
・ロッテ初のチョコレート「ガーナミルクチョコレート」(ロッテ)
・「ハイクラウンチョコレート」(森永)
・「かっぱえびせん」(カルビー)
・「ネクター」(不二家)
・「クノールスープ」(味の素)
高度経済成長が最盛期に入り、耐久消費財は「持っているかどうか」から「より新しい・より便利なものへ更新するか」という段階へ移行した。家電は家庭内にほぼ行き渡り始め、関心は性能・デザイン・快適性へと向かう。一方で、個人消費・若者消費が急拡大し、音楽・ファッション・菓子といった分野で“流行を楽しむ”感覚が強まった。この5年間は、「家電=更新」「菓子=流行」「消費=楽しみ」がはっきり分かれて見え始める時期となる。
1965年 ザ・ベンチャーズ」来日の年
・初代「シルビア」(日産)
・初代「プレジデント」(日産)
「レーシングカーセット」大ブーム(バンダイ)
「オロナミンC ドリンク」大ヒット(大塚製薬)
・洗濯用洗剤「ブルーダイヤ」(ライオン)
・「エメロン」シャンプー(ライオン)
・「チョコレートボール」(森永)
1966年 「ザ・ビートルズ」来日の年
・初代「サニー」(日産)
・初代「カローラ」(トヨタ)
・日本初のターンテーブル式家庭用電子レンジ「R-600」(シャープ)
「クレイジー・フォーム」流行(バンダイ)
「オバケのQ太郎」大流行
第1次怪獣ブーム起きる
・食器・野菜用洗剤「ママレモン」(ライオン)
・チューブ入りケチャップ(カゴメ)
・「サッポロ一番(しょうゆ味)」(サンヨー食品)
・「明星チャルメラ」(明星食品)
・「ゴールデンカレー」(S&B食品)
・世界初の棒状チョコレート「ポッキー」(江崎グリコ)
1967年 GS(グループ・サウンズ)ブーム到来
ツィッギー来日、ミニスカート旋風巻き起こる
・「ホンダ・N360」(ホンダ)
・ドライタイプルームエアコン(日立)
・ルームエアコン「霧ヶ峰」(三菱電機)
「ツイスターゲーム」流行(任天堂)
「ウルトラハンド」大ヒット(任天堂)
象がふんでもこわれない「アーム筆入れ」大流行(サンスター文具)
・着せ替え人形・初代「リカちゃん」(タカラ[現:タカラトミー])
・「チョコボール」「チョコフレーク」「エールチョコレート」(森永)
1968年 ・初代「スプリンター(カローラスプリンター)」(トヨタ)
・初代「ローレル」(日産)
・「コロナマーク2」(トヨタ)
・トリニトロン方式カラーテレビ第1号「KV-1310」(SONY)
「わんぱくフリッパー」大ヒット(バンダイ)
・輸入ミニカー普及
「人生ゲーム」大ヒット(タカラトミー)
「マジソン・バッグ」発売、以降大ブームへ(エース)
・世界初の市販用レトルト食品「ボンカレー」(大塚食品)
・「ジャワカレー」(ハウス)
・インスタントラーメン「出前一丁」(日清食品)
・「サッポロ一番 みそラーメン」(サンヨー食品)
・「雪印ネオ マーガリンソフト」(現「ネオソフト」)(雪印)
・日本初のスナック菓子「カール」(明治)
・「ノースキャロライナ」(不二家)
三億円事件発生の年
1969年 ・初代「フェアレディZ」(日産)
・壁掛けクーラー「樹氷」(松下電器産業[現:パナソニック])
・「ママレンジ」(アサヒ玩具)
・「アポロ」チョコレート(明治)
・「ハイソフト」ミルクキャラメル(森永)

女性歌手・アイドル > 1980年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

松田聖子

1980年4月「裸足の季節」で歌手デビュー。キュートなルックスと甘い歌声で一世を風靡し、「青い珊瑚礁」「赤いスイートピー」などヒット曲を連発。髪型「聖子ちゃんカット」や衣装も社会現象に。ぶりっ子キャラでアイドル像を一新し、従来の“清純派”に自己演出の強さを加味。’80年代を代表するトップアイドルとして同世代女性のライフスタイルやファッションに大きな影響を与えた。’90年代以降も、作詞作曲や海外活動を行い、アイドルからアーティストへと進化。結婚・出産・離婚などを経ても第一線に立ち続ける、まさに“永遠のアイドル”と称される存在。

中森明菜

1981年、3度目の挑戦となった『スター誕生!』で合格し、’82年5月「スローモーション」でデビュー。翌年「少女A」でブレイクし、「飾りじゃないのよ涙は」「DESIRE」などで圧倒的な歌唱力と表現力を示す。松田聖子と対照的なクールで影のあるキャラクターを打ち出し、“アンチ・聖子”として人気を二分。歌に込められた情念とビジュアルの完成度が支持を集め、演歌やニューミュージックの要素も取り込んだ独自の世界観を築いた。私生活では波乱も多く、特に’89年の自殺未遂事件は世間に衝撃を与えたが、その脆さも彼女の魅力とされた。2020年代も復帰が待望される“孤高の歌姫”。

ザ・ベストテン

1978年から’89年までTBSで放送された音楽番組。視聴者のハガキや売上、リクエストなどを独自集計し、毎週ベストテン形式で発表。黒柳徹子と久米宏の名コンビ司会が名物で、生放送ならではの臨場感とハプニングが魅力だった。ランクインした歌手の中継出演も多く、空港・駅・学校などからの生中継パフォーマンスは番組の名物に。沢田研二、松田聖子、中森明菜、近藤真彦、チェッカーズなど’80年代アイドルが多数ランクイン。中森明菜の「禁区」5週1位や、松田聖子の年間1位連発など記録も多い。アーティストと視聴者の距離が近い、テレビ黄金期の象徴的音楽番組だった。

小泉今日子

1981年テレビ番組「スター誕生!」でグランプリを獲得し、’82年3月「私の16才」で歌手デビュー。その後「学園天国」「渚のはいから人魚」「なんてったってアイドル」「木枯しに抱かれて」「あなたに会えてよかった」「優しい雨」など’80年代を代表するヒット曲を多数発表し、アイドル人気を確立。出演ドラマ・映画も多く、「あまちゃん」などNHK連続テレビ小説を含め女優としても高い評価を得た。2015年に自身の会社「明後日」を設立し、プロデューサーとして舞台・映像・音楽・出版に携わるほか、エッセイや書評など執筆活動も行う。

酒井法子

1986年「’86ミスヘアコロン・イメージガールコンテスト」で “BOMB!賞” を受賞し芸能界入り。’87年2月、シングル「男のコになりたい」で歌手デビュー。以後、アイドル歌手として代表曲に「夢冒険」「碧いうさぎ」など多数のヒットを放つ。歌手活動と並行して女優業でも活動し、ドラマ「ひとつ屋根の下」「星の金貨」などに出演。「星の金貨」の主題歌「碧いうさぎ」は大ヒットした。一時期薬物問題で表舞台から遠ざかるも、近年はデビュー35周年を記念したベストアルバムのリリースなど、変化する活動形態で芸能活動を継続している。

柏原芳恵

1979年『スター誕生!』(日本テレビ系)に出場し「お元気ですか」を歌って合格、グランドチャンピオン(最優秀賞)を獲得。’80年6月、フィリップス・レコードより「No.1」で“柏原よしえ”の芸名で歌手デビュー。’81年、「ハロー・グッバイ」(讃岐裕子のカバー)でヒット。これによりトップアイドルの地位を確立し、日本レコード大賞ゴールデン・アイドル賞を受賞。’82年10月、シングル「花梨」の発売と同時に表記を“柏原芳恵”へ改名。以降、中島みゆきなど作詞・作曲家との協力で「春なのに」「最愛」など深みのある楽曲も多数ヒットさせ、オリコンチャートでトップ10入りを繰り返した。

薬師丸ひろ子

1978年、14歳の時に映画『野性の証明』で女優デビューし一躍注目される。’81年、主演映画『セーラー服と機関銃』で映画主演を務め、その主題歌を歌って歌手デビュー。以後「探偵物語」「メインテーマ」「Woman “Wの悲劇”より」など、主演映画と主題歌でヒットを連発する。’90年代以降は映画・テレビドラマでの女優としての地位を確立し、シリアスな役柄から母親役まで演技の幅を広げる。代表作に『木更津キャッツアイ』『ALWAYS 三丁目の夕日』、『あまちゃん』『アンナチュラル』『エール』などがある。

中山美穂

1985年、テレビドラマ『毎度おさわがせします』(TBS)で女優デビュー。その後主演ドラマ『夏・体験物語』の主題歌「C」で歌手デビューし、同年の第27回日本レコード大賞で最優秀新人賞などを受賞。 以降は「ビー・バップ・ハイスクール」や「ただ泣きたくなるの」「世界中の誰よりきっと」(中山美穂 & WANDS)などのヒットで“トップアイドル”の地位を確立した。女優としてドラマや映画にも多数出演し、『Love Letter』でブルーリボン賞主演女優賞、『東京日和』で日本アカデミー賞優秀主演女優賞を獲得。2024年の逝去まで約40年にわたり、歌手・女優の両面で幅広い活躍を続けた。

工藤静香

1984年、14歳で「第3回ミス・セブンティーンコンテスト」の特別賞を受賞。セブンティーン・クラブの一員として’85年「ス・キ・ふたりとも!」で歌手デビュー。’86年、テレビ番組『夕やけニャンニャン』のオーディションを経ておニャン子クラブ会員番号38番として加入。’87年8月、シングル「禁断のテレパシー」でソロデビュー。これがオリコン1位を獲得し、その後「抱いてくれたらいいのに」「FU-JI-TSU」「MUGO・ん…色っぽい」などヒットを連発。’80年代後半には中山美穂・南野陽子・浅香唯とともに“アイドル四天王”の一人とされる。 2000年、木村拓哉と結婚後も歌手活動を継続。

荻野目洋子

1984年、シングル「未来航海」でデビュー。姉は女優の荻野目慶子。翌’85年にはユーロビート風のカバー曲「ダンシング・ヒーロー(Eat You Up)」で大ヒットを記録した。その後も「六本木純情派」「ギャラリー」などのヒット曲を生み出し、アイドル歌手として活躍。特に「ダンシング・ヒーロー」は、2017年に大阪府立登美丘高校ダンス部の「バブリーダンス」によって再注目され、オリコンデジタルシングルランキングで2位を記録するなど、再ブームを巻き起こした。

南野陽子

1985年6月、シングル「恥ずかしすぎて」で歌手デビュー。その後、テレビドラマ『スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説』で主演し、アイドル歌手としての地位を確立する。’87年にはシングル「楽園のDoor」がオリコンで1位を獲得し、シングル8作連続1位を記録するなど、80年代後半のトップアイドルの一人として活躍した。’92年からは女優業に専念し、映画『寒椿』で日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞するなど、女優としても高い評価を受けた。

浅香唯

1985年、シングル「夏少女」で歌手デビュー。その後、テレビドラマ『スケバン刑事III 少女忍法帖伝奇』で主演し、アイドル歌手としての地位を確立。’87年にはシングル「瞳にStorm」がオリコンで4位を記録し、シングル「虹のDreamer」では1位を獲得するなどヒットを連発した。’90年代には音楽性の幅を広げ、作詞・作曲を手がけるなど、アーティストとしての側面も強調した。’93年には芸名の使用を巡るトラブルから一時的に芸能活動を休止したが、’97年に「Yui」として活動を再開。その後、再び「浅香唯」として活動を再開し、音楽活動や女優業を続けている。

斉藤由貴

1984年、「ミスマガジン」でグランプリを受賞し芸能界入り。’85年2月にシングル「卒業」で歌手デビューし、オリコンで最高6位を記録。同年4月にはテレビドラマ『スケバン刑事』で主演を務め、アイドル歌手としての地位を確立した。’86年にはNHK連続テレビ小説『はね駒』のヒロインを演じ、平均視聴率40%を記録するヒット作となり、全国的な人気を得た。’90年代以降は女優業に専念し、映画『優駿 ORACIÓN』で日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞。近年では、2025年にデビュー40周年を迎え、シングル「Light a Shine~月はずっと見ている」をリリースし、音楽配信サービスでの楽曲公開も行った。

堀ちえみ

1981年、ホリプロスカウトキャラバンでグランプリを受賞し、’82年にシングル「潮風の少女」で歌手デビュー。その後、’83年のテレビドラマ『スチュワーデス物語』で主演を務め、アイドル歌手としての地位を確立した。’85年にはシングル「Ri・Bo・N」がオリコンで2位を記録し、同年のNHK紅白歌合戦に初出場を果たした。また、’87年には映画『潮騒』に出演し、女優としても活動の幅を広げた。2019年に舌がんと食道がんを公表し、手術とリハビリを経て、2024年には舌がんの完治を報告。デビュー41周年ライブツアーを開催し、ファンとの交流を深めた。

岩崎良美

1980年2月「赤と黒」で歌手デビュー。姉の岩崎宏美も著名な歌手であり、姉妹での活動が注目を集めた。’85年にはシングル「TOUCH」がテレビアニメ『タッチ』のオープニングテーマに起用され大ヒットを記録。これにより、再び注目を浴び、アイドル歌手としての地位を確立した。’90年代以降は女優業にも進出し、テレビドラマや映画などで幅広く活動。2008年にはファンタジーバンド「Sound Horizon」の6th Story CD『Moira』に参加し、音楽活動の幅を広げたが、コンサートには出演せず、後に井上あずみが代役を務めた。

松本典子

1984年第、5回「ミス・セブンティーンコンテスト」でグランプリを獲得し芸能界入り。’85年3月にシングル『春色のエアメール』でアイドル歌手としてデビューを果たす。同期には浅香唯・斉藤由貴・中山美穂・本田美奈子・南野陽子らがいた。甘いルックスと骨太な歌声で注目され、1stアルバム『Straw Hat』収録曲「いっぱいのかすみ草」は名曲と評価される。テレビドラマやバラエティ番組でも活躍し、正統派アイドルとして’80年代の新人賞レースで数々の賞を受賞した。

