アニメ&ヒーロー > 1960年代

1960年代は、テレビアニメと特撮ヒーロー番組が急速に発展した。アニメは『鉄腕アトム』を嚆矢に毎週放送型のシリーズが定着し、ロボット・冒険・SFなど子ども向けのテーマが主流となった。低予算を補うための limited- animation が技法として確立し、後の日本的キャラクターデザインの基礎も形成された。一方、特撮ヒーロー番組は『ウルトラマン』『マグマ大使』『仮面の忍者 赤影』などが人気を獲得し、怪獣・変身・巨大ヒーローといった要素が確立していく。撮影技術の革新やミニチュア・スーツアクションの洗練により視覚表現が飛躍し、アニメとともに子ども文化を牽引するテレビ娯楽が社会的影響力を強めた。

─ 主なアニメ・特撮ヒーロー ─

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アニメ
animation

(C)「ねりまアニメ年表」(魔法使いサリー)著作者:光プロダクション・東映アニメーション

1969年12月7日 - 1971年11月28日
全104話(フジテレビ)

アタックNo.1

1969年10月5日 - 現在
(フジテレビ)

サザエさん

1969年10月5日 - 1970年12月27日
全65話(フジテレビ)

ムーミン(第1作)

1969年10月5日 - 1970年9月27日
全104話(フジテレビ)

ハクション大魔王

1969年10月2日 - 1971年9月30日
全105話(YTV)

タイガーマスク

1969年9月29日 - 1970年3月28日
全156話(日本テレビ)

男一匹ガキ大将

1969年9月29日 - 1970年3月28日
全156話(フジテレビ)

ピンチとパンチ

1969年4月6日 - 1969年9月28日
全26話(フジテレビ)

どろろ(第1作)

1969年4月6日 - 1969年9月28日
全26話(フジテレビ)

忍風カムイ外伝

1969年4月4日 - 1970年12月25日
全180話(NET)

もーれつア太郎(第1作)

1969年4月2日 - 1969年9月24日
全26話(フジテレビ)

紅三四郎

1969年4月1日 - 1969年9月23日
全52話(TBS)

ウメ星デンカ

1969年1月6日 - 1970年10月26日
全94話(NET)

ひみつのアッコちゃん(第1作)

1968年10月7日 - 1969年3月31日
全26話(フジテレビ)

妖怪人間ベム

1968年10月2日 - 1969年3月26日
全26話(フジテレビ)

ドカチン

1968年9月30日 - 1969年3月29日
全156話(日本テレビ)

夕やけ番長

1968年4月21日 - 1969年3月23日
全49話(TBS)

怪物くん

1968年4月5日 - 1968年9月27日
全26話(NET)

サイボーグ009(第1作)

1968年3月30日 - 1971年9月18日
全182話(YTV)

巨人の星

1968年1月12日 - 1968年5月27日
全20話(NET)

大魔王シャザーン

1968年1月3日 - 1969年3月30日
全65話(フジテレビ)

ゲゲゲの鬼太郎(第1作)

1967年7月3日 - 1967年9月18日 / 1969年12月29日 - 1970年3月30日
全26話(NET)

ピュンピュン丸

1967年4月5日 - 1967年10月4日
全26話(NET)

キングコング

1967年4月4日 - 1967年12月26日
全39話(TBS)

冒険ガボテン島

1967年4月2日 - 1968年4月14日
全108話(TBS)

パーマン

1967年4月2日 - 1968年4月7日
全52話(フジテレビ)

リボンの騎士

1967年4月2日 - 1968年3月31日
全52話(フジテレビ)

マッハGoGoGo(第1作)

1967年4月1日 - 1968年3月23日
全52話(YTV)

黄金バット

1967年1月7日 - 1967年9月30日
全40話(フジテレビ)

悟空の大冒険

1966年12月5日 - 1968年12月30日
全109話(NET)

魔法使いサリー(第1作)

1966年10月5日 - 1967年3月29日
全26話(フジテレビ)

新ジャングル大帝 進めレオ!

1966年10月4日 - 1968年9月27日
全104話(フジテレビ)

ロボタン(第1作)

1966年5月5日 - 1967年8月31日
全70話(フジテレビ)

ハリスの旋風

1966年2月5日 - 1967年3月4日
全56話(MBS)

おそ松くん(第1作)

1965年10月6日 - 1966年9月28日
全52話(フジテレビ)

ジャングル大帝

1965年8月29日 - 1967年6月28日
全96話(TBS)

オバケのQ太郎

1965年5月4日 - 1967年3月28日
全96話(TBS)

宇宙少年ソラン

1965年1月7日 - 1966年1月20日
全52話(TBS)

スーパージェッター

1964年8月3日 - 1965年9月27日
全59話(TBS)

ビッグX

1964年6月7日 - 1965年8月31日
全65話(NET)

少年忍者風のフジ丸

1964年1月21日 - 1964年10月27日
全38話(フジテレビ)

0戦はやと

1963年4月7日 - 1965年4月1日
全92話(NHK)

銀河少年隊(人形劇+アニメ)

1963年1月1日 - 1966年12月31日
全193話(フジテレビ)

鉄腕アトム(第1作)

1963年11月25日 - 1965年8月16日
全86話(NET)

狼少年ケン

1963年11月7日 - 1964年12月31日
全56話(TBS)

エイトマン

1963年10月20日 - 1965年11月24日
全97話(フジテレビ)

鉄人28号

ヒーロー
hero

(C)Eiga-Kevin2/2021

1969年10月5日 - 1970年8月16日
全45話(TBS)

サインはV!

1969年6月22日 - 1971年4月4日
全92話(TBS)

柔道一直線

1968年10月3日 - 1969年3月29日
全26話(フジテレビ)

バンパイヤ

1968年9月15日 - 1969年3月9日
全26話(TBS)

怪奇大作戦

1967年10月11日 - 1968年4月1日
全26話(テレビ朝日)

ジャイアントロボ

1967年10月2日 - 1968年3月25日
全26話(フジテレビ)

怪獣王子

1967年10月1日 - 1968年9月8日
全49話(TBS)

ウルトラセブン

1967年7月3日 - 1968年12月30日
全79話(TBS)

コメットさん

1967年4月5日 - 1968年3月27日
全52話(関西テレビ)

仮面の忍者 赤影


1966年11月9日 - 1967年9月27日
全47話(日本テレビ)

快獣ブースカ

1966年10月6日 - 1967年3月30日
全26話(テレビ朝日)

悪魔くん

1966年7月17日 - 1967年4月9日
全39話(TBS)

ウルトラマン 空想特撮シリーズ

1966年7月4日 - 1967年6月26日
全64話(フジテレビ)

マグマ大使

1966年4月10日 - 1967年1月10日
全36話(NHK)

サンダーバード

1966年4月7日 - 9月28日
全26話(テレビ朝日)

忍者ハットリくん

1966年3月7日 - 1967年2月27日
全52話(日本テレビ)

丸出だめ夫

1966年1月2日 - 7月3日、1967年12月14日
全28話(TBS)

ウルトラQ

1964年1月3日 - 1966年3月31日
全130話(フジテレビ)

忍者部隊月光

1962年10月7日 - 1965年3月28日
全128話(TBS)

隠密剣士

1961年7月2日 - 1962年4月1日
全26話(フジテレビ)

新少年ジェット

1961年5月4日 - 1962年2月8日
全41話(テレビ朝日)

少年ケニヤ

1960年11月3日 - 1963年9月26日
全152話(フジテレビ)

少年探偵団

1960年8月4日 - 1961年4月27日
全39話(テレビ朝日)

ナショナルキッド

1960年7月7日 - 12月27日
全26話(テレビ朝日)

アラーの使者

1960年5月6日 - 12月30日
全35話(テレビ朝日)

笛吹童子

1960年4月5日 - 1961年6月27日
全65話(日本テレビ)

快傑ハリマオ

1960年3月7日 - 5月28日
全13話(フジテレビ)

鉄人28号

1960年1月5日 - 9月20日
全38話(テレビ朝日)

白馬童子

1959年7月12日 - 1960年3月27日
全38話(TBS)

豹の眼

1959年6月3日 - 1959年12月30日
全59話(テレビ朝日)

七色仮面

1959年4月1日 - 1960年3月27日
全56話(TBS)

まぼろし探偵

1959年3月7日 - 1960年5月28日
全65話(フジテレビ)

鉄腕アトム

1959年3月4日 - 1960年9月28日
全83話(フジテレビ)

少年ジェット

1959年2月3日 - 12月29日
全52話(テレビ朝日)

風小僧

1958年11月23日 - 1960年6月5日
全81話(日本テレビ)

怪人二十面相

1958年11月11日 - 1959年10月6日
全49話(日本テレビ)

遊星王子

1958年2月24日 - 1959年7月5日
全130話(TBS)

月光仮面

バラエティ > 1980年代

1980年代のバラエティは漫才ブームを契機に大きく転換した。若手漫才師の速いテンポの笑いが若者を惹きつけ、フジテレビを中心にアドリブ重視の番組が隆盛する。タモリ、ビートたけし、明石家さんまは社会的影響力を持つ存在となり、第三世代の登場で勢いは加速した。フジのプロデューサー横澤彪による土曜夜の『オレたちひょうきん族』が大人気となり、演出家テリー伊藤による『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』は過激かつ素人性を前面に出した企画を連発して大きな支持を集め、バラエティ黄金期が訪れた。

─ 主なバラエティ番組 ─

1946年1月 –

1946年にラジオで始まり、1953年からテレビ放送も開始された公開視聴者参加型の生放送音楽番組。素人出場者が歌を披露し、ゲスト歌手の指導やインタビューを交えながら評価される。1970年の改革で出場者数を25人に絞り、手持ちマイクやワイヤレスマイクを導入、歌唱だけでなく表現力も重視する構成に変更され、全国大会や特別賞も設けられ人気を回復。現在も各地域から生中継や録画で放送される長寿番組。

1958年5月 – 1987年9月

1958年から約24年間にわたりTBS系列で日曜昼に放送された長寿歌謡番組。開始当初はモノクロ・モノラルだったが、’69年にカラー化、’85年にはステレオ放送へ移行した。番組は時代に応じて副題やタイトルを変えつつ、終始ロッテの一社提供で継続された。長年司会を務めた玉置宏の「一週間のご無沙汰でした」で始まる語り口は名物となり、従来の美文調司会とは異なる個性的な進行で歌謡番組の新境地を切り開いた。

1959年3月 – 1981年9月

旬の芸能人やスポーツ選手をゲストに迎え、社会的話題として人物像に迫る月-土曜に放送された帯番組。映画スター出演制限の時代に、時事性を切り口として人気を博した。ゴールデン帯15分枠(19:45 – 20:00)で放送され、「出演すれば一人前」と称される存在感を確立。俳優司会の起用や早期のカラー化も話題となり、最高視聴率45.9%を記録した。歴代司会者は栗原玲児、石坂浩二、関口宏、吉永小百合、坂本九など。

1964年1月 – 2010年1月

1964年に始まったフジテレビの新春特別バラエティ番組で、『紅白歌合戦』『日本レコード大賞』と並ぶ年末年始の大型番組として親しまれた。芸能人がチームに分かれ、秘芸や余興を披露して得点を競う形式で高視聴率を長年維持。制作は渡辺プロダクションと共同で行われ、華やかな演出も名物となった。2010年元日の放送をもって47年の歴史に幕を下ろした。

1964年8月 –

日本の民放音楽番組として最長寿を誇るフジテレビ系のレギュラー番組で、1964年の開始以来、塩野義製薬一社提供の冠番組として放送されてきた。’67年にカラー化、’78年にステレオ化、2004年にはハイビジョン制作へ移行するなど、放送技術の進化も反映している。初代総合司会に越路吹雪、二代目に左幸子、三代目に長門裕之・南田洋子夫妻など落ち着いた進行役とゲスト同士の丁寧なトーク、質の高い歌唱演出が特徴で、海外の大物アーティストも多数出演した。初期は公開収録も行われたが、現在は観客を入れないスタジオ収録が基本となっている。

1965年11月 – 1990年3月

1965年から約24年半にわたり放送された日本初の深夜お色気ワイドショーで、基本は生放送。日本テレビとよみうりテレビが曜日別に制作し、大橋巨泉、愛川欽也、藤本義一らが司会を担当。ヌードや風俗といった刺激的題材から、前衛芸術、政治・社会問題まで幅広く扱い、深夜番組の可能性を拡張した。曜日ごとの特色ある企画も定着し、最高視聴率48%超を記録するなど、長寿かつ影響力の大きい番組として知られる。

1966年4月 – 1980年12月

TBSを幹事局とし、各地の系列局が持ち回りで制作・放送した視聴者参加型の歌合戦番組。審査員は市川昭介、笠置シヅ子、神津善行、山本直純など。日本各地の市民会館などで公開収録が行われ、家族単位の出場者が動物名を冠したチームとして歌声を競った。司会は獅子てんや・瀬戸わんやが担当した。当初はモノクロ放送だったが1970年4月からカラー化。約14年半にわたり放送され、昼間ながら平均15%を記録した時期もあったが、後年は視聴率が低下し、愛知県西尾市での収録を最後に終了した。

1966年5月 – 1968年4月 / 1968年5月 – 1996年3月ほか

1966年に『金曜夜席』を継ぐ形で始まった演芸バラエティ番組で、大喜利で座布団をやり取りする形式が特色。番組名は『氷点』をもじったものとされ、命名を巡る逸話も知られる。放送開始当初から一貫してカラー放送を行い、隔週で後楽園ホールにて公開収録されてきた。落語や講談などの演芸と大喜利を柱に、寄席文字を用いた独自の画面演出を守り続け、高視聴率を記録する長寿番組として日本のテレビ演芸史に刻まれる。

1968年11月 – 1990年10月

約22年間にわたり放送されたフジテレビの音楽番組で、原則生放送を特徴とした。1970年代前半までは歌謡バラエティ色が強かったが、’76年以降はアイドルや演歌に加え、ニューミュージック、ロック系、海外アーティストまで幅広く出演させ、生演奏・フルコーラスを基本とした構成で音楽番組の質を高めた。名物は出演歌手同士がリレー方式で他の歌手を紹介する番組オープニング。沢田研二「サムライ」での50畳の畳敷きの演出など、印象的なスタジオセットも特徴だった。司会は芳村真理を中心に前田武彦、三波伸介、井上順、古舘伊知郎らが務めた。演奏は長年ダン池田とニューブリードが担当し、番組の象徴的存在となった。芸能事務所の力関係も出演構成に影響を与えた点は、当時の音楽界を映す側面でもあった。

1969年1月 – 1986年3月 / 1989年10月 – 1990年3月ほか

田宮二郎が司会を務める1969年にテレビ朝日系列で始まったクイズ番組で、司会者を交代しながら3シリーズのレギュラー放送を経て、以後も特番として断続的に制作されている。1分間に12問、5秒ごとに出題される高速クイズに挑む形式で、「現代人の頭脳と反射神経を試す」ことを趣旨とした。巨大な時計台と高所の解答席、成績不振時に作動するペナルティ演出が象徴的で、全問1問1答・即断即答を求める厳格なルールも特徴。平均視聴率14%、最高29%を記録し、スピード感あふれる名物番組として強い印象を残した。

1969年7月 – 1982年9月

若者向けを前面に打ち出した公開バラエティ番組。ラジオ番組『歌え!MBSヤングタウン』のテレビ版として制作され、桂三枝や笑福亭仁鶴、やすし・きよしらが司会を担当。’70年代頃はまだ若手だった明石家さんまも観客席インタビューなどを受け持った。短いコーナーを連続させる構成と、芸人個人のキャラクターを生かす演出で人気を博し、吉本興業の若手芸人を全国区へ押し上げた。上方演芸界の勢力図を塗り替えた象徴的番組として知られる。

1969年10月 – 1971年3月 / 1971年10月 – 1985年9月

1969年から’85年までTBS系列で放送されたザ・ドリフターズの冠お笑いバラエティ番組。前半はドリフによる本格コント、後半は体操や合唱団を交えた企画で構成され、間に歌手ゲストの歌唱が挟まれた。全国各地の劇場から公開生放送を行い、大掛かりな舞台装置と体当たりの笑いで国民的人気を獲得。平均視聴率27%、最高50.5%を記録し、土曜夜の象徴的番組となった。

1969年10月 – 1981年3月

「NHK紅白歌合戦を毎週楽しめる番組」を発想源に、紅白対抗形式とベストテン風構成を融合させた歌謡番組。出演者は紅白各5組の計10組で、客観的ランキングではなく局側のキャスティングによって選ばれた。原則として渋谷公会堂から公開生放送で行われ、修学旅行生の紹介が定番演出となった。白組キャプテンは堺正章が一貫して務め、紅組は水前寺清子、今陽子、岡崎友紀らが担当。白組では野口五郎・郷ひろみ・西城秀樹の「新御三家」が、紅組では森昌子・桜田淳子・山口百恵の「花の中三トリオ」が人気を牽引し、演歌勢では五木ひろしや八代亜紀、和田アキ子らが常連として出演した。

1970年8月 –

水泳を題材に各局で放送されたアイドル中心のバラエティ番組。芸能人運動会の派生企画として始まり、当初は水泳競技の真剣勝負も行われていたが、全盛期には浮島戦や水上格闘など大型プールで女性アイドルが不安定な足場のゲームに挑む内容が主流となり、お色気要素が強まった。普段は見られない水着姿が話題を呼んだ一方、時代の風潮や自主規制の高まり、セクシーアイドル台頭の影響で次第に衰退した。

1971年1月 – 1982年12月

日本テレビ系列で日曜昼に生放送された視聴者参加型バラエティ番組。初代司会者は土居まさる。正式名称は『TVジョッキー日曜大行進』で、視聴者が電話やスタジオ参加で番組に加わる形式が特徴。白いギターやEDWINのジーンズなど豪華賞品も若者の憧れとなった。1970年にはコント55号による特別編成も行われ、’78年にはステレオ放送にも対応。’82年に終了し、後継番組としてビートたけしを司会とする『スーパージョッキー』が開始した。

1971年1月 – 現在

1971年に放送を開始した朝日放送テレビ制作の視聴者参加型トーク番組。全国ネットで毎週日曜昼に放送され、新婚夫婦を招いて出会いや結婚生活のエピソードを軽妙な掛け合いで紹介する。長寿番組として知られ、桂文枝が半世紀以上にわたり司会を務めたことでギネス世界記録にも認定された。放送開始から50年以上続く昼の名物番組である。

1971年10月 – 1983年9月

1971年に開始され、12年間にわたり放送された日本テレビの視聴者参加型歌手オーディション番組。企画者は作詞家の阿久悠で、カラーテレビ時代の特性を生かし「テレビの手でスターを生み出す」ことを目的に開始した。毎週、予選を経た5~7人の挑戦者が歌合戦形式で競い、日曜午前枠で長期育成を前提とした構成が特徴だった。初代司会は萩本欽一が務め、作詞家や作曲家の審査員による辛口審査の中でも参加者を励ます立場を貫いた。森昌子の合格以降、応募者は10代中心となり、新たな時代の歌謡界を牽引する山口百恵、桜田淳子、岩崎宏美、ピンク・レディーなどを続々と輩出。中森明菜は不合格を経験しながらも’81年の三度目の挑戦で392点という史上最高得点を記録し、強烈な印象を残した。

1972年4月 – 1982年4月

1970年代を代表するNHKの大型お笑い番組で、三波伸介を中心に構成された。土曜放送時代は「笑福亭仁鶴のお見合い」「演芸コーナー」「てんぷく笑劇場」の三本立てで、庶民的な笑いと人情味を融合。’73年に日曜へ移行後は「てんぷく笑劇場」「歌謡曲コーナー」「減点パパ(後に減点ファミリー)」を柱とし、家族向け娯楽番組として人気を確立した。’82年に10年間の歴史に幕を下ろした。

1973年4月 – 12月 / 1974年1月 – 1975年11月 / 1975年12月 – 1985年3月

横山やすし・西川きよしが司会を務めた公開収録形式のバラエティ番組。関西ローカルの深夜番組として始まり、放送枠拡大やネットチェンジを経て1975年末に全国ネット・ゴールデン帯へ進出した。ABCホールを拠点に展開され、人気コーナー「「フィーリングカップル5vs5」」やキダ・タロー作曲のテーマ音楽も親しまれた。最高視聴率36%を記録するなど高い人気を誇り、’85年に12年の歴史に幕を下ろした。

1973年10月 – 1984年3月

関西テレビで放送された視聴者参加型の恋愛バラエティ番組。深夜番組『ナイト・パンチ』の一企画から独立し、若者風俗を巧みに取り入れて人気を獲得、のちにフジテレビ系全国ネットへ昇格した。司会は桂三枝と西川きよしが務め、軽快な漫才調の進行と名物キャッチフレーズが番組の象徴となった。関西制作恋愛番組を代表する長寿番組として知られる

1973年11月 – 2000年10月 / 2012年 – 現在

1973年にフジテレビの特番として始まった不定期放送のものまね番組。第1回は高視聴率を記録し、森昌子が初代王者となった。’80年代後半以降は所ジョージらの司会のもと、淡谷のり子を審査員に迎え、笑いとパロディ性を重視した路線へ転換。コロッケや清水アキラら“ものまね四天王”を中心に人気を博し、’90年代のものまねブームを牽引した。

1975年4月 – 1975年9月 / 1976年4月 – 1986年3月 / 1986年4月 – 1986年9月

日本テレビ系で放送されたコント主体のバラエティ番組で、演出の白井荘也が松竹新喜劇に着想を得て企画した。坂上二郎、野口五郎、研ナオコを中心に始まり、視聴率の安定からレギュラー化。後に堺正章や郷ひろみ、西城秀樹ら新御三家が加わり、アイドルと喜劇を融合した構成で人気を博した。高田みづえがコメディエンヌとして注目を集めた点も特色だった。

1975年10月 – 1986年3月

一般視聴者も参加するトーク重視のクイズバラエティで、司会の久米宏と、コント55号の萩本欽一・坂上二郎が中心となって展開された。緊張感よりも会話の妙や間を楽しませる作風で、久米の軽妙な司会は全国的な人気を獲得した。出題時に正解を伏せるため使われた「ほにゃらら」という言葉は流行語となり、番組の象徴となった。日本のクイズ番組で初めてVTR問題を導入した点も特筆される。企画は萩本宅での新年会から生まれ、古今東西ゲームのスピード感をテレビに持ち込んだもので、生放送ならではのハプニングも名物だった。

1975年4月 – 1975年9月 / 1975年10月 – 1984年5月ほか

全国ニュースに載らないB級事件をリポーターがフリップや再現フィルムで解説する低予算ワイドショー的バラエティ。常時30%超の視聴率を記録した日テレの看板番組だった。朝枠の「テレビ三面記事」を週末プライム向けに発展させ、男性層を意識した内容に転換。司会は 加藤芳郎、リポーターに 泉ピン子大山のぶ代桂朝丸高見恭子青空はるおら。クインシー・ジョーンズ作曲・鬼警部アイアンサイドのテーマに乗せ、小早川正昭の「新聞によりますと…」で始まる語りが名物だった。

1975年10月 – 1978年3月 / 1978年10月 – 1979年4月ほか

よみうりテレビ制作で放送された視聴者参加型のスポーツバラエティ番組。一般参加者が風変わりな競技に挑み、日本一や新記録を目指す構成で人気を博した。中期以降は屋外ロケ中心となり、実況と演出を強めた展開が特徴。名物企画「鳥人間コンテスト」を生み、記録に挑む人間の可能性とロマンを描いた長寿番組。

1975年10月 – 1992年9月

「おいしい料理とおいしいお酒があれば、この世は天国」という芳村真理の挨拶で始まる、1975年に関東ローカルでスタートした新感覚の料理バラエティ番組。芳村を総合司会に、西川きよしやすし・きよし、久米宏らが出演。辻静雄監修の料理を紹介しつつ、ニュースや流行をテーマにした企画を展開し、1976年に全国ネットに昇格、人気番組に成長する。’88年以降はテーマ曲やコーナーの刷新、司会交代を経て、’90年にはトーク主体に大幅リニューアルされ、’92年まで17年間放送された。

