バラエティ > 1960年代

1960年代のバラエティ番組は、アメリカ型のショーを手本に、歌・踊り・コントを融合した総合娯楽として発展した。井原高忠が『光子の窓』で導入した演出手法を基盤に、『夢であいましょう』『シャボン玉ホリデー』などが人気を集め、テレビは国民的娯楽として定着していく。一方で視聴者参加型企画も広がり、過激な演出や悪ふざけが物議を醸す場面も生まれ、番組内容のあり方をめぐる議論が起こった。そうした試行錯誤の中から、『笑点』や『8時だョ!全員集合』のように、完成度の高いテレビ的笑いを確立する番組が登場した。

─ 主なバラエティ番組 ─

1946年1月 –

1946年にラジオで始まり、’53年からテレビ放送も開始された公開視聴者参加型の生放送音楽番組。素人出場者が歌を披露し、ゲスト歌手の指導やインタビューを交えながら評価される。’70年の改革で出場者数を25人に絞り、手持ちマイクやワイヤレスマイクを導入、歌唱だけでなく表現力も重視する構成に変更され、全国大会や特別賞も設けられ人気を回復。現在も各地域から生中継や録画で放送される長寿番組。

1958年5月 – 1987年9月

1958年から約24年間にわたりTBS系列で日曜昼に放送された長寿歌謡番組。開始当初はモノクロ・モノラルだったが、’69年にカラー化、’85年にはステレオ放送へ移行した。番組は時代に応じて副題やタイトルを変えつつ、終始ロッテの一社提供で継続された。長年司会を務めた玉置宏の「一週間のご無沙汰でした」で始まる語り口は名物となり、従来の美文調司会とは異なる個性的な進行で歌謡番組の新境地を切り開いた。

1958年5月 – 1960年12月

『花椿ショウ 光子の窓』は、1958年から’60年まで日本テレビで放送された草笛光子の冠による音楽バラエティ番組。資生堂一社提供のもと、歌とコントを融合した本格的ショーとして制作された。日本テレビと東宝テレビ部の共同製作で、当時24歳の草笛を中心に、小島正雄、三國一朗、徳川夢声、トニー谷らが出演し、洗練された演出が特徴であった。番組末期には実験的にカラー放送も行われ、芸術祭参加作「イグアノドンの卵」は奨励賞を受賞するなど高い評価を得た。日本の音楽バラエティの基礎を築いた先駆的番組だった。

1959年3月 – 1981年9月

旬の芸能人やスポーツ選手をゲストに迎え、社会的話題として人物像に迫る帯番組。映画スター出演制限の時代に、時事性を切り口として人気を博した。ゴールデン帯15分枠で放送され、「出演すれば一人前」と称される存在感を確立。俳優司会の起用や早期のカラー化も話題となり、最高視聴率45.9%を記録した。歴代司会者は栗原玲児、石坂浩二、関口宏、吉永小百合、坂本九など。

1959年6月 – 1970年3月

初代司会者に、当時人気ロカビリー歌手だったミッキー・カーチスを起用、渡辺プロダクションと作曲家のすぎやまこういちが企画を主導した音楽番組。デビュー後まもないザ・ピーナッツやジャッキー吉川とブルーコメッツがレギュラー出演し、後のGSブームのきっかけとなった番組でもある。後にフジテレビで制作される「ミュージックフェア」「夜のヒットスタジオ」の土台でもあり、視覚でも音楽を楽しませるスタイルの走りだった。

1961年4月 – 1966年4月

日本のテレビ放送初期に制作されたバラエティ番組で、1959年放送の『午後のおしゃべり』が前身。毎回テーマを設定し、ショートコントを軸に踊りやジャズ演奏、外国曲の歌唱を挟んで構成された。歌手のコント出演や芸人の歌唱企画は後続番組の原型となった。初代ホステス中嶋弘子の独特な挨拶も話題を呼び、後に黒柳徹子が司会を担当。’66年、後継番組『夢をあなたに』へ移行して終了した。

