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1980年代 1970年代 1960年代 ’80年代、深夜放送ブームは最盛期を迎え、若者の中心的メディアとして強い影響力を持った。「オールナイトニッポン」を軸にタモリ、ビートたけし、中島みゆきら個性豊かなパー … 続きを読む

ラジオ番組 > 1970年代

1980年代 1970年代 1960年代 1970年代は、’60年代後半に始まった深夜放送ブームが本格的に定着し、若者文化の中核を担った。「パック・イン・ミュージック」「オールナイトニッポン」「セイ!ヤング」 … 続きを読む

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俳優・女優 > 1950年代

─ 主な俳優・女優 (順不同) ─

1950

左卜全

小さな劇団での活動を経て、松竹に老け役の喜劇役者としてスカウトされたことをきっかけにテレビや黒澤映画などで活躍。独特のとぼけた芸風の老人役で笠智衆とともにお茶の間にも広く知られる存在となった。俳優のほか1970年、76歳の時に劇団ひまわりの子役とともに歌った「老人と子供のポルカ」は約24万枚のヒットとなった。

1925年に松竹蒲田撮影所の俳優研究生となり、当初は通行人などの端役を重ねた。’42年に小津安二郎監督『父ありき』で初主演を果たす。以後『晩春』『東京物語』『秋刀魚の味』など小津作品の常連となり「日本の父親像」を象徴する俳優として知られるようになった。生涯で約90本のドラマにも出演した。

1927年に日活大将軍撮影所へ入り、喜劇俳優として頭角を現す。戦前は新興キネマで忍術映画などに出演し、終戦時は軽演劇の座長として活動した。戦後は浅草で清川虹子、笠置シヅ子らと共演し、’51年に斎藤寅次郎監督の作品で「アジャパー」が流行語となる。以後「バンジュン」の愛称で人気を博し、国民的喜劇俳優として知られた。

山村聰

東京帝国大学文学部を卒業後、劇団活動を経て1946年に映画『命ある限り』でデビュー。小津安二郎作品をはじめ多数の名作に出演し、日本映画を代表する名優として知られる。英語力を生かし『黒船』『トラ・トラ・トラ!』など海外作品にも出演した。晩年は『必殺仕掛人』の音羽屋半右衛門役などで重厚な存在感を放った。

早稲田大学商学部を中退後、NHKアナウンサーとして満洲に赴任。帰国後に俳優へ転じ、舞台やラジオで注目を集めた。映画では『三等重役』『社長シリーズ』『駅前シリーズ』などで国民的スターとなる。巧みな語りは「森繁節」と呼ばれラジオでも親しまれた。歌手としても『知床旅情』が大ヒット。文化勲章や国民栄誉賞を受けた日本喜劇界の大黒柱であった。

本名は寺尾信夫。戦前から戦後にかけて日本の演劇界を牽引し、滝沢修らとともに劇団民藝を創設した。飄々とした風貌と軽妙な演技を特色とし、『ゴドーを待ちながら』『夕鶴』などで高く評価された。演出家としてもリアリズムに基づく近代的な演技を追求し、多くの舞台を手がけた。芸名は中野重治と鈴木三重吉に由来する。長男は俳優の寺尾聰。

千秋実

妻の女優・佐々木踏絵と結成した薔薇座で舞台活動を行ったのち映画俳優に転向し、黒澤明監督作品の常連として活躍した。『七人の侍』『隠し砦の三悪人』などで印象的な脇役を務め、藤原釜足と演じた農民コンビは『スター・ウォーズ』のR2-D2とC-3POのモデルとされる。多くの映画に出演し、1960年代以降は『肝っ玉かあさん』などのホームドラマでも人気を博した。

多々良純

1947年に宇野重吉や滝沢修らと民衆芸術劇場に参加、のちに劇団民藝に加わる。『かもめ』『炎の人』などに出演後、’52年に退団して映画俳優として本格的に活動を開始。黒澤明監督『七人の侍』、久松静児監督『警察日記』などの名作に出演し、’60年代以降はテレビでも活躍。善悪問わぬ多彩な役柄で名バイプレイヤーとして評価を確立した。

トニー谷

「さいざんす」「家庭の事情」「おこんばんは」などの独特な言葉遣いと軽妙な話術で人気を博し「ざんす調」ブームを巻き起こす。ジャズブーム期に司会者として引っぱりだこになり、東宝専属として舞台・映画にも多数出演。1953年には20本の映画に登場した。森繁久彌と並ぶ“アプレ芸人”として時代を象徴し、E・H・エリックと岡田眞澄兄弟を発掘した。

※当ページに掲載の画像はウィキペディアコモンズによるパブリックドメインです。

笠智衆

(C)Screenshot of the movie

伴淳三郎

(C)『サン写真新聞(1953年4月6日号)』毎日新聞社

森繁久彌

(C)映画世界社 - 『映画ファン』1954年11月号、映画世界社

宇野重吉

(C)Directed by en:Kaneto Shindo, produced by en:Daiei Film - Screenshot of the movie

1941年に東宝入社。当初は助監督志望だったが脇役出演で注目を集め、’49年『青い山脈』で旧制高校生役を好演し人気を確立。’50~60年代は『現代人』『坊っちゃん』『雪国』などで二枚目スターとして活躍。その後『昭和残侠伝』シリーズなどで高倉健を支える存在に。’65年に日本映画俳優協会会長、’83年から2009年まで同協会の初代理事長を務め晩年は文筆活動に専念した。

1947年『銀嶺の果て』で主演級デビュー。’48年、黒澤明監督『酔いどれ天使』でヤクザ役を演じ一躍スターとなる。その後、黒澤作品15本に主演し、『羅生門』でヴェネチア金獅子賞、『七人の侍』で英国アカデミー賞主演男優賞ノミネート、『用心棒』『赤ひげ』でヴェネチア男優賞を受賞するなど国際的評価を得た。黒澤監督との共同作業で自由な演技を行い、世界的名優として知られる。

由利徹

1943年に陸軍へ応召し中国へ赴任、’45年帰国後ムーランルージュに復帰。森繁久彌と共に喜劇役者として活動を始める。ムーランルージュ解散後は帝劇『マダム貞奴』に出演し、その後ストリップ劇場のコントで人気を得る。芸名を「南啓二」「宇留木三平」など経て「由利徹」と改めた。’56年に南利明・八波むと志と「脱線トリオ」を結成し人気を博す。解散後も映画・テレビに多数出演し、’70年代には『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』などで存在感を示した。

船越英二

1947年、大映第2期ニューフェイスに合格し『第二の抱擁』でデビュー。初期は真面目な青年役が多かったが、’52年の『安宅家の人々』『秘密』で演技が注目される。’56年『日本橋』『四十八歳の抵抗』などで性格俳優として評価を高め、’59年『野火』で極限状況の敗残兵を熱演し高い評価を得た。その後も大映を代表する実力派俳優として多くの作品に出演し、長く第一線で活躍した。『時間ですよ』の銭湯の主人役などテレビドラマでも活躍した。

金子信雄

若い頃から人間臭い悪役として知られ、’50年代は軽薄な恋敵役で注目される。’60年代には日活や東映のアクション、任侠映画で活躍し、特に『仁義なき戦い』シリーズでは小心でずる賢い組長を好演、「陰の主役」と評された。’66年には妻・丹阿彌谷津子と劇団マールイを結成し、松田優作や柄本明らを育てた。晩年は料理研究家としても人気を博し、『金子信雄の楽しい夕食』で親しまれたほか、著書やCM、レストラン経営など幅広く活動した。

1942年に日活から『微笑の国』でデビュー。戦地から復員後、二枚目俳優として活動を再開し、’51年『その人の名は言えない』で独自の演技が評価される。’52年に東宝入りし、『三等重役』などで庶民派俳優として人気を確立。’73年『日本沈没』の田所博士役で再び注目を集め、その後は『江戸の旋風』や『牟田刑事官事件ファイル』などテレビでも活躍した。

1948年に松竹入りし、高田浩吉にちなんで芸名を名乗る。大部屋俳優から頭角を現し、『遊侠の群れ』で注目され、’49年『フランチェスカの鐘』で初主演。佐田啓二、高橋貞二と並び「松竹青春三羽烏」と称された。’50年代には端正な容姿と翳りある魅力で人気俳優の頂点に立つ。’52年に独立プロ「新生プロ」を設立し、岸惠子との共演作『ハワイの夜』が大ヒット。同年「男の夜曲」で歌手デビューし、俳優・歌手双方で戦後を代表するスターとなった。

1950年に清水金一の推薦で映画『無敵競輪王』に出演しデビュー。’54年に森繁久彌らと虻鉢座を結成、東宝専属後は『のり平の三等亭主』で初主演し『社長シリーズ』『駅前シリーズ』で人気を確立した。「パァーッといきましょう」の台詞で親しまれ、庶民的なサラリーマン像を巧みに演じた。『夢であいましょう』などテレビでも活躍し、森光子主演『放浪記』などで演出家としても高い評価を受けた。紫綬褒章、勲四等旭日小綬章を受章し、昭和喜劇界を代表する存在となった。

南利明

榎本健一に師事し、1956年に由利徹・八波むと志とともに脱線トリオを結成。リーダー格として浅草で女形を演じ人気を博す。トリオ解散後は単独で活動し『てなもんや三度笠』で名古屋弁の鼠小僧役を演じて全国的に知られる存在となった。’69年のオリエンタル「スナックカレー」のCMでの名台詞「ハヤシもあるでョ〜」は流行語となり、以後の代名詞となる。俳優としても鈴木則文監督作品などに多数出演し、喜劇から時代劇まで幅広く活躍した。

大泉滉

アナキスト作家・大泉黒石の息子として東京に生まれる。子役として劇団東童に入り、’40年『風の又三郎』で映画デビュー。戦後、文学座に入団し二枚目俳優として活動したが、『自由学校』出演を機にコメディアンへ転身。テレビドラマ『ボクのしあわせ』で人気を得、「トンデモハップン」の流行語を生んだ。『赤影』やウルトラシリーズにも出演し、晩年は大林宣彦作品『麗猫伝説』で重厚な演技を見せた。

佐田啓二

1947年、木下恵介監督の『不死鳥』で田中絹代の相手役に抜擢されデビューし、端正な顔立ちで注目を集める。続く『鐘の鳴る丘』でさらに人気を高め、戦後の松竹を支える看板俳優に成長。高橋貞二、鶴田浩二と並び「松竹戦後の三羽烏」と称された。’53年、岸惠子と共演した映画『君の名は』が大ヒットし、国民的スターの地位を確立した。女優の中井貴惠、俳優の中井貴一の父。

慶應大学卒業後、進駐軍キャンプでジャズ・ドラマーとして活動を始め、1954年に「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」を結成。ユーモア音楽で人気を得る。伴淳三郎の勧めで俳優に転じ、『幕末太陽傳』でブルーリボン賞主演男優賞を受賞し、喜劇から人情劇まで幅広く活躍。『私は貝になりたい』『モスラ』など代表作多数。大阪芸術大学教授も務め、’94年に紫綬褒章を受章した。

小沢昭一

1954年に映画デビュー。’60年代以降は劇団俳優小劇場や新劇寄席『とら』で活躍し、ラジオ・テレビにも出演。’69年からは日本の伝統芸能・放浪芸の研究と収集に力を注ぎ、LP『日本の放浪芸』や劇団「芸能座」を通じて実践・発表。1’73年よりラジオ『小沢昭一的こころ』で約39年間親しまれ、’82年には一人芝居の劇団「しゃぼん玉座」を創設。演劇・放送・芸能史研究の三面で活躍し、伝統芸能の保存と普及に生涯を捧げた。

三船敏郎

(C)映画世界社 -『映画ファン』1954年11月号、映画世界社、1954年

小林桂樹

(C)映画評論社 - 『映画評論』1964年3月号。発行所:映画評論社

鶴田浩二

(C)『映画情報』1959年1月号。発行所:国際情報社

三木のり平

(C)『タレント名鑑 第1』芸能春秋社、1962年

1951年、新東宝のニューフェイス「新東宝スターレット」として芸能界入り。’52年に映画『恋の応援団長』でデビュー。’50~60年代にかけて主演級の歌うスターとして活躍、『坊ちゃんシリーズ』などが当たり役となった。ミュージカルや『キングコング対ゴジラ』『君も出世ができる』など映画出演も多い。’63年に寿美花代と結婚し、夫婦共演も経験。長男殺害事件を経て二男政宏・三男政伸をもうけ、俳優・歌手として幅広く活躍した。

1954年に新東宝に入社、若手スターとして『鋼鉄の巨人(スーパージャイアンツ)シリーズ』で主演。’61年に大映へ移り、映画では脇役を中心に活躍。隊長役を務めた’65年放送開始の『ザ・ガードマン』は高視聴率を記録し、大映テレビの看板俳優となる。山口百恵との「赤いシリーズ」で父親役を務め人気を博し、橋田壽賀子作品でもたびたび起用された。晩年は『渡る世間は鬼ばかり』や『ごくせん』で祖父役を演じ、温厚で気の優しい父親・祖父役が当たり役となった。

大村崑

1957年、大阪北野劇場専属コメディアンとして舞台デビュー。テレビ黎明期の『やりくりアパート』『番頭はんと丁稚どん』で知名度を上げる。’59年、劇団・笑いの王国結成に参加し『頓馬天狗』で片手抜刀のトリッキーな殺陣を披露、子どもを中心に絶大な人気を獲得。以後、俳優としてコミカルから渋い演技まで幅広く活躍し、大塚製薬「オロナミンC」の顔としても定着した。その後も2時間ドラマ『赤い霊柩車シリーズ』などで活躍を続けた。

1954年、日活ニューフェイス第1期生として入社し、翌年『警察日記』で映画デビュー。当初は端正な美青年だったが’56年に豊頬手術を受け、精悍な顔立ちへと変貌し、悪役やアクション俳優として人気を確立した。「エースのジョー」と呼ばれ、日活アクション黄金期を小林旭らとともに支えた。独自に考案した「チッチッチッ」のジェスチャーも流行。’71年に日活を離れフリーとなり、テレビドラマやバラエティでも活躍した。

大学在学中から俳優を志し、1956年に兄・慎太郎原作の映画『太陽の季節』でデビュー。同年『狂った果実』で主演し、日活の看板スターとなる。『嵐を呼ぶ男』などのヒットで若者のカリスマ的存在となり、ブルーリボン賞新人賞を受賞。’60年に北原三枝と結婚。’63年に石原プロモーションを設立し、『黒部の太陽』など大作を製作。’72年にはテレビ『太陽にほえろ!』に出演し、「ボス」役で新たな人気を得、映画・テレビ両面で戦後日本を代表するスターとなった。

長門裕之

父は沢村国太郎、母はマキノ智子、弟は津川雅彦という芸能一家に育つ。6歳で『続清水港』(1940年)に子役として出演し、戦前から名子役として知られた。立命館大学中退後、日活に入社。『太陽の季節』(’56年)で主演し、太陽族映画を代表する存在となる。’61年に南田洋子と結婚し、理想のカップルとして人気を博す。’64年に妻と「人間プロダクション」を設立し、映画・テレビで幅広く活動。晩年は慈善活動にも力を注いだ。

宝田明

1953年に東宝ニューフェイス第6期生としてデビュー。『かくて自由の鐘は鳴る』で映画初出演し、翌年『ゴジラ』で初主演。長身の美男子として東宝の看板スターとなり、『モスラ対ゴジラ』『小早川家の秋』などに出演。’60年代には香港女優ユーミンとの共演でアジアでも人気を得た。ミュージカルにも進出し『マイ・フェア・レディ』で成功、日本のミュージカル俳優の草分けとなる。’90年代に伊丹十三作品で再評価され、晩年まで洒脱な二枚目俳優として活躍した。

デンマーク人の父を持ち、1952年に日劇ミュージックホールで初舞台。’53年に第6期東宝ニューフェイスに合格し、日活で映画『初恋カナリア娘』でデビュー。端正な顔立ちと国際的な雰囲気で注目され、外国人役も多く演じた。退社後は舞台や司会業に活躍の場を広げ、『仮面ノリダー』のファンファン大佐役で再ブレイク。語学堪能でミス・インターナショナル司会も長年務め、ダンディーな紳士として親しまれた。萩本欽一とも親交が深く、多才な芸能人として長く愛された。

慶應義塾高等学校を中退後、俳優座演劇研究所に入り、1956年に映画『裁かれる十代』でデビュー。同年の主演作『処刑の部屋』で注目され、大映の二枚目スターとして『巨人と玩具』『妻は告白する』『おとうと』などに出演した。’60年に野添ひとみと結婚。’62年に大映を退社し実業家に転身。’67年に芸能界復帰後はテレビで活躍し、『キイハンター』や『川口浩探検隊』で人気を博す。俳優と冒険家の二面性で昭和を代表するスターとなった。

高校在学中に日活関係者に見出され、1956年『飢える魂』でデビュー。翌年『青春の冒険』で初主演し、『錆びたナイフ』『南国土佐を後にして』で人気を確立。石原裕次郎と並ぶ日活の二枚目スターとして『渡り鳥』『旋風児』シリーズなどで活躍した。歌手としても「女を忘れろ」「ダイナマイトが百五十屯」などがヒットし、“マイトガイ”と呼ばれた。’62年、美空ひばりと婚約・事実婚に至るも’64年に解消。俳優・歌手双方で昭和を代表する存在となった。

1950

沢村貞子

1934年、兄・沢村國太郎の勧めで日活太秦撮影所に入り、『野の光』でデビュー。性格俳優として注目され、戦後は『それでも私は行く』で映画界に復帰。’50年代には母親や妻などの中年女性役を幅広く演じ、『赤線地帯』などで高く評価された。『警察日記』などの名作に出演する一方、『駅前シリーズ』などの喜劇でも存在感を発揮した。’69年からはエッセイストとしても活躍し、『貝のうた』『私の浅草』で文筆家としての地位を確立した。

田中絹代

戦前・戦後も松竹の看板女優として活躍。『夜の女たち』などで毎日映画コンクール女優演技賞を連続受賞。ヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞した。以後『雨月物語』『山椒大夫』などで名演を重ねる。1953年『恋文』で監督デビューし、女性監督の先駆けとして高く評価された。晩年は『楢山節考』でキネマ旬報賞を受賞、『サンダカン八番娼館 望郷』でベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞し、国際的評価を確立した。

北林谷栄

築地座の舞台に魅せられ1931年に創作座へ入り。翌年新協劇団に参加し『どん底』で注目される。戦中は瑞穂劇団を結成し老女役を演じ始める。戦後、劇団民藝の創設に参加。映画『ビルマの竪琴』『キクとイサム』などで高く評価され、ブルーリボン賞を受賞。悪役の吹き替えや『となりのトトロ』の声優でも知られる。『大誘拐 RAINBOW KIDS』で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞受賞したほか、晩年まで第一線で活躍した。

丹下キヨ子

日劇ダンシングチーム出身。三木鶏郎グループに参加し「僕は特急の機関士で」「ブギウギ列車」などのヒットを放つ。1952年に第2回NHK紅白歌合戦で紅組司会を務めた。’50~’70年代にかけて東宝・新東宝・日活・東映の映画に多数出演し、テレビでもバラエティやドラマで活躍。毒舌キャラで人気を博し、清川虹子や水の江瀧子と並ぶ存在となった。ブラジルで実業家としても活動したが、’83年に『独占!女の60分』を降板して芸能界を退いた。

原節子

1935年に日活へ入社し映画デビュー。翌年『新しき土』のヒロインに抜擢され国際的に注目を浴びる。戦中は『ハワイ・マレー沖海戦』などの戦意高揚映画に出演。戦後は黒澤明監督『わが青春に悔なし』で復帰し、松竹の『安城家の舞踏会』の成功でトップ女優となる。『青い山脈』や小津安二郎監督の『晩春』『東京物語』などで清楚な日本女性像を確立。’62年『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』を最後に突如引退し、「永遠の処女」と称された。

音羽信子

1937年に宝塚音楽歌劇学校に入学し、’39年『宝塚花物語』で初舞台を踏む。戦後は雪組のトップ娘役として淡島千景と人気を二分し宝塚の黄金期を支えた。’50年に退団し大映入り。『愛妻物語』で注目される。’52年大映を退社し近代映画協会に参加。清純派から脱し、’60年『裸の島』で世界的評価を得る。以後テレビにも活躍の場を広げ『肝っ玉かあさん』などで親しまれた。’83年『おしん』では老年期のおしんを演じ、国民的女優として地位を確立した。

ミヤコ蝶々

1952年、秋田實主宰の「宝塚新芸座」に参加し活動。『漫才学校』『夫婦善哉』などのラジオ司会で人気を得る。特に『夫婦善哉』はラジオからテレビへと続く長寿番組となり「おしどり夫婦」として親しまれたが、’58年に雄二と離婚。以後も公私で関係を続け、雄二の晩年を支えた。’74年から中座での定期公演を始め、脚本・主演・演出を担い高く評価された。放送批評家賞、紫綬褒章、勲四等宝冠章を受章。晩年まで舞台への情熱を失わなかった。

京マチ子

1936年に大阪松竹少女歌劇団に入団し、娘役スターとして活躍。’49年に大映入りし、以後『羅生門』『雨月物語』『地獄門』などで国内外に名を知られる。「グランプリ女優」と称され、若尾文子、山本富士子と並ぶ大映の看板女優となった。妖艶な美貌と存在感で戦後映画界を代表する女優の一人となり、大映倒産後はテレビや舞台でも活躍。生涯独身を貫き、80歳を過ぎても舞台に立った。

高峰秀子

1929年に松竹蒲田撮影所で映画『母』の子役としてデビューし、天才子役として人気を博す。戦後は東宝・新東宝を経てフリーとなり、木下惠介、成瀬巳喜男の両監督作品を中心に活躍。『二十四の瞳』『浮雲』『カルメン故郷に帰る』などで日本映画史に残る名演を残した。清楚で知的な存在感と確かな演技力で戦前・戦後を通じて第一線に立ち続けた。’79年に引退後は文筆活動に専念し、自伝『わたしの渡世日記』などを著す。夫は映画監督の松山善三。

