バラエティ > 1980年代

1980年代のバラエティは漫才ブームを契機に大きく転換した。若手漫才師の速いテンポの笑いが若者を惹きつけ、フジテレビを中心にアドリブ重視の番組が隆盛する。タモリ、ビートたけし、明石家さんまは社会的影響力を持つ存在となり、第三世代の登場で勢いは加速した。フジのプロデューサー横澤彪による土曜夜の『オレたちひょうきん族』が大人気となり、演出家テリー伊藤による『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』は過激かつ素人性を前面に出した企画を連発して大きな支持を集め、バラエティ黄金期が訪れた。

─ 主なバラエティ番組 ─

1946年1月 –

1946年にラジオで始まり、1953年からテレビ放送も開始された公開視聴者参加型の生放送音楽番組。素人出場者が歌を披露し、ゲスト歌手の指導やインタビューを交えながら評価される。1970年の改革で出場者数を25人に絞り、手持ちマイクやワイヤレスマイクを導入、歌唱だけでなく表現力も重視する構成に変更され、全国大会や特別賞も設けられ人気を回復。現在も各地域から生中継や録画で放送される長寿番組。

1958年5月 – 1987年9月

1958年から約24年間にわたりTBS系列で日曜昼に放送された長寿歌謡番組。開始当初はモノクロ・モノラルだったが、’69年にカラー化、’85年にはステレオ放送へ移行した。番組は時代に応じて副題やタイトルを変えつつ、終始ロッテの一社提供で継続された。長年司会を務めた玉置宏の「一週間のご無沙汰でした」で始まる語り口は名物となり、従来の美文調司会とは異なる個性的な進行で歌謡番組の新境地を切り開いた。

1959年3月 – 1981年9月

旬の芸能人やスポーツ選手をゲストに迎え、社会的話題として人物像に迫る月-土曜に放送された帯番組。映画スター出演制限の時代に、時事性を切り口として人気を博した。ゴールデン帯15分枠(19:45 – 20:00)で放送され、「出演すれば一人前」と称される存在感を確立。俳優司会の起用や早期のカラー化も話題となり、最高視聴率45.9%を記録した。歴代司会者は栗原玲児、石坂浩二、関口宏、吉永小百合、坂本九など。

1964年1月 – 2010年1月

1964年に始まったフジテレビの新春特別バラエティ番組で、『紅白歌合戦』『日本レコード大賞』と並ぶ年末年始の大型番組として親しまれた。芸能人がチームに分かれ、秘芸や余興を披露して得点を競う形式で高視聴率を長年維持。制作は渡辺プロダクションと共同で行われ、華やかな演出も名物となった。2010年元日の放送をもって47年の歴史に幕を下ろした。

1964年8月 –

日本の民放音楽番組として最長寿を誇るフジテレビ系のレギュラー番組で、1964年の開始以来、塩野義製薬一社提供の冠番組として放送されてきた。’67年にカラー化、’78年にステレオ化、2004年にはハイビジョン制作へ移行するなど、放送技術の進化も反映している。初代総合司会に越路吹雪、二代目に左幸子、三代目に長門裕之・南田洋子夫妻など落ち着いた進行役とゲスト同士の丁寧なトーク、質の高い歌唱演出が特徴で、海外の大物アーティストも多数出演した。初期は公開収録も行われたが、現在は観客を入れないスタジオ収録が基本となっている。

1965年11月 – 1990年3月

1965年から約24年半にわたり放送された日本初の深夜お色気ワイドショーで、基本は生放送。日本テレビとよみうりテレビが曜日別に制作し、大橋巨泉、愛川欽也、藤本義一らが司会を担当。ヌードや風俗といった刺激的題材から、前衛芸術、政治・社会問題まで幅広く扱い、深夜番組の可能性を拡張した。曜日ごとの特色ある企画も定着し、最高視聴率48%超を記録するなど、長寿かつ影響力の大きい番組として知られる。

1966年4月 – 1980年12月

TBSを幹事局とし、各地の系列局が持ち回りで制作・放送した視聴者参加型の歌合戦番組。審査員は市川昭介、笠置シヅ子、神津善行、山本直純など。日本各地の市民会館などで公開収録が行われ、家族単位の出場者が動物名を冠したチームとして歌声を競った。司会は獅子てんや・瀬戸わんやが担当した。当初はモノクロ放送だったが1970年4月からカラー化。約14年半にわたり放送され、昼間ながら平均15%を記録した時期もあったが、後年は視聴率が低下し、愛知県西尾市での収録を最後に終了した。

1966年5月 – 1968年4月 / 1968年5月 – 1996年3月ほか

1966年に『金曜夜席』を継ぐ形で始まった演芸バラエティ番組で、大喜利で座布団をやり取りする形式が特色。番組名は『氷点』をもじったものとされ、命名を巡る逸話も知られる。放送開始当初から一貫してカラー放送を行い、隔週で後楽園ホールにて公開収録されてきた。落語や講談などの演芸と大喜利を柱に、寄席文字を用いた独自の画面演出を守り続け、高視聴率を記録する長寿番組として日本のテレビ演芸史に刻まれる。

1968年11月 – 1990年10月

約22年間にわたり放送されたフジテレビの音楽番組で、原則生放送を特徴とした。1970年代前半までは歌謡バラエティ色が強かったが、’76年以降はアイドルや演歌に加え、ニューミュージック、ロック系、海外アーティストまで幅広く出演させ、生演奏・フルコーラスを基本とした構成で音楽番組の質を高めた。名物は出演歌手同士がリレー方式で他の歌手を紹介する番組オープニング。沢田研二「サムライ」での50畳の畳敷きの演出など、印象的なスタジオセットも特徴だった。司会は芳村真理を中心に前田武彦、三波伸介、井上順、古舘伊知郎らが務めた。演奏は長年ダン池田とニューブリードが担当し、番組の象徴的存在となった。芸能事務所の力関係も出演構成に影響を与えた点は、当時の音楽界を映す側面でもあった。