1961年6月 – 1972年10月 / 1976年10月 – 1977年3月

日本テレビと渡辺プロダクションが制作した音楽バラエティ番組で、ザ・ピーナッツを主役に開始された。牛乳石鹸一社提供のもと、コント・歌・トークを中心に、ハナ肇とクレージーキャッツやザ・タイガースとともに多彩なゲストが参加し、多くの流行ギャグを生んだ。全回カラーVTR収録で放送され、植木等の名フレーズなどで高視聴率を記録。1972年に第1期が終了し、’76年にはピンク・レディー出演による第2期が深夜枠で放送された。

1961年8月 – 1972年2月 / 1975年10月 – 1982年3月

1960年代から1980年代にかけ、2期にわたって放送された人気の視聴者参加型番組。松下電器産業の一社提供番組で、正式な番組名は「ナショナルプライスクイズ ズバリ!当てましょう(後に変更)」だった。4組のペア回答者が品物の値段を推理して当てるもので、値段当てクイズの元祖番組。家電ブーム真っ最中の時世で、一発で値段を当てる”ズバリ賞”の商品は、当時100万円相当のナショナル電化製品一式だった。

1962年5月 – 1968年3月

大阪・ABCホールでの公開放送形式を採った時代劇風コメディ番組。編集技術が未成熟だった初期には、昼間に収録した映像をほぼそのまま放送する撮って出し方式で制作され、出演者とスタッフの高度な技量が評価された。大規模な火薬を用いた迫力ある演出や、1967年には朝日放送初の自社制作カラーテレビ番組も実現。「あたり前田のクラッカー」など数々の流行語を生み、後続作や派生作品へと展開された。

1964年1月 – 2010年1月

1964年に始まったフジテレビの新春特別バラエティ番組で、『紅白歌合戦』『日本レコード大賞』と並ぶ年末年始の大型番組として親しまれた。芸能人がチームに分かれ、秘芸や余興を披露して得点を競う形式で高視聴率を長年維持。制作は渡辺プロダクションと共同で行われ、華やかな演出も名物となった。2010年元日の放送をもって47年の歴史に幕を下ろした。

1964年4月 – 1968年3月 / 1972年4月 – 1973年3月 / 1976年4月 – 1977年12月

初代NHKホールでの公開放送として始まったNHKの音楽番組で、パイロット版からカラー放送を行った。初期は倍賞千恵子、アントニオ古賀、金井克子が司会を務め、後に中尾ミエが加わった。第2期以降はタイトル表記を改め、101スタジオから生放送に移行。司会は山川静夫が中心となり、フォーリーブスやキャンディーズがレギュラー出演した。第3期では山川が単独司会となり、長期にわたりNHKを代表する歌番組として親しまれた。

1964年8月 –

日本の民放音楽番組として最長寿を誇るフジテレビ系のレギュラー番組で、1964年の開始以来、塩野義製薬一社提供の冠番組として放送されてきた。’67年にカラー化、’78年にステレオ化、2004年にはハイビジョン制作へ移行するなど、放送技術の進化も反映している。初代総合司会に越路吹雪、二代目に左幸子、三代目に長門裕之・南田洋子夫妻など落ち着いた進行役とゲスト同士の丁寧なトーク、質の高い歌唱演出が特徴で、海外の大物アーティストも多数出演した。初期は公開収録も行われたが、現在は観客を入れないスタジオ収録が基本となっている。

1964年11月 – 1977年9月

視聴者参加型の人気番組。視聴者の推薦で集められた有名人の“そっくりさん”5人が出演し、審査員の投票によってチャンピオンを決定した。本人がゲストとして登場することも特徴で、歌手の場合は持ち歌を披露し、それ以外の場合はイメージに合わせた歌や振り付けで競った。優勝者にはトロフィーと賞金5万円が贈られた。チャンピオンが揃うと大会が開かれ、グランドチャンピオンにはゴールデントロフィー、推薦者と行くヨーロッパ旅行、賞金10万円が授与された。司会は当初小野栄一が務め、’68年の『そっくりショー日本一!』への改題を機に青空はるお・青空あきおへ交代。番組は『新そっくりショー』などの形式変更を経ながら続き、’66年には最高視聴率43.9%を記録するなど高い人気を誇った。