高見知佳

中学時代にテレビ愛媛のど自慢番組でスカウトされ芸能界入り。1978年にコロムビアからシングルでアイドル歌手としてデビューした。’84年には「くちびるヌード」が資生堂春のキャンペーンCMソングに起用され、フジテレビ『夜のヒットスタジオ』やTBS『ザ・ベストテン』、日本テレビ『ザ・トップテン』など音楽番組で披露され注目を集めた。アイドル歌手として活動する傍ら、映画『蒲田行進曲』やテレビドラマ、舞台にも出演し、バラエティ番組でも人気を博した。2022年、がん性腹膜炎により60歳で死去した。

河合奈保子

1979年、西城秀樹の「HIDEKIの弟・妹募集オーディション」で優勝し、’80年6月にシングル『大きな森の小さなお家』でアイドル歌手としてデビューした。当時のキャッチフレーズは「ほほえみさわやか カナリー・ガール」で、2枚目のシングル『ヤング・ボーイ』がヒットし、複数の音楽祭で新人賞を受賞した。’81年にはNHKホールでのリハーサル中に転落事故で腰椎圧迫骨折の重傷を負ったが、約2か月後に復帰。同年の第32回NHK紅白歌合戦に『スマイル・フォー・ミー』で初出場し、事故現場であるNHKホールでトップバッターを務めた。

森高千里

1986年、「第1回ポカリスエット・イメージガールコンテスト」でグランプリを受賞し、同年冬に上京。’87年5月、映画『あいつに恋して』の主題歌「NEW SEASON」で歌手デビューし、女優活動と並行して芸能活動を開始。’88年、アルバム『ミーハー』収録曲「ミーハー」で初めて作詞を手掛け、入院経験をもとに書いた「ザ・ストレス」で個性的な歌詞が注目され、以降ほぼ全曲を自ら作詞。’89年に「17才」がヒットし、’92年の「私がオバさんになっても」や『ROCK ALIVE』ツアーで全国を巡り、生音主体の演奏とコスプレを取り入れた独自のステージを展開した。

岡田有希子

1984年4月、シングル『ファースト・デイト』でアイドル歌手としてデビュー。同年の『ザ・ベストテン』や『ザ・トップテン』に出演し、デビュー曲や2枚目シングル『ヤング・ボーイ』で新人賞を総なめにした。’85年から全国コンサート『ハートにキッス』や『ファンタジアン』を開催し、多忙な中でドラマ出演もこなした。’86年1月に発売した『くちびるNetwork』はカネボウ化粧品春のバザールのCMソングに採用されオリコン初登場1位となる。絶頂期であった同年の突然の自死は大きな社会問題となった。

本田美奈子

中学時代に『スター誕生!』に出場し、松田聖子らの曲を歌ったが合格には至らなかった。その後原宿でスカウトされ、1985年「殺意のバカンス」でデビュー。5枚目のシングル「1986年のマリリン」が大ヒットし、アイドルとして人気を集める。その後ロックやミュージカルへと活動を広げ、『ミス・サイゴン』や『レ・ミゼラブル』で高い評価を得た。2003年にはクラシックアルバム『AVE MARIA』を発表し新境地を開いたが、急性骨髄性白血病を発症し、2005年、惜しまれながら38歳で逝去した。

松本伊代

中学3年の時に原宿でスカウトされ、1981年に『たのきん全力投球!』の田原俊彦の妹役で芸能界デビュー。同年「センチメンタル・ジャーニー」で歌手デビューし、一躍人気アイドルとなる。翌’82年には多くの新人賞を受賞し、「花の82年組」の一員として活躍した。’83年「時に愛は」がヒットし、以後もバラエティ番組で幅広く活動。’85年には自身のショップを開き、’93年にお笑いタレントのヒロミと結婚。2000年代以降もタレント活動を続けている。

早見優

1980年に当時住んでいたハワイでスカウトされ、山口百恵に憧れて単身帰国しサンミュージックに所属する。’82年に「急いで!初恋」で歌手デビュー。「花の82年組」の一員として注目を集め、日本レコード大賞新人賞を受賞した。’83年、コカ・コーラのCMソング「夏色のナンシー」がヒットし紅白に初出場、CNNにも紹介された。歌手と学業を両立する才色兼備のアイドして活動し、上智大学を卒業後に国際交流活動にも積極的に参加。’96年に結婚して母となり、2005年には松本伊代・堀ちえみと「キューティー★マミー」を結成した。現在もタレント活動を続ける。

菊池桃子

1984年、映画『パンツの穴』で注目を集め、同年「青春のいじわる」で歌手デビュー。親しみやすい雰囲気で人気を得、デビュー年に「SUMMER EYES」「雪にかいたLOVE LETTER」などがヒット、日本レコードセールス大賞女性新人賞を受賞した。’85年の「卒業-GRADUATION-」「もう逢えないかもしれない」から’87年まで7作連続でオリコン1位を記録し、資生堂や江崎グリコ、日立製作所など大手企業のCMキャラクターにも起用されCMや雑誌でも活躍。武道館公演はビートルズの公演の観客動員数を抜き最年少記録を樹立、トップアイドルの地位を確立した。

 石川秀美

1982年「妖精時代」でデビューし新人賞を受賞、松本伊代や小泉今日子、中森明菜らとともに「花の82年組」の一員として歌番組やドラマなどで活躍した。初期は松本隆作詞によるアイドルポップスを歌ったが、’85年頃からロック寄りの楽曲に挑戦し歌唱力を発揮した。後半はライブやアルバム制作に力を入れ、ドラマ出演でも注目された。’89年に薬丸裕英との交際が報じられ、1990年に婚約・結婚し出産を発表。その後は芸能界に本格復帰せず事実上引退した。

三田寛子

京都市出身で、1980年に雑誌『セブンティーン』のモデルに合格し上京。翌’81年、TBSドラマ『2年B組仙八先生』で俳優デビューした。’82年には酒井政利のプロデュースにより「駈けてきた処女」で歌手デビューし、早見優や松本伊代らとともに「花の82年組」と呼ばれた。その後『笑っていいとも!』で天然キャラクターとして人気を博し、『YOU』の司会や数々のドラマに出演するなど幅広く活躍した。’91年、歌舞伎役者の中村芝翫と結婚し梨園の妻となるが、近年も”元アイドル”としてメディア活動を続ける。

今井美樹

1983年にファッション誌『エムシーシスター』(mc Sister) のモデルとして活動を始め、’84年にドラマ『輝きたいの』で女優デビュー。’86年『黄昏のモノローグ』で歌手デビューし、翌年のアルバム『elfin』でブレイクした。資生堂のCMソング『彼女とTIP ON DUO』などのヒットを重ね、’91年ドラマ『あしたがあるから』の主題歌「PIECE OF MY WISH」で初のミリオンを記録。’92年以降は久石譲や布袋寅泰らと制作を行い、’96年「PRIDE」が最大のヒットとなった。’99年に布袋寅泰と結婚した。

森川由加里

1984年『ポッパーズMTV』のアシスタントとしてテレビ初出演し、’87年「雨のカルメン」で歌手デビュー。同年「SHOW ME」がドラマ『男女7人秋物語』の主題歌となり大ヒットした。以後、ボーイッシュなキャラクターでバラエティやドラマでも活躍し、全国ツアーや学園祭ライブを精力的に行った。’90年からはラジオ番組を通じてコンサートツアーを続け、「夢 元気!?」で賞を受賞。’90年代はライブ活動を中心に音楽を継続し、舞台や海外取材番組にも出演。2013年に布施明と結婚した。

石井明美

アルバイトで六本木のクラブ歌手をしていた際にスカウトされ、1986年に研音へ所属。同年ドラマ『男女7人夏物語』主題歌「CHA-CHA-CHA」でデビューし、80万枚を超える大ヒットを記録した。翌年には選抜高校野球の入場行進曲にも採用され、一躍人気歌手となった。’90年には「ランバダ」がヒットし、写真集出版や結婚・出産など話題も多かった。2000年代以降はユニット活動や再婚を経て、現在もコンサート「夢スター春・秋」に出演し歌手として活動を続けている。

伊藤智恵理

1987年、ドラマ『あぶない刑事』にゲスト出演後、同年『キスより簡単』にレギュラー出演し、挿入歌「パラダイス・ウォーカー」で歌手デビューした。「トキメキがいたくて」「夢かもしれない」などを発表し、’90年「天気になれ」が最後のシングルとなった。並行してバラエティやCMでも活躍。’96年に“Chieri”として音楽活動を再開し、アルバム『SKY SONGS』を発表。2000年以降は女優・タレント活動や記念ライブを行い、2015年に結婚し現在は家庭を中心に暮らしている。

麻倉未稀

中学から歌手を志し上京後、モデル活動を経て1981年「ミスティ・トワイライト」でデビューした。“都会派美人シンガー”として注目され、「黄昏ダンシング」で『ザ・ベストテン』に登場。’83年「フラッシュダンス」、’84年「ヒーロー」が大ヒットし、“洋楽カバーの女王”と呼ばれる存在となった。’90年代以降は写真集や映画で大胆な表現に挑戦する一方、ミュージカル女優としても活動を広げ、『麗しのサブリナ三姉妹物語』『アニー』などに出演した。

森口博子

福岡でスクールメイツに所属しバックダンサーを経験、数多くのオーディションに挑戦した末、1985年『勝ち抜き歌謡天国』で準優勝し、同年「水の星へ愛をこめて」で歌手デビューした。アニメ『Ζガンダム』の主題歌としてオリコン16位を記録したが、その後ヒットに恵まれず苦難を味わう。’88年『鎧伝サムライトルーパー』の「サムライハート」で再び注目を集め、アニメソング歌手として地位を築いた。以降は歌手、女優、バラエティで幅広く活動を続けている。

中山忍

姉・中山美穂を見送りに行った空港でスカウトされ、1988年ドラマ『オトコだろッ!』で女優デビュー、同年「小さな決心」で歌手デビューした。アイドルユニットでも活動したが’90年に歌手活動を休止し、以降は女優に専念。『刑事貴族3』などで清純派女優として人気を得た。’95年『ガメラ 大怪獣空中決戦』で鳥類学者役を演じて評価され、日本アカデミー賞優秀助演女優賞ほか多数を受賞。以後ドラマや映画、舞台で幅広く活躍を続けている。

細川直美

1988年「第2回全日本国民的美少女コンテスト」でグランプリを受賞し芸能界入り。アイドル歌手として新人賞レースにも参戦し、田村英里子や島崎和歌子らと同期デビューした。’93年のNHK朝ドラ『かりん』でヒロインを務め人気を獲得し、その後は女優として活躍。2002年に俳優の葛山信吾と結婚し、2女をもうける。結婚発表時には葛山の出演作『真珠夫人』と絡めた報道も話題となり、公私ともに注目を集めた。

マルシア

1985年、ブラジルで『TBS歌謡選手権』で準優勝し、翌年『外国人歌謡大賞』優勝を機に来日。作曲家猪俣公章の内弟子となる。’89年「ふりむけばヨコハマ」でデビューし、多くの新人賞を受賞して注目を集めた。その後はドラマやバラエティでも活躍し、女優・タレントとしても幅を広げる。’94年に大鶴義丹と結婚し、’97年に女児を出産するが2004年に離婚。離婚後も娘のため大鶴姓を名乗り活動を続けている。

秋本奈緒美

ジャズ好きの父の影響で幼少より同ジャンルに親しみ、サラ・ボーンに感銘を受け歌手を志す。長戸大幸にデモを送り続け、1982年にビクターからジャズ歌手としてデビュー。翌年『オールナイトフジ』初代司会を務め広く知られる存在となり、女優としても多彩に活動する。’90年代にはヌード写真集を発表し注目を集め、2019年には22年ぶりのアルバムをキングレコードから発売した。

西田ひかる

幼少期から13歳までを米ロサンゼルスで過ごした。アメリカンスクール・イン・ジャパン在学中にチアリーダーとして活動し、1979年にはスティーヴィー・ワンダーの楽曲「愛の園」でコーラス参加を経験した。’88年、日本エアシステム(JAS)のキャンペーンガールとしてデビューし、同年「フィフティーン」で歌手デビュー。清純派アイドルとして人気を集め、ドラマや映画にも出演。’91年、ドラマ『デパート!夏物語』の主題歌「ときめいて」がヒットし、第42回NHK紅白歌合戦に初出場。以後も「人生変えちゃう夏かもね」などCMソングがヒットした。デビュー直後から続くチャリティバザーを通じ、長年にわたり寄付活動も行っている。

大西結花

中学時代に「ミス・ロックンローラー・コンテスト」で準優勝後、スカウトされ芸能界入り。1984年、テレビドラマ『家族の晩餐』で女優デビューし、翌’85年にシングル『アラベスク・ロマネスク』でアイドル歌手デビューを果たした。第12回横浜音楽祭新人奨励賞を受賞し、デビュー時のキャッチフレーズは「不思議チック少女」。ドラマでは早熟や不良少女役で注目され、’85年公開の相米慎二監督『台風クラブ』で第7回ヨコハマ映画祭最優秀新人賞を受賞した。

伊藤麻衣子

1982年、ミスマガジンコンテスト初代グランプリを受賞し、’83年にシングル『微熱かナ』でアイドル歌手デビュー。デビュー時のキャッチコピーは「1億人のクラスメイト」で、以後シングルやアルバムを多数リリースしたが、同年デビュー組に目立ったヒットは少なく「不作の83年組」とも呼ばれた。’95年に芸名をいとうまい子に変更し、2000年代以降はバラエティ番組に活動の中心を移し、『お昼ですよ!愛・地球博』や『バイキング』などに出演。2016年3月に同番組を卒業するまで幅広く活躍した。