1969年1月 – 1986年3月 / 1989年10月 – 1990年3月ほか

田宮二郎が司会を務める1969年にテレビ朝日系列で始まったクイズ番組で、司会者を交代しながら3シリーズのレギュラー放送を経て、以後も特番として断続的に制作されている。1分間に12問、5秒ごとに出題される高速クイズに挑む形式で、「現代人の頭脳と反射神経を試す」ことを趣旨とした。巨大な時計台と高所の解答席、成績不振時に作動するペナルティ演出が象徴的で、全問1問1答・即断即答を求める厳格なルールも特徴。平均視聴率14%、最高29%を記録し、スピード感あふれる名物番組として強い印象を残した。

1969年7月 – 1982年9月

若者向けを前面に打ち出した公開バラエティ番組。ラジオ番組『歌え!MBSヤングタウン』のテレビ版として制作され、桂三枝や笑福亭仁鶴、やすし・きよしらが司会を担当。’70年代頃はまだ若手だった明石家さんまも観客席インタビューなどを受け持った。短いコーナーを連続させる構成と、芸人個人のキャラクターを生かす演出で人気を博し、吉本興業の若手芸人を全国区へ押し上げた。上方演芸界の勢力図を塗り替えた象徴的番組として知られる。

1969年10月 – 1971年3月 / 1971年10月 – 1985年9月

1969年から’85年までTBS系列で放送されたザ・ドリフターズの冠お笑いバラエティ番組。前半はドリフによる本格コント、後半は体操や合唱団を交えた企画で構成され、間に歌手ゲストの歌唱が挟まれた。全国各地の劇場から公開生放送を行い、大掛かりな舞台装置と体当たりの笑いで国民的人気を獲得。平均視聴率27%、最高50.5%を記録し、土曜夜の象徴的番組となった。

1969年10月 – 1981年3月

「NHK紅白歌合戦を毎週楽しめる番組」を発想源に、紅白対抗形式とベストテン風構成を融合させた歌謡番組。出演者は紅白各5組の計10組で、客観的ランキングではなく局側のキャスティングによって選ばれた。原則として渋谷公会堂から公開生放送で行われ、修学旅行生の紹介が定番演出となった。白組キャプテンは堺正章が一貫して務め、紅組は水前寺清子、今陽子、岡崎友紀らが担当。白組では野口五郎・郷ひろみ・西城秀樹の「新御三家」が、紅組では森昌子・桜田淳子・山口百恵の「花の中三トリオ」が人気を牽引し、演歌勢では五木ひろしや八代亜紀、和田アキ子らが常連として出演した。

1970年8月 –

水泳を題材に各局で放送されたアイドル中心のバラエティ番組。芸能人運動会の派生企画として始まり、当初は水泳競技の真剣勝負も行われていたが、全盛期には浮島戦や水上格闘など大型プールで女性アイドルが不安定な足場のゲームに挑む内容が主流となり、お色気要素が強まった。普段は見られない水着姿が話題を呼んだ一方、時代の風潮や自主規制の高まり、セクシーアイドル台頭の影響で次第に衰退した。

1971年1月 – 1982年12月

日本テレビ系列で日曜昼に生放送された視聴者参加型バラエティ番組。初代司会者は土居まさる。正式名称は『TVジョッキー日曜大行進』で、視聴者が電話やスタジオ参加で番組に加わる形式が特徴。白いギターやEDWINのジーンズなど豪華賞品も若者の憧れとなった。1970年にはコント55号による特別編成も行われ、’78年にはステレオ放送にも対応。’82年に終了し、後継番組としてビートたけしを司会とする『スーパージョッキー』が開始した。

1971年1月 – 現在

1971年に放送を開始した朝日放送テレビ制作の視聴者参加型トーク番組。全国ネットで毎週日曜昼に放送され、新婚夫婦を招いて出会いや結婚生活のエピソードを軽妙な掛け合いで紹介する。長寿番組として知られ、桂文枝が半世紀以上にわたり司会を務めたことでギネス世界記録にも認定された。放送開始から50年以上続く昼の名物番組である。

1971年10月 – 1983年9月

1971年に開始され、12年間にわたり放送された日本テレビの視聴者参加型歌手オーディション番組。企画者は作詞家の阿久悠で、カラーテレビ時代の特性を生かし「テレビの手でスターを生み出す」ことを目的に開始した。毎週、予選を経た5~7人の挑戦者が歌合戦形式で競い、日曜午前枠で長期育成を前提とした構成が特徴だった。初代司会は萩本欽一が務め、作詞家や作曲家の審査員による辛口審査の中でも参加者を励ます立場を貫いた。森昌子の合格以降、応募者は10代中心となり、新たな時代の歌謡界を牽引する山口百恵、桜田淳子、岩崎宏美、ピンク・レディーなどを続々と輩出。中森明菜は不合格を経験しながらも’81年の三度目の挑戦で392点という史上最高得点を記録し、強烈な印象を残した。

1972年4月 – 1982年4月

1970年代を代表するNHKの大型お笑い番組で、三波伸介を中心に構成された。土曜放送時代は「笑福亭仁鶴のお見合い」「演芸コーナー」「てんぷく笑劇場」の三本立てで、庶民的な笑いと人情味を融合。’73年に日曜へ移行後は「てんぷく笑劇場」「歌謡曲コーナー」「減点パパ(後に減点ファミリー)」を柱とし、家族向け娯楽番組として人気を確立した。’82年に10年間の歴史に幕を下ろした。