1976年1月 – 1992年12月

ロート製薬の一社提供で放送された全862回の長寿番組。司会の大橋巨泉がカナダで見たクイズ番組セレブリティ・ステークスをヒントに企画し、漫画家・はらたいらなどの解答者を競走馬に見立てて出場者が持ち点を賭ける競馬方式を採用した。巨泉と個性豊かな解答者との軽妙なやりとり、ギャンブル的なスリルが視聴者を引きつけた。本家が短命に終わったのに対し、本番組では問題は事前に知らされず、巨泉も収録直前に初見で臨む形式を徹底したことが緊張感を高めた。1979年6月30日放送回には視聴率40.8%(関東地区)を記録し、クイズ番組初の40%台を達成。1979年から1981年にかけて年間平均約30%を誇り、民放クイズ番組史上屈指の黄金期を築いた。

1976年2月 – 1996年3月 / 1996年4月 – 1997年9月 / 1997年10月 – 2014年3月ほか

1976年2月2日よりテレビ朝日系列で平日昼に放送されている黒柳徹子の冠トーク番組。原則として毎回1組のゲストを迎え、人物の人生や素顔に迫る対話を特徴とする。初回ゲストは森繁久彌で、以後も加山雄三やタモリなど常連出演者を生んだ。俳優や芸能人に加え、市民運動やボランティア関係者が登場する点も特色で、収録が長時間に及び2回放送となる例も少なくない。日本のテレビ史を代表する長寿番組の一つである。最多出演ゲストは53回で加山雄三、歴代の高視聴率を記録したゲストは三浦友和で1981年4月10日(金)の14.5%(※2025年時点)。

1976年4月 – 1994年3月

司会が出すお題に対し、出演者がフリップに即興でマンガを描いて競う大喜利形式のバラエティ番組。数回戦制を基本に構成され、当初は中京圏ローカル番組として開始されたが、後に全国放送へ拡大。土曜夕方の定番として高視聴率を記録し、正月特番「初笑いマンガ道場」も親しまれた。近年は配信や傑作選放送で再評価されている。

1976年4月 – 1998年9月

仕掛けた出来事で芸能人を驚かせ、その反応を楽しむフジの人気バラエティ番組。ジャニーズ事務所、ホリプロ、田辺エージェンシー、バーニングプロダクションなどに所属する当時のスターが多数出演し、後続の類似番組を生む先駆けとなった。1976年4月、三波伸介を司会に迎え、『木曜ビッグイベント スターどっきり㊙報告』として木曜20時枠でスタート。制作は『夜のヒットスタジオ』と同じ疋田拓プロデューサー率いる制作班が担当した。’79年には『スターどっきり生放送』と改題し生放送化するがレギュラー終了。その後は特番や再レギュラー化を挟みつつ、’98年まで断続的に放送された。レポーターには宮尾すすむ、小野ヤスシ、ダン池田、みのもんた、片岡鶴太郎、轟二郎らが名を連ねた。

1976年10月 – 1988年4月

フジテレビで放送された音楽系クイズバラエティで、後に特番として継続された。楽曲のイントロを当てるクイズの元祖として知られ、音楽や芸能に関する問題、歌手ゲストによる歌唱も交えた構成が特色。司会は高島忠夫が務め、「イェーイ!!」の掛け声も名物となった。日曜昼ながら安定した高視聴率を記録し、フジテレビを代表する長寿番組の一つとなった。

1976年10月 – 1986年9月

萩本欽一の冠番組として水曜21時枠で放送された公開コメディー番組。舞台に観客を入れ、萩本家を舞台とするホームドラマ形式で進行し、萩本と真屋順子が夫婦役を演じた。引っ越しや子どもの成長など設定を変化させながら長期的な物語性を持たせ、見栄晴や「わらべ」誕生の場ともなった。茶の間のテレビから番組が始まる独特の演出も特徴である。

1977年2月 – 1998年4月

フジテレビ系列で月1回放送されたお笑いバラエティ番組。ザ・ドリフターズの冠番組として、『8時だョ!全員集合』と並ぶ代表作である。各回ごとに設定されたテーマに基づくコントと、ゲスト歌手の歌を交互に構成し、いかりや長介が進行役を務めた。「雷様」「ばか兄弟」などの人気シリーズで高視聴率を記録し、長期にわたり国民的番組として親しまれた

1978年1月 – 1989年9月

『トップスターショー・歌ある限り』の後番組として始まった音楽ランキング番組で、毎週生放送で独自集計による邦楽ベストテンを発表した。司会は黒柳徹子と久米宏の名コンビが務め、新幹線の車中やホームで移動中の出演者が歌唱するなどの臨場感とリアリティも魅力となり、最高視聴率41.9%を記録する社会現象となった。ランキングはレコード売上、有線放送、ラジオリクエスト、はがき投票を合算したポイント制で決定され、空港の案内表示機を参考とする反転フラップ式のランキングボードを用いた発表演出が番組の象徴となった。歌手は原則として順位に応じて生出演し、海外・地方からの中継も多用された。番組終盤には出演者全員で集合写真を撮影し、視聴者にプレゼントするなど、参加型の仕掛けで高い支持を集めた。

1978年8月 –

1978年に日本テレビ開局記念の特別番組として始まったチャリティ番組で、視聴者からの寄付を国内外の福祉・環境保護・災害復興に役立てることを目的とする。毎年8月下旬の土曜夜から日曜夜にかけて生放送され、チャリティーマラソンやドラマ、ドキュメンタリー、応援ソングなど多彩な企画を展開。番組シンボルは太陽と地球をモチーフにした黄色を基調としたデザインで、番組オリジナルTシャツにも黄色が用いられた。徳光和夫が長年総合司会を務めた。

1978年10月 – 1991年3月

関西テレビ制作で1978年から’91年まで放送されたバラエティ番組。男性6人、女性5人の素人出演者の中から本物の新婚夫婦を推理する内容で、トークとゲーム性を融合した構成が特色。司会は上岡龍太郎が務め、横山ノックや桂文珍らが解答者として推理を展開した。関西色の強い軽妙な掛け合いと日曜昼の定番番組として長く親しまれた。

1979年10月 – 1985年9月

フジテレビ系列で放送されたクイズ番組で、米CBSの『マッチ・ゲーム』を基に企画された。司会は山城新伍が務め、毎回オーディションで選ばれた一般視聴者3人と、6人の芸能人解答者が共演した。収録は台本に頼らないぶっつけ本番で進行され、ゲーム性よりも司会者と出演者、視聴者との軽妙な言葉の応酬を重視したトーク色の強い構成が特徴である。山城自身は短命を予想していたが、結果的に6年間続く長寿番組となった。

1979年12月 – 2001年9月ほか

萩本欽一司会のもと1979年にスタートした視聴者参加型バラエティ番組。NHK紅白歌合戦への対抗企画として大晦日に始まり、素人参加者が工夫を凝らした仮装作品を披露する形式が人気を獲得。当初は仮装行列的内容が中心だったが、回を重ねるごとに完成度の高い表現へ進化し、恒例番組として定着した。香取慎吾の参加で番組名と司会体制を変えつつ、長年親しまれている。

1980年10月 – 1982年10月

平日昼12時台にフジテレビで生放送されていた帯バラエティ番組で、『森田一義アワー 笑っていいとも!』の前身にあたる。横澤彪のプロデュースにより、スタジオアルタから公開生放送を行い、B&Bを司会に、ツービート、明石家さんま、紳助・竜介ら漫才ブームの中心芸人が出演した。過激な企画も多く物議を醸したが、フジテレビの昼番組改革を象徴する存在となり、そのスタイルや出演者は後の『笑っていいとも!』や『ひょうきん族』へと継承された。

1980年10月 – 1982年3月 / 1982年4月 – 1983年3月

田原俊彦・近藤真彦・野村義男による”たのきんトリオ”を中心に、コント、歌、クイズ、ドラマなど多彩な企画を展開したバラエティ番組。スリル系ゲームなど体当たり企画も多く、毎回同世代の女性アイドルがゲスト出演し、松田聖子は常連としてコメディエンヌぶりを発揮した。2年目からはマスコットロボット「サンダユウ」も登場。当初は木曜ゴールデンの30分番組だったが、後に日曜昼の1時間公開番組へ移行し、約1年で終了した。

1980年10月 – 1994年3月

テレビ朝日が『23時ショー』の系譜を継いで放送した深夜番組で、情報性をより強化したナイトショーとして始まった。司会は作家の利根川裕が一貫して担当し、週4日・約55分編成で放送された。映画監督・山本晋也による風俗街リポートの「ほとんどビョーキ」は流行語となる一方、ロス疑惑、薬物問題、重大事件や事故など硬派な社会取材にも積極的で、ワイドショー的ニュース性を併せ持っていた。初期には田原総一朗らによる政治討論も行われ、後の討論番組の土壌を築いた。13年半にわたり放送され、1994年に『トゥナイト2』へと刷新された。

1981年4月 – 1986年3月

『NTV紅白歌のベストテン』を刷新した日本テレビの歌謡ランキング番組で、独自集計による邦楽ベスト10を毎週カウントダウン形式で発表し、歌手が生演奏で披露した。公開生放送を基本とし渋谷公会堂を中心に各地のホールやスタジオから放送され、『ザ・ベストテン』の要素も取り入れた構成で人気を博した。司会は堺正章と榊原郁恵。修学旅行生の紹介や地方・中継出演など臨場感ある演出も特徴で、同時代の音楽番組を代表する存在となった。

1981年4月 – 1982年4月 / 1982年9月4日 – 1989年10月

タモリ司会によるトーク・コントバラエティ番組で、ステレオ放送や文字多重放送を導入し、パイオニアの一社提供で放送された。毎回、メインゲスト1人と関係の深い女性パートナーを迎え、トーク、コント、ミュージカル、生歌や演奏を織り交ぜて展開した。前半はトークと短編コント、後半は長尺コントで構成され、終盤にはタモリが楽器演奏で参加する音楽コーナーが名物となった。番組構成は高平哲郎が担当し、WAHAHA本舗の面々も出演。平均視聴率12%を記録するなど人気を博した。

1981年5月 – 1989年10月

フジテレビが「楽しくなければテレビじゃない」を掲げ、制作側の自由度が高まった時代に誕生したバラエティ番組。漫才ブームに沸く若手芸人の勢いと制作意欲が結びつき低迷していた土曜20時台を立て直し、1980年代バラエティの代表格となった。「タケちゃんマン」「ブラックデビル」などの扮装も人気となり、平均視聴率17.8%、最高29.1%を記録した。在阪と東京の芸能プロダクション所属タレントが共演する編成は画期的で、吉本興業の東京進出にも影響を与えた。漫才を早期に廃し、ラフトラックや独自のコーナー配置、歌コーナーを設けない構成など実験性も特徴とした。オープニングには『ウィリアム・テル』序曲、エンディングにはEPOの『DOWN TOWN』が用いられた。

1982年10月 – 2014年3月

1982年10月に『笑ってる場合ですよ!』の後継として始まった平日昼の生放送バラエティで、スタジオアルタに一般客を入れる公開番組。タモリ独特の脱力した進行で番組の空気を作り上げた。看板企画「テレフォンショッキング」では、ゲストが友人を電話で紹介する連鎖形式が話題を呼び、思わぬ大物出演や生放送ならではのハプニングも名物となった。放送開始当初は短命が予想されたが半年足らずで視聴率は上昇し、以後25年連続で同時間帯民放首位を維持。いいとも青年隊や曜日レギュラーの交代も番組の新陳代謝を支え、2014年3月、31年半の歴史に幕を下ろした。

1982年10月 – 1985年9月

各コーナーを週刊誌の連載漫画に見立てて構成された萩本欽一司会のバラエティ番組。看板企画「ミュージカル・コメディー ザ・ちなみショー」では、萩本、風見慎吾、佐藤B作が定型の掛け合いで笑いを生み、「男と女のポエム」では清水由貴子と小西博之の歌唱が名物となった。やがて「欽ちゃんバンド」が人気を集め、コミック要素と本格演奏を併せ持つ異色コーナーに成長。ハプニングも含めて放送する姿勢が番組の魅力となり、後年は舞台劇形式を経て再びバンド中心の構成へと変化していった。

1982年10月 – 2023年4月

報道番組『日曜夕刊!こちらデスク』のパロディとして制作された『夕刊タモリ!こちらデス』を源流に持つ元祖脱力系を標榜した深夜バラエティ番組。1982年10月に金曜深夜枠で放送を開始し、タモリのシュールな芸風を前面に押し出した構成が特徴となった。『笑っていいとも!』と同時期に始まり、事務所代表・田邊昭知の後押しもあって、双方がタモリの代表作として長寿化する。簡素な公式情報体制や深夜ながら高視聴率を記録した点も象徴的で、40周年を迎えた2023年、全1939回の放送をもって終了した。

1983年1月 – 1999年3月

12年間続いた『TVジョッキー』の後継として放送開始され、ビートたけしを総合司会に、17年間にわたり継続した長寿番組。そのまんま東や松尾伴内などの”たけし軍団”もレギュラー出演し人気を集めた。当初は一般参加型だったが、『THEガンバルマン』を軸とするお笑い色を強め、やがて「熱湯コマーシャル」に象徴されるお色気路線へ転換した。生放送主体から隔週生放送・収録併用へ移行し、歌コーナーも事前収録が定着する。音楽番組低迷期には貴重なアイドル歌唱の場ともなり、1987年には20.5%の最高視聴率を記録。’99年に終了し、ジョッキーシリーズ28年の歴史に幕を下ろした。

1983年4月 – 1991年3月

秋本奈緒美と鳥越マリを初代司会に据え、深夜枠で放送されたフジテレビのバラエティ番組。とんねるずや片岡鶴太郎ら若手芸人、女子大生集団“オールナイターズ”を起用し、女子大生ブームの火付け役となった。初期は性風俗企画も含んだが、1984年以降は表現を軟化。深夜番組自粛要請を受け一度終了後、『オールナイトフジII』として再出発し、企画ユニットのレコードデビューなども話題を呼んだ。’91年に全400回で終了し、深夜文化を象徴する番組として記憶されている。

1984年10月 – 1990年12月

フジテレビ系列で平日13時から生放送されたトークバラエティで、20年間続いた昼ドラ枠をバラエティへ転換した番組。司会は当時20代の小堺一機で、毎回、人生経験豊かな女優・歌手の“おばさま”を招き、視聴者の悩み相談や本音トークを展開した。名物コーナー「いただきます劇場」では再現ドラマと“おばさまのご意見”が人気を集め、「エロガッパ」の流行語も誕生。新宿アルタからの公開生放送で、『笑っていいとも!』の観客がそのまま観覧する昼の名物番組となった。’91年からは『ライオンのごきげんよう』にリニューアルされ、収録も生ではなくフジテレビ内のスタジオでの公開収録となった。

1985年4月 – 2016年9月

明石家さんまの自宅マンションに見立てたセットに毎回ゲスト1組を招き、自由闊達なトークを繰り広げるバラエティ番組。床の間にはゲストに因んだ掛け軸が飾られ、私的空間に招かれたかのような距離感が特徴。当初は無観客だったが、2000年代以降は少人数の観客を入れて収録されている。制作は関西テレビで、放送時間は局ごとに異なる番組販売形式を基本とし、正月や改編期には全国ネットのスペシャル版も編成された。ゴールデン進出を敢えて避けた方針も番組の気安さを支え、1987年には平均視聴率31.8%を記録した。

1985年4月 – 1987年8月

『オールナイトフジ』の流れを汲む『オールナイトフジ女子高生スペシャル』から派生して企画された、生放送を基本とする夕方のバラエティ番組。番組名は当初『夕暮れニャンニャン』が検討されたが、当時の社会情勢を踏まえて現在のタイトルに改められた。開始直後から注目を集め、1985年夏から’86年初頭にかけては夕方帯としては異例の高視聴率を記録した。看板企画「アイドルを探せ」からはおニャン子クラブが誕生し、派生ユニットやソロ活動も含め一大アイドルブームを形成。新田恵利、国生さゆり、渡辺満里奈、工藤静香ら後のスターを多数輩出し、’80年代半ばのテレビ文化と若者文化を象徴する番組となった。

1985年4月 – 1996年10月

一般人に光を当てることで従来のバラエティ観を覆した、ドキュメントバラエティの元祖とされる番組。取るに足らない日常の出来事や人物を誇張して描く企画を多く生み、強いリアリティと同時に一過性の熱狂も生んだ。VTR主体や素人参加型の形式は後年の多くの番組に継承されている。番組名には日曜夜の憂鬱を吹き飛ばす意図が込められ、「元気が出る商事」という設定や大物俳優・歌手のレギュラー起用は企画初期のドラマ構想の名残であった。全盛期にはタレントショップ「元気が出るハウス」を展開し、後期には「ダンス甲子園」など努力の過程を描く企画や、他番組へのゲリラ出演でも話題を集めた。

1985年10月 – 1991年9月

所ジョージ司会のクイズ番組で、漢方薬メーカー・ツムラの一社提供により制作された。前身は『夜はタマたマ男だけ!!』内の同名コーナーで、好評を受けて独立番組としてスタートした。所が出題したお題に対し、3人の子供が言葉や絵、作文、ジェスチャーなどでヒントを提示し、それを手がかりに大人の解答者が答える形式が特徴。正解者には所の自画像を模した「所ジョージ人形」が贈られ、持ち帰りも可能だった。中期以降は学校ロケによる早押し問題や逆転要素の強いゲーム性の高いコーナーも導入され、子供の発想力と大人の推理力の対比を楽しむ番組として親しまれた。番組終了後、同枠は『平成教育委員会』へ引き継がれた。

1985年10月 – 2026年3月

1985年10月6日に放送を開始したTBS系の生放送バラエティで、毎週日曜昼に放送されている長寿番組。開始当初の司会は和田アキ子と松尾貴史。番組は生中継やゲストトークを軸に、予告なしの特別ゲスト登場などハプニング性も重視した構成が特徴で、ワイドショー的要素を持ちながらもバラエティとして制作された。’86年以降はセットや音楽を刷新し、和田の紅白歌合戦出場決定を祝う恒例演出も定着。’87年には放送枠を拡大し、’88年の「ダイエット体操」企画など話題性の高い企画も生み出した。

1986年4月 –

志村けんが演じる白塗りの殿様を中心とした時代劇風コントで、『8時だョ!全員集合』内の一企画として1977年に誕生した。ザ・ドリフターズ内での立場を反転させ、自由奔放なバカ殿が家老役のいかりや長介を翻弄する下剋上的構図が特徴で、当時の社会風俗や流行も巧みに取り込んだ。『ドリフ大爆笑』でも設定が発展し、腰元役の女性ゲストや下ネタを含む定型ギャグが定着。’86年には単独番組として独立し、’92年からはレギュラー番組化され、志村の代表作の一つとして広く親しまれた。

1986年5月 – 1989年4月

TBS系列で放送されたアトラクション型バラエティ番組。ビートたけしが城主を務める難攻不落の「たけし城」を舞台に、谷隼人率いる約100人の一般参加者が数々の体力・知力ゲームに挑戦した。攻撃軍は次々と脱落し、最終的に城主を討ち取った者のみが賞金100万円を獲得できるが、成功例は極めて少なかった。番組は“体で遊ぶファミコン”という発想から生まれ、総工費1億円の巨大セットや派手な演出も話題となった。バブル期を象徴するスケールの大きさと独自性で高い人気を博した。

1986年10月 – 1992年3月

三菱電機一社提供のもと「三菱タイムトリップ」を冠する、日曜夜に放送された回顧型バラエティ番組。懐かしのテレビ番組やCM映像を紹介し、ゲストの思い出や当時の裏話を交えたトークを展開した。司会は三宅裕司と山瀬まみが務め、初期には泉麻人がコメンテーターとして番組の調査役を担った。後半には視聴者投稿を検証するコーナーも設けられ、貴重な映像資料の発掘が人気を博した。出演者交代やリニューアルを経ながら安定した支持を集めたが、編成改革により1992年に終了した。

1987年4月 – 1998年4月

笑福亭鶴瓶と上岡龍太郎が台本や打ち合わせを一切行わず、60分間ひたすら即興トークを繰り広げる異色のトークバラエティ。時事問題から私生活の逸話まで自在に行き交う言葉の応酬が支持を集め、関西ローカル深夜番組ながら全国ネットへと拡大した。公開収録形式も特徴で、観客との一体感が番組の熱量を高めた。1988年にはギャラクシー賞を受賞し、上岡の知名度を飛躍的に高める代表作となった。’98年に一度終了後、『LIVE PAPEPO 鶴+龍』として復活し、2000年の上岡引退まで続いた。

1987年10月 – 1994年12月

IVSテレビ制作と関西テレビの共同制作による深夜バラエティで、1987年から’94年まで放送された。司会はとんねるず、構成・総合演出をテリー伊藤が担当。前番組『上海紅鯨団が行く』の流れを汲みつつ、集団見合い企画が定着すると爆発的な人気を獲得し、「ねるとん」は集団見合パーティーの代名詞となった。土曜深夜にもかかわらず高視聴率を記録し、最高24.7%を達成。深夜番組として異例の影響力を持ち、’80年代後半のテレビ文化を象徴する存在となった。

1987年11月 – 1993年9月

毎週月曜20時台に放送された志村けんの冠お笑いバラエティで、志村がドリフターズから離れて本格的に展開したコントを中心とする番組。前身番組『志村けんの失礼しまぁーす!』の路線を改め、ロケを廃しスタジオコントに特化。タイトルは『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』内の「だいじょうぶだぁ教」に由来する。構成は前半にコントを集中させ、後半にクイズやゲームを配置する二部構成で、「一番見せたいものを先に出す」という志村の哲学が反映されていた。出演者には田代まさしや桑野信義、石野陽子、松居直美など分野横断的な顔触れが揃い、番組終了後も特番として2020年まで継続された。

1988年3月 –

スタジオを探偵事務所に見立て、視聴者から寄せられた依頼を探偵局員が調査する形式の番組。人捜しや物捜しといった本格調査から、街頭インタビューや実験企画まで内容は多岐にわたり、短い依頼は「小ネタ」としてまとめて放送される。依頼者は原則実名・顔出し出演で、強烈な個性が話題を呼ぶことも多い。初代局長は上岡龍太郎で、歯に衣着せぬコメントを軸に、VTRを見る視聴者が探偵と局長の両視点を行き来する二重構造を持つ点が画期的とされた。長寿番組として5,000件以上の依頼を扱い、民放連賞最優秀賞も受賞している。

1988年11月 – 1990年9月 / 1990年10月 – 1995年3月ほか

明石家さんまが“先生”となり、子供たちと繰り広げるスタジオトークを軸にしたバラエティ番組。1988年11月月曜19時枠で放送開始され、子供の本音や珍発言を巧みに引き出すさんまの話術が人気を博した。番組では企画コーナーも交え、ナレーション役のキャラクター「ワシャガエル」を富田耕生が長年担当した。放送枠移動を重ねつつ’96年に第1期を終了後、『やっぱりさんま大先生』を経て再び改題し第2期へ突入。新キャラクターの登場などで形を変えながら2003年まで続き、後継番組ではさんまが全国の小学校を訪れる形式へと発展した。

1988年4月 – 1989年2月

TBSの土曜深夜枠で生放送された音楽色の強いバラエティ番組。前身番組『パッパラパラダイス』の出演者・スタッフを引き継ぎ、日比谷シャンテ内のサテライトスタジオから放送された。初期のキャッチフレーズは「ふり向けば新しい深夜ライブ」で、1960年代ポップスやオールディーズを中心に据えた構成が特徴だった。番組内でデビューした9人組ヴォーカルグループ・エンジェルスや、ゲストによる生ライヴも見どころとなった。原宿歩行者天国のバンド特集では、後にカブキロックスとなるメンバーも登場している。オープニングは「モスラの歌」のカバーを用い、三宅裕司、小倉久寛、嘉門達夫、YOUらが出演。当初はTBS単独放送だったが、後に中部日本放送でも放送された。