森尾由美

『Seventeen』の読者モデルとしてスカウトされ、1982年にフジテレビドラマ『ねらわれた学園』で女優デビュー。’83年にシングル「お・ね・が・い」でアイドル歌手デビューし、CM出演や『オールナイトフジ』司会、『元気が出るテレビ!!』などバラエティでも活躍した。’90年代にはトレンディドラマやTBS『愛の劇場シリーズ』の五つ子の母役で注目され、同枠の主演最多記録を持つ。声優としても『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の秋本・カトリーヌ・麗子役を10年以上演じ、日本在住ながら活動を続けている。

甲斐智枝美

1979年、日本テレビ『スター誕生!』で第29代グランドチャンピオンを獲得し芸能界入り。’80年、ホリプロ所属のアイドルとしてシングル「スタア」で歌手デビューし、キャッチフレーズは「KIRARI!瞳が語る」、愛称は「チェミイ」。’81年にはキャンペーン曲「Si! Si! C!」を発売したが、シングルのオリコン最高位は103位とヒットには恵まれず、歌手活動を縮小。その後は女優・タレント業に重心を移し、『GOGO! チアガール』『野々村病院物語』『高校聖夫婦』などドラマに出演。’87年には『見上げればいつも青空』でヒロインを務め、クイズ番組司会など多方面で活動した。

北原佐和子

『mcシスター』の読者モデルを経てオスカープロモーションにスカウトされ、1981年にミス・ヤングジャンプに選ばれグラビアデビュー。同年アイドルユニット「パンジー」を結成し、’82年18歳の誕生日にシングル「マイ・ボーイフレンド」でソロ歌手デビュー、「さわやか恋人一年生」のキャッチフレーズで’85年までにシングル10作、アルバム6作を発表。「花の82年組」の一人として人気を得た後、女優に転身し、時代劇や東海テレビ昼ドラに出演。20代から介護やボランティアに関心を持ち、2007年にホームヘルパー2級、2014年に介護福祉士資格を取得。介護現場の経験を生かし著書執筆や講演活動も行っている。

工藤夕貴

歌手井沢八郎の長女として生まれ、小学6年で渋谷でスカウトされ芸能界入り。TBS「ザ・ヒットステージ」でデビューし、毒舌中学生として注目され、CM「お湯をかける少女」で人気を得た。1984年『逆噴射家族』で映画出演し、挿入歌「野生時代」で歌手デビュー。翌年『台風クラブ』主演で高評価を受け、若手実力派女優として注目された。さらに声優やラジオパーソナリティとしても活動し、’90年『戦争と青春』で日本アカデミー賞優秀主演女優賞、ブルーリボン賞主演女優賞などを受賞した。

伊藤つかさ

子役として活動後、1980年『3年B組金八先生』で注目され、’81年「少女人形」で歌手デビューし人気アイドルとなる。’84年にビクターへ移籍し’86年まで音楽活動を続け、以後は女優業や声優にも進出。2002年に写真集でヌードを披露し話題となり、2006年に20年ぶりに歌手復帰。近年は過去音源の再発売や舞台出演など幅広く活動を続けている。

つちやかおり

1979年『3年B組金八先生』で女優デビューし、’82年「恋と涙の17才」で歌手デビューした。その後はドラマやバラエティ、グラビアなどで活躍したが、’91年に布川敏和と結婚し専業主婦となる。2012年に約20年ぶりに芸能界復帰を発表し、2014年に離婚を公表。近年はSNSや配信企画にも参加し活動を続けている。

石野陽子

高校在学中にスカウトされ芸能界入りし、1985年「テディーボーイ・ブルース」で歌手デビューした。石野真子の妹として当初から注目を浴び、歌唱に苦手意識を持ちながらもアイドルとして人気を得た。女優としてはドラマ『セーラー服通り』主演でブレイクし、志村けんとの掛け合いが光る『志村けんのだいじょうぶだぁ』でお茶の間の人気者となる。以降もテレビ・舞台に活動の場を広げ、2003年『てるてる家族』でスケートコーチ役、2020年『おちょやん』では芝居茶屋の女将役を好演し、幅広い演技力を示した。

中村由真

1985年ホリプロスカウトキャラバンで注目され、翌年「ヤングジャンプ」サマークイーンコンテストで1位となり芸能界入りした。’86年、ドラマ『スケバン刑事III』で風間三姉妹の次女・由真役を演じブレイク。’87年挿入歌「ジレンマ」で歌手デビューし、「シビアー」「パニック」なども発表。浅香唯・大西結花と結成したユニット「風間三姉妹」で主題歌「Remember」がオリコン1位を獲得し、人気アイドルとして活動した。

田中律子

12歳でモデルデビューし、1985年に『鶴ちゃんのいちごチャンネル』でテレビ初出演、ドラマでも女優として活動を始めた。’88年、筒美京平プロデュース「FRIENDSHIP」で歌手デビューし、シングル11枚とアルバム5枚を発表。同期はWinkや西田ひかるら。’89年『愛しあってるかい!』出演で注目され、’91年『101回目のプロポーズ』で人気女優となった。以後は女優業を中心にバラエティや司会でも活躍し、現在も幅広く活動を続けている。

 安田成美

中学時代にスカウトされ、1981年にCMでデビュー。’83年『風の谷のナウシカ』イメージガールに選ばれ、翌年同作のイメージソング「風の谷のナウシカ」で歌手デビューしオリコン10位のヒットとなった。’89年以降は『同・級・生』『素顔のままで』などトレンディードラマで主演し人気を確立。’94年に木梨憲武と結婚し、出産で一時休業したが2000年にドラマで復帰。以降も女優として活動を続ける一方、カフェ経営にも携わっている。

宮沢りえ

11歳でモデルとして活動を始め、1985年に明星食品CMで芸能界入り。’87年に初代リハウスガール”白鳥麗子”として注目を集め、’88年映画『ぼくらの七日間戦争』主演で女優デビュー、日本アカデミー賞新人賞を受賞した。’89年ドラマ初主演と同年「ドリームラッシュ」で歌手デビューし、翌年のシングルはオリコン1位を獲得、紅白にも出場した。’91年写真集『Santa Fe』が150万部超の大ヒットを記録し社会現象となった。’92年に貴乃花と婚約するが短期間で解消、’94年には流行語大賞も受賞するなど話題を集めた。

三原 順子

小学校時代から劇団で演技を学び、1979年『燃えろアタック』で本格的に女優デビュー。同年『3年B組金八先生』で不良少女役を演じ、セリフ「顔はやばいよ、ボディやんな」で注目を集めた。’80年「セクシー・ナイト」で歌手デビューしヒットを記録、以降も「いとしのサマーボーイ」などを発表した。アイドルらしからぬ大胆な発言や行動が話題となり、後にロックバンド活動や作詞にも取り組む。2010年には自民党から参議院議員選挙に立候補し、初当選を果たした。

松任谷由実


1972年、自身の作詞・作曲による『返事はいらない』で歌手デビュー。’75年、作家として提供した「いちご白書をもう一度」がオリコン1位を獲得すると注目され、TBSドラマの主題歌で6枚目のシングル『あの日にかえりたい』もオリコン1位を獲得。ここから過去の楽曲にも注目が集まり荒井由実ブームが到来、ニューミュージック界を牽引するアーティストとして快進撃が始まる。’76年に音楽プロデューサーの松任谷正隆と結婚し松任谷由実に改名。”呉田軽穂”の名で多くの歌手にも楽曲を提供し、発表される曲の殆どが名作として時代を超えて支持され、デビューから半世紀以上が経った現在も、ニューミュージック界のカリスマ的存在として活動を続ける。

中島みゆき


1975年、「アザミ嬢のララバイ」でレコードデビュー。同年『ポピュラーソング・コンテスト』で「時代」がグランプリを受賞し、歌手・作詞作曲家として注目を集める。’76年にファーストアルバム『私の声が聞こえますか』を発表、研ナオコへの提供曲「LA-LA-LA」「あばよ」などでソングライターとしても成功。’77年「わかれうた」がヒットし、歌手としての地位を確立する。代表作として’81年「悪女」がオリコン1位、’94年「空と君のあいだに」が147万枚のヒット。2000年にヤマハミュージックコミュニケーションズに移籍し、「地上の星/ヘッドライト・テールライト」がロングヒット。2006年芸術選奨文部科学大臣賞、2009年紫綬褒章を受章し、現在も精力的に作曲・歌手活動を続ける。

五輪真弓


芸術の発信地として知られた渋谷の小劇場のオーディションで歌唱したのをきっかけに1972年10月、CBS・ソニーからアルバム『少女』と同名シングルで歌手デビュー。オリコン最高6位を記録し「和製キャロル・キング」と称され、日本女性シンガーソングライターの草分けと評された。’76年にはフランスでアルバム制作に臨み、全フランス語アルバム『えとらんぜ』を発表、サルヴァトール・アダモのオランピア劇場公演にもゲスト出演する。’78年「さよならだけは言わないで」のヒットを機にテレビ出演が増加。’80年、B面予定の「恋人よ」がA面として発売され大ヒット、第22回日本レコード大賞金賞を受賞。以来コンサート活動を精力的に続け、日本のポップ・フォーク界で確固たる地位を築いた。

杏里


1978年、17歳でフォーライフ・レコードから「オリビアを聴きながら」でデビュー。歌唱力は高く評価されたが、初期はセールスが伸び悩み、曲調を変えながら定期的に作品を発表した。’82年、バックバンドの小林武史作曲の「思いきりアメリカン」が花王のCMで使用されヒットし、「夏」「海」のイメージが定着。’83年、角松敏生にプロデュースを委ねた5枚目アルバム『Bi・Ki・Ni』で洗練された音楽性を確立。8月にはアニメ『キャッツ♥アイ』主題歌「CAT’S EYE」を発売し初のオリコン1位を獲得、続く「悲しみがとまらない」とともにベスト10入りを果たす。同年12月には両曲を収録したアルバム『Timely!!』がオリコン1位となり、初出場の第34回NHK紅白歌合戦で不動の地位を確立した。

竹内まりや


1978年、23歳でシングル「戻っておいで・私の時間」とアルバム『BEGINNING』でデビュー。当時はアイドル的役割も担ったが、’79年の「SEPTEMBER」が長期チャートインし新人賞を受賞、サンレモ音楽祭にも出場した。’80年には「不思議なピーチパイ」がヒットし、自ら作詞作曲も手がけるようになるが、アイドル的活動に悩み、’81年には過酷なスケジュールで喉を痛め一時休業。’82年に山下達郎と結婚しメディア露出を減らす一方で作詞・作曲家として活動を開始。’84年、全曲自作のアルバム『VARIETY』をリリースしヒット、娘も誕生した。その後は家庭を優先しつつ、薬師丸ひろ子「元気を出して」、中山美穂「色・ホワイトブレンド」など多数のヒット曲を提供し、シンガーソングライターとして確固たる地位を築いた。

渡辺真知子


1975年、高校在学中にヤマハ主催『第9回ポピュラーソングコンテスト』に「オルゴールの恋唄」で出場し特別賞を受賞。’77年、洗足学園短期大学音楽科卒業後、同年11月にシングル「迷い道」でデビュー。’78年にはセカンドシングル「かもめが翔んだ日」が大ヒットし、第20回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞、音楽祭13賞も獲得。同年に「ブルー」、’79年に「たとえば…たとえば」「別れて そして」などヒットが続く。’80年の「唇よ、熱く君を語れ」はカネボウCM曲としてヒットし、軽快で力強い曲調が”女性の時代”を象徴する楽曲と評され、デビュー直後からシンガーソングライターとして順調にキャリアを築いた。

髙橋真梨子


中洲のナイトクラブに出演していた1972年、「ペドロ&カプリシャス」のペドロ梅村にスカウトされ前野曜子の後任として二代目ボーカルに参加。当時は芸名「高橋まり」。’73年に「ジョニィへの伝言」「五番街のマリーへ」がロングヒットとなる。’78年にペドロ&カプリシャスを脱退し、ソロ歌手「髙橋真梨子」として活動を開始。同年11月にシングル「あなたの空を翔びたい」でデビューし’79年から全国ツアーを開始。2019年まで41年間連続で開催し、2000人以上収容の大規模ホールで年間25公演以上を継続する唯一の女性ソロ歌手として昭和、平成、令和の3時代にわたりトップアーティストとして活動を続けている。

大橋純子


1974年に北海道から上京し、ヤマハ音楽振興会で働きながら仲間とバンド活動を始めた。同年アルバム『フィーリング・ナウ』でデビューし、尾崎紀世彦のツアーに同行して経験を積む。’76年にアルバム『ペイパー・ムーン』で初ヒットを得て、翌年には「大橋純子&美乃家セントラル・ステイション」として「シンプル・ラブ」をヒットさせた。’78年にはドラマ主題歌「たそがれマイ・ラブ」が大ヒットし、日本レコード大賞金賞を受賞。続く「サファリナイト」も支持を集めた。’79年に作曲家佐藤健と結婚し、「ビューティフル・ミー」で『NHK紅白歌合戦』に初出場。’81年発表の「シルエット・ロマンス」が’82年にかけてロングヒットとなり、最優秀歌唱賞を受賞するなど、歌唱力と表現力で高い評価を確立した。

八神純子


1974年の『ヤマハポピュラーソングコンテスト』で「雨の日のひとりごと」「幸せの時」の2曲同時入賞を果たし、同年にシングル「雨の日のひとりごと」でプレ・デビュー。’78年1月、20歳の誕生日に「思い出は美しすぎて」で本格デビューし、アルバムもヒットした。次作は不発となったが、同年9月の「みずいろの雨」が有線やラジオで支持を得て人気が急上昇し、『ザ・ベストテン』出演を機に全国区でブレイク。明るいトークで司会陣に親しまれ、存在感を高めた。「みずいろの雨」はオリコン2位、60万枚を売り上げる大ヒットとなり、同年末にリスナーズグランプリ最優秀新人賞を受賞。透明感ある歌声と確かな実力でシンガーソングライターとしての地位を確立した。