1973年4月 – 12月 / 1974年1月 – 1975年11月 / 1975年12月 – 1985年3月

横山やすし・西川きよしが司会を務めた公開収録形式のバラエティ番組。関西ローカルの深夜番組として始まり、放送枠拡大やネットチェンジを経て1975年末に全国ネット・ゴールデン帯へ進出した。ABCホールを拠点に展開され、人気コーナー「「フィーリングカップル5vs5」」やキダ・タロー作曲のテーマ音楽も親しまれた。最高視聴率36%を記録するなど高い人気を誇り、’85年に12年の歴史に幕を下ろした。

1973年10月 – 1984年3月

関西テレビで放送された視聴者参加型の恋愛バラエティ番組。深夜番組『ナイト・パンチ』の一企画から独立し、若者風俗を巧みに取り入れて人気を獲得、のちにフジテレビ系全国ネットへ昇格した。司会は桂三枝と西川きよしが務め、軽快な漫才調の進行と名物キャッチフレーズが番組の象徴となった。関西制作恋愛番組を代表する長寿番組として知られる

1973年11月 – 2000年10月 / 2012年 – 現在

1973年にフジテレビの特番として始まった不定期放送のものまね番組。第1回は高視聴率を記録し、森昌子が初代王者となった。’80年代後半以降は所ジョージらの司会のもと、淡谷のり子を審査員に迎え、笑いとパロディ性を重視した路線へ転換。コロッケや清水アキラら“ものまね四天王”を中心に人気を博し、’90年代のものまねブームを牽引した。

1975年4月 – 1975年9月 / 1976年4月 – 1986年3月 / 1986年4月 – 1986年9月

日本テレビ系で放送されたコント主体のバラエティ番組で、演出の白井荘也が松竹新喜劇に着想を得て企画した。坂上二郎、野口五郎、研ナオコを中心に始まり、視聴率の安定からレギュラー化。後に堺正章や郷ひろみ、西城秀樹ら新御三家が加わり、アイドルと喜劇を融合した構成で人気を博した。高田みづえがコメディエンヌとして注目を集めた点も特色だった。

1975年10月 – 1986年3月

一般視聴者も参加するトーク重視のクイズバラエティで、司会の久米宏と、コント55号の萩本欽一・坂上二郎が中心となって展開された。緊張感よりも会話の妙や間を楽しませる作風で、久米の軽妙な司会は全国的な人気を獲得した。出題時に正解を伏せるため使われた「ほにゃらら」という言葉は流行語となり、番組の象徴となった。日本のクイズ番組で初めてVTR問題を導入した点も特筆される。企画は萩本宅での新年会から生まれ、古今東西ゲームのスピード感をテレビに持ち込んだもので、生放送ならではのハプニングも名物だった。

1975年4月 – 1975年9月 / 1975年10月 – 1984年5月ほか

全国ニュースに載らないB級事件をリポーターがフリップや再現フィルムで解説する低予算ワイドショー的バラエティ。常時30%超の視聴率を記録した日テレの看板番組だった。朝枠の「テレビ三面記事」を週末プライム向けに発展させ、男性層を意識した内容に転換。司会は 加藤芳郎、リポーターに 泉ピン子大山のぶ代桂朝丸高見恭子青空はるおら。クインシー・ジョーンズ作曲・鬼警部アイアンサイドのテーマに乗せ、小早川正昭の「新聞によりますと…」で始まる語りが名物だった。

1975年10月 – 1978年3月 / 1978年10月 – 1979年4月ほか

よみうりテレビ制作で放送された視聴者参加型のスポーツバラエティ番組。一般参加者が風変わりな競技に挑み、日本一や新記録を目指す構成で人気を博した。中期以降は屋外ロケ中心となり、実況と演出を強めた展開が特徴。名物企画「鳥人間コンテスト」を生み、記録に挑む人間の可能性とロマンを描いた長寿番組。

1975年10月 – 1992年9月

「おいしい料理とおいしいお酒があれば、この世は天国」という芳村真理の挨拶で始まる、1975年に関東ローカルでスタートした新感覚の料理バラエティ番組。芳村を総合司会に、西川きよしやすし・きよし、久米宏らが出演。辻静雄監修の料理を紹介しつつ、ニュースや流行をテーマにした企画を展開し、1976年に全国ネットに昇格、人気番組に成長する。’88年以降はテーマ曲やコーナーの刷新、司会交代を経て、’90年にはトーク主体に大幅リニューアルされ、’92年まで17年間放送された。

1976年1月 – 1992年12月

ロート製薬の一社提供で放送された全862回の長寿番組。司会の大橋巨泉がカナダで見たクイズ番組セレブリティ・ステークスをヒントに企画し、漫画家・はらたいらなどの解答者を競走馬に見立てて出場者が持ち点を賭ける競馬方式を採用した。巨泉と個性豊かな解答者との軽妙なやりとり、ギャンブル的なスリルが視聴者を引きつけた。本家が短命に終わったのに対し、本番組では問題は事前に知らされず、巨泉も収録直前に初見で臨む形式を徹底したことが緊張感を高めた。1979年6月30日放送回には視聴率40.8%(関東地区)を記録し、クイズ番組初の40%台を達成。1979年から1981年にかけて年間平均約30%を誇り、民放クイズ番組史上屈指の黄金期を築いた。