1986年1月 – 1992年3月

1986年1月にTBSで開始されたバラエティ番組で『8時だョ!全員集合』終了後、加藤茶と志村けんの二人を前面に据える形で企画された。制作陣もドリフ番組の系譜を引くスタッフが中心となっている。前半はロケ中心のコメディドラマ『THE DETECTIVE STORY』で、緻密なセットを用いた計算されたギャグと掛け合いが展開され、後半は公開スタジオによるホームビデオ紹介やプレゼント企画で構成された。特に一般家庭の映像を扱うホームビデオ紹介は画期的で、番組フォーマットは海外にも輸出された。志村けんの人気上昇とともに高視聴率を記録し、『オレたちひょうきん族』を押しのけて土曜20時枠の主導権を奪還、「土8戦争」と称される話題を生んだ。最高視聴率は’87年11月の加藤茶結婚披露宴特集回で36.0%を記録した。

1987年10月 – 1991年3月

村上龍の冠トーク番組で、JTの一社提供により放送された。村上がホストとなり、ジャズバー風のスタジオに著名人を招いて対談する形式をとり、テーマ曲にはバド・パウエルの「クレオパトラの夢」が用いられた。作家である村上が司会を務めるという異色性から、沈黙が続く場面や噛み合わない対話も編集されずにそのまま放送され、従来のトーク番組とは異なる空気感が話題となった。とんねるずを別々に出演させた回や笑福亭鶴瓶出演時の険悪な空気など、伝説的エピソードも多い。歴代アシスタントは岡部まり、ジュリー・ドレフュスなど。1990年に放送枠を移動し、’91年3月に約3年半の放送を終えた。

1988年10月 – 1996年9月

毎週水曜20時台に放送されたクイズバラエティ番組で、1988年に発足した「日本テレビクイズプロジェクト」の第1弾として企画された。世界各地や日本の多様な商売・職業を現地取材VTRで紹介し、それを題材にスタジオでクイズとトークを展開する構成が特徴で「世界は商売によるショーである」という理念が番組名に込められている。番組は“店”に見立てられ、初代司会の逸見政孝が「店長」を務め、独特の掛け声と身振りで進行した。逸見没後は福澤朗が2代目店長(若旦那)に就任し、渡辺正行が大番頭として番組を支え続けた。得点は「ショーバイマネー」と呼ばれ、商売になぞらえた演出と軽妙な司会進行により、高い人気を博した。

1988年10月 – 1997年3月

とんねるずが司会を務め、多彩なゲストを迎えたコント中心のバラエティ番組。火曜ワイドスペシャル内の単発企画として始まり、「仮面ノリダー」の人気を追い風に1988年10月からレギュラー化された。ドラマや映画、音楽の大胆なパロディや強烈なキャラクター造形が話題を呼び、チェッカーズや宮沢りえなど時代を象徴する豪華ゲストも毎週出演した。放送枠は高視聴率番組『ザ・ベストテン』の裏という異例の編成だったが、開始直後から成功を収め、平成に入った’89年から’94年まで6年連続で年間平均視聴率1位を記録した。タイトルは当初別案も検討されたが、「みなさんへの感謝」を込めた現在の名称に落ち着いた。

1988年10月 – 1991年11月

ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、清水ミチコ、野沢直子が出演した深夜のコントバラエティで、のちの「お笑い第三世代」を象徴する番組として知られる。各回のテーマに沿ったショートコントや連続ドラマ形式のコントを軸に「ガララニョロロ」「伊集院みどり」など数々の名物キャラクターを生んだほか、「バッハスタジオII」ではレギュラー陣がバンドに挑戦し、当時の人気バンドが講師として登場した。1988年に関東ローカルで開始後、’89年から全国ネットに昇格し高視聴率を記録。番組名は『夢であいましょう』に由来し、伝説的番組として現在も語り継がれている。

1988年10月 – 1990年3月 / 1990年10月 – 1991年9月

マンションの一室で暮らす恩田家三姉妹の日常を描いたシチュエーション・コメディで、長女をもたいまさこ、次女を室井滋、三女を小林聡美が演じた。深夜枠で始まった第1シーズンは高視聴率を獲得し、1990年からはゴールデンタイムに昇格。基本的に舞台は一室のみ、出演者も三姉妹と飼い猫に限定され、舞台劇のような一発撮りに近い手法で制作されたため、アドリブやハプニングもそのまま放送された。脚本は当初バラエティ作家陣が担当し、後に三谷幸喜がメインとなる。独特の空気感と会話劇が評価され、深夜ドラマの名作として高い支持を得た。

バラエティ > 1970年代

1970年代のバラエティ番組は、萩本欽一を中心に「素人の力」の面白さを前面に押し出す展開が特徴だった。コント55号で磨いた技術を背景に、萩本は司会者として素人の自然な反応を巧みに引き出し、欽ちゃん番組はのきなみ高視聴率を記録。その流れは関西発の視聴者参加番組にも波及した。なかでも『パンチDEデート』は素人同士の公開見合いという斬新な形式で人気を博した。一般の若者が主役となり、関西芸人の進行によって、ボケとツッコミの感覚が全国に浸透していった。

─ 主なバラエティ番組 ─

1946年1月 –

1946年にラジオで始まり、’53年からテレビ放送も開始された公開視聴者参加型の生放送音楽番組。素人出場者が歌を披露し、ゲスト歌手の指導やインタビューを交えながら評価される。’70年の改革で出場者数を25人に絞り、手持ちマイクやワイヤレスマイクを導入、歌唱だけでなく表現力も重視する構成に変更され、全国大会や特別賞も設けられ人気を回復。現在も各地域から生中継や録画で放送される長寿番組。

1958年5月 – 1987年9月

1958年から約24年間にわたりTBS系列で日曜昼に放送された長寿歌謡番組。開始当初はモノクロ・モノラルだったが、’69年にカラー化、’85年にはステレオ放送へ移行した。番組は時代に応じて副題やタイトルを変えつつ、終始ロッテの一社提供で継続された。長年司会を務めた玉置宏の「一週間のご無沙汰でした」で始まる語り口は名物となり、従来の美文調司会とは異なる個性的な進行で歌謡番組の新境地を切り開いた。

1959年3月 – 1981年9月

旬の芸能人やスポーツ選手をゲストに迎え、社会的話題として人物像に迫る月-土曜に放送された帯番組。映画スター出演制限の時代に、時事性を切り口として人気を博した。ゴールデン帯15分枠(19:45 – 20:00)で放送され、「出演すれば一人前」と称される存在感を確立。俳優司会の起用や早期のカラー化も話題となり、最高視聴率45.9%を記録した。歴代司会者は栗原玲児、石坂浩二、関口宏、吉永小百合、坂本九など。

1959年6月 – 1970年3月

初代司会者に、当時人気ロカビリー歌手だったミッキー・カーチスを起用、渡辺プロダクションと作曲家のすぎやまこういちが企画を主導した音楽番組。デビュー後まもないザ・ピーナッツやジャッキー吉川とブルーコメッツがレギュラー出演し、後のGSブームのきっかけとなった番組でもある。後にフジテレビで制作される「ミュージックフェア」「夜のヒットスタジオ」の土台でもあり、視覚でも音楽を楽しませるスタイルの走りだった。

1961年6月 – 1972年10月 / 1976年10月 – 1977年3月

日本テレビと渡辺プロダクションが制作した音楽バラエティ番組で、ザ・ピーナッツを主役に開始された。牛乳石鹸一社提供のもと、コント・歌・トークを中心に、ハナ肇とクレージーキャッツやザ・タイガースとともに多彩なゲストが参加し、多くの流行ギャグを生んだ。全回カラーVTR収録で放送され、植木等の名フレーズなどで高視聴率を記録。1972年に第1期が終了し、’76年にはピンク・レディー出演による第2期が深夜枠で放送された。

1961年8月 – 1972年2月 / 1975年10月 – 1982年3月

1960年代から1980年代にかけ、2期にわたって放送された人気の視聴者参加型番組。松下電器産業の一社提供番組で、正式な番組名は「ナショナルプライスクイズ ズバリ!当てましょう(後に変更)」だった。4組のペア回答者が品物の値段を推理して当てるもので、値段当てクイズの元祖番組。家電ブーム真っ最中の時世で、一発で値段を当てる”ズバリ賞”の商品は、当時100万円相当のナショナル電化製品一式だった。

1964年1月 – 2010年1月

1964年に始まったフジテレビの新春特別バラエティ番組で、『紅白歌合戦』『日本レコード大賞』と並ぶ年末年始の大型番組として親しまれた。芸能人がチームに分かれ、秘芸や余興を披露して得点を競う形式で高視聴率を長年維持。制作は渡辺プロダクションと共同で行われ、華やかな演出も名物となった。2010年元日の放送をもって47年の歴史に幕を下ろした。

1964年4月 – 1968年3月 / 1972年4月 – 1973年3月 / 1976年4月 – 1977年12月

初代NHKホールでの公開放送として始まったNHKの音楽番組で、パイロット版からカラー放送を行った点が特徴。初期は倍賞千恵子、アントニオ古賀、金井克子が司会を務め、後に中尾ミエが加わった。第2期以降はタイトル表記を改め、101スタジオから生放送に移行。司会は山川静夫が中心となり、フォーリーブスやキャンディーズがレギュラー出演した。第3期では山川が単独司会となり、長期にわたりNHKを代表する歌番組として親しまれた。

1964年8月 –

日本の民放音楽番組として最長寿を誇るフジテレビ系のレギュラー番組で、1964年の開始以来、塩野義製薬一社提供の冠番組として放送されてきた。’67年にカラー化、’78年にステレオ化、2004年にはハイビジョン制作へ移行するなど、放送技術の進化も反映している。初代総合司会に越路吹雪、二代目に左幸子、三代目に長門裕之・南田洋子夫妻など落ち着いた進行役とゲスト同士の丁寧なトーク、質の高い歌唱演出が特徴で、海外の大物アーティストも多数出演した。初期は公開収録も行われたが、現在は観客を入れないスタジオ収録が基本となっている。

1964年11月 – 1977年9月

視聴者参加型の人気番組。視聴者の推薦で集められた有名人の“そっくりさん”5人が出演し、審査員の投票によってチャンピオンを決定した。本人がゲストとして登場することも特徴で、歌手の場合は持ち歌を披露し、それ以外の場合はイメージに合わせた歌や振り付けで競った。優勝者にはトロフィーと賞金5万円が贈られた。チャンピオンが揃うと大会が開かれ、グランドチャンピオンにはゴールデントロフィー、推薦者と行くヨーロッパ旅行、賞金10万円が授与された。司会は当初小野栄一が務め、’68年の『そっくりショー日本一!』への改題を機に青空はるお・青空あきおへ交代。番組は『新そっくりショー』などの形式変更を経ながら続き、’66年には最高視聴率43.9%を記録するなど高い人気を誇った。

1965年11月 – 1990年3月

1965年から約24年半にわたり放送された日本初の深夜お色気ワイドショーで、基本は生放送。日本テレビとよみうりテレビが曜日別に制作し、大橋巨泉、愛川欽也、藤本義一らが司会を担当。ヌードや風俗といった刺激的題材から、前衛芸術、政治・社会問題まで幅広く扱い、深夜番組の可能性を拡張した。曜日ごとの特色ある企画も定着し、最高視聴率48%超を記録するなど、長寿かつ影響力の大きい番組として知られる。

1966年4月 – 1980年12月

TBSを幹事局とし、各地の系列局が持ち回りで制作・放送した視聴者参加型の歌合戦番組。審査員は市川昭介、笠置シヅ子、神津善行、山本直純など。日本各地の市民会館などで公開収録が行われ、家族単位の出場者が動物名を冠したチームとして歌声を競った。司会は獅子てんや・瀬戸わんやが担当した。当初はモノクロ放送だったが1970年4月からカラー化。約14年半にわたり放送され、昼間ながら平均15%を記録した時期もあったが、後年は視聴率が低下し、愛知県西尾市での収録を最後に終了した。

1966年5月 – 1968年4月 / 1968年5月 – 1996年3月ほか

1966年に『金曜夜席』を継ぐ形で始まった演芸バラエティ番組で、大喜利で座布団をやり取りする形式が特色。番組名は『氷点』をもじったものとされ、命名を巡る逸話も知られる。放送開始当初から一貫してカラー放送を行い、隔週で後楽園ホールにて公開収録されてきた。落語や講談などの演芸と大喜利を柱に、寄席文字を用いた独自の画面演出を守り続け、高視聴率を記録する長寿番組として日本のテレビ演芸史に刻まれる。

1966年10月 – 1971年4月 / 1973年10月 – 1974年4月

プラチナ萬年筆の一社提供による音楽バラエティ番組。集英社『明星』の協賛を受けて開始され、当初は『プラチナアワー 明星ゴールデンショー』の題名で放送された。藤村有弘が司会を務め、由美かおる、フォーリーブスらが出演し、歌謡界の若手を積極的に起用した構成が特徴だった。第2期ではジャニーズ・ジュニアの公募も行われ、後のスターを見い出す場ともなり、アイドル文化の形成に一定の役割を果たした。

1967年11月 – 1969年3月 / 1969年4月 – 1971年3月ほか

1966年放送の『びっくりショー』を発展させ、世界各国の出演者が驚異的な芸を披露した。’70年大阪万博に着想を得た企画で、万博会場での収録も行われた。司会は主に八木治郎が務め、高視聴率を記録したが、編成変更後に低迷。番組は形を変えつつ継続・復活を重ね、国際色豊かな見世物番組として人気を博した。

1968年4月 – 1971年9月

東京ヴィデオ・ホールから毎日生放送された昼のバラエティ番組で、前田武彦を司会にコント55号がレギュラーとして活躍した。多数の芸人や歌手を迎え、コントやゲームで流行語を生み、時に前衛的企画も放送。出演者の多忙化に伴い司会や構成を刷新しつつ継続したが、カラー化を機に1970年9月で終了し、『ハイヌーンショー』へ移行した。

1968年11月 – 1990年10月

約22年間にわたり放送されたフジテレビの音楽番組で、原則生放送を特徴とした。1970年代前半までは歌謡バラエティ色が強かったが、’76年以降はアイドルや演歌に加え、ニューミュージック、ロック系、海外アーティストまで幅広く出演させ、生演奏・フルコーラスを基本とした構成で音楽番組の質を高めた。名物は出演歌手同士がリレー方式で他の歌手を紹介する番組オープニング。沢田研二「サムライ」での50畳の畳敷きの演出など、印象的なスタジオセットも特徴だった。司会は芳村真理を中心に前田武彦、三波伸介、井上順、古舘伊知郎らが務めた。演奏は長年ダン池田とニューブリードが担当し、番組の象徴的存在となった。芸能事務所の力関係も出演構成に影響を与えた点は、当時の音楽界を映す側面でもあった。

1969年1月 – 1986年3月 / 1989年10月 – 1990年3月ほか

田宮二郎が司会を務める1969年にテレビ朝日系列で始まったクイズ番組で、司会者を交代しながら3シリーズのレギュラー放送を経て、以後も特番として断続的に制作されている。1分間に12問、5秒ごとに出題される高速クイズに挑む形式で、「現代人の頭脳と反射神経を試す」ことを趣旨とした。巨大な時計台と高所の解答席、成績不振時に作動するペナルティ演出が象徴的で、全問1問1答・即断即答を求める厳格なルールも特徴。平均視聴率14%、最高29%を記録し、スピード感あふれる名物番組として強い印象を残した。

1969年7月 – 1982年9月

若者向けを前面に打ち出した公開バラエティ番組。ラジオ番組『歌え!MBSヤングタウン』のテレビ版として制作され、桂三枝や笑福亭仁鶴、やすし・きよしらが司会を担当。’70年代頃はまだ若手だった明石家さんまも観客席インタビューなどを受け持った。短いコーナーを連続させる構成と、芸人個人のキャラクターを生かす演出で人気を博し、吉本興業の若手芸人を全国区へ押し上げた。上方演芸界の勢力図を塗り替えた象徴的番組として知られる。

1969年10月 – 1981年3月

「NHK紅白歌合戦を毎週楽しめる番組」を発想源に、紅白対抗形式とベストテン風構成を融合させた歌謡番組。出演者は紅白各5組の計10組で、客観的ランキングではなく局側のキャスティングによって選ばれた。原則として渋谷公会堂から公開生放送で行われ、修学旅行生の紹介が定番演出となった。白組キャプテンは堺正章が一貫して務め、紅組は水前寺清子、今陽子、岡崎友紀らが担当。白組では野口五郎・郷ひろみ・西城秀樹の「新御三家」が、紅組では森昌子・桜田淳子・山口百恵の「花の中三トリオ」が人気を牽引し、演歌勢では五木ひろしや八代亜紀、和田アキ子らが常連として出演した。

1969年10月 – 1970年3月 / 1970年10月 – 1971年3月

大橋巨泉と前田武彦の掛け合いによる生放送パートと、事前収録の大量ショートコントで構成されたバラエティ番組。米国番組『ラフ・イン』をモデルに、矢継ぎ早にコントを連ねる斬新な演出を採用し「アッと驚く為五郎」などの流行語を生んだ。膨大な台本と徹底した制作体制でも知られ、1960年代末のテレビ表現に大きな影響を与えた。

1969年10月 – 1971年3月 / 1971年10月 – 1985年9月

1969年から’85年までTBS系列で放送されたザ・ドリフターズの冠お笑いバラエティ番組。前半はドリフによる本格コント、後半は体操や合唱団を交えた企画で構成され、間に歌手ゲストの歌唱が挟まれた。全国各地の劇場から公開生放送を行い、大掛かりな舞台装置と体当たりの笑いで国民的人気を獲得。平均視聴率27%、最高50.5%を記録し、土曜夜の象徴的番組となった。

1970年1月 – 1976年12月

歌合戦形式で行われた視聴者参加型オーディション番組で、アマチュアとプロ歌手が同じ舞台で競う。司会は長沢純や浜村淳が務め、ヒットに恵まれない歌手にとっては再起の登竜門となり、五木ひろしや八代亜紀などがグランドチャンピオンから演歌界のスターへと飛躍した。毎回5人(後に6人)が出場し、鈴木淳や山口洋子などによる審査で70点以上で勝ち抜き、10週連続でグランドチャンピオンに到達するとトロフィーや契約権が与えられた。大阪近郊を中心に公開収録され、演出性の高い審査発表も名物だったが、視聴率の低迷により1976年末に終了した。

1970年4月 – 1979年9月

芳村真理司会のもと、若手歌手や俳優のカップルを招いて恋愛トークや演出で盛り上げるバラエティ番組。多くは番組設定上の組み合わせだったが、山口百恵&三浦友和など実際の交際や結婚へ発展した例もあり話題を呼んだ。後期にはタレントと一般視聴者の参加回も導入。放送時間帯やスポンサー変更を経て展開され、現在は映像資料が少ない幻の番組として知られている。

1970年8月 –

水泳を題材に各局で放送されたアイドル中心のバラエティ番組。芸能人運動会の派生企画として始まり、当初は水泳競技の真剣勝負も行われていたが、全盛期には浮島戦や水上格闘など大型プールで女性アイドルが不安定な足場のゲームに挑む内容が主流となり、お色気要素が強まった。普段は見られない水着姿が話題を呼んだ一方、時代の風潮や自主規制の高まり、セクシーアイドル台頭の影響で次第に衰退した。

1971年1月 – 1982年12月 –

日本テレビ系列で日曜昼に生放送された視聴者参加型バラエティ番組。初代司会者は土居まさる。正式名称は『TVジョッキー日曜大行進』で、視聴者が電話やスタジオ参加で番組に加わる形式が特徴。白いギターやEDWINのジーンズなど豪華賞品も若者の憧れとなった。1970年にはコント55号による特別編成も行われ、’78年にはステレオ放送にも対応。’82年に終了し、後継番組としてビートたけしを司会とする『スーパージョッキー』が開始した。

1971年1月 – 現在

1971年に放送を開始した朝日放送テレビ制作の視聴者参加型トーク番組。全国ネットで毎週日曜昼に放送され、新婚夫婦を招いて出会いや結婚生活のエピソードを軽妙な掛け合いで紹介する。長寿番組として知られ、桂文枝が半世紀以上にわたり司会を務めたことでギネス世界記録にも認定された。放送開始から50年以上続く昼の名物番組である。

1971年4月 – 1973年12月 / 1977年10月 – 1979年9月

1970年代にNETテレビ(のちのテレビ朝日)で放送された深夜のアダルト向けバラエティ番組。生放送を軸に過激な色気を売り物としつつ、政治問題など硬派な話題も扱い『11PM』と並ぶ深夜番組として注目を集めた。曜日別に司会者を置き、ケーシー高峰、筒井康隆、愛川欽也、高島忠夫ら多彩な顔触れが出演し、初期の金曜には上方演芸も紹介した。一方で低俗番組との批判を受け、’73年の深夜放送自粛を機に一度終了。’77年に再開後は’79年まで放送され、後続番組へと流れを引き継いだ。

1971年10月 – 1983年9月

1971年に開始され、12年間にわたり放送された日本テレビの視聴者参加型歌手オーディション番組。企画者は作詞家の阿久悠で、カラーテレビ時代の特性を生かし「テレビの手でスターを生み出す」ことを目的に開始した。毎週、予選を経た5~7人の挑戦者が歌合戦形式で競い、日曜午前枠で長期育成を前提とした構成が特徴だった。初代司会は萩本欽一が務め、作詞家や作曲家の審査員による辛口審査の中でも参加者を励ます立場を貫いた。森昌子の合格以降、応募者は10代中心となり、新たな時代の歌謡界を牽引する山口百恵、桜田淳子、岩崎宏美、ピンク・レディーなどを続々と輩出。中森明菜は不合格を経験しながらも’81年の三度目の挑戦で392点という史上最高得点を記録し、強烈な印象を残した。

1972年1月 – 1976年3月 / 1978年7月 – 1979年3月

毎回30曲をランキング形式で紹介する音楽番組で、スタジオには出演歌手30人分の大型ランキングボードが常設されていた。ボードには顔写真や曲名、順位推移、ポイントなど詳細なデータが表示され、歌手の登場に合わせて該当部分が点灯する演出が特徴だった。第2期以降は表示形式を簡略化し、上位10曲ではフラップ式ボードも使用。司会は愛川欽也、森田健作、井上順らが務め、エンディングでは観客へのサインプレゼントも行われた。

1972年4月 – 1982年4月

1970年代を代表するNHKの大型お笑い番組で、三波伸介を中心に構成された。土曜放送時代は「笑福亭仁鶴のお見合い」「演芸コーナー」「てんぷく笑劇場」の三本立てで、庶民的な笑いと人情味を融合。’73年に日曜へ移行後は「てんぷく笑劇場」「歌謡曲コーナー」「減点パパ(後に減点ファミリー)」を柱とし、家族向け娯楽番組として人気を確立した。’82年に10年間の歴史に幕を下ろした。

1972年10月 – 1974年6月 / 1974年7月 – 1977年4月ほか

1972年から’79年までTBSで生放送された素人参加型情報バラエティ番組。銀座テレサからの観客参加形式で、司会のせんだみつおが人気を博した。中高生の帰宅時間帯を狙った月曜 – 金曜 17:00 – 17:30などの編成で高視聴率を獲得し、「しろうとコメディアン道場」から関根勤、小堺一機、竹中直人らが登場。音楽企画も充実し、国内外の著名ミュージシャンが出演。若者文化と街の熱気を伝えた番組として知られる。

1973年4月 – 9月 / 1974年4月 – 1975年3月 / 1975年10月 – 1976年3月

1973年から’76年にかけて日本テレビで放送されたコント55号の冠お笑い番組。浅草松竹演芸場での公開収録による舞台コントを中心に構成され、簡潔ながらも独自の間と身体性を生かした笑いで高い人気を得た。舞台全景を重視した撮影手法や「なんでそーなるの!?」のアイキャッチも特徴で、コンビを代表する番組の一つとして知られる。

1973年4月 – 12月 / 1974年1月 – 1975年11月 / 1975年12月 – 1985年3月

横山やすし・西川きよしが司会を務めた公開収録形式のバラエティ番組。関西ローカルの深夜番組として始まり、放送枠拡大やネットチェンジを経て1975年末に全国ネット・ゴールデン帯へ進出した。ABCホールを拠点に展開され、人気コーナー「「フィーリングカップル5vs5」」やキダ・タロー作曲のテーマ音楽も親しまれた。最高視聴率36%を記録するなど高い人気を誇り、’85年に12年の歴史に幕を下ろした。

