男性歌手・アイドル > 1960年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

三橋美智也

北海道函館市出身。幼少より民謡歌手の母に鍛えられ、9歳で全道民謡コンクール優勝。その後は家計を助けるため巡業に参加し、津軽三味線を習いながら白川軍八郎一座で修行し、その後も園芸団などに参加して力をつける。19歳で上京し修行を積んだ後、1953年、キングレコードと契約し、翌年「酒の苦さよ」でデビュー。’55年「おんな船頭唄」が大ヒットし、「リンゴ村から」「哀愁列車」「古城」「達者でナ」などを次々とヒットさせた。民謡で培った伸びやかな高音と独特のこぶしで昭和30年代の歌謡界を牽引。「三橋で明けて三橋で暮れる」と称される人気を誇り、レコード売上は1億枚に達したとされる。

三波春夫

「お客様は神様です」のフレーズでも知られる、戦後日本に演歌で希望を与えた国民的大スター。第二次世界大戦に徴兵されて満州へ渡り、帰国後の1955年、浪曲師・民謡歌手としてデビュー。’57年「三波春夫」に芸名を改め歌謡界に進出。集団就職で上京した若者の心情を描いた2枚目の「チャンチキおけさ」が220万枚を売り上げる大ヒットとなり、’64年の東京五輪のテーマソング「東京五輪音頭」130万枚、’70年の大阪万博テーマソング「世界の国からこんにちは」300万枚などビッグヒットを連発した。功績は高く評価され、紫綬褒章、勲四等旭日小綬章、新潟県民栄誉賞など、栄誉ある数々の賞に輝いた。

村田英雄

福岡県出身。浪曲師の両親のもとに生まれ、幼少期から舞台に立つ。5歳で酒井雲に弟子入りし、13歳で真打に昇進、14歳で一座を率いた。戦後は浪曲師として活動するが、上京後に改名し、村田英雄として芸道を歩む。1958年、古賀政男に見出され、「無法松の一生」で歌手デビュー。浪曲の語りを生かした独自の歌唱で注目される。’61年、「王将」が大ヒットし、日本レコード大賞特別賞を受賞。三波春夫と並ぶ国民的スターとして人気を博す。以後「人生劇場」なども再評価され、演歌歌手として不動の地位を築いた。

北島三郎

1962年、「ブンガチャ節」で歌手デビューし、同年末に「なみだ船」で日本レコード大賞新人賞を受賞、演歌界に名乗りを上げる。’65年に「兄弟仁義」「帰ろかな」「函館の女」が相次いでヒットし、人気演歌歌手の地位を確立。映画『兄弟仁義』にも出演し、任侠演歌としてのキャリアを築いた。その後も「与作」「まつり」など数々の名曲を生み出し、紅白歌合戦には通算50回出場、13回トリ(大トリ)を務めるなど紅白史上最多出演記録を達成した。’72年に北島音楽事務所を設立し、以降は「原譲二」のペンネームで作詞・作曲・演出にも取り組むなど演歌の大御所として活動の幅を広げ、現在も第一線で活躍を続けている。

井沢八郎

中学卒業後に上京し、バンドマンとして活動しながら作曲家・大沢浄二に師事。1963年、東芝音楽工業から「男船」でレコードデビューし、30万枚を売り上げた。翌’64年の「 あゝ上野駅」は高度経済成長期の集団就職者の心情を描き大ヒットし、代表曲となった。この曲は上野駅の発車メロディにも採用されている。その後も「男傘」「北海の満月」などをヒットさせ、伸びやかなハイトーンの美声で長年演歌界で活躍した。晩年までショー・テレビ出演に取り組み、2007年に死去した。娘は歌手で女優の工藤夕貴。

一節太郎

“流しのギター弾き”として全国を巡り、作曲家・遠藤実の内弟子第1号として師事した。1963年、「浪曲子守唄」でレコードデビューを果たし、独特の歌唱法で薄幸な男の人生をしみじみと歌った同曲は発売後2年間で100万枚を突破、’99年までに200万枚を売り上げた。セルフスタイルの浪曲演歌として高い人気を博し、「出世子守唄」など“子守唄シリーズ”で世界観を確立。現在も第一線で活動を続け、男の情感を歌い続けている。

五木ひろし

1964年「コロムビア全国歌謡コンクール」で優勝しデビューを果たし、芸名を松山まさる、一条英一、三谷謙と改名するも苦戦した。’70年、『全日本歌謡選手権』で10週間勝ち抜きグランドチャンピオンとなり、’71年に「五木ひろし」として「よこはま・たそがれ」で再デビュー、大ヒットを記録した。以降、「夜空」「契り」「長良川艶歌」などヒットを重ね、紅白歌合戦には50回連続出場(歴代1位)し、日本レコード大賞の大賞や最優秀歌唱賞、金賞を歴代最多で受賞、コンサート動員数は延べ2,000万人以上にのぼる。福井県からは県民賞を受賞し、芸術選奨文部科学大臣賞、紫綬褒章、旭日小綬章も受章している。

千昌夫

17歳の時に作曲家・遠藤実に弟子入り。1965年に「君が好き」で歌手デビューした。翌’66年発売の「星影のワルツ」は、地道なリクエスト活動により’67年にミリオンセラーの大ヒットとなり、NHK紅白歌合戦に初出場を果たした。’77年にリリースされた「北国の春」は再び大ヒットを記録し、ミリオンセラーとなって日本レコード大賞ロングセラー賞を受賞、アジア各国でも広く親しまれた。 その後も「味噌汁の詩」「望郷酒場」「津軽平野」など数々の名曲を発表し、演歌界のレジェンドとして長年にわたり愛され続けている。

杉良太郎

1965年、日本コロムビアから「野郎笠」で歌手デビューした。翌’66年には俳優としてもデビューし、NHK時代劇『文五捕物絵図』で主演を務めて脚光を浴びた。その後『遠山の金さん』『右門捕物帖』『新五捕物帳』など時代劇を中心に1400本以上の作品で主演を続けた。歌手としては「すきま風」などのヒット曲を持ち、多才な活動を展開した。ま芸能活動とともに福祉活動にも長年取り組み、刑務所慰問や国際的な文化交流を通じて社会貢献を続け、法務省・厚労省・警察庁の特別監に委嘱されるなど公的にも評価されている。その功績により緑綬褒章、紫綬褒章、文化功労者など数々の表彰を受けている。

森進一

1965年、フジテレビ系『リズム歌合戦』で優勝し渡辺プロ入り。’66年6月に「女のためいき」でデビューし、この曲は35万枚を売り上げるヒットとなる。’68年には「盛り場ブルース」で第1回全日本有線放送大賞と日本有線大賞を受賞し、紅白歌合戦にも初出場を果たす。’69年の「港町ブルース」、’71年の「おふくろさん」、’74年の「襟裳岬」などが次々と大ヒットし、演歌界を代表する存在となる。紅白歌合戦には48回連続出場し、2021年には、歌手生活の功績が認められ旭日小綬章を受章した。

冠二郎

作詞家・三浦康照に師事し、1967年にビクターレコードより「命ひとつ」でデビューしたが、当初はヒットに恵まれなかった。’77年、テレビドラマ『海峡物語』主題歌の「旅の終りに」がミリオンセラーとなり、ようやく注目を集め、 その後’92年に「炎」で鮮烈なブレイクを果たし、“ネオ演歌”“アクション演歌”の旗手として若年層にも支持された。 さらに「酒場」「みれん酒」などのヒットで紅白歌合戦に3回出場、独自のキャラクターとステージ演出で幅広いファン層から愛された。

矢吹健

高校卒業後に上京し、作曲家・藤本卓也のもとで歌唱スタイルを磨いた。1968年に「あなたのブルース」でレコードデビュー。ハスキーでため息混じりの“ミスティーヴォイス”は強い個性を放ち、同曲で第10回日本レコード大賞新人賞(男性部門)、第1回日本有線大賞新人賞、第1回新宿音楽祭金賞を受賞し、ブレイクを果たした。その後も「真っ赤な夜のブルース」「蒸発のブルース」「うしろ姿」など数々のシングルを発表し、’70年代にかけて活躍。’80年代以降も自ら作詞作曲を手がけ、独自の音楽世界を追求したが、晩年は活動が限定的になり、2015年1月に逝去した(没年齢69歳)。

'60年代の演歌

戦後直後は「股旅もの」や「流れ者」的世界観から叙情的・抒情的な「哀愁の演歌」へ変化。’60年代は「ふるさと」「母」「人生の哀しみ」「別れ」などをテーマに、庶民の感情を歌うものが中心となった。三味線や尺八を中心にした伴奏に、浪曲的こぶしを抑えた歌唱法が導入され、美空ひばり、春日八郎、三橋美智也がその流れを牽引した。「函館の女」(’65・北島三郎)、「兄弟仁義」(’65)など、地方や人情をモチーフにしたご当地演歌も台頭し、北島三郎、村田英雄、三波春夫らが男の義理と人情の世界を力強く歌い上げた。和田弘とマヒナスターズ、ロス・インディオスなどの登場でムード歌謡も人気となり、都会的で艶のある「夜の演歌」も定着した。

平浩二

1967年に歌手を目指して上京し、’69年に「なぜ泣かす」でテイチクレコードよりデビュー。’70年には「女の意地」(西田佐知子との競作)がヒットし、’72年にリリースした「バス・ストップ」がオリコンで大ヒットを記録した。その後も「夜明け前」「冬の駅」などのヒット曲を重ね、歌唱力と甘い歌声で人気を博した。2015年に故郷・佐世保市の初代名誉観光大使に就任し、地元にも貢献。現在も精力的に音楽活動を続け、2021年にはくも膜下出血から奇跡的に復帰しステージに返り咲いた。

橋幸夫

1960年に高校1年生でビクターのオーディションに合格し、作曲家・吉田正に師事した上で「潮来笠」でデビュー。同曲は爆発的なヒットとなり、日本レコード大賞新人賞の第1回受賞者となった。以降、吉永小百合とのデュエット「いつでも夢を」、そして「霧氷」でレコード大賞を連続受賞し、舟木一夫・西郷輝彦とともに「御三家」と称される人気歌手となった。紅白歌合戦には通算19回出場し、映画・テレビ・舞台でも俳優としても活躍。2023年5月に歌手活動から引退を表明した後も芸能や社会貢献活動に意欲的に取り組んだ。

フランク永井

1955年「恋人よわれに帰れ」でデビュー。低音の魅力で“ムード歌謡”を開拓。「有楽町で逢いましょう」など都会的な歌が人気を博す。サラリーマン層にも愛され、夜の街に寄り添うような歌唱が支持された。晩年は脳梗塞で活動制限されるも、不屈の精神で復帰した。

水原弘

1959年、永六輔作詞による「黒い花びら」でデビュー、60万枚に迫る大ヒットとなり、新人ながら第1回日本レコード大賞を受賞する。甘いルックスと低音による大人のムード歌謡で女性人気を集め、アース製薬のCM出演で後世にも広く知られる存在に。’78年、41歳で急逝。短命に終わった天才型歌手として記憶される。

石原裕次郎

1956年、映画『太陽の季節』で役者デビュー。同年の映画『狂った果実』で主演を務めるとともに、同名のシングルで歌手デビューした。日活映画のスターとして絶大な人気を誇り、’60年代には大型スターとして確固たる地位を築く。歌手としても「銀座の恋の物語」「夜霧よ今夜も有難う」などが大ヒット。男の哀愁を漂わせる歌唱と独特の色気で、芸能界随一のカリスマとして、没後も命日には大々的な特番が組まれる。

小林旭

1956年に映画『飢える魂』で役者デビューし、’58年「女を忘れろ」で歌手デビューした。役者として石原裕次郎と並ぶ日活のスターとなり、「渡り鳥」シリーズなどで日活黄金時代を築く。歌手としてもデビュー曲は大ヒット、続く「ダイナマイトが百五十屯」もヒットし、”マイトガイ”と呼ばれ国民的人気者となる。美空ひばりとは事実婚の関係にあり、関係の解消後も、映画『仁義なき戦い』や’75年発売の『昔の名前で出ています』’79年『赤いトラクター』(’77年~ヤンマーCMソング)’85年『熱き心に』の大ヒットなど長年にわたり活躍した。

坂本九

高校時代に日劇「ウエスタン・カーニバル」で歌手デビューし、その後「ダニー飯田とパラダイスキング」で活動を始めた。1960年には東芝音楽工業へ移籍し「悲しき六十才」が初ヒットとなる。’61年10月発売の「上を向いて歩こう」は、海外で“SUKIYAKI”のタイトルで’63年に米ビルボードHot 100で3週連続1位を記録。日本語曲として唯一の快挙である。以後も「見上げてごらん夜の星を」「明日があるさ」など多数のヒットを生み、映画・テレビ・司会など多方面で活躍し、福祉活動にも尽力した。’85年、日航123便墜落事故で43歳で急逝したが、その歌声と笑顔は今も多くの人々に愛され続けている。

守屋浩

1957年、「スイング・ウエスト」のバンドボーイとして芸能界入りし、 ’58年、日劇ウエスタンカーニバルで正式に歌手デビュー。堀威夫のプロデュースで芸名を「守屋浩」とする。代表曲に「僕は泣いちっち」「有難や節」「大学かぞえうた」「星空に両手を」などがあり、これらは当時のロカビリーブームの中で人気を博す。「星空に両手を」は島倉千代子とのデュエットで、約70万枚を売りあげるヒットとなる。 ’76年、歌手・俳優としての主な活動を引退し、ホリプロ(当時堀プロダクション)の社員となり、「ホリプロタレントスカウトキャラバン」を発案・運営。榊原郁恵らアイドルを発掘した。

加山雄三

慶應義塾大学法学部卒業後、1960年に東宝と専属契約を結び、映画『男対男』で俳優デビュー。翌’61年、『大学の若大将』で主演し“若大将”シリーズが始まるとともに、『夜の太陽』で歌手デビュー。’65年には主題歌「君といつまでも」が350万枚を超える大ヒットとなり、日本のポピュラー歌謡界における代表的存在となる。以降、若大将シリーズの俳優としての活躍のみならず、自作曲家(ペンネーム “弾 厚作”)としても名を馳せ、多重録音の導入など音楽的にも先駆的に活動する。

佐川満男

1962年「夜がわかれる」でデビュー。甘いマスクと柔らかい歌声で’63年「今は幸せかい」がヒットし、端正な青春スターとして人気を集める。のちに俳優業にも進出し、誠実な人柄と安定した演技力でドラマなどにも多数出演。歌手としても地道に活動を続けている。

ジェリー藤尾

1962年「悲しき願い」でデビュー。日系カナダ人の出自を持つ俳優兼歌手。「遠くへ行きたい」が代表曲で、同名の長寿番組のテーマとしても有名に。穏やかな語り口と情緒ある歌声で多くのファンを獲得した。俳優業でも活躍し、多文化背景を持つ存在として記憶される。

菅原洋一

’62年にレコードデビューし、’65年発売の「知りたくないの」が’67年に大ヒット、一躍人気歌手となる。’68年に日本レコード大賞歌唱賞、’70年には「今日でお別れ」でレコード大賞を受賞した。「忘れな草をあなたに」などヒット曲も多く、海外の著名アーティストとも共演。丸顔から「ハンバーグ」という愛称がつき、司会など多方面でも活躍。’83年にはシルヴィアとの「アマン」がデュエットの名曲として支持を得た。

アイ・ジョージ

流しの歌手から出発し、1953年に黒田春雄名でデビューするが方向性の不一致でレコード会社を退社し、再び流しとして全国を回る。’59年に大阪の高級クラブ「アロー」で人気を得て専属歌手となり、同年にアイ・ジョージとして再デビュー。以後、『硝子のジョニー』『赤いグラス』などのヒットを放ち、’60~’71年に紅白へ12年連続出場した。カーネギー・ホール公演を果たすなど国際的舞台にも立った。

高石友也

1960年代後半から2020年代まで活動した日本フォーク界の草分け的存在で「受験生ブルース」で知られる。アメリカ民謡の日本語カバーから出発し、反戦フォークの担い手として注目され、のちにブルーグラスや民謡などへ幅広く展開した。多彩な楽器を操り、ザ・ナターシャー・セブンでの活動や「宵々山コンサート」を主宰するなど地域文化にも貢献。テレビ番組の旅企画でも親しまれた。

田辺靖雄

1963年「夜の太陽」でデビュー。スマートな容姿で“和製プレスリー”とも呼ばれ、青春歌謡を中心に活躍する。のちに九重佑三子との「夫婦デュエット」でも知られ、芸能界きってのおしどり夫婦として話題となる。2001年より日本歌手協会理事長としても活動し、歌謡界の発展に尽力。

舟木一夫

1963年6月「高校三年生」でデビュー。学園ソングの代名詞的存在として爆発的ヒットとなった。「修学旅行」「学園広場」など青春歌謡を多く歌い、“橋・舟木・西郷”の御三家の一角として時代を牽引。学ラン姿がトレードマーク。近年も精力的にコンサート活動を続け、シニア層の心をつかんでいる。

三田明

1963年「美しい十代」でデビュー。さわやかな笑顔と高音の澄んだ声で青春歌謡を彩った。「十七才のこの胸に」などヒットを重ね、女性ファンの支持を集めた。のちに俳優や司会業にも活動の幅を広げる。2020年代に入っても歌手活動を継続中で、長年のファンに支えられている。

飯田久彦

1963年「ルイジアナ・ママ」でデビュー、日劇ウエスタンカーニバル出身。明るい歌声とアメリカンスタイルでティーン層に人気を博した。のちに東芝EMIや徳間ジャパンの重役としてプロデューサーに転身し、HOUND DOGや渡辺美里らを育てた。歌手から業界のキーパーソンへと変貌した稀有な存在。

佐々木功

1964年「君の瞳を見つめて」でデビュー。ロカビリー調の歌手として活躍後、’70年代にはアニメソングの王者に。「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」など、雄大で熱い歌唱で“アニソンの帝王”と呼ばれる。俳優・声優としても活動し、現在も尚全国のアニソンイベントに精力的に出演する現役歌手。

西郷輝彦

1964年12月「君だけを」でデビュー。“橋・舟木・西郷”の御三家のひとり。デビュー曲でいきなり大ヒットし、清潔感あるルックスと明朗な歌声で一躍トップアイドルとなる。青春歌謡から演歌まで幅広く歌い、「星のフラメンコ」なども大ヒット。後年は俳優としても活躍、特に時代劇で存在感を示した。

布施明

1965年「君に涙とほほえみを」でデビュー。圧倒的な声量と歌唱力で、歌謡界にクラシックやミュージカルの要素を持ち込んだ。「シクラメンのかほり」「積木の部屋」など大ヒットを連発。紅白出場は20回以上。近年も音楽劇やオーケストラとの共演など精力的に活動しており、日本を代表する本格派歌手の一人。