淡島千景

1941年から’50年まで宝塚歌劇団に所属。美貌と演技力で「東京の三羽烏」と称され、戦時・戦後の宝塚を支えた。退団後、松竹入りし『てんやわんや』で映画デビュー。『麦秋』『君の名は』などで人気を得て、「アプレガール」の象徴的存在となる。東宝移籍後は『夫婦善哉』で森繁久彌と名コンビを組み、コメディエンヌとしても開花。戦後映画の黄金期を代表する女優となった。後年は文化活動にも携わり、紫綬褒章など多くの栄誉を受けた。

原節子

(C)東寶發行所 - 『エスエス』1939年10月号。発行所:東寶發行所

山本富士子

(C)国際情報社 - 『映画情報』1956年6月号。発行所:国際情報社

八千草薫

(C)国際情報社 - 『映画情報』1956年6月号。発行所:国際情報社

岸惠子

(C)国際情報社 - 『映画情報』1956年11月号、国際情報社

越路吹雪

宝塚歌劇団27期生として入団し、戦中から戦後にかけて男役スターとして活躍。「不良少女」と呼ばれる破天荒な性格ながら独自の色気と存在感で人気を博した。戦後の代表作「ミモザの花」でトップスターとなり、「ブギウギ巴里」でレコードデビュー。1951年に退団後は東宝専属として日本初のミュージカル女優となり、のちに歌手としてシャンソンを日本に広め「シャンソンの女王」と称された。

浅香光代

10歳で舞台に立ち、戦後に自らの一座を結成して女剣劇を復活させ、浅香光代一座を浅草・新宿で人気劇団に育てた。昭和30年代の女剣劇ブームを牽引し、「女剣劇の女王」と称された。1970年に一座を解散後は、舞台やテレビで幅広く活躍し、リポーターとしても親しまれた。’79年に「演劇舞踊浅香流」を創始し、晩年まで舞台に立ち続け、文化庁長官賞、旭日双光章を受章。波乱の私生活でも注目を集め、“勝気で豪快な女傑”として生涯を貫いた。

新珠三千代

13歳で宝塚音楽学校に入学し、戦後の1946年に宝塚歌劇団へ入団。可憐な美貌と確かな歌唱力でトップ娘役として人気を博し『ハムレット』『ひめゆりの塔』などに出演した。’55年に退団後、日活を経て東宝に所属。『洲崎パラダイス赤信号』『人間の條件』『社長シリーズ』などで映画女優として活躍した。テレビでは『氷点』『細うで繁盛記』などで清楚で芯の強い女性像を演じ、広く親しまれ、晩年まで品格ある日本女性の象徴として愛された。

山本富士子

1950年に初代ミス日本に選ばれ、翌年に訪米してモンローやディマジオと会見した。映画界からの誘いを受け’53年に大映へ入社し『花の講道館』でデビュー。『金色夜叉』『夜の河』などの主演で人気を確立し、大映の看板女優となる。’63年、自由契約を求めて大映を退社するが、五社協定により映画界から締め出される。それでも信念を貫いてテレビ・舞台で活躍を続け、凛とした美貌と独立心で戦後の女性像を象徴する存在となった。

香川京子

東京新聞主催の「ニューフェイス・ノミネーション」で約6000人の中から選ばれ新東宝に入社し、『帰国』でデビューした。1953年にフリーとなり、各社の巨匠監督の作品に出演。『ひめゆりの塔』を機に女優としての使命を意識し、成瀬巳喜男、溝口健二、黒澤明らの監督作で清楚で知的な魅力を発揮した。特に黒澤作品では三船敏郎と9度共演している。渡米後もテレビや舞台で活躍。後年、紫綬褒章と旭日小綬章を受章した。

久我美子

侯爵・久我通顕の長女として東京に生まれる。村上源氏の流れを汲む華族の家柄で、女子学習院在学中の1946年に東宝ニューフェイス第1期に合格し、翌年『四つの恋の物語』でデビュー。’50年『また逢う日まで』で日本映画初の接吻シーンを演じ注目を集めた。’54年には岸惠子・有馬稲子と共に「にんじんくらぶ」を設立。’57年『挽歌』で大ヒットを記録し、清楚で上品な魅力で人気女優となる。以後もテレビや舞台でも幅広く活動した。

八千草薫

1947年に宝塚歌劇団へ入団し、初期は『分福茶釜』の狸などコミカルな役を演じた。’52年『源氏物語』の若紫役で可憐な演技が評価され、清純派の娘役として人気を確立。宝塚在団中から映画にも出演し「お嫁さんにしたい女優」として高い人気を得た。’57年に退団後、東宝専属を経てフリーとなり、テレビでは上品で温かみのある良妻賢母役で親しまれた。後年、『岸辺のアルバム』で不倫する主婦を演じ、清純派の殻を破り高い評価を受けた。

岸惠子

小説家志望の少女だったが、吉村公三郎にスカウトされ1951年『我が家は楽し』で映画デビュー。『君の名は』の大ヒットで一世を風靡し、「真知子巻き」ブームを起こした。’55年『亡命記』で東南アジア映画祭最優秀女優賞を受賞し、翌年日仏合作映画『忘れえぬ慕情』に主演。’57年に仏監督イヴ・シャンピと結婚し、以後フランスと日本を往復して活動した。『約束』『スパイ・ゾルゲ』などに出演し、国際派女優として独自の地位を築いた。

有馬稲子

1949年に宝塚歌劇団へ入団し、娘役として活躍。’51年に東宝映画『宝塚夫人』でデビューし、’53年に東宝専属女優となる。’54年には岸惠子・久我美子と共に「にんじんくらぶ」を設立し、芸能界に新風を吹き込んだ。’55年に松竹へ移籍し、『もず』事件など話題作にも出演。’61年に俳優・中村錦之助と結婚するが、豪華な結婚生活の裏で家事生活に疲弊し’65年に離婚。その後、劇団民藝で演技を磨き、舞台やテレビで息長く活躍した。

淡路恵子

女医を望む母に反して芸能の道を選び、松竹歌劇団(SKD)の音楽舞踊学校に入学。1949年、在学中に黒澤明監督の『野良犬』で映画デビュー。’50年に正式入団し、草笛光子らと「スリーパールズ」として人気を得た。’53年から松竹映画で活躍し『この世の花』シリーズが大ヒット。’57年、『太夫さんより・女体は哀しく』などでブルーリボン賞助演女優賞を受賞。以後『駅前シリーズ』『社長シリーズ』などで親しまれた。

草笛光子

SKDを経て’56年から東宝専属となり映画・舞台・テレビで幅広く活躍した。’58年には自身の冠番組『光子の窓』で人気を博し、明るく上品な司会ぶりでお茶の間の人気者となる。その後、東宝喜劇『社長シリーズ』などで多彩な役を演じ、市川崑監督の金田一耕助シリーズにも常連出演した。ミュージカル界でも芸術祭賞を三度受賞。紫綬褒章など受章多数。晩年も精力的に活動し、90代で初主演映画『九十歳。何がめでたい』に出演した。

南田洋子

1951年に大映第5期ニューフェイスとして入社し、翌年『美女と盗賊』で映画デビュー。’53年の『十代の性典』が大ヒットし、「性典スター」と呼ばれた。’55年に日活へ移籍、『太陽の季節』で長門裕之と共演して人気を確立。’61年に長門と結婚し、以後は夫婦で「人間プロダクション」を設立して後進の育成やテレビ制作にも携わった。NHK『紀ノ川』『虹』などで高い評価を受け、『ミュージックフェア』の司会など多方面で活躍した。

中村メイコ

2歳で『江戸っ子健ちゃん』に出演し映画デビュー。幼少期から天才子役として知られ、榎本健一や森繁久彌ら名優と共演した。ラジオ・テレビ黎明期から活躍し、日本の放送史に欠かせない存在となる。1955年に「田舎のバス」がヒットし、歌手としても人気を得た。’57年に作曲家・神津善行と結婚。紅白歌合戦で3年連続紅組司会を務め、『メイコのごめん遊ばせ』『お笑いオンステージ』などで親しまれた。俳優・司会・歌手として長年にわたり第一線で活躍した。

野添ひとみ

松竹歌劇団の難関試験を突破して松竹音楽舞踊学校に入学し、1952年『うず潮』で佐田啓二の相手役として映画デビューした。清楚で愛らしい容姿から松竹の若手スターとして注目を集めたが、’57年に恋人・川口浩の父である川口松太郎の勧めで大映に移籍。’60年に川口浩と結婚し二女をもうけたが、娘と夫を相次いで亡くす不運に見舞われた。晩年は自身も甲状腺がんを患い、’95年に58歳で死去した。

冨士眞奈美

1956年、NHKドラマ『この瞳』の主演でデビュー。翌年、NHK専属女優第1号となり、馬渕晴子・小林千登勢とともに「NHK三人娘」と呼ばれ人気を博した。俳優座養成所で演技を学び、以後テレビ・舞台で幅広く活躍。’70年『細うで繁盛記』での小姑役が当たり役となり、以降は個性派女優としての地位を確立した。結婚・出産後は文筆業にも進出し、俳人・作家としても活動。’80年代に復帰後は演技と知性を併せ持つ名脇役として親しまれる。

松島トモ子

1949年、4歳で映画『獅子の罠』に出演しデビュー。『鞍馬天狗』『丹下左膳』『サザエさん』などに子役として出演し、80本の映画で主演を務めた。歌手としても「村の駅長さん」でデビューし、多くの主題歌を担当。少女雑誌の表紙を長年飾るなど人気を博した。’86年にはケニアでライオンとヒョウに相次いで襲われるが奇跡的に生還し、「それでも動物が好き」と語った。波乱に満ちた人生で知られる。

鰐淵晴子

ヴァイオリニスト鰐淵賢舟とオーストリア貴族出身の母ベルタの間に生まれる。3歳からヴァイオリンを学び「天才少女」と称された。1952年『母子鶴』で映画初出演、’55年『ノンちゃん雲に乗る』で主演し「原節子の再来」と評された。語学力を生かし『銀嶺の王者』では外国人俳優と共演。松竹の看板女優として活躍後も映画・舞台に出演し、’95年に毎日映画コンクール女優助演賞を受賞した。

俳優・女優 > 1960年代

─ 主な俳優・女優 (順不同) ─

1960

殿山泰司

新築地劇団の研究生として俳優の道を歩み始め、1939年『空想部落』で映画デビュー。戦中は中国戦線に出征し、復員後に殿山泰司と改名して映画界に復帰した。新藤兼人、吉村公三郎らと「近代映画協会」を設立し、『裸の島』『人間』などで主演、毎日映画コンクール主演男優賞などを受賞。以後、黒澤明や大島渚ら多くの監督に重用され、約300本の作品に出演した。晩年は「三文役者」を自称し、毒舌とユーモアのエッセイストとしても人気を博した。

丹波哲郎

大学卒業後に公社勤務を経て俳優を志し、1951年に新東宝へ入社。’52年『殺人容疑者』で主演デビューを果たす。以後、陰のある二枚目として悪役や敵役を多く演じた。新東宝退社後は五社英雄と組み、『霧と影』『白昼の無頼漢』などで主演。『豚と軍艦』『暗殺』『三匹の侍』などで人気を確立し、『007は二度死ぬ』など海外作品にも出演した。TBS系『キイハンター』では主演として国民的スターとなり、俳優養成所「丹波道場」で後進を育成した。

三國連太郎

27歳のとき東銀座を歩いていた際に松竹の小出孝にスカウトされ、松竹大船撮影所に演技研究生として入所。1951年、木下惠介監督の『善魔』で岡田英次の代役として映画デビューを果たす。以後、『ビルマの竪琴』『飢餓海峡』『犬神家の一族』『マルサの女2』など、社会派から娯楽大作まで180本を超える作品に出演。徹底した役作りで知られ、日本映画界を代表する名優として強烈な個性と存在感を放った。息子は俳優の佐藤浩市。

西村晃

1946年に東京芸術劇場の第一期生となり、翌年退団して東京青年劇場を結成。’51年に『風雪二十年』で映画デビューし、以後、映画やテレビで活躍。日活では悪役や敵役を多く演じ、『赤い殺意』で演技が評価され数々の賞を受賞した。声優としても活動。’82年12月、『水戸黄門』で東野英治郎の後任として二代目水戸光圀役に就き、悪役経験を活かしたユーモアと上品な風格で「シティボーイ黄門」と呼ばれ、お茶の間で人気を博した。

渥美清

1946年に舞台で活動を始め、’51年には浅草のストリップ劇場でコメディアンとして活動。’56年、テレビドラマで初出演、’58年に映画デビュー。’62年『あいつばかりが何故もてる』で映画初主演を務め、’63年『拝啓天皇陛下様』で俳優としての名声を確立。’68年より松竹映画『男はつらいよ』シリーズで車寅次郎役を演じ、27年間で48作に出演し国民的人気を獲得。舞台・テレビ・映画でコメディを中心に活躍し、日本を代表する名優となった。

大川橋蔵(二代目)

柳橋の芸妓の子として生まれ、幼少期に歌舞伎役者・市川瀧之丞の養子となり舞踊を学ぶ。1935年に市川男女丸として初舞台を踏み、’44年に二代目大川橋蔵を襲名。歌舞伎では娘役として頭角を現す。その後八代目市川雷蔵の勧めで映画界入りを決意し、’55年『笛吹若武者』でデビュー。その後『旗本退屈男』などの東映時代劇で活躍し、市川雷蔵・中村錦之助らと共に昭和30年代の映画黄金期を支えるスターとなった。

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丹波哲郎

(C)凡出版『週刊平凡』1月3日号(1963)

渥美清

(C)『中日新聞』1967年11月27日付夕刊

高倉健

(C)国際情報社 国際情報社『映画情報』第31巻1月号(1966)

勝新太郎

(C)キネマ旬報社 - 『キネマ旬報』1964年2月決算特別号

若山富三郎

1949年に和歌山富十郎に弟子入りし、’55年『忍術児雷也』で映画デビュー。『人形佐七捕物帖』などの時代劇に主演。’68年以降『緋牡丹博徒』『極道シリーズ』『前科者』などで任侠路線にコミカル要素を加え人気を獲得。’70年代は『子連れ狼』で拝一刀役を演じ、凄みある殺陣で代表作となる。白塗り二枚目から悪役まで幅広くこなし、テレビ・映画・舞台で活躍、主演・助演多数、ブルーリボン賞や日本アカデミー賞主演男優賞を受賞するなど、晩年までスター人生を全うした。

渡辺文雄

1954年に東京大学経済学部を卒業後、電通に入社。翌年松竹に出向し、’56年小林正樹監督の『泉』で映画デビュー。その後電通を退社し松竹専属俳優となる。’61年に松竹を退社し大島渚作品の常連となる。’60年代後半から’70年代前半には東映ヤクザ映画で悪役を多数演じ、現代インテリヤクザ役が定番となる。さらにフジテレビ系『くいしん坊!万才』初代リポーターとしても活躍し、お茶の間でも広く知られた。

二谷英明

1956年に日活第3期ニューフェイスとして入社し『沖縄の民』で映画デビュー。’57年に主演デビューを飾り、「ダンプガイ」の愛称で石原裕次郎らとともに活躍し、次第に貫禄ある準主演者として日活映画に欠かせない存在となる。’77年から『特捜最前線』で神代警視正役として主演、日産セドリックの専属CMキャラクターも務めた。晩年はボランティア活動に取り組み、カンボジアで学校建設に尽力した。妻は女優の白川由美、娘はトライグループ社長で元女優の二谷友里恵。

高倉健

1955年、東映ニューフェイス第2期生として入社。初期は美空ひばり作品やギャング映画に助演するも大きなヒットには恵まれず、’63年『人生劇場 飛車角』で準主役として任侠映画路線の足掛かりを掴む。’64年の『日本侠客伝』で主役に抜擢され、無口で禁欲的な任侠スター像を確立。以後、『網走番外地シリーズ』などで東映の看板スターとして活躍し、ストイックな生き方と耐え忍ぶ侠気あふれる役柄で人気を博した。歌手としても『網走番外地』『唐獅子牡丹』などの主題歌がヒットした。

勝新太郎

23歳で大映京都撮影所と契約し、1954年『花の白虎隊』でデビュー。初期は主演作が不評で人気は伸び悩むが、’60年『不知火検校』で野心的な悪僧を演じ評価を一新。その後、『悪名』『座頭市物語』『兵隊やくざ』などで不動の人気を獲得し、大映の大黒柱として市川雷蔵とともに「カツライス」と称され屋台骨を支えた。座頭市シリーズは国内外で高い評価を受け、勝の代表作となった。’61年に女優・中村玉緒と結婚し、プライベートでも話題を集めた。

天知茂

1951年、新東宝スターレットに選ばれ入社。’54年『恐怖のカービン銃』で初主演、’59年『東海道四谷怪談』の民谷伊右衛門役で注目される。’61年以降は大映と契約し時代劇を中心に準主演級で活躍し、『座頭市物語』の平手造酒役や『眠狂四郎無頼剣』の敵役で存在感を示す。’68年には舞台『黒蜥蜴』で明智小五郎役を当たり役とし、’66年にA&Aプロダクションを設立。ニヒルな個性派俳優として『非情のライセンス』や『江戸川乱歩の美女シリーズ』などテレビでも人気を博した。

仲代達矢

1952年、俳優座養成所第4期生として入所。’54年『七人の侍』で映画デビューし、’55年に俳優座に入団。舞台『幽霊』で注目され、’56年『火の鳥』で映画本格デビュー。以降、『裸足の青春』『大番』『黒い河』などで存在感を示す。フリーランスを貫き、’59~’61年の『人間の條件』で主演・梶役を務め、演技力を高く評価される。『切腹』や黒澤明監督作品『用心棒』『椿三十郎』『天国と地獄』などでも活躍し、映画・舞台双方で確固たる地位を築いた。

児玉清

東宝第13期ニューフェイスとして入社。’61年『別れて生きるときも』で頭角を現し、黒澤明監督作『悪い奴ほどよく眠る』で存在感を示す。’64年に東宝女優・北川町子と結婚し、’67年に東宝を退社してフリーに転身。テレビドラマ『ありがとう』で人気を獲得し、ホームドラマで活躍。’75年から『パネルクイズ アタック25』の司会を36年間務め、俳優・司会者として幅広く知られた。

田宮二郎

1960年代から’70年代にかけてクールな二枚目俳優として活躍。代表作は映画『悪名』シリーズ、映画・ドラマ『白い巨塔』、ドラマ『白い滑走路』『高原へいらっしゃい』など。ほかにクイズ番組『クイズタイムショック』の初代司会としてもお茶の間に長く親しまれた。’78年、ドラマ『白い巨塔』の放送が2回残ったタイミングで猟銃自殺を遂げ、世間は大きな衝撃とともに、まだ43歳という若さでの選択を悼んだ。

梅宮辰夫

1958年、東映ニューフェイス5期生として合格し、翌年『少年探偵団 敵は原子潜航挺』で主演デビュー。’60年代前半はアクションや任侠映画で活躍したが、’65年の『ひも』を皮切りに「夜の青春シリーズ」でプレイボーイ役が人気を博す。続く『不良番長シリーズ』で東映東京の看板スターとなり、コミカルな不良像を確立。’70年代には『帝王シリーズ』『仁義なき戦い』などで渋い存在感を放つ。病を経て俳優として円熟し、『前略おふくろ様』『新・夜明けの刑事』などで新境地を開いた。

赤木圭一郎

1958年、日活第4期ニューフェイスとして入社し、『紅の翼』で映画デビュー。西洋的な風貌と退廃的な魅力で注目され、「トニー」の愛称で人気を集めた。’59年『拳銃0号』で不良少年を演じて評判となり、『素っ裸の年令』で初主演。その後、石原裕次郎や小林旭らと共に「ダイヤモンドライン」の一員として活躍し、『拳銃無頼帖』シリーズなどで「第三の男」と称された。歌手としても哀愁ある低音で人気を得たが、’61年の撮影所での事故により21歳で急逝した。

千葉真一

日本体育大学在学中に体操事故で選手生命を断たれ、1959年に東映第6期ニューフェイスとして入社。’60年『新 七色仮面』で主演デビューし、深作欣二監督作品などでスタントなしの体当たりアクションを披露して注目された。『ファンキーハットの快男児』や『カミカゼ野郎 真昼の決斗』などで人気を高め、’68年の『キイハンター』で国民的スターに。’69年には俳優育成のためジャパンアクションクラブ(JAC)を設立し、日本のアクション界をけん引した。

赤木圭一郎

(C)キネマ旬報社 - 『キネマ旬報』1960年5月下旬号

千葉真一

(C)国際情報社 - 『映画情報』1965年6月号

北大路欣也

(C)国際情報社 - 『映画情報』1964年10月号

植木等

(C)平凡出版 (Heibon Shuppan) / キングレコード (KING RECORD CO., LTD.)