1973年10月 – 1975年9月 / 1975年10月 – 1979年6月

日本テレビで生放送された深夜帯の大型バラエティ番組。和田アキ子とタモリが初共演し、せんだみつおらとの奔放な掛け合いで人気を獲得した。制作は井原高忠が担当し、型破りで過激な演出が特徴。ザ・デストロイヤーやマギー・ミネンコなども人気を集め、初回低視聴率から急上昇し全盛期には30%超を記録したが、主要出演者の降板が相次ぎ、人気低迷の末に終了した。

1973年10月 – 1980年3月

フジテレビ系列局で放送された視聴者参加型の歌手オーディション番組で、『スター誕生!』のライバル的存在として知られる。初代司会者は三波伸介。渡辺プロダクションが制作協力し、林寛子、高田みづえ、石川ひとみ、越美晴らを輩出した。グランドチャンピオン決定時にはくす玉や紙吹雪、風船を用いた派手な演出が行われ、時期によってはゴンドラ式の合格発表も採用された。番組内ではコントやミニゲームなどの娯楽要素も盛り込まれ、後年のアイドル発掘番組へとつながる一系譜を成した。

1973年10月 – 1984年3月

関西テレビで放送された視聴者参加型の恋愛バラエティ番組。深夜番組『ナイト・パンチ』の一企画から独立し、若者風俗を巧みに取り入れて人気を獲得、のちにフジテレビ系全国ネットへ昇格した。司会は桂三枝と西川きよしが務め、軽快な漫才調の進行と名物キャッチフレーズが番組の象徴となった。関西制作恋愛番組を代表する長寿番組として知られる。

1973年11月 – 2000年10月 / 2012年 – 現在

1973年にフジテレビの特番として始まった不定期放送のものまね番組。第1回は高視聴率を記録し、森昌子が初代王者となった。’80年代後半以降は所ジョージらの司会のもと、淡谷のり子を審査員に迎え、笑いとパロディ性を重視した路線へ転換。コロッケや清水アキラら“ものまね四天王”を中心に人気を博し、’90年代のものまねブームを牽引した。

1975年4月 – 1975年9月 / 1976年4月 – 1986年3月 / 1986年4月 – 1986年9月

日本テレビ系で放送されたコント主体のバラエティ番組で、演出の白井荘也が松竹新喜劇に着想を得て企画した。坂上二郎、野口五郎、研ナオコを中心に始まり、視聴率の安定からレギュラー化。後に堺正章や郷ひろみ、西城秀樹ら新御三家が加わり、アイドルと喜劇を融合した構成で人気を博した。高田みづえがコメディエンヌとして注目を集めた点も特色だった。

1975年4月 – 1975年9月 / 1975年10月 – 1984年5月ほか

全国ニュースに載らないB級事件をリポーターがフリップや再現フィルムで解説する低予算ワイドショー的バラエティ。常時30%超の視聴率を記録した日テレの看板番組だった。朝枠の「テレビ三面記事」を週末プライム向けに発展させ、男性層を意識した内容に転換。司会は 加藤芳郎、リポーターに 泉ピン子大山のぶ代桂朝丸高見恭子青空はるおら。クインシー・ジョーンズ作曲・鬼警部アイアンサイドのテーマに乗せ、小早川正昭の「新聞によりますと…」で始まる語りが名物だった。

1975年4月 – 1980年3月

萩本欽一が企画・主演を務めたフジテレビ土曜夜のバラエティ番組。ラジオのヒットを受けて1975年にレギュラー化され、当初は『萩本欽一ショー』を冠した。視聴者投稿ハガキと萩本の即興的アドリブを軸に、NGも笑いに変える自由な演出が特徴で、「バカウケ」などの流行語も生んだ。この手法は後のフジ系バラエティに大きな影響を与えた。

1975年10月 – 1986年3月

一般視聴者も参加するトーク重視のクイズバラエティで、司会の久米宏と、コント55号の萩本欽一・坂上二郎が中心となって展開された。緊張感よりも会話の妙や間を楽しませる作風で、久米の軽妙な司会は全国的な人気を獲得した。出題時に正解を伏せるため使われた「ほにゃらら」という言葉は流行語となり、番組の象徴となった。日本のクイズ番組で初めてVTR問題を導入した点も特筆される。企画は萩本宅での新年会から生まれ、古今東西ゲームのスピード感をテレビに持ち込んだもので、生放送ならではのハプニングも名物だった。

1975年10月 – 1978年3月 / 1978年10月 – 1979年4月ほか

よみうりテレビ制作で放送された視聴者参加型のスポーツバラエティ番組。一般参加者が風変わりな競技に挑み、日本一や新記録を目指す構成で人気を博した。中期以降は屋外ロケ中心となり、実況と演出を強めた展開が特徴。名物企画「鳥人間コンテスト」を生み、記録に挑む人間の可能性とロマンを描いた長寿番組。

1976年1月 – 1992年12月

ロート製薬の一社提供で放送された全862回の長寿番組。司会の大橋巨泉がカナダで見たクイズ番組セレブリティ・ステークスをヒントに企画し、漫画家・はらたいらなどの解答者を競走馬に見立てて出場者が持ち点を賭ける競馬方式を採用した。巨泉と個性豊かな解答者との軽妙なやりとり、ギャンブル的なスリルが視聴者を引きつけた。本家が短命に終わったのに対し、本番組では問題は事前に知らされず、巨泉も収録直前に初見で臨む形式を徹底したことが緊張感を高めた。1979年6月30日放送回には視聴率40.8%(関東地区)を記録し、クイズ番組初の40%台を達成。1979年から1981年にかけて年間平均約30%を誇り、民放クイズ番組史上屈指の黄金期を築いた。

1976年2月 – 1996年3月 / 1996年4月 – 1997年9月 / 1997年10月 – 2014年3月ほか

1976年2月2日よりテレビ朝日系列で平日昼に放送されている黒柳徹子の冠トーク番組。原則として毎回1組のゲストを迎え、人物の人生や素顔に迫る対話を特徴とする。初回ゲストは森繁久彌で、以後も加山雄三やタモリなど常連出演者を生んだ。俳優や芸能人に加え、市民運動やボランティア関係者が登場する点も特色で、収録が長時間に及び2回放送となる例も少なくない。日本のテレビ史を代表する長寿番組の一つである。最多出演ゲストは53回で加山雄三、歴代の高視聴率を記録したゲストは三浦友和で1981年4月10日(金)の14.5%(※2025年時点)。

1976年4月 – 1994年3月

司会が出すお題に対し、出演者がフリップに即興でマンガを描いて競う大喜利形式のバラエティ番組。数回戦制を基本に構成され、当初は中京圏ローカル番組として開始されたが、後に全国放送へ拡大。土曜夕方の定番として高視聴率を記録し、正月特番「初笑いマンガ道場」も親しまれた。近年は配信や傑作選放送で再評価されている。

1976年4月 – 1998年9月

仕掛けた出来事で芸能人を驚かせ、その反応を楽しむフジの人気バラエティ番組。ジャニーズ事務所、ホリプロ、田辺エージェンシー、バーニングプロダクションなどに所属する当時のスターが多数出演し、後続の類似番組を生む先駆けとなった。1976年4月、三波伸介を司会に迎え、『木曜ビッグイベント スターどっきり㊙報告』として木曜20時枠でスタート。制作は『夜のヒットスタジオ』と同じ疋田拓プロデューサー率いる制作班が担当した。’79年には『スターどっきり生放送』と改題し生放送化するがレギュラー終了。その後は特番や再レギュラー化を挟みつつ、’98年まで断続的に放送された。レポーターには宮尾すすむ、小野ヤスシ、ダン池田、みのもんた、片岡鶴太郎、轟二郎らが名を連ねた。

1976年10月 – 1986年9月

萩本欽一の冠番組として水曜21時枠で放送された公開コメディー番組。舞台に観客を入れ、萩本家を舞台とするホームドラマ形式で進行し、萩本と真屋順子が夫婦役を演じた。引っ越しや子どもの成長など設定を変化させながら長期的な物語性を持たせ、見栄晴や「わらべ」誕生の場ともなった。茶の間のテレビから番組が始まる独特の演出も特徴である。

1976年10月 – 1988年4月

フジテレビで放送された音楽系クイズバラエティで、後に特番として継続された。楽曲のイントロを当てるクイズの元祖として知られ、音楽や芸能に関する問題、歌手ゲストによる歌唱も交えた構成が特色。司会は高島忠夫が務め、「イェーイ!!」の掛け声も名物となった。日曜昼ながら安定した高視聴率を記録し、フジテレビを代表する長寿番組の一つとなった。

1976年10月 – 1977年12月

スタジオに観客を招いて行われた公開型の音楽番組で、演歌からポップスまで幅広い歌手を毎回迎えて構成された。司会は二谷英明と久米宏が務め、歌唱の合間には二谷とゲストによるトークが展開された。収録はTBS本館Gスタジオで行われ、演奏は宮間利之とニューハードらが担当。エンディングには森田公一とトップギャランの「青春時代」などが用いられ、最終回ではレコード大賞候補歌手が集結し、後番組『ザ・ベストテン』へのバトンタッチが演出された。

1977年2月 – 1998年4月

フジテレビ系列で月1回放送されたお笑いバラエティ番組。ザ・ドリフターズの冠番組として、『8時だョ!全員集合』と並ぶ代表作である。各回ごとに設定されたテーマに基づくコントと、ゲスト歌手の歌を交互に構成し、いかりや長介が進行役を務めた。「雷様」「ばか兄弟」などの人気シリーズで高視聴率を記録し、長期にわたり国民的番組として親しまれた。

1978年1月 – 1989年9月

『トップスターショー・歌ある限り』の後番組として始まった音楽ランキング番組で、毎週生放送で独自集計による邦楽ベストテンを発表した。司会は黒柳徹子と久米宏の名コンビが務め、新幹線の車中やホームで移動中の出演者が歌唱するなどの臨場感とリアリティも魅力となり、最高視聴率41.9%を記録する社会現象となった。ランキングはレコード売上、有線放送、ラジオリクエスト、はがき投票を合算したポイント制で決定され、空港の案内表示機を参考とする反転フラップ式のランキングボードを用いた発表演出が番組の象徴となった。歌手は原則として順位に応じて生出演し、海外・地方からの中継も多用された。番組終盤には出演者全員で集合写真を撮影し、視聴者にプレゼントするなど、参加型の仕掛けで高い支持を集めた。

1978年10月 – 1991年3月

関西テレビ制作で1978年から’91年まで放送されたバラエティ番組。男性6人、女性5人の素人出演者の中から本物の新婚夫婦を推理する内容で、トークとゲーム性を融合した構成が特色。司会は上岡龍太郎が務め、横山ノックや桂文珍らが解答者として推理を展開した。関西色の強い軽妙な掛け合いと日曜昼の定番番組として長く親しまれた。

1979年12月 – 2001年9月ほか

萩本欽一司会のもと1979年にスタートした視聴者参加型バラエティ番組。NHK紅白歌合戦への対抗企画として大晦日に始まり、素人参加者が工夫を凝らした仮装作品を披露する形式が人気を獲得。当初は仮装行列的内容が中心だったが、回を重ねるごとに完成度の高い表現へ進化し、恒例番組として定着した。香取慎吾の参加で番組名と司会体制を変えつつ、長年親しまれている。

女性歌手・アイドル > 1980年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

松田聖子

1980年4月「裸足の季節」で歌手デビュー。キュートなルックスと甘い歌声で一世を風靡し、「青い珊瑚礁」「赤いスイートピー」などヒット曲を連発。髪型「聖子ちゃんカット」や衣装も社会現象に。ぶりっ子キャラでアイドル像を一新し、従来の“清純派”に自己演出の強さを加味。’80年代を代表するトップアイドルとして同世代女性のライフスタイルやファッションに大きな影響を与えた。’90年代以降も、作詞作曲や海外活動を行い、アイドルからアーティストへと進化。結婚・出産・離婚などを経ても第一線に立ち続ける、まさに“永遠のアイドル”と称される存在。

中森明菜

1981年、3度目の挑戦となった『スター誕生!』で合格し、’82年5月「スローモーション」でデビュー。翌年「少女A」でブレイクし、「飾りじゃないのよ涙は」「DESIRE」などで圧倒的な歌唱力と表現力を示す。松田聖子と対照的なクールで影のあるキャラクターを打ち出し、“アンチ・聖子”として人気を二分。歌に込められた情念とビジュアルの完成度が支持を集め、演歌やニューミュージックの要素も取り込んだ独自の世界観を築いた。私生活では波乱も多く、特に’89年の自殺未遂事件は世間に衝撃を与えたが、その脆さも彼女の魅力とされた。2020年代も復帰が待望される“孤高の歌姫”。

ザ・ベストテン

1978年から’89年までTBSで放送された音楽番組。視聴者のハガキや売上、リクエストなどを独自集計し、毎週ベストテン形式で発表。黒柳徹子と久米宏の名コンビ司会が名物で、生放送ならではの臨場感とハプニングが魅力だった。ランクインした歌手の中継出演も多く、空港・駅・学校などからの生中継パフォーマンスは番組の名物に。沢田研二、松田聖子、中森明菜、近藤真彦、チェッカーズなど’80年代アイドルが多数ランクイン。中森明菜の「禁区」5週1位や、松田聖子の年間1位連発など記録も多い。アーティストと視聴者の距離が近い、テレビ黄金期の象徴的音楽番組だった。

小泉今日子

1981年テレビ番組「スター誕生!」でグランプリを獲得し、’82年3月「私の16才」で歌手デビュー。その後「学園天国」「渚のはいから人魚」「なんてったってアイドル」「木枯しに抱かれて」「あなたに会えてよかった」「優しい雨」など’80年代を代表するヒット曲を多数発表し、アイドル人気を確立。出演ドラマ・映画も多く、「あまちゃん」などNHK連続テレビ小説を含め女優としても高い評価を得た。2015年に自身の会社「明後日」を設立し、プロデューサーとして舞台・映像・音楽・出版に携わるほか、エッセイや書評など執筆活動も行う。

酒井法子

1986年「’86ミスヘアコロン・イメージガールコンテスト」で “BOMB!賞” を受賞し芸能界入り。’87年2月、シングル「男のコになりたい」で歌手デビュー。以後、アイドル歌手として代表曲に「夢冒険」「碧いうさぎ」など多数のヒットを放つ。歌手活動と並行して女優業でも活動し、ドラマ「ひとつ屋根の下」「星の金貨」などに出演。「星の金貨」の主題歌「碧いうさぎ」は大ヒットした。一時期薬物問題で表舞台から遠ざかるも、近年はデビュー35周年を記念したベストアルバムのリリースなど、変化する活動形態で芸能活動を継続している。

柏原芳恵

1979年『スター誕生!』(日本テレビ系)に出場し「お元気ですか」を歌って合格、グランドチャンピオン(最優秀賞)を獲得。’80年6月、フィリップス・レコードより「No.1」で“柏原よしえ”の芸名で歌手デビュー。’81年、「ハロー・グッバイ」(讃岐裕子のカバー)でヒット。これによりトップアイドルの地位を確立し、日本レコード大賞ゴールデン・アイドル賞を受賞。’82年10月、シングル「花梨」の発売と同時に表記を“柏原芳恵”へ改名。以降、中島みゆきなど作詞・作曲家との協力で「春なのに」「最愛」など深みのある楽曲も多数ヒットさせ、オリコンチャートでトップ10入りを繰り返した。

薬師丸ひろ子

1978年、14歳の時に映画『野性の証明』で女優デビューし一躍注目される。’81年、主演映画『セーラー服と機関銃』で映画主演を務め、その主題歌を歌って歌手デビュー。以後「探偵物語」「メインテーマ」「Woman “Wの悲劇”より」など、主演映画と主題歌でヒットを連発する。’90年代以降は映画・テレビドラマでの女優としての地位を確立し、シリアスな役柄から母親役まで演技の幅を広げる。代表作に『木更津キャッツアイ』『ALWAYS 三丁目の夕日』、『あまちゃん』『アンナチュラル』『エール』などがある。

中山美穂

1985年、テレビドラマ『毎度おさわがせします』(TBS)で女優デビュー。その後主演ドラマ『夏・体験物語』の主題歌「C」で歌手デビューし、同年の第27回日本レコード大賞で最優秀新人賞などを受賞。 以降は「ビー・バップ・ハイスクール」や「ただ泣きたくなるの」「世界中の誰よりきっと」(中山美穂 & WANDS)などのヒットで“トップアイドル”の地位を確立した。女優としてドラマや映画にも多数出演し、『Love Letter』でブルーリボン賞主演女優賞、『東京日和』で日本アカデミー賞優秀主演女優賞を獲得。2024年の逝去まで約40年にわたり、歌手・女優の両面で幅広い活躍を続けた。

工藤静香

1984年、14歳で「第3回ミス・セブンティーンコンテスト」の特別賞を受賞。セブンティーン・クラブの一員として’85年「ス・キ・ふたりとも!」で歌手デビュー。’86年、テレビ番組『夕やけニャンニャン』のオーディションを経ておニャン子クラブ会員番号38番として加入。’87年8月、シングル「禁断のテレパシー」でソロデビュー。これがオリコン1位を獲得し、その後「抱いてくれたらいいのに」「FU-JI-TSU」「MUGO・ん…色っぽい」などヒットを連発。’80年代後半には中山美穂・南野陽子・浅香唯とともに“アイドル四天王”の一人とされる。 2000年、木村拓哉と結婚後も歌手活動を継続。

荻野目洋子

1984年、シングル「未来航海」でデビュー。姉は女優の荻野目慶子。翌’85年にはユーロビート風のカバー曲「ダンシング・ヒーロー(Eat You Up)」で大ヒットを記録した。その後も「六本木純情派」「ギャラリー」などのヒット曲を生み出し、アイドル歌手として活躍。特に「ダンシング・ヒーロー」は、2017年に大阪府立登美丘高校ダンス部の「バブリーダンス」によって再注目され、オリコンデジタルシングルランキングで2位を記録するなど、再ブームを巻き起こした。

南野陽子

1985年6月、シングル「恥ずかしすぎて」で歌手デビュー。その後、テレビドラマ『スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説』で主演し、アイドル歌手としての地位を確立する。’87年にはシングル「楽園のDoor」がオリコンで1位を獲得し、シングル8作連続1位を記録するなど、80年代後半のトップアイドルの一人として活躍した。’92年からは女優業に専念し、映画『寒椿』で日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞するなど、女優としても高い評価を受けた。

浅香唯

1985年、シングル「夏少女」で歌手デビュー。その後、テレビドラマ『スケバン刑事III 少女忍法帖伝奇』で主演し、アイドル歌手としての地位を確立。’87年にはシングル「瞳にStorm」がオリコンで4位を記録し、シングル「虹のDreamer」では1位を獲得するなどヒットを連発した。’90年代には音楽性の幅を広げ、作詞・作曲を手がけるなど、アーティストとしての側面も強調した。’93年には芸名の使用を巡るトラブルから一時的に芸能活動を休止したが、’97年に「Yui」として活動を再開。その後、再び「浅香唯」として活動を再開し、音楽活動や女優業を続けている。

斉藤由貴

1984年、「ミスマガジン」でグランプリを受賞し芸能界入り。’85年2月にシングル「卒業」で歌手デビューし、オリコンで最高6位を記録。同年4月にはテレビドラマ『スケバン刑事』で主演を務め、アイドル歌手としての地位を確立した。’86年にはNHK連続テレビ小説『はね駒』のヒロインを演じ、平均視聴率40%を記録するヒット作となり、全国的な人気を得た。’90年代以降は女優業に専念し、映画『優駿 ORACIÓN』で日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞。近年では、2025年にデビュー40周年を迎え、シングル「Light a Shine~月はずっと見ている」をリリースし、音楽配信サービスでの楽曲公開も行った。

堀ちえみ

1981年、ホリプロスカウトキャラバンでグランプリを受賞し、’82年にシングル「潮風の少女」で歌手デビュー。その後、’83年のテレビドラマ『スチュワーデス物語』で主演を務め、アイドル歌手としての地位を確立した。’85年にはシングル「Ri・Bo・N」がオリコンで2位を記録し、同年のNHK紅白歌合戦に初出場を果たした。また、’87年には映画『潮騒』に出演し、女優としても活動の幅を広げた。2019年に舌がんと食道がんを公表し、手術とリハビリを経て、2024年には舌がんの完治を報告。デビュー41周年ライブツアーを開催し、ファンとの交流を深めた。

岩崎良美

1980年2月「赤と黒」で歌手デビュー。姉の岩崎宏美も著名な歌手であり、姉妹での活動が注目を集めた。’85年にはシングル「TOUCH」がテレビアニメ『タッチ』のオープニングテーマに起用され大ヒットを記録。これにより、再び注目を浴び、アイドル歌手としての地位を確立した。’90年代以降は女優業にも進出し、テレビドラマや映画などで幅広く活動。2008年にはファンタジーバンド「Sound Horizon」の6th Story CD『Moira』に参加し、音楽活動の幅を広げたが、コンサートには出演せず、後に井上あずみが代役を務めた。

松本典子

1984年第、5回「ミス・セブンティーンコンテスト」でグランプリを獲得し芸能界入り。’85年3月にシングル『春色のエアメール』でアイドル歌手としてデビューを果たす。同期には浅香唯・斉藤由貴・中山美穂・本田美奈子・南野陽子らがいた。甘いルックスと骨太な歌声で注目され、1stアルバム『Straw Hat』収録曲「いっぱいのかすみ草」は名曲と評価される。テレビドラマやバラエティ番組でも活躍し、正統派アイドルとして’80年代の新人賞レースで数々の賞を受賞した。

高見知佳

中学時代にテレビ愛媛のど自慢番組でスカウトされ芸能界入り。1978年にコロムビアからシングルでアイドル歌手としてデビューした。’84年には「くちびるヌード」が資生堂春のキャンペーンCMソングに起用され、フジテレビ『夜のヒットスタジオ』やTBS『ザ・ベストテン』、日本テレビ『ザ・トップテン』など音楽番組で披露され注目を集めた。アイドル歌手として活動する傍ら、映画『蒲田行進曲』やテレビドラマ、舞台にも出演し、バラエティ番組でも人気を博した。2022年、がん性腹膜炎により60歳で死去した。

河合奈保子

1979年、西城秀樹の「HIDEKIの弟・妹募集オーディション」で優勝し、’80年6月にシングル『大きな森の小さなお家』でアイドル歌手としてデビューした。当時のキャッチフレーズは「ほほえみさわやか カナリー・ガール」で、2枚目のシングル『ヤング・ボーイ』がヒットし、複数の音楽祭で新人賞を受賞した。’81年にはNHKホールでのリハーサル中に転落事故で腰椎圧迫骨折の重傷を負ったが、約2か月後に復帰。同年の第32回NHK紅白歌合戦に『スマイル・フォー・ミー』で初出場し、事故現場であるNHKホールでトップバッターを務めた。

森高千里

1986年、「第1回ポカリスエット・イメージガールコンテスト」でグランプリを受賞し、同年冬に上京。’87年5月、映画『あいつに恋して』の主題歌「NEW SEASON」で歌手デビューし、女優活動と並行して芸能活動を開始。’88年、アルバム『ミーハー』収録曲「ミーハー」で初めて作詞を手掛け、入院経験をもとに書いた「ザ・ストレス」で個性的な歌詞が注目され、以降ほぼ全曲を自ら作詞。’89年に「17才」がヒットし、’92年の「私がオバさんになっても」や『ROCK ALIVE』ツアーで全国を巡り、生音主体の演奏とコスプレを取り入れた独自のステージを展開した。

岡田有希子

1984年4月、シングル『ファースト・デイト』でアイドル歌手としてデビュー。同年の『ザ・ベストテン』や『ザ・トップテン』に出演し、デビュー曲や2枚目シングル『ヤング・ボーイ』で新人賞を総なめにした。’85年から全国コンサート『ハートにキッス』や『ファンタジアン』を開催し、多忙な中でドラマ出演もこなした。’86年1月に発売した『くちびるNetwork』はカネボウ化粧品春のバザールのCMソングに採用されオリコン初登場1位となる。絶頂期であった同年の突然の自死は大きな社会問題となった。