美川憲一

1965年「だけどだけどだけど」でデビュー。’66年「柳ヶ瀬ブルース」で大ブレイク。独特のコブシと演出力でムード歌謡界を代表する存在となる。’70年代に一時低迷するも、’80年代に再ブレイクし、コロッケのものまねをきっかけに新たな人気を獲得。個性的なキャラクターとともに、歌手としても再評価された。

マイク眞木

1966年、日本のフォーク黎明期を代表するヒット曲「バラが咲いた」でデビュー。爽やかなメロディと平易な歌詞が広く愛され、フォークソングの普及に貢献した。俳優・司会者としても活動し、芸能一家としても知られる。温かみのある歌声とナチュラルな存在感で長く親しまれている。

内田裕也

1967年「恋のカクテル」デデビューした和製ロックのパイオニア。商業歌謡の枠に収まらず、ロックンロールの精神を貫いた異端の存在。映画プロデュースや政治発言でも話題となり、歌手としては「コミック雑誌なんかいらない」など実験的な作品が多く、“ロック界のアウトロー”として伝説的な存在となる。

山田太郎

1963年「清らかな青春」でデビュー。’65年発売の「新聞少年」がヒットし、お茶の間の人気者となる。歌手のほか役者としても活動し、時代劇を中心にドラマに多数出演。馬主としても有名で、日本馬主協会連合会会長、中山馬主協会会長などの要職も務める。

バーブ佐竹

1967年「女心の唄」でデビュー。独特のビブラートと情感たっぷりの歌唱でムード歌謡に新風を吹き込んだ。「女心の唄」は100万枚超の大ヒット。低音の美しさと哀愁を帯びたメロディで中高年層の支持を集めた。私生活でも波乱万丈だったが、その姿がまたファンの心を打った。

美樹克彦

1967年「花はおそかった」でデビュー。都会的な感性と繊細な歌声でデビュー曲は大ヒット。作詞作曲も手がけるマルチな才能で、自己プロデュース型歌手の先駆けとなった。のちに麻丘めぐみなどへの楽曲提供でも知られ、歌謡界の裏方としても貢献。自身の活動も継続中。

尾藤イサオ

1969年「悲しき願い」でデビュー。ブルースとロックの要素を日本の歌謡に融合させた先駆者で、熱唱型でダイナミックな歌唱が特徴。「あしたのジョー」の主題歌などでも知られ、アニメ主題歌やテレビ出演も多い。独自のスタイルを貫き、異色ながらも存在感ある歌手として活躍した。

城卓矢

1969年「骨まで愛して」でデビュー。デビュー曲は大ヒットし、ムード歌謡の名曲として定着した。低音で甘い声と大人の色気を感じさせる歌唱が魅力。’70年代以降は表舞台からやや退くが、昭和歌謡の名歌手として根強い人気を持ち続けた。

ピーター

1969年10月「夜と朝のあいだに」でデビュー。中性的な美貌と艶のある歌声で異彩を放ち、デビュー曲はオリコン1位を記録。俳優としての活動も多く、「新宿鮫」などで実力派として評価された。性別やジャンルを超えた唯一無二の存在として、LGBTQ+の先駆的なシンボルともいわれる。歌手としても独特の世界観で長く愛された。

皆川おさむ

3歳の頃から、自身の叔母が主宰する児童合唱団に所属し『ヤン坊マー坊天気予報』のCMソングなどを歌う。1969年、6歳の時、イタリアの動揺を日本語でカバーした「黒ネコのタンゴ」でデビューすると、オリコンのシングルチャート14週連続1位という大ヒットとなり、一躍国民的幼児歌手となる。その後は一時芸能活動から離れるも、大人になってから舞台俳優として復帰。童謡歌手としての評価も高く、子ども番組などでも活躍した。レコードは現在も懐メロ番組で紹介されることが多い。

上條恒彦

高校卒業後1958年に長野から上京、住み込み雑貨店員や新聞配達など様々なアルバイトをしながら「歌声喫茶」で歌唱力を磨いた。’69年「雨よ降れ」で歌手としてレコードデビュー。’71年、「六文銭」と共演した「出発の歌」がヒットし、同年世界歌謡祭グランプリ・歌唱賞を受賞。’72年にはNHK紅白歌合戦に初出場し、時代劇『木枯し紋次郎』の主題歌「だれかが風の中で」が広く知られるヒット曲となる。歌手活動と並行して俳優・舞台俳優としても活動。「3年B組金八先生」で教師役を務め、舞台では『ラ・マンチャの男』の牢名主役など長期間にわたる出演を継続。声優としてもアニメや映画に声を寄せた。

男性歌手・アイドル > 1970年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

沢田研二

1967年、ザ・タイガースのボーカルとしてデビュー。愛称の”ジュリー”は本人の発案で、女優のジュリー・アンドリュースが好きだったことから。タイガース解散後に萩原健一らと新グループPYGを結成後、’71年に「君をのせて」でソロデビュー。PYGは個々の活動に重心が移り形骸化した後に自然消滅した。’73年の「危険なふたり」がオリコン1位を獲得し、’75年「時の過ぎゆくままに」がTBSドラマ『悪魔のようなあいつ』の挿入歌となり大ヒットした。ビロードのような声で放たれる圧倒的な歌唱、中性的な美貌と色気、独特のファッションとパフォーマンスでジュリー全盛期が到来し「勝手にしやがれ」ほか続々とヒット曲を連発、数々の音楽大賞を総ナメにし歌謡界を席巻する。未だにその人気と存在感を超える歌手はいないとも言われる、昭和歌謡界のスーパースター。

萩原健一

1967年、ザ・テンプターズのボーカルとしてデビュー。ショーケンの愛称で親しまれ「神様お願い!」や「エメラルドの伝説」などのヒット曲で一躍人気を博す。テンプターズ解散後、’71年に沢田研二らとロックバンドPYGを結成するも、並行して松竹映画『約束』やテレビドラマ『太陽にほえろ!』などで俳優活動も開始、マカロニ刑事役で人気を確立する。その後はNHK大河ドラマや日本テレビ『傷だらけの天使』『前略おふくろ様』ほか多数の映画作品でも主役を務め、俳優としての才能が高く評価され、後進にも大きな影響を与える存在となる。音楽活動も継続し、’79年の「大阪で生まれた女」’87年の「愚か者よ」がヒット。2019年、68歳で永眠した。

'70年代の音楽番組

’70年代の代表的な音楽番組は『夜のヒットスタジオ』(フジTV系、’68-’90年)、『ザ・ベストテン』(TBS系、’78–’89年)、『ステージ101』(NHK、’70–’74年)『ベスト30歌謡曲』(テレビ朝日系、’72-’76年、’78-’79年)『シオノギ ミュージックフェア』(’64年-)。夜ヒットは生演奏とフルコーラスにこだわり、アイドルからニューミュージック、ロック、演歌、海外アーティストも出演。オープニングのリレー方式で歌がつながる「オープニングメドレー」が名物で22年にわたり放送され人気を集めた。また、ザ・ベストテンはオリコンに準じたランキング形式で毎週のヒット曲を発表。視聴者からの投票(ハガキ)が評価に反映されるスタイルでランクインした出演者がミラーの扉から登場し、最高視聴率は41.9%を記録するなど国民的番組となった。黒柳徹子が司会を務めた。

郷ひろみ

1972年、NHK大河ドラマ『新・平家物語』出演を経て「男の子女の子」で歌手デビュー。中性的な魅力と華やかなルックスで人気を博し、「小さな体験」「よろしく哀愁」などのヒットを連発。西城秀樹、野口五郎と共に「新御三家」と呼ばれ’70年代のトップアイドルとなる。’80年代には「お嫁サンバ」「哀愁のカサブランカ」などで新たなイメージを打ち出し、以降も時代ごとに変化を取り入れた活動を展開。’99年「GOLDFINGER ’99」の大ヒットで再ブレイクし、その後も「2億4千万の瞳」など代表曲と共に精力的なライブ活動を続ける。長年にわたり第一線で活躍し続ける国民的スター。

西城秀樹

1972年「恋する季節」で歌手デビューし、圧倒的な歌唱力と情熱的なパフォーマンスで注目される。その後「激しい恋」「傷だらけのローラ」など次々とヒットを飛ばし、野口五郎、郷ひろみと共に「新御三家」として’70年代の歌謡界をけん引。’79年の「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」は200万枚を売り上げる国民的ヒットとなり、明るく健康的なイメージで幅広い世代に支持された。『寺内貫太郎一家』などドラマ・舞台・CMでも広く活躍した。2003年以降、脳梗塞の後遺症と闘いながらも歌手活動を続け、懸命にステージに立つ姿は多くの人々に感動を与えた。2018年に惜しまれつつ逝去。その情熱と努力は今も語り継がれている。

野口五郎

1971年「博多みれん」で演歌歌手としてデビューするもヒットせず、同年「青いリンゴ」で再デビューし、アイドルとして人気を博す。’72年「めぐり逢う青春」、’73年「オレンジの雨」、’74年「甘い生活」など、筒美京平らの手による叙情的な歌謡曲でヒットを重ね、郷ひろみ・西城秀樹と共に「新御三家」と呼ばれ活躍する。’70年代後半は「私鉄沿線」「針葉樹」「むさし野詩人」など大人の雰囲気の作品でも評価を得た。’80年代以降は俳優業や音楽活動を並行しつつ作曲家としても活動。近年もコンサートやメディア出演を継続しており、長年にわたって多方面で活躍を続けている。

にしきのあきら

1970年、CBSソニーより「ソニー演歌の騎士」として歌手デビューし、デビュー曲「もう恋なのか」で日本レコード大賞・最優秀新人賞を受賞、紅白歌合戦にも初出場した。翌’71年には「空に太陽がある限り」がオリコン週間3位の大ヒットとなり、代表曲となった。’70年代前半から中期にかけて、抜群の歌唱力と精悍なルックスで人気を博し、トランペットの演奏やスポーツ万能ぶりも話題となる。’70年代後半からは映画『野良猫ロック ワイルド・ジャンボ』『戦国自衛隊』、ドラマ、バラエティと幅広く活躍し、『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』などで“スターにしきの”の愛称で再注目を浴びた。

子門真人

1970年代から多数の特撮・アニメ主題歌を歌ったシンガーで’80年代も音楽界で活躍を続けた。’71年の『仮面ライダー』の主題歌「レッツゴー!!ライダーキック」の大ヒットで注目を集め、その後も円谷プロ作品など多くの主題歌を担当。『ひらけ!ポンキッキ』で’75年に発表された「およげ!たいやきくん」はオリコン史上初の初登場1位の快挙とともにミリオンヒットとなり、国民的歌声として知られるようになった。アフロヘアと眼鏡の風貌やコミカルな楽曲でも人気を博し、子ども番組や主題歌を通じて幅広い層に親しまれたが、代表曲となる2曲はいずれもアルバイト料や買取で歌唱したもので、多額となったはずの歌唱印税は受け取っていないとされる。

尾崎紀世彦

1960年に「ヒロ・ハワイアンズ」でバンド活動を開始し、’67年からコーラス・グループ「ザ・ワンダース」で活躍。’70年8月に「別れの夜明け」でソロ歌手としてデビューするが、交通事故による入院で宣伝ができず苦戦。’71年3月リリースのセカンドシングル「また逢う日まで」が100万枚超の大ヒットを記録し、日本レコード大賞・日本歌謡大賞の大賞をダブル受賞。第22回NHK紅白歌合戦へも出場する。代表曲には「さよならをもう一度」や「雪が降る」などもあり、パワフルなバリトン歌唱と印象的なもみあげがトレードマーク。2012年5月30日に肝臓がんにより69歳で逝去、没後は特別功労賞や「大衆音楽の殿堂」入りを果たしている。

本郷直樹

1971年、『スターへばく進!!』という日本テレビのオーディション番組でグランドチャンピオンとなり、同年8月に「燃える恋人」で歌手デビュー。この曲で第13回日本レコード大賞新人賞を獲得し、“和製プレスリー”と呼ばれ人気を博した。以降は歌手活動と並行して俳優としても活躍し、ドラマ『アイちゃんが行く!』『特捜最前線』、映画『新・同棲時代―愛のくらし―』など多数に出演。’89年以降は演歌路線にイメージチェンジしつつ活動を続行。その後も困難な闘病生活を乗り越えながら芸能活動を継続し、2021年に心筋梗塞のため逝去した。

田中星児

1970年、NHKの音楽番組『ステージ101』のヤング101の一員として出演し、これが歌手としてのデビューのきっかけとなる。翌’71年より幼児番組『おかあさんといっしょ』の初代“うたのおにいさん”を務め、幼児番組界をけん引 。’76年、シングル「ビューティフル・サンデー」が大ヒットし、オリコン最高4位、紅白歌合戦初出場を果たす。以降も「北風小僧の寒太郎」などの楽曲で親しまれ、作曲家として「中山竜」のペンネームでNHK『みんなのうた』にも作品を提供し、幅広い世代に愛される存在となる。

伊丹幸雄

高校中退後、ザ・ワイルドワンズの付き人を経て1972年にCBSソニーから「青い麦」で歌手デビューし、オリコン22位を記録した。ワイルドワンズだった加瀬邦彦氏のプロデュースが功を奏し、当時は西城秀樹、田頭信幸とともに「新人三羽烏」と称された。以後「合言葉」「僕だけひとりぼっち」などシングルを発表し、ネオGSの旗手として活動。’80年代以降は俳優としても多くのドラマ・映画に出演し、バラエティ番組『オレたちひょうきん族』ではユニークなキャラクターも演じた。

丸山明宏(美輪明宏)

16歳でプロ歌手として活動を開始し、1957年、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」で「メケ・メケ」が大ヒットして一躍注目される歌手となった。’65年、シンガーソングライター的手法で制作・発表した「ヨイトマケの唄」が大きな話題となり、心に響く歌詞で再評価される。以降、俳優、演出家、声優、ナレーター、コメンテーターとしても活躍を広げ、文化人としての地位を築く。現在もテレビ・ラジオ番組や執筆、舞台など多岐にわたる活動を続け、唯一無二の存在として第一線に立ち続けている。

城みちる

1973年、中学3年でオーディション番組『スター誕生!』第7回チャンピオンに輝き、父の反対を押し切って芸能界入りした。’73年12月『イルカにのった少年』で東芝EMIから歌手デビュー、50万枚超のヒットとなり、日本レコード大賞新人賞を受賞。童顔で細身のルックスと確かな歌唱力で、「新新御三家」の一人と称されるほどの人気アイドルとなる。’77年、父との約束に従い10枚目のシングル発売後、20歳で歌手を引退し実家の電器店を継ぐため広島に戻る。

あおい輝彦

1962年、ジャニーズの創設メンバーとして芸能界入りしデビュー。’67年にグループ解散後はソロ歌手および俳優・声優へ転身。’68年にドラマ『おやじ太鼓』で俳優デビュー、’70年にはアニメ『あしたのジョー』で主人公・矢吹丈の声優を務めた。’71年シングル「二人の世界」がヒット、その後’76年の「あなただけを」がオリコン週間1位を6週連続獲得し紅白にも初出場した。俳優としては’88年から2000年まで『水戸黄門』で“助さん”役を12年間務め、幅広い世代に親しまれた。

あいざき進也

1973年、オーディション番組『スター・オン・ステージ あなたならOK!』でグランドチャンピオンに輝き、翌’74年1月「気になる17才」でデビュー。小柄な体型と中性的で甘い歌声、さらにバク転も披露する運動神経の良さから“元祖アクロバットアイドル”と称され、’70年代のアイドル全盛期に人気を博す。デビュー初期には「新新御三家」の一人として注目され、第1回FNS歌謡祭新人賞を受賞するなど華々しいスタートを切って活躍した。

中村雅俊

慶應義塾大学卒業後、1973年に文学座附属演劇研究所に入所し、’74年に日本テレビ系ドラマ『われら青春!』の主役に抜擢され俳優デビュー。挿入歌「ふれあい」で歌手デビューし、オリコンで10週連続1位を獲得するなどの大ヒットとなる。以降、俳優としてテレビドラマ34本を含む100本以上の主演作を持ち、映画や舞台にも出演。歌手としてもシングル55枚、アルバム41枚をリリースし、毎年全国コンサートツアーを開催。’82年には『第33回NHK紅白歌合戦』に初出場し、歌手としても人気を博す。

豊川誕

1975年4月「汚れなき悪戯」でデビュー。ジャニーズ事務所出身で、甘いルックスと歌声で人気を集めた。捨て子で、孤児院で育った時代を持つという生い立ちを隠さず、その背景を彷彿とさせる歌詞の2ndシングル「星めぐり」が10万枚を超えるヒットとなる。その後は歌手活動を経てプロボクサーやカーレーサー、ギフトショップの経営など多岐にわたるジャンルで活動、また2000年代に入ってからも歌手活動を行っている。

井上純一

1975年「恋人ならば」でレコードデビュー。デビュー時のキャッチフレーズは”ポストひろみ”だった。歌手としては目立つヒットはなかったものの、『ゆうひが丘の総理大臣』ほか多数のドラマ作品に出演し、お茶の間に馴染み深い俳優となった。

清水健太郎

TBSの人気番組『ぎんざNOW!』に出演し注目を集め、1976年11月「失恋レストラン」で歌手デビュー。同曲は翌年にかけて大ヒットし、’77年の新人賞を総ナメにした。以降は歌手と並行して俳優として活動し多数のドラマにも出演するも、薬物や交通事故などの不祥事も多く、表舞台から遠ざかった後、Vシネマで復活した。

太川陽介

1976年「陽だまりの中で」で歌手デビュー。’77年の「Lui-Lui」がヒットし、同年の新人賞を数々の音楽賞で受賞した。’79年にはNHKの人気音楽番組『レッツゴーヤング』の司会を務めるなどトーク力の高さでタレントとして多方面で活躍し、近年も『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』シリーズなどで親しまれる。配偶者は女優の藤吉久美子。

草川祐馬

1973年、よみうりテレビの視聴者参加番組で西城秀樹のモノマネで優勝しスカウトされ、’75年「若者時代」でレコードデビュー。歌手活動とともに俳優としてドラマ出演も多く、NHKの連続テレビ小説や『暴れん坊将軍』『必殺シリーズ』『水戸黄門』などの時代劇でも活躍する。

川崎麻世

西城秀樹の真似で出演したよみうりテレビの視聴者参加番組でグランドチャンピオンとなり、ジャニーズ事務所にスカウトされ、1976年「ラブ・ショック」でデビュー。ルックスの良さでブロマイドがヒットし、NHKの音楽番組『レッツゴーヤング』に”サンデーズ”の一員として起用され人気アイドルとなる。

