男性歌手・アイドル > 1960年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

三橋美智也

北海道函館市出身。幼少より民謡歌手の母に鍛えられ、9歳で全道民謡コンクール優勝。その後は家計を助けるため巡業に参加し、津軽三味線を習いながら白川軍八郎一座で修行し、その後も園芸団などに参加して力をつける。19歳で上京し修行を積んだ後、1953年、キングレコードと契約し、翌年「酒の苦さよ」でデビュー。’55年「おんな船頭唄」が大ヒットし、「リンゴ村から」「哀愁列車」「古城」「達者でナ」などを次々とヒットさせた。民謡で培った伸びやかな高音と独特のこぶしで昭和30年代の歌謡界を牽引。「三橋で明けて三橋で暮れる」と称される人気を誇り、レコード売上は1億枚に達したとされる。

三波春夫

「お客様は神様です」のフレーズでも知られる、戦後日本に演歌で希望を与えた国民的大スター。第二次世界大戦に徴兵されて満州へ渡り、帰国後の1955年、浪曲師・民謡歌手としてデビュー。’57年「三波春夫」に芸名を改め歌謡界に進出。集団就職で上京した若者の心情を描いた2枚目の「チャンチキおけさ」が220万枚を売り上げる大ヒットとなり、’64年の東京五輪のテーマソング「東京五輪音頭」130万枚、’70年の大阪万博テーマソング「世界の国からこんにちは」300万枚などビッグヒットを連発した。功績は高く評価され、紫綬褒章、勲四等旭日小綬章、新潟県民栄誉賞など、栄誉ある数々の賞に輝いた。

村田英雄

福岡県出身。浪曲師の両親のもとに生まれ、幼少期から舞台に立つ。5歳で酒井雲に弟子入りし、13歳で真打に昇進、14歳で一座を率いた。戦後は浪曲師として活動するが、上京後に改名し、村田英雄として芸道を歩む。1958年、古賀政男に見出され、「無法松の一生」で歌手デビュー。浪曲の語りを生かした独自の歌唱で注目される。’61年、「王将」が大ヒットし、日本レコード大賞特別賞を受賞。三波春夫と並ぶ国民的スターとして人気を博す。以後「人生劇場」なども再評価され、演歌歌手として不動の地位を築いた。

北島三郎

1962年、「ブンガチャ節」で歌手デビューし、同年末に「なみだ船」で日本レコード大賞新人賞を受賞、演歌界に名乗りを上げる。’65年に「兄弟仁義」「帰ろかな」「函館の女」が相次いでヒットし、人気演歌歌手の地位を確立。映画『兄弟仁義』にも出演し、任侠演歌としてのキャリアを築いた。その後も「与作」「まつり」など数々の名曲を生み出し、紅白歌合戦には通算50回出場、13回トリ(大トリ)を務めるなど紅白史上最多出演記録を達成した。’72年に北島音楽事務所を設立し、以降は「原譲二」のペンネームで作詞・作曲・演出にも取り組むなど演歌の大御所として活動の幅を広げ、現在も第一線で活躍を続けている。

井沢八郎

中学卒業後に上京し、バンドマンとして活動しながら作曲家・大沢浄二に師事。1963年、東芝音楽工業から「男船」でレコードデビューし、30万枚を売り上げた。翌’64年の「 あゝ上野駅」は高度経済成長期の集団就職者の心情を描き大ヒットし、代表曲となった。この曲は上野駅の発車メロディにも採用されている。その後も「男傘」「北海の満月」などをヒットさせ、伸びやかなハイトーンの美声で長年演歌界で活躍した。晩年までショー・テレビ出演に取り組み、2007年に死去した。娘は歌手で女優の工藤夕貴。

一節太郎

“流しのギター弾き”として全国を巡り、作曲家・遠藤実の内弟子第1号として師事した。1963年、「浪曲子守唄」でレコードデビューを果たし、独特の歌唱法で薄幸な男の人生をしみじみと歌った同曲は発売後2年間で100万枚を突破、’99年までに200万枚を売り上げた。セルフスタイルの浪曲演歌として高い人気を博し、「出世子守唄」など“子守唄シリーズ”で世界観を確立。現在も第一線で活動を続け、男の情感を歌い続けている。