本田美奈子

中学時代に『スター誕生!』に出場し、松田聖子らの曲を歌ったが合格には至らなかった。その後原宿でスカウトされ、1985年「殺意のバカンス」でデビュー。5枚目のシングル「1986年のマリリン」が大ヒットし、アイドルとして人気を集める。その後ロックやミュージカルへと活動を広げ、『ミス・サイゴン』や『レ・ミゼラブル』で高い評価を得た。2003年にはクラシックアルバム『AVE MARIA』を発表し新境地を開いたが、急性骨髄性白血病を発症し、2005年、惜しまれながら38歳で逝去した。

松本伊代

中学3年の時に原宿でスカウトされ、1981年に『たのきん全力投球!』の田原俊彦の妹役で芸能界デビュー。同年「センチメンタル・ジャーニー」で歌手デビューし、一躍人気アイドルとなる。翌’82年には多くの新人賞を受賞し、「花の82年組」の一員として活躍した。’83年「時に愛は」がヒットし、以後もバラエティ番組で幅広く活動。’85年には自身のショップを開き、’93年にお笑いタレントのヒロミと結婚。2000年代以降もタレント活動を続けている。

早見優

1980年に当時住んでいたハワイでスカウトされ、山口百恵に憧れて単身帰国しサンミュージックに所属する。’82年に「急いで!初恋」で歌手デビュー。「花の82年組」の一員として注目を集め、日本レコード大賞新人賞を受賞した。’83年、コカ・コーラのCMソング「夏色のナンシー」がヒットし紅白に初出場、CNNにも紹介された。歌手と学業を両立する才色兼備のアイドして活動し、上智大学を卒業後に国際交流活動にも積極的に参加。’96年に結婚して母となり、2005年には松本伊代・堀ちえみと「キューティー★マミー」を結成した。現在もタレント活動を続ける。

菊池桃子

1984年、映画『パンツの穴』で注目を集め、同年「青春のいじわる」で歌手デビュー。親しみやすい雰囲気で人気を得、デビュー年に「SUMMER EYES」「雪にかいたLOVE LETTER」などがヒット、日本レコードセールス大賞女性新人賞を受賞した。’85年の「卒業-GRADUATION-」「もう逢えないかもしれない」から’87年まで7作連続でオリコン1位を記録し、資生堂や江崎グリコ、日立製作所など大手企業のCMキャラクターにも起用されCMや雑誌でも活躍。武道館公演はビートルズの公演の観客動員数を抜き最年少記録を樹立、トップアイドルの地位を確立した。

 石川秀美

1982年「妖精時代」でデビューし新人賞を受賞、松本伊代や小泉今日子、中森明菜らとともに「花の82年組」の一員として歌番組やドラマなどで活躍した。初期は松本隆作詞によるアイドルポップスを歌ったが、’85年頃からロック寄りの楽曲に挑戦し歌唱力を発揮した。後半はライブやアルバム制作に力を入れ、ドラマ出演でも注目された。’89年に薬丸裕英との交際が報じられ、1990年に婚約・結婚し出産を発表。その後は芸能界に本格復帰せず事実上引退した。

三田寛子

京都市出身で、1980年に雑誌『セブンティーン』のモデルに合格し上京。翌’81年、TBSドラマ『2年B組仙八先生』で俳優デビューした。’82年には酒井政利のプロデュースにより「駈けてきた処女」で歌手デビューし、早見優や松本伊代らとともに「花の82年組」と呼ばれた。その後『笑っていいとも!』で天然キャラクターとして人気を博し、『YOU』の司会や数々のドラマに出演するなど幅広く活躍した。’91年、歌舞伎役者の中村芝翫と結婚し梨園の妻となるが、近年も”元アイドル”としてメディア活動を続ける。

今井美樹

1983年にファッション誌『エムシーシスター』(mc Sister) のモデルとして活動を始め、’84年にドラマ『輝きたいの』で女優デビュー。’86年『黄昏のモノローグ』で歌手デビューし、翌年のアルバム『elfin』でブレイクした。資生堂のCMソング『彼女とTIP ON DUO』などのヒットを重ね、’91年ドラマ『あしたがあるから』の主題歌「PIECE OF MY WISH」で初のミリオンを記録。’92年以降は久石譲や布袋寅泰らと制作を行い、’96年「PRIDE」が最大のヒットとなった。’99年に布袋寅泰と結婚した。

森川由加里

1984年『ポッパーズMTV』のアシスタントとしてテレビ初出演し、’87年「雨のカルメン」で歌手デビュー。同年「SHOW ME」がドラマ『男女7人秋物語』の主題歌となり大ヒットした。以後、ボーイッシュなキャラクターでバラエティやドラマでも活躍し、全国ツアーや学園祭ライブを精力的に行った。’90年からはラジオ番組を通じてコンサートツアーを続け、「夢 元気!?」で賞を受賞。’90年代はライブ活動を中心に音楽を継続し、舞台や海外取材番組にも出演。2013年に布施明と結婚した。

石井明美

アルバイトで六本木のクラブ歌手をしていた際にスカウトされ、1986年に研音へ所属。同年ドラマ『男女7人夏物語』主題歌「CHA-CHA-CHA」でデビューし、80万枚を超える大ヒットを記録した。翌年には選抜高校野球の入場行進曲にも採用され、一躍人気歌手となった。’90年には「ランバダ」がヒットし、写真集出版や結婚・出産など話題も多かった。2000年代以降はユニット活動や再婚を経て、現在もコンサート「夢スター春・秋」に出演し歌手として活動を続けている。

伊藤智恵理

1987年、ドラマ『あぶない刑事』にゲスト出演後、同年『キスより簡単』にレギュラー出演し、挿入歌「パラダイス・ウォーカー」で歌手デビューした。「トキメキがいたくて」「夢かもしれない」などを発表し、’90年「天気になれ」が最後のシングルとなった。並行してバラエティやCMでも活躍。’96年に“Chieri”として音楽活動を再開し、アルバム『SKY SONGS』を発表。2000年以降は女優・タレント活動や記念ライブを行い、2015年に結婚し現在は家庭を中心に暮らしている。

麻倉未稀

中学から歌手を志し上京後、モデル活動を経て1981年「ミスティ・トワイライト」でデビューした。“都会派美人シンガー”として注目され、「黄昏ダンシング」で『ザ・ベストテン』に登場。’83年「フラッシュダンス」、’84年「ヒーロー」が大ヒットし、“洋楽カバーの女王”と呼ばれる存在となった。’90年代以降は写真集や映画で大胆な表現に挑戦する一方、ミュージカル女優としても活動を広げ、『麗しのサブリナ三姉妹物語』『アニー』などに出演した。

森口博子

福岡でスクールメイツに所属しバックダンサーを経験、数多くのオーディションに挑戦した末、1985年『勝ち抜き歌謡天国』で準優勝し、同年「水の星へ愛をこめて」で歌手デビューした。アニメ『Ζガンダム』の主題歌としてオリコン16位を記録したが、その後ヒットに恵まれず苦難を味わう。’88年『鎧伝サムライトルーパー』の「サムライハート」で再び注目を集め、アニメソング歌手として地位を築いた。以降は歌手、女優、バラエティで幅広く活動を続けている。

中山忍

姉・中山美穂を見送りに行った空港でスカウトされ、1988年ドラマ『オトコだろッ!』で女優デビュー、同年「小さな決心」で歌手デビューした。アイドルユニットでも活動したが’90年に歌手活動を休止し、以降は女優に専念。『刑事貴族3』などで清純派女優として人気を得た。’95年『ガメラ 大怪獣空中決戦』で鳥類学者役を演じて評価され、日本アカデミー賞優秀助演女優賞ほか多数を受賞。以後ドラマや映画、舞台で幅広く活躍を続けている。

細川直美

1988年「第2回全日本国民的美少女コンテスト」でグランプリを受賞し芸能界入り。アイドル歌手として新人賞レースにも参戦し、田村英里子や島崎和歌子らと同期デビューした。’93年のNHK朝ドラ『かりん』でヒロインを務め人気を獲得し、その後は女優として活躍。2002年に俳優の葛山信吾と結婚し、2女をもうける。結婚発表時には葛山の出演作『真珠夫人』と絡めた報道も話題となり、公私ともに注目を集めた。

マルシア

1985年、ブラジルで『TBS歌謡選手権』で準優勝し、翌年『外国人歌謡大賞』優勝を機に来日。作曲家猪俣公章の内弟子となる。’89年「ふりむけばヨコハマ」でデビューし、多くの新人賞を受賞して注目を集めた。その後はドラマやバラエティでも活躍し、女優・タレントとしても幅を広げる。’94年に大鶴義丹と結婚し、’97年に女児を出産するが2004年に離婚。離婚後も娘のため大鶴姓を名乗り活動を続けている。

秋本奈緒美

ジャズ好きの父の影響で幼少より同ジャンルに親しみ、サラ・ボーンに感銘を受け歌手を志す。長戸大幸にデモを送り続け、1982年にビクターからジャズ歌手としてデビュー。翌年『オールナイトフジ』初代司会を務め広く知られる存在となり、女優としても多彩に活動する。’90年代にはヌード写真集を発表し注目を集め、2019年には22年ぶりのアルバムをキングレコードから発売した。

西田ひかる

幼少期から13歳までを米ロサンゼルスで過ごした。アメリカンスクール・イン・ジャパン在学中にチアリーダーとして活動し、1979年にはスティーヴィー・ワンダーの楽曲「愛の園」でコーラス参加を経験した。’88年、日本エアシステム(JAS)のキャンペーンガールとしてデビューし、同年「フィフティーン」で歌手デビュー。清純派アイドルとして人気を集め、ドラマや映画にも出演。’91年、ドラマ『デパート!夏物語』の主題歌「ときめいて」がヒットし、第42回NHK紅白歌合戦に初出場。以後も「人生変えちゃう夏かもね」などCMソングがヒットした。デビュー直後から続くチャリティバザーを通じ、長年にわたり寄付活動も行っている。

大西結花

中学時代に「ミス・ロックンローラー・コンテスト」で準優勝後、スカウトされ芸能界入り。1984年、テレビドラマ『家族の晩餐』で女優デビューし、翌’85年にシングル『アラベスク・ロマネスク』でアイドル歌手デビューを果たした。第12回横浜音楽祭新人奨励賞を受賞し、デビュー時のキャッチフレーズは「不思議チック少女」。ドラマでは早熟や不良少女役で注目され、’85年公開の相米慎二監督『台風クラブ』で第7回ヨコハマ映画祭最優秀新人賞を受賞した。

伊藤麻衣子

1982年、ミスマガジンコンテスト初代グランプリを受賞し、’83年にシングル『微熱かナ』でアイドル歌手デビュー。デビュー時のキャッチコピーは「1億人のクラスメイト」で、以後シングルやアルバムを多数リリースしたが、同年デビュー組に目立ったヒットは少なく「不作の83年組」とも呼ばれた。’95年に芸名をいとうまい子に変更し、2000年代以降はバラエティ番組に活動の中心を移し、『お昼ですよ!愛・地球博』や『バイキング』などに出演。2016年3月に同番組を卒業するまで幅広く活躍した。

森尾由美

『Seventeen』の読者モデルとしてスカウトされ、1982年にフジテレビドラマ『ねらわれた学園』で女優デビュー。’83年にシングル「お・ね・が・い」でアイドル歌手デビューし、CM出演や『オールナイトフジ』司会、『元気が出るテレビ!!』などバラエティでも活躍した。’90年代にはトレンディドラマやTBS『愛の劇場シリーズ』の五つ子の母役で注目され、同枠の主演最多記録を持つ。声優としても『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の秋本・カトリーヌ・麗子役を10年以上演じ、日本在住ながら活動を続けている。

甲斐智枝美

1979年、日本テレビ『スター誕生!』で第29代グランドチャンピオンを獲得し芸能界入り。’80年、ホリプロ所属のアイドルとしてシングル「スタア」で歌手デビューし、キャッチフレーズは「KIRARI!瞳が語る」、愛称は「チェミイ」。’81年にはキャンペーン曲「Si! Si! C!」を発売したが、シングルのオリコン最高位は103位とヒットには恵まれず、歌手活動を縮小。その後は女優・タレント業に重心を移し、『GOGO! チアガール』『野々村病院物語』『高校聖夫婦』などドラマに出演。’87年には『見上げればいつも青空』でヒロインを務め、クイズ番組司会など多方面で活動した。

北原佐和子

『mcシスター』の読者モデルを経てオスカープロモーションにスカウトされ、1981年にミス・ヤングジャンプに選ばれグラビアデビュー。同年アイドルユニット「パンジー」を結成し、’82年18歳の誕生日にシングル「マイ・ボーイフレンド」でソロ歌手デビュー、「さわやか恋人一年生」のキャッチフレーズで’85年までにシングル10作、アルバム6作を発表。「花の82年組」の一人として人気を得た後、女優に転身し、時代劇や東海テレビ昼ドラに出演。20代から介護やボランティアに関心を持ち、2007年にホームヘルパー2級、2014年に介護福祉士資格を取得。介護現場の経験を生かし著書執筆や講演活動も行っている。

工藤夕貴

歌手井沢八郎の長女として生まれ、小学6年で渋谷でスカウトされ芸能界入り。TBS「ザ・ヒットステージ」でデビューし、毒舌中学生として注目され、CM「お湯をかける少女」で人気を得た。1984年『逆噴射家族』で映画出演し、挿入歌「野生時代」で歌手デビュー。翌年『台風クラブ』主演で高評価を受け、若手実力派女優として注目された。さらに声優やラジオパーソナリティとしても活動し、’90年『戦争と青春』で日本アカデミー賞優秀主演女優賞、ブルーリボン賞主演女優賞などを受賞した。

伊藤つかさ

子役として活動後、1980年『3年B組金八先生』で注目され、’81年「少女人形」で歌手デビューし人気アイドルとなる。’84年にビクターへ移籍し’86年まで音楽活動を続け、以後は女優業や声優にも進出。2002年に写真集でヌードを披露し話題となり、2006年に20年ぶりに歌手復帰。近年は過去音源の再発売や舞台出演など幅広く活動を続けている。

つちやかおり

1979年『3年B組金八先生』で女優デビューし、’82年「恋と涙の17才」で歌手デビューした。その後はドラマやバラエティ、グラビアなどで活躍したが、’91年に布川敏和と結婚し専業主婦となる。2012年に約20年ぶりに芸能界復帰を発表し、2014年に離婚を公表。近年はSNSや配信企画にも参加し活動を続けている。

石野陽子

高校在学中にスカウトされ芸能界入りし、1985年「テディーボーイ・ブルース」で歌手デビューした。石野真子の妹として当初から注目を浴び、歌唱に苦手意識を持ちながらもアイドルとして人気を得た。女優としてはドラマ『セーラー服通り』主演でブレイクし、志村けんとの掛け合いが光る『志村けんのだいじょうぶだぁ』でお茶の間の人気者となる。以降もテレビ・舞台に活動の場を広げ、2003年『てるてる家族』でスケートコーチ役、2020年『おちょやん』では芝居茶屋の女将役を好演し、幅広い演技力を示した。

中村由真

1985年ホリプロスカウトキャラバンで注目され、翌年「ヤングジャンプ」サマークイーンコンテストで1位となり芸能界入りした。’86年、ドラマ『スケバン刑事III』で風間三姉妹の次女・由真役を演じブレイク。’87年挿入歌「ジレンマ」で歌手デビューし、「シビアー」「パニック」なども発表。浅香唯・大西結花と結成したユニット「風間三姉妹」で主題歌「Remember」がオリコン1位を獲得し、人気アイドルとして活動した。

田中律子

12歳でモデルデビューし、1985年に『鶴ちゃんのいちごチャンネル』でテレビ初出演、ドラマでも女優として活動を始めた。’88年、筒美京平プロデュース「FRIENDSHIP」で歌手デビューし、シングル11枚とアルバム5枚を発表。同期はWinkや西田ひかるら。’89年『愛しあってるかい!』出演で注目され、’91年『101回目のプロポーズ』で人気女優となった。以後は女優業を中心にバラエティや司会でも活躍し、現在も幅広く活動を続けている。

 安田成美

中学時代にスカウトされ、1981年にCMでデビュー。’83年『風の谷のナウシカ』イメージガールに選ばれ、翌年同作のイメージソング「風の谷のナウシカ」で歌手デビューしオリコン10位のヒットとなった。’89年以降は『同・級・生』『素顔のままで』などトレンディードラマで主演し人気を確立。’94年に木梨憲武と結婚し、出産で一時休業したが2000年にドラマで復帰。以降も女優として活動を続ける一方、カフェ経営にも携わっている。

宮沢りえ

11歳でモデルとして活動を始め、1985年に明星食品CMで芸能界入り。’87年に初代リハウスガール”白鳥麗子”として注目を集め、’88年映画『ぼくらの七日間戦争』主演で女優デビュー、日本アカデミー賞新人賞を受賞した。’89年ドラマ初主演と同年「ドリームラッシュ」で歌手デビューし、翌年のシングルはオリコン1位を獲得、紅白にも出場した。’91年写真集『Santa Fe』が150万部超の大ヒットを記録し社会現象となった。’92年に貴乃花と婚約するが短期間で解消、’94年には流行語大賞も受賞するなど話題を集めた。

三原 順子

小学校時代から劇団で演技を学び、1979年『燃えろアタック』で本格的に女優デビュー。同年『3年B組金八先生』で不良少女役を演じ、セリフ「顔はやばいよ、ボディやんな」で注目を集めた。’80年「セクシー・ナイト」で歌手デビューしヒットを記録、以降も「いとしのサマーボーイ」などを発表した。アイドルらしからぬ大胆な発言や行動が話題となり、後にロックバンド活動や作詞にも取り組む。2010年には自民党から参議院議員選挙に立候補し、初当選を果たした。

松任谷由実


1972年、自身の作詞・作曲による『返事はいらない』で歌手デビュー。’75年、作家として提供した「いちご白書をもう一度」がオリコン1位を獲得すると注目され、TBSドラマの主題歌で6枚目のシングル『あの日にかえりたい』もオリコン1位を獲得。ここから過去の楽曲にも注目が集まり荒井由実ブームが到来、ニューミュージック界を牽引するアーティストとして快進撃が始まる。’76年に音楽プロデューサーの松任谷正隆と結婚し松任谷由実に改名。”呉田軽穂”の名で多くの歌手にも楽曲を提供し、発表される曲の殆どが名作として時代を超えて支持され、デビューから半世紀以上が経った現在も、ニューミュージック界のカリスマ的存在として活動を続ける。

中島みゆき


1975年、「アザミ嬢のララバイ」でレコードデビュー。同年『ポピュラーソング・コンテスト』で「時代」がグランプリを受賞し、歌手・作詞作曲家として注目を集める。’76年にファーストアルバム『私の声が聞こえますか』を発表、研ナオコへの提供曲「LA-LA-LA」「あばよ」などでソングライターとしても成功。’77年「わかれうた」がヒットし、歌手としての地位を確立する。代表作として’81年「悪女」がオリコン1位、’94年「空と君のあいだに」が147万枚のヒット。2000年にヤマハミュージックコミュニケーションズに移籍し、「地上の星/ヘッドライト・テールライト」がロングヒット。2006年芸術選奨文部科学大臣賞、2009年紫綬褒章を受章し、現在も精力的に作曲・歌手活動を続ける。

五輪真弓


芸術の発信地として知られた渋谷の小劇場のオーディションで歌唱したのをきっかけに1972年10月、CBS・ソニーからアルバム『少女』と同名シングルで歌手デビュー。オリコン最高6位を記録し「和製キャロル・キング」と称され、日本女性シンガーソングライターの草分けと評された。’76年にはフランスでアルバム制作に臨み、全フランス語アルバム『えとらんぜ』を発表、サルヴァトール・アダモのオランピア劇場公演にもゲスト出演する。’78年「さよならだけは言わないで」のヒットを機にテレビ出演が増加。’80年、B面予定の「恋人よ」がA面として発売され大ヒット、第22回日本レコード大賞金賞を受賞。以来コンサート活動を精力的に続け、日本のポップ・フォーク界で確固たる地位を築いた。

杏里


1978年、17歳でフォーライフ・レコードから「オリビアを聴きながら」でデビュー。歌唱力は高く評価されたが、初期はセールスが伸び悩み、曲調を変えながら定期的に作品を発表した。’82年、バックバンドの小林武史作曲の「思いきりアメリカン」が花王のCMで使用されヒットし、「夏」「海」のイメージが定着。’83年、角松敏生にプロデュースを委ねた5枚目アルバム『Bi・Ki・Ni』で洗練された音楽性を確立。8月にはアニメ『キャッツ♥アイ』主題歌「CAT’S EYE」を発売し初のオリコン1位を獲得、続く「悲しみがとまらない」とともにベスト10入りを果たす。同年12月には両曲を収録したアルバム『Timely!!』がオリコン1位となり、初出場の第34回NHK紅白歌合戦で不動の地位を確立した。

竹内まりや


1978年、23歳でシングル「戻っておいで・私の時間」とアルバム『BEGINNING』でデビュー。当時はアイドル的役割も担ったが、’79年の「SEPTEMBER」が長期チャートインし新人賞を受賞、サンレモ音楽祭にも出場した。’80年には「不思議なピーチパイ」がヒットし、自ら作詞作曲も手がけるようになるが、アイドル的活動に悩み、’81年には過酷なスケジュールで喉を痛め一時休業。’82年に山下達郎と結婚しメディア露出を減らす一方で作詞・作曲家として活動を開始。’84年、全曲自作のアルバム『VARIETY』をリリースしヒット、娘も誕生した。その後は家庭を優先しつつ、薬師丸ひろ子「元気を出して」、中山美穂「色・ホワイトブレンド」など多数のヒット曲を提供し、シンガーソングライターとして確固たる地位を築いた。

渡辺真知子


1975年、高校在学中にヤマハ主催『第9回ポピュラーソングコンテスト』に「オルゴールの恋唄」で出場し特別賞を受賞。’77年、洗足学園短期大学音楽科卒業後、同年11月にシングル「迷い道」でデビュー。’78年にはセカンドシングル「かもめが翔んだ日」が大ヒットし、第20回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞、音楽祭13賞も獲得。同年に「ブルー」、’79年に「たとえば…たとえば」「別れて そして」などヒットが続く。’80年の「唇よ、熱く君を語れ」はカネボウCM曲としてヒットし、軽快で力強い曲調が”女性の時代”を象徴する楽曲と評され、デビュー直後からシンガーソングライターとして順調にキャリアを築いた。

髙橋真梨子


中洲のナイトクラブに出演していた1972年、「ペドロ&カプリシャス」のペドロ梅村にスカウトされ前野曜子の後任として二代目ボーカルに参加。当時は芸名「高橋まり」。’73年に「ジョニィへの伝言」「五番街のマリーへ」がロングヒットとなる。’78年にペドロ&カプリシャスを脱退し、ソロ歌手「髙橋真梨子」として活動を開始。同年11月にシングル「あなたの空を翔びたい」でデビューし’79年から全国ツアーを開始。2019年まで41年間連続で開催し、2000人以上収容の大規模ホールで年間25公演以上を継続する唯一の女性ソロ歌手として昭和、平成、令和の3時代にわたりトップアーティストとして活動を続けている。

大橋純子


1974年に北海道から上京し、ヤマハ音楽振興会で働きながら仲間とバンド活動を始めた。同年アルバム『フィーリング・ナウ』でデビューし、尾崎紀世彦のツアーに同行して経験を積む。’76年にアルバム『ペイパー・ムーン』で初ヒットを得て、翌年には「大橋純子&美乃家セントラル・ステイション」として「シンプル・ラブ」をヒットさせた。’78年にはドラマ主題歌「たそがれマイ・ラブ」が大ヒットし、日本レコード大賞金賞を受賞。続く「サファリナイト」も支持を集めた。’79年に作曲家佐藤健と結婚し、「ビューティフル・ミー」で『NHK紅白歌合戦』に初出場。’81年発表の「シルエット・ロマンス」が’82年にかけてロングヒットとなり、最優秀歌唱賞を受賞するなど、歌唱力と表現力で高い評価を確立した。