1976年2月 – 1996年3月 / 1996年4月 – 1997年9月 / 1997年10月 – 2014年3月ほか

1976年2月2日よりテレビ朝日系列で平日昼に放送されている黒柳徹子の冠トーク番組。原則として毎回1組のゲストを迎え、人物の人生や素顔に迫る対話を特徴とする。初回ゲストは森繁久彌で、以後も加山雄三やタモリなど常連出演者を生んだ。俳優や芸能人に加え、市民運動やボランティア関係者が登場する点も特色で、収録が長時間に及び2回放送となる例も少なくない。日本のテレビ史を代表する長寿番組の一つである。最多出演ゲストは53回で加山雄三、歴代の高視聴率を記録したゲストは三浦友和で1981年4月10日(金)の14.5%(※2025年時点)。

1976年4月 – 1994年3月

司会が出すお題に対し、出演者がフリップに即興でマンガを描いて競う大喜利形式のバラエティ番組。数回戦制を基本に構成され、当初は中京圏ローカル番組として開始されたが、後に全国放送へ拡大。土曜夕方の定番として高視聴率を記録し、正月特番「初笑いマンガ道場」も親しまれた。近年は配信や傑作選放送で再評価されている。

1976年4月 – 1998年9月

仕掛けた出来事で芸能人を驚かせ、その反応を楽しむフジの人気バラエティ番組。ジャニーズ事務所、ホリプロ、田辺エージェンシー、バーニングプロダクションなどに所属する当時のスターが多数出演し、後続の類似番組を生む先駆けとなった。1976年4月、三波伸介を司会に迎え、『木曜ビッグイベント スターどっきり㊙報告』として木曜20時枠でスタート。制作は『夜のヒットスタジオ』と同じ疋田拓プロデューサー率いる制作班が担当した。’79年には『スターどっきり生放送』と改題し生放送化するがレギュラー終了。その後は特番や再レギュラー化を挟みつつ、’98年まで断続的に放送された。レポーターには宮尾すすむ、小野ヤスシ、ダン池田、みのもんた、片岡鶴太郎、轟二郎らが名を連ねた。

1976年10月 – 1988年4月

フジテレビで放送された音楽系クイズバラエティで、後に特番として継続された。楽曲のイントロを当てるクイズの元祖として知られ、音楽や芸能に関する問題、歌手ゲストによる歌唱も交えた構成が特色。司会は高島忠夫が務め、「イェーイ!!」の掛け声も名物となった。日曜昼ながら安定した高視聴率を記録し、フジテレビを代表する長寿番組の一つとなった。

1976年10月 – 1986年9月

萩本欽一の冠番組として水曜21時枠で放送された公開コメディー番組。舞台に観客を入れ、萩本家を舞台とするホームドラマ形式で進行し、萩本と真屋順子が夫婦役を演じた。引っ越しや子どもの成長など設定を変化させながら長期的な物語性を持たせ、見栄晴や「わらべ」誕生の場ともなった。茶の間のテレビから番組が始まる独特の演出も特徴である。

1977年2月 – 1998年4月

フジテレビ系列で月1回放送されたお笑いバラエティ番組。ザ・ドリフターズの冠番組として、『8時だョ!全員集合』と並ぶ代表作である。各回ごとに設定されたテーマに基づくコントと、ゲスト歌手の歌を交互に構成し、いかりや長介が進行役を務めた。「雷様」「ばか兄弟」などの人気シリーズで高視聴率を記録し、長期にわたり国民的番組として親しまれた

1978年1月 – 1989年9月

『トップスターショー・歌ある限り』の後番組として始まった音楽ランキング番組で、毎週生放送で独自集計による邦楽ベストテンを発表した。司会は黒柳徹子と久米宏の名コンビが務め、新幹線の車中やホームで移動中の出演者が歌唱するなどの臨場感とリアリティも魅力となり、最高視聴率41.9%を記録する社会現象となった。ランキングはレコード売上、有線放送、ラジオリクエスト、はがき投票を合算したポイント制で決定され、空港の案内表示機を参考とする反転フラップ式のランキングボードを用いた発表演出が番組の象徴となった。歌手は原則として順位に応じて生出演し、海外・地方からの中継も多用された。番組終盤には出演者全員で集合写真を撮影し、視聴者にプレゼントするなど、参加型の仕掛けで高い支持を集めた。

1978年8月 –

1978年に日本テレビ開局記念の特別番組として始まったチャリティ番組で、視聴者からの寄付を国内外の福祉・環境保護・災害復興に役立てることを目的とする。毎年8月下旬の土曜夜から日曜夜にかけて生放送され、チャリティーマラソンやドラマ、ドキュメンタリー、応援ソングなど多彩な企画を展開。番組シンボルは太陽と地球をモチーフにした黄色を基調としたデザインで、番組オリジナルTシャツにも黄色が用いられた。徳光和夫が長年総合司会を務めた。

1978年10月 – 1991年3月

関西テレビ制作で1978年から’91年まで放送されたバラエティ番組。男性6人、女性5人の素人出演者の中から本物の新婚夫婦を推理する内容で、トークとゲーム性を融合した構成が特色。司会は上岡龍太郎が務め、横山ノックや桂文珍らが解答者として推理を展開した。関西色の強い軽妙な掛け合いと日曜昼の定番番組として長く親しまれた。

1979年10月 – 1985年9月

フジテレビ系列で放送されたクイズ番組で、米CBSの『マッチ・ゲーム』を基に企画された。司会は山城新伍が務め、毎回オーディションで選ばれた一般視聴者3人と、6人の芸能人解答者が共演した。収録は台本に頼らないぶっつけ本番で進行され、ゲーム性よりも司会者と出演者、視聴者との軽妙な言葉の応酬を重視したトーク色の強い構成が特徴である。山城自身は短命を予想していたが、結果的に6年間続く長寿番組となった。