五木ひろし

1964年「コロムビア全国歌謡コンクール」で優勝しデビューを果たし、芸名を松山まさる、一条英一、三谷謙と改名するも苦戦した。’70年、『全日本歌謡選手権』で10週間勝ち抜きグランドチャンピオンとなり、’71年に「五木ひろし」として「よこはま・たそがれ」で再デビュー、大ヒットを記録した。以降、「夜空」「契り」「長良川艶歌」などヒットを重ね、紅白歌合戦には50回連続出場(歴代1位)し、日本レコード大賞の大賞や最優秀歌唱賞、金賞を歴代最多で受賞、コンサート動員数は延べ2,000万人以上にのぼる。福井県からは県民賞を受賞し、芸術選奨文部科学大臣賞、紫綬褒章、旭日小綬章も受章している。

千昌夫

17歳の時に作曲家・遠藤実に弟子入り。1965年に「君が好き」で歌手デビューした。翌’66年発売の「星影のワルツ」は、地道なリクエスト活動により’67年にミリオンセラーの大ヒットとなり、NHK紅白歌合戦に初出場を果たした。’77年にリリースされた「北国の春」は再び大ヒットを記録し、ミリオンセラーとなって日本レコード大賞ロングセラー賞を受賞、アジア各国でも広く親しまれた。 その後も「味噌汁の詩」「望郷酒場」「津軽平野」など数々の名曲を発表し、演歌界のレジェンドとして長年にわたり愛され続けている。

杉良太郎

1965年、日本コロムビアから「野郎笠」で歌手デビューした。翌’66年には俳優としてもデビューし、NHK時代劇『文五捕物絵図』で主演を務めて脚光を浴びた。その後『遠山の金さん』『右門捕物帖』『新五捕物帳』など時代劇を中心に1400本以上の作品で主演を続けた。歌手としては「すきま風」などのヒット曲を持ち、多才な活動を展開した。ま芸能活動とともに福祉活動にも長年取り組み、刑務所慰問や国際的な文化交流を通じて社会貢献を続け、法務省・厚労省・警察庁の特別監に委嘱されるなど公的にも評価されている。その功績により緑綬褒章、紫綬褒章、文化功労者など数々の表彰を受けている。

森進一

1965年、フジテレビ系『リズム歌合戦』で優勝し渡辺プロ入り。’66年6月に「女のためいき」でデビューし、この曲は35万枚を売り上げるヒットとなる。’68年には「盛り場ブルース」で第1回全日本有線放送大賞と日本有線大賞を受賞し、紅白歌合戦にも初出場を果たす。’69年の「港町ブルース」、’71年の「おふくろさん」、’74年の「襟裳岬」などが次々と大ヒットし、演歌界を代表する存在となる。紅白歌合戦には48回連続出場し、2021年には、歌手生活の功績が認められ旭日小綬章を受章した。

冠二郎

作詞家・三浦康照に師事し、1967年にビクターレコードより「命ひとつ」でデビューしたが、当初はヒットに恵まれなかった。’77年、テレビドラマ『海峡物語』主題歌の「旅の終りに」がミリオンセラーとなり、ようやく注目を集め、 その後’92年に「炎」で鮮烈なブレイクを果たし、“ネオ演歌”“アクション演歌”の旗手として若年層にも支持された。 さらに「酒場」「みれん酒」などのヒットで紅白歌合戦に3回出場、独自のキャラクターとステージ演出で幅広いファン層から愛された。