竜雷太

日本大学藝術学部を中退後、テレビタレントセンターを経て1962年に松竹入り。’65年、演出家エド・ダンダスの推薦で渡米し、サンフランシスコ・ステート・カレッジで演劇を学ぶ。帰国後、’66年『これが青春だ』の主演に抜擢され、一躍人気俳優となる。芸名は役名にちなむ「竜雷太」とした。’72年から『太陽にほえろ!』でゴリさんこと石塚誠刑事を10年間演じ、名実ともに代表作となった。降板後は『金曜日の妻たちへ』などで幅広い演技を見せた。

石坂浩二

1958年、エキストラ出演から芸能界に入る。’67年、浅利慶太に見出され劇団四季に入団し、演出助手や脚本も担当した。退団後は俳優業に専念し、NHK大河ドラマ『天と地と』(’69年)で上杉謙信を演じて初主演。以降『元禄太平記』『草燃える』など計12作品に出演する名優となった。’70年代にはTBSの好感度調査で3年連続1位を記録。’76年『犬神家の一族』で金田一耕助を演じ国民的な人気を得る。俳優のほかナレーターや脚本家としても活躍した。元妻は女優の浅丘ルリ子。

寺田農

1961年、文学座附属演劇研究所に第1期生として入所し、同年『十日の菊』で初舞台を踏む。’65年、五所平之助監督『恐山の女』で映画デビューし、学園ドラマ『青春とはなんだ』『これが青春だ』で人気を得る。’68年、岡本喜八監督『肉弾』で主演し、毎日映画コンクール主演男優賞を受賞。以後、岡本作品の常連として活躍した。’70年に劇団雲を退団後、実相寺昭雄や相米慎二監督作品で存在感を示す。『天空の城ラピュタ』のムスカ役でも知られる。

北大路欣也

1964年、『シラノ・ド・ベルジュラック』で舞台デビュー。’68年、大河ドラマ『竜馬がゆく』で主演し注目を集める。以後も『独眼竜政宗』『北条時宗』など大河作品の常連となる。’73年、『仁義なき戦い 広島死闘篇』に出演し、東映任侠映画でも存在感を示した。’77年の『八甲田山』では高倉健とともに主演し、第1回日本アカデミー賞主演男優賞を受賞。近年は「白戸家」CMのお父さん犬の声でも親しまれている。

高橋英樹

1961年、日活ニューフェース第5期として入社し『高原児』でデビュー。赤木圭一郎の後継的存在として注目を集め、『激流に生きる男』で初主演を果たす。’63年『伊豆の踊子』で吉永小百合と共演し、『男の紋章』シリーズなど任侠映画で人気スターとなった。’68年、大河ドラマ『竜馬がゆく』でテレビ進出し、以後『鞍馬天狗』などで時代劇俳優として地位を確立。『桃太郎侍』などで国民的人気を得た。のちに十津川警部役でも長年活躍し、テレビ時代劇の象徴的存在となった。

植木等

大学卒業後バンドマンとして活動を始め、その後ジャズ界で頭角を現したのち、クレージーキャッツの一員として人気を博す。1960年代には『スーダラ節』の大ヒットを経て、映画『無責任シリーズ』『日本一の男シリーズ』で国民的スターとなり、高度経済成長期を象徴する存在となった。音楽バラエティ番組『シャボン玉ホリデー』でのギャグ「お呼びでない?……お呼びでない、ね。こりゃまた失礼いたしました!」は国民の間で広く愛され、晩年まで多彩な喜劇性を保ち続けた。

小松方正

大蔵省勤務の傍ら演劇に魅了され、1951年に新演劇研究所へ入団。中央大学専門部卒業後に大蔵省を辞し、舞台『真空地帯』で注目を集めた。’59年に映画デビューし、大島渚の作品の常連となり存在感を示す。いかつい風貌と低い声を活かした悪役から人情味やコミカルな役柄まで幅広く演じ、日本映画を支える名脇役として活躍した。テレビのバラエティでも親しまれ、アンソニー・クインやブルート、ジャッキー映画の師匠役など声優としても知られる。

根上淳

1947年に大映演技研究所へ入所し、’49年『母三人』で本格デビュー。大映の若手スターとして活躍した。’56年には渡米してMGM映画『八月十五夜の茶屋』に出演し、’67年までに出演作は100本を超えた。その後はテレビに活動の場を移し『白い巨塔』の里見脩二役や『帰ってきたウルトラマン』の伊吹隊長役で存在感を示す。隊員服の階級表示を提案するなど作品への貢献も大きい。私生活ではペギー葉山と結婚し、おしどり夫婦として知られた。

小池朝雄

1950年に文学座付属演劇研究所へ入所し、『崑崙山の人々』で初舞台を踏むみ、後に劇団昴の中心俳優として活動した。映画・テレビでは東映や日活作品で存在感を示し、『仁義なき戦い』シリーズをはじめ狂気を秘めた悪役から善人まで幅広く演じた。声優としての評価も高く、ピーター・フォークの持ち役として吹き替えた『刑事コロンボ』のコロンボ役で広く知られ、その声は日本の視聴者に強い印象を残した。

杉浦直樹

日本大学芸術学部在学中に新協劇団の研究生となり、1950年に内田良平や小松方正らと新演劇研究所を設立して舞台で頭角を現した。映画では’57年『俺は待ってるぜ』でデビューし、翌年の『錆びたナイフ』で敵役として注目され、松竹入り後は二枚目役にも挑戦した。’60年代にフリーとなり、以後はテレビドラマに活動の主軸を移す。向田邦子作品をはじめ多くの名作で味わい深い演技を残した。2011年に肺腺癌のため79歳で死去した。

森次晃嗣

1965年のテレビドラマ『青春をぶっつけろ』で俳優デビュー。’67年、円谷プロ『ウルトラセブン』でモロボシ・ダン役を演じ人気を得る。’72年フリーとなり、テレビ『美しきチャレンジャー』『ウルトラマンレオ』『銭形平次』などに出演。’73年に芸名を森次晃嗣に改め、’87年から神奈川県鵠沼海岸でカフェレストラン「JOLI CHAPEAU」を経営。’97年には個人事務所を設立し、ウルトラ関連グッズの販売なども手掛けている。

常田富士男

高校卒業後に上京し、劇団民藝養成所を経て1960年に米倉斉加年らと劇団青年劇場を結成した。黒澤明監督の『天国と地獄』『赤ひげ』に出演し、テレビでは『バス通り裏』や『ゲバゲバ90分!!』で知られる。『木枯し紋次郎』『股旅』などで俳優として活躍し、’75年から’94年にかけて『まんが日本昔ばなし』で市原悦子と共に語りと全役を担当、代表的な仕事となった。市川崑作品にも多く起用された。後年は賞も受け、2018年に脳内出血で死去した。

保積ぺぺ

コルゲンコーワの「おめぇ、ヘソねえじゃねぇか」CMでデビュー。1966年には『丸出だめ夫』で主演に抜擢され、子役として広く知られる。’70年代前半には『飛び出せ!青春』『われら青春!』で山本大作役を演じ、明るく愛嬌のあるキャラクターで青春ドラマの時代を象徴する存在となった。以後も『太陽にほえろ!』をはじめ刑事ドラマや時代劇に多数出演、俳優として活動を続ける。’96年に目黒区で「ペペちゃん餃子」を開業したが、2005年に休業した。

1960

森光子

1935年『なりひら小僧 春霞八百八町』で映画デビューし、娘役として活躍。戦時中は陸軍慰問団に参加し、中国や南方戦線を巡回、赤木春恵と親交を結ぶ。終戦後は進駐軍キャンプでジャズ歌手として活動。’55年、朝日放送と専属契約を結び、『漫才学校』などのラジオ番組で人気を博す。テレビ黎明期からドラマに進出し、’63年『放浪記』で初主演を果たした後、『時間ですよ』『銀座わが町』などで国民的な「お母さん女優」として親しまれる。司会業にも進出し、『3時のあなた』では14年間メイン司会を務めた。

扇千景

1954年に宝塚歌劇団へ入団し、花組から映画専科に移り映画デビュー。’57年に中村扇雀と結婚し退団。’59年に『君はいま何を見つめている』で再デビューし文部省芸術祭奨励賞を受賞。以後『たまゆら』『大奥』などで活躍し、『3時のあなた』司会でも人気を得た。’77年参議院議員に初当選し、のちに運輸・建設両大臣、初代国土交通大臣を歴任。2004年には女性初の参議院議長となり、政界における女性の先駆的存在として知られた。

奈良岡朋子

1948年、民衆芸術劇場付属俳優養成所に第1期生として入所。’50年、劇団民藝の創設に参加し『かもめ』で旗揚げに出演。’54年『煉瓦女工』で初主演を果たし、それから中堅女優として活躍した。宇野重吉・滝沢修没後は大滝秀治と劇団を共同運営し、その後代表を務めた。舞台を中心に、テレビや映画にも出演し、橋田壽賀子・石井ふく子作品の常連でもあった。晩年は朗読劇『黒い雨』をライフワークとし、戦争の記憶を伝える女優として生涯を貫いた。

岸田今日子

高校卒業後、文学座付属演技研究所に入り、1953年『にごりえ』で映画デビュー。’60年『サロメ』で主役を務め、三島由紀夫演出作品などで存在感を示す。’63年に文学座を離れ、のちに演劇集団円の創設に参加し硬軟自在の演技を見せた。映画『砂の女』で国際的評価を得、『犬神家の一族』などの市川崑作品でも活躍。独特の声で『ムーミン』の声優としても親しまれ、舞台・映画・テレビ・ナレーションと幅広く日本演劇界を代表する名女優となった。

京塚昌子

高校卒業後に新派へ入団し、1955年「月夜鴉」で初主演、「離れ猪」「太夫さん」の演技で芸術祭奨励賞を受賞する。’59年からの『カミさんと私』で伊志井寛の妻役を演じ人気を得る。’63年に東宝演劇部入り。’68年『肝っ玉かあさん』で庶民的で温かい母親像を確立し、『ありがとう』などでも母親役として親しまれた。森光子や加藤治子らと並ぶ「日本のお母さん女優」と称され、石井ふく子作品の常連として活躍。晩年は病に苦しみながらも女優魂を貫いた。

森光子

(C)主婦と生活社『主婦と生活』1962年2月号

若尾文子

(C)『読切倶楽部』1960年1月号。発行所:三世新社

野際陽子

(C)集英社『週刊明星』9月26号(1963)

浅丘ルリ子

(C)1950年代のブロマイド

池内淳子

1955年『皇太子の花嫁』で映画デビューし『次郎物語』で注目される。’56年『新妻鏡』で初主演し、久保菜穂子・三ツ矢歌子とともに「新東宝現代劇の三羽烏」と呼ばれた。結婚・離婚を経て一時引退するが’60年に復帰。『日日の背信』などのヒットで人気女優となり、『女と味噌汁』シリーズで代表的なテレビ女優としての地位を確立する。清楚で芯の強い女性像を演じ、長くお茶の間に親しまれた。晩年まで舞台やドラマで活躍し、2008年に旭日小綬章を受章した。

岡田茉莉子

1951年、東宝ニューフェイス第3期として入所し、成瀬巳喜男監督の『舞姫』で準主役デビュー。知的で艶のある美貌と確かな演技力で東宝の看板女優となる。’57年に松竹へ移籍し『秋日和』など小津安二郎、木下惠介ら名匠の作品に出演し、’62年の主演『秋津温泉』で映画賞を受賞。以後も映画・舞台・テレビで活躍し、晩年は『温泉若おかみの殺人推理』シリーズの大女将役で親しまれた。

若尾文子

1951年に大映第5期ニューフェイスとして入社。翌年映画デビューし、’53年の『十代の性典』で注目を集める。溝口健二監督の『祇園囃子』で演技力を認められ、京マチ子・山本富士子と並ぶ大映三大女優の一人となる。可憐さと情念を併せ持つ演技で『妻は告白する』『赤い天使』など名作に出演し、日本映画黄金期を代表する存在となった。大映倒産後はテレビや舞台でも活躍し、『武田信玄』の語りで再び注目を浴びた。

司葉子

1954年、短大在学中に雑誌モデルをきっかけに東宝と契約し、『君死に給うことなかれ』で映画デビュー。清楚で上品な美貌から「東宝の良家の娘」像を体現し、看板女優として活躍した。’66年の『紀ノ川』で主要映画賞を総なめにし、日本映画界を代表する名女優となる。’69年に大蔵官僚の相澤英之と結婚後は公私にわたり夫を支え、のちに日本大正村村長や大学特任教授としても活動。2003年に紫綬褒章、2010年に旭日小綬章を受章した。

白川由美

頌栄女子学院高等学校在学中に「森永スイート・ガール」に選ばれ、1956年にスカウトで東宝入りし『ならず者』で映画デビュー。「日本のグレース・ケリー」と称され、清楚な魅力で特撮からホームドラマ、令嬢役まで幅広く活躍した。’61年には小津安二郎『小早川家の秋』にも出演。’64年、日活スター二谷英明と結婚し、家庭を持ったのを機に活動の中心をテレビへ移し、’80年代には母親役で高い人気を博した。

中村玉緒

歌舞伎俳優・二代目中村鴈治郎を父に持ち、1953年に松竹映画でデビュー。’54年に大映へ入り、脇役として経験を積む。可憐な娘役から、’70年代には健気な母親役で存在感を示しテレビでも活躍する。大映時代に出会った勝新太郎とは互いに惹かれ合い結婚。晩年は勝を支え、病床で彼が楽しめるようバラエティ出演を増やした。勝の葬儀では笑顔で見送り、東京タワーのミニチュアを置くという希望を貫くなど、一途な愛情を貫いた。

ひし美ゆり子

高校時代に「ミス東京セニョリータ」準ミスとなり東宝入りし、1966年にデビュー。初期は本名で活動し、のちに菱見百合子へ改名。『ウルトラセブン』の友里アンヌ隊員役で人気を得た。’72年の東宝退社後、東映作品へ出演し、成人映画から任侠映画まで幅広く活躍し現在の芸名に改める。テレビドラマ・時代劇でも多数の役を務めた。近年はトークショーや円谷プロ関連イベントを通じてファンとの交流を続けている。

有馬稲子

1948年に宝塚音楽学校へ進み、’49年に入団して二代目有馬稲子を襲名し、主演娘役として活躍した。’51年に東宝『宝塚夫人』で映画デビューし、同年『せきれいの曲』で初主演。’53年に宝塚を退団して東宝専属となり、’54年には文芸プロ「にんじんくらぶ」を設立する。’55年に松竹へ移籍し看板女優として活躍した。錦之助との華やかな結婚と離婚を経て、’65年以降は劇団民藝で演技を学び直し、舞台とテレビを中心に活動した。

中原早苗

高等学校在学中の1953年、『村八分』で主演級デビューを果たし、現代ぷろだくしょんに所属して山村聡のもとで所作を学んだ。『蟹工船』など独立プロ映画で活躍後、’55年に水の江瀧子の誘いで日活と契約し「日活パールライン」の一員として8年間に約80本へ出演した。’64年以降はフリーで東映作品などに出演し演技の幅を広げた。私生活では川地民夫との事実婚を経て、’65年に深作欣二と結婚。深作没後は公の場から退き、2012年に心不全で亡くなった。

野際陽子

1958年にNHKへ入局し、名古屋放送局を経て東京で人気アナウンサーとなる。’62年に退職後、TBS『女性専科』などで司会を務め、’63年に女優デビュー。’66年にパリ留学し、帰国後は日本初のミニスカート姿で話題を呼んだ。’68年『キイハンター』で大ブレイク。’73年に千葉真一と結婚し、一女をもうける。’90年代には『ずっとあなたが好きだった』で冬彦の母役を怪演し、名姑女優として再評価された。上品さと知性を兼ね備えた国民的女優であった。

佐久間良子

1957年に東映ニューフェイス第4期で入社。’58年『美しき姉妹の物語・悶える早春』で映画デビューし、鶴田浩二との共演作品で注目される。’60年代には社会派映画や文芸作品で演技力を評価され『人生劇場 飛車角』『五番町夕霧楼』『湖の琴』などで主演。’67年以降はテレビと舞台に活躍の場を移し、NHK大河ドラマ『おんな太閤記』で女性主役を務める。舞台では菊田一夫演劇大賞や文部省芸術祭賞を受賞し、長年にわたり女優としての地位を確立した。

浅丘ルリ子

1954年、中学在学中に『緑はるかに』のヒロインオーディションで約3,000人から選ばれ、浅丘ルリ子として映画デビュー。日活の看板女優として小林旭や石原裕次郎のアクション・ムード映画のヒロインを務め、’64年に歌手デビューも果たす。’66年には専属契約を解消し石原プロに移籍、自ら企画や役柄を選ぶなど女優としての自己主張を強めた。蔵原惟繕監督作品では愛と葛藤を描く役で熱演。映画出演本数は150本以上に上り、歌手としても活動し、幅広い分野で活躍した。

樫山文枝

1960年、東京文化高校卒業後、俳優座養成所第12期および劇団民藝俳優教室を経て劇団民藝に入団。’66年、連続テレビ小説『おはなはん』で18歳から84歳までの主人公を1人で演じ、お茶の間の人気を得る。2010年の「心に残る朝ドラヒロイン」アンケートでは第1位に選ばれた。政治活動にも関わり、’67年・’71年の東京都知事選で美濃部亮吉を支持した。伯父は大手アパレルメーカー・オンワード樫山創業者の樫山純三。

岩下志麻

1958年、NHKドラマ『バス通り裏』で女優デビュー。’60年に篠田正浩監督『乾いた湖』で映画初出演し、以後松竹の看板女優として活躍。小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』のヒロインを務める。’66年に篠田と結婚し、独立プロ「表現社」を設立、『心中天網島』などを発表。その後『極道の妻たち』シリーズで女優としての地位を確立。2000年に『キネマ旬報』の日本女優10位、同年紫綬褒章、2012年旭日小綬章を受章。

吉永小百合

(C)『映画情報』1966年9月号。発行所:国際情報社

岩下志麻

(C)国際情報社 - 『映画情報』1965年4月号

山本陽子

(C)国際情報社 - 『映画情報』1966年6月号

加賀まりこ

(C)国際情報社 - 『読切倶楽部』1964年5月号

山本陽子

高校卒業後は野村證券に勤務していたが、1963年に日活第7期ニューフェイスとして芸能界入り。映画作品からテレビに進出後は清楚な美貌と確かな演技で人気を確立した。’71年に舞台『放浪記』で初舞台、’80年『花埋み』で初主演。『黒革の手帖』などで幅広い役柄を演じ、舞台『おはん』で菊田一夫演劇賞を受賞。山本海苔店のイメージモデルとして42年間にわたり専属契約し、専属タレント契約における世界最長記録として2010年にギネス認定された。

浜美枝

中学卒業後、東急バスの車掌として勤務していたが、1959年に東宝のコンテストをきっかけに入社。’60年『若い素肌』でデビューし、星由里子・田村奈巳とともに「東宝スリーペット」として人気を得る。『クレージー映画』のマドンナ役で活躍し、’67年『007は二度死ぬ』でボンドガールを演じ国際的注目を浴びた。’70年に東宝を退社後は司会業やラジオパーソナリティとして活躍。ライオン「トップ」などのCMでも知られ、’90年代初頭に女優業を退いた。

加賀まりこ

映画プロデューサーの父をもつ芸能一家に生まれ、高校在学中の1960年、篠田正浩と寺山修司にスカウトされ『東京タワーは知っている』でデビュー。’62年に松竹と契約し『涙を、獅子のたて髪に』で映画デビュー、『月曜日のユカ』で人気を確立する。「和製ブリジット・バルドー」と呼ばれ、小悪魔的美貌と奔放な言動でも注目を集める。’64年にパリへ渡り芸術家たちと交流、帰国後は劇団四季『オンディーヌ』で舞台女優としての地位を築いた。

松原智恵子

1960年、高校生の時に「ミス16歳コンテスト」に入賞し、『夜の挑戦者』で端役としてデビュー。日活では青春映画やアクション映画のヒロインとして活躍し、吉永小百合・和泉雅子とともに「日活三人娘」と呼ばれた。清純で上品な美貌で人気を博し、’67年のブロマイド売上では女優部門1位となる。’69年『恋のつむじ風』で初主演。’71年に日活を離れた後はテレビドラマに活動の場を移し、NHK大河ドラマやテレビ小説、TBS東芝日曜劇場をはじめ多数のドラマで活躍した。

吉永小百合

1957年、小学生でラジオドラマ『赤胴鈴之助』に出演しデビュー。’59年に松竹映画『朝を呼ぶ口笛』で映画初出演し、’60年に日活入り。’62年『キューポラのある街』でブルーリボン賞主演女優賞を受賞し、橋幸夫とのデュエット「いつでも夢を」も大ヒットした。浜田光夫との純愛映画で「日活の看板女優」となり、松原智恵子・和泉雅子とともに「日活三人娘」と呼ばれた。現在も”サユリスト”と呼ばれる熱狂的ファンと支持者を持つ、押しも押されもしない国民的大女優。

前田美波里

アメリカ人の父と日本人の母のもとに生まれる。小学4年でクラシックバレエを始め、高校進学を機に上京。1963年、文化学院在学中に“ミス・ノー・ストリング”に選ばれ東宝現代劇に入団し、翌年初舞台。’66年、資生堂キャンペーンガールで注目を集め、’68年マイク眞木と結婚。離婚後、劇団四季『コーラスライン』で再起し、以降舞台を中心に活躍。2008年資生堂CMに41年ぶりに出演し、2024年菊田一夫演劇賞特別賞を受賞した。

由美かおる

小学6年で西野バレエ団に入団。1966年『11PM』で歌って踊れるタレントとしてデビューし、網タイツ姿で注目を集める。翌年「レ・ガールズ」を結成し人気を確立。歌手としても多くの楽曲を発表した。’73年『同棲時代』で初ヌードを披露し話題を呼び、以後本格的女優へ転身。’76年『トラック野郎・天下御免』にも出演。’86年から『水戸黄門』で「かげろうお銀」として親しまれた。2019年に歌手活動を再開し、2023年港区観光大使に就任した。

俳優・女優 > 1970年代

─ 主な俳優・女優 (順不同) ─

1970

大滝秀治

1948年、東京民衆芸術劇場附属俳優養成所に入所し、翌年初舞台を踏む。’50年、宇野重吉らと劇団民藝の創設に参加。’70年の舞台『審判』で初主演し、紀伊國屋演劇賞を受賞して注目を集めた。以後、民藝の看板俳優として活躍し、2011年に文化功労者に選ばれた。映画では『不毛地帯』『華麗なる一族』などで重厚な演技を見せ、市川崑・伊丹十三作品の常連として知られる。テレビでは『特捜最前線』の船村刑事役などで親しまれ、晩年まで個性派俳優として活躍した。

天本英世

東京大学法学部に入学し外交官を志すが、政治への失望と失恋を機に中退し俳優座に入団。1954年、オペラ『オテロ』で初舞台を踏み、木下惠介監督『女の園』『二十四の瞳』で映画デビューする。長身の二枚目俳優として出発するが、’58年に東宝と専属契約を結び、次第に特異な個性派俳優として頭角を現し、岡本喜八作品の常連となる。’72年『仮面ライダー』の死神博士役で強烈な印象を残し、後年『平成教育委員会』で知的キャラクターとして再注目された。