1979年12月 – 2001年9月ほか

萩本欽一司会のもと1979年にスタートした視聴者参加型バラエティ番組。NHK紅白歌合戦への対抗企画として大晦日に始まり、素人参加者が工夫を凝らした仮装作品を披露する形式が人気を獲得。当初は仮装行列的内容が中心だったが、回を重ねるごとに完成度の高い表現へ進化し、恒例番組として定着した。香取慎吾の参加で番組名と司会体制を変えつつ、長年親しまれている。

1980年10月 – 1982年10月

平日昼12時台にフジテレビで生放送されていた帯バラエティ番組で、『森田一義アワー 笑っていいとも!』の前身にあたる。横澤彪のプロデュースにより、スタジオアルタから公開生放送を行い、B&Bを司会に、ツービート、明石家さんま、紳助・竜介ら漫才ブームの中心芸人が出演した。過激な企画も多く物議を醸したが、フジテレビの昼番組改革を象徴する存在となり、そのスタイルや出演者は後の『笑っていいとも!』や『ひょうきん族』へと継承された。

1980年10月 – 1982年3月 / 1982年4月 – 1983年3月

田原俊彦・近藤真彦・野村義男による”たのきんトリオ”を中心に、コント、歌、クイズ、ドラマなど多彩な企画を展開したバラエティ番組。スリル系ゲームなど体当たり企画も多く、毎回同世代の女性アイドルがゲスト出演し、松田聖子は常連としてコメディエンヌぶりを発揮した。2年目からはマスコットロボット「サンダユウ」も登場。当初は木曜ゴールデンの30分番組だったが、後に日曜昼の1時間公開番組へ移行し、約1年で終了した。

1980年10月 – 1994年3月

テレビ朝日が『23時ショー』の系譜を継いで放送した深夜番組で、情報性をより強化したナイトショーとして始まった。司会は作家の利根川裕が一貫して担当し、週4日・約55分編成で放送された。映画監督・山本晋也による風俗街リポートの「ほとんどビョーキ」は流行語となる一方、ロス疑惑、薬物問題、重大事件や事故など硬派な社会取材にも積極的で、ワイドショー的ニュース性を併せ持っていた。初期には田原総一朗らによる政治討論も行われ、後の討論番組の土壌を築いた。13年半にわたり放送され、1994年に『トゥナイト2』へと刷新された。

1981年4月 – 1986年3月

『NTV紅白歌のベストテン』を刷新した日本テレビの歌謡ランキング番組で、独自集計による邦楽ベスト10を毎週カウントダウン形式で発表し、歌手が生演奏で披露した。公開生放送を基本とし渋谷公会堂を中心に各地のホールやスタジオから放送され、『ザ・ベストテン』の要素も取り入れた構成で人気を博した。司会は堺正章と榊原郁恵。修学旅行生の紹介や地方・中継出演など臨場感ある演出も特徴で、同時代の音楽番組を代表する存在となった。

1981年4月 – 1982年4月 / 1982年9月4日 – 1989年10月

タモリ司会によるトーク・コントバラエティ番組で、ステレオ放送や文字多重放送を導入し、パイオニアの一社提供で放送された。毎回、メインゲスト1人と関係の深い女性パートナーを迎え、トーク、コント、ミュージカル、生歌や演奏を織り交ぜて展開した。前半はトークと短編コント、後半は長尺コントで構成され、終盤にはタモリが楽器演奏で参加する音楽コーナーが名物となった。番組構成は高平哲郎が担当し、WAHAHA本舗の面々も出演。平均視聴率12%を記録するなど人気を博した。

1981年5月 – 1989年10月

フジテレビが「楽しくなければテレビじゃない」を掲げ、制作側の自由度が高まった時代に誕生したバラエティ番組。漫才ブームに沸く若手芸人の勢いと制作意欲が結びつき低迷していた土曜20時台を立て直し、1980年代バラエティの代表格となった。「タケちゃんマン」「ブラックデビル」などの扮装も人気となり、平均視聴率17.8%、最高29.1%を記録した。在阪と東京の芸能プロダクション所属タレントが共演する編成は画期的で、吉本興業の東京進出にも影響を与えた。漫才を早期に廃し、ラフトラックや独自のコーナー配置、歌コーナーを設けない構成など実験性も特徴とした。オープニングには『ウィリアム・テル』序曲、エンディングにはEPOの『DOWN TOWN』が用いられた。

1982年10月 – 2014年3月

1982年10月に『笑ってる場合ですよ!』の後継として始まった平日昼の生放送バラエティで、スタジオアルタに一般客を入れる公開番組。タモリ独特の脱力した進行で番組の空気を作り上げた。看板企画「テレフォンショッキング」では、ゲストが友人を電話で紹介する連鎖形式が話題を呼び、思わぬ大物出演や生放送ならではのハプニングも名物となった。放送開始当初は短命が予想されたが半年足らずで視聴率は上昇し、以後25年連続で同時間帯民放首位を維持。いいとも青年隊や曜日レギュラーの交代も番組の新陳代謝を支え、2014年3月、31年半の歴史に幕を下ろした。

1982年10月 – 1985年9月

各コーナーを週刊誌の連載漫画に見立てて構成された萩本欽一司会のバラエティ番組。看板企画「ミュージカル・コメディー ザ・ちなみショー」では、萩本、風見慎吾、佐藤B作が定型の掛け合いで笑いを生み、「男と女のポエム」では清水由貴子と小西博之の歌唱が名物となった。やがて「欽ちゃんバンド」が人気を集め、コミック要素と本格演奏を併せ持つ異色コーナーに成長。ハプニングも含めて放送する姿勢が番組の魅力となり、後年は舞台劇形式を経て再びバンド中心の構成へと変化していった。