矢吹健

高校卒業後に上京し、作曲家・藤本卓也のもとで歌唱スタイルを磨いた。1968年に「あなたのブルース」でレコードデビュー。ハスキーでため息混じりの“ミスティーヴォイス”は強い個性を放ち、同曲で第10回日本レコード大賞新人賞(男性部門)、第1回日本有線大賞新人賞、第1回新宿音楽祭金賞を受賞し、ブレイクを果たした。その後も「真っ赤な夜のブルース」「蒸発のブルース」「うしろ姿」など数々のシングルを発表し、’70年代にかけて活躍。’80年代以降も自ら作詞作曲を手がけ、独自の音楽世界を追求したが、晩年は活動が限定的になり、2015年1月に逝去した(没年齢69歳)。

'60年代の演歌

戦後直後は「股旅もの」や「流れ者」的世界観から叙情的・抒情的な「哀愁の演歌」へ変化。’60年代は「ふるさと」「母」「人生の哀しみ」「別れ」などをテーマに、庶民の感情を歌うものが中心となった。三味線や尺八を中心にした伴奏に、浪曲的こぶしを抑えた歌唱法が導入され、美空ひばり、春日八郎、三橋美智也がその流れを牽引した。「函館の女」(’65・北島三郎)、「兄弟仁義」(’65)など、地方や人情をモチーフにしたご当地演歌も台頭し、北島三郎、村田英雄、三波春夫らが男の義理と人情の世界を力強く歌い上げた。和田弘とマヒナスターズ、ロス・インディオスなどの登場でムード歌謡も人気となり、都会的で艶のある「夜の演歌」も定着した。

平浩二

1967年に歌手を目指して上京し、’69年に「なぜ泣かす」でテイチクレコードよりデビュー。’70年には「女の意地」(西田佐知子との競作)がヒットし、’72年にリリースした「バス・ストップ」がオリコンで大ヒットを記録した。その後も「夜明け前」「冬の駅」などのヒット曲を重ね、歌唱力と甘い歌声で人気を博した。2015年に故郷・佐世保市の初代名誉観光大使に就任し、地元にも貢献。現在も精力的に音楽活動を続け、2021年にはくも膜下出血から奇跡的に復帰しステージに返り咲いた。

橋幸夫

1960年に高校1年生でビクターのオーディションに合格し、作曲家・吉田正に師事した上で「潮来笠」でデビュー。同曲は爆発的なヒットとなり、日本レコード大賞新人賞の第1回受賞者となった。以降、吉永小百合とのデュエット「いつでも夢を」、そして「霧氷」でレコード大賞を連続受賞し、舟木一夫・西郷輝彦とともに「御三家」と称される人気歌手となった。紅白歌合戦には通算19回出場し、映画・テレビ・舞台でも俳優としても活躍。2023年5月に歌手活動から引退を表明した後も芸能や社会貢献活動に意欲的に取り組んだ。

フランク永井

1955年「恋人よわれに帰れ」でデビュー。低音の魅力で“ムード歌謡”を開拓。「有楽町で逢いましょう」など都会的な歌が人気を博す。サラリーマン層にも愛され、夜の街に寄り添うような歌唱が支持された。晩年は脳梗塞で活動制限されるも、不屈の精神で復帰した。

水原弘

1959年、永六輔作詞による「黒い花びら」でデビュー、60万枚に迫る大ヒットとなり、新人ながら第1回日本レコード大賞を受賞する。甘いルックスと低音による大人のムード歌謡で女性人気を集め、アース製薬のCM出演で後世にも広く知られる存在に。’78年、41歳で急逝。短命に終わった天才型歌手として記憶される。

石原裕次郎

1956年、映画『太陽の季節』で役者デビュー。同年の映画『狂った果実』で主演を務めるとともに、同名のシングルで歌手デビューした。日活映画のスターとして絶大な人気を誇り、’60年代には大型スターとして確固たる地位を築く。歌手としても「銀座の恋の物語」「夜霧よ今夜も有難う」などが大ヒット。男の哀愁を漂わせる歌唱と独特の色気で、芸能界随一のカリスマとして、没後も命日には大々的な特番が組まれる。