森田健作

1975年「さらば涙と言おう」は青春ドラマ「おれは男だ!」の人気絶頂期にリリースされた主題歌で、爽やかな青春像の象徴としてヒット。歌手というよりは“青春スター”としての存在感が強く、その明朗なキャラクターが当時の若者に強く支持された。後に政治家としても活動。

湯原昌幸

1970年、ソロ歌手として「見知らぬ世界」でデビュー、翌年の「雨のバラード」が累計120万枚を売り上げる大ヒットへ。以降、マルチタレントとして司会や俳優、パネラー、レポーターとしても活躍。明快なトークと温かいキャラクターでお茶の間に親しまれた。2003年には「冬桜」がロングセラーとなり、第37回日本有線大賞・有線音楽優秀賞を受賞。以降も歌手活動を並行して継続する傍ら、講演やテレビ、地域イベントにも精力的に出演。荒木由美子との“おしどり夫婦”ぶりも知られる。

石橋正次

1970年、日活映画『非行少年 若者の砦』および『あしたのジョー』で俳優デビュー。同年、舞台俳優としての下地を固める。’72年に歌手として「夜明けの停車場」を発表しこの曲がヒットを記録。同年の第23回NHK紅白歌合戦に出場した。俳優としては『飛び出せ!青春』『アイアンキング』などのテレビドラマに多数出演し、不良少年役から刑事、時代劇、助演まで幅広く活躍。その後も舞台出演を続け、名バイプレーヤーとして多方面で活躍を続ける。

松崎しげる

1970年、シングル「8,760回のアイ・ラブ・ユー」でソロ歌手としてデビュー。当初はCMソング歌手として活動し、’72年の「黄色い麦わら帽子」がスマッシュヒットとなる。’76年にスペイン・マジョルカ音楽祭で「愛の微笑」が最優秀歌唱賞・第2位を獲得し、翌’77年に「愛のメモリー」としてリリースされ大ヒット。日本レコード大賞歌唱賞を受賞し、紅白にも初出場した。俳優・タレントとしても人気を獲得し、TBSの人気刑事ドラマ『噂の刑事トミーとマツ』の主演を務めた。その後も「ディナーショーキング」の異名にふさわしい精力的なライブ活動を続ける。

かまやつひろし

1958年よりロカビリー歌手として活動を始め、’60年に「殺し屋のテーマ/皆殺しの歌」でレコードデビュー。その後、’63年に「ザ・スパイダース」に加入し、作詞・作曲したデビュー曲「フリフリ」で人気の中心となる。’70年の同バンド解散後ソロへ転向し、’70年に独り録音による先駆的録音アルバム『ムッシュー』を発表。’75年には吉田拓郎作詞の「我が良き友よ」が大ヒットし世代を超えた支持を獲得した。以後もフォークやポップ、ジャズなど幅広いジャンルで活動を続け、メディアでも“ムッシュかまやつ”として親しまれた。

寺尾聰

1965年にGSバンド「ザ・サベージ」のベーシストとしてレコードデビューし、’68年に映画『黒部の太陽』で俳優デビュー。父は新劇界を代表する俳優・演出家の宇野重吉。その後は石原裕次郎率いる石原プロ所属の“石原軍団”としてドラマ『大都会』『西部警察』で刑事役を多く演じ、俳優としての存在感を確立。歌手としては’81年リリースのシングル「ルビーの指環」が大ヒットし、第23回日本レコード大賞をはじめ多くの賞を受賞し、アルバム『Reflections』は約164万枚の売上と記録的な成功を収めた。以後は音楽と俳優の両面で活躍し、唯一日本レコード大賞と日本アカデミー賞主演男優賞を同時に受賞したアーティストでもある。

細野晴臣

1969年、ロックバンド「エイプリル・フール」のベーシストとしてデビューし、’70年には大瀧詠一らと共に「はっぴいえんど」を結成、日本語ロックの基礎を築く。’73年よりソロ活動を開始し「ティン・パン・アレー」としても多彩な音楽表現を追求。’78年には坂本龍一、高橋幸宏とともにYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)を結成し、エレクトロニック音楽で世界的な人気を獲得。その後もソロ、プロデューサー、作曲家として活動し、ワールドミュージック、アンビエント、ゲーム音楽などジャンルの壁を超える多彩な展開を続けている。

小室等

多摩美術大学在学中の1963年に、ピーター・ポール&マリーに影響を受けたフォークグループ「PPMフォロワーズ」を結成しデビュー。その後’68年に「六文銭」を結成し、’71年には上條恒彦と共演した「出発の歌」で世界歌謡祭グランプリを受賞した。ソロでは’71年に「雨が空から降れば」でデビューし、’75年に井上陽水らとフォーライフ・レコードを設立、初代社長に就任する。自身の歌手活動に加え、テレビドラマや映画の音楽制作、ラジオパーソナリティ、コラム執筆など多岐にわたり活躍を続けている。。

大滝詠一

1969年「ヴァレンタイン・ブルー」(後のはっぴいえんど)に加入し、’70年にバンド・はっぴいえんどとしてデビューし日本語ロックを確立。’72年にソロ1stアルバム『大瀧詠一』を発表し、’74年には自身のレーベル「ナイアガラ・レーベル」を設立。’75年『Niagara Moon』をリリース。’78年の『Let’s Ondo Again』など斬新な企画も手がける。’81年、ソロ最大のヒット作『A LONG VACATION』が日本レコード大賞・最優秀アルバム賞を受賞、ミリオンセラーを記録し、日本のシティポップの金字塔となる。プロデューサー、作曲家としても後進を育成し、音楽文化に多大な影響を与え続けた。

南こうせつ

1970年にレコードデビューし、すぐにフォークグループ「かぐや姫」を結成。「神田川」「赤ちょうちん」「妹」などのヒットでミリオンセールスを連発し、’70年代フォークを代表する存在となった。解散後もソロとして「夏の少女」「夢一夜」など数々のヒットを生み、独自の語り口と音楽性で人気を博す。’75年には吉田拓郎と共に伝説的な野外オールナイト・コンサートを開催し、’76年には日本人ソロ歌手として初の武道館ワンマンも成功させた。さらに’80年代には「サマーピクニック」やチャリティ「広島ピースコンサート」など大型イベントも主導し、音楽を通じた社会的活動にも貢献した。

よしだたくろう

1970年6月、広島フォーク村のオムニバスに収録された「イメージの詩」でソロ歌手としてデビューし、翌年の全日本フォークジャンボリーでの「人間なんて」の歌唱が伝説となる。’72年「結婚しようよ」「旅の宿」が立て続けにヒットし、ミリオンセラーを記録。全国ツアーの先駆けとなり、音楽シーンに新たな潮流を生んだ。’75年には井上陽水らと共にフォーク系アーティスト主体のレーベル「フォーライフ・レコード」を設立し自主運営のモデルを確立。野外での大規模オールナイトライブ「つま恋コンサート」など革新的な活動で、シンガーソングライター文化の基礎を築いた。

岡林信康

1968年、「山谷ブルース」でレコード・デビュー。社会の底辺に生きる人々への視線を持つプロテスト・フォークを展開。「友よ」「手紙」などのメッセージ性の強い楽曲により“フォークの神様”と称される存在となった。’70年代初頭はギターのエレクトリック化やロックへの転換を模索し、バックバンドとしてHappy Endを起用する革新的な動きを見せた。その後は京都の山村に移住し、演歌や民謡のリズムも取り入れた独自の音楽性「エンヤトット」を確立。以降も精力的にライブ活動や音楽制作を継続している。

加藤和彦

1960年代後半、ザ・フォーク・クルセダーズのメンバーとして音楽活動を開始。’71年にはサディスティック・ミカ・バンドを結成し、日本のロックシーンに新風を吹き込んだ。その後はソロ活動や他アーティストへの楽曲提供、映画音楽の制作など、多方面で活躍。代表曲「あの素晴しい愛をもう一度」などを手掛け、日本の音楽シーンに多大な影響を与えた。彼の活動は音楽だけでなく、演劇や映画などの分野にも広がり、日本の音楽文化の発展に貢献した。

上條恒彦

東京・大森の雑貨店住み込みから新聞配達、うたごえ喫茶「灯」での歌唱など多彩な職を経て声を鍛え、1964年に労音勤務を機に歌手活動を始めた。’70年にNHK『ステージ101』へ出演し、翌年「六文銭」と共演した「出発の歌」でポピュラーソング・フェスティバルと世界歌謡祭のグランプリを受賞。’72年には紅白歌合戦初出場、「木枯し紋次郎」の主題歌「だれかが風の中で」が大ヒットした。俳優として『3年B組金八先生』で注目され、声優としても『リトル・マーメイド』のセバスチャン役などで知られる。

小椋佳

1967年に東大法学部を卒業し、日本勧業銀行に入行。銀行員として勤務しながら’71年に歌手デビューを果たす。’75年、布施明に提供した「シクラメンのかほり」が大ヒットし、作詞・作曲家としても注目される。銀行の理解を得て音楽活動を続け、’76年のNHKホール公演には11万通の応募が殺到、ライブ盤『遠ざかる風景』は大きな成功を収めた。その後、担当顧客だった資生堂の宣伝部長の依頼で資生堂CMソング「揺れるまなざし」などを生み出し、CM音楽の新時代を拓く。’93年に退職後は東大に再入学し、哲学修士号を取得。布施明、美空ひばり、中村雅俊ら多くの歌手に300曲以上を提供し、日本の叙情歌世界を確立した。

山本コウタロー

一橋大学在学中、フォークグループ「ソルティー・シュガー」を結成し、1970年に「走れコウタロー」を発表。この曲はコミカルな歌詞とキャッチーなメロディーで話題を呼び、同年の日本レコード大賞新人賞を受賞した。その後’74年には「山本コウタローとウィークエンド」を結成し、シングル「岬めぐり」をリリース。この曲も大ヒットし、彼の代表作となった。音楽活動にとどまらず、テレビ司会やラジオパーソナリティとしても活躍。また、平和や環境問題への関心から、広島でのチャリティコンサート「広島ピースコンサート」を企画・開催するなど、社会活動にも力を入れた。 2022年7月4日、脳内出血により73歳で死去。

泉谷しげる

1971年、ライブ盤『泉谷しげる登場』でフォークシンガーとしてデビューし、荒々しい歌声とぶっきらぼうなステージで注目を集める。’72年に発表した代表曲「春夏秋冬」が大ヒットし確固たる地位を築く。’75年には吉田拓郎、井上陽水、小室等と共にアーティスト主体のレーベル「フォーライフ・レコード」を設立し、業界に革新をもたらした。以降はシンガーソングライターとして活躍する一方、俳優や絵画、料理ライブ、社会貢献活動にも積極的に取り組み、多才な活動を続けている。

なぎら健壱

1970年、中津川・全日本フォークジャンボリーに飛び入り参加し注目を集め、’72年にアルバム『万年床』でデビュー。 ’74年には「悲惨な戦い」が話題となり、放送禁止ながらヒットを記録する。また、’75年12月に幼児向け番組『ひらけ!ポンキッキ』で発表され大ヒットした「およげ!たいやきくん」のB面、「いっぽんでもニンジン」も代表曲として知られる。以降はカントリーフォークを基調に、俳優、タレント、エッセイストとしてもマルチに活躍。バラエティやテレビ、ラジオ、執筆活動にも定評があり、下町文化への深い造詣を武器に“語り部”として支持されている。

井上陽水

1969年、「アンドレ・カンドレ」の名義で「カンドレ・マンドレ」でデビュー。’72年、本名の井上陽水名義で「人生が二度あれば」で再デビューし、同年発表のアルバム『断絶』収録の「傘がない」が若者の心をつかみ注目を集める。’73年以降、『氷の世界』『二色の独楽』などのアルバムがミリオンセールを達成し、日本の音楽シーンをアルバム中心へと導く重大な存在となった。その独自の世界観と卓越した作詞作曲・歌唱力により音楽界で確固たる地位を築き、’90年9月に東宝映画『少年時代』(監督・篠田正浩、原作・藤子不二雄Ⓐ)の主題歌として制作された「少年時代」は、CMや学校教材などにも採用されロングセラーの名作となる。2020年代に入ってもカバーやメディア使用が相次ぎ、世代を超えて愛され続けている。

あがた森魚

1969年、上京して明治大学に進学し音楽活動を開始。’71年、フォークグループ「はちみつぱい」と共に中津川フォークジャンボリーに出演し注目を集める。’72年、キングレコードのベルウッド・レコードからシングル「赤色エレジー」でメジャーデビュー。この曲は林静一の同名漫画にインスパイアされ、フォークロックと日本の大正浪漫を融合させた独自の世界観でヒットを記録。その後もアルバム『乙女の儚夢』『噫無情』『日本少年』などを発表し、’70年代の日本の音楽シーンにおいて重要な存在となる。

谷村新司

1971年、堀内孝雄、矢沢透と共にフォークグループ「アリス」を結成し、’72年にシングル「走っておいで恋人よ」でデビュー。’75年「今はもうだれも」、’77年「冬の稲妻」などのヒットによりグループは注目を集める。’78年にアリス解散後ソロ活動を開始し、’80年に発表した「昴(すばる)」が大ヒット。その後も「群青」「22歳」などのヒット曲を生み出し、シンガーソングライターとしての地位を確立。また、作詞家・作曲家としても活躍し、山口百恵の「いい日旅立ち」や加山雄三との共作「サライ」など多くのヒット曲を手掛けた。2023年、74歳で逝去するまでアジア各国での活動も積極的に行い、国際的な音楽交流にも貢献した。

矢沢永吉

1972年、ロックバンド「キャロル」のボーカルとしてデビューし、若者を中心に熱狂的な支持を得る。’75年キャロル解散後ソロ活動を開始。9月21日、シングル「アイ・ラヴ・ユー、OK」、アルバム「I LOVE YOU,OK」でソロデビューを果たす。初期のライブツアーではファンの反発に直面しつつも着実に支持を広げ、’77年には日本武道館で初の単独ライブを成功させる。以降、精力的なライブ活動を展開し、オリコンアルバムランキングベスト10入り最多記録(51作)を保持するなど、ロック界のカリスマとして君臨し続けている。

ばんばひろふみ

1971年、高山厳・今井弘志とフォークグループ「バンバン」を結成。「いちご白書をもう一度」(’75年、荒井由実作詞作曲)がミリオンセラーとなり一気に脚光を浴びる。バンバン解散後の’78年ソロ活動へ転身し、「SACHIKO」(’79年)はヒット曲として知られる。以降、深夜ラジオ番組「ヤングタウン」「セイヤング」で人気パーソナリティーとして活躍。俳優としてもNHK連続テレビ小説『わかば』や『水戸黄門』などに出演し、多彩な活動を続けている。

さだまさし

1972年、吉田政美とフォークデュオ「グレープ」を結成、’73年『グレープ』として「精霊流し」でメジャー・デビュー。「精霊流し」は1974年にオリコン2位を記録するヒットとなる。’76年の解散後、’77年にソロアルバム『帰去来』を発表しソロ歌手として本格始動。’77〜’80年代には「雨やどり」「案山子」「関白宣言」など数々の代表曲を世に送り出し、トップシンガーとしての地位を確立する。温かな語り口と独自の世界観で全国を熱くし、ソロコンサートの通算公演回数は4,400回を超える日本記録を誇る。作家や俳優、小説家としても多彩に活動し、現在も文化的影響が非常に大きい人物。

南佳孝

1972年、『リブ・ヤング!』シンガーソングライターコンテストで3位入賞し、’73年9月、松本隆プロデュースによるアルバム『摩天楼のヒロイン』でデビュー。洗練された都会派シティポップの旗手として注目される。’76年の移籍後は全曲作詞作曲のアルバム『忘れられた夏』を発表しソングライターとしての才能を発揮。’79年には「モンロー・ウォーク」がヒットし、郷ひろみによるカバー(「セクシー・ユー」)でも話題に。’81年に映画主題歌「スローなブギにしてくれ」で再び注目を集める。以降、楽曲提供、プロデュース、CM・ナレーション、ラテンやジャズ、ボサノヴァへの展開など、多彩な音楽活動を現在も続けている。

上田正樹

1972年12月「金色の太陽が燃える朝に」でデビュー。’74年に「上田正樹とサウストゥサウス」を結成。’75年に「この熱い魂を伝えたいんや」を発表し注目を浴びた。その後ソロ活動を開始し、’83年には「悲しい色やね」がシングルチャート1位となるなど、数々のヒットを飛ばした。また、Ray CharlesやB.B. King、Junior Wellsなどのブルースアーティストと共演し、Tower of PowerやWar、Ike & Tina、Neville BrothersなどのR&Bバンドとも共演を果たした。2001年にはインドネシアの歌姫REZAとデュエットし「Forever Peace」が17週間連続1位を獲得するなど、アジアでも高い評価を得ている。現在も年間100本以上のライブをこなし、アルバムも毎年コンスタントに発表している。

タケカワユキヒデ

東京外国語大学在学中の1975年、全曲英詞のアルバム『走り去るロマン』でソロアーティストとしてデビュー。翌’76年、ミッキー吉野らと共にバンド「ゴダイゴ」を結成し、作曲とボーカルを担当。「ガンダーラ」「モンキー・マジック」「銀河鉄道999」「ビューティフル・ネーム」など数々のヒット曲を生み出し、グループの人気を牽引。’85年のゴダイゴ活動休止後はソロ活動を再開し、他のアーティストへの楽曲提供やプロデュースを手掛けるなど幅広い音楽活動を展開。また、テレビやラジオの出演、講演活動など、多方面で活躍している。近年では、三女・武川基らと「T’s COMPANY」を結成し、親子での音楽活動も行っている。

浜田省吾

1972年、広島時代の音楽仲間と共にロックバンド「愛奴(AIDO)」を結成し、’75年にドラマーとしてプロデビュー
するも、シンガーソングライターとしての道を志し、’76年にソロデビューを果たす。シングル「路地裏の少年」とアルバム『生まれたところを遠く離れて』でソロ活動を開始し、その後、毎年コンスタントにシングルとアルバムをリリース 。’82年には自身のツアーを“ON THE ROAD”と名付け、数多くのツアーや大規模野外コンサートを成功させ、’98年からは4年がかりで世紀をまたぐ全196公演・延べ動員数約60万人という他に類を見ないロングツアーを敢行するなど、常に変わらないスタンスで活動を続けている。代表曲は「悲しみは雪のように」(’81年)や「もうひとつの土曜日」(’85年)ほか。