1982年10月 – 2023年4月

報道番組『日曜夕刊!こちらデスク』のパロディとして制作された『夕刊タモリ!こちらデス』を源流に持つ元祖脱力系を標榜した深夜バラエティ番組。1982年10月に金曜深夜枠で放送を開始し、タモリのシュールな芸風を前面に押し出した構成が特徴となった。『笑っていいとも!』と同時期に始まり、事務所代表・田邊昭知の後押しもあって、双方がタモリの代表作として長寿化する。簡素な公式情報体制や深夜ながら高視聴率を記録した点も象徴的で、40周年を迎えた2023年、全1939回の放送をもって終了した。

1983年1月 – 1999年3月

12年間続いた『TVジョッキー』の後継として放送開始され、ビートたけしを総合司会に、17年間にわたり継続した長寿番組。そのまんま東や松尾伴内などの”たけし軍団”もレギュラー出演し人気を集めた。当初は一般参加型だったが、『THEガンバルマン』を軸とするお笑い色を強め、やがて「熱湯コマーシャル」に象徴されるお色気路線へ転換した。生放送主体から隔週生放送・収録併用へ移行し、歌コーナーも事前収録が定着する。音楽番組低迷期には貴重なアイドル歌唱の場ともなり、1987年には20.5%の最高視聴率を記録。’99年に終了し、ジョッキーシリーズ28年の歴史に幕を下ろした。

1983年4月 – 1991年3月

秋本奈緒美と鳥越マリを初代司会に据え、深夜枠で放送されたフジテレビのバラエティ番組。とんねるずや片岡鶴太郎ら若手芸人、女子大生集団“オールナイターズ”を起用し、女子大生ブームの火付け役となった。初期は性風俗企画も含んだが、1984年以降は表現を軟化。深夜番組自粛要請を受け一度終了後、『オールナイトフジII』として再出発し、企画ユニットのレコードデビューなども話題を呼んだ。’91年に全400回で終了し、深夜文化を象徴する番組として記憶されている。

1984年10月 – 1990年12月

フジテレビ系列で平日13時から生放送されたトークバラエティで、20年間続いた昼ドラ枠をバラエティへ転換した番組。司会は当時20代の小堺一機で、毎回、人生経験豊かな女優・歌手の“おばさま”を招き、視聴者の悩み相談や本音トークを展開した。名物コーナー「いただきます劇場」では再現ドラマと“おばさまのご意見”が人気を集め、「エロガッパ」の流行語も誕生。新宿アルタからの公開生放送で、『笑っていいとも!』の観客がそのまま観覧する昼の名物番組となった。’91年からは『ライオンのごきげんよう』にリニューアルされ、収録も生ではなくフジテレビ内のスタジオでの公開収録となった。

1985年4月 – 2016年9月

明石家さんまの自宅マンションに見立てたセットに毎回ゲスト1組を招き、自由闊達なトークを繰り広げるバラエティ番組。床の間にはゲストに因んだ掛け軸が飾られ、私的空間に招かれたかのような距離感が特徴。当初は無観客だったが、2000年代以降は少人数の観客を入れて収録されている。制作は関西テレビで、放送時間は局ごとに異なる番組販売形式を基本とし、正月や改編期には全国ネットのスペシャル版も編成された。ゴールデン進出を敢えて避けた方針も番組の気安さを支え、1987年には平均視聴率31.8%を記録した。

1985年4月 – 1987年8月

『オールナイトフジ』の流れを汲む『オールナイトフジ女子高生スペシャル』から派生して企画された、生放送を基本とする夕方のバラエティ番組。番組名は当初『夕暮れニャンニャン』が検討されたが、当時の社会情勢を踏まえて現在のタイトルに改められた。開始直後から注目を集め、1985年夏から’86年初頭にかけては夕方帯としては異例の高視聴率を記録した。看板企画「アイドルを探せ」からはおニャン子クラブが誕生し、派生ユニットやソロ活動も含め一大アイドルブームを形成。新田恵利、国生さゆり、渡辺満里奈、工藤静香ら後のスターを多数輩出し、’80年代半ばのテレビ文化と若者文化を象徴する番組となった。

1985年4月 – 1996年10月

一般人に光を当てることで従来のバラエティ観を覆した、ドキュメントバラエティの元祖とされる番組。取るに足らない日常の出来事や人物を誇張して描く企画を多く生み、強いリアリティと同時に一過性の熱狂も生んだ。VTR主体や素人参加型の形式は後年の多くの番組に継承されている。番組名には日曜夜の憂鬱を吹き飛ばす意図が込められ、「元気が出る商事」という設定や大物俳優・歌手のレギュラー起用は企画初期のドラマ構想の名残であった。全盛期にはタレントショップ「元気が出るハウス」を展開し、後期には「ダンス甲子園」など努力の過程を描く企画や、他番組へのゲリラ出演でも話題を集めた。

1985年10月 – 1991年9月

所ジョージ司会のクイズ番組で、漢方薬メーカー・ツムラの一社提供により制作された。前身は『夜はタマたマ男だけ!!』内の同名コーナーで、好評を受けて独立番組としてスタートした。所が出題したお題に対し、3人の子供が言葉や絵、作文、ジェスチャーなどでヒントを提示し、それを手がかりに大人の解答者が答える形式が特徴。正解者には所の自画像を模した「所ジョージ人形」が贈られ、持ち帰りも可能だった。中期以降は学校ロケによる早押し問題や逆転要素の強いゲーム性の高いコーナーも導入され、子供の発想力と大人の推理力の対比を楽しむ番組として親しまれた。番組終了後、同枠は『平成教育委員会』へ引き継がれた。