小林旭

1956年に映画『飢える魂』で役者デビューし、’58年「女を忘れろ」で歌手デビューした。役者として石原裕次郎と並ぶ日活のスターとなり、「渡り鳥」シリーズなどで日活黄金時代を築く。歌手としてもデビュー曲は大ヒット、続く「ダイナマイトが百五十屯」もヒットし、”マイトガイ”と呼ばれ国民的人気者となる。美空ひばりとは事実婚の関係にあり、関係の解消後も、映画『仁義なき戦い』や’75年発売の『昔の名前で出ています』’79年『赤いトラクター』(’77年~ヤンマーCMソング)’85年『熱き心に』の大ヒットなど長年にわたり活躍した。

坂本九

高校時代に日劇「ウエスタン・カーニバル」で歌手デビューし、その後「ダニー飯田とパラダイスキング」で活動を始めた。1960年には東芝音楽工業へ移籍し「悲しき六十才」が初ヒットとなる。’61年10月発売の「上を向いて歩こう」は、海外で“SUKIYAKI”のタイトルで’63年に米ビルボードHot 100で3週連続1位を記録。日本語曲として唯一の快挙である。以後も「見上げてごらん夜の星を」「明日があるさ」など多数のヒットを生み、映画・テレビ・司会など多方面で活躍し、福祉活動にも尽力した。’85年、日航123便墜落事故で43歳で急逝したが、その歌声と笑顔は今も多くの人々に愛され続けている。

守屋浩

1957年、「スイング・ウエスト」のバンドボーイとして芸能界入りし、 ’58年、日劇ウエスタンカーニバルで正式に歌手デビュー。堀威夫のプロデュースで芸名を「守屋浩」とする。代表曲に「僕は泣いちっち」「有難や節」「大学かぞえうた」「星空に両手を」などがあり、これらは当時のロカビリーブームの中で人気を博す。「星空に両手を」は島倉千代子とのデュエットで、約70万枚を売りあげるヒットとなる。 ’76年、歌手・俳優としての主な活動を引退し、ホリプロ(当時堀プロダクション)の社員となり、「ホリプロタレントスカウトキャラバン」を発案・運営。榊原郁恵らアイドルを発掘した。

加山雄三

慶應義塾大学法学部卒業後、1960年に東宝と専属契約を結び、映画『男対男』で俳優デビュー。翌’61年、『大学の若大将』で主演し“若大将”シリーズが始まるとともに、『夜の太陽』で歌手デビュー。’65年には主題歌「君といつまでも」が350万枚を超える大ヒットとなり、日本のポピュラー歌謡界における代表的存在となる。以降、若大将シリーズの俳優としての活躍のみならず、自作曲家(ペンネーム “弾 厚作”)としても名を馳せ、多重録音の導入など音楽的にも先駆的に活動する。

佐川満男

1962年「夜がわかれる」でデビュー。甘いマスクと柔らかい歌声で’63年「今は幸せかい」がヒットし、端正な青春スターとして人気を集める。のちに俳優業にも進出し、誠実な人柄と安定した演技力でドラマなどにも多数出演。歌手としても地道に活動を続けている。

ジェリー藤尾

1962年「悲しき願い」でデビュー。日系カナダ人の出自を持つ俳優兼歌手。「遠くへ行きたい」が代表曲で、同名の長寿番組のテーマとしても有名に。穏やかな語り口と情緒ある歌声で多くのファンを獲得した。俳優業でも活躍し、多文化背景を持つ存在として記憶される。

菅原洋一

’62年にレコードデビューし、’65年発売の「知りたくないの」が’67年に大ヒット、一躍人気歌手となる。’68年に日本レコード大賞歌唱賞、’70年には「今日でお別れ」でレコード大賞を受賞した。「忘れな草をあなたに」などヒット曲も多く、海外の著名アーティストとも共演。丸顔から「ハンバーグ」という愛称がつき、司会など多方面でも活躍。’83年にはシルヴィアとの「アマン」がデュエットの名曲として支持を得た。