1965年3月 – 1966年4月

1965年から’66年にかけて日本テレビで放送された寄席風演芸番組で『笑点』の前身にあたる。立川談志の発案により、大喜利を中心とした構成で、ブラックユーモアを交えた玄人好みの内容が特徴だった。読売ホールで収録され、隔週放送ながら深夜帯で支持を獲得。その実績を踏まえ、番組は発展的に解消され、日曜夕方枠の『笑点』へと継承された。

1965年11月 – 1990年3月

1965年から約24年半にわたり放送された日本初の深夜お色気ワイドショーで、基本は生放送。日本テレビとよみうりテレビが曜日別に制作し、大橋巨泉、愛川欽也、藤本義一らが司会を担当。ヌードや風俗といった刺激的題材から、前衛芸術、政治・社会問題まで幅広く扱い、深夜番組の可能性を拡張した。曜日ごとの特色ある企画も定着し、最高視聴率48%超を記録するなど、長寿かつ影響力の大きい番組として知られる。

1966年4月 – 1980年12月

TBSを幹事局とし、各地の系列局が持ち回りで制作・放送した視聴者参加型の歌合戦番組。審査員は市川昭介、笠置シヅ子、神津善行、山本直純など。日本各地の市民会館などで公開収録が行われ、家族単位の出場者が動物名を冠したチームとして歌声を競った。司会は獅子てんや・瀬戸わんやが担当した。当初はモノクロ放送だったが1970年4月からカラー化。約14年半にわたり放送され、昼間ながら平均15%を記録した時期もあったが、後年は視聴率が低下し、愛知県西尾市での収録を最後に終了した。

1966年5月 – 1968年4月 / 1968年5月 – 1996年3月ほか

1966年に『金曜夜席』を継ぐ形で始まった演芸バラエティ番組で、大喜利で座布団をやり取りする形式が特色。番組名は『氷点』をもじったものとされ、命名を巡る逸話も知られる。放送開始当初から一貫してカラー放送を行い、隔週で後楽園ホールにて公開収録されてきた。落語や講談などの演芸と大喜利を柱に、寄席文字を用いた独自の画面演出を守り続け、高視聴率を記録する長寿番組として日本のテレビ演芸史に刻まれる。

1966年8月 – 11月

ロート製薬の一社提供で放送された視聴者参加型バラエティ番組で、一般応募の参加者が常人には真似できない特技や超人技を披露した。司会はてんぷくトリオの三波伸介・戸塚睦夫・伊東四朗が務め、三波は驚異的な芸が登場するたびに決めぜりふ「びっくりしたなあ、もう」で番組を盛り上げた。1967年には内容を発展させ、『万国びっくりショー』へとリニューアルされた。

1966年10月 – 1971年4月 / 1973年10月 – 1974年4月

プラチナ萬年筆の一社提供による音楽バラエティ番組。集英社『明星』の協賛を受けて開始され、当初は『プラチナアワー 明星ゴールデンショー』の題名で放送された。藤村有弘が司会を務め、由美かおる、フォーリーブスらが出演し、歌謡界の若手を積極的に起用した構成が特徴だった。第2期ではジャニーズ・ジュニアの公募も行われ、後のスターを見い出す場ともなり、アイドル文化の形成に一定の役割を果たした。

1967年11月 – 1969年3月 / 1969年4月 – 1971年3月ほか

1966年放送の『びっくりショー』を発展させ、世界各国の出演者が驚異的な芸を披露した。’70年大阪万博に着想を得た企画で、万博会場での収録も行われた。司会は主に八木治郎が務め、高視聴率を記録したが、編成変更後に低迷。番組は形を変えつつ継続・復活を重ね、国際色豊かな見世物番組として人気を博した。

1968年4月 – 1971年9月

東京ヴィデオ・ホールから毎日生放送された昼のバラエティ番組で、前田武彦を司会にコント55号がレギュラーとして活躍した。多数の芸人や歌手を迎え、コントやゲームで流行語を生み、時に前衛的企画も放送。出演者の多忙化に伴い司会や構成を刷新しつつ継続したが、カラー化を機に1970年9月で終了し、『ハイヌーンショー』へ移行した。