葛城ユキ

1973年、朝霧マチ名義で第6回ヤマハポピュラーソングコンテストに出場し「小さな出発」で歌唱賞を受賞。翌年に葛城ゆきと改名し、第7回同大会で「木曾は山の中」を歌い最優秀賞を獲得、さらに世界歌謡祭でも川上賞を受賞し、’74年にメジャーデビューした。当初はニューミュージック系の作品を発表したが、’70年代後半に「ユキ」と改名。’80年にはボニー・タイラーの楽曲をカバーした「哀しみのオーシャン」がヒットし、アルバム『寡黙』を発表。’83年には「ボヘミアン」をカバーして大ヒットさせ、力強い歌声で代表曲となった。

中村あゆみ

1984年、高校3年で高橋研プロデュースの「MIDNIGHT KIDS」でデビュー。翌’85年に「翼の折れたエンジェル」が日清カップヌードルのCMに起用され大ヒットし、一躍注目を集めた。’85年夏にはREBECCAとのジョイントライブを行い、以後8月31日を「AYUMIDAY」として武道館などで恒例ライブを開催。代表曲には「ちょっとやそっとじゃCAN’T GET LOVE」「ともだち」、さらに鈴木みのるの入場曲「風になれ」がある。’87年以降は自作曲も手がけ、’94年の結婚、’99年の出産を機に活動を休止するが、2004年に再始動し現在も歌手として活動を続けている。

小林明子

東京大学教授の秘書や音楽出版会社勤務を経て、1984年に作家デビュー。翌’85年「恋におちて -Fall in love-」で歌手デビューし、ドラマ『金曜日の妻たちへIII』の主題歌として大ヒット、レコード大賞作曲奨励賞を受賞した。中森明菜らへの楽曲提供も行う。’88年にはリチャード・カーペンターのプロデュースでアルバム『City of Angels』を発表。’92年に渡英し、holi名義で活動を始め、’94年に元ジャパンのメンバーらとアルバムを制作、’95年にはパッセンジャーズ作品に参加した。2001年に結婚し、同年アルバム『Beloved』を発表。以降も交響楽団やハープとの共演など多彩な音楽活動を展開し、日英を拠点に活動を続けている。

渡辺美里

高校時代にミス・セブンティーンコンテストで歌唱部門を受賞し、1985年にEPIC・ソニーからデビューした。翌年、小室哲哉作曲の「My Revolution」が大ヒットし、一躍人気歌手となる。デビュー直後から西武ライオンズ球場など大規模スタジアムでの公演を成功させ、物怖じしないパフォーマンスで支持を得た。ラジオ番組のパーソナリティーも務め、アイドルとは異なるガールズポップの先駆的存在として活躍した。アルバムは9作がオリコン1位を獲得し、8年連続1位の記録を残している。小室哲哉や岡村靖幸、大江千里ら多くの作家陣と組み、エピックを代表するアーティストとして’80年代後半から’90年代前半の音楽シーンを牽引した。

浜田麻里

1983年、糸井重里のキャッチコピー「麻里ちゃんは、ヘビーメタル。」とともに、LOUDNESS樋口宗孝プロデュースのアルバム『Lunatic Doll〜暗殺警告』でデビューした。女性ロックヴォーカリストの旗手として注目を集め、当時のハードロックとしては異例のセールスを記録した。’85年に初シングル「Blue Revolution」を発表し、セルフプロデュースや全国ツアーも展開。’87年からはロサンゼルスで録音を行い、ポップスを取り入れた幅広い音楽性を示した。’88年にはソウル五輪中継テーマ「Heart and Soul」で初のオリコンTOP10入りを果たし、’89年「Return to Myself」が1位を獲得し代表曲となった。CMやドラマ出演はせず音楽活動に専念し、日本武道館公演を含む大規模ツアーも成功させた。

大貫妙子

東京出身。1973年、山下達郎らとシュガー・ベイブを結成し活動を開始した。グループ解散後の’76年、アルバム『グレイ・スカイズ』でソロデビューを果たす。以降、日本クラウン、RVC、ミディ、東芝EMIと移籍しながら作品を発表し、独自の都会的で洗練されたポップスを築いた。’98年には映画『東京日和』で第21回日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞し、映画音楽にも活動の場を広げた。2006年には任天堂ゲーム『MOTHER3』の楽曲を収録したCDで歌唱を担当し、同年公開の『劇場版 どうぶつの森』では主題歌「森へ行こう」を歌った。2008年には稲垣潤一と「サイレント・イヴ」をデュエット、2009年には大瀧詠一トリビュートで「君は天然色」をカバーするなど、幅広い活動を続けている。

中原めいこ

幼少期から歌手を志し、中学で作曲を始めた。17歳で郷ひろみのバックコーラスを務めるなど活動経験を積み、’82年に「今夜だけDANCE・DANCE・DANCE」でデビュー。’84年にカネボウのキャンペーンソング「君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。」がヒットし人気を確立するが、多忙により心身を消耗し’88年に活動を休止、’90年に拠点をニューヨークへ移した。’92年の日清パワーステーションでのライブを最後に歌手活動を停止し、その後は楽曲提供に携わるにとどまった。活動休止後はオリジナルアルバムが廃盤となったが、2010年代以降のシティ・ポップ再評価の流れで再発が進み、2022年には全10作品が復刻され再び注目を集めている。

飯島真理

国立音楽大学在学中にデモテープが認められ、歌手デビュー前にアニメ『超時空要塞マクロス』でリン・ミンメイ役を演じて注目を集めた。1983年、坂本龍一プロデュースによるアルバム『Rosé』でデビューし、翌年には劇場版主題歌「愛・おぼえていますか」が大ヒットを記録。以降はアニメ色を離れ、「1グラムの幸福」などを発表し、ライブ活動で「学園祭の女王」と呼ばれるほどの人気を得た。’85年のアルバム『midori』はオリコン2位となり、音楽活動に専念するため大学を中退した。’87年には山下達郎の勧めでMOON RECORDSに移籍し、セルフプロデュースによる『Coquettish Blue』を発表し、TOP10入りを果たした。

小比類巻かほる

幼少期から作曲や作詞に親しみ、10代でセミプロのバンド活動を行っていた。高校生時代、EPIC・ソニーにスカウトされ、1985年10月にシングル「Never Say Good-Bye」でデビュー。翌月にはファースト・アルバム『CALL MY NAME』をリリースするも、当初は大きな成功を得られなかった。売れるために企画会議や宣伝に積極的に関わり、渋谷パルコの壁画広告など新しいプロモーション手法を実践し注目を集めた。また、事務所勤務の傍ら夜間に楽曲制作に励むなど、アーティスト兼クリエイターとしての姿勢を早くから確立した。

岡村孝子

1981年、椙山女学園大学在学中に加藤晴子とデュオ「あみん」を結成。’82年、ポプコンで「待つわ」によりグランプリを受賞しデビュー。同曲は年間オリコン1位を記録した。’83年にあみん活動を休止後、上京してソロ活動を開始。’85年、ファンハウスよりソロデビュー。’86年に来生たかおのカバー「はぐれそうな天使」がCM起用され人気が高まり、’87年発表の「夢をあきらめないで」は応援歌として幅広い層から支持され代表作となった。楽曲は中学校の教科書にも採用されている。’90年代初頭にはOL世代の共感を集め「OLの教祖」と称され、ソロ活動を中心に歌詞や楽曲制作を続ける一方、2007年にはあみんとしても活動を再開した。

辛島美登里

奈良女子大学在学中の1983年、自作曲「雨の日」でポプコン関西四国地区代表としてグランプリを獲得し、同曲がビクターからシングル発売されデビュー。卒業後は上京しヤマハ音楽院で学びながら、’87年、シングル「Midnight Shout」で正式デビューした。’89年、シングル「時間旅行」を発売し歌手活動が本格化。’90年には「笑顔を探して」がアニメ『YAWARA!』主題歌、「サイレント・イヴ」がドラマ『クリスマス・イブ』主題歌となり、「サイレント・イヴ」はオリコン1位を獲得、日本ゴールドディスク大賞ベスト5シングル賞も受賞した。以降、ヒット曲のリリースに加え、NHK-FMやTBSラジオでDJも務め、作詞・作曲活動と歌手活動を両立させている。

椎名恵

1981年、「及川ちさ」名義でポプコンに出場し川上賞を受賞したことをきっかけに上京し本格的に音楽活動を開始。’83年には「ピーマンキッス」がフジテレビ『ひらけ!ポンキッキ』で放映された。’86年1月、シングル「今夜はANGEL」で歌手・椎名恵としてデビューし、『夜のヒットスタジオDELUXE』や『ザ・ベストテン』に出演。以降、ドラマ主題歌やCMタイアップ曲がヒットし実力派シンガーとして認知される。’88年には「お誕生日おめでとう」がNHK『みんなのうた』で放映。。2000年にはボーカルユニット“Voice of DREAM 2000”に参加しドラマ主題歌を担当。同年シングル「初恋と青空 toy box 〜classical〜」をリリースし、富良野チャペルコンサートにも出演。現在も活動を継続している。

谷村有美

幼少よりピアノやクラシックバレエに親しみ、小学校4年でビートルズのコピーバンドに参加、13歳で単身渡米。慶應義塾大学在学中の1986年、CBS・ソニー主催オーディション「ティーンズ・ポップ・コンテスト」で優勝し、’87年11月にシングル「Not For Sale」とアルバム『Believe In』でデビュー。歌手活動と並行してラジオDJやテレビ司会、エッセイ執筆、陶芸・書道など多方面で活躍した。’98年末から約2年間活動を休止し渡米してボイストレーニングに励むが、カラオケで歌う中で歌への情熱を再確認し2000年10月に活動を再開。以降もチャリティー活動やライブ出演など幅広く取り組んでいる。

山下久美子

1980年、博多のクラブで歌っていたところをスカウトされ、シングル「バスルームから愛をこめて」と同名アルバムで日本コロムビアからデビュー。’82年にシングル「赤道小町ドキッ」がヒットし注目を集めた。’85年に布袋寅泰と結婚、ジョイントコンサートに出演するなど活動を続けるが、’88年にライヴ『stop stop rock’n’roll』を最後に一時休止。’91年に活動を再開し、東芝EMIに移籍してシングル「Tonight (星の降る夜に)」とアルバム『JOY FOR U』を発表。’92年よりテレビドラマ出演など女優業にも挑戦。’97年に布袋と離婚、その後もCMやライブ出演、楽曲提供・コラボレーションアルバム『&Friends』シリーズなど多方面で活動を続けている。

EPO

1980年3月、シュガー・ベイブのカバーシングル『DOWN TOWN』でデビュー。同曲はフジテレビ『オレたちひょうきん族』のエンディングテーマに採用され、知名度を急上昇させた縁で「タケちゃんマンの歌」なども手掛けた。デビュー当初はグラビア出演も経験し、アイドル的要素も持ちながら活動した。’83年には資生堂CMソング「う、ふ、ふ、ふ、」が大ヒットし、代表曲となる。’84年からは他アーティストへの楽曲提供も始め、高見知佳の「くちびるヌード」や香坂みゆきの「ニュアンスしましょ」が資生堂CMに使用されるなど、歌手活動と作曲活動の両面で活躍した。

美空ひばり


1937年5月29日に神奈川県横浜市で生まれ、9歳でレコードデビューを果たす。’49年、11歳の時にコロムビアから「河童ブギウギ」でレコードデビューし、その後「悲しき口笛」などのヒット曲で一躍スターとなった。映画にも多数出演し、「東京キッド」「リンゴ追分」「港町十三番地」などの名曲を生み出した。’50年代から’60年代にかけては映画、舞台、テレビなど多方面で活躍し、歌謡界の女王としての地位を確立した。彼女の歌唱力と表現力は、当時の音楽シーンに大きな影響を与えた。’89年6月24日に52歳で逝去したが、彼女の音楽と映画は今もなお多くの人々に愛され続けている。没後には国民栄誉賞を受賞し、その功績が讃えられた。彼女のディスコグラフィーや詳細な情報は、日本コロムビアの公式サイトで確認できる。

小林幸子


1964年にシングル「ウソツキ鴎」でデビューし、20万枚を売り上げるヒットとなる。’79年に「おもいで酒」が大ヒットし、紅白歌合戦にも初出場を果たした。以降、紅白には2011年までに33回出場し、’88年と2004年には大トリを務めるなど長年にわたり活躍。’80年代から’90年代にかけては「雪椿」や「越後情話」などのヒット曲に恵まれ、演歌界のトップ歌手としての地位を確立。また、豪華な衣装での紅白出演や派手な演出で注目を集め、視覚的にも話題となった。2000年代以降も演歌からポップス、アニメソングまで幅広いジャンルで活動を展開している。

テレサ・テン


1953年1月台湾の雲林県で生まれた。10歳の時に台湾の素人のど自慢で優勝し、その後も各地のコンテストで優勝を重ねて注目を集め、14歳で歌手デビュー。レギュラー番組を持つなど台湾のエンターテインメント業界からアジア全域に活動の場を広げ”アジアの歌姫”と呼ばれる。日本では’74年、21歳の時に「今夜かしら明日かしら」でデビューし、2作目の「空港」で人気が高まり、翌年の「時の流れに身をまかせ」が大ヒット。これらの楽曲は彼女の代表作となり、日本の音楽シーンでも高く評価された。その後「つぐない」などもヒットし、彼女の音楽は広く親しまれた。’95年5月、急性喘息により香港で逝去するも、今も尚その存在は多くの人々に愛され続ける。