アイ・ジョージ

流しの歌手から出発し、1953年に黒田春雄名でデビューするが方向性の不一致でレコード会社を退社し、再び流しとして全国を回る。’59年に大阪の高級クラブ「アロー」で人気を得て専属歌手となり、同年にアイ・ジョージとして再デビュー。以後、『硝子のジョニー』『赤いグラス』などのヒットを放ち、’60~’71年に紅白へ12年連続出場した。カーネギー・ホール公演を果たすなど国際的舞台にも立った。

高石友也

1960年代後半から2020年代まで活動した日本フォーク界の草分け的存在で「受験生ブルース」で知られる。アメリカ民謡の日本語カバーから出発し、反戦フォークの担い手として注目され、のちにブルーグラスや民謡などへ幅広く展開した。多彩な楽器を操り、ザ・ナターシャー・セブンでの活動や「宵々山コンサート」を主宰するなど地域文化にも貢献。テレビ番組の旅企画でも親しまれた。

田辺靖雄

1963年「夜の太陽」でデビュー。スマートな容姿で“和製プレスリー”とも呼ばれ、青春歌謡を中心に活躍する。のちに九重佑三子との「夫婦デュエット」でも知られ、芸能界きってのおしどり夫婦として話題となる。2001年より日本歌手協会理事長としても活動し、歌謡界の発展に尽力。

舟木一夫

1963年6月「高校三年生」でデビュー。学園ソングの代名詞的存在として爆発的ヒットとなった。「修学旅行」「学園広場」など青春歌謡を多く歌い、“橋・舟木・西郷”の御三家の一角として時代を牽引。学ラン姿がトレードマーク。近年も精力的にコンサート活動を続け、シニア層の心をつかんでいる。

三田明

1963年「美しい十代」でデビュー。さわやかな笑顔と高音の澄んだ声で青春歌謡を彩った。「十七才のこの胸に」などヒットを重ね、女性ファンの支持を集めた。のちに俳優や司会業にも活動の幅を広げる。2020年代に入っても歌手活動を継続中で、長年のファンに支えられている。

飯田久彦

1963年「ルイジアナ・ママ」でデビュー、日劇ウエスタンカーニバル出身。明るい歌声とアメリカンスタイルでティーン層に人気を博した。のちに東芝EMIや徳間ジャパンの重役としてプロデューサーに転身し、HOUND DOGや渡辺美里らを育てた。歌手から業界のキーパーソンへと変貌した稀有な存在。

佐々木功

1964年「君の瞳を見つめて」でデビュー。ロカビリー調の歌手として活躍後、’70年代にはアニメソングの王者に。「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」など、雄大で熱い歌唱で“アニソンの帝王”と呼ばれる。俳優・声優としても活動し、現在も尚全国のアニソンイベントに精力的に出演する現役歌手。

西郷輝彦

1964年12月「君だけを」でデビュー。“橋・舟木・西郷”の御三家のひとり。デビュー曲でいきなり大ヒットし、清潔感あるルックスと明朗な歌声で一躍トップアイドルとなる。青春歌謡から演歌まで幅広く歌い、「星のフラメンコ」なども大ヒット。後年は俳優としても活躍、特に時代劇で存在感を示した。

布施明

1965年「君に涙とほほえみを」でデビュー。圧倒的な声量と歌唱力で、歌謡界にクラシックやミュージカルの要素を持ち込んだ。「シクラメンのかほり」「積木の部屋」など大ヒットを連発。紅白出場は20回以上。近年も音楽劇やオーケストラとの共演など精力的に活動しており、日本を代表する本格派歌手の一人。

美川憲一

1965年「だけどだけどだけど」でデビュー。’66年「柳ヶ瀬ブルース」で大ブレイク。独特のコブシと演出力でムード歌謡界を代表する存在となる。’70年代に一時低迷するも、’80年代に再ブレイクし、コロッケのものまねをきっかけに新たな人気を獲得。個性的なキャラクターとともに、歌手としても再評価された。

マイク眞木

1966年、日本のフォーク黎明期を代表するヒット曲「バラが咲いた」でデビュー。爽やかなメロディと平易な歌詞が広く愛され、フォークソングの普及に貢献した。俳優・司会者としても活動し、芸能一家としても知られる。温かみのある歌声とナチュラルな存在感で長く親しまれている。