桑名正博

1972年、ロックバンド「ファニー・カンパニー」を結成し「スウィートホーム大阪」でデビュー。’74年の解散後、’75年よりソロ活動を開始し、「哀愁トゥナイト」「サード・レディー」などを発表。’79年のカネボウのCMソング「セクシャルバイオレットNo.1」は大ヒットし、彼の代表作となった。’80年、当時人気を博していた歌手のアン・ルイスと結婚し愛息に恵まれるも’84年に離婚。その後は家業の廻船問屋を継ぐため故郷の大阪に戻り、事業を営むなどした。2012年10月、心不全により59歳で逝去。晩年は社会貢献活動にも熱心に取り組んでいた。

山下達郎

1975年、シュガー・ベイブとしてシングル「DOWNTOWN」とアルバム『SONGS』でデビュー。その後バンド活動を経て’76年にソロ活動を開始。’80年のシングル「RIDE ON TIME」が大ヒットし、広く知られるようになった。’83年のアルバム『MELODIES』に収録された「クリスマス・イブ」は、’89年にオリコンチャートで1位を記録し、30年以上にわたりチャートインし続けるなど、日本のクリスマスソングの定番となった。また、妻である竹内まりやの全作品のアレンジやプロデュースを手掛けるなど、音楽プロデューサーとしても活躍している。

因幡晃

秋田県出身。高校卒業後、父と同じく鉱山技師として働く傍ら作曲を始め、1975年に「わかって下さい」で第10回ヤマハ・ポピュラーソングコンテスト最優秀曲賞を受賞し、同年の第6回世界歌謡祭でも入賞を果たす。この成果を契機に’76年にディスコメイトレコードから同曲でデビューを果たす。「わかって下さい」は長期間にわたりベストテン入りとなった。その後エピック・ソニー、バップ、プラッツ、日本コロムビアなどのレコード会社を経て、2014年には杉田二郎、堀内孝雄、ばんばひろふみ、高山厳と共にスーパーユニット「ブラザーズ5」を結成、ソロ活動と並行してライブ活動を行っている。

高中正義

1971年、高校在学中にグループ「フライド・エッグ」へベーシストとして参加したのがプロ活動のきっかけ。’72年にギタリストとして「サディスティック・ミカ・バンド」に加入し本格的に活動を始める。’76年、ソロ・デビュー・アルバム『Seychelles』を発表し、トロピカルでメロディアスなギター・インスト曲を得意とするスタイルを確立
。’79年の『Jolly Jive』収録「Blue Lagoon」で人気が爆発し、’81年にはコンセプトアルバム『虹伝説』で日本レコード大賞企画賞を受賞。’82年『Saudade』はオリコン・アルバムチャート1位を記録するなど、インスト・フュージョン界の先駆者として第一線で活躍を続ける。

来生たかお

1974年に作曲家としてデビューし、’76年10月には「浅い夢」でシンガーソングライターとしてソロ歌手デビューを果たす。’81年に自身が歌った「夢の途中」がヒットし、薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」主題歌のセルフカバーとしても知られる。シンガー活動と並行し作曲家としても活躍し、大橋純子「シルエット・ロマンス」、中森明菜「セカンド・ラブ」「スローモーション」、しばたはつみ「マイ・ラグジュアリー・ナイト」など多数のヒット曲を提供した。現在まで約400曲を手掛けるシンガーソングライターとして精力的に活動中。

やしきたかじん

1976年、クニ河内プロデュースのアルバム『TAKAJIN』とシングル「ゆめいらんかね」でメジャー・デビュー。’81年にはアニメ映画『機動戦士ガンダム』テーマ曲「砂の十字架」を歌い注目を集める。’82年に大阪へ戻り、以後は関西を拠点に活動。代表曲に「やっぱ好きやねん」(’86)、「あんた」(’84)、「東京」(’93)などがあり、大阪愛を込めた歌詞と情熱的な語り口で、関西で絶大な人気を誇った。テレビ司会やラジオパーソナリティとしても活躍し、関西ローカルの顔として愛された。2014年1月、食道がんで逝去した。

岸田智史

1976年、“岸田智史”名義で「蒼い旅」で歌手デビュー(作詞・谷村新司、作曲・岸田智史)。続く’79年、自身の出演ドラマ『愛と喝采と』の挿入歌だった「きみの朝」が大ヒット(オリコン1位、年間15位)し、代表曲となる。同年発表のアルバム『モーニング』も成功し歌手として確固たる地位を確立。俳優としても『1年B組新八先生』や『渡る世間は鬼ばかり』などに出演し活動を広げ、ミュージカルやナレーターなど多方面でも活躍。

松山千春

1975年「全国フォーク音楽祭」北海道大会で落選したものの制作スタッフに才能を見出され、’76年に北海道のラジオ番組で『千春のひとりうた』としてメディアデビューを果たし、’77年1月、シングル「旅立ち/初恋」でメジャーデビュー。続く’78年の「季節の中で」が大ヒットし一気に全国区のスターとなる。以降、「大空と大地の中で」「長い夜」「君を忘れない」など数多くの代表曲を生み、フォークシンガーとして長年にわたり第一線を走り続けている。

長渕剛

1977年、ポプコン入賞曲「雨の嵐山」でビクターからデビューするもしばらく低迷し一時帰郷。’78年、シングル「巡恋歌」で本格デビュー、’80年、シングル「順子」で初のオリコン1位を獲得し、その後「勇次」「ろくなもんじゃねぇ」「乾杯」「とんぼ」など数々のヒット曲を連発。俳優としてもTBS系ドラマ『家族ゲーム』『とんぼ』ほか、映画『オルゴール』『英二』などで主演を務め幅広く活躍する。

原田真二

1976年、高校2年生でフォーライフ新人オーディションに合格し、’77年10月、18歳で「てぃーんず ぶるーす」で拓郎プロデュースによる衝撃のデビューを果たす。その後「キャンディ」「シャドー・ボクサー」と3ヶ月連続リリースし全てがオリコン同時トップ20入りの快挙を成し遂げる。’78年2月には1stアルバム『Feel Happy』が初登場1位、4週連続でチャート首位を獲得。その後もシンガーソングライターとして楽曲提供、プロデュース、チャリティ活動など多岐にわたる活動を展開。音楽的なセンスとメディア戦略で、’70年代後半のJ-POPを象徴する存在となった。

さとう宗幸

1978年5月、ラジオ番組でのリスナー投稿をもとに作曲した「青葉城恋唄」でメジャーデビュー。曲は東北・仙台の情景を描いた叙情歌として大ヒットし、当年の新人賞を多数受賞し紅白にも初出場。「地方発の歌」として全国的な注目を集めた。以降は俳優としても活躍し、’81年には『2年B組仙八先生』主演、’87年にはNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』に出演。司会者やローカルタレントとしても長く親しまれている。

財津和夫

1972年、グループサウンズ「チューリップ」のリーダー兼ボーカルとしてデビューしグループの中心メンバーとして活躍、「心の旅」「サボテンの花」などのヒットを放つ。’70年代後半ソロでの活動も開始し、’78年にソロシングル「二人だけの夜」をリリース。2ndシングルの「Wake Up」はSEIKOのCMソングに起用されヒットを収めた。同時に作曲家としても活動し、松田聖子などに楽曲を提供。シンガーソングライター兼ヒットメーカーとして音楽界での地位を確立する。以降も作詞・作曲家として多くのアーティストに楽曲を提供し、音楽シーンに多大な影響を与え続けている。ソロ活動とともにチューリップもメンバー交代を重ねながら活動を続け、’89年に解散した。

坂本龍一

東京芸術大学で作曲と民族音楽学を学び、1970年代からスタジオミュージシャンとして活動を開始。’78年に細野晴臣、高橋幸宏とともにテクノポップグループ「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」を結成し、世界的な成功を収める。グループの活動と並行してソロアーティストとしても活躍し、映画『戦場のメリークリスマス』の音楽で’87年にアカデミー作曲賞を受賞。その後も映画音楽やアルバム制作を通じ、ジャンルを超えた音楽活動を展開し続けた。2023年3月28日、71歳で逝去。その多彩な音楽性と国際的な影響力で、世界中の音楽シーンに多大な貢献をした。

円広志

大学生だった時に結成したロックバンド「ZOOM」でボーカルを担当。1974年、ヤマハ主催のロックフェスティバル「大阪8・8ロックデイ」で入賞し一躍関西で人気のバンドとなる。当時バンドのローディーには後に世良公則&ツイストで大人気となる世良公則がいた。「ZOOM」は’77年に解散し、’78年に円個人でヤマハのポプコンに出場する機会を得、自作の「夢想花」でグランプリを受賞。同じくヤマハ主催の『第9回世界歌謡祭』でもグランプリを獲得し、シングル第一弾となった同曲は80万枚の大ヒットとなる。その後は本名の篠原義彦名で作曲家としても活動、森昌子の「越冬つばめ」などがある。

ポプコンイメージ

'70年代の音楽イベント

1970年代の音楽シーンに大きな影響を与えたのが、ヤマハ音楽振興会が主催した「ヤマハポピュラーソングコンテスト(通称:ポプコン)だった。’69年から’86年まで開催されたフォーク、ポップス、ロックのオリジナル楽曲コンテストで、新人ミュージシャンの登竜門として大きな役割を果たし、中島みゆき「時代」、クリスタルキング「大都会」など多数のアーティストや名曲が生まれた。’70年代はシンガーソングライター系が特に注目を浴び、八神純子やチャゲ&飛鳥など若き才能が数多く巣立っていった。

野村将希

1970年6月、シングル「一度だけなら」で歌手デビュー。新人賞複数受賞とともに、第21回NHK紅白歌合戦に初出場し、いきなり注目を浴びる。その後アメリカで音楽留学を経て帰国。’82年、芸名を野村将希に改名し、演歌歌手として活動を継続。俳優としても活躍し、’87年からTBSドラマ『水戸黄門』で“飛猿”役としてレギュラー出演し幅広い認知を獲得する。以降、歌手兼役者として長く活動を続け、現在も精力的に舞台やテレビに出演している。長男はプロサッカー選手の野村政孝、次男は俳優の野村祐希。

五木ひろし

1964年、16歳で「コロムビア全国歌謡コンクール」に優勝し、上京して作曲家・上原げんとの内弟子となる。’65年、松山まさるの芸名で「新宿駅から/信濃路の果て」でデビューするがヒットには至らず。その後も芸名を改めながら活動するも成功には結びつかなかった。転機となったのは’70年、テレビ番組『全日本歌謡選手権』への出場。10週連続勝ち抜きでグランドチャンピオンとなり、ヒットメーカーの作詞家・山口洋子と作曲家・平尾昌晃のコンビによる「よこはま・たそがれ」で再デビューを果たし、大ヒットを記録。以降、演歌界のトップスターとしてヒット曲を飛ばしながら活躍を続ける。

真木ひでと

1960年代にグループサウンズ「オックス」のヴォーカルとして野口ヒデト名で活動。オックスは「ガールフレンド」「スワンの涙」などのヒット曲で人気となり、野口ヒデトは沢田研二や萩原健一とともにGSブームを牽引する存在となる。オックス解散後は芸名を真木ひでとに改め演歌歌手としてソロデビューし、テレビやラジオ出演の活動を続けた。GS時代の経験を生かした舞台パフォーマンスと演歌の表現力を融合させ、幅広いファン層に支持された。GSと演歌の両方で活躍した希少な存在として知られる。

三善英史

渋谷区・円山町で芸者の息子として誕生。整った容姿から渋谷でスカウトされ、1972年、演歌歌手として「雨」でデビュー。同曲は大ヒットし、日本レコード大賞・新人賞ほか数々の新人賞を受賞した。デビュー翌年より3年連続でNHK紅白歌合戦に出場し演歌歌手として活躍。ユニチャームのCMに女装して出演するなど、ユニークな存在感でも注目された。2006年「夢グループ」の所属となり、現在も歌手活動を続けている。

中条きよし

1968年に芸名「高波晃」として歌手デビューを果たす。その後「渥美健」に改名して再デビューしたが成功には至らず、’73年にオーディション番組『全日本歌謡選手権』で10週連続勝ち抜きグランドチャンピオンとなったことを契機に、’74年に「中条きよし」という芸名で3度目のデビューを果たす。デビュー曲「うそ」は150万枚以上の大ヒットとなり、第16回日本レコード大賞大衆賞を受賞。以後、「うすなさけ」「理由」などのヒットを経て、演歌界の主要な存在として活躍を続けた。2022年、参議院議員となり芸能活動を終了した。

細川たかし

1975年4月シングル「心のこり」で歌手デビューし、第17回日本レコード大賞最優秀新人賞など数々の新人賞を受賞し、一躍注目される演歌歌手となる。’82年「北酒場」、’83年に「矢切の渡し」で日本レコード大賞を連続受賞、’84年には「浪花節だよ人生は」で史上初の三冠(歌唱賞)を達成し、演歌界の頂点に君臨した。以降も「望郷じょんから」「さだめ川」「北国へ」などヒット曲を連発し、NHK紅白歌合戦への出場を続けた。民謡で鍛えた圧倒的な声量と表現力、幅広いメディアでの活躍によって、演歌を代表する大御所歌手として長年にわたり支持されている。

新沼謙治

日本テレビ系オーディション番組「スター誕生!」から1976年2月1日に「おもいで岬」でデビュー。デビュー2作目「嫁に来ないか」が大ヒットし、第18回日本レコード大賞新人賞を獲得、NHK紅白歌合戦にも初出場を果たす。以後、「ヘッドライト」「酒とふたりづれ」「津軽恋女」など数多くのヒット曲を生み、紅白には通算13回出演した。歌手活動のみならず、映画『二百三高地』やドラマ『私鉄沿線97分署』『炎立つ』などへの出演も果たし、俳優としても活動。

角川博

クラブ歌手として広島や博多で歌っていたところをスカウトされ、1976年4月「涙ぐらし」で歌手デビュー。デビュー直後に日本レコード大賞新人賞や日本有線大賞新人賞を獲得し、一躍注目を集めた 。’78年には「許してください」でNHK紅白歌合戦に初出場を果たし、以後合計3回出場した。ものまねが得意で、美空ひばりや三波春夫、森進一など幅広いレパートリーを持ち、テレビのバラエティ番組にも多く出演してタレントとしても活躍。近年は自身の事務所を設立し、音楽・タレント活動を継続している。

山本譲二

1974年に芸名「伊達春樹」でシングル「夜霧のあなた」で歌手としてデビューしたが、当初はヒットに至らなかった。その後、北島三郎の付き人となり修業を重ねた後、「そばにおいでよ」「北ものがたり」を本名の山本譲二名でリリース、演歌歌手としての基盤を築く。’80年に発表した「みちのくひとり旅」が約10か月かけて大ヒットし、ミリオンセールスを記録、’81年末の日本レコード大賞ロングセラー賞とNHK紅白歌合戦初出場を果たした。以後も「奥州路」「海鳴り」「夢街道」などで数々の賞を受賞し、演歌界を代表する歌手として長年にわたり活躍を続けている。

渥美二郎

高校を中退後、地元の北千住で”演歌師”として流しの歌手活動を行った後、1976年10月、「可愛いおまえ」でレコードデビューした。 ’78年2月発売の「夢追い酒」は約250万枚の大ヒットとなり、彼の代表曲として演歌界に確固たる地位を築く。以後、「忘れてほしい」「他人酒」「釜山港へ帰れ」など多数のヒット曲を発表し、紅白歌合戦出場やロングセラー賞受賞を果たす。その後も演歌師としての原点を忘れず、ギター演奏を取り入れたステージやチャリティ活動等、現在に至るまで精力的に活動を続けている。

吉幾三

1973年3月、「山岡英二」としてヤンマーディーゼルのコマーシャルソング「恋人は君ひとり」で歌手デビューするも成功に至らず。’77年11月「吉幾三」と改名し、自作曲「俺はぜったい!プレスリー」でフォーク歌手として再デビューし大きな注目を浴びる。’84年には千昌夫に提供した「津軽平野」がヒットし、同年11月には「俺ら東京さ行ぐだ」でさらなるブレイクを果たす。’86年発売の「雪國」は紅白出場につながる大ヒットとなり、演歌歌手としての確固たる地位を築いた。

佳山明生

1970年より作曲家・古賀政男を師事し、’77年12月にシングル「氷雨」で歌手デビュー。芸名の佳山明生は、美輪明宏から名づけられた。「氷雨」は発売当初は売れ行きが振るわなかったが、有線放送での地道なリクエストを経て再々々発売された’82年7月盤がブレイクし、’83年には旭川有線大賞・全日本有線放送大賞グランプリを受賞、同年の日本レコード大賞ロングセラー賞も受賞した。その後は出身地の「函館観光大使」に就任するなど、地元にも貢献しながら演歌界で独自の存在感を築いている。

バラエティ > 1960年代

1960年代のバラエティ番組は、アメリカ型のショーを手本に、歌・踊り・コントを融合した総合娯楽として発展した。井原高忠が『光子の窓』で導入した演出手法を基盤に、『夢であいましょう』『シャボン玉ホリデー』などが人気を集め、テレビは国民的娯楽として定着していく。一方で視聴者参加型企画も広がり、過激な演出や悪ふざけが物議を醸す場面も生まれ、番組内容のあり方をめぐる議論が起こった。そうした試行錯誤の中から、『笑点』や『8時だョ!全員集合』のように、完成度の高いテレビ的笑いを確立する番組が登場した。

─ 主なバラエティ番組 ─

1946年1月 –

1946年にラジオで始まり、’53年からテレビ放送も開始された公開視聴者参加型の生放送音楽番組。素人出場者が歌を披露し、ゲスト歌手の指導やインタビューを交えながら評価される。’70年の改革で出場者数を25人に絞り、手持ちマイクやワイヤレスマイクを導入、歌唱だけでなく表現力も重視する構成に変更され、全国大会や特別賞も設けられ人気を回復。現在も各地域から生中継や録画で放送される長寿番組。

1958年5月 – 1987年9月

1958年から約24年間にわたりTBS系列で日曜昼に放送された長寿歌謡番組。開始当初はモノクロ・モノラルだったが、’69年にカラー化、’85年にはステレオ放送へ移行した。番組は時代に応じて副題やタイトルを変えつつ、終始ロッテの一社提供で継続された。長年司会を務めた玉置宏の「一週間のご無沙汰でした」で始まる語り口は名物となり、従来の美文調司会とは異なる個性的な進行で歌謡番組の新境地を切り開いた。

1958年5月 – 1960年12月

『花椿ショウ 光子の窓』は、1958年から’60年まで日本テレビで放送された草笛光子の冠による音楽バラエティ番組。資生堂一社提供のもと、歌とコントを融合した本格的ショーとして制作された。日本テレビと東宝テレビ部の共同製作で、当時24歳の草笛を中心に、小島正雄、三國一朗、徳川夢声、トニー谷らが出演し、洗練された演出が特徴であった。番組末期には実験的にカラー放送も行われ、芸術祭参加作「イグアノドンの卵」は奨励賞を受賞するなど高い評価を得た。日本の音楽バラエティの基礎を築いた先駆的番組だった。