八代亜紀


中学卒業後に熊本でバスガイドとして就職するが、人前で話すのが苦手で3か月で退職。その後キャバレー歌手を経て上京し、銀座のクラブで歌っていた際に五木ひろしの紹介で芸能プロと出会い、1971年「愛は死んでも」でデビュー。日本テレビ『全日本歌謡選手権』で10週連続勝ち抜きグランドチャンピオンとなり注目を集め、’73年「なみだ恋」が120万枚の大ヒット。トラック野郎のアイドルとしても人気を博す。以降も「おんな港町」「愛の終着駅」などを発表し人気を確立。’79年「舟唄」、’80年「雨の慕情」が特に評価され、後者で日本レコード大賞を受賞、紅白歌合戦では2年連続大トリを務め「演歌の女王」と称された。晩年はジャズ、ブルースなども歌うようになりファン層を広げた。2023年12月、指定難病を患い73歳で逝去した。

石川さゆり


1972年、中学3年の夏休みに「ちびっ子歌謡大会」で合格しホリプロにスカウトされ芸能界入り、同年ドラマ『光る海』で女優デビューする。’73年に、桜田淳子と同じ白いエンジェルハットをトレードマークに「かくれんぼ」で歌手デビューするが、森昌子・山口百恵・桜田淳子ら同世代の人気に押され苦戦した。その後、二葉百合子に師事し基礎から学び直し、民謡や日舞にも取り組んで歌の表現力を磨いた。’77年「津軽海峡・冬景色」が大ヒットし数々の音楽賞を受賞、NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。続く「能登半島」「沈丁花」なども成功し、’80年代には「波止場しぐれ」「天城越え」「夫婦善哉」「風の盆恋歌」などの代表曲を発表、日本を代表する演歌歌手の地位を確立した。

瀬川瑛子


股旅歌謡やマドロス歌謡で人気を博した歌手・瀬川伸の娘として育ち、5歳から父の指導で歌を学び、父のステージの前座を経て1967年「涙の影法師」でデビューした。当初は「瀬川映子」を名乗り、地道に活動を重ねる。’70年「長崎の夜はむらさき」が50万枚のヒットとなるが、その後は低迷期を迎える。’83年には作曲家・船村徹の計らいで「矢切の渡し」を競作で歌い30万枚を売り上げ、再び注目を集めた。’86年「命くれない」が大ヒットし、翌年のオリコン年間1位・累計170万枚の大記録を達成、「一途に添い遂げる女」を歌う代表曲となった。その後も演歌歌手として活動を続け、日本歌謡界に確かな足跡を残した。

小柳ルミ子


宝塚音楽学校を首席で卒業後、1971年「わたしの城下町」でデビュー。160万枚を売り上げ同年のオリコン年間1位となり、日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞した。翌年の「瀬戸の花嫁」も大ヒットし、日本歌謡大賞を獲得。その後も「京のにわか雨」などヒットを重ね、天地真理、南沙織と並ぶ「新三人娘」として人気を博した。’70年代半ば以降「星の砂」「お久しぶりね」など多彩な楽曲で新境地を拓き、実力派歌手として評価を確立。’71年から’88年まで18年連続で紅白に出場した。女優としても『誘拐報道』『白蛇抄』で日本アカデミー賞を受賞するなど高い評価を得、志村けんとのコントなど
での活躍でも広く親しまれた。

森昌子


1971年『スター誕生!』に13歳で出場し、初代グランドチャンピオンとなる。父の反対を説得しホリプロに所属し、’72年「せんせい」でデビュー。当時のヘアスタイルはタワシ頭と呼ばれるショートカットで、いじられながらもお茶の間に愛される存在となる。その後デビューした桜田淳子、山口百恵とともに「花の中三トリオ」と呼ばれ、’73年には女性最年少15歳で紅白に出場。映画やバラエティでも活躍。’77年以降は「なみだの桟橋」から演歌路線へ転じ、歌唱力を高める。’83年「越冬つばめ」で日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。歌手活動に加え、ドラマ出演など女優としても活動の幅を広げた。

川中美幸


17歳の時、「春日はるみ」として歌手デビュー。歌のうまさが評判となったもののアイドル全盛期だった当時大きく注目はされず、2年間の活動のみで地元の大阪に戻る。その後、大阪で開催された『ネオン街音楽祭』に出場しグランプリを獲得し再デビューを決意。芸名を「川中美幸」に改め、21歳でシングル「あなたに命がけ」を発表するもヒットに至らず。1980年、24歳で発表した夫婦愛をテーマとするシングル「ふたり酒」がようやく実を結び、ミリオンセラーの大ヒットとなる。下町人情を歌わせたら右に出る者なしと評される。

松村和子

北海道遠別町に生まれ、苫小牧で育つ。高校時代に母から歌を学び、野口五郎に憧れて歌手を志した。1980年4月、「帰ってこいよ」でビクターからデビュー。津軽三味線をギターのように奏でる独自のスタイルと力強い高音による楽曲で”帰ってきた男衆演歌”として注目を集め、同曲は大ヒットし日本レコード大賞新人賞を受賞した。翌’81年には紅白歌合戦に初出場。民謡の要素を活かした演歌で独自の地位を築いた。

日野美歌

幼少期から歌手を志し、小学6年頃から本格的に歌唱を学び始めた。中学時代に『スター誕生!』へ応募するも不合格となるが、歌手への夢を諦めず、湘南女子高等学校卒業後にプロの道を歩む。1982年4月、「私のあなた」でテイチクからデビュー。同年12月、佳山明生との競作「氷雨」が大ヒットし、一躍注目を集める。翌1983年には紅白歌合戦に初出場。1986年には葵司朗とのデュエット「男と女のラブゲーム」が武田薬品工業のCMソングとして話題となりヒット。大人の情感を表現する歌声で、演歌とムード歌謡を融合させた独自のスタイルを確立した。

坂本冬美

1986年『勝ち抜き歌謡天国』で名人となり、「関西演歌大賞カラオケコンクール」でも優勝。番組出演を機に猪俣公章に見出され上京し、約2年間内弟子として修業を積む。’87年「あばれ太鼓」でデビューし、80万枚超を売り上げ、新人賞を総なめにして一躍人気歌手となった。翌年「祝い酒」がヒットし紅白初出場を果たす。以後「男の情話」「火の国の女」など男歌で人気を確立。’94年には三木たかし作曲の「夜桜お七」が大ヒット。紅白で通算8回歌唱し、’96年には初の紅組トリを務めた。

桂銀淑

1977年、高校生で韓国のモデルとしてデビューし、CM出演などで人気を得た。’79年に「歌って踊って」で歌手デビューし、翌年「待っている女心」でMBC新人賞を受賞、アイドル歌手として活躍した。’84年、作曲家・浜圭介に見出され来日し、翌’85年「大阪暮色」で日本デビュー。「すずめの涙」「夢おんな」「酔いどれて」などヒットを連発し、’88年「夢おんな」で日本有線大賞グランプリを受賞。同年から紅白に7年連続出場した。’90年にはアルバム『真夜中のシャワー』で日本レコード大賞アルバム大賞を受賞し、シングル中心の演歌界においてアルバムでも成功を収めた。

松原のぶえ


大分県耶馬溪町出身。幼少期から歌うことを好み、中学生で福岡のタレント養成所に通った。中学3年時に北島音楽事務所にスカウトされ、高校生で上京して歌手を志す。1979年、「おんなの出船」でデビューし、第21回日本レコード大賞新人賞をはじめ数々の新人賞を受賞。情感豊かな表現力で注目を集めた。’89年には女性演歌歌手に贈られるレコード大賞・美空ひばり賞の第1回受賞者となり、演歌界で確固たる地位を築いた。2002年に北島音楽事務所を離れ、自身の事務所「のぶえオフィス」を設立し、以後もステージ活動やテレビ出演など幅広く活躍を続けている。

香西かおり

幼少期から民謡で数々の賞を受賞し、「香西香」名義で民謡のレコードを発表していた。1975年に産経民謡大賞少年少女の部で入賞、翌年に準優勝。’82年に太陽神戸銀行へ入行するが、歌への情熱を捨てきれず退職し上京。’88年、「雨酒場」で演歌歌手としてデビューし、第30回日本レコード大賞新人賞を受賞。同曲はロングヒットとなり注目を集めた。’93年には「無言坂」で日本レコード大賞を受賞し、代表曲となる。以後も「浮寝草」などで高く評価され、演歌のみならずポップスや民謡など幅広いジャンルを歌いこなす実力派歌手として活躍を続けている。

城之内早苗

幼少期から民謡と三味線を学び、中学時代に『全日本演歌選手権』への応募をきっかけにスカウトされた。1985年、フジテレビ『夕やけニャンニャン』のオーディションで合格し、おニャン子クラブの会員番号17番としてデビュー後、’86年6月「あじさい橋」でソロデビューを果たし、演歌としては異例のオリコン初登場1位を記録した。グループ解散後は『走れ!歌謡曲』のパーソナリティや『ものまね王座決定戦』への出演など多方面で活躍。女優としても『江戸を斬る(第8部)』に出演し、’90年代以降はラジオ番組の司会やCM出演など活動の幅を広げた。

伍代夏子

1982年、「星ひろみ」としてデビューするも、事務所の倒産などで一時引退。’85年に「加川有希」名義で平松政次とのデュエット「夜明けまでヨコハマ」で再デビュー。’86年には本名の中川輝美名義で演歌を歌い始め、’87年に「伍代夏子」として再々デビューする。芸名は五木ひろしと八代亜紀にちなむ。「戻り川」が35万枚を超えるヒットとなり、’88年には東西有線の最優秀新人賞をダブル受賞する快挙を達成。’90年「忍ぶ雨」で紅白初出場を果たし、美貌と確かな歌唱力で“美人演歌歌手”としての人気を確立した。夫は役者の杉良太郎。

藤あや子

秋田県出身。小学4年から民謡を習い、高校卒業後も仕事を続けながら民謡歌手として活動した。19歳で秋田県主催の「ミス花嫁コンテスト」で優勝。1985年にNHK『勝ち抜き歌謡天国』で優勝し、’87年に「村勢真奈美」名義で「ふたり川」でデビュー。’89年に「藤あや子」と改名し「おんな」で再デビューした。’92年、「こころ酒」が大ヒットし、第25回日本有線大賞を受賞、紅白歌合戦にも初出場。以後ヒットを連ね、美貌と艶のある歌唱で人気を確立した。2010年には突発性難聴で休養するが、同年10月に復帰。秋田県の「食彩あきた応援大使」にも任命されている。

女性歌手・アイドル > 1970年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

天地真理

1971年、TBSドラマ『時間ですよ』でデビュー。ドラマ内で歌う「水色の恋」でレコードデビュー。愛らしいルックスと歌声でデビュー後は「ちいさな恋」「ひとりじゃないの」「虹をわたって」「恋する夏の日」など大ヒット曲を連発。同期デビューの南沙織、小柳ルミ子と”新三人娘”と呼ばれるも天地の人気は飛ぶ鳥を落とす勢いで、’70年代初期、日本中に熱狂的な天地真理ブームを巻き起こした。

南沙織
南沙織

1971年「17才」でデビュー。”シンシア”の愛称でたちまちトップアイドルとなる。同年、日本レコード大賞で新人賞を受賞。「潮風のメロディ」「純潔」「傷つく世代」ほかヒット曲を連発し、同期の天地真理、小柳ルミ子とともに”新三人娘”として活躍した。’78年、当時在学していた上智大学での学業に専念するため引退。その後、写真家の篠山紀信と結婚。一時的に歌手活動を再開した時期もある。

アグネス・チャン
アグネス・チャン

1972年「ひなげしの花」で日本デビュー。それ以前も母国の香港で歌手として活動していた。’73年に発売した3枚目のシングル「草原の輝き」が大ヒットし、日本レコード大賞新人賞を受賞。その後も「小さな恋の物語」「ポケットいっぱいの秘密」「愛の迷い子」ほか多数のヒット曲を放つ。’76年に芸能活動を休止しトロント大学に留学。卒業と同時に芸能活動を再開した。

麻丘めぐみ

1972年、デビュー曲の「芽生え」が40万枚を超えるヒット。同年の日本レコード大賞・最優秀新人賞を受賞した。’73年「わたしの彼は左きき」が爆発的なヒットを記録し、日本レコード大賞・大衆賞、日本歌謡大賞・放送音楽賞。麻丘めぐみの代表曲となる。トレードマークの髪型”お姫様カット”は当時若い女性たちの間で流行した。元祖・清純派アイドルともいえる存在。

浅田美代子
浅田美代子

1973年、TBSドラマ『時間ですよ』のお手伝いさん役でデビュー。ドラマ内で歌う「赤い風船」で歌手デビューし50万枚を売り上げ、同年の日本レコード大賞で新人賞を受賞。以降も『寺内貫太郎一家』『時間ですよ・昭和元年』などのドラマ出演とともに歌手活動でもコンスタントにヒット曲を出し、”ミヨちゃん”の愛称でお茶の間に親しまれる存在となる。

桜田淳子

人気オーディション番組『スター誕生!』で番組史上最多となる25社のスカウトを受け、1973年、14歳で「天使も夢見る」でデビュー。山口百恵、森昌子とともに”花の中3トリオ”としてブレイクし、「わたしの青い鳥」「はじめての出来事」ほかヒット曲多数。天性の勘の良さと恵まれた容姿で映画・ドラマでも活躍するも、’90年代に入ってしばらく経った頃、個人的な事情で芸能活動を停止した。

山口百恵

『スター誕生!』で多数の指名を受け、1973年、映画『としごろ』の出演と同名のシングルで”人にめざめる14歳”をキャッチフレーズに芸能界デビュー。桜田淳子、森昌子とともに”花の中3トリオ”として人気アイドルとなる。5枚目のシングル「ひと夏の経験」以降オリコン上位の常連となり、宇崎竜童・阿木燿子による「横須賀ストーリー」で本格的な山口百恵の時代が到来、絶大な人気でトップアイドルとして不動の地位を確立する。’80年、映画『伊豆の踊子』やドラマ”赤いシリーズ”で共演した三浦友和との結婚により引退するも、昭和の伝説のスターとして今なお多くのファンに愛され続けている。