内田裕也

1967年「恋のカクテル」デデビューした和製ロックのパイオニア。商業歌謡の枠に収まらず、ロックンロールの精神を貫いた異端の存在。映画プロデュースや政治発言でも話題となり、歌手としては「コミック雑誌なんかいらない」など実験的な作品が多く、“ロック界のアウトロー”として伝説的な存在となる。

山田太郎

1963年「清らかな青春」でデビュー。’65年発売の「新聞少年」がヒットし、お茶の間の人気者となる。歌手のほか役者としても活動し、時代劇を中心にドラマに多数出演。馬主としても有名で、日本馬主協会連合会会長、中山馬主協会会長などの要職も務める。

バーブ佐竹

1967年「女心の唄」でデビュー。独特のビブラートと情感たっぷりの歌唱でムード歌謡に新風を吹き込んだ。「女心の唄」は100万枚超の大ヒット。低音の美しさと哀愁を帯びたメロディで中高年層の支持を集めた。私生活でも波乱万丈だったが、その姿がまたファンの心を打った。

美樹克彦

1967年「花はおそかった」でデビュー。都会的な感性と繊細な歌声でデビュー曲は大ヒット。作詞作曲も手がけるマルチな才能で、自己プロデュース型歌手の先駆けとなった。のちに麻丘めぐみなどへの楽曲提供でも知られ、歌謡界の裏方としても貢献。自身の活動も継続中。

尾藤イサオ

1969年「悲しき願い」でデビュー。ブルースとロックの要素を日本の歌謡に融合させた先駆者で、熱唱型でダイナミックな歌唱が特徴。「あしたのジョー」の主題歌などでも知られ、アニメ主題歌やテレビ出演も多い。独自のスタイルを貫き、異色ながらも存在感ある歌手として活躍した。

城卓矢

1969年「骨まで愛して」でデビュー。デビュー曲は大ヒットし、ムード歌謡の名曲として定着した。低音で甘い声と大人の色気を感じさせる歌唱が魅力。’70年代以降は表舞台からやや退くが、昭和歌謡の名歌手として根強い人気を持ち続けた。

ピーター

1969年10月「夜と朝のあいだに」でデビュー。中性的な美貌と艶のある歌声で異彩を放ち、デビュー曲はオリコン1位を記録。俳優としての活動も多く、「新宿鮫」などで実力派として評価された。性別やジャンルを超えた唯一無二の存在として、LGBTQ+の先駆的なシンボルともいわれる。歌手としても独特の世界観で長く愛された。

皆川おさむ

3歳の頃から、自身の叔母が主宰する児童合唱団に所属し『ヤン坊マー坊天気予報』のCMソングなどを歌う。1969年、6歳の時、イタリアの動揺を日本語でカバーした「黒ネコのタンゴ」でデビューすると、オリコンのシングルチャート14週連続1位という大ヒットとなり、一躍国民的幼児歌手となる。その後は一時芸能活動から離れるも、大人になってから舞台俳優として復帰。童謡歌手としての評価も高く、子ども番組などでも活躍した。レコードは現在も懐メロ番組で紹介されることが多い。

上條恒彦

高校卒業後1958年に長野から上京、住み込み雑貨店員や新聞配達など様々なアルバイトをしながら「歌声喫茶」で歌唱力を磨いた。’69年「雨よ降れ」で歌手としてレコードデビュー。’71年、「六文銭」と共演した「出発の歌」がヒットし、同年世界歌謡祭グランプリ・歌唱賞を受賞。’72年にはNHK紅白歌合戦に初出場し、時代劇『木枯し紋次郎』の主題歌「だれかが風の中で」が広く知られるヒット曲となる。歌手活動と並行して俳優・舞台俳優としても活動。「3年B組金八先生」で教師役を務め、舞台では『ラ・マンチャの男』の牢名主役など長期間にわたる出演を継続。声優としてもアニメや映画に声を寄せた。