1959年3月 – 1981年9月

旬の芸能人やスポーツ選手をゲストに迎え、社会的話題として人物像に迫る帯番組。映画スター出演制限の時代に、時事性を切り口として人気を博した。ゴールデン帯15分枠で放送され、「出演すれば一人前」と称される存在感を確立。俳優司会の起用や早期のカラー化も話題となり、最高視聴率45.9%を記録した。歴代司会者は栗原玲児、石坂浩二、関口宏、吉永小百合、坂本九など。

1959年6月 – 1970年3月

初代司会者に、当時人気ロカビリー歌手だったミッキー・カーチスを起用、渡辺プロダクションと作曲家のすぎやまこういちが企画を主導した音楽番組。デビュー後まもないザ・ピーナッツやジャッキー吉川とブルーコメッツがレギュラー出演し、後のGSブームのきっかけとなった番組でもある。後にフジテレビで制作される「ミュージックフェア」「夜のヒットスタジオ」の土台でもあり、視覚でも音楽を楽しませるスタイルの走りだった。

1961年4月 – 1966年4月

日本のテレビ放送初期に制作されたバラエティ番組で、1959年放送の『午後のおしゃべり』が前身。毎回テーマを設定し、ショートコントを軸に踊りやジャズ演奏、外国曲の歌唱を挟んで構成された。歌手のコント出演や芸人の歌唱企画は後続番組の原型となった。初代ホステス中嶋弘子の独特な挨拶も話題を呼び、後に黒柳徹子が司会を担当。’66年、後継番組『夢をあなたに』へ移行して終了した。

1961年6月 – 1972年10月 / 1976年10月 – 1977年3月

日本テレビと渡辺プロダクションが制作した音楽バラエティ番組で、ザ・ピーナッツを主役に開始された。牛乳石鹸一社提供のもと、コント・歌・トークを中心に、ハナ肇とクレージーキャッツやザ・タイガースとともに多彩なゲストが参加し、多くの流行ギャグを生んだ。全回カラーVTR収録で放送され、植木等の名フレーズなどで高視聴率を記録。1972年に第1期が終了し、’76年にはピンク・レディー出演による第2期が深夜枠で放送された。

1961年8月 – 1972年2月 / 1975年10月 – 1982年3月

1960年代から1980年代にかけ、2期にわたって放送された人気の視聴者参加型番組。松下電器産業の一社提供番組で、正式な番組名は「ナショナルプライスクイズ ズバリ!当てましょう(後に変更)」だった。4組のペア回答者が品物の値段を推理して当てるもので、値段当てクイズの元祖番組。家電ブーム真っ最中の時世で、一発で値段を当てる”ズバリ賞”の商品は、当時100万円相当のナショナル電化製品一式だった。

1962年5月 – 1968年3月

大阪・ABCホールでの公開放送形式を採った時代劇風コメディ番組。編集技術が未成熟だった初期には、昼間に収録した映像をほぼそのまま放送する撮って出し方式で制作され、出演者とスタッフの高度な技量が評価された。大規模な火薬を用いた迫力ある演出や、1967年には朝日放送初の自社制作カラーテレビ番組も実現。「あたり前田のクラッカー」など数々の流行語を生み、後続作や派生作品へと展開された。

1964年1月 – 2010年1月

1964年に始まったフジテレビの新春特別バラエティ番組で、『紅白歌合戦』『日本レコード大賞』と並ぶ年末年始の大型番組として親しまれた。芸能人がチームに分かれ、秘芸や余興を披露して得点を競う形式で高視聴率を長年維持。制作は渡辺プロダクションと共同で行われ、華やかな演出も名物となった。2010年元日の放送をもって47年の歴史に幕を下ろした。

1964年4月 – 1968年3月 / 1972年4月 – 1973年3月 / 1976年4月 – 1977年12月

初代NHKホールでの公開放送として始まったNHKの音楽番組で、パイロット版からカラー放送を行った。初期は倍賞千恵子、アントニオ古賀、金井克子が司会を務め、後に中尾ミエが加わった。第2期以降はタイトル表記を改め、101スタジオから生放送に移行。司会は山川静夫が中心となり、フォーリーブスやキャンディーズがレギュラー出演した。第3期では山川が単独司会となり、長期にわたりNHKを代表する歌番組として親しまれた。

1964年8月 –

日本の民放音楽番組として最長寿を誇るフジテレビ系のレギュラー番組で、1964年の開始以来、塩野義製薬一社提供の冠番組として放送されてきた。’67年にカラー化、’78年にステレオ化、2004年にはハイビジョン制作へ移行するなど、放送技術の進化も反映している。初代総合司会に越路吹雪、二代目に左幸子、三代目に長門裕之・南田洋子夫妻など落ち着いた進行役とゲスト同士の丁寧なトーク、質の高い歌唱演出が特徴で、海外の大物アーティストも多数出演した。初期は公開収録も行われたが、現在は観客を入れないスタジオ収録が基本となっている。

1964年11月 – 1977年9月

視聴者参加型の人気番組。視聴者の推薦で集められた有名人の“そっくりさん”5人が出演し、審査員の投票によってチャンピオンを決定した。本人がゲストとして登場することも特徴で、歌手の場合は持ち歌を披露し、それ以外の場合はイメージに合わせた歌や振り付けで競った。優勝者にはトロフィーと賞金5万円が贈られた。チャンピオンが揃うと大会が開かれ、グランドチャンピオンにはゴールデントロフィー、推薦者と行くヨーロッパ旅行、賞金10万円が授与された。司会は当初小野栄一が務め、’68年の『そっくりショー日本一!』への改題を機に青空はるお・青空あきおへ交代。番組は『新そっくりショー』などの形式変更を経ながら続き、’66年には最高視聴率43.9%を記録するなど高い人気を誇った。

1965年3月 – 1966年4月

1965年から’66年にかけて日本テレビで放送された寄席風演芸番組で『笑点』の前身にあたる。立川談志の発案により、大喜利を中心とした構成で、ブラックユーモアを交えた玄人好みの内容が特徴だった。読売ホールで収録され、隔週放送ながら深夜帯で支持を獲得。その実績を踏まえ、番組は発展的に解消され、日曜夕方枠の『笑点』へと継承された。

1965年11月 – 1990年3月

1965年から約24年半にわたり放送された日本初の深夜お色気ワイドショーで、基本は生放送。日本テレビとよみうりテレビが曜日別に制作し、大橋巨泉、愛川欽也、藤本義一らが司会を担当。ヌードや風俗といった刺激的題材から、前衛芸術、政治・社会問題まで幅広く扱い、深夜番組の可能性を拡張した。曜日ごとの特色ある企画も定着し、最高視聴率48%超を記録するなど、長寿かつ影響力の大きい番組として知られる。

1966年4月 – 1980年12月

TBSを幹事局とし、各地の系列局が持ち回りで制作・放送した視聴者参加型の歌合戦番組。審査員は市川昭介、笠置シヅ子、神津善行、山本直純など。日本各地の市民会館などで公開収録が行われ、家族単位の出場者が動物名を冠したチームとして歌声を競った。司会は獅子てんや・瀬戸わんやが担当した。当初はモノクロ放送だったが1970年4月からカラー化。約14年半にわたり放送され、昼間ながら平均15%を記録した時期もあったが、後年は視聴率が低下し、愛知県西尾市での収録を最後に終了した。

1966年5月 – 1968年4月 / 1968年5月 – 1996年3月ほか

1966年に『金曜夜席』を継ぐ形で始まった演芸バラエティ番組で、大喜利で座布団をやり取りする形式が特色。番組名は『氷点』をもじったものとされ、命名を巡る逸話も知られる。放送開始当初から一貫してカラー放送を行い、隔週で後楽園ホールにて公開収録されてきた。落語や講談などの演芸と大喜利を柱に、寄席文字を用いた独自の画面演出を守り続け、高視聴率を記録する長寿番組として日本のテレビ演芸史に刻まれる。

1966年8月 – 11月

ロート製薬の一社提供で放送された視聴者参加型バラエティ番組で、一般応募の参加者が常人には真似できない特技や超人技を披露した。司会はてんぷくトリオの三波伸介・戸塚睦夫・伊東四朗が務め、三波は驚異的な芸が登場するたびに決めぜりふ「びっくりしたなあ、もう」で番組を盛り上げた。1967年には内容を発展させ、『万国びっくりショー』へとリニューアルされた。

1966年10月 – 1971年4月 / 1973年10月 – 1974年4月

プラチナ萬年筆の一社提供による音楽バラエティ番組。集英社『明星』の協賛を受けて開始され、当初は『プラチナアワー 明星ゴールデンショー』の題名で放送された。藤村有弘が司会を務め、由美かおる、フォーリーブスらが出演し、歌謡界の若手を積極的に起用した構成が特徴だった。第2期ではジャニーズ・ジュニアの公募も行われ、後のスターを見い出す場ともなり、アイドル文化の形成に一定の役割を果たした。

1967年11月 – 1969年3月 / 1969年4月 – 1971年3月ほか

1966年放送の『びっくりショー』を発展させ、世界各国の出演者が驚異的な芸を披露した。’70年大阪万博に着想を得た企画で、万博会場での収録も行われた。司会は主に八木治郎が務め、高視聴率を記録したが、編成変更後に低迷。番組は形を変えつつ継続・復活を重ね、国際色豊かな見世物番組として人気を博した。

1968年4月 – 1971年9月

東京ヴィデオ・ホールから毎日生放送された昼のバラエティ番組で、前田武彦を司会にコント55号がレギュラーとして活躍した。多数の芸人や歌手を迎え、コントやゲームで流行語を生み、時に前衛的企画も放送。出演者の多忙化に伴い司会や構成を刷新しつつ継続したが、カラー化を機に1970年9月で終了し、『ハイヌーンショー』へ移行した。

1968年11月 – 1990年10月

約22年間にわたり放送されたフジテレビの音楽番組で、原則生放送を特徴とした。1970年代前半までは歌謡バラエティ色が強かったが、’76年以降はアイドルや演歌に加え、ニューミュージック、ロック系、海外アーティストまで幅広く出演させ、生演奏・フルコーラスを基本とした構成で音楽番組の質を高めた。名物は出演歌手同士がリレー方式で他の歌手を紹介する番組オープニング。沢田研二「サムライ」での50畳の畳敷きの演出など、印象的なスタジオセットも特徴だった。司会は芳村真理を中心に前田武彦、三波伸介、井上順、古舘伊知郎らが務めた。演奏は長年ダン池田とニューブリードが担当し、番組の象徴的存在となった。芸能事務所の力関係も出演構成に影響を与えた点は、当時の音楽界を映す側面でもあった。

1969年1月 – 1986年3月 / 1989年10月 – 1990年3月ほか

田宮二郎が司会を務める1969年にテレビ朝日系列で始まったクイズ番組で、司会者を交代しながら3シリーズのレギュラー放送を経て、以後も特番として断続的に制作されている。1分間に12問、5秒ごとに出題される高速クイズに挑む形式で、「現代人の頭脳と反射神経を試す」ことを趣旨とした。巨大な時計台と高所の解答席、成績不振時に作動するペナルティ演出が象徴的で、全問1問1答・即断即答を求める厳格なルールも特徴。平均視聴率14%、最高29%を記録し、スピード感あふれる名物番組として強い印象を残した。

1969年4月 – 1970年3月

NHK大河ドラマ『天と地と』を強く意識し、日曜20時台制覇を掲げて制作されたバラエティ番組。コント55号を進行役に据え、番組内番組的構成と刺激的な企画で話題を集め、特に脱衣野球拳は社会現象となった。視聴率は裏番組を上回る成功を収めたが、内容への批判も多く、約1年で終了。後に野球拳企画は独立番組として放送された。

1969年7月 – 1982年9月

若者向けを前面に打ち出した公開バラエティ番組。ラジオ番組『歌え!MBSヤングタウン』のテレビ版として制作され、桂三枝や笑福亭仁鶴、やすし・きよしらが司会を担当。短いコーナーを連続させる構成と、芸人個人のキャラクターを生かす演出で人気を博し、吉本興業の若手芸人を全国区へ押し上げた。上方演芸界の勢力図を塗り替えた象徴的番組として知られる。

1969年10月 – 1981年3月

「NHK紅白歌合戦を毎週楽しめる番組」を発想源に、紅白対抗形式とベストテン風構成を融合させた歌謡番組。出演者は紅白各5組の計10組で、客観的ランキングではなく局側のキャスティングによって選ばれた。原則として渋谷公会堂から公開生放送で行われ、修学旅行生の紹介が定番演出となった。白組キャプテンは堺正章が一貫して務め、紅組は水前寺清子、今陽子、岡崎友紀らが担当。白組では野口五郎・郷ひろみ・西城秀樹の「新御三家」が、紅組では森昌子・桜田淳子・山口百恵の「花の中三トリオ」が人気を牽引し、演歌勢では五木ひろしや八代亜紀、和田アキ子らが常連として出演した。

1969年10月 – 1970年3月 / 1970年10月 – 1971年3月

大橋巨泉と前田武彦の掛け合いによる生放送パートと、事前収録の大量ショートコントで構成されたバラエティ番組。米国番組『ラフ・イン』をモデルに、矢継ぎ早にコントを連ねる斬新な演出を採用し「アッと驚く為五郎」などの流行語を生んだ。膨大な台本と徹底した制作体制でも知られ、1960年代末のテレビ表現に大きな影響を与えた。

1969年10月 – 1971年3月 / 1971年10月 – 1985年9月

1969年から’85年までTBS系列で放送されたザ・ドリフターズの冠お笑いバラエティ番組。前半はドリフによる本格コント、後半は体操や合唱団を交えた企画で構成され、間に歌手ゲストの歌唱が挟まれた。全国各地の劇場から公開生放送を行い、大掛かりな舞台装置と体当たりの笑いで国民的人気を獲得。平均視聴率27%、最高50.5%を記録し、土曜夜の象徴的番組となった。

男性歌手・アイドル > 1980年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

田原俊彦

1979年、TBSドラマ『3年B組金八先生』で俳優デビュー。問題児・沢村正治役で注目を集めた。’80年6月「哀愁でいと」で歌手デビュー、洋楽のカバーながらアイドル的な人気を得て大ヒット。以降「ハッとして!Good」「恋=Do!」など多くのヒット曲を連発し、’80年代を代表するトップアイドルに。明るくキレのあるダンスとキャッチーな楽曲で人気を博し『ザ・ベストテン』『夜のヒットスタジオ』などの音楽番組にも多数出演。俳優としても主演ドラマを多数持ち、マルチに活躍した。

近藤真彦

1979年、『3年B組金八先生』でドラマデビュー。性格に難のある生徒・星野清を演じ注目を集めた。’80年12月「スニーカーぶる~す」で歌手デビューしオリコン初登場1位を記録。以降「ギンギラギンにさりげなく」「ハイティーン・ブギ」など多くのヒット曲を放ち、たのきんトリオの一員として一世を風靡した。ソロアイドルとしても絶大な人気を誇り、日本レコード大賞を受賞するなど歌手として高い評価を得た。俳優・レーサーとしても幅広く活躍。

沖田浩之

1980年、TBSドラマ『3年B組金八先生』(第2シリーズ)で不良生徒・松浦悟役としてドラマデビュー。
’81年3月、筒美京平作曲・阿木燿子作詞の「E気持」で歌手デビューし、オリコン最高位8位、13週のチャートインを記録するヒットとなる。以降、「半熟期」「はみだしチャンピオン」「俺をよろしく」など計13枚のシングルと4枚のアルバムをリリース。原宿・竹の子族出身の異色アイドルとして人気を博し、ミュージカルやドラマで俳優としても活躍した。’99年没。

堤大二郎

1980年、テレビ東京系『ぼくら野球探偵団』(主演・星空天馬役)で俳優デビュー。’81年4月、シングル「燃えてパッション」で歌手デビュー。NHK『レッツ・ゴー・ヤング』の男性アイドルユニット「サンデーズ」の一員としても活動し人気を博す。その後は数枚のシングルをリリースし、’84年には映画『零戦燃ゆ』で映画デビュー 。以後は俳優業に専念し、大河ドラマや時代劇を中心に多数出演、『太平記』『水戸黄門』など、堅実な俳優として幅広く活躍している。

ひかる一平

1981年、TBSドラマ『2年B組仙八先生』で俳優デビューし、好青年役で人気を集める。同年4月、シングル「青空オンリー・ユー」で歌手デビュー。甘いマスクと親しみやすいキャラクターで注目され、たのきんトリオに続くアイドルとして活躍。続く「君にクラクラ」「バレンタインデー・キッスじゃなく」など数枚のシングルをリリース。音楽番組やドラマにも出演を重ねたが、後年は俳優業に比重を移し、舞台やテレビでの活動を中心にキャリアを継続している。

竹本孝之

1981年、TBSドラマ『2年B組仙八先生』で俳優デビュー。明朗なキャラクターで注目され、同年6月に「てれてZin Zin」で歌手デビュー。フジ系『君こそスターだ!』出身で、「とっておきの君」「サヨナラ模様」などを次々とリリース。’82年にはNHK紅白歌合戦に初出場を果たす。’80年代中盤以降は音楽活動を縮小し俳優業に軸足を移すが、’90年代には農業と音楽活動を両立する“歌う農業人”として再び注目を集め、現在もライブや舞台などで地道な活動を続けている。

新田純一

1981年、TBSドラマ『2年B組仙八先生』で俳優デビュー。アイドル性の高いルックスで注目を集め、翌’82年2月に「Hop・Step・愛」で歌手デビュー。明るく親しみやすいキャラクターで人気を得、「君をさがして」「想い出パズル」などのシングルを発表。バラエティ番組やドラマでも幅広く活躍したが、’80年代後半以降は歌手活動が次第に減少。以後は舞台や地方営業、バンド活動などを中心に活動を続け、2020年代もライブを行うなど、根強いファンに支えられて現役を貫いている。

本田恭章

1981年、TBSドラマ『2年B組仙八先生』で俳優デビュー。’82年5月、「0909させて」で歌手デビュー。その後「ジュテーム・スキャンダル」「☆BOY」「サヨナラのSEXY BELL」などのシングルをリリースし、アイドル歌手としての地位を確立。’83年には作曲家・玉置浩二との共作を果たし、音楽性の幅を広げる。’84年にはシングル「SHAKE&SHAKEパラダイス」をリリースし、同年11月には日本武道館でのライブを成功させるなどアイドル歌手として活動。その後音楽活動を縮小し俳優業に専念。テレビドラマや舞台などで俳優としての地位を確立した。