岩崎宏美

1974年『スター誕生!』で優勝、’75年「二重唱 (デュエット)」でデビュー。2枚目のシングル「ロマンス」が約90万枚のヒットとなり数々の新人賞を受賞。天まで届きそうな伸びやかで圧倒的な歌唱力で、その後も「思秋期」「シンデレラ・ハネムーン」「万華鏡」「すみれ色の涙」などで多くの賞を受賞した。’82年、『火曜サスペンス劇場』の主題歌「聖母たちのララバイ」が80万枚のヒットとなり、同年の日本歌謡大賞を受賞。2025年現在も歌手活動を続けている。

岡田奈々

1975年「ひとりごと」で歌手デビュー。ポッキーの初代CMガールやエメロンシャンプーのCMに起用され、たちまちお茶の間の人気者となる。同年10月に放送開始した日本テレビ『俺たちの旅』では田中健の妹役で出演し、’76年、劇中歌の「青春の坂道」がヒットした。『俺たちの旅』の後、引き続き同局『俺たちの朝』に出演していた際、自宅に不審者が押し入り負傷。しかし事件の2日後には仕事に復帰し、華奢な外見の内側に宿る根性を見せつけた。

安倍理津子

北海道札幌市出身。高校卒業後、地元の音楽喫茶で歌っていたところを平尾昌晃に見出され、1970年8月、「愛のきずな」でキングレコードからデビュー。同曲がヒットし、第12回日本レコード大賞新人賞を受賞。「愛のおもいで」「お嫁に行くなら」などを続けて発表した。’83年には橋幸夫とのデュエット曲「今夜は離さない」が大ヒットし、「デュエットの女王」と呼ばれるようになる。現在もディナーショーなどで歌手活動を続けており、2020年にはデビュー50周年を機に芸名を安倍里葎子から安倍理津子へ改めた。

林寛子

東京都出身で児童劇団「日本児童」に所属し、1964年から子役として活動を始める。7歳でNHK連続テレビ小説『旅路』に出演し注目を集め、その後も映画やドラマで子役として活躍。’73年、フジテレビの『君こそスターだ!』で初代グランドチャンピオンとなり、翌’74年「ほほえみ」で歌手デビュー。キャッチフレーズは“そよ風みたいな女の子”。翌年の「素敵なラブリーボーイ」がヒットし、アイドルとして人気を確立する。以後、女優業でも活躍し、映画『恋の空中ブランコ』(’76年)やドラマ『がんばれ!レッドビッキーズ』(’78年)で主演。明るく健康的なイメージで多数のCMにも出演した。

川島なお美

高校時代にスクールメイツで歌とダンスを学び、平尾昌晃音楽教室でレッスンを受ける。1979年「シャンペンNo.5」で歌手デビューし、笑福亭鶴光のオールナイトニッポンでアシスタントを務めた。’81年、文化放送『ミスDJリクエストパレード』の火曜担当に抜擢され、“女子大生DJ”として人気を集め、女子大生ブームの象徴となる。’93年には写真集『WOMAN』で大胆なヘアヌードを披露し、妖艶な女優へと転身。’97年、ドラマ『失楽園』で主演し社会現象を巻き起こす。以後も舞台やテレビで活躍を続けたが、2015年、胆管がんのため死去。

木之内みどり

1974年「めざめ」で歌手デビュー。ヒット曲には自身が出演したドラマ『刑事犬カール』の主題歌「走れ風のように」や「横浜いれぶん」がある。歌手活動ではそれど目立たなかったものの、グラビアアイドルとしての人気は高くブロマイドは飛ぶように売れ、当時篠山紀信の撮影で知られた雑誌『GORO』の表紙を6回も飾った。’90年、俳優の竹中直人と結婚(再婚)している。

伊藤咲子

日本テレビ『スター誕生!』で優勝し、1974年「ひまわり娘」でデビュー。天真爛漫な笑顔と歌声でアイドルの仲間入りを果たす。’75年「乙女のワルツ」で日本テレビ音楽祭金の鳩賞や日本歌謡大賞放送音楽賞を受賞。’76年「きみ可愛いね」がオリコン週間9位にランクイン。同じく『スター誕生!』出身の城みちるとの交際も隠すことなく公表し、ファンに支持された。

榊原郁恵

1976年、高校2年で『第1回ホリプロタレントスカウトキャラバン』に参加し優勝。翌’77年「私の先生」で歌手デビュー。デビュー後は江崎グリコや雪印食品のCM、『ナッキーはつむじ風』などのドラマでも活躍。’78年、7枚目のシングル「夏のお嬢さん」が自身最大のヒット曲となる。’87年、俳優の渡辺徹(2022年永眠)と結婚。明るく好感度の高いキャラクターで、現在も多方面で活躍を続ける。

高田みづえ

1976年、フジテレビ『君こそスターだ!』第18代グランドチャンピオン。’77年、16歳でシングル「硝子坂」で歌手デビュー。4作目までオリコンTOP10に入るヒット曲を連発し、数々の新人賞に輝いた。’80年、サザンオールスターズの「私はピアノ」をカバーしたシングルが約50万枚のヒットとなり注目される。’85年、大相撲の人気力士・若嶋津六夫との婚約発表とともに芸能界引退を表明した。

石野真子

『スター誕生!』出身、1978年「狼なんか怖くない」で歌手デビュー。タレ気味の目元と八重歯の可愛らしい容姿で”百万ドルの微笑”がキャッチフレーズだった。「失恋記念日」「春ラ!ラ!ラ!」ほかスマッシュヒットを重ねるも、’81年、歌手の長渕剛と結婚し芸能界を一時的に引退。’83年離婚により芸能界に復帰した。

原田知世

1982年、14歳で”角川映画大型新人募集”に応募して芸能界入り。’83年、映画デビュー作となった『時をかける少女』で日本アカデミー賞をはじめ数々の新人賞を受賞。同タイトルのシングルはオリコン最高位2位のヒットとなった。歌手として大ヒットした「天国にいちばん近い島」、映画ではスキーブームの発端となった『私をスキーに連れてって』の代表作のほか、多数のCMなど多方面で大活躍した。

風吹ジュン
風吹ジュン

1973年、初代ユニチカマスコットガール。、’74年、21歳の時「愛がはじまる時」で歌手デビュー。魅力的なルックスで人気となるもデビュー前のホステス業経験などがスキャンダルとなり人気が凋落。その後はこの件をバネにするように映画『蘇える金狼』で女優開眼を果たし、高い評価を得るとともに数々の作品で活躍する息の長い女優となった。現在もドラマ、映画、CM出演で活躍。

浅野ゆう子
浅野ゆう子

1974年5月、13歳で歌手デビュー。中学生でありながら大人びた外見でドラマ『太陽にほえろ!』の捜査第一係の内勤職役に抜擢され、以降、様々なドラマに出演する。’88年、フジテレビのトレンディドラマ『抱きしめたい!』で浅野温子とともに主演。”W浅野”として話題を集め、憧れのファッションリーダーとして女性たちから絶大な人気を獲得。バブル時代にもっとも輝いた女優のひとり。

片平なぎさ

1974年『スター誕生!』で合格し翌年「純愛」で歌手デビュー。歌手活動とともに映画にも進出し、デビューから3年後には女優業に転向。’80年代から火曜サスペンス劇場、土曜ワイド劇場など2時間枠のドラマで親しまれるように。『赤い霊柩車シリーズ』などで主役を演じ、”2時間ドラマの女王”として安定の人気を獲得する。

相本久美子

1974年「小さな抵抗」で歌手デビュー。デビュー当時の芸名は近藤久美子だったが、’76年に本名の相本久美子に改名した。活動範囲は歌手のほか司会業やドラマ、バラエティ番組の出演など広範囲に亘り、マルチタレントの先駆け的存在とされる。’70年代は5年間、土居まさるとともに日本テレビ『TVジョッキー』の司会を務めたが、スタイルの良さに注目が集まり、雑誌の表紙やグラビアを飾る機会も多かった。

大場久美子

『劇団フジ』で子役として活動した後、’76年、映画『遺書 白い少女』でスクリーンデビュー。翌’77年「あこがれ」で歌手デビュー。”一億人の妹”として人気を集める中、同年の東宝映画『HOUSE/ハウス』で準主役となり女優としての活動も開始。’78年、TBSのドラマ『コメットさん』で初代・九重 佑三子に続く2代目コメットさん役を務め人気が爆発しトップアイドルの仲間入りを果たす。歌手としての代表作は’79年の「スプリング・サンバ」。

松本ちえこ
松本ちえこ

1974年、「ボーイフレンド」で歌手デビュー。ヒットには至らず歌手としての活動は目立たなかったが、’76年に資生堂バスボンのCMに起用されたことで人気がブレイク。CMソングの”バスボンの歌”が流行した(シングル化はされず)。その後発売した3枚目のシングル「恋人試験」がヒットし、お茶の間に広く親しまれる存在となった。

太田裕美

ザ・タイガースのジュリーのファンだったことから渡辺プロダクションのスクールメイツに入り活動。その後TVのオーディション番組で優勝し、1974年11月、ピアノ弾き語りスタイルの「雨だれ」で歌手デビュー。20万枚のヒットとなり、翌年の日本レコード大賞/日本歌謡大賞などで新人賞を受賞した。4枚目のシングル「木綿のハンカチーフ」、5枚目の「赤いハイヒール」がオリコン最高2位を記録し、学園祭にもひっぱりだこの人気歌手となった。

アン・ルイス

アメリカ海軍軍人の父を持ち、本牧の米海軍の住居地域で育つ。1971年「白い週末」で歌手デビュー。’74年発売の「グッド・バイ・マイ・ラブ」のヒット後、キャンディーズや山口百恵のステージ衣装を手掛けるなどファッションデザインにも関心を示し、オリジナルブランドも立ち上げた。’80年に歌手の桑名正博(2012年永眠)と結婚。’80年代は「六本木心中」「あゝ無情」などパンクなファッションでロック色のあるヒット曲を連発し、カッコイイ女の代表格として人気を博した。

桑江知子

1979年、軽快なシティポップス「私のハートはストップモーション」でデビュー。同曲はポーラ化粧品・春のキャンペーンのCMソングに採用されオリコン12位のヒットとなり、同年の日本レコード大賞最優秀新人賞をはじめ数々の新人賞を受賞した。以降、’80年の三菱自動車エテルナのCMソング「永遠(エテルナ)の朝」など都会的なサウンドの数々をリリースし、従来の歌謡曲のイメージから脱却し、ニューミュージック指向の歌手として活動した。

荒井由実

1972年、自身の作詞・作曲による「返事はいらない」で歌手デビュー。’75年、TBSドラマの主題歌で6枚目のシングル「あの日にかえりたい」でオリコン1位を獲得し、ここから過去の楽曲にも注目が集まり荒井由実ブームが到来、ニューミュージック界を牽引するアーティストとして快進撃が始まる。’76年に音楽プロデューサーの松任谷正隆と結婚し松任谷由実へ。”呉田軽穂”の名で多くの歌手にも楽曲を提供し、発表される曲の殆どが名作として時代を超えて愛され、天才的アーティストとして現役活動を続ける。

中島みゆき

1975年、ヤマハ音楽振興会が主催する第9回ポピュラーソング・コンテストに「傷ついた翼」で入賞、同年「アザミ嬢のララバイ」でデビュー。続く第10回ポプコンには「時代」で参加しグランプリを受賞、同年ヤマハ世界歌謡祭でもグランプリを受賞した。’70年代~2000年代に亘り自身が歌う楽曲のみならず数多くのアーティストに作品を提供し、すべての年代でオリコンシングルチャート1位を獲得する唯一無二のヒットメーカーでもある。「わかれうた」「悪女」「糸」ほかヒット曲多数、2025年現在もトップアーティストとして活躍を続ける。

イルカ
イルカ

1970年、フォークソンググループ・シューリークスの一員としてデビュー後、’74年に「あの頃のぼくは」でソロデビュー。翌年、かぐや姫の楽曲をカバーした3枚目のシングル「なごり雪」がオリコン最高4位の大ヒット。以降も伊勢正三作詞・作曲による「海岸通」などのヒット曲を持つ。芸名の”イルカ”は女子美術大学時代に所属していたフォークソング同好会で、皆が持つギターケースを「イルカの群れみたい」と言ったことから周囲にそう呼ばれるようになり、つけたもの。

りりィ

1972年、20歳の時「たまねぎ」でシンガーソングライターとしてテビュー。同年、映画『夏の妹』にも出演し、歌とともに女優活動も開始。’74年のシングル「私は泣いています」が100万枚を超える大ヒットとなり一躍有名に。以降、自作の楽曲をかまやつひろし、桑名正博、沢田研二、都はるみなど多くのアーティストにアルバム曲などで提供し、作家としても活躍する。女優としてドラマ出演も多かった。2016年、64歳で永眠。

石川セリ

アメリカ人の父と日本人の母を持つ。1971年、藤田敏八監督の映画『八月の濡れた砂』の主題歌をB面に収録したシングル「小さな日曜日」でデビュー。’77年、井上陽水作詞・作曲による「ダンスはうまく踊れない 」をリリースし、翌年、井上陽水と結婚。結婚後は歌手活動を休止した時期もあったが、その後、資生堂、マックスファクター、ニッカウヰスキーのCMソングや夜のニュース番組のエンディングテーマなどで健在さを見せた。

しばたはつみ


歌手の松本伊代は親戚(はとこ)にあたる。1968年に”はつみかんな”名でデビューし、小川ローザと”OH! モーレツ”のキャッチフレーズで知られるコスモ石油のCMソングなど歌うもその後アメリカ留学し、’74年しばたはつみとして再デビュー。ジャズやソウル、ロックまで幅広く歌える実力派歌手として活躍し、’77年「マイ・ラグジュアリー・ナイト」のヒットで紅白出場歌手となった。2010年に永眠するまで、ジャズボーカリストとして世界中で精力的にライブ活動を行った。