八神純子


1974年の『ヤマハポピュラーソングコンテスト』で「雨の日のひとりごと」「幸せの時」の2曲同時入賞を果たし、同年にシングル「雨の日のひとりごと」でプレ・デビュー。’78年1月、20歳の誕生日に「思い出は美しすぎて」で本格デビューし、アルバムもヒットした。次作は不発となったが、同年9月の「みずいろの雨」が有線やラジオで支持を得て人気が急上昇し、『ザ・ベストテン』出演を機に全国区でブレイク。明るいトークで司会陣に親しまれ、存在感を高めた。「みずいろの雨」はオリコン2位、60万枚を売り上げる大ヒットとなり、同年末にリスナーズグランプリ最優秀新人賞を受賞。透明感ある歌声と確かな実力でシンガーソングライターとしての地位を確立した。

葛城ユキ

1973年、朝霧マチ名義で第6回ヤマハポピュラーソングコンテストに出場し「小さな出発」で歌唱賞を受賞。翌年に葛城ゆきと改名し、第7回同大会で「木曾は山の中」を歌い最優秀賞を獲得、さらに世界歌謡祭でも川上賞を受賞し、’74年にメジャーデビューした。当初はニューミュージック系の作品を発表したが、’70年代後半に「ユキ」と改名。’80年にはボニー・タイラーの楽曲をカバーした「哀しみのオーシャン」がヒットし、アルバム『寡黙』を発表。’83年には「ボヘミアン」をカバーして大ヒットさせ、力強い歌声で代表曲となった。

中村あゆみ

1984年、高校3年で高橋研プロデュースの「MIDNIGHT KIDS」でデビュー。翌’85年に「翼の折れたエンジェル」が日清カップヌードルのCMに起用され大ヒットし、一躍注目を集めた。’85年夏にはREBECCAとのジョイントライブを行い、以後8月31日を「AYUMIDAY」として武道館などで恒例ライブを開催。代表曲には「ちょっとやそっとじゃCAN’T GET LOVE」「ともだち」、さらに鈴木みのるの入場曲「風になれ」がある。’87年以降は自作曲も手がけ、’94年の結婚、’99年の出産を機に活動を休止するが、2004年に再始動し現在も歌手として活動を続けている。

小林明子

東京大学教授の秘書や音楽出版会社勤務を経て、1984年に作家デビュー。翌’85年「恋におちて -Fall in love-」で歌手デビューし、ドラマ『金曜日の妻たちへIII』の主題歌として大ヒット、レコード大賞作曲奨励賞を受賞した。中森明菜らへの楽曲提供も行う。’88年にはリチャード・カーペンターのプロデュースでアルバム『City of Angels』を発表。’92年に渡英し、holi名義で活動を始め、’94年に元ジャパンのメンバーらとアルバムを制作、’95年にはパッセンジャーズ作品に参加した。2001年に結婚し、同年アルバム『Beloved』を発表。以降も交響楽団やハープとの共演など多彩な音楽活動を展開し、日英を拠点に活動を続けている。

渡辺美里

高校時代にミス・セブンティーンコンテストで歌唱部門を受賞し、1985年にEPIC・ソニーからデビューした。翌年、小室哲哉作曲の「My Revolution」が大ヒットし、一躍人気歌手となる。デビュー直後から西武ライオンズ球場など大規模スタジアムでの公演を成功させ、物怖じしないパフォーマンスで支持を得た。ラジオ番組のパーソナリティーも務め、アイドルとは異なるガールズポップの先駆的存在として活躍した。アルバムは9作がオリコン1位を獲得し、8年連続1位の記録を残している。小室哲哉や岡村靖幸、大江千里ら多くの作家陣と組み、エピックを代表するアーティストとして’80年代後半から’90年代前半の音楽シーンを牽引した。

浜田麻里

1983年、糸井重里のキャッチコピー「麻里ちゃんは、ヘビーメタル。」とともに、LOUDNESS樋口宗孝プロデュースのアルバム『Lunatic Doll〜暗殺警告』でデビューした。女性ロックヴォーカリストの旗手として注目を集め、当時のハードロックとしては異例のセールスを記録した。’85年に初シングル「Blue Revolution」を発表し、セルフプロデュースや全国ツアーも展開。’87年からはロサンゼルスで録音を行い、ポップスを取り入れた幅広い音楽性を示した。’88年にはソウル五輪中継テーマ「Heart and Soul」で初のオリコンTOP10入りを果たし、’89年「Return to Myself」が1位を獲得し代表曲となった。CMやドラマ出演はせず音楽活動に専念し、日本武道館公演を含む大規模ツアーも成功させた。

大貫妙子

東京出身。1973年、山下達郎らとシュガー・ベイブを結成し活動を開始した。グループ解散後の’76年、アルバム『グレイ・スカイズ』でソロデビューを果たす。以降、日本クラウン、RVC、ミディ、東芝EMIと移籍しながら作品を発表し、独自の都会的で洗練されたポップスを築いた。’98年には映画『東京日和』で第21回日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞し、映画音楽にも活動の場を広げた。2006年には任天堂ゲーム『MOTHER3』の楽曲を収録したCDで歌唱を担当し、同年公開の『劇場版 どうぶつの森』では主題歌「森へ行こう」を歌った。2008年には稲垣潤一と「サイレント・イヴ」をデュエット、2009年には大瀧詠一トリビュートで「君は天然色」をカバーするなど、幅広い活動を続けている。

中原めいこ

幼少期から歌手を志し、中学で作曲を始めた。17歳で郷ひろみのバックコーラスを務めるなど活動経験を積み、’82年に「今夜だけDANCE・DANCE・DANCE」でデビュー。’84年にカネボウのキャンペーンソング「君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。」がヒットし人気を確立するが、多忙により心身を消耗し’88年に活動を休止、’90年に拠点をニューヨークへ移した。’92年の日清パワーステーションでのライブを最後に歌手活動を停止し、その後は楽曲提供に携わるにとどまった。活動休止後はオリジナルアルバムが廃盤となったが、2010年代以降のシティ・ポップ再評価の流れで再発が進み、2022年には全10作品が復刻され再び注目を集めている。

飯島真理

国立音楽大学在学中にデモテープが認められ、歌手デビュー前にアニメ『超時空要塞マクロス』でリン・ミンメイ役を演じて注目を集めた。1983年、坂本龍一プロデュースによるアルバム『Rosé』でデビューし、翌年には劇場版主題歌「愛・おぼえていますか」が大ヒットを記録。以降はアニメ色を離れ、「1グラムの幸福」などを発表し、ライブ活動で「学園祭の女王」と呼ばれるほどの人気を得た。’85年のアルバム『midori』はオリコン2位となり、音楽活動に専念するため大学を中退した。’87年には山下達郎の勧めでMOON RECORDSに移籍し、セルフプロデュースによる『Coquettish Blue』を発表し、TOP10入りを果たした。

小比類巻かほる

幼少期から作曲や作詞に親しみ、10代でセミプロのバンド活動を行っていた。高校生時代、EPIC・ソニーにスカウトされ、1985年10月にシングル「Never Say Good-Bye」でデビュー。翌月にはファースト・アルバム『CALL MY NAME』をリリースするも、当初は大きな成功を得られなかった。売れるために企画会議や宣伝に積極的に関わり、渋谷パルコの壁画広告など新しいプロモーション手法を実践し注目を集めた。また、事務所勤務の傍ら夜間に楽曲制作に励むなど、アーティスト兼クリエイターとしての姿勢を早くから確立した。

岡村孝子

1981年、椙山女学園大学在学中に加藤晴子とデュオ「あみん」を結成。’82年、ポプコンで「待つわ」によりグランプリを受賞しデビュー。同曲は年間オリコン1位を記録した。’83年にあみん活動を休止後、上京してソロ活動を開始。’85年、ファンハウスよりソロデビュー。’86年に来生たかおのカバー「はぐれそうな天使」がCM起用され人気が高まり、’87年発表の「夢をあきらめないで」は応援歌として幅広い層から支持され代表作となった。楽曲は中学校の教科書にも採用されている。’90年代初頭にはOL世代の共感を集め「OLの教祖」と称され、ソロ活動を中心に歌詞や楽曲制作を続ける一方、2007年にはあみんとしても活動を再開した。

辛島美登里

奈良女子大学在学中の1983年、自作曲「雨の日」でポプコン関西四国地区代表としてグランプリを獲得し、同曲がビクターからシングル発売されデビュー。卒業後は上京しヤマハ音楽院で学びながら、’87年、シングル「Midnight Shout」で正式デビューした。’89年、シングル「時間旅行」を発売し歌手活動が本格化。’90年には「笑顔を探して」がアニメ『YAWARA!』主題歌、「サイレント・イヴ」がドラマ『クリスマス・イブ』主題歌となり、「サイレント・イヴ」はオリコン1位を獲得、日本ゴールドディスク大賞ベスト5シングル賞も受賞した。以降、ヒット曲のリリースに加え、NHK-FMやTBSラジオでDJも務め、作詞・作曲活動と歌手活動を両立させている。

椎名恵

1981年、「及川ちさ」名義でポプコンに出場し川上賞を受賞したことをきっかけに上京し本格的に音楽活動を開始。’83年には「ピーマンキッス」がフジテレビ『ひらけ!ポンキッキ』で放映された。’86年1月、シングル「今夜はANGEL」で歌手・椎名恵としてデビューし、『夜のヒットスタジオDELUXE』や『ザ・ベストテン』に出演。以降、ドラマ主題歌やCMタイアップ曲がヒットし実力派シンガーとして認知される。’88年には「お誕生日おめでとう」がNHK『みんなのうた』で放映。。2000年にはボーカルユニット“Voice of DREAM 2000”に参加しドラマ主題歌を担当。同年シングル「初恋と青空 toy box 〜classical〜」をリリースし、富良野チャペルコンサートにも出演。現在も活動を継続している。

谷村有美

幼少よりピアノやクラシックバレエに親しみ、小学校4年でビートルズのコピーバンドに参加、13歳で単身渡米。慶應義塾大学在学中の1986年、CBS・ソニー主催オーディション「ティーンズ・ポップ・コンテスト」で優勝し、’87年11月にシングル「Not For Sale」とアルバム『Believe In』でデビュー。歌手活動と並行してラジオDJやテレビ司会、エッセイ執筆、陶芸・書道など多方面で活躍した。’98年末から約2年間活動を休止し渡米してボイストレーニングに励むが、カラオケで歌う中で歌への情熱を再確認し2000年10月に活動を再開。以降もチャリティー活動やライブ出演など幅広く取り組んでいる。

山下久美子

1980年、博多のクラブで歌っていたところをスカウトされ、シングル「バスルームから愛をこめて」と同名アルバムで日本コロムビアからデビュー。’82年にシングル「赤道小町ドキッ」がヒットし注目を集めた。’85年に布袋寅泰と結婚、ジョイントコンサートに出演するなど活動を続けるが、’88年にライヴ『stop stop rock’n’roll』を最後に一時休止。’91年に活動を再開し、東芝EMIに移籍してシングル「Tonight (星の降る夜に)」とアルバム『JOY FOR U』を発表。’92年よりテレビドラマ出演など女優業にも挑戦。’97年に布袋と離婚、その後もCMやライブ出演、楽曲提供・コラボレーションアルバム『&Friends』シリーズなど多方面で活動を続けている。

EPO

1980年3月、シュガー・ベイブのカバーシングル『DOWN TOWN』でデビュー。同曲はフジテレビ『オレたちひょうきん族』のエンディングテーマに採用され、知名度を急上昇させた縁で「タケちゃんマンの歌」なども手掛けた。デビュー当初はグラビア出演も経験し、アイドル的要素も持ちながら活動した。’83年には資生堂CMソング「う、ふ、ふ、ふ、」が大ヒットし、代表曲となる。’84年からは他アーティストへの楽曲提供も始め、高見知佳の「くちびるヌード」や香坂みゆきの「ニュアンスしましょ」が資生堂CMに使用されるなど、歌手活動と作曲活動の両面で活躍した。

美空ひばり


1937年5月29日に神奈川県横浜市で生まれ、9歳でレコードデビューを果たす。’49年、11歳の時にコロムビアから「河童ブギウギ」でレコードデビューし、その後「悲しき口笛」などのヒット曲で一躍スターとなった。映画にも多数出演し、「東京キッド」「リンゴ追分」「港町十三番地」などの名曲を生み出した。’50年代から’60年代にかけては映画、舞台、テレビなど多方面で活躍し、歌謡界の女王としての地位を確立した。彼女の歌唱力と表現力は、当時の音楽シーンに大きな影響を与えた。’89年6月24日に52歳で逝去したが、彼女の音楽と映画は今もなお多くの人々に愛され続けている。没後には国民栄誉賞を受賞し、その功績が讃えられた。彼女のディスコグラフィーや詳細な情報は、日本コロムビアの公式サイトで確認できる。

小林幸子


1964年にシングル「ウソツキ鴎」でデビューし、20万枚を売り上げるヒットとなる。’79年に「おもいで酒」が大ヒットし、紅白歌合戦にも初出場を果たした。以降、紅白には2011年までに33回出場し、’88年と2004年には大トリを務めるなど長年にわたり活躍。’80年代から’90年代にかけては「雪椿」や「越後情話」などのヒット曲に恵まれ、演歌界のトップ歌手としての地位を確立。また、豪華な衣装での紅白出演や派手な演出で注目を集め、視覚的にも話題となった。2000年代以降も演歌からポップス、アニメソングまで幅広いジャンルで活動を展開している。

テレサ・テン


1953年1月台湾の雲林県で生まれた。10歳の時に台湾の素人のど自慢で優勝し、その後も各地のコンテストで優勝を重ねて注目を集め、14歳で歌手デビュー。レギュラー番組を持つなど台湾のエンターテインメント業界からアジア全域に活動の場を広げ”アジアの歌姫”と呼ばれる。日本では’74年、21歳の時に「今夜かしら明日かしら」でデビューし、2作目の「空港」で人気が高まり、翌年の「時の流れに身をまかせ」が大ヒット。これらの楽曲は彼女の代表作となり、日本の音楽シーンでも高く評価された。その後「つぐない」などもヒットし、彼女の音楽は広く親しまれた。’95年5月、急性喘息により香港で逝去するも、今も尚その存在は多くの人々に愛され続ける。

八代亜紀


中学卒業後に熊本でバスガイドとして就職するが、人前で話すのが苦手で3か月で退職。その後キャバレー歌手を経て上京し、銀座のクラブで歌っていた際に五木ひろしの紹介で芸能プロと出会い、1971年「愛は死んでも」でデビュー。日本テレビ『全日本歌謡選手権』で10週連続勝ち抜きグランドチャンピオンとなり注目を集め、’73年「なみだ恋」が120万枚の大ヒット。トラック野郎のアイドルとしても人気を博す。以降も「おんな港町」「愛の終着駅」などを発表し人気を確立。’79年「舟唄」、’80年「雨の慕情」が特に評価され、後者で日本レコード大賞を受賞、紅白歌合戦では2年連続大トリを務め「演歌の女王」と称された。晩年はジャズ、ブルースなども歌うようになりファン層を広げた。2023年12月、指定難病を患い73歳で逝去した。

石川さゆり


1972年、中学3年の夏休みに「ちびっ子歌謡大会」で合格しホリプロにスカウトされ芸能界入り、同年ドラマ『光る海』で女優デビューする。’73年に、桜田淳子と同じ白いエンジェルハットをトレードマークに「かくれんぼ」で歌手デビューするが、森昌子・山口百恵・桜田淳子ら同世代の人気に押され苦戦した。その後、二葉百合子に師事し基礎から学び直し、民謡や日舞にも取り組んで歌の表現力を磨いた。’77年「津軽海峡・冬景色」が大ヒットし数々の音楽賞を受賞、NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。続く「能登半島」「沈丁花」なども成功し、’80年代には「波止場しぐれ」「天城越え」「夫婦善哉」「風の盆恋歌」などの代表曲を発表、日本を代表する演歌歌手の地位を確立した。

瀬川瑛子


股旅歌謡やマドロス歌謡で人気を博した歌手・瀬川伸の娘として育ち、5歳から父の指導で歌を学び、父のステージの前座を経て1967年「涙の影法師」でデビューした。当初は「瀬川映子」を名乗り、地道に活動を重ねる。’70年「長崎の夜はむらさき」が50万枚のヒットとなるが、その後は低迷期を迎える。’83年には作曲家・船村徹の計らいで「矢切の渡し」を競作で歌い30万枚を売り上げ、再び注目を集めた。’86年「命くれない」が大ヒットし、翌年のオリコン年間1位・累計170万枚の大記録を達成、「一途に添い遂げる女」を歌う代表曲となった。その後も演歌歌手として活動を続け、日本歌謡界に確かな足跡を残した。

小柳ルミ子


宝塚音楽学校を首席で卒業後、1971年「わたしの城下町」でデビュー。160万枚を売り上げ同年のオリコン年間1位となり、日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞した。翌年の「瀬戸の花嫁」も大ヒットし、日本歌謡大賞を獲得。その後も「京のにわか雨」などヒットを重ね、天地真理、南沙織と並ぶ「新三人娘」として人気を博した。’70年代半ば以降「星の砂」「お久しぶりね」など多彩な楽曲で新境地を拓き、実力派歌手として評価を確立。’71年から’88年まで18年連続で紅白に出場した。女優としても『誘拐報道』『白蛇抄』で日本アカデミー賞を受賞するなど高い評価を得、志村けんとのコントなど
での活躍でも広く親しまれた。

森昌子


1971年『スター誕生!』に13歳で出場し、初代グランドチャンピオンとなる。父の反対を説得しホリプロに所属し、’72年「せんせい」でデビュー。当時のヘアスタイルはタワシ頭と呼ばれるショートカットで、いじられながらもお茶の間に愛される存在となる。その後デビューした桜田淳子、山口百恵とともに「花の中三トリオ」と呼ばれ、’73年には女性最年少15歳で紅白に出場。映画やバラエティでも活躍。’77年以降は「なみだの桟橋」から演歌路線へ転じ、歌唱力を高める。’83年「越冬つばめ」で日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。歌手活動に加え、ドラマ出演など女優としても活動の幅を広げた。

川中美幸


17歳の時、「春日はるみ」として歌手デビュー。歌のうまさが評判となったもののアイドル全盛期だった当時大きく注目はされず、2年間の活動のみで地元の大阪に戻る。その後、大阪で開催された『ネオン街音楽祭』に出場しグランプリを獲得し再デビューを決意。芸名を「川中美幸」に改め、21歳でシングル「あなたに命がけ」を発表するもヒットに至らず。1980年、24歳で発表した夫婦愛をテーマとするシングル「ふたり酒」がようやく実を結び、ミリオンセラーの大ヒットとなる。下町人情を歌わせたら右に出る者なしと評される。

松村和子

北海道遠別町に生まれ、苫小牧で育つ。高校時代に母から歌を学び、野口五郎に憧れて歌手を志した。1980年4月、「帰ってこいよ」でビクターからデビュー。津軽三味線をギターのように奏でる独自のスタイルと力強い高音による楽曲で”帰ってきた男衆演歌”として注目を集め、同曲は大ヒットし日本レコード大賞新人賞を受賞した。翌’81年には紅白歌合戦に初出場。民謡の要素を活かした演歌で独自の地位を築いた。

日野美歌

幼少期から歌手を志し、小学6年頃から本格的に歌唱を学び始めた。中学時代に『スター誕生!』へ応募するも不合格となるが、歌手への夢を諦めず、湘南女子高等学校卒業後にプロの道を歩む。1982年4月、「私のあなた」でテイチクからデビュー。同年12月、佳山明生との競作「氷雨」が大ヒットし、一躍注目を集める。翌1983年には紅白歌合戦に初出場。1986年には葵司朗とのデュエット「男と女のラブゲーム」が武田薬品工業のCMソングとして話題となりヒット。大人の情感を表現する歌声で、演歌とムード歌謡を融合させた独自のスタイルを確立した。

坂本冬美

1986年『勝ち抜き歌謡天国』で名人となり、「関西演歌大賞カラオケコンクール」でも優勝。番組出演を機に猪俣公章に見出され上京し、約2年間内弟子として修業を積む。’87年「あばれ太鼓」でデビューし、80万枚超を売り上げ、新人賞を総なめにして一躍人気歌手となった。翌年「祝い酒」がヒットし紅白初出場を果たす。以後「男の情話」「火の国の女」など男歌で人気を確立。’94年には三木たかし作曲の「夜桜お七」が大ヒット。紅白で通算8回歌唱し、’96年には初の紅組トリを務めた。

桂銀淑

1977年、高校生で韓国のモデルとしてデビューし、CM出演などで人気を得た。’79年に「歌って踊って」で歌手デビューし、翌年「待っている女心」でMBC新人賞を受賞、アイドル歌手として活躍した。’84年、作曲家・浜圭介に見出され来日し、翌’85年「大阪暮色」で日本デビュー。「すずめの涙」「夢おんな」「酔いどれて」などヒットを連発し、’88年「夢おんな」で日本有線大賞グランプリを受賞。同年から紅白に7年連続出場した。’90年にはアルバム『真夜中のシャワー』で日本レコード大賞アルバム大賞を受賞し、シングル中心の演歌界においてアルバムでも成功を収めた。

松原のぶえ


大分県耶馬溪町出身。幼少期から歌うことを好み、中学生で福岡のタレント養成所に通った。中学3年時に北島音楽事務所にスカウトされ、高校生で上京して歌手を志す。1979年、「おんなの出船」でデビューし、第21回日本レコード大賞新人賞をはじめ数々の新人賞を受賞。情感豊かな表現力で注目を集めた。’89年には女性演歌歌手に贈られるレコード大賞・美空ひばり賞の第1回受賞者となり、演歌界で確固たる地位を築いた。2002年に北島音楽事務所を離れ、自身の事務所「のぶえオフィス」を設立し、以後もステージ活動やテレビ出演など幅広く活躍を続けている。

香西かおり

幼少期から民謡で数々の賞を受賞し、「香西香」名義で民謡のレコードを発表していた。1975年に産経民謡大賞少年少女の部で入賞、翌年に準優勝。’82年に太陽神戸銀行へ入行するが、歌への情熱を捨てきれず退職し上京。’88年、「雨酒場」で演歌歌手としてデビューし、第30回日本レコード大賞新人賞を受賞。同曲はロングヒットとなり注目を集めた。’93年には「無言坂」で日本レコード大賞を受賞し、代表曲となる。以後も「浮寝草」などで高く評価され、演歌のみならずポップスや民謡など幅広いジャンルを歌いこなす実力派歌手として活躍を続けている。

城之内早苗

幼少期から民謡と三味線を学び、中学時代に『全日本演歌選手権』への応募をきっかけにスカウトされた。1985年、フジテレビ『夕やけニャンニャン』のオーディションで合格し、おニャン子クラブの会員番号17番としてデビュー後、’86年6月「あじさい橋」でソロデビューを果たし、演歌としては異例のオリコン初登場1位を記録した。グループ解散後は『走れ!歌謡曲』のパーソナリティや『ものまね王座決定戦』への出演など多方面で活躍。女優としても『江戸を斬る(第8部)』に出演し、’90年代以降はラジオ番組の司会やCM出演など活動の幅を広げた。

伍代夏子

1982年、「星ひろみ」としてデビューするも、事務所の倒産などで一時引退。’85年に「加川有希」名義で平松政次とのデュエット「夜明けまでヨコハマ」で再デビュー。’86年には本名の中川輝美名義で演歌を歌い始め、’87年に「伍代夏子」として再々デビューする。芸名は五木ひろしと八代亜紀にちなむ。「戻り川」が35万枚を超えるヒットとなり、’88年には東西有線の最優秀新人賞をダブル受賞する快挙を達成。’90年「忍ぶ雨」で紅白初出場を果たし、美貌と確かな歌唱力で“美人演歌歌手”としての人気を確立した。夫は役者の杉良太郎。