1985年10月 – 2026年3月

1985年10月6日に放送を開始したTBS系の生放送バラエティで、毎週日曜昼に放送されている長寿番組。開始当初の司会は和田アキ子と松尾貴史。番組は生中継やゲストトークを軸に、予告なしの特別ゲスト登場などハプニング性も重視した構成が特徴で、ワイドショー的要素を持ちながらもバラエティとして制作された。’86年以降はセットや音楽を刷新し、和田の紅白歌合戦出場決定を祝う恒例演出も定着。’87年には放送枠を拡大し、’88年の「ダイエット体操」企画など話題性の高い企画も生み出した。

1986年4月 –

志村けんが演じる白塗りの殿様を中心とした時代劇風コントで、『8時だョ!全員集合』内の一企画として1977年に誕生した。ザ・ドリフターズ内での立場を反転させ、自由奔放なバカ殿が家老役のいかりや長介を翻弄する下剋上的構図が特徴で、当時の社会風俗や流行も巧みに取り込んだ。『ドリフ大爆笑』でも設定が発展し、腰元役の女性ゲストや下ネタを含む定型ギャグが定着。’86年には単独番組として独立し、’92年からはレギュラー番組化され、志村の代表作の一つとして広く親しまれた。

1986年5月 – 1989年4月

TBS系列で放送されたアトラクション型バラエティ番組。ビートたけしが城主を務める難攻不落の「たけし城」を舞台に、谷隼人率いる約100人の一般参加者が数々の体力・知力ゲームに挑戦した。攻撃軍は次々と脱落し、最終的に城主を討ち取った者のみが賞金100万円を獲得できるが、成功例は極めて少なかった。番組は“体で遊ぶファミコン”という発想から生まれ、総工費1億円の巨大セットや派手な演出も話題となった。バブル期を象徴するスケールの大きさと独自性で高い人気を博した。

1986年10月 – 1992年3月

三菱電機一社提供のもと「三菱タイムトリップ」を冠する、日曜夜に放送された回顧型バラエティ番組。懐かしのテレビ番組やCM映像を紹介し、ゲストの思い出や当時の裏話を交えたトークを展開した。司会は三宅裕司と山瀬まみが務め、初期には泉麻人がコメンテーターとして番組の調査役を担った。後半には視聴者投稿を検証するコーナーも設けられ、貴重な映像資料の発掘が人気を博した。出演者交代やリニューアルを経ながら安定した支持を集めたが、編成改革により1992年に終了した。

1987年4月 – 1998年4月

笑福亭鶴瓶と上岡龍太郎が台本や打ち合わせを一切行わず、60分間ひたすら即興トークを繰り広げる異色のトークバラエティ。時事問題から私生活の逸話まで自在に行き交う言葉の応酬が支持を集め、関西ローカル深夜番組ながら全国ネットへと拡大した。公開収録形式も特徴で、観客との一体感が番組の熱量を高めた。1988年にはギャラクシー賞を受賞し、上岡の知名度を飛躍的に高める代表作となった。’98年に一度終了後、『LIVE PAPEPO 鶴+龍』として復活し、2000年の上岡引退まで続いた。

1987年10月 – 1994年12月

IVSテレビ制作と関西テレビの共同制作による深夜バラエティで、1987年から’94年まで放送された。司会はとんねるず、構成・総合演出をテリー伊藤が担当。前番組『上海紅鯨団が行く』の流れを汲みつつ、集団見合い企画が定着すると爆発的な人気を獲得し、「ねるとん」は集団見合パーティーの代名詞となった。土曜深夜にもかかわらず高視聴率を記録し、最高24.7%を達成。深夜番組として異例の影響力を持ち、’80年代後半のテレビ文化を象徴する存在となった。

1987年11月 – 1993年9月

毎週月曜20時台に放送された志村けんの冠お笑いバラエティで、志村がドリフターズから離れて本格的に展開したコントを中心とする番組。前身番組『志村けんの失礼しまぁーす!』の路線を改め、ロケを廃しスタジオコントに特化。タイトルは『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』内の「だいじょうぶだぁ教」に由来する。構成は前半にコントを集中させ、後半にクイズやゲームを配置する二部構成で、「一番見せたいものを先に出す」という志村の哲学が反映されていた。出演者には田代まさしや桑野信義、石野陽子、松居直美など分野横断的な顔触れが揃い、番組終了後も特番として2020年まで継続された。

1988年3月 –

スタジオを探偵事務所に見立て、視聴者から寄せられた依頼を探偵局員が調査する形式の番組。人捜しや物捜しといった本格調査から、街頭インタビューや実験企画まで内容は多岐にわたり、短い依頼は「小ネタ」としてまとめて放送される。依頼者は原則実名・顔出し出演で、強烈な個性が話題を呼ぶことも多い。初代局長は上岡龍太郎で、歯に衣着せぬコメントを軸に、VTRを見る視聴者が探偵と局長の両視点を行き来する二重構造を持つ点が画期的とされた。長寿番組として5,000件以上の依頼を扱い、民放連賞最優秀賞も受賞している。

1988年11月 – 1990年9月 / 1990年10月 – 1995年3月ほか

明石家さんまが“先生”となり、子供たちと繰り広げるスタジオトークを軸にしたバラエティ番組。1988年11月月曜19時枠で放送開始され、子供の本音や珍発言を巧みに引き出すさんまの話術が人気を博した。番組では企画コーナーも交え、ナレーション役のキャラクター「ワシャガエル」を富田耕生が長年担当した。放送枠移動を重ねつつ’96年に第1期を終了後、『やっぱりさんま大先生』を経て再び改題し第2期へ突入。新キャラクターの登場などで形を変えながら2003年まで続き、後継番組ではさんまが全国の小学校を訪れる形式へと発展した。