1968年11月 – 1990年10月

約22年間にわたり放送されたフジテレビの音楽番組で、原則生放送を特徴とした。1970年代前半までは歌謡バラエティ色が強かったが、’76年以降はアイドルや演歌に加え、ニューミュージック、ロック系、海外アーティストまで幅広く出演させ、生演奏・フルコーラスを基本とした構成で音楽番組の質を高めた。名物は出演歌手同士がリレー方式で他の歌手を紹介する番組オープニング。沢田研二「サムライ」での50畳の畳敷きの演出など、印象的なスタジオセットも特徴だった。司会は芳村真理を中心に前田武彦、三波伸介、井上順、古舘伊知郎らが務めた。演奏は長年ダン池田とニューブリードが担当し、番組の象徴的存在となった。芸能事務所の力関係も出演構成に影響を与えた点は、当時の音楽界を映す側面でもあった。

1969年1月 – 1986年3月 / 1989年10月 – 1990年3月ほか

田宮二郎が司会を務める1969年にテレビ朝日系列で始まったクイズ番組で、司会者を交代しながら3シリーズのレギュラー放送を経て、以後も特番として断続的に制作されている。1分間に12問、5秒ごとに出題される高速クイズに挑む形式で、「現代人の頭脳と反射神経を試す」ことを趣旨とした。巨大な時計台と高所の解答席、成績不振時に作動するペナルティ演出が象徴的で、全問1問1答・即断即答を求める厳格なルールも特徴。平均視聴率14%、最高29%を記録し、スピード感あふれる名物番組として強い印象を残した。

1969年4月 – 1970年3月

NHK大河ドラマ『天と地と』を強く意識し、日曜20時台制覇を掲げて制作されたバラエティ番組。コント55号を進行役に据え、番組内番組的構成と刺激的な企画で話題を集め、特に脱衣野球拳は社会現象となった。視聴率は裏番組を上回る成功を収めたが、内容への批判も多く、約1年で終了。後に野球拳企画は独立番組として放送された。

1969年7月 – 1982年9月

若者向けを前面に打ち出した公開バラエティ番組。ラジオ番組『歌え!MBSヤングタウン』のテレビ版として制作され、桂三枝や笑福亭仁鶴、やすし・きよしらが司会を担当。短いコーナーを連続させる構成と、芸人個人のキャラクターを生かす演出で人気を博し、吉本興業の若手芸人を全国区へ押し上げた。上方演芸界の勢力図を塗り替えた象徴的番組として知られる。

1969年10月 – 1981年3月

「NHK紅白歌合戦を毎週楽しめる番組」を発想源に、紅白対抗形式とベストテン風構成を融合させた歌謡番組。出演者は紅白各5組の計10組で、客観的ランキングではなく局側のキャスティングによって選ばれた。原則として渋谷公会堂から公開生放送で行われ、修学旅行生の紹介が定番演出となった。白組キャプテンは堺正章が一貫して務め、紅組は水前寺清子、今陽子、岡崎友紀らが担当。白組では野口五郎・郷ひろみ・西城秀樹の「新御三家」が、紅組では森昌子・桜田淳子・山口百恵の「花の中三トリオ」が人気を牽引し、演歌勢では五木ひろしや八代亜紀、和田アキ子らが常連として出演した。

1969年10月 – 1970年3月 / 1970年10月 – 1971年3月

大橋巨泉と前田武彦の掛け合いによる生放送パートと、事前収録の大量ショートコントで構成されたバラエティ番組。米国番組『ラフ・イン』をモデルに、矢継ぎ早にコントを連ねる斬新な演出を採用し「アッと驚く為五郎」などの流行語を生んだ。膨大な台本と徹底した制作体制でも知られ、1960年代末のテレビ表現に大きな影響を与えた。

1969年10月 – 1971年3月 / 1971年10月 – 1985年9月

1969年から’85年までTBS系列で放送されたザ・ドリフターズの冠お笑いバラエティ番組。前半はドリフによる本格コント、後半は体操や合唱団を交えた企画で構成され、間に歌手ゲストの歌唱が挟まれた。全国各地の劇場から公開生放送を行い、大掛かりな舞台装置と体当たりの笑いで国民的人気を獲得。平均視聴率27%、最高50.5%を記録し、土曜夜の象徴的番組となった。