藤あや子

秋田県出身。小学4年から民謡を習い、高校卒業後も仕事を続けながら民謡歌手として活動した。19歳で秋田県主催の「ミス花嫁コンテスト」で優勝。1985年にNHK『勝ち抜き歌謡天国』で優勝し、’87年に「村勢真奈美」名義で「ふたり川」でデビュー。’89年に「藤あや子」と改名し「おんな」で再デビューした。’92年、「こころ酒」が大ヒットし、第25回日本有線大賞を受賞、紅白歌合戦にも初出場。以後ヒットを連ね、美貌と艶のある歌唱で人気を確立した。2010年には突発性難聴で休養するが、同年10月に復帰。秋田県の「食彩あきた応援大使」にも任命されている。

女性歌手・アイドル > 1970年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

天地真理

1971年、TBSドラマ『時間ですよ』でデビュー。ドラマ内で歌う「水色の恋」でレコードデビュー。愛らしいルックスと歌声でデビュー後は「ちいさな恋」「ひとりじゃないの」「虹をわたって」「恋する夏の日」など大ヒット曲を連発。同期デビューの南沙織、小柳ルミ子と”新三人娘”と呼ばれるも天地の人気は飛ぶ鳥を落とす勢いで、’70年代初期、日本中に熱狂的な天地真理ブームを巻き起こした。

南沙織
南沙織

1971年「17才」でデビュー。”シンシア”の愛称でたちまちトップアイドルとなる。同年、日本レコード大賞で新人賞を受賞。「潮風のメロディ」「純潔」「傷つく世代」ほかヒット曲を連発し、同期の天地真理、小柳ルミ子とともに”新三人娘”として活躍した。’78年、当時在学していた上智大学での学業に専念するため引退。その後、写真家の篠山紀信と結婚。一時的に歌手活動を再開した時期もある。

アグネス・チャン
アグネス・チャン

1972年「ひなげしの花」で日本デビュー。それ以前も母国の香港で歌手として活動していた。’73年に発売した3枚目のシングル「草原の輝き」が大ヒットし、日本レコード大賞新人賞を受賞。その後も「小さな恋の物語」「ポケットいっぱいの秘密」「愛の迷い子」ほか多数のヒット曲を放つ。’76年に芸能活動を休止しトロント大学に留学。卒業と同時に芸能活動を再開した。

麻丘めぐみ

1972年、デビュー曲の「芽生え」が40万枚を超えるヒット。同年の日本レコード大賞・最優秀新人賞を受賞した。’73年「わたしの彼は左きき」が爆発的なヒットを記録し、日本レコード大賞・大衆賞、日本歌謡大賞・放送音楽賞。麻丘めぐみの代表曲となる。トレードマークの髪型”お姫様カット”は当時若い女性たちの間で流行した。元祖・清純派アイドルともいえる存在。

浅田美代子
浅田美代子

1973年、TBSドラマ『時間ですよ』のお手伝いさん役でデビュー。ドラマ内で歌う「赤い風船」で歌手デビューし50万枚を売り上げ、同年の日本レコード大賞で新人賞を受賞。以降も『寺内貫太郎一家』『時間ですよ・昭和元年』などのドラマ出演とともに歌手活動でもコンスタントにヒット曲を出し、”ミヨちゃん”の愛称でお茶の間に親しまれる存在となる。

桜田淳子

人気オーディション番組『スター誕生!』で番組史上最多となる25社のスカウトを受け、1973年、14歳で「天使も夢見る」でデビュー。山口百恵、森昌子とともに”花の中3トリオ”としてブレイクし、「わたしの青い鳥」「はじめての出来事」ほかヒット曲多数。天性の勘の良さと恵まれた容姿で映画・ドラマでも活躍するも、’90年代に入ってしばらく経った頃、個人的な事情で芸能活動を停止した。

山口百恵

『スター誕生!』で多数の指名を受け、1973年、映画『としごろ』の出演と同名のシングルで”人にめざめる14歳”をキャッチフレーズに芸能界デビュー。桜田淳子、森昌子とともに”花の中3トリオ”として人気アイドルとなる。5枚目のシングル「ひと夏の経験」以降オリコン上位の常連となり、宇崎竜童・阿木燿子による「横須賀ストーリー」で本格的な山口百恵の時代が到来、絶大な人気でトップアイドルとして不動の地位を確立する。’80年、映画『伊豆の踊子』やドラマ”赤いシリーズ”で共演した三浦友和との結婚により引退するも、昭和の伝説のスターとして今なお多くのファンに愛され続けている。

岩崎宏美

1974年『スター誕生!』で優勝、’75年「二重唱 (デュエット)」でデビュー。2枚目のシングル「ロマンス」が約90万枚のヒットとなり数々の新人賞を受賞。天まで届きそうな伸びやかで圧倒的な歌唱力で、その後も「思秋期」「シンデレラ・ハネムーン」「万華鏡」「すみれ色の涙」などで多くの賞を受賞した。’82年、『火曜サスペンス劇場』の主題歌「聖母たちのララバイ」が80万枚のヒットとなり、同年の日本歌謡大賞を受賞。2025年現在も歌手活動を続けている。

岡田奈々

1975年「ひとりごと」で歌手デビュー。ポッキーの初代CMガールやエメロンシャンプーのCMに起用され、たちまちお茶の間の人気者となる。同年10月に放送開始した日本テレビ『俺たちの旅』では田中健の妹役で出演し、’76年、劇中歌の「青春の坂道」がヒットした。『俺たちの旅』の後、引き続き同局『俺たちの朝』に出演していた際、自宅に不審者が押し入り負傷。しかし事件の2日後には仕事に復帰し、華奢な外見の内側に宿る根性を見せつけた。

安倍理津子

北海道札幌市出身。高校卒業後、地元の音楽喫茶で歌っていたところを平尾昌晃に見出され、1970年8月、「愛のきずな」でキングレコードからデビュー。同曲がヒットし、第12回日本レコード大賞新人賞を受賞。「愛のおもいで」「お嫁に行くなら」などを続けて発表した。’83年には橋幸夫とのデュエット曲「今夜は離さない」が大ヒットし、「デュエットの女王」と呼ばれるようになる。現在もディナーショーなどで歌手活動を続けており、2020年にはデビュー50周年を機に芸名を安倍里葎子から安倍理津子へ改めた。

林寛子

東京都出身で児童劇団「日本児童」に所属し、1964年から子役として活動を始める。7歳でNHK連続テレビ小説『旅路』に出演し注目を集め、その後も映画やドラマで子役として活躍。’73年、フジテレビの『君こそスターだ!』で初代グランドチャンピオンとなり、翌’74年「ほほえみ」で歌手デビュー。キャッチフレーズは“そよ風みたいな女の子”。翌年の「素敵なラブリーボーイ」がヒットし、アイドルとして人気を確立する。以後、女優業でも活躍し、映画『恋の空中ブランコ』(’76年)やドラマ『がんばれ!レッドビッキーズ』(’78年)で主演。明るく健康的なイメージで多数のCMにも出演した。

川島なお美

高校時代にスクールメイツで歌とダンスを学び、平尾昌晃音楽教室でレッスンを受ける。1979年「シャンペンNo.5」で歌手デビューし、笑福亭鶴光のオールナイトニッポンでアシスタントを務めた。’81年、文化放送『ミスDJリクエストパレード』の火曜担当に抜擢され、“女子大生DJ”として人気を集め、女子大生ブームの象徴となる。’93年には写真集『WOMAN』で大胆なヘアヌードを披露し、妖艶な女優へと転身。’97年、ドラマ『失楽園』で主演し社会現象を巻き起こす。以後も舞台やテレビで活躍を続けたが、2015年、胆管がんのため死去。

木之内みどり

1974年「めざめ」で歌手デビュー。ヒット曲には自身が出演したドラマ『刑事犬カール』の主題歌「走れ風のように」や「横浜いれぶん」がある。歌手活動ではそれど目立たなかったものの、グラビアアイドルとしての人気は高くブロマイドは飛ぶように売れ、当時篠山紀信の撮影で知られた雑誌『GORO』の表紙を6回も飾った。’90年、俳優の竹中直人と結婚(再婚)している。

伊藤咲子

日本テレビ『スター誕生!』で優勝し、1974年「ひまわり娘」でデビュー。天真爛漫な笑顔と歌声でアイドルの仲間入りを果たす。’75年「乙女のワルツ」で日本テレビ音楽祭金の鳩賞や日本歌謡大賞放送音楽賞を受賞。’76年「きみ可愛いね」がオリコン週間9位にランクイン。同じく『スター誕生!』出身の城みちるとの交際も隠すことなく公表し、ファンに支持された。

榊原郁恵

1976年、高校2年で『第1回ホリプロタレントスカウトキャラバン』に参加し優勝。翌’77年「私の先生」で歌手デビュー。デビュー後は江崎グリコや雪印食品のCM、『ナッキーはつむじ風』などのドラマでも活躍。’78年、7枚目のシングル「夏のお嬢さん」が自身最大のヒット曲となる。’87年、俳優の渡辺徹(2022年永眠)と結婚。明るく好感度の高いキャラクターで、現在も多方面で活躍を続ける。

高田みづえ

1976年、フジテレビ『君こそスターだ!』第18代グランドチャンピオン。’77年、16歳でシングル「硝子坂」で歌手デビュー。4作目までオリコンTOP10に入るヒット曲を連発し、数々の新人賞に輝いた。’80年、サザンオールスターズの「私はピアノ」をカバーしたシングルが約50万枚のヒットとなり注目される。’85年、大相撲の人気力士・若嶋津六夫との婚約発表とともに芸能界引退を表明した。

石野真子

『スター誕生!』出身、1978年「狼なんか怖くない」で歌手デビュー。タレ気味の目元と八重歯の可愛らしい容姿で”百万ドルの微笑”がキャッチフレーズだった。「失恋記念日」「春ラ!ラ!ラ!」ほかスマッシュヒットを重ねるも、’81年、歌手の長渕剛と結婚し芸能界を一時的に引退。’83年離婚により芸能界に復帰した。

原田知世

1982年、14歳で”角川映画大型新人募集”に応募して芸能界入り。’83年、映画デビュー作となった『時をかける少女』で日本アカデミー賞をはじめ数々の新人賞を受賞。同タイトルのシングルはオリコン最高位2位のヒットとなった。歌手として大ヒットした「天国にいちばん近い島」、映画ではスキーブームの発端となった『私をスキーに連れてって』の代表作のほか、多数のCMなど多方面で大活躍した。

風吹ジュン
風吹ジュン

1973年、初代ユニチカマスコットガール。、’74年、21歳の時「愛がはじまる時」で歌手デビュー。魅力的なルックスで人気となるもデビュー前のホステス業経験などがスキャンダルとなり人気が凋落。その後はこの件をバネにするように映画『蘇える金狼』で女優開眼を果たし、高い評価を得るとともに数々の作品で活躍する息の長い女優となった。現在もドラマ、映画、CM出演で活躍。

浅野ゆう子
浅野ゆう子

1974年5月、13歳で歌手デビュー。中学生でありながら大人びた外見でドラマ『太陽にほえろ!』の捜査第一係の内勤職役に抜擢され、以降、様々なドラマに出演する。’88年、フジテレビのトレンディドラマ『抱きしめたい!』で浅野温子とともに主演。”W浅野”として話題を集め、憧れのファッションリーダーとして女性たちから絶大な人気を獲得。バブル時代にもっとも輝いた女優のひとり。

片平なぎさ

1974年『スター誕生!』で合格し翌年「純愛」で歌手デビュー。歌手活動とともに映画にも進出し、デビューから3年後には女優業に転向。’80年代から火曜サスペンス劇場、土曜ワイド劇場など2時間枠のドラマで親しまれるように。『赤い霊柩車シリーズ』などで主役を演じ、”2時間ドラマの女王”として安定の人気を獲得する。

相本久美子

1974年「小さな抵抗」で歌手デビュー。デビュー当時の芸名は近藤久美子だったが、’76年に本名の相本久美子に改名した。活動範囲は歌手のほか司会業やドラマ、バラエティ番組の出演など広範囲に亘り、マルチタレントの先駆け的存在とされる。’70年代は5年間、土居まさるとともに日本テレビ『TVジョッキー』の司会を務めたが、スタイルの良さに注目が集まり、雑誌の表紙やグラビアを飾る機会も多かった。

大場久美子

『劇団フジ』で子役として活動した後、’76年、映画『遺書 白い少女』でスクリーンデビュー。翌’77年「あこがれ」で歌手デビュー。”一億人の妹”として人気を集める中、同年の東宝映画『HOUSE/ハウス』で準主役となり女優としての活動も開始。’78年、TBSのドラマ『コメットさん』で初代・九重 佑三子に続く2代目コメットさん役を務め人気が爆発しトップアイドルの仲間入りを果たす。歌手としての代表作は’79年の「スプリング・サンバ」。

松本ちえこ
松本ちえこ

1974年、「ボーイフレンド」で歌手デビュー。ヒットには至らず歌手としての活動は目立たなかったが、’76年に資生堂バスボンのCMに起用されたことで人気がブレイク。CMソングの”バスボンの歌”が流行した(シングル化はされず)。その後発売した3枚目のシングル「恋人試験」がヒットし、お茶の間に広く親しまれる存在となった。

太田裕美

ザ・タイガースのジュリーのファンだったことから渡辺プロダクションのスクールメイツに入り活動。その後TVのオーディション番組で優勝し、1974年11月、ピアノ弾き語りスタイルの「雨だれ」で歌手デビュー。20万枚のヒットとなり、翌年の日本レコード大賞/日本歌謡大賞などで新人賞を受賞した。4枚目のシングル「木綿のハンカチーフ」、5枚目の「赤いハイヒール」がオリコン最高2位を記録し、学園祭にもひっぱりだこの人気歌手となった。

アン・ルイス

アメリカ海軍軍人の父を持ち、本牧の米海軍の住居地域で育つ。1971年「白い週末」で歌手デビュー。’74年発売の「グッド・バイ・マイ・ラブ」のヒット後、キャンディーズや山口百恵のステージ衣装を手掛けるなどファッションデザインにも関心を示し、オリジナルブランドも立ち上げた。’80年に歌手の桑名正博(2012年永眠)と結婚。’80年代は「六本木心中」「あゝ無情」などパンクなファッションでロック色のあるヒット曲を連発し、カッコイイ女の代表格として人気を博した。

桑江知子

1979年、軽快なシティポップス「私のハートはストップモーション」でデビュー。同曲はポーラ化粧品・春のキャンペーンのCMソングに採用されオリコン12位のヒットとなり、同年の日本レコード大賞最優秀新人賞をはじめ数々の新人賞を受賞した。以降、’80年の三菱自動車エテルナのCMソング「永遠(エテルナ)の朝」など都会的なサウンドの数々をリリースし、従来の歌謡曲のイメージから脱却し、ニューミュージック指向の歌手として活動した。

荒井由実

1972年、自身の作詞・作曲による「返事はいらない」で歌手デビュー。’75年、TBSドラマの主題歌で6枚目のシングル「あの日にかえりたい」でオリコン1位を獲得し、ここから過去の楽曲にも注目が集まり荒井由実ブームが到来、ニューミュージック界を牽引するアーティストとして快進撃が始まる。’76年に音楽プロデューサーの松任谷正隆と結婚し松任谷由実へ。”呉田軽穂”の名で多くの歌手にも楽曲を提供し、発表される曲の殆どが名作として時代を超えて愛され、天才的アーティストとして現役活動を続ける。

中島みゆき

1975年、ヤマハ音楽振興会が主催する第9回ポピュラーソング・コンテストに「傷ついた翼」で入賞、同年「アザミ嬢のララバイ」でデビュー。続く第10回ポプコンには「時代」で参加しグランプリを受賞、同年ヤマハ世界歌謡祭でもグランプリを受賞した。’70年代~2000年代に亘り自身が歌う楽曲のみならず数多くのアーティストに作品を提供し、すべての年代でオリコンシングルチャート1位を獲得する唯一無二のヒットメーカーでもある。「わかれうた」「悪女」「糸」ほかヒット曲多数、2025年現在もトップアーティストとして活躍を続ける。

イルカ
イルカ

1970年、フォークソンググループ・シューリークスの一員としてデビュー後、’74年に「あの頃のぼくは」でソロデビュー。翌年、かぐや姫の楽曲をカバーした3枚目のシングル「なごり雪」がオリコン最高4位の大ヒット。以降も伊勢正三作詞・作曲による「海岸通」などのヒット曲を持つ。芸名の”イルカ”は女子美術大学時代に所属していたフォークソング同好会で、皆が持つギターケースを「イルカの群れみたい」と言ったことから周囲にそう呼ばれるようになり、つけたもの。

りりィ

1972年、20歳の時「たまねぎ」でシンガーソングライターとしてテビュー。同年、映画『夏の妹』にも出演し、歌とともに女優活動も開始。’74年のシングル「私は泣いています」が100万枚を超える大ヒットとなり一躍有名に。以降、自作の楽曲をかまやつひろし、桑名正博、沢田研二、都はるみなど多くのアーティストにアルバム曲などで提供し、作家としても活躍する。女優としてドラマ出演も多かった。2016年、64歳で永眠。

石川セリ

アメリカ人の父と日本人の母を持つ。1971年、藤田敏八監督の映画『八月の濡れた砂』の主題歌をB面に収録したシングル「小さな日曜日」でデビュー。’77年、井上陽水作詞・作曲による「ダンスはうまく踊れない 」をリリースし、翌年、井上陽水と結婚。結婚後は歌手活動を休止した時期もあったが、その後、資生堂、マックスファクター、ニッカウヰスキーのCMソングや夜のニュース番組のエンディングテーマなどで健在さを見せた。

しばたはつみ


歌手の松本伊代は親戚(はとこ)にあたる。1968年に”はつみかんな”名でデビューし、小川ローザと”OH! モーレツ”のキャッチフレーズで知られるコスモ石油のCMソングなど歌うもその後アメリカ留学し、’74年しばたはつみとして再デビュー。ジャズやソウル、ロックまで幅広く歌える実力派歌手として活躍し、’77年「マイ・ラグジュアリー・ナイト」のヒットで紅白出場歌手となった。2010年に永眠するまで、ジャズボーカリストとして世界中で精力的にライブ活動を行った。

山崎ハコ

高校在学中の1974年に「ジョイナス・フォーク・コンペティション」で優勝し’75年にエレックレコードからデビュー。弱い体質を抱えながらもフォークギター弾き語りで女の情念や怨念を土俗的なイメージで歌い上げ、低音の独特の歌唱と鋭い詞世界で熱狂的支持を獲得した。「中島みゆきのライバル」とも称され、’79〜’80年には『オールナイトニッポン』のDJを務め「深夜放送のマドンナ」として親しまれた。

森田童子

1975年にシングル『さよなら ぼくの ともだち』でデビューし、’83年までに7枚のアルバムと4枚のシングルを発表した孤高のシンガーソングライター。独特のウィスパーボイスと孤独や喪失をテーマにした世界観で強いカルト的支持を集めたが、’83年のアルバム『狼少年 wolf boy』と一連の公演を最後に完全に活動を停止し、公の場から姿を消した。’76年11月発売の「ぼくたちの失敗」は’93年のドラマ『高校教師』の主題歌となり再評価され、100万枚に迫る大ヒットを記録。作品群のCD再発売とともに当時を知らない世代にも広く支持を広げた。

石黒ケイ

高校時代に結成した「ビーバブ」で活動し、1974年の相鉄ジョイナス・フォーク・コンペティション決勝進出を契機にデビュー。筒美京平プロデュースの「恋人時間」でデビュー後、ジャズミュージシャンとの共演作『アドリブ』『アンダートーン』や横浜をテーマにした『YOKOHAMA RAGTIME』など多彩な作品を発表し、アルバムは計14枚に及ぶ。’89年に一度引退するが、2004年に未発表ライブ音源を発表し、翌2005年に活動を本格再開。現在も横浜を拠点にライブ活動を行っている。

小坂明子

1973年、ヤマハのポピュラーソングコンテストと世界歌謡祭の2につの大会において、ピアノの弾き語りで歌う自身制作の楽曲「あなた」でグランプリをダブル受賞、同年12月にプロデビューした。澄み渡る高音で歌うデビュー曲「あなた」は200万枚を超える大ヒットに。その後大きなヒットは生まれていないが、’82年、自身のダイエット法を説いた著書『あきらめないで―小坂明子のやせる本』がベストセラーとなり、この頃から作曲家としての活動も開始。アニメやゲーム、アイドルなどに多くの楽曲を提供している。

渡辺真知子

1975年、高校在学中にヤマハ主催『第9回ポピュラーソングコンテスト』に「オルゴールの恋唄」で出場し特別賞を受賞。’77年、洗足学園短期大学音楽科卒業後、同年11月にシングル「迷い道」でデビュー。’78年にはセカンドシングル「かもめが翔んだ日」が大ヒットし、第20回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞、音楽祭13賞も獲得。同年に「ブルー」、’79年に「たとえば…たとえば」「別れて そして」などヒットが続く。’80年の「唇よ、熱く君を語れ」はカネボウCM曲としてヒットし、軽快で力強い曲調が”女性の時代”を象徴する楽曲と評され、デビュー直後からシンガーソングライターとして順調にキャリアを築いた。

矢野顕子

幼少期を青森で過ごす。3歳から音楽を学び、クラシックからジャズに傾倒。中学時代から父とジャズ喫茶に通い、1971年に青山学院高等部進学のため上京したが、ジャズへの情熱から中退。安部譲二の自宅に居候し、青山のジャズクラブ「ロブロイ」でピアノ演奏を始める。スタジオミュージシャンとして活動しながら山下洋輔や坂田明らと共演、筒美京平にも認められ音楽人脈を広げた。’72年にはキャラメル・ママのセッションに参加、翌年バンド「ザリバ」でシングルを発表。’76年、アルバム『JAPANESE GIRL』でソロデビューし、日本語と洋楽を融合させた独自の音楽性で注目を集めた。

杏里

1978年、17歳でフォーライフ・レコードから「オリビアを聴きながら」でデビュー。歌唱力は高く評価されたが、初期はセールスが伸び悩み、曲調を変えながら定期的に作品を発表した。’82年、バックバンドの小林武史作曲の「思いきりアメリカン」が花王のCMで使用されヒットし、「夏」「海」のイメージが定着。’83年、角松敏生にプロデュースを委ねた5枚目アルバム『Bi・Ki・Ni』で洗練された音楽性を確立。8月にはアニメ『キャッツ♥アイ』主題歌「CAT’S EYE」を発売し初のオリコン1位を獲得、続く「悲しみがとまらない」とともにベスト10入りを果たす。同年12月には両曲を収録したアルバム『Timely!!』がオリコン1位となり、初出場の第34回NHK紅白歌合戦で不動の地位を確立した。

尾崎亜美

京都市出身。8歳でクラシックピアノを始め、16歳頃から作詞作曲を手がける。高校時代、近畿放送のオーディション番組で注目され、1976年「冥想」で東芝EMIからデビュー。芸名「亜美」はフランス語で「友人」を意味する“ami”に由来する。松任谷正隆プロデュースのアルバム『SHADY』で“ポスト・ユーミン”と評され、翌年「マイ・ピュア・レディ」が資生堂CMに起用されヒット。以後、南沙織「春の予感」、杏里「オリビアを聴きながら」、髙橋真梨子「あなたの空を翔びたい」など提供曲も次々とヒットした。1980年にキャニオンへ移籍後、ロサンゼルス録音のアルバムを発表し、洗練されたポップサウンドで評価を高める。1985年『10番目のミュー』で日本レコード大賞優秀アルバム賞受賞。以降も作曲家・プロデューサーとして多方面で活動を続けている。

八神純子

1974年の『ヤマハポピュラーソングコンテスト』で「雨の日のひとりごと」「幸せの時」の2曲同時入賞を果たし、同年にシングル「雨の日のひとりごと」でプレ・デビュー。’78年1月、20歳の誕生日に「思い出は美しすぎて」で本格デビューし、アルバムもヒットした。次作は不発となったが、同年9月の「みずいろの雨」が有線やラジオで支持を得て人気が急上昇し、『ザ・ベストテン』出演を機に全国区でブレイク。明るいトークで司会陣に親しまれ、存在感を高めた。「みずいろの雨」はオリコン2位、60万枚を売り上げる大ヒットとなり、同年末にリスナーズグランプリ最優秀新人賞を受賞。透明感ある歌声と確かな実力でシンガーソングライターとしての地位を確立した。