山崎ハコ

高校在学中の1974年に「ジョイナス・フォーク・コンペティション」で優勝し’75年にエレックレコードからデビュー。弱い体質を抱えながらもフォークギター弾き語りで女の情念や怨念を土俗的なイメージで歌い上げ、低音の独特の歌唱と鋭い詞世界で熱狂的支持を獲得した。「中島みゆきのライバル」とも称され、’79〜’80年には『オールナイトニッポン』のDJを務め「深夜放送のマドンナ」として親しまれた。

森田童子

1975年にシングル『さよなら ぼくの ともだち』でデビューし、’83年までに7枚のアルバムと4枚のシングルを発表した孤高のシンガーソングライター。独特のウィスパーボイスと孤独や喪失をテーマにした世界観で強いカルト的支持を集めたが、’83年のアルバム『狼少年 wolf boy』と一連の公演を最後に完全に活動を停止し、公の場から姿を消した。’76年11月発売の「ぼくたちの失敗」は’93年のドラマ『高校教師』の主題歌となり再評価され、100万枚に迫る大ヒットを記録。作品群のCD再発売とともに当時を知らない世代にも広く支持を広げた。

石黒ケイ

高校時代に結成した「ビーバブ」で活動し、1974年の相鉄ジョイナス・フォーク・コンペティション決勝進出を契機にデビュー。筒美京平プロデュースの「恋人時間」でデビュー後、ジャズミュージシャンとの共演作『アドリブ』『アンダートーン』や横浜をテーマにした『YOKOHAMA RAGTIME』など多彩な作品を発表し、アルバムは計14枚に及ぶ。’89年に一度引退するが、2004年に未発表ライブ音源を発表し、翌2005年に活動を本格再開。現在も横浜を拠点にライブ活動を行っている。

小坂明子

1973年、ヤマハのポピュラーソングコンテストと世界歌謡祭の2につの大会において、ピアノの弾き語りで歌う自身制作の楽曲「あなた」でグランプリをダブル受賞、同年12月にプロデビューした。澄み渡る高音で歌うデビュー曲「あなた」は200万枚を超える大ヒットに。その後大きなヒットは生まれていないが、’82年、自身のダイエット法を説いた著書『あきらめないで―小坂明子のやせる本』がベストセラーとなり、この頃から作曲家としての活動も開始。アニメやゲーム、アイドルなどに多くの楽曲を提供している。

渡辺真知子

1975年、高校在学中にヤマハ主催『第9回ポピュラーソングコンテスト』に「オルゴールの恋唄」で出場し特別賞を受賞。’77年、洗足学園短期大学音楽科卒業後、同年11月にシングル「迷い道」でデビュー。’78年にはセカンドシングル「かもめが翔んだ日」が大ヒットし、第20回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞、音楽祭13賞も獲得。同年に「ブルー」、’79年に「たとえば…たとえば」「別れて そして」などヒットが続く。’80年の「唇よ、熱く君を語れ」はカネボウCM曲としてヒットし、軽快で力強い曲調が”女性の時代”を象徴する楽曲と評され、デビュー直後からシンガーソングライターとして順調にキャリアを築いた。

矢野顕子

幼少期を青森で過ごす。3歳から音楽を学び、クラシックからジャズに傾倒。中学時代から父とジャズ喫茶に通い、1971年に青山学院高等部進学のため上京したが、ジャズへの情熱から中退。安部譲二の自宅に居候し、青山のジャズクラブ「ロブロイ」でピアノ演奏を始める。スタジオミュージシャンとして活動しながら山下洋輔や坂田明らと共演、筒美京平にも認められ音楽人脈を広げた。’72年にはキャラメル・ママのセッションに参加、翌年バンド「ザリバ」でシングルを発表。’76年、アルバム『JAPANESE GIRL』でソロデビューし、日本語と洋楽を融合させた独自の音楽性で注目を集めた。

杏里

1978年、17歳でフォーライフ・レコードから「オリビアを聴きながら」でデビュー。歌唱力は高く評価されたが、初期はセールスが伸び悩み、曲調を変えながら定期的に作品を発表した。’82年、バックバンドの小林武史作曲の「思いきりアメリカン」が花王のCMで使用されヒットし、「夏」「海」のイメージが定着。’83年、角松敏生にプロデュースを委ねた5枚目アルバム『Bi・Ki・Ni』で洗練された音楽性を確立。8月にはアニメ『キャッツ♥アイ』主題歌「CAT’S EYE」を発売し初のオリコン1位を獲得、続く「悲しみがとまらない」とともにベスト10入りを果たす。同年12月には両曲を収録したアルバム『Timely!!』がオリコン1位となり、初出場の第34回NHK紅白歌合戦で不動の地位を確立した。

尾崎亜美

京都市出身。8歳でクラシックピアノを始め、16歳頃から作詞作曲を手がける。高校時代、近畿放送のオーディション番組で注目され、1976年「冥想」で東芝EMIからデビュー。芸名「亜美」はフランス語で「友人」を意味する“ami”に由来する。松任谷正隆プロデュースのアルバム『SHADY』で“ポスト・ユーミン”と評され、翌年「マイ・ピュア・レディ」が資生堂CMに起用されヒット。以後、南沙織「春の予感」、杏里「オリビアを聴きながら」、髙橋真梨子「あなたの空を翔びたい」など提供曲も次々とヒットした。1980年にキャニオンへ移籍後、ロサンゼルス録音のアルバムを発表し、洗練されたポップサウンドで評価を高める。1985年『10番目のミュー』で日本レコード大賞優秀アルバム賞受賞。以降も作曲家・プロデューサーとして多方面で活動を続けている。

八神純子

1974年の『ヤマハポピュラーソングコンテスト』で「雨の日のひとりごと」「幸せの時」の2曲同時入賞を果たし、同年にシングル「雨の日のひとりごと」でプレ・デビュー。’78年1月、20歳の誕生日に「思い出は美しすぎて」で本格デビューし、アルバムもヒットした。次作は不発となったが、同年9月の「みずいろの雨」が有線やラジオで支持を得て人気が急上昇し、『ザ・ベストテン』出演を機に全国区でブレイク。明るいトークで司会陣に親しまれ、存在感を高めた。「みずいろの雨」はオリコン2位、60万枚を売り上げる大ヒットとなり、同年末にリスナーズグランプリ最優秀新人賞を受賞。透明感ある歌声と確かな実力でシンガーソングライターとしての地位を確立した。

竹内まりや

1978年、23歳でシングル「戻っておいで・私の時間」とアルバム『BEGINNING』でデビュー。当時はアイドル的役割も担ったが、’79年の「SEPTEMBER」が長期チャートインし新人賞を受賞、サンレモ音楽祭にも出場した。’80年には「不思議なピーチパイ」がヒットし、自ら作詞作曲も手がけるようになるが、アイドル的活動に悩み、’81年には過酷なスケジュールで喉を痛め一時休業。’82年に山下達郎と結婚しメディア露出を減らす一方で作詞・作曲家として活動を開始。’84年、全曲自作のアルバム『VARIETY』をリリースしヒット、娘も誕生した。その後は家庭を優先しつつ、薬師丸ひろ子「元気を出して」、中山美穂「色・ホワイトブレンド」など多数のヒット曲を提供し、シンガーソングライターとして確固たる地位を築いた。

庄野真代

高校入学と同時に音楽活動を始め、各種オーディションに挑戦。ヤマハボーカルオーディション合格を経て合歓音楽院で研修を受ける。20歳のとき「フォーク音楽祭」に出場し、関西四国決勝大会でグランプリを獲得、全国大会でスカウトされる。1976年、アルバム『あとりえ』で日本コロムビアからデビュー。都会派ニューミュージックの女性シンガーとして注目される。’78年、「飛んでイスタンブール」が大ヒットし、第20回日本レコード大賞中山晋平賞を受賞、『紅白歌合戦』にも初出場した。同年「モンテカルロで乾杯」「マスカレード」などもヒット。’80年「Hey Lady 優しくなれるかい」を発表後、休業宣言し世界一周旅行へ。28か国を巡り帰国後に音楽・執筆・講演活動を再開した。

阿川泰子

鎌倉生まれ、名古屋育ち。椙山女学園高校卒業後に上京し、文学座付属演技研究所に入るが1年で退学。東宝映画『華麗なる一族』『青春の門』などに端役で出演したのち、女優業を離れる。銀座のクラブでジャズと出会い、1973年に鈴木章治の紹介でジャズ・ボーカリストとして活動開始、翌年「鈴木章治とリズム・エース」の専属シンガーとなる。六本木や赤坂で人気を集め、’78年アルバム『Yasuko “Love-Bird”』でレコードデビュー。トミー・フラナガンら世界的ミュージシャンと共演し、澄んだ声質は“シュガー・ボイス”と呼ばれ、CM出演などでジャズ界に新風を吹き込んだ。

大橋純子

1974年、アルバム『フィーリングナウ』でデビュー。’78年、TBSドラマ『獅子のごとく』の主題歌「たそがれマイ・ラブ」がヒットし、同年の日本レコード大賞・金賞を受賞。華奢な体からは想像もできないダイナミックな抜群の歌唱でその後も「サファリナイト」などヒットさせ、CMとのタイアップ曲も多かった。’81年発売の「シルエット・ロマンス」(サンリオ出版 CFソング)は翌年になってロングヒットとなり、’82年の日本レコード大賞・最優秀歌唱賞を受賞した。

谷山浩子

1972年、アルバムとシングルでレコードデビュー。’74年、ヤマハのポピュラーソングコンテストに自身の作詞・作曲による「お早ようございますの帽子屋さん」で入賞し、翌年この曲で再デビューする。デビュー後は多くの有名アイドルなどへの楽曲提供とともに著述活動も行い、童話集やエッセイ集、小説も刊行。作風は自身の音楽性とも共通するファンタジックな世界観が特徴で、作家としての才能を遺憾なく発揮している。

髙橋真梨子

中洲のナイトクラブに出演していた1972年、「ペドロ&カプリシャス」のペドロ梅村にスカウトされ前野曜子の後任として二代目ボーカルに参加。当時は芸名「高橋まり」。’73年に「ジョニィへの伝言」「五番街のマリーへ」がロングヒットとなる。’78年にペドロ&カプリシャスを脱退し、ソロ歌手「髙橋真梨子」として活動を開始。同年11月にシングル「あなたの空を翔びたい」でデビューし’79年から全国ツアーを開始。2019年まで41年間連続で開催し、2000人以上収容の大規模ホールで年間25公演以上を継続する唯一の女性ソロ歌手として昭和、平成、令和の3時代にわたりトップアーティストとして活動を続けている。

五輪真弓

芸術の発信地として知られた渋谷の小劇場のオーディションで歌唱したのをきっかけに1972年10月、CBS・ソニーからアルバム『少女』と同名シングルで歌手デビュー。オリコン最高6位を記録し「和製キャロル・キング」と称され、日本女性シンガーソングライターの草分けと評された。’76年にはフランスでアルバム制作に臨み、全フランス語アルバム『えとらんぜ』を発表、サルヴァトール・アダモのオランピア劇場公演にもゲスト出演する。’78年「さよならだけは言わないで」のヒットを機にテレビ出演が増加。’80年、B面予定の「恋人よ」がA面として発売され大ヒット、第22回日本レコード大賞金賞を受賞。以来コンサート活動を精力的に続け、日本のポップ・フォーク界で確固たる地位を築いた。

松原みき

高校3年時の1977年に歌手を志し上京、米軍キャンプなどで演奏を重ね、六本木「バードランド」での飛び入り演奏をきっかけに世良譲から高く評価される。’79年11月「真夜中のドア〜Stay With Me」でデビューし、多くの新人賞を受賞。以後、’91年までにシングル17枚、アルバム15枚を発表し、都会的な感性を持つシティポップの旗手として活躍した。’90年代に入り、結婚を機に歌手活動を休止し、作曲家としてCMやアニメ音楽を手がけるも、2001年にがんを告知され闘病の末、2004年に44歳で死去。その後「真夜中のドア〜Stay With Me」が海外で再評価され、2020年にはSpotify世界1位を記録し、没後も国際的に愛され続けている。

久保田早紀

短大在学中の1978年、CBSソニーに自作曲のカセットを送り、ディレクター金子文枝に才能を見出される。八王子から都内へ通学する中央線の車中で曲想を練り、のちに大ヒットする「異邦人」を着想。イラン音楽やポルトガルのファドなど異国的な響きに影響を受け、自身の音楽スタイルを形づくった。1979年、三洋電機のCMソングとして「異邦人―シルクロードのテーマ―」でデビュー。オリエンタルな旋律と透明感ある歌声が話題を呼び、『ザ・ベストテン』で1位を獲得、累計140万枚を超える大ヒットとなる。翌年にはアルバム『夢がたり』を発表し、ニューミュージックの新星として注目を集めた。デビュー期には一貫してピアノの弾き語りを貫き、独自の幻想的な世界観で聴衆を魅了した。

門あさ美 越美晴 石黒ケイ

美空ひばり


敗戦直後の1945年、母の私財で「青空楽団」を設立し、8歳で初舞台を踏む。’48年、横浜国際劇場で「美空ひばり」として舞台デビュー。’49年、映画『のど自慢狂時代』で初出演し「悲しき口笛」で一躍国民的スターとなる。以後「東京キッド」「リンゴ追分」などヒットを連発し、映画女優としても活躍。東映専属となり『べらんめえ芸者』など主演作を量産し、戦後映画界を支えた。歌手としても’60年「哀愁波止場」で日本レコード大賞歌唱賞、’65年「柔」で大賞受賞。以後も「悲しい酒」「真赤な太陽」など、江利チエミ、雪村いづみとともに”三人娘”として人気を博し、中でも圧倒的な歌唱力と存在感で国民的歌手としての地位を不動のものにした。’89年1月11日、最後のシングル『川の流れのように』が発売され、同年54歳で永眠するに亘るまで、歌謡界・演歌界の絶対的なトップスターであり続けた。