1988年4月 – 1989年2月

TBSの土曜深夜枠で生放送された音楽色の強いバラエティ番組。前身番組『パッパラパラダイス』の出演者・スタッフを引き継ぎ、日比谷シャンテ内のサテライトスタジオから放送された。初期のキャッチフレーズは「ふり向けば新しい深夜ライブ」で、1960年代ポップスやオールディーズを中心に据えた構成が特徴だった。番組内でデビューした9人組ヴォーカルグループ・エンジェルスや、ゲストによる生ライヴも見どころとなった。原宿歩行者天国のバンド特集では、後にカブキロックスとなるメンバーも登場している。オープニングは「モスラの歌」のカバーを用い、三宅裕司、小倉久寛、嘉門達夫、YOUらが出演。当初はTBS単独放送だったが、後に中部日本放送でも放送された。

1986年1月 – 1992年3月

1986年1月にTBSで開始されたバラエティ番組で『8時だョ!全員集合』終了後、加藤茶と志村けんの二人を前面に据える形で企画された。制作陣もドリフ番組の系譜を引くスタッフが中心となっている。前半はロケ中心のコメディドラマ『THE DETECTIVE STORY』で、緻密なセットを用いた計算されたギャグと掛け合いが展開され、後半は公開スタジオによるホームビデオ紹介やプレゼント企画で構成された。特に一般家庭の映像を扱うホームビデオ紹介は画期的で、番組フォーマットは海外にも輸出された。志村けんの人気上昇とともに高視聴率を記録し、『オレたちひょうきん族』を押しのけて土曜20時枠の主導権を奪還、「土8戦争」と称される話題を生んだ。最高視聴率は’87年11月の加藤茶結婚披露宴特集回で36.0%を記録した。

1987年10月 – 1991年3月

村上龍の冠トーク番組で、JTの一社提供により放送された。村上がホストとなり、ジャズバー風のスタジオに著名人を招いて対談する形式をとり、テーマ曲にはバド・パウエルの「クレオパトラの夢」が用いられた。作家である村上が司会を務めるという異色性から、沈黙が続く場面や噛み合わない対話も編集されずにそのまま放送され、従来のトーク番組とは異なる空気感が話題となった。とんねるずを別々に出演させた回や笑福亭鶴瓶出演時の険悪な空気など、伝説的エピソードも多い。歴代アシスタントは岡部まり、ジュリー・ドレフュスなど。1990年に放送枠を移動し、’91年3月に約3年半の放送を終えた。

1988年10月 – 1996年9月

毎週水曜20時台に放送されたクイズバラエティ番組で、1988年に発足した「日本テレビクイズプロジェクト」の第1弾として企画された。世界各地や日本の多様な商売・職業を現地取材VTRで紹介し、それを題材にスタジオでクイズとトークを展開する構成が特徴で「世界は商売によるショーである」という理念が番組名に込められている。番組は“店”に見立てられ、初代司会の逸見政孝が「店長」を務め、独特の掛け声と身振りで進行した。逸見没後は福澤朗が2代目店長(若旦那)に就任し、渡辺正行が大番頭として番組を支え続けた。得点は「ショーバイマネー」と呼ばれ、商売になぞらえた演出と軽妙な司会進行により、高い人気を博した。

1988年10月 – 1997年3月

とんねるずが司会を務め、多彩なゲストを迎えたコント中心のバラエティ番組。火曜ワイドスペシャル内の単発企画として始まり、「仮面ノリダー」の人気を追い風に1988年10月からレギュラー化された。ドラマや映画、音楽の大胆なパロディや強烈なキャラクター造形が話題を呼び、チェッカーズや宮沢りえなど時代を象徴する豪華ゲストも毎週出演した。放送枠は高視聴率番組『ザ・ベストテン』の裏という異例の編成だったが、開始直後から成功を収め、平成に入った’89年から’94年まで6年連続で年間平均視聴率1位を記録した。タイトルは当初別案も検討されたが、「みなさんへの感謝」を込めた現在の名称に落ち着いた。

1988年10月 – 1991年11月

ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、清水ミチコ、野沢直子が出演した深夜のコントバラエティで、のちの「お笑い第三世代」を象徴する番組として知られる。各回のテーマに沿ったショートコントや連続ドラマ形式のコントを軸に「ガララニョロロ」「伊集院みどり」など数々の名物キャラクターを生んだほか、「バッハスタジオII」ではレギュラー陣がバンドに挑戦し、当時の人気バンドが講師として登場した。1988年に関東ローカルで開始後、’89年から全国ネットに昇格し高視聴率を記録。番組名は『夢であいましょう』に由来し、伝説的番組として現在も語り継がれている。

1988年10月 – 1990年3月 / 1990年10月 – 1991年9月

マンションの一室で暮らす恩田家三姉妹の日常を描いたシチュエーション・コメディで、長女をもたいまさこ、次女を室井滋、三女を小林聡美が演じた。深夜枠で始まった第1シーズンは高視聴率を獲得し、1990年からはゴールデンタイムに昇格。基本的に舞台は一室のみ、出演者も三姉妹と飼い猫に限定され、舞台劇のような一発撮りに近い手法で制作されたため、アドリブやハプニングもそのまま放送された。脚本は当初バラエティ作家陣が担当し、後に三谷幸喜がメインとなる。独特の空気感と会話劇が評価され、深夜ドラマの名作として高い支持を得た。