小沢昭一

1949年、俳優座付属養成所二期生として千田是也に師事し初舞台を踏む。’60年に「劇団俳優小劇場」を結成し、新劇寄席『とら』で芸術祭奨励賞を受賞。映画では川島雄三や今村昌平作品に多数出演し、’69年以降は日本の伝統芸能や放浪芸の研究・収集に力を注ぐ。’75年には劇団「芸能座」を旗揚げ、’82年には一人芝居の「しゃぼん玉座」を創設して晩年まで公演を続けた。ラジオ番組『小沢昭一的こころ』では約39年間レギュラーを務め、俳人としても活動した。

財津一郎

榎本健一映画演劇研究所で演技を学び、帝劇ミュージカル研究生を経て1955年に石井均一座へ入門。関西を拠点に舞台経験を積み、’62年に吉本興業入り、’64年に吉本新喜劇で「財津一郎」と改名した。「ヒッジョーにキビシ〜ッ!」「〜してチョーダィ!」などの独特のギャグで人気を博し、『てなもんや三度笠』の蛇口一角役で全国的に知られる存在となる。’70年代には喜劇だけでなくドラマや映画にも出演。1981年『連合艦隊』で見せた重厚な演技が高く評価された。

藤岡琢也

1957年に劇団「葦」に入団し、翻訳劇『俺たちは天使じゃない』で初舞台を踏む。当初は声優として活動したが、’66年にテレビドラマ『事件記者』でレギュラー出演し知名度を高めた。映画では『喜劇 頑張れ!日本男児』で主演を務め、『社長シリーズ』などで中間管理職や小悪党を演じた。テレビでは’90年からの『渡る世間は鬼ばかり』で五人姉妹の父・岡倉大吉役を務め晩年の代表作となる。’69年から2004年まで、長年にわたり「サッポロ一番みそラーメン」のCMにも出演した。

田中邦衛

短大卒業後、岐阜で中学の代用教員を務めたが、教師としての自信を持てず俳優を志す。俳優座養成所第7期生として入所し、1957年に映画『純愛物語』でデビュー。’61年の『大学の若大将』で青大将役を好演し、シリーズのレギュラーとなる。その後「仁義なき戦いシリーズ」などで脇役として存在感を示す。’73年に俳優座を退座してフリーとなる。’81年以降はテレビドラマ『北の国から』の黒板五郎役で全国的に知られ、CMや舞台でも活躍した。

菅原文太

早稲田大学在学中に劇団四季に入団し、1956年に映画『哀愁の街に霧が降る』でデビュー。新東宝で「ハンサムタワーズ」の一員として主演作も務めた。’67年に東映へ移籍、’69年『現代やくざ 与太者の掟』で東映初主演。その後『仁義なき戦い』『トラック野郎』シリーズなどでスターとなり、任侠・実録映画の代表的存在となった。’80年代以降は大河ドラマや刑事ドラマでも活躍し、声優・ナレーターとしても活動。’98年には岐阜県清見村に移住し農業や講演にも関心を示した。

平幹二朗

俳優座養成所五期生として1956年に初舞台『貸間探し』に出演し、端整な容姿と迫力ある演技で注目された。’63年『三匹の侍』の桔梗鋭之介役で人気を集め、’68年にフリーとなり劇団四季で『ハムレット』など主役を務め舞台俳優として高く評価される。テレビでは大河ドラマに7回出演、映画でも『他人の顔』『天城越え』『帝都物語』などに出演し、演出家としても活動。’98年に紫綬褒章、2005年に旭日小綬章を受章した。

森山周一郎

日本大学藝術学部映画学科中退後、劇団東芸、オールアウトを経てオフィス森山に所属。1954年に舞台『長女』で初主演し、同年NHK連続ドラマ『夢見る白鳥』でテレビデビュー。その後、映画や刑事ドラマ『特別機動捜査隊』などで活躍し、特に時代劇やアクション作品で黒幕や暴力団幹部など重厚な悪役を演じた。声優としても活動し、ジャン・ギャバンやチャールズ・ブロンソンの吹き替えを担当、アニメ『紅の豚』ではポルコ・ロッソ役が有名。

里見浩太朗

1956年に東映ニューフェイスとして入社し、翌年『天狗街道』で本格デビュー。芸名は『里見八犬伝』にちなみ’70年に現名に改名。’67年からテレビ時代劇に進出し、『仮面の忍者 赤影』や刑事ドラマで活躍。’71年から『水戸黄門』で佐々木助三郎を16年半にわたり演じ、さらに『大江戸捜査網』『長七郎江戸日記』など多くの主演作を持つ。華麗な殺陣と重厚な芝居を併せ持ち、時代劇俳優として不動の地位を確立した。

緒形拳

1958年に新国劇に入団。’60年『遠い一つの道』で映画デビューし、’65年には大河ドラマ『太閤記』の主役に抜擢され、翌年も『源義経』で武蔵坊弁慶を演じ大河ドラマ常連となる。その後映画・テレビで活躍し、テレビ時代劇『必殺仕掛人』の藤枝梅安役で人気を獲得。’78年『鬼畜』主演で多数の男優賞を受賞し、『復讐するは我にあり』でも主演。’99年『あつもの』でフランス・ベノデ映画祭グランプリを受賞するなど、重厚な演技で映画・ドラマの両面で高い評価を得た。

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田中邦衛

(C)近代映画社『近代映画』第18巻第9号

平幹二朗

(C)婦人生活社『婦人生活』2月号(1966)

田村正和

(C)国際情報社『映画情報』第31巻第11号(1966)

藤竜也

(C)William He

山城新伍

医師の道を諦め1957年に東映ニューフェイス第4期として入社、’58年『台風』で映画デビュー。’60年『白馬童子』でテレビ時代劇初主演、子供たちから人気を集めた。’60年代後半以降は東映不良路線・任侠映画で個性派俳優として頭角を現し、「ミスター・プログラムピクチャー」と呼ばれた。’70年代からはテレビ主演作やバラエティ司会で活躍し、巧みな話術とユーモアで人気を博す。日清食品 「どん兵衛」のCMにも川谷拓三とともに10年以上(’76~’90年頃)出演した。

加藤剛

俳優座養成所13期生として入所し、1962年『人間の條件』でテレビドラマ初主演を果たす。舞台でも安部公房作『お前にも罪がある』で連続2時間演技を行うなど、早くから実力を示した。’70年から2006年まで『大岡越前』で主演を務め、約36年間にわたり看板俳優として活躍。熊井啓監督作品の映画主演や大河ドラマ『風と雲と虹と』『獅子の時代』でも主演し、近現代史ドラマにも出演した。芸能活動以外では健康日本21推進国民会議の委員や健康大使としても活動した。

原田芳雄

1962年に俳優座養成所15期生として卒業し、劇団俳優座準座員・座員を経て’67年『天下の青年』でテレビデビュー、翌年『復讐の歌が聞える』で映画デビューした。当初は純朴な青年役だったが、ワイルドでアウトロー的なキャラクターへと転身し、’74年『竜馬暗殺』で主役を演じ新境地を開いた。以後も100本以上の映画に出演し、圧倒的存在感と的確な演技力で監督や若手俳優から信頼を集め、晩年は映画賞受賞や紫綬褒章受章。ナレーションや音楽活動など多岐にわたり活動した。

中村敦夫

1959年に俳優座養成所を経て劇団俳優座に入団し「花の12期」として若手リーダー的存在となるが、劇団内の左翼傾向と対立し、’71年に市原悦子・原田芳雄らと共に退団。同年の大河ドラマ『春の坂道』で石田三成役を演じ注目され、’72年『木枯し紋次郎』で主役紋次郎役に抜擢され人気を獲得した。’80年代以降は『中村敦夫の地球発22時』『ザ・サンデー』などで司会を務め、ジャーナリストや作家としても活動し、多彩な分野で活躍した。

渡哲也

1964年に日活に入社し、翌年『あばれ騎士道』でデビュー。空手部出身の腕前を生かしたアクションで新人賞を受賞し、裕次郎2世として売り出される。『東京流れ者』『無頼シリーズ』『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』など日活ニュー・アクションで人気を確立。’71年、石原プロに入社し、石原プロテレビドラマ『大都会』『西部警察』で角刈りサングラスのトレードマークを確立。石原裕次郎の死去後は石原プロ二代目社長に就任し、俳優・プロデューサーとして長年活躍した。

藤竜也

大学在学中に銀座でスカウトされ日活に入社し、1962年『望郷の海』で映画デビュー。’71年、旧日活体制最後の一般映画『不良少女 魔子』出演後にフリーとなり、東映アクション映画などに出演。’73年、テレビドラマ『時間ですよ』で謎の男・風間役を演じて静かにブレークし、’74年には歌手デビューを経て映画『任侠花一輪』で初主演を果たした。その後も『悪魔のようなあいつ』や『ミセスとぼくとセニョールと!』などで活躍し、俳優・歌手としての地位を確立した。

近藤正臣

京都で松竹のエキストラをしていた際、その端正な顔立ちと演技力を評価され上京。映画デビューは今村昌平監督の『エロ事師たちより 人類学入門』での息子役だが、その後は東映京都で端役を重ねた。1971年、ドラマ『柔道一直線』のライバル・結城真吾役で一気に人気を獲得し、『冬の雲』『春の嵐』『地の果てまで』などでも活躍。’73年大河ドラマ『国盗り物語』の明智光秀役や2006年『功名が辻』の細川幽斎役でも注目され、映画・舞台・ドラマで幅広く活躍した。

中尾彬

1961年に日活ニューフェイス第5期として合格し、映画『真昼の誘拐』で正式デビュー。’71年にフリーとなり映画やテレビで活動を開始。’75年に映画『本陣殺人事件』で金田一耕助を演じ、’78年からテレビ『暴れん坊将軍』で初代徳川宗春役を務めて当たり役となる。’90年以降は『極道の妻たち』シリーズや『ゴジラvsメカゴジラ』以降のGフォース麻生司令官役などでも活躍し、映画・テレビの各分野で幅広く活動した。妻は女優の池波志乃。

田村正和

阪東妻三郎の三男で、田村高廣・田村亮とともに「田村三兄弟」と呼ばれた。1961年、松竹大船『永遠の人』で正式デビュー。’66年には主演映画『空いっぱいの涙』でレコードデビューも果たし、同年フリーとなる。’70年のテレビドラマ『冬の旅』で注目され、以降は繊細で憂いを帯びた二枚目として人気を得た。『眠狂四郎』などの主演で時代劇スターとして地位を確立し、「憂愁の貴公子」と称された。’94年の『古畑任三郎』では知的で風変わりな刑事を演じ、新境地を開いて国民的な当たり役とした。

松方弘樹

近衛十四郎、水川八重子の長男で、弟は俳優の目黒祐樹。1960年、17歳で東映映画『十七歳の逆襲・暴力をぶっ潰せ』で主演デビュー。’68年に元モデルの夏子と結婚し、長男・目黒大樹、長女・七重、次女・なちをもうけるが’78年に離婚。’79年に仁科亜季子と再婚し、次男・仁科克基、三女・仁科仁美をもうけ、’99年に離婚。華やかな私生活も芸能マスコミで大きく注目された。’70年代中期の東映実録ヤクザ映画に数多く出演した。

石立鉄男

1961年に俳優座研究生第13期生として入所。アルバイトで学費を稼ぎながら演劇を学び、’63年テレビドラマ『愛の系譜』でデビュー。’64年に文学座研究生となり、映画『血とダイヤモンド』で映画デビュー。’70年に文学座退団後は其田事務所の筆頭俳優としてテレビに活動の場を移し、’70年代以降『おくさまは18歳』『気になる嫁さん』『パパと呼ばないで』などホーム・コメディで人気を博し、「水曜夜8時の男」と称される個性派俳優となった。

岸田森

法政大学在学中に俳優を志し中退、1960年に文学座附属演劇研究所へ入団した。’62年に初舞台、’65年に座員となる。’66年に退団して六月劇場を結成し、以後は映画・テレビで個性派俳優として活躍。『氷点』で本格的にテレビ進出し、『怪奇大作戦』が演技の転機となった。’71年、東宝の『血を吸う』シリーズで吸血鬼を演じ「和製ドラキュラ」と称される。『帰ってきたウルトラマン』での坂田健役、『傷だらけの天使』辰巳五郎役でも知られる。

竹脇無我

アナウンサー竹脇昌作の三男として生まれ、青山学院大学法学部を卒業。家計を支えるため16歳で松竹大船撮影所に入社し、1960年『しかも彼等は行く』でデビュー。’65年『アンコ椿は恋の花』で初主演を果たし、田村正和と並ぶ松竹の看板俳優として売り出された。’70年『姿三四郎』、’72年『人生劇場』でスターとなり、知的で穏やかな二枚目像を確立。「理想の夫ナンバーワン」と称された。若者向け情報番組の『ヤング720』の司会も務め、幅広い世代で人気を得た。

古谷一行

中央大学法学部卒業後、俳優座養成所第16期生として俳優の道に進む。1977年からの『横溝正史シリーズ』で金田一耕助役を長期にわたり演じ、代表作となる。’82年からの『混浴露天風呂連続殺人』シリーズでも主演し、親しみある名優として定着。さらに『松本清張スペシャル・わるいやつら』など清張作品の常連として重厚な演技を見せた。長男はDragon Ashの降谷建志で、映画『手紙』では父子共演を果たすなど、多方面にわたり活動した。

蟹江敬三

高校在学中に舞台を経験し、俳優を志す。1964年、劇団青俳に研究生として入団後、蜷川幸雄らと「現代人劇場」へ移り演技力を磨く。’70年代には映画やドラマで狂気的な悪役を多く演じ強烈な存在感を示した。ドラマ『熱中時代』以降は人情味ある善人役へ転身し、個性派俳優として地位を確立。以後は刑事や父親役などで親しまれ、日本を代表する名バイプレーヤーと評された。2002年から『ガイアの夜明け』のナレーションも務めた。

江守徹

高校卒業後、19歳で文学座に入団。映画好きで早くから俳優を志したが、商業的な「ニューフェイス」には反発し、杉村春子や宇野重吉らが所属する新劇の世界に魅せられたことが入団の動機となった。1963年に初舞台を踏み、端正な風貌と確かな演技力で頭角を現す。以後、舞台・テレビ・映画で俳優、演出家、脚本家として幅広く活躍。シェイクスピア劇などに造詣が深く、戯曲翻訳やオペラ演出にも挑戦。『連想ゲーム』などバラエティにも出演し、知的かつユーモアある個性を示した。

黒沢年雄

東宝ニュータレント第4期生として東宝に入社し、映画『女体』でデビュー。岡本喜八や福田純らの作品に多く出演し人気を得る。’70年代以降はテレビドラマに活動の場を広げ、アクションからホームドラマまで幅広い役柄を演じた。独特の低音ボイスによる「やすらぎ」「時には娼婦のように」がヒット。42歳で『さんまのまんま』出演を機にバラエティでも注目され、平成期にはCMでも話題となる。近年は夢グループのコンサートで全国を巡演している。

杉良太郎

1965年に「野郎笠」で歌手デビューし、翌年日活入り。’67年にNHK『文五捕物絵図』で主演を務め、’70年には映画『花の特攻隊 ああ戦友よ』で主演した。’75年にCBSソニーへ移籍し、「なやみ」がヒット。’76年『遠山の金さん』で人気を確立し、主題歌「すきま風」はミリオンセラーとなった。社会貢献にも尽力し、ベトナムに多数の里子を持つ。紫綬褒章・文化功労者など数々の栄誉を受けている。妻は演歌歌手の伍代夏子。

藤岡弘

愛媛県出身の俳優・武道家。1964年に劇団NLT俳優教室に入り、翌年松竹に入社し映画『アンコ椿は恋の花』でデビュー。’71年『仮面ライダー』の本郷猛役で一躍人気を得る。’73年『日本沈没』で主演し大ヒットを記録。以降『勝海舟』『特捜最前線』などで重厚な存在感を示した。’84年には『SFソードキル』で国際的に注目されるが、’80年代後半に不遇を経験。’97年「せがた三四郎」CMで再ブレイクし再評価された。その後も探検隊シリーズなどで幅広く活動している。

渡哲也

(C)国際情報社 - 『映画情報』1967年4月号

竹脇無我

(C)国際情報社『映画情報』第31巻1月号(1966)

大滝秀治

(C)文部科学省ホームページ

杉良太郎

(C)文部科学省ホームページ

仲谷昇

1950年に文学座附属演劇研究所に入所。’53年に映画『にごりえ』で初出演し、以降『猟人日記』などで主演を務め、舞台・映画・テレビで活躍。’63年に文学座を脱退後、’75年に演劇集団 円を結成。’81年から同劇団代表を務めた。テレビでは教授・首相など地位の高い役柄を多く演じ、『キイハンター』や『大戦隊ゴーグルファイブ』の科学者役で知られる。また『カノッサの屈辱』や『マジカル頭脳パワー!!』でも印象的な役を務めた。

藤田まこと

父・藤間林太郎の一座に雑用係として参加したのが俳優活動の始まりで、17歳で歌謡ショーに出演して初舞台を踏む。1962年に時代劇コメディ『てなもんや三度笠』で主演に抜擢され人気を博す。’73年、時代劇『必殺仕置人』で中村主水役に起用され、硬軟自在な演技で人気を確立。シリーズ終了後も『はぐれ刑事純情派』や『剣客商売』などで長年主演を務めた。コメディからシリアスまで幅広く演じ、晩年までテレビ・舞台で活躍した。

戸浦六宏

1960年に『太陽の墓場』で映画デビューし、冷酷なやくざ役で個性的な悪役として評価を得た。同年『日本の夜と霧』にも出演し、大島組を経て本格的に俳優に転向。その後は大島作品に出演、『戦場のメリークリスマス』にも出演した。一般には’61年の『新選組始末記』で土方歳三役として知られる。鋭い目と深い隈が特徴の名悪役で知られつつ『野性の証明』では温厚な編集局長役も演じた。’63年には『週刊テレビジョッキー』の司会も担当した。

中丸忠雄

1955年に東宝ニューフェイスとして入社し、『ゴジラの逆襲』で端役出演、’57年『別れの茶摘歌姉妹篇 お姉さんと呼んだ人』で本格デビュー。’59年『独立愚連隊』で注目され、岡本喜八作品に多数出演。渋い低音の声と精悍な容貌を生かし、敵役や軍人役で存在感を発揮。’68年『37階の男』で主演し、同年に東宝を退社。その後はテレビドラマや舞台を中心に活躍し『キイハンター』などに出演、時代劇では家老役、刑事ドラマでは人間味ある上官役を演じた。

中条静夫

神戸製鋼所のセールスマンを経て1948年に大映へ入り、大部屋俳優として通行人役からキャリアを始める。’50年代半ばから脇役として頭角を現し、’71年の大映倒産まで在籍。その後は劇団欅、続いて劇団昴に所属した。テレビでは’65年開始の『東京警備指令 ザ・ガードマン』で小森隊員を演じて人気を得、以降多くのドラマで活躍。倉本聰脚本の『6羽のかもめ』を代表作とし、山口百恵の『赤いシリーズ』や『あぶない刑事』でも印象を残した。

神山繁

1952年に文学座へ演出部研究生として入座。’63年に芥川比呂志らと文学座を離れ、福田恆存を中心に現代演劇協会・劇団雲を結成し、シェイクスピア劇や『黄金の国』『罪と罰』などで存在感を示した。’75年に芥川と共に雲を脱退し、演劇集団 円の創設に参加。舞台と並行して映画・テレビでも活躍し、冷徹な悪役から知的な役まで幅広く演じ、市川崑、岡本喜八らに重用された。『ザ・ガードマン』榊隊員役で知られ、いかりや長介と親交が深かった。

穂積隆信

1951年に俳優座養成所3期生を卒業後、劇団新人会や劇団新劇場に所属し、脇役として映画やテレビドラマに出演。腰巾着や悪役を中心に活躍し、洋画吹き替えではイーライ・ウォラックやクリストファー・ロイドを担当した。娘との葛藤を描いたノンフィクション『積木くずし』シリーズで注目を集め、ドラマや映画化もされた。晩年は再婚した妻・玲子の介護を行い、2018年に胆嚢がんにより87歳で死去した。

名古屋章

1949年にNHK東京放送劇団養成所に入所し、’52年にラジオドラマ『ぼたもち』で主演し芸術祭賞を受賞。’59年に文学座へ入団、’63年に劇団雲の創立に参加し、’75年の解散後はフリーで舞台やテレビ・映画で活躍。クセのある敵役や悪役を得意とし、『帰ってきたウルトラマン』のナレーターや『ウルトラマンタロウ』の朝日奈勇太郎隊長役で知られる。’91年から『ひょっこりひょうたん島』の2代目ドン・ガバチョ役を務め、2003年に肺炎で72歳で死去した。

平泉成

高校卒業後にホテルで勤務中、市川雷蔵の紹介で1964年に大映京都第4期ニューフェイスに選ばれ、’66年に「平泉征」として正式デビュー。大映特撮映画やテレビドラマに出演し、’71年秋の大映倒産後はフリーで活動。’84年に芸名を「平泉成」に改名し、中間管理職的役や父親役、悪役など幅広い人物像を演じるバイプレイヤーとして活躍。北野武、三池崇史、山田洋次らの作品に出演し、コミカル演技やバラエティ番組にも挑戦した。

川津祐介

慶應義塾大学医学部在学中の1958年、兄の縁で木下惠介の勧めを受け『この天の虹』でデビュー。『人間の條件』で寺田二等兵役を演じ、松竹の青春スターとして人気を得る。退社後は敵役や個性派にも活路を広げ、『ザ・ガードマン』や『スパイキャッチャーJ3』でアクションスターとして活躍した。『Gメン’75』の事故で長期入院するが、家族で出演したCMで再起する。晩年は大学教授も務め、2022年に慢性心不全で死去した。