風見慎吾

1982年、TBS『欽ちゃんの週刊欽曜日』でタレントデビュー。’83年5月「僕笑っちゃいます」で歌手デビューを果たす。作曲は吉田拓郎が担当し、オリコン週間ランキングでは最高6位を記録、33万枚以上の売上を記録するヒットとなった。その後もアイドル歌手として活動。「涙のtake a chance」では当時最先端だったブレイクダンスを取り入れ、ダンスパフォーマンスでも注目を浴びた。劇団「劇男一世風靡」の立ち上メンバーとしても知られる。

渡辺徹

1981年ドラマ『太陽にほえろ!』で新人刑事「ラガー」を演じ俳優デビュー。スマートなルックスと存在感でお茶の間の人気を獲得し、’82年、EPICソニーよりシングル「彼〈ライバル〉」で歌手デビュー。続く2nd「約束」はグリコ「アーモンドチョコレート」のCMソングに採用され、累計50万枚以上の大ヒットを記録し代表曲となる。以降、映画や舞台へも活動を広げ、’83年には映画『夜明けのランナー』で銀幕デビュー。文学座座員として数々の舞台に出演し演技力が高く評価された。2022年、61歳没。

野村義男

1979年、ドラマ『3年B組金八先生』で俳優デビュー。本人役で出演し、若者を中心に注目を集めた。’83年6月「待たせてSorry」で歌手デビュー。ジャニーズ所属の『たのきんトリオ』の一員として爽やかなルックスと明るいキャラクターで’80年代前半に人気を博した。ソロ活動を続けながらギタリストとしても活躍し、作詞作曲にも挑戦。ドラマや舞台出演もこなし、俳優としての評価も高い。現在も音楽と俳優活動を両立、根強いファンに支えられている。

吉川晃司

1984年、主演映画『すかんぴんウォーク』で俳優としてデビュー。同作の主題歌「モニカ」で同時に歌手デビューを果たし、日本歌謡大賞最優秀新人賞ほか数々の新人賞を数々受賞するヒットとなる。’88年には布袋寅泰とのユニットCOMPLEXを結成。ソロとしては作詞・作曲・プロデュースも手がけ、ロックアーティストとして確固たる地位を築く。俳優としても多数の映画やドラマに出演。NHK大河ドラマ『天地人』『八重の桜』や映画『るろうに剣心』『チーム・バチスタの栄光』などで存在感を発揮し、高く評価されている。

五十嵐浩晃

1979年、第1回CBS・ソニーSDオーディションに合格し、’80年5月、シングル「愛は風まかせ」とアルバム『NORTHERN SCENE』でソロデビュー。同年11月にリリースした3rdシングル「ペガサスの朝」が明治チョコレートCMソングとして評判を呼び、オリコン最高3位・売上50万枚超の大ヒットとなりブレイク。続く「ディープ・パープル」もヒットを記録し、多彩なメロディと透明感ある歌声で注目を集める。その後もラジオパーソナリティやテレビ出演、楽曲提供など幅広く活動。現在は札幌市在住、専門学校の名誉学校長として後進育成に努める一方、ライブや楽曲制作を継続している。

村下孝蔵

1979年、CBS・ソニー全国オーディションで最優秀に選ばれプロへ。翌’80年5月、シングル「月あかり」でメジャーデビュー。広島を拠点に地道なライブを続けながら徐々に支持を獲得。’82年「ゆうこ」、’83年「初恋」「踊り子」が相次いでヒットし、特に「初恋」はオリコン最高3位を記録。透明感ある声と叙情的な歌詞、洗練されたギターテクニックが持ち味で、数々のライブやコンスタントなアルバム発表を重ねる。他アーティストへの楽曲提供や天満敦子とのコンサートなど音楽表現の幅も広く追求。’99年6月24日、脳内出血のため急逝(享年46)。

堀江淳

1979年、CBS・ソニー主催「第1回SDオーディション」に合格し音楽界へ進出。’81年4月、シングル「メモリーグラス」で正式デビュー。同曲はオリコン3位、セールス約70万枚を記録し一躍注目され、日本作曲大賞 優秀曲賞、日本有線大賞 新人賞などを受賞。透き通るような中性的な歌声とメロディアスな作風が評価され、以後もコンスタントにシングルやアルバムを発表しながら、作詞作曲や他アーティストへの提供も行う。現在もライブ・新作制作を継続し幅広い世代に支持されている。

角松敏生

1981年6月、シングル「YOKOHAMA Twilight Time」とアルバム『SEA BREEZE』を同日リリースしメジャーデビュー。大学在学中に送ったデモが評価され正式デビューに至る。’80年代中盤には中森明菜、西城秀樹、中山美穂などへの作品提供でも注目を集め、以後も私小説的世界観を歌詞に反映しながら活動。’93年に一時アーティスト活動を“凍結”しプロデューサー業に専念、’98年に復帰。現在も作曲・ライブ活動を継続、シティポップの礎を築いたアーティストとして支持されている。

稲垣潤一

1982年1月、東芝EMI(EXPRESSレーベル)よりシングル「雨のリグレット」でソロデビュー、《スーパーポップボーカル》のキャッチコピーで売り出される。同年10月リリースの3rdシングル「ドラマティック・レイン」が自身初のオリコンTOP10入り。’83年には「夏のクラクション」「ロング・バージョン」などヒットを連発し、AORシンガーとしての地位を確立。’92年にリリースされた「クリスマスキャロルの頃には」はオリコン140万枚超のミリオンヒットとなり、冬の定番ソングとなった。以降もオリジナル・アルバム多数を重ね、日本レコード大賞やゴールドディスク賞などを受賞。現在もライブ活動や企画アルバム制作、演奏活動を精力的に継続し、幅広い世代に支持されている。

柳ジョージ

1975年「柳ジョージ&レイニーウッド」を結成し、’78年のアルバム『TIME IN CHANGES』でメジャーデビュー。’79年には「雨に泣いてる…」がドラマ主題歌に起用され大ヒットを記録し、4thアルバム『RAINY WOOD AVENUE』がオリコン1位に。’81年末バンド解散後ソロ活動へ転身し、’82年にはレイ・チャールズと共演。疾走感あるブルースロックと情感あるギタープレイで“和製クラプトン”とも称され支持を集めた。2005年レイニーウッド再結成、2008年フジロックにも出演。2011年10月10日、腎不全のため63歳で逝去。

三好鉄生

1979年、30歳の時にオーディションで歌唱力を評価されプロ入り。’82年3月、アルファレコードより自作曲「アイ・ラヴ・ユーこの街」でシンガーソングライターとしてデビュー。同年8月リリースのセカンド「涙をふいて」が中外製薬CMソングに起用されヒットを記録し、全国的な注目を集める 。俳優としては同曲が主題歌となったTBS系ドラマ『人間万事塞翁が丙午』で俳優デビューし(’82年)、以降も『刑事ヨロシク』『西部警察 PART III』などに出演 。’87年には「すごい男の唄」がサントリーCMソングに採用されスマッシュヒットし、以後もライブ活動と録音を継続。現在は三貴哲成名義に改め、多彩な音楽活動を続けている。

大江千里

1975年のヤマハPOPSONGコンテスト出場などを経て、’81年にCBS・ソニーからスカウトされ音楽業界へ 。’83年5月、シングル「ワラビーぬぎすてて」とアルバム『WAKU WAKU』でEPICソニーよりメジャーデビューし、透明感ある歌声と作詞作曲の才能で注目を集める 。以降、「十人十色」「格好悪いふられ方」「ありがとう」などヒット連発。2008年渡米しNYのThe New Schoolでジャズを学び、2012年にジャズピアニストとして再デビュー。自身のレーベルPND Recordsを設立しジャズ作品をリリース、現在も世界各地でライブ活動を展開中。

大澤誉志幸

1978年に駒澤大学在学中にロックバンド「クラウディ・スカイ」を結成し、’81年4月に同バンドのボーカル&ギターとしてビクターからデビューするもヒットなし、年末に解散後渡米。その後帰国し楽曲提供で頭角を現す。’83年6月、ソロ名義でシングル「彼女には判らない (Why don’t you know)」、アルバム『まずいリズムでベルが鳴る』でEpicソニーからソロデビュー。中森明菜や沢田研二などへの楽曲提供とともに自身も「そして僕は途方に暮れる」などヒットを連発し、シンガー/メロディーメーカーとして確固たる地位を築いた。

近田春夫

慶應在学中から内田裕也のバックでキーボードを務め、音楽界と出版界の両方で活動を広げた。1972年に「近田春夫&ハルヲフォン」を結成し、映画音楽も「塚田みのる」名義で手がける。’70年代後半からは俳優、声優、パーソナリティとしてメディアを横断して活躍した。「日本の歌謡曲の音楽性」を早期に評価し、コラム「THE 歌謡曲」連載やカバーアルバムでその魅力を提示。ジューシィ・フルーツをデビューさせ、作曲家・プロデューサーとしてもヒットを生んだ。

尾崎豊

青山学院高等部在学中の1983年12月1日、シングル「15の夜」とアルバム『十七歳の地図』でCBS・ソニーよりメジャーデビューし、高校生シンガーとして一躍注目される。透き通る歌声と等身大の歌詞、若者の反抗と葛藤を描いた世界観が共感を呼び、「卒業」「I LOVE YOU」「OH MY LITTLE GIRL」など次々とヒットを放つ。’85年にはアルバム『回帰線』でレコード大賞優秀アルバム賞を受賞するなど音楽性の評価も髙かった。’92年4月25日、26歳で急逝したが、没後もそのメッセージ性あふれる作品が支持され、多くのアーティストにカバーされ続ける。現在も若者の“教祖”的存在として音楽界に大きな影響を与え続けている。

伊豆田洋之

高校卒業後に画家を志して渡米し、イリノイ州立大およびカリフォルニア大学ロサンゼルス校に在籍後、ロサンゼルスのピアノバーで弾き語り中にスカウトされ帰国。’84年7月、シングル・アルバム『Rose Bud Days』でメジャーデビューし音楽活動を開始した。以後「ネオンの海で I LOVE YOU」「笑顔にダーツ」「迷路」「LAST SEASON」などのシングルやアルバムをリリースし、シティ・ポップ系の滋味あるバラードで人気を得る。現在もライブ活動や作品制作を続け、“日本のポール・マッカートニー”とも称される高い音楽性で支持されている。

鈴木雅之

1975年、友人たちとブルーアイド・ソウル風の男性グループ「シャネルズ」を結成。’80年にシングル「ランナウェイ」でメジャーデビューしミリオンヒットを記録する。’83年にバンド名をラッツ&スターに改名し、「め組のひと」「Tシャツに口紅」など数々のヒットを連発し人気を博す。’86年、自身のソロ活動を本格化させ「ガラス越しに消えた夏」でソロデビュー。以後「もう涙はいらない」「違う、そうじゃない」などのヒットを重ね、ベスト盤『Martini』シリーズはミリオンセラーとなる。2019年以降はアニメ『かぐや様は告らせたい』の主題歌を担当し“アニソン界の大型新人”とも称される。

久保田利伸

駒澤大学在学中の1985年、田原俊彦らに楽曲提供し作家デビュー 。翌’86年6月、シングル「失意のダウンタウン」でメジャー歌手デビューを果たす 。同年9月にアルバム『Shake It Paradise』をリリースし、R&Bやファンクを取り入れたスタイルで異彩を放つ 。’88年にはアルバム『Such A Funky Thang!』がオリコン首位に輝き、「Dance If You Want It」などヒット連発 。’95年にアメリカへ拠点を移し、’96年の「LA・LA・LA LOVE SONG」が月9ドラマ主題歌として大ヒット。日本のR&Bを切り開いたパイオニアとして現在も国内外で高い評価を受ける。

奥田民生

’87年、ロックバンド・UNICORNのボーカリストとしてメジャーデビューし「大迷惑」「働く男」「すばらしい日々」などのヒット曲で’80〜90年代のバンドブームを牽引。’93年にバンド解散後、1年間の“充電期間”を経て’94年にシングル「愛のために」でソロ活動を本格始動。以降「イージュー★ライダー」「さすらい」など数々の名曲を発表。PUFFYや木村カエラのプロデュース、井上陽水とのユニットなど多彩な音楽活動を展開。現在も独自のスタイルで演奏・制作・プロデュースを続け、音楽界の第一線で活躍中。

池田政典

ジャパンアクションクラブ(JAC)第12期生として俳優デビューし、’86年5月、TBSドラマでテレビ初出演。同年8月、東芝EMIからシングル「ハートブレーカーは踊れない」で歌手デビューし、グラビアでも注目を集めた。’87年5月「NIGHT OF SUMMER SIDE」がアニメ『きまぐれオレンジ☆ロード』の主題歌に起用され音楽番組でも注目される。’88年の「Formula Wind」もヒットするが、’92年「愛のセレブレーション」以降、歌手活動は休止。以後は俳優と声優業に専念し『るろうに剣心』の志々雄真実役などアニメでも存在感を示し、現在も活動を継続している。

KAN

’87年、シングル『テレビの中に』でソロ歌手としてメジャー・デビュー(ポリドール)。’90年9月、代表曲『愛は勝つ』をシングルリリース。累計200万枚超の大ヒットを記録し、オリコン週間シングル1位を8週連続、年間チャート3位となる。同曲は第33回日本レコード大賞ポップス・ロック部門大賞を受賞し、NHK紅白歌合戦にも出演。その後も多数の楽曲がチャート上位に入り、’90年代前半には5曲のトップ10シングル、4枚のトップ10アルバムを生む2010年時点でのCD総売上は約460万枚に達する。2023年11月、61歳没。

玉置浩二

’73年、高校時代にバンド「安全地帯」を結成し、’82年2月、シングル『萌黄色のスナップ』でグループはメジャー・デビュー。’83年には「ワインレッドの心」’84年「恋の予感」、’85年「悲しみにさよなら」など複数のヒットを連発し、日本の’80年代ロック・ポップスを代表するバンドとなる。’87年末ソロ活動を開始し『All I Do』などをリリース。その後も「田園」をはじめヒット曲を生み出し、作詞・作曲にも注力。2012年には自主レーベル“SALTMODERATE”を立ち上げ、バンドとソロ双方で精力的に活動。オーケストラ公演も行い、現代も高い評価を受け続けている。

氷室京介

’82年、伝説的なロックバンドBOØWYのボーカリストとして『MORAL』でレコードデビュー、日本のロックシーンに革命をもたらす。’88年、BOØWY解散後わずか3カ月でソロ第1弾シングル「ANGEL」でデビューし、オリコン年間チャートで8位に入るヒットとなる。’92年には「KISS ME」でミリオンセールスを達成、’93年のアルバム『Memories Of Blue』も150万枚以上を売り上げ、ソロアーティストとして不動の地位を確立。’97年からはロサンゼルスに拠点を移し制作と活動を継続。独自の“ヒムロック”スタイルで音楽界に強い影響を与えた存在となっている。

布袋寅泰

’80年末、氷室京介らと共に結成した「暴威」(後のBOØWY)で’82年3月発売のアルバム『MORAL』にてギタリストとしてデビュー、日本のロックシーンで絶大な存在となる。’88年10月、BOØWY解散後すぐにソロ1stアルバム『GUITARHYTHM』で独立、精緻なギターサウンドで新境地を切り開いた。’89年には吉川晃司とのユニット「COMPLEX」を結成し、大型ヒットを放つ。以降は作詞・作曲・プロデュースとマルチに活躍し、2003年には映画『KILL BILL』に「Battle Without Honor or Humanity」が使用され世界的にも名を轟かせた。2012年からはロンドンを拠点に活動を展開し、国際的な舞台でのライブ・制作を続けている。

徳永英明

’86年1月、シングル「Rainy Blue」とアルバム『Girl』でメジャー歌手デビューを果たし、その透明感のある歌声で注目を集める。’87年の「輝きながら…」が初のヒットとなり、その後も「風のエオリア」「最後の言い訳」「夢を信じて」「壊れかけのRadio」など数々の代表曲をリリース。2005年以降、「VOCALIST」シリーズで女性アーティストの名曲をカバーするスタイルを打ち出し、ロングセラーを記録、歌声と表現力により新たな価値を築く。現在もコンサートツアーや新作リリースを継続中で、多くの世代に支持されるベテランボーカリストとして活躍している。

竜鉄也

中学2年で失明し、その後26歳で再び全盲となるが、独学でアコーディオンを習得し岐阜・高山地方を中心に「流し」として演歌を歌いながら修行を積む。’80年6月、デビュー曲「奥飛騨慕情」をトリオレコードから発表し、ミリオンセラーを記録。翌’81年には第32回NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。楽曲には「紬の女」「哀愁の高山」などがあり、作詞・作曲も手がけた。2000年頃に脳卒中で療養に入り引退。2010年12月、クモ膜下出血により74歳で逝去。

山川豊

三重県鳥羽市生まれ。’81年2月、デビュー曲「函館本線」で歌手デビューを果たし、同年末の第23回日本レコード大賞・新人賞など多くの新人賞を受賞した。’86年には「ときめきワルツ」で初のNHK紅白歌合戦出場を果たし、それ以降2005年までに11回の出場を重ねる。’98年の「アメリカ橋」が大ヒットし、「ニューヨーク物語り」「霧雨のシアトル」といった“アメリカ3部作”も話題を呼ぶ。現在もライブや新曲リリースなど精力的に活動を続ける、日本を代表する演歌歌手の一人。実兄は同じく演歌歌手の鳥羽一郎。

尾形大作

’81年「THE MATATABI」をキャッチフレーズにデビューし、’86年に発表した「無錫旅情」が約48.6万枚の売上を記録し大ヒットを遂げる。’87年には第38回NHK紅白歌合戦に初出場し、翌年も出場を果たす。’88年は「敬天愛人 幕末青春グラフティ」で第30回日本レコード大賞企画賞を受賞。’90年には独立に関する記者会見を行うが、所属事務所とのトラブルにより一時歌手活動を休止。福岡に戻り、地域密着型の演歌歌手として活動を再開し、テレビドラマやVシネマ、CM出演など多方面で活躍。現在もCDを発売し、地域イベントなどに出演している。

鳥羽一郎

漁師や板前を経て、演歌への道を断ち切れず27歳で上京し、巨匠・船村徹に内弟子として約3年間修行を積む。’82年8月、シングル「兄弟船」で歌手デビュー。同曲は海の男の哀愁を描いた代表作となり大ヒットを記録。。’85年にNHK紅白歌合戦初出場を果たし、その後20回以上の出場を重ねる。海難遺児支援などチャリティ活動にも力を入れ、紺綬褒章を7度受章。現在も「海の男」演歌の旗手として精力的に活動を続けている。