都はるみ


1964年に「困るのことヨ」でデビューし、同年「アンコ椿は恋の花」がミリオンセラーとなり、第6回日本レコード大賞新人賞を受賞。力強いこぶし回しで人気を確立した。’73年にサンミュージックに移籍後、’76年「北の宿から」で日本レコード大賞などを受賞し、’80年「大阪しぐれ」で最優秀歌唱賞を受賞、日本レコード大賞で新人賞・大賞・最優秀歌唱賞の三冠を達成。’84年に一時引退し、’87年に音楽プロデューサーとして活動再開し、’89年の紅白出演を契機に’90年に歌手活動復帰。2005年に芸術選奨文部科学大臣賞、2006年に京都府文化賞功労賞、2010年に紫綬褒章を受章し、長年にわたり歌謡界で活躍を続けている。

水前寺清子


15歳で「コロムビア歌謡コンクール」に出場し2位となり、星野哲郎の勧めでデビューの機会を得る。その後クラウンレコードに移籍し「涙を抱いた渡り鳥」で念願のデビューを果たす。’65年から’86年まで『NHK紅白歌合戦』に22回連続出場し、紅組司会やトリも務めた。’68年「三百六十五歩のマーチ」などのヒットとともに’70年にはTBSドラマ『ありがとう』に主演し高視聴率を記録するが、歌手活動優先のため第3シリーズで降板した。’94年には「C.C.レモン」のCMソングで話題となる。長年にわたり、現在も歌手として幅広く活動している。

藤圭子

1966年、中学3年生で北海道岩見沢市の温泉施設「きらく園」の専属歌手として活動を始め、’67年に上京。’69年9月「新宿の女」で歌手デビューした。’70年には「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」がオリコン連続首位を獲得し、アルバムも前人未踏の42週連続首位を記録。同年、第1回日本歌謡大賞大賞や日本レコード大賞大衆賞を受賞し、紅白歌合戦にも初出場した。’71年に前川清と結婚するも’72年に離婚。’79年に突如引退しアメリカに渡るが、’81年に藤圭似子として復帰、’82年に再婚し長女・光(宇多田ヒカル)を出産。’84年に藤圭子に芸名を戻し、その後は世界各国を旅しながら活動したが、2013年8月22日に62歳で逝去した。

小柳ルミ子

宝塚音楽学校を首席で卒業後、1971年「わたしの城下町」でデビュー。160万枚を売り上げ同年のオリコン年間1位となり、日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞した。翌年の「瀬戸の花嫁」も大ヒットし、日本歌謡大賞を獲得。その後も「京のにわか雨」などヒットを重ね、天地真理、南沙織と並ぶ「新三人娘」として人気を博した。’70年代半ば以降「星の砂」「お久しぶりね」など多彩な楽曲で新境地を拓き、実力派歌手として評価を確立。’71年から’88年まで18年連続で紅白に出場した。女優としても『誘拐報道』『白蛇抄』で日本アカデミー賞を受賞するなど高い評価を得、志村けんとのコントなどでの活躍でも広く親しまれた。

石川さゆり

1972年、中学3年の夏休みに「ちびっ子歌謡大会」で合格しホリプロにスカウトされ芸能界入り、同年ドラマ『光る海』で女優デビューする。’73年に、桜田淳子と同じ白いエンジェルハットをトレードマークに「かくれんぼ」で歌手デビューするが、森昌子・山口百恵・桜田淳子ら同世代の人気に押され苦戦した。その後、二葉百合子に師事し基礎から学び直し、民謡や日舞にも取り組んで歌の表現力を磨いた。’77年「津軽海峡・冬景色」が大ヒットし数々の音楽賞を受賞、NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。続く「能登半島」「沈丁花」なども成功し、’80年代には「波止場しぐれ」「天城越え」「夫婦善哉」「風の盆恋歌」などの代表曲を発表、日本を代表する演歌歌手の地位を確立した。

森昌子

1971年『スター誕生!』に13歳で出場し、初代グランドチャンピオンとなる。父の反対を説得しホリプロに所属し、’72年「せんせい」でデビュー。当時のヘアスタイルはタワシ頭と呼ばれるショートカットで、いじられながらもお茶の間に愛される存在となる。その後デビューした桜田淳子、山口百恵とともに「花の中三トリオ」と呼ばれ、’73年には女性最年少15歳で紅白に出場。映画やバラエティでも活躍。’77年以降は「なみだの桟橋」から演歌路線へ転じ、歌唱力を高める。’83年「越冬つばめ」で日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。歌手活動に加え、ドラマ出演など女優としても活動の幅を広げた。

牧村三枝子

1972年にサンミュージック・タレントスクールへ入学し、翌年RCAレコードから「少女は大人になりました」でデビュー。’76年、テレビドラマ『大都会-闘いの日々-』にレギュラー出演し、挿入歌「赤提灯の女」をポリドールから発売。’78年、渡哲也の「みちづれ」をカバーしたシングルが大ヒットし、翌’79年から’80年にかけて38週連続でオリコン20位以内を記録するロングセラーとなった。以後、「夫婦きどり」「あなたの妻と呼ばれたい」「友禅流し」など情念を込めた作品で人気を確立し、哀愁と力強さを併せ持つ独自の歌唱で支持を得た。

西崎緑

7歳のとき作曲家の遠藤実に見いだされ、「ちいさなプリンセス」で歌手デビュー。翌年、田端義夫とのデュエット「ねんねん船唄」がヒットした。子役として映画やテレビでも活躍し、14歳で平尾昌晃に師事して歌唱力を磨く。1974年、ドラマ『暗闇仕留人』の主題歌「旅愁」がミリオンセラーとなり、挿入歌「さざなみ」などとともに代表作となった。俳優としても『コメットさん』(第1期)にレギュラー出演し、のちに『必殺シリーズ』では複数作品に登場。歌と演技を両立させた多才な芸能活動で知られる。

小林幸子


1964年にシングル「ウソツキ鴎」でデビューし、20万枚を売り上げるヒットとなる。’79年に「おもいで酒」が大ヒットし、紅白歌合戦にも初出場を果たした。以降、紅白には2011年までに33回出場し、’88年と2004年には大トリを務めるなど長年にわたり活躍。’80年代から’90年代にかけては「雪椿」や「越後情話」などのヒット曲に恵まれ、演歌界のトップ歌手としての地位を確立。また、豪華な衣装での紅白出演や派手な演出で注目を集め、視覚的にも話題となった。2000年代以降も演歌からポップス、アニメソングまで幅広いジャンルで活動を展開している。

八代亜紀

中学卒業後に熊本でバスガイドとして就職するが、人前で話すのが苦手で3か月で退職。その後キャバレー歌手を経て上京し、銀座のクラブで歌っていた際に五木ひろしの紹介で芸能プロと出会い、1971年「愛は死んでも」でデビュー。日本テレビ『全日本歌謡選手権』で10週連続勝ち抜きグランドチャンピオンとなり注目を集め、’73年「なみだ恋」が120万枚の大ヒット。トラック野郎のアイドルとしても人気を博す。以降も「おんな港町」「愛の終着駅」などを発表し人気を確立。’79年「舟唄」、’80年「雨の慕情」が特に評価され、後者で日本レコード大賞を受賞、紅白歌合戦では2年連続大トリを務め「演歌の女王」と称された。晩年はジャズ、ブルースなども歌うようになりファン層を広げた。2023年12月、指定難病を患い73歳で逝去した。

西川峰子

1973年、「第3回全日本歌謡コンテスト」で優勝し芸能界入り。翌’74年、「やまびこ演歌」のキャッチフレーズでビクターから「あなたにあげる」で歌手デビュー。同曲はオリコン1位を獲得する大ヒットとなり、第16回日本レコード大賞新人賞などを受賞した。その後もヒットを重ね、’75年から4年連続で『NHK紅白歌合戦』に出場。喉を痛めて声が出にくくなったことを契機に女優へ転身。’77年の映画『人間の証明』で女優デビューを果たし、’87年『吉原炎上』での体当たり演技が話題となる。以後は女優・タレントとしても幅広く活動。

天童よしみ

7歳でのど自慢番組に初出演し、毎日放送『素人名人会』で名人賞を受賞。以後、多くの大会で優勝を重ねる。フジテレビ『日清ちびっこのどじまん』出演をきっかけに日本コロムビアから「大ちゃん数え唄/いなかっぺ大将」を吉田よしみ名義で発売。1972年『全日本歌謡選手権』で10週連続勝ち抜き、7代目グランドチャンピオンとなり、「風が吹く」でキャニオンレコードから正式デビュー。その後10年の低迷を経て、’85年に「道頓堀人情」がヒット。’96年の「珍島物語」は130万枚を超えるロングヒットとなった。

川中美幸

17歳の時、「春日はるみ」として歌手デビュー。歌のうまさが評判となったもののアイドル全盛期だった当時大きく注目はされず、2年間の活動のみで地元の大阪に戻る。その後、大阪で開催された『ネオン街音楽祭』に出場しグランプリを獲得し再デビューを決意。芸名を「川中美幸」に改め、21歳でシングル「あなたに命がけ」を発表するもヒットに至らず。1980年、24歳で発表した夫婦愛をテーマとするシングル「ふたり酒」がようやく実を結び、ミリオンセラーの大ヒットとなる。下町人情を歌わせたら右に出る者なしと評される。

瀬川瑛子


股旅歌謡やマドロス歌謡で人気を博した歌手・瀬川伸の娘として育ち、5歳から父の指導で歌を学び、父のステージの前座を経て1967年「涙の影法師」でデビューした。当初は「瀬川映子」を名乗り、地道に活動を重ねる。’70年「長崎の夜はむらさき」が50万枚のヒットとなるが、その後は低迷期を迎える。’83年には作曲家・船村徹の計らいで「矢切の渡し」を競作で歌い30万枚を売り上げ、再び注目を集めた。’86年「命くれない」が大ヒットし、翌年のオリコン年間1位・累計170万枚の大記録を達成、「一途に添い遂げる女」を歌う代表曲となった。その後も演歌歌手として活動を続け、日本歌謡界に確かな足跡を残した。

金沢明子

16歳で日本民謡協会主催の全国大会に優勝し、『秋田船方節』で注目を集める。1975年、アルバム『若い民謡』でデビューし、「民謡界の百恵ちゃん」と呼ばれた。NHK『夜の指定席 民謡をあなたに』で原田直之と司会を務め、ジーパン姿で民謡を歌う斬新なスタイルが話題となる。津軽民謡を中心に300曲に及ぶレパートリーを築き、’82年には大瀧詠一プロデュースの「イエロー・サブマリン音頭」がヒットし、代表曲となった。

青江三奈


高校卒業後デパート勤務を経てクラブ歌手となり、「銀巴里」などで歌い始める。1966年、『恍惚のブルース』でメジャーデビューし、80万枚を売り上げ注目を集めた。ハスキーボイスを生かしたブルース調の歌唱が特徴で、’68年には『伊勢佐木町ブルース』(100万枚)、『長崎ブルース』(120万枚)が連続ヒット。「伊勢佐木町ブルース」で日本レコード大賞歌唱賞などを受賞した。翌’69年の『池袋の夜』は150万枚を売り上げ、最大のヒットとなった。同年は年間売上1位を記録し、“ため息路線”の代表的歌手として森進一と並び称された。

梶芽衣子

高校在学中にスカウトされ、1965年に日活へ入社し本名・太田雅子で映画『悲しき別れの歌』に出演。青春スターとして注目されるが、のちに芸名を「梶芽衣子」と改める。’70年『野良猫ロック』シリーズで人気を確立し、日活退社後は東映へ移籍。『銀蝶シリーズ』に続く『女囚さそり』シリーズで強烈な女性像を演じ、一躍カルト的存在となった。’70年に1st.シングル「仁義子守唄」をリリース、’72年の「恨み節」と’73年「修羅の花」は、梶の熱烈なファンであるタランティーノの映画『キル・ビル』でも使用された。

松原のぶえ

中学時代に福岡のタレント養成所に通い、3年生のとき北島音楽事務所にスカウトされる。高校進学後に上京し、1979年「おんなの出船」でデビュー。情感豊かな歌唱で注目され、第21回日本レコード大賞新人賞をはじめ数々の新人賞を受賞した。以降も地道に歌手活動を続け、’89年には女性演歌歌手に贈られる第1回レコード大賞・美空ひばり賞を受賞。2002年に北島音楽事務所を離れ、独立して「のぶえオフィス」を設立。現在もステージやメディアを中心に、艶のある声と人情味あふれる歌で多くのファンに親しまれている。

テレサ・テン

1953年1月台湾の雲林県で生まれた。10歳の時に台湾の素人のど自慢で優勝し、その後も各地のコンテストで優勝を重ねて注目を集め、14歳で歌手デビュー。レギュラー番組を持つなど台湾のエンターテインメント業界からアジア全域に活動の場を広げ”アジアの歌姫”と呼ばれる。日本では’74年、21歳の時に「今夜かしら明日かしら」でデビューし、2作目の「空港」で人気が高まり、翌年の「時の流れに身をまかせ」が大ヒット。これらの楽曲は彼女の代表作となり、日本の音楽シーンでも高く評価された。その後「つぐない」などもヒットし、彼女の音楽は広く親しまれた。’95年5月、急性喘息により香港で逝去するも、今も尚その存在は多くの人々に愛され続ける。

北原ミレイ

高校在学中から浜松の作曲家・佐伯一郎に師事し、卒業後に上京。ナイトクラブで歌いながらヘンリー倉田にジャズ、浜口庫之助にポピュラー音楽、大本恭敬にカンツォーネを学び表現力を磨いた。歌う姿を水原弘に注目され、作詞家・阿久悠の推薦で1970年「ざんげの値打ちもない」でデビュー。情念を込めた独特の歌唱で注目を集める。’75年の「石狩挽歌」が大ヒットし、代表曲となる。その後も活動を続け、2006年には35周年記念曲「女友達」を発売し、円熟した表現力で女性の心情を歌い続けている。