若林豪

専修大学中退後の1965年に劇団新国劇へ入り、島田正吾の直弟子として俳優人生を始めた。芸名は若々しさと猛々しさを込めて名付けられた。’68年『顎十郎捕物帳』で主演しテレビ俳優として注目され、’70年代には『Gメン』シリーズで人気を確立し、5年間にわたりレギュラーを務めた。大河ドラマでは真田幸村役を複数回演じ、’89年からは『赤い霊柩車』の狩矢警部役が当たり役となり、2023年の最終作まで続いた。舞台や司会の場でも広く活躍した。

松田優作

1972年に文学座付属演技研究所に入所。’73年『太陽にほえろ!』のジーパン刑事役で人気を獲得し、劇的な殉職シーンが社会現象となった。翌年『竜馬暗殺』で原田芳雄と共演し、映画『あばよダチ公』で初主演。’76年の不祥事による活動自粛を経て『暴力教室』『ひとごろし』で復帰。’79年『蘇える金狼』『探偵物語』などで独自の存在感を確立し、硬派で孤高なイメージを持つ俳優として時代を代表するスターとなった。

中山仁

1965年「劇団NLT」でデビュー。’66年に現芸名へ改めて注目を集め、映画・舞台にも進出する。’67年には五所平之助監督作『宴』で主演に抜擢され、エランドール新人賞を受賞。’70年代以降はテレビを中心に活動し、『サインはV』の鬼コーチ役で広く知られる存在となる。『七人の刑事』『ウルトラマン80』など幅広いジャンルへ出演し、CMでもコミカルな魅力を見せた。

森田健作

高校卒業後、歌のレッスンを経て、1969年映画『夕月』で俳優デビューし、役名を芸名とした。’71年のテレビドラマ『おれは男だ!』など学園ドラマで人気を博し、「青春の巨匠」と呼ばれた。’80年代以降は時代劇や司会業に転じる。’92年に参議院議員に初当選し、のちに自民党に合流。’98年に衆議院議員に転じた後、2009年に千葉県知事選で初当選し、3期務めた。2021年に政界を引退し、旭日重光章を受章した。

萩原健一

高校在学中にスカウトされ、1967年ザ・テンプターズのボーカルとして「忘れ得ぬ君」でデビュー。「エメラルドの伝説」などのヒットで人気を得る。解散後、PYGを経て映画『約束』で俳優に転身、ドラマ『太陽にほえろ!』の初回から登場したマカロニ刑事で人気を確立。その後『傷だらけの天使』『前略おふくろ様』などで独自の存在感を放つ。音楽活動も続け、「愚か者よ」などを発表。波乱の私生活を経ながらも俳優・歌手として熱い支持を集めた。

山﨑努

1960年、岡本喜八監督の『大学の山賊たち』で映画デビュー。’63年に劇団雲の結成に参加し、同年『天国と地獄』で誘拐犯を演じて注目を集める。’73年『必殺仕置人』の念仏の鉄役で人気を得、鋭い存在感を放つ俳優として地位を確立。’77年『八つ墓村』の殺人鬼・多治見要蔵役で強烈な印象を残した。’80年『影武者』で助演男優賞を受賞し、以後も伊丹十三監督作品などで名演を重ねる。2000年に紫綬褒章を受章。

峰岸徹

1962年、東宝映画でデビューし、若者文化の象徴「六本木野獣会」の中心的存在としても知られた。端正な容姿で「和製ジェームス・ディーン」と呼ばれたが、その二枚目イメージゆえに演技評価に悩んだ時期もある。俳優座養成所、文学座研究所を経て大映と契約し、新人賞を受賞。1975年に芸名を峰岸徹と改める。ドラマ『風と雲と虹と』の悪役、『高校教師』の衝撃的な父親役、『古畑任三郎』の上司役など幅広い演技で印象を残した。大林宣彦作品の常連として独特の存在感を示し、『ゴジラvsビオランテ』でも高評価を得た。

津川雅彦

俳優一家に生まれ、1945年『狐の呉れた赤ん坊』で子役として映画デビュー。’56年、日活映画『狂った果実』で本格デビューし一躍人気俳優となる。松竹移籍後は低迷するが、’72年『必殺シリーズ』で悪役として再起。以後は伊丹十三監督作品『マルサの女』『スーパーの女』などで存在感を示し、’99年『プライド・運命の瞬間』で東條英機役を演じ日本アカデミー賞を受賞。マキノ雅彦名義で監督業にも進出した。

小野寺昭

高校卒業後に上京し、人形劇団「やまいも」で『チロリン村とくるみの木』の人形操作を担当しながら芝居の基礎を学んだ。1969年『パンとあこがれ』で俳優デビュー。NHK『ナタを追え』『冬の雲』などで誠実な青年像を演じ注目される。’72年『太陽にほえろ!』の島刑事(殿下)役で人気を確立し、女性層を中心に絶大な支持を得た。以後『黄金の日日』の小西行長役、『御宿かわせみ』の神林東吾役などで存在感を示し、端正な容姿と知的な演技で長く愛された。

原田大二郎

1967年に明治大学法学部を卒業後、劇団文学座に入座し俳優となる。’70年に映画デビュー、その後『裸の十九才』で初主演を果たしエランドール新人賞を獲得。’75年『Gメン’75』の関屋一郎警部補役で全国に知られるが、短期降板となった。映画では『蒲田行進曲』や『敦煌』、舞台では蜷川幸雄演出作品など多数出演。『ハウルの動く城』では犬・ヒン役で話題となる。1980年代後半、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』でバラエティにも進出した。

倉田保昭

日本大学卒業後、東映演技研修所第一期生として1966年にテレビドラマ『丸出だめ夫』でデビュー。’71年に香港のショウ・ブラザーズのオーディションに合格し、『続・拳撃悪客』で香港映画デビュー、以降悪役俳優として活躍し、日本では’75~’79年『Gメン’75』で草野泰明刑事役でレギュラー出演。東映製作のカラテ映画や格闘映画で助演・主演を務め、ジャッキー・チェンとの縁で、アジア映画界でアクション俳優として長く活動した。

岡本富士太

1966年に東京芸術座附属演劇研究所を卒業し同年劇団雲に入団、’75年に演劇集団円の会員となる。’74年の『事件狩り』出演を機に『バーディー大作戦』や『Gメン’75』に参加し、初代メンバーの津坂真一刑事役を’75~’77年まで務めた。その後『中学生日記』で美術担当教師・南浩平役(’89~’96年)、東映スーパー戦隊シリーズ『高速戦隊ターボレンジャー』などにも出演。洋画吹き替えでも活躍し、ハリソン・フォードやメル・ギブソンの声を担当した。

谷隼人

1966年、東映入りし『非行少女ヨーコ』で準主演デビュー。和製アラン・ドロンと称され、バイクの腕を活かして「不良番長シリーズ」や「網走番外地シリーズ」、「夜の歌謡シリーズ」などで活躍。’68年から『キイハンター』に主演の一人として出演し人気を獲得し、『アイフル大作戦』『バーディー大作戦』でもレギュラーを務めた。その後はドラマやバラエティで幅広く活動し、’86年から『風雲!たけし城』で攻撃隊長役を務め注目された。

水谷豊

1965年、12歳で劇団ひまわりに入団し、’67年『マグマ大使』で俳優デビュー。’74年萩原健一主演『傷だらけの天使』に出演し注目を集め、以降も『水滸伝』や『東京湾炎上』など映画・ドラマで多彩な役を演じた。’78年『熱中時代(教師編)』で主演し大ブレイク、理想の教師像として社会現象に。俳優として不遇の時期も経験したが、2000年台になってからもドラマ『相棒』主演の杉下右京役で永く活躍を続ける。妻は元・キャンディーズの伊藤蘭。

藤田まこと

(C)放送ジャーナル社『PRエコノミー』9月号(1961)

水谷豊

(C)urasimaru

草刈正雄

(C)Ogiyoshisan

露口茂

1959年、日活映画『逃亡者』でデビュー。その後舞台や映画、テレビで活躍し、悪役から好青年まで幅広く演じる個性派俳優として知られる。’69年には『水戸黄門』第一部で刺客役を演じ、’71年のNHK連続テレビ小説『繭子ひとり』では北川編集長役で人気を博した。’72年から’86年までの13年9か月、刑事ドラマ『太陽にほえろ!』で山村精一警部補(落としの山さん)を演じ代表作となる。以降、約10年間は映画から離れテレビを中心に活動した。

竜雷太

1960年に日本大学藝術学部を中退し、テレビタレントセンター三期生となった。’62年に松竹入社後、’66年、テレビドラマ『これが青春だ』で主演デビューし、同作の役名から芸名「竜雷太」となる。’68年からは『東京バイパス指令』に出演。’72年より『太陽にほえろ!』で石塚誠刑事役を10年間演じ、525話出演、現場では新人教育も担当した。『太陽にほえろ!』降板後は『金曜日の妻たちへ』などで幅広く活躍した。

下川辰平

1954年にラジオ九州の放送劇団に入団し俳優活動を開始。’64年に文学座附属演劇研究所に入所し、’68年に座員に昇格。舞台『飢餓海峡』や『天守物語』などに出演後、’72年より『太陽にほえろ!』で野崎刑事役「長さん」としてレギュラー出演し人気を獲得。刑事役を得意とした。’84年には『スクール☆ウォーズ』で山城晋平校長を演じ、生徒目線の教育者像を示す役柄を演じ、代表作となった。

勝野洋

大学在学中にモデル活動を始め、CM出演を機に俳優の道へ。芸名は本名から「六」を除いて命名。1974年に『太陽にほえろ!』の三上順役で人気を獲得し、計38話に主演。’76年『俺たちの朝』で主演、’78年に映画デビューし、『姿三四郎』などで主演を務めた。時代劇では『柳生あばれ旅』の柳生又十郎や『鬼平犯科帳』の酒井祐助を演じた。’77~’86年には『リポビタンD』CMで宮内淳と名コンビとして人気を博した。妻は元モデルのキャシー中島。

木之元亮

テレビドラマ制作主任だった友人の義兄の勧めで俳協演劇研究所に入り、俳優を志す。1977年、『太陽にほえろ!』の新人刑事役選考中に松田優作が写真を見て推したことから、ロッキー刑事としてデビューし、5年超の当たり役となる。降板後はトレードマークの髭をドラマ内で剃り、映画『ションベン・ライダー』や『真田太平記』などに出演。近年は『ウルトラマンダイナ』で隊長役を務め、旅番組や通販番組でも活動した。

三田村邦彦

アルバイトで生計を立てつつ劇団青俳を受け、1979年に推薦を受けて『限りなく透明に近いブルー』でデビュー。同年、「必殺シリーズ」で飾り職人の秀を演じ、華麗な殺し技と陰影ある佇まいで人気を得る。’82年からは『太陽にほえろ!』でジプシー刑事として活躍。’80年より歌手活動も開始しており、多数の作品を発表、近年はインディーズで活動を再開した。また「城マニア」を自認し、歴史探訪番組でも個性を発揮している。

地井武男

1963年、俳優座養成所15期生として入所し、原田芳雄や林隆三らの同期と学んだ。’66年に卒業後、オンシアター自由劇場の創立に参加し舞台で活躍。その後は映画『斬る』でデビューし社会派大作から日活ニューアクション系まで幅広い作品に出演。善人から冷酷な悪役まで自在に演じる実力派として評価された。’82年から『太陽にほえろ!』に出演し人気を得る。中年期以降は自然体の役柄が増え、2006年開始の『ちい散歩』で“散歩の達人”として親しまれた。

前田吟

1963年に劇団俳優座養成所15期生として俳優活動を始め、’64年に本名でテレビデビュー。’67年に芸名を前田吟に改め、’69年より『男はつらいよ』シリーズで寅次郎の妹さくらの夫・諏訪博役を務め、全50作に出演した。’70年代以降は橋田壽賀子作品や大映ドラマで悪役も演じ、『心』の宮寺順一役などで代表作を築いた。テレビ・ラジオの司会も担当し、歌手活動も行い、近年はバラエティ番組やトーク番組など幅広く活躍。

左とん平

1957年、高校の同級生らと劇団を結成後、冗談工房に入団しバラエティ番組『トリロー・サンドイッチ』に参加。芸名は本名肥田木の「左」と居酒屋の「とん平」から由来する。’60年代後半にはザ・ドリフターズの喜劇映画に出演し、’70年代のテレビドラマ『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』でコメディリリーフとして人気を博した。’73年のギャグ「ヘイ・ユー! ホワッチャー・ネーム?」は流行語となり、レコード化もされた。

石橋正次

高校卒業後に上京し、舞台俳優を志す。1970年、藤田敏八監督に見出され、日活映画『非行少年 若者の砦』で主演デビュー。同年『あしたのジョー』の舞台と映画で主演し、歌手としても『あしたの俺は』でデビューした。’71年には朝ドラ『繭子ひとり』で主人公の生き別れた弟を演じ注目される。歌手としては『夜明けの停車場』が大ヒット。以降、学園ドラマの不良役から刑事役、時代劇、舞台まで幅広い役をこなす名脇役として活躍した。

柴俊夫

獨協大学中退後モデルとして芸能界入り。1970年『ゴールドアイ』で本名の柴本俊夫名義で俳優デビューし、翌年『ゴジラ対ヘドラ』で映画初出演。『ミラーマン』パイロット版や『シルバー仮面』で主演を務め、「柴俊夫」と改名した。『金閣寺』や『愛と誠 完結篇』で幅広い役を演じ、’70年代後半からドラマ主演が続く。’83年『西部警察 PART-III』で「大将」を演じ、必殺シリーズにも参加。司会業やバラエティでも親しまれる存在となった。

石橋蓮司

1954年、中学生で劇団若草に入り『ふろたき大将』で主役デビュー。17歳で東映児童劇団へ移り、大学中退後の’65年に劇団青俳養成所で本格的に演技を学ぶ。青俳脱退後は清水邦夫、蜷川幸雄、蟹江敬三らと現代人劇場を結成し、多くの舞台で演出も手がけた。2008年には東映の若手育成企画「東映大学」の校長に就任。2016年には『ふろたき大将』の役を60年ぶりに再演し話題を呼んだ。2020年『一度も撃ってません』で18年ぶりに長編映画主演を果たした。

小倉一郎

小学生で東映エキストラとなり、9歳で子役として活動を始めた。美空ひばり主演作や『飢餓海峡』に出演し、梅宮辰夫の勧めで東映児童研修所に入る。1964年の日活映画『敗れざる者』で本格デビュー。青年期はテレビ・映画の青春ドラマでナイーブな青年役を多く演じ人気を得た。俳優業と並行し、秋山啓之介名義で童謡を創作し自ら歌唱、のちに俳句に傾倒して河内静魚に師事し、NHKの俳句コーナーも担当する俳人としても知られる。

岩城滉一

1975年『青春讃歌 暴力学園大革命』で俳優デビューし、同年『爆発! 暴走族』で初主演。舘ひろしと共に暴走族映画で売り出され、不良性感度の高い若者文化を芸能界に広めた。’77年に覚醒剤使用と拳銃所持で逮捕され一時活動停止するも、松田優作らの支えで更生。’81年以降は『北の国から』など倉本聰脚本のドラマに出演し人気を回復。’85年にはマキシムコーヒーのCM出演で「最もセクシーな男」と評され、俳優としての地位を確立した。妻はタレントの結城アンナ。

中村雅俊

慶應義塾大学在学中の1973年に文学座附属演劇研究所に入所し、卒業と同時に文学座に入団。’74年『太陽にほえろ!』の出演で俳優デビューし、青春ドラマ『われら青春!』の主役で人気を獲得。挿入歌『ふれあい』は100万枚超を売り上げ、一躍全国的な知名度を得る。以降、テレビドラマ、映画、ミュージカル、CMに出演する一方、歌手としても毎年コンサートを行い活動を継続。’74年映画『ふれあい』で映画デビュー、’75年『俺たちの旅』の主演でさらに人気を拡大した。

草刈正雄

1969年17歳で上京し、’70年に資生堂専属モデルとしてデビュー。甘いルックスと軽快な語り口で人気を集め、’73年ドラマ『トリプル捜査線』で俳優に転向。’74年に東宝専属となり『卑弥呼』で銀幕デビューし、『沖田総司』で新人賞を受賞。’77年、ドラマ『華麗なる刑事』で主演し人気を確立。’80年、大作映画『復活の日』の主役に抜擢され、以降『汚れた英雄』『真田太平記』など幅広い役を演じ舞台にも挑戦した。’90年代以降は悪役や父親役の名脇役として活躍した。

小林稔侍

高倉健に憧れ、第10期東映ニューフェイスに合格して俳優となる。東映のアクション映画や刑事ドラマで殺され役を多くこなし下積みを重ねた後、深作欣二の推薦でピラニア軍団に加わり『新仁義なき戦い』で端役から抜擢を受けるなど評価を高めた。『冬の華』では無言の演技が絶賛され、その後は善人役も増加。1986年の『はね駒』で主人公の父役を務めて転機を迎え、2時間ドラマでは主演作も多く、松本清張作品の常連として確固たる地位を築いた。

村野武範

1969年にNHKドラマ『走れ玩具』で主演デビュー。’71年の映画『八月の濡れた砂』で注目を浴びる。’72年の学園ドラマ『飛び出せ!青春』の熱血教師役で人気を不動のものとした。以後、映画・テレビドラマ・バラエティ・CMなど多方面で活躍し、’88~’90年には料理番組『くいしん坊!万才』の七代目くいしん坊も務めた。また、フジテレビの『ゴールデン洋画劇場』ではブルース・ウィリスの専属吹き替えを担当し、声優としても高い評価を受けた。

藤木孝

1959年、歌手としてデビューし、卓越した歌唱とダンスでツイスト・ブームを牽引、「ツイスト男」と呼ばれ人気を博した。’62年に歌手引退を宣言し俳優へ転身。文学座研究生を経て劇団欅の結成に参加、舞台で演技力を磨いた。’74年に藤木敬士へ改名後『夜明けの刑事』などで活躍の幅を広げる。歌手経験を活かしミュージカルに多数出演するとともに、特異な存在感で悪役や怪優としても評価され、菊田一夫演劇賞や紀伊國屋演劇賞など受賞歴も豊富。生前はホリプロ所属で異色のキャリアを歩んだ実力派俳優。

沖雅也

1968年16歳でスカウトされ、日活映画で銀幕デビュー。’69年にエランドール新人賞を受賞し、松竹移籍後は『さぼてんとマシュマロ』などで主演や準主役を務め、’73年、ドラマ『必殺仕置人』の棺桶の錠役で注目を集める。’76年から『太陽にほえろ!』でスコッチ刑事役として人気を獲得した。俳優として将来性を期待されつつも、躁うつ病や過密スケジュールに悩まされ、’83年6月28日、東京都新宿区のホテルから飛び降り自殺し、31歳で生涯を閉じた。

田中健

高校時代にバンドでベースを担当し、卒業後は博多のナイトクラブでR&B演奏に従事。1972年に「あおい健」として歌手デビュー後、事務所倒産を経て俳優に転身し、田中健の芸名で活動を開始。’74年の連続ドラマ『春のもつれ』で俳優デビューし、『俺たちの旅』など青春映画やテレビで若者の葛藤を演じ人気を博す。年齢を重ねるにつれ陰影ある演技で存在感を示すバイプレイヤーとしても評価される。1990年以降はケーナ奏者としても活動。

津坂 匡章(秋野太作)

俳優座出身。1967年、木下恵介劇場『記念樹』(TBS)で俳優デビュー。旧芸名は津坂 匡章。秋野太作に改名する前から放送開始された’75年のテレビドラマ『俺たちの旅』で女性にモテる“グズ六”役を演じ人気を得る。俳優座時代から女性ファンが多く、『男はつらいよ』シリーズにも出演した。独特のキャラクターで知られ、バラエティ番組や旅番組にも積極的に出演し、明石家さんまを驚かせる存在感を発揮。娘・早紀との共演も多い。

森川正太

小学5年で劇団こまどりに入り、子役として活動を始めた。高校はドラマ出演で登校できず留年を告げられ中退。代表作『おれは男だ!』には子役時代の劇団の推薦で出演し、剣道未経験ながら森田健作の指導で初段程度まで上達した。1975年の青春ドラマ『俺たちの旅』では、カースケらと同じ下宿に住む東大志望の浪人生・浜田大造(ワカメ)役で人気を得る。その後も青春ドラマを中心に親しみある若者像を演じた俳優として知られる。

宮内洋

『仮面ライダーV3』の主演はオーディションではなく候補者リストから選ばれて内定した。『キイハンター』ロケ中に突然呼び出され、面接と知らずにふてぶてしい態度をとったことが豪胆さと受け取られ、起用につながった。千葉真一から学んだアクション理論を武器に、変身前の動きを増やすよう積極的に提案し、普通の俳優にはできないスタントにも挑んだ。「ヒーロー番組は子供達に正義の心を教える教育番組」という信念を貫く人物である。

1970

山岡久乃

1942年に宝塚音楽舞踊学校へ入学するが戦時下で舞台に立たないまま中退。終戦後に俳優座養成所で学び直し、’46年に俳優座入りし初舞台を踏む。1954年に青年座を結成し日活映画でも活躍。’60年代は映画とテレビの両方で脇役として存在感を示し、’70年のテレビドラマ『ありがとう』で母親役が支持され、「お母さん女優」として不動の地位を築く。以後多くのホームドラマで温かい母親像を演じ「日本のお母さん」として親しまれた。

菅井きん

1946年に東京芸術劇場の研究生に応募し、翌年『林檎園日記』で初舞台を踏む。芸名は作者・久保栄による命名。その後俳優座に入り舞台経験を積み、’51年に映画『風にそよぐ葦』でデビュー。’59年に俳優座を退団後は、にんじんくらぶや劇団欅を経て映像作品にも活動を広げた。’73年『必殺仕置人』で中村主水をいびる姑・中村せん役を演じ人気を確立し、必殺シリーズに欠かせない存在となる。憎々しさを研究して作り上げた当たり役で広く知られた。

吉行和子

1954年に女子学院高等学校を卒業し民藝付属研究所に入所。’55年に初舞台と映画デビューを果たし、’57年に民藝所属となる。『アンネの日記』で主役を得るが端役が続く中、’59年に日活と契約し助演賞を受賞。’69年に独立後は舞台・映画で評価を高め、’78年『愛の亡霊』で日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞。文筆でも受賞歴を持つ。結婚と離婚を経験し、その後は独身。舞台は2009年のアンコール公演で一区切りとし、2025年に肺炎で死去した。