梅沢富美男

大衆演劇「梅沢劇団」で1歳7ヶ月で初舞台を踏み、15歳から本格的に舞台俳優として活動。20代後半に女形が評判となり「下町の玉三郎」と称され大衆演劇界のスターに成長。’82年に歌手としても活動を開始し、小椋佳作詞作曲「夢芝居」が大ヒット。’83年にNHK紅白歌合戦で歌唱し一躍歌謡界でも脚光を浴びた。その後、舞台座長として劇団を率いながらテレビ・映画・バラエティなど多方面で活躍。タレントやコメンテーターとしても人気を博し、現在も精力的に舞台とメディアで存在感を放ち続けている。

'80年代の演歌の傾向

1980年代の演歌は都会的な歌謡曲とは反対に、地方の町やふるさとを舞台とする楽曲が多く作られ、ヒットした。竜鉄也「奥飛騨慕情」(’80)、山本譲二「みちのくひとり旅」(’81)、大川栄策「さざんかの宿」(’82)、細川たかし「矢切の渡し」(’83)、石川さゆり「天城越え」(’86)など、旅情とともに男女の哀切を情熱的に描いた作品が大ヒットし、演歌の地方指向や「ふるさと回帰」が目立った時代だった。

ドラマ > 1970年代

1970年代は高度経済成長期の終盤という時代背景で、社会の変化や人々の価値観を反映した作品が多く制作された。『太陽にほえろ!』『傷だらけの天使』『Gメン’75』『俺たちの旅』『3年B組金八先生(第1シリーズ)』をはじめ人気ドラマが続々と生まれ、家庭用ビデオも本格普及を迎える前だったことから、番組ファンは放送時刻に間に合うよう急いで帰宅するスタイルが一般的だった。テーマ音楽も注目を集め、テレビドラマが人々の生活の中に深く根差した時代。

─ 主な人気ドラマ(初回放送年を記載) ─

※本ページに掲載の動画はすべて公式配信動画です。

'79年10月-'84年10月(テレビ朝日)

『西部警察』

石原プロ制作のアクション刑事ドラマ。渡哲也演じる大門圭介を中心とする捜査チーム「大門軍団」が、東京・城西地区を舞台に凶悪犯罪へ挑む姿を描く。石原裕次郎演じる木暮課長の指揮の下、派手な銃撃戦やカースタント、爆破を多用したスケール感ある演出が人気を博した。『大都会』シリーズの流れを汲みつつ、若年層も意識した娯楽性の高い作風が特徴の作品。

’79年10月-’81年3月(TBS)

『噂の刑事トミーとマツ』

外見も性格も正反対な刑事・岡野富夫(トミー)と松山進(マツ)が名コンビ「トミマツ」として事件解決に挑む刑事ドラマ。クライマックスでは、臆病になるトミーをマツが罵倒し、奮起したトミーが一転して悪党を倒す展開が定番。全体に明るい作風で、殉職ではなく退職が描かれる点も特徴だった。海外のバディ刑事ドラマに着想を得た本作は、日本におけるバディもの刑事ドラマの元祖とされ、「和製スタスキー&ハッチ」とも評された。

’79年10月-’80年3月(TBS)

『3年B組金八先生』

後世にも伝えられるTBSドラマの代表作と言える学園ドラマ。武田鉄矢演じる中学校の教員・坂本 金八の教え子役に田原俊彦、近藤真彦、野村義男、三原順子、杉田かおる、川上麻衣子、小林聡美、伊藤つかさ、沖田浩之、鶴見辰吾などが並び、多くの人気歌手と俳優がこのドラマから生まれた。杉田かおるが演じた中学3年で出産し母となる浅井雪乃というショッキングな役柄は当時大きな話題となり、若者はもとより親世代の大きな関心も集めた。シリーズは2008年まで続いた。

’79年4月-11月(日本テレビ)

『俺たちは天使だ!』

金に縁のない麻生探偵事務所の5人が一攫千金を夢見て奔走する姿を描いたアクション・コメディ。沖雅也が『太陽にほえろ!』とは対照的なコミカルな役柄に挑み、代表作の一つとなった。発想の原点は米ドラマ『バークにまかせろ』で、富豪探偵の逆として貧乏探偵を設定。台本はアドリブで大きく変化し、遊び心あふれる作風が特徴となった。多岐川裕美、柴田恭兵、神田正輝らが出演。主題歌はSHŌGUNによる「男たちのメロディー」。

’78年10月-’79年4月(日本テレビ)

『西遊記』

ゴダイゴの「Monkey Magic」で幕を開ける日テレ開局25年の記念番組。中国の「西遊記」をドラマ化したもので、中国から天竺(インド)を目指す孫悟空の一行が遭遇する様々な困難を描く。孫悟空役に堺正章、三蔵法師に夏目雅子、沙悟浄に岸部シロー、猪八戒に 西田敏行。大河ドラマの裏ながら平均視聴率率19.5%、最終回では27.4%を記録し、イギリスをはじめ各国で吹き替え版が放送される大人気ドラマとなった。エンディング曲の「ガンダーラ」や挿入曲もゴダイゴが担当し、曲の力も含めたスケール感ある独特の世界観が魅力。三蔵法師役の夏目雅子の美貌でも話題を集めた。

'78年10月-'79年10月(日本テレビ)

『ゆうひが丘の総理大臣』

中村雅俊主演による青春学園ドラマで、『われら青春!』などの日テレ学園ドラマの系譜を継ぐ作品。夕日丘学園高校に赴任したアメリカ帰りの英語教師・大岩雄二郎(中村)が主人公で、初日に放った一言から「ソーリ」と呼ばれる存在となり、生徒たちと向き合っていく姿を描く。熱血さと自由な感性を併せ持つ教師像を軸に、若者の悩みや成長を描写。詩的なエンディング演出も印象的な作品。

’78年10月-’79年3月(日本テレビ)

『熱中時代』

1978年から日本テレビ系で放送された水谷豊主演の学園ドラマで、小学校教師・北野広大が赴任先で起こる様々な問題に体当たりで向き合う姿を描き、放送当時の文部大臣も欠かさず観ていたというエピソードを持つ。小学校教諭を主人公に据えた点が当時としては画期的で、高視聴率を記録した。’78年の第1シリーズ、’80年の続篇に加え、家庭を持った北野の奮闘を描く単発スペシャルも制作された。2011年には30年後を舞台にしたリメイク版も放送され、長く支持される作品となった。

’78年6月-’79年1月(フジテレビ)

『白い巨塔』

「サンデー毎日」に連載されていた山崎豊子の『白い巨塔』をドラマ化。映像化は本ドラマが3作目となった人気小説。大学の医学部を舞台に、野心に燃える第一外科の助教授・財前五郎の非情さと医療の暗部を描く。主役の財前は田宮二郎が演じた。手術シーンの多くは、医師や患者の許可を得た実際の映像が使われた。あと2回の放送で終了という段階で主役の田宮二郎が猟銃自殺し、それまで12~13%で推移していた視聴率が最終回では31.4%となるが、最終回の視聴率の高さについては視聴者に対し制作陣の憤りがあったとされ、非情なテーマの裏に作り手の良心が息づくドラマだった。

'78年5月-'79年2月(TBS)

『ムー一族』

前作『ムー』の続編として制作されたコメディドラマで、郷ひろみ、樹木希林の「林檎殺人事件」の挿入歌も話題となった。東京・新富町の老舗足袋屋「うさぎ屋」を舞台に描かれる物語で、途中で情報番組風コーナーや歌唱が挿入されるなど、ドラマとバラエティを融合した自由な構成で、多数の回が生放送で進行した。公開中継や視聴者参加企画、著名人のゲスト出演も多く、前作以上に実験性と娯楽性を強めた作品。

’77年12月-’78年6月(TBS)

『赤い絆』

赤いシリーズの第6弾、山口百恵主演。実の母親が赤線で働く娼婦だったことを知った小島恵子(山口百恵)が盛り場を闊歩する不良少女となり、街で出会ったエリート外交官とその婚約者に及ぶ複雑な人間模様を描く。それまでの赤いシリーズでは、お嬢様役や貧しくとも健気に生きるキャラクター設定だった百恵の斜に構えたハードな演技が特徴。ロケは渋谷界隈が中心で、再開発で様変わりしてしまった今、懐かしい渋谷の様子も見どころ。平均視聴率29.5%で、モモ&トモコンビではなかったものの、赤いシリーズの中で最も高いアベレージを叩き出した人気作。

'77年11月-'78年4月(日本テレビ)

『俺たちの祭』

中村雅俊主演の青春ドラマ。『俺たちの旅』『俺たちの朝』に続く同系譜の作品として期待されたが、コメディ色を抑え、挫折や苦悩、長い回想を重ねたシリアスな作風が特徴となった。そのため前2作とは印象を異にし、視聴率面では苦戦し、当初想定されていた1年放送に至らず半年で終了した。芸能界や劇団の裏側を描いた点も本作の特色で、後年ビデオやDVDとして商品化されている。

'77年5月18日 - 11月9日(TBS)

『ムー』

TBS水曜劇場で放送されたホームコメディで、東京・新富町の足袋屋「うさぎや」を舞台に描かれる。久世光彦が演出・プロデュースを担当し、伊東四朗が本格的に主演を務めた作品で、岸本加世子のデビュー作でもある。郷ひろみと樹木希林の掛け合いや名脇役陣の演技が光り、バラエティ色の強い構成や生放送回、通行人ゲストなど実験的演出も特徴となった。素朴な人情と笑いを重ねた作品だった。

'77年4月-11月(フジテレビ)

『華麗なる刑事』

新宿や渋谷を管轄する南口署刑事課を舞台にしたアクション刑事ドラマ。ロサンゼルス帰りの都会派刑事・高村一平(草刈正雄)と、鹿児島出身の人情派刑事・南郷五郎(田中邦衛)という対照的な二人がコンビを組み事件に挑む。高村は『ダーティハリー』の影響を受けたキャラクターで、44マグナムを携えたアメリカ的センスが特徴。派手なアクションや都会的演出に加え、主題歌披露や車両演出なども話題となった。

’77年4月-’87年3月(テレビ朝日)

『特捜最前線』

テレビ朝日系で放送された東映制作の刑事ドラマ。東京総合ビル33階に置かれた架空部署・警視庁特命捜査課に所属する刑事たちの捜査と人間模様を描き、行方不明事件からテロまで幅広い題材を扱った。主演は二谷英明。特撮作品出身俳優の多さから「特撮最前線」とも呼ばれ、番組スポンサーである日産から車両提供されたセドリックやスカイラインの覆面パトカーが疾走するオープニングも象徴的な、10年にも及ぶ長寿シリーズとなった。イタリア人歌手・チリアーノのエンディング曲「私だけの十字架」もドラマの世界観を盛り上げた。

’76年11月-’77年5月(TBS)

『赤い衝撃』

山口百恵出演の赤いシリーズ第4弾。同シリーズの主演はそれまで宇津井健だったが、宇津井健が特別出演にシフトし、本作で初めて山口百恵&三浦友和が主演を務めた。大実業家の娘であり、高校陸上界の期待の星でオリンピック出場を目指す短距離走選手の大山友子(山口)が刑事の新田秀夫(三浦)の銃弾をアクシデントで受けて下半身マヒとなり、この二人の関係と、悲劇的な出生の秘密を主軸とするサスペンス。百恵&友和のゴールデンコンビの復活でファンの期待に応え、平均視聴率 27.0%、最高視聴率 32.6%のヒット作となった。当時の百恵のシングルはドラマと同名の『赤い衝撃』で、50万枚を超えるセールスを記録した。

'76年10月-'77年11月(日本テレビ)

『俺たちの朝』

勝野洋の初主演作となった青春ドラマで、『俺たちの旅』に続く「俺たちシリーズ」第2作目。前作の人気を受け、当初は短期放送の予定だったが、全48話の長期シリーズへと発展した。舞台は鎌倉で、若者たちの日常や葛藤、成長がフィルム撮影による映像で描かれる。放送開始時点で結末を定めず、登場人物の性格や関係性を軸に物語を自然に展開させていく手法が取られ、1年間にわたり等身大の青春像を描き出した。

’76年4月-10月(TBS)

『赤い運命』

山口百恵出演の赤いシリーズ第3弾。伊勢湾台風で妻子と生き別れになった検事がようやく見つけた娘は別人で、実娘(山口百恵)は犯罪者の娘として苦難の人生を送っているというストーリー。この作品では百恵の相手役は映画『エデンの東』で共演した南條豊が務めた。前作『赤い疑惑』より視聴率は10%ほど低いアベレージとなり、理由はファンが期待したモモ&トモコンビではなかったことへの失望感と、裏で洋画の話題作が放送されていたためと言われる。出生の秘密が根底に潜むシリアスな物語で、百恵をいじめる役どころの秋野暢子には視聴者から抗議の投書と電話が殺到した。この頃の歌手・百恵の楽曲は「横須賀ストーリー」。13枚目のシングルで、百恵の全シングルの中で最高セールスとなる66万枚を売り上げた。

'76年3月-7月(TBS)

『高原へいらっしゃい』

田宮二郎主演による人間ドラマ。舞台は野辺山の八ヶ岳高原にある経営難のホテルで、冬の終わりから夏の観光シーズンまでの限られた期間に面川マネージャー(田宮)が再建に挑む姿を描く。面川は集めた個性豊かなスタッフとともに、厳しい予算や人間関係の問題に立ち向かいながら、ホテル経営を軌道に乗せようと奮闘する。その背景には、自身の人生を立て直そうとする強い決意があり、再生の物語として展開される。

’76年1月-8月(日本テレビ)

『大都会』

石原プロモーションが初めて本格的に手がけたテレビドラマで、1976年から’79年にかけ日本テレビ系で全3シリーズ132回が放送された。渋谷を管轄する架空の城西警察署を舞台に、渡哲也演じる刑事・黒岩頼介を軸に描く。第1シリーズは倉本聰との共同企画による社会派色の強い内容だったが、第2・第3シリーズでは銃撃戦やカースタントを前面に出したアクション路線へ転換し高視聴率を獲得。後に設定を継承した『西部警察』へと発展した。

’75年10月-’76年10月(日本テレビ)

『俺たちの旅』

吉祥寺や井の頭公園を舞台に、中村雅俊、秋野太作、田中健が主演を務める青春群像劇。当初半年の放送が予定されていたが、人気のあまり1年間に延長された。将来の計画もなくお気楽に生きる三流大学生のカースケ(中村)らが自分らしい生き方を探して苦悩しながら生きる姿を描く。毎回ラストシーンを飾る散文詩とエンディング曲「ただお前がいい(歌・中村雅俊)」がドラマを味わい深いものにし、独特の世界感を作った。主題歌の「俺たちの旅(同)」は累計87.0万枚のヒット曲となり、オメダの妹役で当時人気アイドルだった岡田奈々が歌う挿入歌「青春の坂道」は当時大きなヒット曲とはならなかったものの、2024年の時点で再注目され、YouTube Musicで太田裕美「木綿のハンカチーフ」を抜く配信数を記録した。

’75年10月-’76年4月(TBS)

『赤い疑惑』

山口百恵出演の赤いシリーズ第2弾。前年、東宝映画『伊豆の踊子』で初共演した三浦友和とのTVドラマ共演1作目。この作品でお茶の間に広く知られるゴールデンコンビが誕生する。ある日大学で起きた爆発事故に巻き込まれ、不幸にも白血病に侵された幸子(百恵)と、幸子に心を寄せる光男(友和)の間に潜む悲劇を軸とするサスペンス。全29話の平均視聴率23.4%、最高視聴率30.9%を得た。最終回へ進む中、局には幸子の行く末を案じたり幸せな結末を願う電話が多く寄せられたという。ドラマ放送時の百恵は「ささやかな欲望」「白い約束」「愛に走って」を歌う16歳~17歳。ドラマの主題歌「ありがとう あなた」は「ささやかな欲望」のB面で、幸子の心情を綴る歌詞だった。

'75年10月-12月(日本テレビ)

『はぐれ刑事』

人情味あふれる刑事ドラマで舞台は東京下町の台東署。新米刑事・影山健三郎(沖雅也)と、胸に銃弾を残したまま捜査にあたる先輩刑事・風間史郎(平幹二朗)を中心に物語が展開する。情に厚い風間の捜査姿勢に反発していた影山は、下町の人々や同僚刑事たちとの関わりを通して次第に成長していく。浅草や隅田川の風景を背景に、人間の弱さや温かさを描いた点が特徴のドラマ。

’75年6月-9月(TBS)

『あこがれ共同隊』

’70年創刊のファッション誌『an・an』、’71年創刊の『non-no』がファッションの発信地として原宿を取り上げてアンノン族が誕生し、原宿が注目の的となった時代、当時もっとも人気だった新・御三家の郷ひろみと西城秀樹、花の高二トリオ(=花の中三トリオ)の桜田淳子を主役に制作された青春ドラマ。表参道・原宿を舞台に、夢を追う若者たちの姿を描く。第一回の放送では山口百恵もゲスト出演した。人気絶頂のアイドルを揃えたが、裏で日本テレビ『太陽にほえろ!』という強力な人気ドラマが放送されていたため視聴率は振るわず、当初全26話で予定されていた放送は17話に縮小された。山田パンダが歌う主題歌「風の街」のバックコーラスには、まだソロデビュー前だった山下達郎がバックコーラスで参加していたという今では驚きのエピソードも持つドラマ。

’75年5月-’82年4月(TBS)

『Gメン’75』

前作までの『キイハンター』『アイフル大作戦』『バーディー大作戦』に続くTBSアクション系ドラマの4作目。警視庁本部から独立した組織、警視庁Gメン本部に所属するメンバーの活躍を描く社会派の本格ハードボイルド作品。本部長の黒木警視正役に丹波哲郎、ほか夏木陽介、原田大二郎、若林豪、藤田美保子など。さらに森マリアや千葉裕、鹿賀丈史、夏樹マリ、范文雀など魅力の顔ぶれで視聴者を惹きつけた。予想を上回る視聴率から当初’75年10月までの予定がロングラン放送となる。全355話で最高視聴率は’78年第140話の32.2%。有名なオープニングの陽炎立ち上る滑走路のシーンは、想定していた羽田空港の許可が取れず、千葉県館山市にある海上自衛隊の軍用飛行場・館山航空基地で撮影された。

'75年4月-9月(日本テレビ)

『俺たちの勲章』

松田優作と中村雅俊が主演した青春刑事ドラマ。横浜の架空組織・相模警察本部捜査一係に所属する中野祐二と五十嵐貴久という、性格の異なる若手刑事コンビの活躍を描く。刑事コンビものの先駆的作品でありながら、上司や先輩から厄介者扱いされ、組織内で孤立した存在として描かれ続けた点が特徴。事件解決を通して成長し、大人へと変わっていく若者の姿を描いた、刑事ドラマの枠を超えた青春群像劇となっている。