江波杏子

1960年に映画『明日から大人だ』でデビュー。芸名は母の芸名と室生犀星の小説『杏っ子』に由来する。初期は悪女役や情婦役の助演が続いたが、’66年『女の賭場』で代役として主演した胴師役が当たり大ヒット。「女賭博師シリーズ」は17本に及び、当たり役として名を広めた。大映倒産後の’73年、『津軽じょんがら節』でキネマ旬報主演女優賞を受賞し、日本的な女の顔と魔性的な魅力が結実した代表作と評価された。

緑魔子

台湾に生まれ宮崎で育ち家計を支えながら学び、上京後にNHK演技研究所を経て1963年に東宝のニュータレントとなる。’64年『二匹の牝犬』で大胆な演技を見せ初主演し新人賞を受賞。「小悪魔路線」の個性派として人気を得る。その後他社映画で個性を発揮し『盲獣』など芸術性の高い作品にも出演した。’70年代にはアングラ演劇へ傾倒し、石橋蓮司と劇団「第七病棟」を設立。独特の倦怠感と虚無性を湛えた演技で“無気力演技派”の源流とされた。

岸田今日子

1960年『サロメ』で主役に抜擢され、三島由紀夫演出作に多数出演して舞台女優として頭角を現す。映画では『破戒』で助演女優賞を受賞し、『砂の女』で初主演して国際的に高い評価を得る。市川崑作品の常連として存在感を示し、『この子の七つのお祝いに』での怪演も話題となった。テレビでも『男嫌い』『傷だらけの天使』などの人気ドラマで強烈な存在感を示し、硬軟自在の個性派として広く知られた。

倍賞千恵子

幼少期から「のど自慢」荒らしとして知られ、1954年に歌手デビュー。その後松竹音楽舞踊学校に進み、’60年に首席卒業してSKD入りすると早くから逸材と注目された。’61年に松竹にスカウトされて映画界デビュー。’63年『下町の太陽』で主演して庶民派女優としての地位を確立し、同作でレコード大賞新人賞を受賞するなど歌手としても人気を得た。以後山田洋次作品の常連となり『男はつらいよ』シリーズの妹さくら役で国民的存在となった。

小林千登勢

京城府に生まれ、戦後に福岡へ引き揚げ、その後東京に移った。共立女子高等学校卒業後に文学座研究生となり、1958年にNHKと専属契約を結ぶ。清純さと哀愁を帯びた美貌で人気を集め、馬渕晴子・冨士眞奈美とともに「NHK三人娘」と呼ばれ、テレビ草創期を代表する存在となった。’65年に山本耕一と結婚し、’72年に一人娘を出産。フリー後もテレビで活躍し、『ヒントでピント』では13年間レギュラーとして親しまれた。

大空眞弓

東洋音楽短期大学在学中に歌舞伎座前でスカウトされ、1958年に新東宝へ入り『女王蜂』でデビュー。その後は東京映画へ移籍し『駅前シリーズ』などの喜劇で活躍する。’64年『愛と死をみつめて』で不治の病に挑む大島みち子役を演じ、大ヒットとともにお茶の間の人気を確立した。以降、石井ふく子作品の常連となり『ありがとう』など多くのテレビドラマで親しみあるヒロイン像を築く。清楚さと芯の強さを併せ持ち、昭和期の家庭劇を支えた存在だった。

江波杏子

(C)Daiei Motion Picture Company

緑魔子

(C)国際情報社 - 『映画情報』1965年2月号

岸田今日子

(C)婦人生活社 - 『婦人生活』1954年9月号

倍賞千恵子

(C)桃園書房 - 『小説倶楽部』1962年3月号

太地喜和子

1959年、東映ニューフェイス第6期に合格し、志村妙子名義で映画出演を始めた。’63年に東映を離れて俳優座養成所に入りのちに文学座へ。舞台女優として杉村春子の「後継者」と期待される一方、’67年『花を喰う蟲』などで体当たりの演技を見せ注目を集めた。ドラマ『白い巨塔』などでも存在感を示す。私生活では恋多き女として知られるが、生涯独身を貫き女優として生きることを選んだ。晩年は緑内障に苦しみ、’92年に公演中の事故で48歳で死去した。

悠木千帆(樹木希林)

悠木千帆(のちの樹木希林)は1961年、文学座付属演劇研究所の一期生として入所。父が考えた芸名で活動を始め、杉村春子の付け人として小津安二郎『秋刀魚の味』の撮影にも同行。’64年、森繁久彌主演のテレビドラマ『七人の孫』で人気を得る。文学座には正座員となるも’66年に退団。以降、向田邦子作品や久世光彦演出作などで個性派として存在感を発揮し、’70年『時間ですよ』、’74年『寺内貫太郎一家』で全国的な人気を確立した。

富司純子

1963年、東映京都撮影所でマキノ雅弘にスカウトされ映画デビューした。’67年に『尼寺㊙物語』で初主演、翌’68年『緋牡丹博徒』で緋牡丹のお竜役に抜擢され、任侠路線の看板女優として一躍スターの地位に就く。シリーズは大ヒットし、東映を代表する存在となった。’72年、尾上菊之助(現・七代目菊五郎)と結婚し一度引退するが、’74年に寺島純子名義で『3時のあなた』司会として復帰し、のちに女優業にも戻った。

倍賞美津子

1965年、松竹音楽舞踊学校卒業後、松竹歌劇団第18期生として舞台デビュー。’67年、『純情二重奏』で映画デビュー。’71年にアントニオ猪木と結婚、旗揚げ戦にも貢献する。’79年、『復讐するは我にあり』でヌードを披露しブルーリボン助演女優賞を受賞、都会的な女の情念を演じ独自の世界観を確立。’88年離婚後も女優業を継続し、’97年に直腸がんで手術。2002年、『OUT』などで田中絹代賞を受賞するなど、舞台・映画・テレビで幅広く活躍した。

大原麗子

1962年に芸能界入りし、’64年『幸福試験』でテレビデビュー。’65年東映入社、’71年に渡辺プロに移籍、以降はテレビドラマで「しっとりとした日本的美人」を演じ、『春日局』では平均視聴率32.4%を記録。映画『男はつらいよ』ではマドンナ役を2度務め、存在感ある演技力で橋田壽賀子や石井ふく子からも高く評価された。「すこし愛して、ながーく愛して」のセリフで知られるサントリーレッドのCMでも10年間にわたり親しまれた。

中原ひとみ

共立女子高等学校を中退後、東映ニューフェイス第1期生として入社し、1954年『魚河岸の石松 女海賊と戦う』でデビュー。『純愛物語』で原爆後遺症に苦しむヒロインを演じ高い評価を受け、’58年にはベルリン国際映画祭で同作が銀熊賞を受賞して国際的注目を集めた。’60年代初頭まで東映現代劇の看板女優として活躍し、江原真二郎と結婚。以後はテレビドラマに活動の中心を移し、家族4人で出演したライオン歯磨の長期CMでも広く親しまれた。

岡田可愛

中学2年で『キューポラのある街』に出演して映画デビュー。続くテレビドラマ『青春とはなんだ』では明るくお転婆な女生徒役で人気を確立。以後、学園シリーズに132本連続出演し、“皆勤賞女優”として親しまれた。1969年には国民的ドラマ『サインはV』で主役に抜擢され、スポ根ブームの象徴的存在となる。のちに結婚・出産を機に女優業を一時離れ、アパレル事業へ転身したが、人気タレントとしてバラエティ出演も続けた。

范文雀

東京都中野区に生まれ、広島市で育った台湾籍の俳優で、中国語は話せなかった。幼少期に父が帰国し、母と兄とともに広島の祖父母宅で育つ。清泉女子大学英文別科を経て上智大学を中退。’68年『特別機動捜査隊』でデビューし、『サインはV』のジュン・サンダース役で人気を得る。続く『アテンションプリーズ』でも注目され、寺尾聰との結婚・離婚を経て復帰。映画『野良猫ロック』シリーズや『Gメン’75』などで幅広く活躍した。

榊原るみ

幼少期から雑誌モデルや子役として活動し、舞台・テレビ・映画で幅広く活躍した女優。1970年代前半に『男はつらいよ 奮闘篇』やテレビドラマ『帰ってきたウルトラマン』のヒロイン役、『気になる嫁さん』などへの出演で人気を獲得した。父は芝浦工業大学名誉教授の榊原秋策。娘の松下恵も女優で、2001年に映画監督すずきじゅんいちと再婚し、彼の監督作『ひとりね』では従来の清純派像を覆す役柄にも挑戦した。

柏木由紀子

高校2年時に松竹映画『明日の夢があふれている』(1964年)で映画デビューし、翌年『若い真珠』で歌手としてもデビューした。玉川学園短期大学を中退後、ドラマ『東京の人』のヒロイン起用を機に東宝テレビ部に所属し、テレビドラマを中心に活躍。’69年『炎の青春』、’70年『細うで繁盛記』で人気を確立した。’71年に坂本九と結婚し活動を抑えつつ福祉活動に尽力。’85年の夫の死後は女優業に加え講演活動も行っている。

早瀬久美

映画『紀ノ川』の端役で銀幕デビューし、1968年にフジテレビ系ドラマ『お嫁さん』で初主演を果たした。1971年、日本テレビ系『おれは男だ!』でヒロイン吉川操役を演じ、作品の大ヒットとともに代表作となる。以後、多くのテレビドラマで活躍し、’75年には毎日放送『奥さん2時です』の司会も務めた。’78~’79年は早瀬久美子と改名。’80年に結婚し渡米、女優業を離れるが、帰国後は陶芸教室を主宰し地震研究にも関心を示している。

秋吉久美子

高校3年生時にラジオで知った松竹映画のヒロインオーディションを受け、本名で『旅の重さ』に出演して芸能界入り。その後、赤福もちのCMで活動開始。1973年、『十六歳の戦争』で本格映画デビューし、’74年『赤ちょうちん』で注目を集めた。以降、『妹』『バージンブルース』などで人気を確立し、’70年代のシラケ世代を代表する存在となる。’79年に青い三角定規のメンバーで作曲家の岩久茂と結婚。出産で一時休業後も復帰し、女優活動を続ける。

沢田雅美

1964年、10代半ばでTBSオーディションに合格し『ただいま11人』でデビュー。若手時代から石井ふく子プロデュース作品に常連出演し「石井組」の一員として知られた。’67年『泣いてたまるか』や’80年『心』の沢木三和役で評判を得る。’94年に表舞台から姿を消すも、2005年『渡る世間は鬼ばかり』第7シリーズで復帰し、ドラマ・舞台・バラエティで活躍。日本舞踊・華道の師範、小唄・書道名取でもある。

梶芽衣子

1965年、日活から本名太田雅子で映画デビュー。『青春前期 青い果実』主演を経て、’69年芸名を梶芽衣子に改名し注目される。’70年『野良猫ロックシリーズ』で人気を獲得後、’72年に東映へ移籍し『銀蝶シリーズ』『女囚さそりシリーズ』で不動の地位を確立。特に『女囚さそり』では演出を自ら提案するなど独自性を発揮した。東映退社後も『修羅雪姫シリーズ』など各社で主演し、国内外で高い評価を受け、タランティーノら海外監督にも影響を与えた。

中山麻理

1960年代後半からクールな美貌と成熟した雰囲気で活躍した女優。’66年に東宝演芸部へ入り、’68年『兄貴の恋人』で映画デビューしてエランドール新人賞を受賞。翌年『不信のとき』で初舞台を踏み、TBSドラマ『サインはV』で広くお茶の間に知られる存在となった。’80年に三田村邦彦との結婚を機にいったん引退。離婚後の’99年から芸能活動を再開し、再び女優としての道を歩んだ。

桃井かおり

1971年、市川崑監督『愛ふたたび』で映画デビュー。文学座養成所を退団後、ATG映画やNHKドラマに出演し、’75年『前略おふくろ様』で人気を獲得。’77年『幸福の黄色いハンカチ』で助演女優賞を受賞し、’79年『もう頬づえはつかない』で映画初主演を果たす。その後監督業にも挑戦し、2008年には紫綬褒章を受章。近年は女優活動に加え、ジュエリーデザインや雑誌創刊など多方面で活動している。

中田喜子

17歳でミス・エールフランスコンテスト入賞をきっかけに芸能界入り。芸名はコンテスト主催の旺文社による一般読者審査で決定した。1974年にシングル『私は天使じゃない』で歌手デビューし、同年ドラマ『四季の家』で女優デビュー。76年以降、『俺たちの朝』などのドラマでアクティブなヒロイン役を演じ脚光を浴び、時代劇やバラエティ番組にも出演。自動車A級ライセンスを活かし、『太陽にほえろ!』などで運転シーンを披露。また、ル・マン24時間レースの広報や、「長谷川憩世」名義での作曲活動も行った。

金沢 碧

東京家政学院高等学校卒業後、精神科医を目指していたが、オーディションをきっかけに芸能界入りを決意。1975年、テレビドラマ『北都物語』でヒロイン・布部絵梨子役に選ばれデビューし、同年『東京湾炎上』で映画初出演。『俺たちの旅』ではカースケに想いを寄せるヨーコ役で人気を得た。知性と容姿を兼ね備え、柔軟な姿勢で演技に臨む姿勢が評価された。

樹木希林

(C)Andriy Makukha (Amakuha)

大原麗子

(C)国際情報社 - 『映画情報』1965年4月号

風吹ジュン

(C)Dick Thomas Johnson from Tokyo, Japan - Fubuki Jun from "Spirit World" at Red Carpet of the Tokyo International Film Festival 2024

高橋惠子

(C)Dick Thomas Johnson from Tokyo, Japan - Takahashi Keiko from "DOOR" at Red Carpet of the Tokyo International Film Festival 2022

山口果林

お茶の水女子大学附属中高、桐朋学園短大卒業後、俳優座に入団。1970年、森川時久監督の『若者の旗』で映画デビューし、同年NHK長編ドラマ『繭子ひとり』で150人の中から主役に選ばれ好演。’79年にフリーとなり、テレビドラマや映画、舞台で活動。芸名は恩師・安部公房の助言で「果林」を選択し、努力を重ねる生き方に合った名として用いている。熱中時代 第2シリーズや2時間ドラマなどでも活躍した。

紀比呂子

高校在学中の1966年に日本テレビにスカウトされ、’69年にドラマ『風の中を行く』で初出演。’70年公開の『地の群れ』で準主役を務め、『時間ですよ』や『アテンションプリーズ』で人気を博した。以後、青春ドラマを中心にテレビ・舞台で活躍。’82年に結婚・富山移住を機に引退し、石川県金沢市で家庭を築いた。後に東京に戻り、2002年から金沢家庭料理の小料理屋「はく」を経営し女将を務め、2019年に閉店した。

長谷直美

1971年にクラウンレコードから歌手としてデビューし、翌年『お祭り銀次捕物帳』で俳優としても活動を始めた。『仮面ライダー』出演を経て、’74年の昼ドラ『やっちゃば育ち』でヒロインに抜擢される。その後は石井ふく子・橋田壽賀子作品の常連となり、とくに『渡る世間は鬼ばかり』では三女・文子役を20年以上にわたって演じ、代表作となる。NHKの『連想ゲーム』紅組キャプテンとしても長く親しまれた。

岡崎友紀

1961年、8歳で舞台『そばかすまり子の恋物語』でデビューし、その後ブロードウェイミュージカル日本初演やテレビドラマに出演。’68年NHK『あねいもうと』で主演し全国的に知られるようになった。’69年以降はバラエティ番組司会や歌手活動も開始。’70年のTBS『おくさまは18歳』で学園ラブコメディのヒロインを演じ人気を確立し、同作を含む「18歳シリーズ」や主題歌の作詞でも活躍。’70年代前半から中盤にかけて国民的アイドルとして高い支持を得た。

風吹ジュン

1970年、銀座の高級クラブでホステスとして働いていた際にスカウトされ、芸名は「風に吹かれたように出てきたから風吹」「6月(June)にハワイで風が強く吹いていたからジュン」と命名。’73年に初代ユニチカマスコットガール、’74年に歌手デビューするが、スキャンダルや二重契約問題で清純派イメージを失う。’77年映画初出演後、ヌードや濡れ場を辞さず演技力を発揮。女優として高い評価を受けるとともに、現在もCMを含め多方面で活躍を続ける。

夏樹陽子

短大在学中にスカウトされファッションモデルとして3年半活躍した後、女優転身を目指し1977年に映画『空手バカ一代』でヒロインとしてデビュー。モデル時代の立ち居振る舞いを女優用に修得するのに苦労しつつも東映に入社。エキゾチックな美貌を生かし、映画やテレビドラマに出演。代表作には土曜ワイド劇場、ザ・ハングマンシリーズ、大江戸捜査網 第3シリーズなどがあり、お茶の間にも広く知られる女優となった。

宇津宮雅代

文学座付属演劇研究所第8期生として俳優座に入団。1968年の『お庭番』でテレビドラマデビューし、’70年代から’82年まで『大岡越前』『水戸黄門』『鬼平犯科帳』などの時代劇やテレビドラマで活躍。’82年に一度引退し渡英、’90年代にイギリスでガラス・染色・テキスタイルを学ぶ。2000年に芸能界に復帰し、以降も『温泉若おかみの殺人推理』『おみやさん』『ドクター・ヨシカの犯罪カルテ』などのドラマやサスペンスで活躍を続ける。

坂口良子

1971年、15歳でミス・セブンティーンコンテスト優勝をきっかけに芸能界入り。’72年に歌手デビューし、同年フジテレビ「アイちゃんが行く!」で女優デビューを果たす。’70年代には「サインはV」「前略おふくろ様」「池中玄太80キロ」などで人気を博し、アイドル的存在としてテレビ界で活躍。石井ふく子プロデュース作品にも多数出演し「石井組」の一員とされた。’70年代後半からは市川崑作品を中心に映画にも進出し、『帰って来た若大将』では準主演を務めるなど、テレビと映画の双方で高い評価を得た。2013年、横行結腸癌および肺炎で57歳で死去した。

松岡きっこ

幼少期から劇団若草に在籍し、子役として活動。1958年に東映児童演技研修所に入所。’63年、高校在学中に『武士道残酷物語』で初の大役を務めた。その後、『吸血髑髏船』やクレージーキャッツ作品、海外映画『007は二度死ぬ』にも出演。『アイフル大作戦』『バーディー大作戦』ではコミカルな演技を披露し、バラエティ番組や旅番組にも出演。’66年にはグラビアで美貌を紹介されるなど多方面で活躍した。’81年、谷隼人と結婚。

高橋惠子

中学時代から大人びた容貌で注目され、卒業と同時に大映へ入社。1970年に関根恵子名義で『高校生ブルース』主演デビューし、『おさな妻』で新人賞を受賞する。大映倒産後は東宝へ移り、『太陽にほえろ!』の婦人警官シンコ役で人気を確立した。’70年代後半に心身の不調で休業と失踪騒動を経験するが’80年に復帰。’82年『ラブレター』が大ヒットし、同年に高橋伴明と結婚して高橋惠子に改名。以後は成熟した役どころで活動した。

松坂慶子

韓国人の父と日本人の母のもとに生まれ、幼少期から読書や朗読、クラシックバレエにを好む。1966年に「劇団ひまわり」に入り、翌年テレビ初出演。’68年『ウルトラセブン』で注目され、大映にスカウトされ映画デビュー。’70年『おくさまは18歳』などで人気を得る。’71年に映画初主演。大映倒産後は松竹へ移籍し、1973年『国盗り物語』の濃姫役で広く知られる。1978年『事件』で清純派を脱し、翌年『水中花』でトップ女優としての地位を確立した。

大竹しのぶ

1973年、フォーリーブス・北公次主演のドラマ『ボクは女学生』で一般公募に合格し芸能界デビュー。’82年にディレクターの服部晴治と結婚し長男をもうけるが、’87年に夫が死去。’86年のTBSドラマ『男女7人夏物語』で明石家さんまと共演し人気を博し、後に結婚して長女IMALUを出産。’92年に離婚し子どもたちの親権を持った。歌手としても活動し、『かまっておんど』が広い世代にヒットした。

原田美枝子

1974年、家城巳代治監督の『恋は緑の風の中』で正式デビュー。高校在学中にヌード出演が問題となり夜間高校に転校。’76年には『大地の子守歌』『青春の殺人者』で注目され、キネマ旬報ベスト・テン主演女優賞を受賞。以降、黒澤明『乱』など名監督作品に出演し、多くの映画賞を獲得。自身で製作・主演・脚本を手がけた『ミスター・ミセス・ミス・ロンリー』や、’86年刊行の少女小説『愛しのハーフ・ムーン』も映画化されるなど多才な活動を展開した。

烏丸せつこ

1979年、6代目クラリオンガールに選ばれ芸能界デビュー。デビュー直後からCFやポスターでセミヌードを披露し、日本人離れしたプロポーションとあどけない表情で注目を集めた。女優としては『四季・奈津子』で初主演。大河ドラマ『功名が辻』や『スカーレット』などでテレビ出演を続け、2014年には舞台『ジュリエット通り』で本格的に舞台デビュー。私生活では’82年に田中寿一と結婚、’92年に自己破産後離婚し、2014年に再婚した。

山口百恵「プレイバックPART2」は沢田研二「勝手にしやがれ」のアンサーソング?