’74年10月-75年3月(日本テレビ)

『傷だらけの天使』

萩原健一、水谷豊の探偵ドラマ。アンチヒーローな探偵に扮する萩原とその探偵を慕う弟分・水谷の独特のコンビ愛で若者の人気を集めた。怪しい雰囲気漂う綾部情報社の社長(岸田今日子)から舞い込む危険な仕事に弟分の乾亨(水谷)とコンビで取り組み、ハチャメチャさを武器に任務に挑む。魚肉ソーセージやコンビーフを無節操に頬張るオープニングの朝食シーンも視聴者の心をつかんだ。ポマード頭で革ジャンやスカジャンに身を包む水谷のファッションを真似る若者が急増したが、弟分に水谷を推したのは萩原で、理由は『太陽にほえろ!』でマカロニ刑事役を務めた際、犯人役を演じた水谷の人柄や仕事ぶりに感心したためとされる。

’74年10月-’75年3月(TBS)

『赤い迷路』

宇津井健主演による「赤いシリーズ」第1弾で、『顔で笑って』に続き、山口百恵とは親子の設定のドラマ。妻を殺された精神科医(宇津井)が犯人を追い詰める中で娘の明子(山口)の出生の秘密が明らかになってゆく家族の悲劇を軸とするサスペンスで高視聴率を記録し、平均視聴率は18.9% 、最高視聴率22.7%。TBS初出演となる松田優作が元サッカー選手役で登場したことでも話題を集めた。ドラマの開始時、百恵は5枚目のシングル「ひと夏の経験」、6枚目のシングル「ちっぽけな感傷」といずれも40万枚を超えるヒット曲を連発し、トップアイドルとしての地位を不動のものにしていた。

’74年10月-’75年3月(テレビ東京)

『愛と誠』

「週刊少年マガジン」で連載された梶原一騎・原作の人気コミックのドラマ化。不良少年と財閥令嬢の”純愛”がテーマのハードタッチの学園ドラマ。TVドラマでは早乙女愛役を池上季実子、太賀誠役を夏夕介が務めたが、映画版では愛役を一般公募による早乙女愛(役名=芸名)、誠役を西城秀樹が演じた(映画版の続編は別俳優が演じている)。西城秀樹版ではアイドルが誠を演じることに対する原作ファンの強い抗議と、その声に対抗する熱狂的な秀樹ファンの対立によりファンが劇場に殺到し、結果として映画は当時の『男はつらいよ』と並ぶ大ヒット作となった。

’74年5月-’75年5月(TBS)

『バーディー大作戦』

『アイフル大作戦』と世界観を共有する続編ドラマ。谷隼人演じる伊吹裕二を中心に、元生徒の井口マリ(松岡きっこ)や原田三平(川口厚)らが桜田警部(丹波哲郎)を局長に迎えて探偵局を結成し、事件解決に挑む姿を描く。当初は軽快な作風だったが、次第にハードボイルド色の強いアクション路線へと移行した。タイトルの「バーディー」は好機到来を意味し、男性的なスリルとスピード感を打ち出した点が特徴である。芥川隆行の印象的なナレーションも人気を集めた。

'74年10月-'75年3月(日本テレビ)

『水もれ甲介』

下町の水道屋・三ッ森工業所を舞台に家族の再生を描いた人情ドラマ。家出してバンドのドラマーとなっていた長男・甲介は、父の危篤を知り帰郷し、兄弟二人が養子であることを知らされる。父の死後、粗忽者として勘当同然だった甲介は、大学を中退して家業を継いでいた弟に支えられ、工業所を切り盛りしていく。血縁を超えた母や妹との絆を大切にしながら、雑司ヶ谷の下町で懸命に生きる家族の姿が温かく描かれる。

'74年4月-9月(日本テレビ)

『われら青春!』

中村雅俊初主演の太陽学園ラグビー部を舞台にした青春学園ドラマで、東宝・テアトル・プロ制作による青春学園シリーズ最終作。前作『飛び出せ!青春』と同じ太陽学園を舞台に、留年生の山本大作ら旧作の登場人物が続投し、新たにラグビー部の設立と成長が描かれる。神野吾郎を中心とした男子生徒と、白川梨絵率いる女生徒たちの人間模様が交錯する。主題歌『帰らざる日のために』や挿入歌『ふれあい』は大ヒットしたが、番組は半年で終了した。

’74年1月-10月(TBS)

『寺内貫太郎一家』

水曜劇場で放送された、東京下町にある石材店の家族の悲喜こもごもを描く人情味あふれるホームドラマ。小林亜星演じる頑固親父の寺内貫太郎を中心に毎回繰り広げられるアドリブ多めのドタバタ劇が見どころで、平均視聴率31.3%を記録した。主要キャストに悠木千帆、西城秀樹、浅田美代子、左とん平、伴淳三郎、加藤治子。一家の長老・きん(悠木千帆)が腰に手を当てて、壁に貼った沢田研二のポスターを見つめ「ジュリぃぃぃ~~~!」と悶絶するシーンが名物だった。続編有。

’73年10月-’74年3月(TBS)

『顔で笑って』

山口百恵初のレギュラー出演となるホームドラマ。舞台は鎌倉の小さな病院で、院長役の宇津井健の娘役で初共演。放送当時、百恵は「青い果実」「禁じられた遊び」「春風のいたずら」のリリースでトップアイドルへの階段を昇り始めていた。爽やかで初々しい演技が魅力で、本作終了の半年後にスタートした宇津井健主演の赤いシリーズ1作目『赤い迷路』でも宇津井の娘役で出演。役外でも百恵が宇津井を「お父さん」と慕っていたエピソードは有名で、’80年11月に19日に執り行われた実際の百恵&友和の結婚式では宇津井健夫妻が仲人を務めた。

’73年4月-74年5月(TBS)

『アイフル大作戦』

小川真由美主演のコミカルタッチのアクションドラマ。男勝りでお金に目のない探偵学校の校長・岸亮子(小川)をリーダーとする探偵チームが警察と協力して事件を解決するまでを描く。アイフルとは「すごい美人」「目をみはるほどイカす」を意味し、小川の衣装やヘアメイクの華やかさが見どころ。探偵役に松岡きっこ、谷隼人、西田健、警視庁の警部役に丹波哲郎。小川は他局の『女ねずみ小僧』シリーズでの人気から起用され、丹波、谷、松岡はTBS前作のアクションドラマ『キイハンター』からの出演。スタッフは『キイハンター』と同じメンバーで制作された。

’73年4月-'80年12月(日本テレビ)

『非情のライセンス』

生島治郎の「兇悪シリーズ」を原作とするハードボイルド刑事ドラマ。警視庁のはみ出し者を集めて結成された特捜部に属する会田刑事(天地茂)が、型破りかつ非情な捜査で悪に立ち向かう姿を描く。原作の虚無的世界観に加え、ドラマ版では戦中派の心情が色濃く反映され、孤独と怒りを背負った主人公像が強調された。会田を演じた天知茂はニヒルな刑事像を確立し、作品は1973年から’80年まで3シリーズにわたり放送された。

'74年4月-9月(東京12チャンネル)

『高校教師』

加山雄三主演。会社倒産で職を失った北山浩一郎(加山)が、東京都大杉市の白雪女子高校に英語教師として赴任し奮闘する姿を描く学園ドラマ。教師経験ゼロの北山と、担任する3年A組の女子生徒5人組を中心に、生徒や同僚教師、下宿先のスナックの人々との交流が描かれる。屋外ロケーションを多用し、1974年当時の東京近郊の街並みを記録した点も特徴。長らくソフト化に恵まれなかったが、2024年にHDリマスター版DVDが発売予定となった。

'74年4月-9月(TBS)

『白い滑走路』

田宮二郎が航空機操縦士を演じた本格航空ドラマ。日本航空の全面協力を得て制作され、実機ボーイング747やシミュレータを用いた迫真の映像が多用された。操縦室でのやり取りには実際の航空用語が使われ、訓練や管制との交信も現実に即して描写されている。747のラウンジや貨物機製造風景など1970年代航空業界の記録的映像も盛り込まれ、海外ロケも大規模に敢行された点が特色で、現在でも評価の高い航空ドラマとされる。

’73年4月-9月(日本テレビ)

『子連れ狼』

1973~’76年まで「漫画アクション」で連載された人気作品が原作の時代劇。’73年の第一部放送から’76年の第三部まで断続的に続いた。柳生一族により妻の命を奪われた元公儀介錯人の拝一刀(おがみいっとう)が一粒種の大五郎(だいごろう)とともに復讐に挑む物語。コミックで既に高い人気を誇っており、ドラマ化以前に若山富三郎が主演を務める映画版も制作された。幼い大五郎が父親に「ちゃん!」と呼びかける愛らしい姿が話題となり、大塚食品「ボンカレー」のCMで「じっと我慢の子であった」というナレーションがつくパロディ版も生まれた。

’72年10月-’73年9月(日本テレビ)

『パパと呼ばないで』

1970年代、お茶の間で絶大な人気を博した石立鉄男主演で、7歳の杉田かおるが「天才子役」としてブレイクしたホームドラマ。姉の忘れ形見である幼い千春(杉田)を独身サラリーマンの安武右京(石立)が引き取り、下宿先である東京・佃の米屋を舞台に描かれる下町の人情物語。右京に「チー坊」と呼ばれる杉田も、その愛らしさで、石立をしのぐお茶の間の人気者となった。日本酒造の「月桂冠」がスポンサーだったことから、ドラマ内のお酒にはビールや洋酒ではなく日本酒が使われた。

’72年7月-’86年11月(日本テレビ)

『太陽にほえろ!』

1972年から日本テレビ系で放送された刑事ドラマで全718回に及ぶ長寿番組。警視庁七曲警察署捜査一係を舞台に、藤堂係長を中心とした刑事たちが事件に挑む姿と人間模様を描く。当初はマカロニ刑事こと早見淳の成長物語として構想されたが、早見を演じた萩原健一が降板を希望したことにより殉職という展開を採用。以後、新人俳優を主役級で起用し、成長と殉職を軸に世代交代を重ねる独自の手法を確立した。松田優作をはじめ多くのスターを輩出し、後年は実績ある俳優も参加。刑事一人一人の個性を丁寧に描いた群像劇として日本の刑事ドラマ史に大きな足跡を残した。

’72年9月-’73年3月(フジテレビ)

『アイちゃんが行く!』

1972年から’73年にかけてフジテレビ系で放送された全31話の連続ドラマで、フジテレビと大映テレビの共同制作、江崎グリコの一社提供による作品。坂口良子のデビュー作として知られ、前半は父を探す少女アイちゃんが若者二人と共に日本各地を巡るロードムービーとして展開。後半は父と再会した後、義姉らからのいじめに耐えながら懸命に生きる姿を描く根性ものへと作風を転じた。旅の仲間役の交代など制作事情も話題となり、構成の変化が印象に残る作品。

'72年4月-9月(TBS)

『シークレット部隊』

保険金に関わる不正や事件を専門に調査する民間組織・ブレーンリサーチ社の9人の活躍を描いたアクションドラマ。1971年末に終了した『東京警備指令 ザ・ガードマン』への反響が非常に大きく、同じメンバーでの新作を望む声に応えて制作された。企画段階では『保険Gメン』『ニュース・ハンター』が候補となり、最終的に前者を基に本作が成立した。主演の宇津井健をはじめ、藤巻、中条、神山、稲葉、倉石らが引き続き出演し、集団捜査劇としての魅力を継承している。

'74年4月-9月(ANN)

『ザ・ボディガード』

民間の身辺警護会社「ザ・ボディガード」に所属する5人の活躍を描いたアクションドラマ。千葉真一率いるジャパンアクションクラブが格闘やスタントを担当し、迫力あるアクションが展開される一方、人情味あふれる物語が軸となっている。千葉は『ボディガード牙シリーズ』に続きボディガード役を演じた。物語は、正当防衛とはいえ殺人の過去を持つ鷲見秀介が、伊達正に迎えられ会社に加わるところから始まり、仲間や依頼人との関わりを通じて成長し、事件解決に挑む姿を描く。

’72年2月-’73年2月(日本テレビ)

『飛び出せ!青春』

無試験入学制度を取る高校・太陽学園に集う落ちこぼれ生徒たちと、特に問題児ぞろいのサッカー部部長に任命された新任教師が「レッツ・ビギン!」を合言葉に成長する姿を描く青春学園ドラマ。主役の教師役に村野武範、生徒役に石橋正次、剛達人、保積ぺぺ。同僚教師役に酒井和歌子、菅井きんなど。本作は’71年にヒットした同局『おれは男だ!』の後番組として制作されて大きな人気を博し、青い三角定規が歌う主題歌「太陽がくれた季節」の大ヒットも含め、当時の青春ドラマの金字塔と言われた。

’72年1月-5月(フジテレビ)

『木枯し紋次郎』

笹沢左保の時代小説を市川崑の監修によりドラマ化。貧しい農家に生まれた紋次郎が大人になり、ニヒルな渡世人となって生きる姿を描く。長楊枝を口にくわえ、吹き矢のように放つシーンでの決め台詞が元となる「あっしには関わりのないことでござんす」は流行語となった。紋次郎役は新人を起用したいという市川監督の意向により無名だった中村敦夫が抜擢されたが、見事なはまり役となり、視聴率30%超えの人気ドラマとなった。

'71年10月-'72年9月(日本テレビ)

『気になる嫁さん』

榊原るみ主演の全40話の連続ドラマ。清水家の父・呂之助と5人の兄姉弟、家政婦のばあやという大家族のもとに、末っ子・純の婚約者・坪内めぐみが「嫁」として同居することになり、家族とめぐみの笑いと涙の日常を描く。純が留学先で急死した後、めぐみは清水家に残り、家族と深い絆を育んでいく。『帰ってきたウルトラマン』で人気を博していた榊原がウルトラマンを降板してまで取り組み、さらなる人気を獲得した。石立鉄男らベテラン俳優が共演したホームドラマ。

'71年9月-'76年11月(TBS)

『刑事くん』

『柔道一直線』で人気を得た桜木健一を主演に迎えた刑事ドラマ。『刑事コロンボ』のヒットに着想を得て企画され、当時23歳と若かった桜木の年齢を踏まえ、新米刑事を主人公に据えた点からタイトルに「くん」が付けられた。殉職した父の志を継ぎ刑事となった三神鉄男が、人を信じる純粋さを失わず、数々の現実に直面しながら成長していく姿を描く。第1部では辞令を手に母に報告する場面が定番のオープニングとなり、第2部では出勤前に母へ声をかける演出へと変化した。昭和歌手のレジェンド・沢田研二はこのドラマの第32話へのゲスト出演がドラマデビューだった。

’71年2月-’72年2月(日本テレビ)

『おれは男だ!』

後に千葉県知事となる森田健作が主演した青春学園ドラマ。名門女子高から共学化した青葉高校を舞台に、転校生・小林弘二の奮闘を描く。男子が少数派の校内で、弘二は女子のリーダー吉川操と対立しつつ、剣道部を結成して「ウーマンリブ」打倒を掲げるが次第に互いを理解し合う関係へと変化していく。森田健作という青春スター像を確立し、軽妙な台詞や剣道着姿が話題となった。森田が歌う主題歌「さらば涙と言おう」や挿入歌「友達よ泣くんじゃない」もヒット。当時人気を博していたフォーリーブスなど多彩なゲスト出演も特徴で、放送延長されるほどの人気を博した。

'70年4月-'74年4月(TBS)

『ありがとう』

1970年代のホームドラマ全盛期を代表するTBSの連続テレビドラマ。『時間ですよ』『肝っ玉かあさん』と並び“ドラマのTBS”を象徴する作品。脚本・平岩弓枝、プロデューサー・石井ふく子の名コンビにより制作され、シリーズ最高視聴率56.3%という民放ドラマ史上最高記録を打ち立てた。第1~3シリーズは水前寺清子と山岡久乃が母娘役を務め、石坂浩二との恋愛や家族、近隣との交流を温かく描いた。第4シリーズでは配役を一新したが、視聴率低下などを理由に終了した。

'70年4月-9月(テレビ東京)

『江戸川乱歩シリーズ 明智小五郎』

東京12チャンネルで放送された東映制作の全26話。江戸川乱歩の小説を原作とするオムニバス形式を採り、明智小五郎が登場しない作品やジュブナイル作品も交え、自由な選択と脚色で映像化された。蜘蛛男や黄金仮面など怪人描写は、後の『仮面ライダー』初期に影響を与えたとされる。主演は溝口舜亮で、本作のみ乱歩未亡人の命名により滝俊介を名乗った。再放送もたびたび行われている。

’70年3月-9月(TBS)

『大岡越前(第一部)』

1970年から’99年までTBS系「ナショナル劇場」で放送された時代劇で、南町奉行・大岡忠相の活躍を描く。全15部402話に加え、2006年に特別編が放送された。主演の加藤剛が約30年にわたり忠相を一貫して演じた点が大きな特徴。初期は享保の改革に奔走する若き奉行の成長と人間関係を重視し、次第に講談・落語の「大岡政談」を基にした痛快な裁きへと作風が移行した。『水戸黄門』と並ぶTBS時代劇の看板作品。

'70年1月-'71年4月(日本テレビ/よみうりテレビ)

『細うで繁盛記』

花登筺の小説『銭の花』を原作とし、題名を改めてテレビドラマ化された作品。大阪生まれの加代が伊豆・熱川温泉の老舗旅館に嫁ぎ、数々の困難や確執に耐えながら女将として旅館を立て直していく姿を描く。関西で高視聴率を記録し、次第に全国的な人気作となって放送は長期化した。主演・新珠三千代の芯の強い演技と、冨士眞奈美演じる強烈ないびり役も話題を呼び、続編や後年のリメイクへとつながった。

'65年7月-'90年10月(TBS)

『時間ですよ』

1965年から’90年までTBS系で放送された銭湯を舞台とするホームドラマ。森光子主演のもと堺正章や悠木千帆らが共演し、天地真理や浅田美代子の出世作ともなった。久世光彦が演出・制作を手がけ、女湯シーンの演出も話題を集めた。’70年代にシリーズ化され、’80年代にはリバイバルも制作。とんねるずや藤井郁弥、中居正広ら新世代の出演も注目された。

ドラマ > 1980年代

1980年代 1970年代 1960年代 1980年代のテレビドラマは黄金期を迎え『北の国から』『おしん』『金曜日の妻たちへ』『ふぞろいの林檎たち』など時代を超えて愛される名作ドラマが多数生まれた。バブル期となる&#82 … 続きを読む