  山口百恵「プレイバックPART2」の2コーラス目の歌詞 “勝手にしやがれ 出ていくんだろう”のフレーズを聞いたとき 内心「あれ?」と思った人は少なくなかっただろう。 私も「偶然かな」と思った一人だった。 & … 続きを読む

その他各界 > 1960年代

1980年代 1970年代 1960年代 1960年代は昭和35年から昭和44年にあたり、高度経済成長期の真っただ中。テレビ、洗濯機、冷蔵庫といった「三種の神器」が普及し、インスタント食品も登場して生活は急速に近代化した … 続きを読む

その他各界 > 1970年代

1970年代は昭和45年から昭和54年にあたり、高度経済成長がオイルショックで終わりを迎え安定成長期へ移行した。都市部では高層ビルとマンションが増え、生活様式が大きく変化。若者文化の中心は新宿から渋谷へ移り、パルコの開店がその象徴となった。特撮ブームが巻き起こり『仮面ライダー』が人気を獲得。国内旅行が盛んになり、アンノン族などの言葉が生まれる。ゲーム機『スペースインベーダー』が新しい娯楽として普及した。ファッションはジーンズやベルボトム、長髪が定番化し、芸能ではキャンディーズ、沢田研二、ピンク・レディーらが時代を席巻。プロレス界では猪木と馬場が人気を二分し、女子プロレスも注目を浴びた。

─ 各界の主な人物 (順不同) ─

横井庄一(陸軍軍人)

元日本陸軍軍人で、第二次大戦後も グアム島 のジャングルに28年間潜伏し続け、1972年に発見・帰国した「残留日本兵」として知られる人物。帰国当時57歳だった。その帰国を機に一躍注目され「恥ずかしながら帰ってまいりました」という言葉は話題となった。

小野田寛郎(陸軍軍人)

旧日本軍の少尉で、終戦後もフィリピン・ルバング島に残留し、1945年から'74年まで約29年間にわたって抵抗を続けた“最後の日本兵”。1974年に帰国後はブラジルで牧場経営や自然塾開設などを行った。

犬養道子(慈善家ほか)

元総理大臣のた犬養毅の孫で、慈善活動や小説家として知られる。NHKのニュース解説員も務めた。タレントの安藤和津は異母妹。

岡田茂(実業家)

老舗百貨店である三越の社長を10年間務め「流通界の革命児」と呼ばれた。ワンマン経営により「岡田天皇」と呼ばれたが、1982年に愛人・竹久みちと起こした背任行為「三越事件」により社長を解任された。

桂小金治(落語家ほか)

1947年に2代目桂小文治へ入門し落語家となる。次代の名人候補として将来を嘱望されるが、川島雄三の要請を受け映画俳優へ転身。昭和中期以降、映画やテレビドラマ、バラエティ番組に幅広く出演し、とりわけワイドショーの名司会者として知られた。'75年には日本テレビのバラエティ番組『それは秘密です!!』で司会を担当し、「ご対面コーナー」で感極まり涙する姿が視聴者の共感を呼び、「泣きの小金治」と称され親しまれた。

堤清二(実業家ほか)

1927年生まれの実業家・作家・詩人で、父の死後にセゾングループを率い、西武百貨店を軸に、西友、無印良品、パルコなどを傘下に収め、「生活総合産業」として流通と文化を融合させた。

堤義明(実業家)

1964年から西武グループの経営を引き継ぎ、ホテル・鉄道・レジャーなどを拡大した。'87年には世界一の富豪と称され、プロ野球球団やスポーツ振興にも関与した。

周防郁雄(バーニングプロダクション創業者)

日本の実業家・芸能プロモーターで、バーニングプロダクション を1971年に創業。郷ひろみや小泉今日子ら多くの人気タレントを抱え、長らく「芸能界のドン」と呼ばれる。

角川春樹(編集者ほか)

日本の出版業界と映画界を変えた実業家・映画プロデューサーで、1975年に父を継ぎ角川書店の社長に就任。以後、出版と映画を連動させる「メディアミックス」戦略で数々のヒット作を生み出し、エンタメ界の旗手となった。

池波正太郎(時代小説家)

日本を代表する時代小説作家。1923年東京浅草生まれで、元は都庁職員や演劇脚本家だった。'60年に『錯乱』で直木三十五賞を受賞し、『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』などの“三大シリーズ”で絶大な人気を博した。人情味あふれる筆致と読み応えあるストーリーで、多くが映像化され、没後も色褪せぬ評価を受けている。

向田邦子(脚本家)

日本のテレビ脚本家・小説家・エッセイスト。『寺内貫太郎一家』『七人の孫』『阿修羅のごとく』など数々の人気ドラマを手がけ、1980年には短編集で直木賞を受賞。'81年、飛行機事故で51歳の若さで逝去し、没後も「家庭劇の旗手」として高く評価され続けている。

西村京太郎(小説家)

日本を代表する推理作家で、「寝台特急殺人事件」をはじめ鉄道や旅を舞台にしたトラベルミステリーで人気を博した。「十津川警部」シリーズなど多数のベストセラーを生み出し、江戸川乱歩賞や日本推理作家協会賞などを受賞。推理小説界の重鎮であった。

小松左京(小説家)

大阪生まれの日本を代表するSF作家。1962年にデビューし、'73年の『日本沈没』で大ブームを起こす。『首都消失』など多数の SF 長編で、SF文学の地位確立に貢献した。

山村美紗(小説家)

「京都」を舞台にしたミステリーを多数執筆し、“ミステリの女王”と呼ばれた。1967年ごろから執筆を始め、'74年にデビュー。'83年『消えた相続人』で日本文芸大賞を受賞。作品の多くがドラマ化され、'60〜'90年代のテレビでも大きな人気を得た。'96年に急逝。

平岩弓枝(小説家)

1959年に『鏨師』で第41回直木賞を受賞。代表作に時代小説『御宿かわせみ』シリーズや『はやぶさ新八御用帳』などがあり、テレビドラマの脚本も多数手掛けた。多彩な作品群で高く評価され、2016年に文化勲章を受章した。

森村誠一(小説家)

日本の社会派ミステリーの巨匠。1969年の『高層の死角』でデビューし、'76年の『人間の証明』で大ベストセラーを記録。その後も『悪魔の飽食』など社会問題に切り込む作品を発表し、多くが映像化された。2023年、肺炎により90歳で死去した。

渡辺淳一(小説家)

北海道出身の元医師で、1965年から小説家として活動を開始。'70年に『光と影』で直木賞を受賞し、'97年の『失楽園』で社会現象とも呼ばれる大ベストセラーを生み出した。50作以上を世に送り出し、性愛や人生の本質を描く作風で知られた。

半村良(小説家)

1933年生まれの日本のSF・伝奇小説作家。本名は清野平太郎。'71年に『石の血脈』でデビューし、伝奇SFという新ジャンルを切り拓いた。代表作に『戦国自衛隊』『産霊山秘録』『妖星伝』など。'75年に『雨やどり』で直木賞を受賞し、'88年には日本SF大賞を受けた。2002年に68歳で没したが、その独創的な世界観は今も評価され続けている。

筒井康隆(小説家)

1934年大阪生まれの日本の小説家・劇作家。'60年代からSFやユーモアを融合した作品で活躍し、『時をかける少女』『日本以外全部沈没』などで知られる。大胆な設定と文体で「SF御三家」の一角に数えられ、多数の文学賞を受賞。

倉本聰(脚本家ほか)

日本の脚本家・劇作家。東京大学卒業後に脚本家となり、代表作に『北の国から』『前略おふくろ様』など国民的ドラマを数多く手がけた。1977年に北海道富良野へ移住し、'84年に脚本家・俳優養成機関「富良野塾」を創設。自然と人間の営みを見つめる作品群で長年にわたって支持され続けている。

山田太一(脚本家ほか)

テレビドラマ脚本家・小説家。早稲田大学卒後、松竹で助監督を経て1965年にフリーへ転向。以降、「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」など多数の名作ドラマを脚本し、日本のテレビドラマ史に大きな足跡を残した。

堺屋太一(政治家・小説家ほか)

通産省で大阪万博を企画した後に作家へ転じ、『団塊の世代』などで社会に影響を与えた評論家・小説家。博覧会プロデューサーや経済企画庁長官としても活躍し、日本の政策・文化に広く関与した。

桐島洋子(ノンフィクション作家)

東京生まれの作家・エッセイスト。文藝春秋記者を経て、未婚の母としての体験や米国放浪記を著し注目され、『淋しいアメリカ人』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。女性の生き方を示す著作を多く残し、70歳以降は私塾も主宰した。

片岡義男(小説家)

小説家・エッセイスト・評論家・翻訳家・写真家として幅広く活躍。1974年『白い波の荒野へ』で小説家デビュー、翌年『スローなブギにしてくれ』で新人文学賞を受賞。恋愛・オートバイ・アメリカ文化などを描きつつ多ジャンルで活動した。

村上春樹(小説家)

日本を代表する現代作家で、1979年『風の歌を聴け』で作家デビュー。'87年『ノルウェイの森』で大ブレーク、その後も『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』など国際的ベストセラーを連発。幻想と現実が交錯する独自の作風で世界50か国語以上に翻訳され、多くの文学賞を受賞し、世界的な人気を誇る作家である。

村上龍(小説家)

1976年に『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞を獲得し小説家デビュー。その後、『コインロッカー・ベイビーズ』などで注目され、多作と革新的な作風で日本文学の第一線を走る。映画監督やエッセイ、社会評論でも活躍し、現代日本文化に強い影響を与えた作家。

栗本薫(小説家・評論家)

1977年に評論家として、'78年に小説家としてデビュー。代表作には大河ファンタジー『グイン・サーガ』をはじめ、SF・ホラー・ミステリー・耽美小説など約400冊の著作がある。多ジャンルを自在に書き分ける多才な“娯楽文学の旗手”だった。

岡本太郎(芸術家)

日本を代表する前衛芸術家。絵画・彫刻・壁画・デザインなど多ジャンルで活動し、1970年の大阪万博で展示された太陽の塔 は彼の代表作として知られる。西欧と日本文化の両面を吸収し、「芸術は生活だ」と説いて伝統にも革新にも囚われない創造を追求した。

池田満寿夫(画家ほか)

画家・版画家・陶芸家・小説家・映画監督など多才なマルチアーティスト。1965年にニューヨーク近代美術館で個展開催、翌年のヴェネツィア・ビエンナーレで国際賞受賞。'77年に小説『エーゲ海に捧ぐ』で芥川賞を獲得、映画化も自ら手がけた。

立木義浩(写真家)

日本を代表する写真家。1965年の作品『舌出し天使』で写真界に衝撃を与え、'69年からフリーで雑誌・広告・出版など幅広く活躍。女性ポートレートやスナップを中心に、『GIRL』『私生活/加賀まりこ』『家族の肖像』など数多くの写真集を発表し、現代日本写真の礎となった。

篠山紀信(写真家)

1940年東京生まれの写真家。'68年からフリーランスとして活動を始め、「激写」シリーズやアイドル・著名人のポートレートで一世を風靡。宮沢りえの写真集「Santa Fe」は155万部を売り上げるベストセラーとなり、日本の写真界を牽引した存在である。

丹下健三(建築家)

1913年生まれの建築家で、戦後に広島平和記念公園の再建や代々木国立競技場、東京カテドラル聖マリア大聖堂などを設計。'60年代から世界各地で都市計画や建築を手がけ、“世界のTange”と称された。'87年にプリツカー賞を受賞。

黒川紀章(建築家)

「中銀カプセルタワー」などメタボリズム建築を代表する作品を手がけた。都市のありようを根本から問い、「近代建築の弊害」を批判しながら、未来的で実験的なデザインによって建築の新しい可能性を提示した。

宮崎駿(アニメ監督ほか)

1941年東京生まれのアニメ作家・映画監督で、'85年にスタジオジブリを設立。『となりのトトロ』『千と千尋の神隠し』などで国際的評価を受け、「アニメの巨匠」の代表格として知られる。

川崎のぼる(漫画家)

1941年生まれ、大阪出身。'57年にデビューし、'66年『巨人の星』で大ブレイク。『いなかっぺ大将』『荒野の少年イサム』『てんとう虫の歌』などヒット作を多数手がけ、少年漫画黄金期を支えた。スポ根からギャグまで描き分ける画風が特徴で、現在は絵本作家としても活動している。

赤塚不二夫 (漫画家)

手塚治虫に影響を受け1956年に貸本漫画『嵐をこえて』でデビュー。トキワ荘で修業後、『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』『天才バカボン』などを発表し一躍人気作家となる。ギャグ漫画の王として戦後漫画史を築き、『天才バカボン』などの作品はテレビアニメ化もされ、文藝春秋漫画賞受賞や長期連載で日本の漫画文化に大きな影響を与えた。

手塚治虫(漫画家)

大阪府出身の漫画家・アニメーション作家。『鉄腕アトム』『ブラック・ジャック』など、多数の名作を生み出し、現代漫画の基礎を築いた。医師免許も持ち、科学・医学・倫理を題材にした作品で知られる。アニメ制作にも先駆的に取り組み、日本の漫画・アニメ文化の発展に絶大な影響を与え、「漫画の神様」と称される。

楳図かずお(漫画家)

1955年に貸本漫画でデビューし、『漂流教室』『まことちゃん』『わたしは真悟』などを発表。ホラー漫画の第一人者として知られ、幅広いジャンルでも活躍した。

モンキー・パンチ(漫画家)

代表作『ルパン三世』で人気を博し、多数の青年漫画を手掛ける。デジタルマンガ協会初代会長や大学教授も務め、後進の育成に尽力した。

はらたいら(漫画家ほか)

1963年に漫画家デビューし、『モンローちゃん』などで人気を得た漫画家・随筆家・タレント。新聞漫画を数多く手がけ、幅広い媒体で活躍した。極貧生活を支えた妻ちず子との結婚生活でも知られる。'77年から『クイズダービー』にレギュラー出演し、高い正答率と最多27連勝の記録で名解答者として親しまれた。晩年はうつ病と向き合いながら活動を続け、2006年に死去した。

ユリ・ゲラー(超能力者)

1946年イスラエル・テルアビブ生まれのイリュージョニスト/自称サイキック。'70年代から「スプーン曲げ」など超能力パフォーマンスで世界的に注目され、多数のテレビ出演で人気を博した。だがその能力は多くのマジシャンらからマジック技法によるトリックと指摘され、論争の的ともなっている。

引田天功 (初代)(超能力者)

1934年神奈川県横浜市生まれの日本を代表するマジシャン・イリュージョニスト。'60年に「東京魔術団」を結成し、水中や爆発、火炎など危険な状況からの脱出マジックを得意とし「日本の脱出王」として'70年代に人気を博した。テレビ特番などで数々の大掛かりな脱出ショーを演じ、大衆に魔術の魅力を広めた。'79年12月に心筋梗塞により45歳で亡くなったが、そのスリルと大胆さは後のマジシャンたちに大きな影響を残した。

ジョージ秋山(漫画家)

1966年『ガイコツくん』でデビューし、『銭ゲバ』『アシュラ』といった過激なテーマの作品で注目を集めた。'73年から2017年まで『浮浪雲』を連載、'78年小学館漫画賞を受賞。2020年に77歳で逝去。

谷岡ヤスジ(漫画家)

ギャグ漫画家。1959年、高校在学中に『やっちゃん』でデビュー。1970年、『週刊少年マガジン』連載の『ヤスジのメッタメタガキ道講座』で大ブレイクし、「アサー!」「鼻血ブー」が流行語となった。以降、個性的なキャラクターを多数生み、『ヤスジのド忠犬ハジ公』など長期連載も手掛け、独特のブラックユーモアと破天荒なギャグ表現で知られる。

高信太郎(漫画家)

1944年生まれ。ナンセンスギャグ漫画や落語漫画、韓国文化を題材とした著作など多方面で活躍。芸能評論家やテレビ・ラジオ出演者としても知られ、ユーモアと社会観を交えた独自の視点で注目を集めた。

永井豪(漫画家)

1945年生まれの漫画家・クリエイターで、'68年にハレンチ学園、'70年代にデビルマン、マジンガーZ、キューティーハニー などを次々と発表。ロボット、魔法少女、ダークファンタジーなど複数ジャンルの先駆者で、「巨大ロボット漫画」の原点を築いた。

つのだじろう(漫画家)

1955年に『漫画少年』でデビューし、少女漫画『ルミちゃん教室』や『ばら色の海』で評価を得た。1960年代以降は少年誌でギャグ漫画を手掛け、『ブラック団』『忍者あわて丸』で人気を博す。'70年代には梶原一騎原作の『空手バカ一代』や怪奇漫画『うしろの百太郎』『恐怖新聞』でオカルト漫画の第一人者となり、将棋漫画『5五の龍』や『女たちの詩』など多ジャンルで活躍。

本宮ひろ志(漫画家)

1947年千葉県生まれ。'65年にデビューし、'68年の『男一匹ガキ大将』で一躍人気作家となる。以降『俺の空』『硬派銀次郎』『サラリーマン金太郎』など多くのヒット作を生み出し、不良・サラリーマンものなど幅広いジャンルで活躍した。

大島弓子(漫画家)

「24年組」の代表格で、1968年に『ポーラの涙』でデビュー。独特の感性と幻想性で『綿の国星』『ミモザ館でつかまえて』などを発表し、'73年に日本漫画家協会賞、'79年に講談社漫画賞を受賞。晩年も『グーグーだって猫である』などで活躍し、2021年に文化功労者に選ばれた。

山岸凉子(漫画家)

1947年北海道生まれの少女漫画家。「アラベスク」でバレエ漫画を革新しブレイクし、'83年に「日出処の天子」で少女漫画賞を受賞。神話・歴史・ホラーなど多彩なテーマを描き、「24年組」を代表する存在となった。

蛭子能収(漫画家)

1947年生まれの漫画家・タレント。'73年に雑誌「ガロ」でデビューし、ヘタウマかつシュールなギャグ漫画で人気を得た。後にバラエティ番組や映画出演で広く知られる存在となった。

山上たつひこ(漫画家)

1947年徳島県生まれの漫画家・小説家。ギャグ漫画『がきデカ』『喜劇新思想大系』で爆発的ヒットを記録し、SF/社会派の『光る風』など多ジャンルで活躍。2014年には原作作品で文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞。

池田理代子(漫画家)

1947年生まれの漫画家・劇画家で、'67年にデビュー。代表作『ベルサイユのばら』で少女漫画の枠を超え一大ブームを巻き起こした。'80年『オルフェウスの窓』で日本漫画家協会賞を受賞。'95年以降は声楽家としても活躍し、多彩な才能を発揮している。

里中満智子(漫画家)

1948年大阪生まれの漫画家・評論家。高校時代にデビューし、以降50年以上で500点近くの作品を発表。その代表作に「アリエスの乙女たち」「天上の虹」などがあり、'74年と'82年に大きな漫画賞を受賞。現在も大学教授や漫画団体の要職を務め、漫画界を牽引する存在。

もりたじゅん(漫画家)

1948年生まれの日本の漫画家。'68年にデビューし、『りぼん』などでラブコメからリアルな男女物語まで幅広く描く。代表作に『キャー!先生』『うみどり』などがあり、後年はレディースコミックでも活躍した。

柳沢きみお(漫画家)

1948年新潟県五泉市生まれの漫画家。'70年にデビューし、'78年の『翔んだカップル』で講談社漫画賞を受賞。ラブコメや青年漫画を中心に多数の作品を発表し、『特命係長 只野仁』などヒット作も。今なお現役で精力的に創作活動を続けるベテラン漫画家。

萩尾望都(漫画家)

1949年山口県生まれの少女漫画家。'70年代から世界観と心理描写に優れた作品を発表し、『ポーの一族』『11人いる!』などで高い評価を得る。SF・ファンタジー・耽美など多ジャンルに挑み、「少女漫画の革新者」と呼ばれる存在。

山本鈴美香(漫画家)

1949年生まれの女性漫画家。'71年にデビューし、'73年からのスポーツ少女漫画『エースをねらえ!』で一躍人気となり、多くのアニメ・ドラマ化も果たした。'81年以降は故郷に戻り、執筆活動を離れたとされる

一条ゆかり(漫画家)

1949年岡山県生まれの少女マンガ家。'68年に『雪のセレナーデ』で漫画家デビュー。『デザイナー』『砂の城』『有閑倶楽部』『プライド』などで人気を博し、'86年に少女部門の講談社漫画賞、2007年に文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞。恋愛や人生を鋭く描くその作風で長きにわたり支持されてきた。

弓月光(漫画家)

1949年生まれの漫画家。'68年に「りぼん新人漫画賞」でデビューし、少女漫画/少年漫画/青年漫画と幅広く活躍。『みんなあげちゃう♡』『甘い生活』などのラブコメ作品で知られ、長寿連載を続けるベテランである。

竹宮惠子(漫画家)

1950年徳島県生まれの漫画家。'68年にデビューし、'70年代〜'80年代に『風と木の詩』やSF漫画『地球へ...』などで少女漫画の枠を大きく広げた。'79年小学館漫画賞、2012年日本漫画家協会賞文部科学大臣賞、2025年文化功労者受賞と、その功績は高く評価されている。

いがらしゆみこ(漫画家)

1950年北海道旭川市生まれの少女漫画家。'68年に『白い鮫のいる島』でデビューし、'75〜'79年連載の『キャンディ♡キャンディ』で大ヒットを記録。'77年には第1回講談社漫画賞を受賞し、国際的にも人気を博した。代表作に『ジョージィ!』など。現在も活動を続けるベテラン漫画家。

美内すずえ(漫画家)

1951年大阪生まれの漫画家。'67年に高校2年でデビューし、'76年から連載を始めたガラスの仮面は累計5,000万部超の大ヒット作。少女漫画のみならずホラーやサスペンスも手がけ、'82年に講談社漫画賞、'95年に日本漫画家協会賞を受賞した。

いしいひさいち(漫画家)

1951年生まれの漫画家。'72年『Oh!バイトくん』でデビューし、'79年の『がんばれ!!タブチくん!!』で人気を博した。以降も新聞4コマ漫画『ののちゃん』など風刺とユーモアあふれる作品で知られ、2003年に第7回手塚治虫文化賞短編賞を受賞するなど、4コマ界の大御所として高く評価されている。

小林よしのり(漫画家)

1953年福岡市生まれの漫画家・評論家。「東大一直線」「おぼっちゃまくん」で人気を得た後、'92年から「ゴーマニズム宣言」で社会・政治を鋭く論じる評論漫画家へ転身し、言論界に強い影響を与え続ける存在。

陸奥A子(漫画家)

1954年福岡県生まれの少女漫画家。'72年に「獅子座うまれのあなたさま」でデビューし、'70〜'80年代に雑誌『りぼん』で「おとめチック」路線を牽引。等身大の少女の恋愛や日常を軽やかに描き、多くの読者に支持された。代表作に『こんぺい荘のフランソワ』など。

くらもちふさこ(漫画家)

1955年生まれの少女漫画家。'72年『メガネちゃんのひとりごと』でデビューし、『いつもポケットにショパン』『天然コケッコー』など多くの名作を発表。'96年に講談社漫画賞、『花に染む』で2017年に手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞するなど、半世紀にわたり少女漫画界を牽引してきた。

江口寿史(漫画家)

1956年熊本県生まれの漫画家・イラストレーター。'77年に『すすめ!!パイレーツ』でデビューし、『ストップ!!ひばりくん!』などでブレイク。'80年代以降はポップな線画で女性キャラを描くイラストでも高く評価され、近年も個展や広告・CDジャケットなど多方面で活躍している。

森英恵(ファッションデザイナー)

1926年生まれ、日本を代表するファッションデザイナー。'51年に自身のブランドを設立し、'65年にニューヨークで初の海外ショー、'77年には東洋人初のパリ・オートクチュール正会員に。日本と西洋を融合させた「蝶」モチーフの優雅なドレスなどで世界的に評価され、国際的ファッション界を牽引した。

桂由美(ウェディングドレスデザイナー)

日本初のブライダルファッションデザイナー。1964年に活動を始め、'65年に日本初のブライダル専門店を開いた。以来「ユミライン」と呼ばれる独自のウェディングドレスを発表し、世界30か国以上でショーを開催。日本の婚礼衣装文化を根底から変えた第一人者。

三宅一生(ファッションデザイナー)

1938年広島生まれのファッションデザイナー。'70年に「三宅デザイン事務所」を設立、'71年にブランドISSEY MIYAKEを立ち上げた。革新的なプリーツ技術や「一枚の布」哲学で世界的な評価を受け、服を芸術と実用の両立で再定義した。2022年没。

高田賢三(ファッションデザイナー)

1939年生まれのファッションデザイナー。'64年パリへ渡り、'70年にブランド KENZO を設立。大胆な色使いと和洋融合のスタイルで世界を魅了し、プラダ・オートクチュールの流れに変革を起こした。服だけでなく香水やホームウェアにも展開し、国際的に成功を収めた。

山本寛斎(ファッションデザイナー)

1971年に日本人として初めてロンドンでファッションショーを開催。独創的で前衛的なデザインが世界的評価を受け、'70〜'80年代に国際派デザイナーとして活躍した。'90年代以降はイベント・プロデューサーとしても活動し、ファッションの枠を越えた表現で知られた。

コシノジュンコ(ファッションデザイナー)

大阪出身の世界的ファッションデザイナー。19歳で「装苑賞」を最年少受賞し、1978年から2000年までパリ・コレクションに参加。衣服だけでなく、舞台衣装や花火、インテリアまで手掛け、和洋融合の芸術性で国際的評価を受ける先駆者。

山口小夜子(ファッションモデル)

1970年代にパリ・コレクションで活躍した日本人初期トップモデルで、「東洋的美女」の象徴とされた。モデル業のほか女優、パフォーマー、衣装・舞台衣装デザインなど多才に活動し、国内外で強い影響を残した。

宮田輝(アナウンサーほか)

NHKのアナウンサーとして『のど自慢』『ふるさとの歌まつり』『紅白歌合戦』など多数の人気番組を司会し、昭和のテレビ界を代表する名アナだった。1974年退局後は参議院議員に転じ、3期務めながらフリーアナウンサーとしても活動した。

玉置宏(テレビ司会者ほか)

1956年に文化放送にアナウンサーとして入社し、'58年からフリー。歌番組『ロッテ歌のアルバム』の司会者として「1週間のごぶさたでした」の決まり文句で人気を博した。ラジオ・テレビを中心に活躍し、長年にわたり国民に親しまれた名司会者である。

山川静夫(アナウンサー)

1933年生まれの元NHKアナウンサー。『紅白歌合戦』白組司会などで長年活躍し、テレビ黎明期を代表する顔だった。引退後は歌舞伎文化の紹介や執筆活動にも携わり、多彩な表現者として知られている。

前田武彦(放送作家ほか)

タレント、放送作家、テレビ司会者。NHKで放送作家として出発し、『夜のヒットスタジオ』や『巨泉×前武ゲバゲバ90分!!』などの司会で人気を集め、“マエタケ”の愛称で親しまれた。映画出演や作詞も手がけた。

大橋巨泉(放送作家・司会者ほか)

1934年生まれのマルチタレント。『11PM』『クイズダービー』『世界まるごとHOWマッチ』などを司会し、テレビ黄金期を代表する顔となった。作家・評論家・実業家としても活躍し、参議院議員に選出されたこともある。2016年没。

愛川欽也(俳優・司会者ほか)

ラジオ番組『パック・イン・ミュージック』で人気を博し、「11PM」「なるほど!ザ・ワールド」「出没!アド街ック天国」などテレビ番組の司会で広く知られた。映画『トラック野郎』では“やもめのジョナサン”役でも人気を得た。妻のうつみ 宮土理とのコンビは"キンキン・ケロンパ"と呼ばれた。

浜村淳(司会者ほか)

1935年生まれの俳優・ラジオパーソナリティ・映画評論家。'74年からMBSラジオ『ありがとう浜村淳です』で朝の顔となり、独特の語り口「浜村節」で長年親しまれる。映画解説や司会も多く務め、関西を代表するトークの達人として知られる。

土居まさる(司会者ほか)

1964年に文化放送入社、野球実況を経て『真夜中のリクエストコーナー』など深夜放送で人気を博す。'70年にフリー転身後、『TVジョッキー』司会で全国的存在となり、『象印クイズ ヒントでピント』ほか多数の名番組を長年担当。若者文化とテレビ黄金期を象徴する話術派司会者として知られる。

糸居五郎(ラジオパーソナリティ)

ニッポン放送の名ディスクジョッキー。1954年入社、開局第一声を担当し、『深夜のDJ』『オールナイトジョッキー』で活躍。'63年にビートルズ「ラヴ・ミー・ドゥ」を日本初オンエア。『オールナイトニッポン』草創期を支え、'70年代に50時間マラソン放送などで深夜ラジオ文化を築いた。

高嶋秀武(ラジオパーソナリティ)

1965年にニッポン放送入社後、スポーツ部で野球取材や札幌五輪実況を担当。'69年より『オールナイトニッポン』2代目パーソナリティとして活躍し、最年少の“ヒデ坊”として第1次ブームを支えた。'75年『大入りダイヤルまだ宵の口』初代司会を務め、「高島ヒゲ武」の名で親しまれる。'77年には60時間マラソンDJを敢行した。

ケーシー高峰(漫談家)

医事漫談の創始者として知られる漫談家。1957年に日大卒業後、芸人を志し漫才師・大空ヒットに入門。漫才解散や司会業を経て、'68年に「ケーシー高峰」と改名し漫談家に転身した。白衣姿で医学ネタを語る芸風と「グラッチェ」などの口癖で人気を博し、『大正テレビ寄席』などで一躍お茶の間の存在となる。'69年には『おいろけ寄席』司会も務め、後年は映画で俳優としても活躍した。

小林亜星(作曲家ほか)

1932年東京出身の作曲家・作詞家・俳優で、CMソング「この木なんの木」「ワンサカ娘」やアニメ「ひみつのアッコちゃん」の主題歌などを手がけ、'76年の「北の宿から」で日本レコード大賞を受賞。俳優としても活躍し、昭和〜平成期の日本ポップ文化を支えた。

阿久悠(作詞家)

1937年生まれの作詞家・作家。'60年代から活動を開始し、『また逢う日まで』『津軽海峡・冬景色』『UFO』など5000曲以上のヒット歌謡を生み出し、昭和歌謡を支えた巨匠。'97年に菊池寛賞、'99年に紫綬褒章を受賞。2007年に亡くなった。

加藤和彦(作曲家)

1960年代にフォークグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」でデビューし、日本のフォーク隆盛を牽引した。その後はソロ活動と並行してサディスティック・ミカ・バンドを結成し、'70年代のロックシーンに革新をもたらす。'77年に安井かずみと再婚し、「作詞・安井かずみ/作曲・加藤和彦」の名コンビでヨーロッパ三部作などを発表。音楽理論やオーケストレーションも学び、映画や舞台、スーパー歌舞伎まで活動領域を広げた。

安井かずみ(作詞家)

フェリス女学院高等学校、文化学院油絵科卒業。画家志望だったが、アルバイトで手がけた訳詞「GIブルース」の成功を機に作詞家へ転じ、「女の子だもん」でデビューした。フランス語に通じた語学力と洗練された感性で、伊東ゆかり「おしゃべりな真珠」、沢田研二「危険なふたり」、西城秀樹「激しい恋」など数多くのヒットを生み、生涯約4000曲を作詞。キャンティを拠点に文化人との交流を重ね、加藤和彦との再婚後は理想的な夫婦像でも注目された。

なかにし礼(作詞家)

1938年生まれの作詞家・作家。代表曲「今日でお別れ」「北酒場」など約4000曲を手がけ、日本レコード大賞を3度受賞。'98年に小説『兄弟』、2000年に『長崎ぶらぶら節』で直木賞を受賞し、小説家としても高く評価された。2020年に82歳で逝去。

筒美京平(作曲家)

1940年東京生まれの作曲家・編曲家。'60年代末から作曲を始めて約3,000曲を手がけ、そのうち500曲以上がオリコンのシングルチャート入り。代表作は「ブルー・ライト・ヨコハマ」や「また逢う日まで」など多数。2020年に80歳で死去。

ささきいさお(声優ほか)

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阿木燿子(作詞家ほか)

1945年生まれの日本の作詞家・女優・作家。'75年「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」で作詞家デビュー。山口百恵など多くの歌手に詞を提供し、多数のヒット曲を生んだ。女優業やエッセイでも活躍し、2006年に紫綬褒章を受章した。

水木一郎(声優ほか)

1948年東京生まれの歌手・声優で、“アニソン界の帝王”と称される。'71年『原始少年リュウ』主題歌でアニメ歌手として脚光を浴び、『マジンガーZ』『仮面ライダー』など約1,200曲の主題歌を担当した。2022年12月、肺がんのため74歳で亡くなった。

都倉俊一(作曲家)

1948年生まれの日本の作曲家・編曲家。ピンク・レディーの「UFO」「ペッパー警部」や山口百恵の「ひと夏の経験」、山本リンダの「狙いうち」など多数のヒット曲を手がけ、1,100曲以上の作品と6,000万枚超のセールスを誇る。2018年には文化功労者に選ばれ、2021年から第23代文化庁長官を務める。

松本隆(作詞家)

日本を代表する作詞家・ミュージシャン。1970年代、バンド はっぴいえんど のドラマーとしてデビュー後、作詞家に転身。'70年代は太田裕美の「木綿のハンカチーフ」や竹内まりやの「SEPTEMBER」、'80年代は寺尾聡の「ルビーの指環」や松田聖子の「白いパラソル」「赤いスイートピー」をはじめとする数多くのヒット作品を生み出し、多くのアーティストに2000曲以上の歌詞を提供した。

松任谷正隆(音楽プロデューサー)

1951年東京都出身の音楽プロデューサー/アレンジャー/キーボーディスト。'70~'80年代にバンド活動を経て以後多くのヒット歌手(松任谷由実、松田聖子、ゆずなど)の作品を手掛け、日本のポップスを支えた。'86年に音楽学校を設立するなど育成にも注力。

深作欣二(映画監督)

1961年に監督デビュー後、'73年からの仁義なき戦いシリーズで実録ヤクザ映画の金字塔を打ち立て、「バイオレンスの巨匠」と称された。斬新な演出と群像描写で、日本映画に大きな影響を与えた。

山田洋次(映画監督)

1931年生まれの日本の映画監督・脚本家。'69年に『男はつらいよ』シリーズを開始し、以後50年以上にわたり日本人の生活や人情を丁寧に描いた作品を多数制作。現代日本映画の代表者のひとりである。

大島渚(映画監督)

日本の映画監督・脚本家で、戦後のニューウェーブ日本映画 を代表する一人。「感傷旅行」や「愛のコリーダ」など挑発的で実験的な作品で知られ、1978年にはカンヌ国際映画祭で監督賞も受賞した。

長谷川和彦(映画監督)

1976年の監督デビュー作「青春の殺人者」が評価され、'79年、沢田研二主演の「太陽を盗んだ男」で日本映画に新風を吹き込んだ。'82年には若手監督による映画制作集団「ディレクターズ・カンパニー」を創設し、日本のニューシネマ界の重要人物となった。

荻昌弘(映画評論家)

映画評論家、料理研究家、オーディオ評論家など多才な評論家。テレビ番組 月曜ロードショー の長年の解説者として知られ、その落ち着いた語り口で多くの視聴者に親しまれた。映画・音楽・食文化など広範なジャンルで評論を展開。

水野晴郎(映画評論家)

1931年生まれの映画評論家・映画監督・タレントで、'72年からテレビの映画番組「水曜ロードショー」「金曜ロードショー」の解説者として人気に。決めゼリフ「いやぁ、映画って本当にいいもんですね」で親しまれ、映画紹介から配給、監督まで手がけた映画界の顔だった。2008年に死去。

小森和子(映画評論家)

映画評論家・タレント。1950年代から洋画紹介・評論で活躍し、テレビやラジオで「小森のおばちゃま」として親しまれた。飾らない語り口と“モア・ベターよ”などの決めゼリフでファンを魅了し、昭和の映画文化の担い手の一人となった。

久世光彦(テレビプロデューサー)

TBS出身のテレビ演出家・プロデューサーで、人気ドラマ『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』『ムー一族』などを手がけた。晩年は小説やエッセイも執筆し、文学賞も受賞するなど幅広く活躍した。

金田正一(プロ野球選手・監督)

日本プロ野球を代表する左腕投手。1950-'69年に活躍し、通算400勝・4490奪三振の日本記録を樹立する唯一の400勝投手。14年連続20勝以上、完全試合、ノーヒットノーランなど数々の功績を残し、'88年に殿堂入りした。

野村克也(プロ野球選手・監督)

日本プロ野球を代表する捕手・監督。現役で通算657本塁打、2901安打を記録し、1965年に戦後初の三冠王。引退後は監督としても名を馳せ、複数球団を率いて日本一も達成。野球殿堂入り。

長嶋茂雄(プロ野球選手・監督)

1958〜'74年に読売ジャイアンツ一筋で活躍した日本プロ野球界の名三塁手。打率.305、444本塁打、2471安打を記録し、「ミスタープロ野球」と称された。引退後は同球団の監督としても日本一を経験し、国民的英雄となった。

王貞治(プロ野球選手・監督)

読売ジャイアンツで活躍した日本プロ野球の大打者。通算868本塁打という世界最多記録を残し、長打力と選球眼で圧倒的な強打者となった。引退後は監督や球団社長も務め、長く日本野球界を牽引した。

張本勲(プロ野球選手ほか)

1940年広島出身の元プロ野球選手(外野手)。通算3085安打、504本塁打、319盗塁を記録し、史上唯一の「3000安打・500本塁打・300盗塁」を達成。首位打者7回など数々のタイトルを獲得し、「安打製造機」の異名で知られた。

柴田勲(プロ野球選手)

1962〜'81年まで読売ジャイアンツ一筋でプレーした外野手。通算2,018安打、579盗塁を記録し、6度の最多盗塁王・5度のゴールデングラブ賞・12回のオールスター出場など、俊足と堅実な守備で「巨人V9時代」を支えた名選手。

田淵幸一(プロ野球選手・監督)

1946年生まれの元プロ野球選手。'69年に阪神タイガースでデビューし、新人王や'75年の本塁打王などを獲得。通算474本塁打を放った強打者で、「ホームランアーチスト」と称された。'79年から西武ライオンズに移籍し、日本一にも貢献。引退後は監督、コーチ、解説者など幅広く活躍した。

山本浩二(プロ野球選手)

広島東洋カープ一筋で活躍した名外野手。本塁打536本、安打2,339本などを記録し、「ミスター赤ヘル」の愛称で親しまれた。1975年に球団初優勝に貢献。引退後はカープ監督や日本代表監督も務め、2008年に野球殿堂入りした。

衣笠祥雄(プロ野球選手)

1947年京都府出身のプロ野球選手。1965年から'87年まで一貫して広島東洋カープに所属し、通算504本塁打・2543安打を記録。'70年から'87年にかけて2215試合連続出場という当時の世界記録を打ち立て、“鉄人”の異名を持つ。'87年に国民栄誉賞を受賞。

星野仙一(プロ野球選手)

投手として中日で活躍し、引退後は中日・阪神・楽天の監督として3球団でリーグ優勝・日本一を成し遂げた“闘将”。通算146勝の成績を残し、2017年に野球殿堂入り。

江本孟紀(プロ野球選手)

高知県出身の元プロ野球投手。1971年にプロ入りし、南海ホークス・阪神タイガースなどで活躍し通算113勝をマーク。引退後は野球解説者、タレント、小説家、著述家、'92年からは参議院議員も務めた“多才な異端児”。

江夏豊(プロ野球選手)

1948年生まれの元プロ野球投手。'68年にシーズン401奪三振という世界記録を樹立し、“最強の左腕”として君臨。通算206勝・193セーブ、防御率2.49を記録し、先発から抑えまで万能に活躍した名投手。

村田兆治(プロ野球選手)

1949年広島県出身のプロ野球投手。'68年にドラフト1位で入団し、「マサカリ投法」と呼ばれる豪快なフォームで活躍。通算215勝を挙げ、'75年・'76年に防御率1位、'81年に最多勝。'80年代に肘の故障からトミー・ジョン手術を受けつつ復帰し、「サンデー兆治」として再び大投手に返り咲いた。2005年に野球殿堂入り。

山本功児(プロ野球選手)

1975年ドラフト5位で読売ジャイアンツ入りし、その後ロッテで主力打者として活躍した。通算64本塁打、369打点を記録。引退後はロッテの監督・コーチとしてチームを率いた。

山下大輔(プロ野球選手)

1952年静岡県生まれの元プロ野球内野手。'74年に大洋ホエールズでデビューし、遊撃手として'76〜'83年に8年連続ゴールデングラブ賞を受賞。通算1378安打・129本塁打の実績を持つ。引退後はコーチや監督として活躍した。

小林繁(プロ野球選手)

1952年生まれの日本のプロ野球投手。'73年に読売ジャイアンツでデビューし、'76–'77年に連続で18勝を挙げ、'77年に沢村賞を受賞。'79年の移籍先である阪神タイガースでは22勝で最多勝と2度目の沢村賞に輝いた。通算成績は139勝95敗、防御率3.18。'83年に31歳で現役引退。2010年に心不全で逝去。

掛布雅之(プロ野球選手)

1955年千葉県出身のプロ野球選手・元内野手。'74~'88年に阪神タイガース一筋でプレーし、通算349本塁打・1019打点・打率.292を記録。「ミスター・タイガース」の異名を持ち、本塁打王3回・打点王1回・ベストナイン7回など数々のタイトルを獲得した。引退後は解説者・評論家としても活躍。

釜本邦茂(サッカー選手ほか)

日本代表歴代最多75ゴールの元ストライカー。1968年メキシコ五輪で7得点し得点王、銅メダル獲得に貢献。クラブではヤンマーディーゼルで通算202得点を記録し、監督・国会議員・日本サッカー協会副会長なども務めた。

セルジオ越後(プロサッカー選手)

ブラジル・サンパウロ生まれの日系2世サッカー選手。1972年に来日し、藤和不動産(現:湘南ベルマーレ)でプレー。引退後は日本全国で少年サッカーの普及に尽力し、解説者や指導者として日本サッカーに貢献。2023年に日本サッカー協会殿堂入り。

具志堅用高(プロボクサー)

1955年沖縄県石垣島生まれの元プロボクサー。'76年にWBA世界ライトフライ級王者となり、13回連続防衛という日本記録を達成。通算成績は23勝(15KO)1敗。引退後はタレントやジム経営者としても活動し、2015年に国際ボクシング殿堂入りした。

ジャイアント馬場(プロレスラー)

新潟県三条市出身の日本を代表するプロレスラー、元プロ野球選手。209 cmの巨体を武器に1960年デビュー後、'72年に全日本プロレスを設立。NWA世界ヘビー級王座を3度制し、プロレス界の顔として国民的人気を得た。

アントニオ猪木(プロレスラー)

日本プロレス界の象徴的存在。1972年に新日本プロレスを創設し、リング上では破格の肉体と闘志で数々の伝説を残した。政治家としても活動し、国会議員として社会にも影響を与えた。

ザ・デストロイヤー(プロレスラー)

米国出身の覆面プロレスラー。日本では「白覆面の魔王」として知られ、足4の字固めを武器に1963年初来日。力道山との激闘は社会現象となりWWA世界戦は高視聴率を記録した。以後もジャイアント馬場やアントニオ猪木と名勝負を重ね、'73年から全日本プロレスに所属。PWF認定US王者として活躍するとともにタレントとしても活動した。

中山律子(プロボウラー)

1942年生まれの日本の元プロボウラー。'69年に女子プロ1期生としてデビューし、'70年にテレビ中継で女子初のパーフェクトゲーム(300点)を達成、「さわやか律子さん」として社会的注目を浴びた。通算33勝。現在は日本プロボウリング協会の名誉会長などを務め、ボウリングの普及や後進育成に尽力した。

植村直己(冒険家)

1941年生まれの日本の登山家・冒険家。'70年に日本人で初めてエベレストに登頂、世界で初めて五大陸最高峰を制覇。'78年には単独で北極点に到達するなど数々の偉業を成し遂げた。'84年に冬季単独登頂を果たしたデナリ山で遭難し、行方不明となったが、その冒険精神は今も語り継がれている。

土井勝(料理研究家)

1921年香川県生まれ。海軍経理学校卒業後、戦後は料理研究家として活動し、自身の料理学校を主宰。家庭料理の普及に貢献し、多くの人に親しまれた。'95年、没。