竹内まりや

1978年、23歳でシングル「戻っておいで・私の時間」とアルバム『BEGINNING』でデビュー。当時はアイドル的役割も担ったが、’79年の「SEPTEMBER」が長期チャートインし新人賞を受賞、サンレモ音楽祭にも出場した。’80年には「不思議なピーチパイ」がヒットし、自ら作詞作曲も手がけるようになるが、アイドル的活動に悩み、’81年には過酷なスケジュールで喉を痛め一時休業。’82年に山下達郎と結婚しメディア露出を減らす一方で作詞・作曲家として活動を開始。’84年、全曲自作のアルバム『VARIETY』をリリースしヒット、娘も誕生した。その後は家庭を優先しつつ、薬師丸ひろ子「元気を出して」、中山美穂「色・ホワイトブレンド」など多数のヒット曲を提供し、シンガーソングライターとして確固たる地位を築いた。

庄野真代

高校入学と同時に音楽活動を始め、各種オーディションに挑戦。ヤマハボーカルオーディション合格を経て合歓音楽院で研修を受ける。20歳のとき「フォーク音楽祭」に出場し、関西四国決勝大会でグランプリを獲得、全国大会でスカウトされる。1976年、アルバム『あとりえ』で日本コロムビアからデビュー。都会派ニューミュージックの女性シンガーとして注目される。’78年、「飛んでイスタンブール」が大ヒットし、第20回日本レコード大賞中山晋平賞を受賞、『紅白歌合戦』にも初出場した。同年「モンテカルロで乾杯」「マスカレード」などもヒット。’80年「Hey Lady 優しくなれるかい」を発表後、休業宣言し世界一周旅行へ。28か国を巡り帰国後に音楽・執筆・講演活動を再開した。

阿川泰子

鎌倉生まれ、名古屋育ち。椙山女学園高校卒業後に上京し、文学座付属演技研究所に入るが1年で退学。東宝映画『華麗なる一族』『青春の門』などに端役で出演したのち、女優業を離れる。銀座のクラブでジャズと出会い、1973年に鈴木章治の紹介でジャズ・ボーカリストとして活動開始、翌年「鈴木章治とリズム・エース」の専属シンガーとなる。六本木や赤坂で人気を集め、’78年アルバム『Yasuko “Love-Bird”』でレコードデビュー。トミー・フラナガンら世界的ミュージシャンと共演し、澄んだ声質は“シュガー・ボイス”と呼ばれ、CM出演などでジャズ界に新風を吹き込んだ。

大橋純子

1974年、アルバム『フィーリングナウ』でデビュー。’78年、TBSドラマ『獅子のごとく』の主題歌「たそがれマイ・ラブ」がヒットし、同年の日本レコード大賞・金賞を受賞。華奢な体からは想像もできないダイナミックな抜群の歌唱でその後も「サファリナイト」などヒットさせ、CMとのタイアップ曲も多かった。’81年発売の「シルエット・ロマンス」(サンリオ出版 CFソング)は翌年になってロングヒットとなり、’82年の日本レコード大賞・最優秀歌唱賞を受賞した。

谷山浩子

1972年、アルバムとシングルでレコードデビュー。’74年、ヤマハのポピュラーソングコンテストに自身の作詞・作曲による「お早ようございますの帽子屋さん」で入賞し、翌年この曲で再デビューする。デビュー後は多くの有名アイドルなどへの楽曲提供とともに著述活動も行い、童話集やエッセイ集、小説も刊行。作風は自身の音楽性とも共通するファンタジックな世界観が特徴で、作家としての才能を遺憾なく発揮している。

髙橋真梨子

中洲のナイトクラブに出演していた1972年、「ペドロ&カプリシャス」のペドロ梅村にスカウトされ前野曜子の後任として二代目ボーカルに参加。当時は芸名「高橋まり」。’73年に「ジョニィへの伝言」「五番街のマリーへ」がロングヒットとなる。’78年にペドロ&カプリシャスを脱退し、ソロ歌手「髙橋真梨子」として活動を開始。同年11月にシングル「あなたの空を翔びたい」でデビューし’79年から全国ツアーを開始。2019年まで41年間連続で開催し、2000人以上収容の大規模ホールで年間25公演以上を継続する唯一の女性ソロ歌手として昭和、平成、令和の3時代にわたりトップアーティストとして活動を続けている。

五輪真弓

芸術の発信地として知られた渋谷の小劇場のオーディションで歌唱したのをきっかけに1972年10月、CBS・ソニーからアルバム『少女』と同名シングルで歌手デビュー。オリコン最高6位を記録し「和製キャロル・キング」と称され、日本女性シンガーソングライターの草分けと評された。’76年にはフランスでアルバム制作に臨み、全フランス語アルバム『えとらんぜ』を発表、サルヴァトール・アダモのオランピア劇場公演にもゲスト出演する。’78年「さよならだけは言わないで」のヒットを機にテレビ出演が増加。’80年、B面予定の「恋人よ」がA面として発売され大ヒット、第22回日本レコード大賞金賞を受賞。以来コンサート活動を精力的に続け、日本のポップ・フォーク界で確固たる地位を築いた。

松原みき

高校3年時の1977年に歌手を志し上京、米軍キャンプなどで演奏を重ね、六本木「バードランド」での飛び入り演奏をきっかけに世良譲から高く評価される。’79年11月「真夜中のドア〜Stay With Me」でデビューし、多くの新人賞を受賞。以後、’91年までにシングル17枚、アルバム15枚を発表し、都会的な感性を持つシティポップの旗手として活躍した。’90年代に入り、結婚を機に歌手活動を休止し、作曲家としてCMやアニメ音楽を手がけるも、2001年にがんを告知され闘病の末、2004年に44歳で死去。その後「真夜中のドア〜Stay With Me」が海外で再評価され、2020年にはSpotify世界1位を記録し、没後も国際的に愛され続けている。

久保田早紀

短大在学中の1978年、CBSソニーに自作曲のカセットを送り、ディレクター金子文枝に才能を見出される。八王子から都内へ通学する中央線の車中で曲想を練り、のちに大ヒットする「異邦人」を着想。イラン音楽やポルトガルのファドなど異国的な響きに影響を受け、自身の音楽スタイルを形づくった。1979年、三洋電機のCMソングとして「異邦人―シルクロードのテーマ―」でデビュー。オリエンタルな旋律と透明感ある歌声が話題を呼び、『ザ・ベストテン』で1位を獲得、累計140万枚を超える大ヒットとなる。翌年にはアルバム『夢がたり』を発表し、ニューミュージックの新星として注目を集めた。デビュー期には一貫してピアノの弾き語りを貫き、独自の幻想的な世界観で聴衆を魅了した。

門あさ美 越美晴 石黒ケイ

美空ひばり


敗戦直後の1945年、母の私財で「青空楽団」を設立し、8歳で初舞台を踏む。’48年、横浜国際劇場で「美空ひばり」として舞台デビュー。’49年、映画『のど自慢狂時代』で初出演し「悲しき口笛」で一躍国民的スターとなる。以後「東京キッド」「リンゴ追分」などヒットを連発し、映画女優としても活躍。東映専属となり『べらんめえ芸者』など主演作を量産し、戦後映画界を支えた。歌手としても’60年「哀愁波止場」で日本レコード大賞歌唱賞、’65年「柔」で大賞受賞。以後も「悲しい酒」「真赤な太陽」など、江利チエミ、雪村いづみとともに”三人娘”として人気を博し、中でも圧倒的な歌唱力と存在感で国民的歌手としての地位を不動のものにした。’89年1月11日、最後のシングル『川の流れのように』が発売され、同年54歳で永眠するに亘るまで、歌謡界・演歌界の絶対的なトップスターであり続けた。

都はるみ


1964年に「困るのことヨ」でデビューし、同年「アンコ椿は恋の花」がミリオンセラーとなり、第6回日本レコード大賞新人賞を受賞。力強いこぶし回しで人気を確立した。’73年にサンミュージックに移籍後、’76年「北の宿から」で日本レコード大賞などを受賞し、’80年「大阪しぐれ」で最優秀歌唱賞を受賞、日本レコード大賞で新人賞・大賞・最優秀歌唱賞の三冠を達成。’84年に一時引退し、’87年に音楽プロデューサーとして活動再開し、’89年の紅白出演を契機に’90年に歌手活動復帰。2005年に芸術選奨文部科学大臣賞、2006年に京都府文化賞功労賞、2010年に紫綬褒章を受章し、長年にわたり歌謡界で活躍を続けている。

水前寺清子


15歳で「コロムビア歌謡コンクール」に出場し2位となり、星野哲郎の勧めでデビューの機会を得る。その後クラウンレコードに移籍し「涙を抱いた渡り鳥」で念願のデビューを果たす。’65年から’86年まで『NHK紅白歌合戦』に22回連続出場し、紅組司会やトリも務めた。’68年「三百六十五歩のマーチ」などのヒットとともに’70年にはTBSドラマ『ありがとう』に主演し高視聴率を記録するが、歌手活動優先のため第3シリーズで降板した。’94年には「C.C.レモン」のCMソングで話題となる。長年にわたり、現在も歌手として幅広く活動している。

藤圭子

1966年、中学3年生で北海道岩見沢市の温泉施設「きらく園」の専属歌手として活動を始め、’67年に上京。’69年9月「新宿の女」で歌手デビューした。’70年には「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」がオリコン連続首位を獲得し、アルバムも前人未踏の42週連続首位を記録。同年、第1回日本歌謡大賞大賞や日本レコード大賞大衆賞を受賞し、紅白歌合戦にも初出場した。’71年に前川清と結婚するも’72年に離婚。’79年に突如引退しアメリカに渡るが、’81年に藤圭似子として復帰、’82年に再婚し長女・光(宇多田ヒカル)を出産。’84年に藤圭子に芸名を戻し、その後は世界各国を旅しながら活動したが、2013年8月22日に62歳で逝去した。

小柳ルミ子

宝塚音楽学校を首席で卒業後、1971年「わたしの城下町」でデビュー。160万枚を売り上げ同年のオリコン年間1位となり、日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞した。翌年の「瀬戸の花嫁」も大ヒットし、日本歌謡大賞を獲得。その後も「京のにわか雨」などヒットを重ね、天地真理、南沙織と並ぶ「新三人娘」として人気を博した。’70年代半ば以降「星の砂」「お久しぶりね」など多彩な楽曲で新境地を拓き、実力派歌手として評価を確立。’71年から’88年まで18年連続で紅白に出場した。女優としても『誘拐報道』『白蛇抄』で日本アカデミー賞を受賞するなど高い評価を得、志村けんとのコントなどでの活躍でも広く親しまれた。

石川さゆり

1972年、中学3年の夏休みに「ちびっ子歌謡大会」で合格しホリプロにスカウトされ芸能界入り、同年ドラマ『光る海』で女優デビューする。’73年に、桜田淳子と同じ白いエンジェルハットをトレードマークに「かくれんぼ」で歌手デビューするが、森昌子・山口百恵・桜田淳子ら同世代の人気に押され苦戦した。その後、二葉百合子に師事し基礎から学び直し、民謡や日舞にも取り組んで歌の表現力を磨いた。’77年「津軽海峡・冬景色」が大ヒットし数々の音楽賞を受賞、NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。続く「能登半島」「沈丁花」なども成功し、’80年代には「波止場しぐれ」「天城越え」「夫婦善哉」「風の盆恋歌」などの代表曲を発表、日本を代表する演歌歌手の地位を確立した。

森昌子

1971年『スター誕生!』に13歳で出場し、初代グランドチャンピオンとなる。父の反対を説得しホリプロに所属し、’72年「せんせい」でデビュー。当時のヘアスタイルはタワシ頭と呼ばれるショートカットで、いじられながらもお茶の間に愛される存在となる。その後デビューした桜田淳子、山口百恵とともに「花の中三トリオ」と呼ばれ、’73年には女性最年少15歳で紅白に出場。映画やバラエティでも活躍。’77年以降は「なみだの桟橋」から演歌路線へ転じ、歌唱力を高める。’83年「越冬つばめ」で日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。歌手活動に加え、ドラマ出演など女優としても活動の幅を広げた。

牧村三枝子

1972年にサンミュージック・タレントスクールへ入学し、翌年RCAレコードから「少女は大人になりました」でデビュー。’76年、テレビドラマ『大都会-闘いの日々-』にレギュラー出演し、挿入歌「赤提灯の女」をポリドールから発売。’78年、渡哲也の「みちづれ」をカバーしたシングルが大ヒットし、翌’79年から’80年にかけて38週連続でオリコン20位以内を記録するロングセラーとなった。以後、「夫婦きどり」「あなたの妻と呼ばれたい」「友禅流し」など情念を込めた作品で人気を確立し、哀愁と力強さを併せ持つ独自の歌唱で支持を得た。

西崎緑

7歳のとき作曲家の遠藤実に見いだされ、「ちいさなプリンセス」で歌手デビュー。翌年、田端義夫とのデュエット「ねんねん船唄」がヒットした。子役として映画やテレビでも活躍し、14歳で平尾昌晃に師事して歌唱力を磨く。1974年、ドラマ『暗闇仕留人』の主題歌「旅愁」がミリオンセラーとなり、挿入歌「さざなみ」などとともに代表作となった。俳優としても『コメットさん』(第1期)にレギュラー出演し、のちに『必殺シリーズ』では複数作品に登場。歌と演技を両立させた多才な芸能活動で知られる。

小林幸子


1964年にシングル「ウソツキ鴎」でデビューし、20万枚を売り上げるヒットとなる。’79年に「おもいで酒」が大ヒットし、紅白歌合戦にも初出場を果たした。以降、紅白には2011年までに33回出場し、’88年と2004年には大トリを務めるなど長年にわたり活躍。’80年代から’90年代にかけては「雪椿」や「越後情話」などのヒット曲に恵まれ、演歌界のトップ歌手としての地位を確立。また、豪華な衣装での紅白出演や派手な演出で注目を集め、視覚的にも話題となった。2000年代以降も演歌からポップス、アニメソングまで幅広いジャンルで活動を展開している。

八代亜紀

中学卒業後に熊本でバスガイドとして就職するが、人前で話すのが苦手で3か月で退職。その後キャバレー歌手を経て上京し、銀座のクラブで歌っていた際に五木ひろしの紹介で芸能プロと出会い、1971年「愛は死んでも」でデビュー。日本テレビ『全日本歌謡選手権』で10週連続勝ち抜きグランドチャンピオンとなり注目を集め、’73年「なみだ恋」が120万枚の大ヒット。トラック野郎のアイドルとしても人気を博す。以降も「おんな港町」「愛の終着駅」などを発表し人気を確立。’79年「舟唄」、’80年「雨の慕情」が特に評価され、後者で日本レコード大賞を受賞、紅白歌合戦では2年連続大トリを務め「演歌の女王」と称された。晩年はジャズ、ブルースなども歌うようになりファン層を広げた。2023年12月、指定難病を患い73歳で逝去した。

西川峰子

1973年、「第3回全日本歌謡コンテスト」で優勝し芸能界入り。翌’74年、「やまびこ演歌」のキャッチフレーズでビクターから「あなたにあげる」で歌手デビュー。同曲はオリコン1位を獲得する大ヒットとなり、第16回日本レコード大賞新人賞などを受賞した。その後もヒットを重ね、’75年から4年連続で『NHK紅白歌合戦』に出場。喉を痛めて声が出にくくなったことを契機に女優へ転身。’77年の映画『人間の証明』で女優デビューを果たし、’87年『吉原炎上』での体当たり演技が話題となる。以後は女優・タレントとしても幅広く活動。

天童よしみ

7歳でのど自慢番組に初出演し、毎日放送『素人名人会』で名人賞を受賞。以後、多くの大会で優勝を重ねる。フジテレビ『日清ちびっこのどじまん』出演をきっかけに日本コロムビアから「大ちゃん数え唄/いなかっぺ大将」を吉田よしみ名義で発売。1972年『全日本歌謡選手権』で10週連続勝ち抜き、7代目グランドチャンピオンとなり、「風が吹く」でキャニオンレコードから正式デビュー。その後10年の低迷を経て、’85年に「道頓堀人情」がヒット。’96年の「珍島物語」は130万枚を超えるロングヒットとなった。

川中美幸

17歳の時、「春日はるみ」として歌手デビュー。歌のうまさが評判となったもののアイドル全盛期だった当時大きく注目はされず、2年間の活動のみで地元の大阪に戻る。その後、大阪で開催された『ネオン街音楽祭』に出場しグランプリを獲得し再デビューを決意。芸名を「川中美幸」に改め、21歳でシングル「あなたに命がけ」を発表するもヒットに至らず。1980年、24歳で発表した夫婦愛をテーマとするシングル「ふたり酒」がようやく実を結び、ミリオンセラーの大ヒットとなる。下町人情を歌わせたら右に出る者なしと評される。

瀬川瑛子


股旅歌謡やマドロス歌謡で人気を博した歌手・瀬川伸の娘として育ち、5歳から父の指導で歌を学び、父のステージの前座を経て1967年「涙の影法師」でデビューした。当初は「瀬川映子」を名乗り、地道に活動を重ねる。’70年「長崎の夜はむらさき」が50万枚のヒットとなるが、その後は低迷期を迎える。’83年には作曲家・船村徹の計らいで「矢切の渡し」を競作で歌い30万枚を売り上げ、再び注目を集めた。’86年「命くれない」が大ヒットし、翌年のオリコン年間1位・累計170万枚の大記録を達成、「一途に添い遂げる女」を歌う代表曲となった。その後も演歌歌手として活動を続け、日本歌謡界に確かな足跡を残した。

金沢明子

16歳で日本民謡協会主催の全国大会に優勝し、『秋田船方節』で注目を集める。1975年、アルバム『若い民謡』でデビューし、「民謡界の百恵ちゃん」と呼ばれた。NHK『夜の指定席 民謡をあなたに』で原田直之と司会を務め、ジーパン姿で民謡を歌う斬新なスタイルが話題となる。津軽民謡を中心に300曲に及ぶレパートリーを築き、’82年には大瀧詠一プロデュースの「イエロー・サブマリン音頭」がヒットし、代表曲となった。

青江三奈


高校卒業後デパート勤務を経てクラブ歌手となり、「銀巴里」などで歌い始める。1966年、『恍惚のブルース』でメジャーデビューし、80万枚を売り上げ注目を集めた。ハスキーボイスを生かしたブルース調の歌唱が特徴で、’68年には『伊勢佐木町ブルース』(100万枚)、『長崎ブルース』(120万枚)が連続ヒット。「伊勢佐木町ブルース」で日本レコード大賞歌唱賞などを受賞した。翌’69年の『池袋の夜』は150万枚を売り上げ、最大のヒットとなった。同年は年間売上1位を記録し、“ため息路線”の代表的歌手として森進一と並び称された。

梶芽衣子

高校在学中にスカウトされ、1965年に日活へ入社し本名・太田雅子で映画『悲しき別れの歌』に出演。青春スターとして注目されるが、のちに芸名を「梶芽衣子」と改める。’70年『野良猫ロック』シリーズで人気を確立し、日活退社後は東映へ移籍。『銀蝶シリーズ』に続く『女囚さそり』シリーズで強烈な女性像を演じ、一躍カルト的存在となった。’70年に1st.シングル「仁義子守唄」をリリース、’72年の「恨み節」と’73年「修羅の花」は、梶の熱烈なファンであるタランティーノの映画『キル・ビル』でも使用された。

松原のぶえ

中学時代に福岡のタレント養成所に通い、3年生のとき北島音楽事務所にスカウトされる。高校進学後に上京し、1979年「おんなの出船」でデビュー。情感豊かな歌唱で注目され、第21回日本レコード大賞新人賞をはじめ数々の新人賞を受賞した。以降も地道に歌手活動を続け、’89年には女性演歌歌手に贈られる第1回レコード大賞・美空ひばり賞を受賞。2002年に北島音楽事務所を離れ、独立して「のぶえオフィス」を設立。現在もステージやメディアを中心に、艶のある声と人情味あふれる歌で多くのファンに親しまれている。

テレサ・テン

1953年1月台湾の雲林県で生まれた。10歳の時に台湾の素人のど自慢で優勝し、その後も各地のコンテストで優勝を重ねて注目を集め、14歳で歌手デビュー。レギュラー番組を持つなど台湾のエンターテインメント業界からアジア全域に活動の場を広げ”アジアの歌姫”と呼ばれる。日本では’74年、21歳の時に「今夜かしら明日かしら」でデビューし、2作目の「空港」で人気が高まり、翌年の「時の流れに身をまかせ」が大ヒット。これらの楽曲は彼女の代表作となり、日本の音楽シーンでも高く評価された。その後「つぐない」などもヒットし、彼女の音楽は広く親しまれた。’95年5月、急性喘息により香港で逝去するも、今も尚その存在は多くの人々に愛され続ける。

北原ミレイ

高校在学中から浜松の作曲家・佐伯一郎に師事し、卒業後に上京。ナイトクラブで歌いながらヘンリー倉田にジャズ、浜口庫之助にポピュラー音楽、大本恭敬にカンツォーネを学び表現力を磨いた。歌う姿を水原弘に注目され、作詞家・阿久悠の推薦で1970年「ざんげの値打ちもない」でデビュー。情念を込めた独特の歌唱で注目を集める。’75年の「石狩挽歌」が大ヒットし、代表曲となる。その後も活動を続け、2006年には35周年記念曲「女友達」を発売し、円熟した表現力で女性の心情を歌い続けている。

女性歌手・アイドル > 1960年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

美空ひばり


江利チエミ、雪村いづみとともに”三人娘”として国民的人気を博し、中でも圧倒的な歌唱力と存在感で一世を風靡。’89年1月11日、最後のシングル『川の流れのように』が発売され、約半年後に54歳で永眠する平成初期に亘るまで、歌謡界・演歌界の絶対的なトップスターであり続けた。

ペギー葉山


『南国土佐を後にして』、青山学院大学のチャペルを描写した『学生時代』などのヒットで知られる。歌唱と訳詞を手掛けた『ドレミの歌』は時代を超えて広く親しまれ、1995年『紫綬褒章』、2004年に『旭日小綬章』も受章した。

雪村いづみ


1953年『思い出のワルツ』で歌手デビュー。美空ひばり、江利チエミとともに”三人娘”として人気を博す。『オーマイパパ』『青いカナリヤ』『約束』などのヒット曲を持つほか、’57年の東宝映画『青い山脈』に主演、映画黄金時代を築く立役者となる。

畠山 みどり

1962年『恋は神代の昔から』でレコードデビュー。袴を履いた巫女の衣装で歌謡浪曲を歌い、曲のヒットとともに一躍有名となる。以降も『出世街道』『馬鹿は死なゝきゃなおらない』などヒット曲多数。’70年代からはタレントや実業家としての活動が増え、演歌界きっての株トレーダーとしても知られる。

青江 三奈

1966年『恍惚のブルース』で歌手デビュー。セクシーなハスキーボイスで歌うブルース演歌で80万枚のヒットとなる。’68年、イントロ部分のため息で知られる『伊勢佐木町ブルース』が100万枚、『長崎ブルース』が120万枚のミリオンセラーに。NHK紅白歌合戦には’66年の初出場から16年連続で出場、ブルース演歌の女王としての地位を築いた。

島倉 千代子


1955年『この世の花』で歌手デビュー。同曲は200万枚を売り上げ人気歌手となる。その後も『東京だョおっ母さん』『からたち日記』ほか100万枚を超えるヒット曲を何作も持つ。’68年の『愛のさざなみ』では日本レコード大賞・特別賞を受賞した。また、’87年発売の『人生いろいろ』も130万枚の大ヒットとなり日本レコード大賞で最優秀歌唱賞を受賞。”お千代さん”の愛称で長年に亘り国民的歌手として多くの人に愛された。

森山加代子

1960年『月影のナポリ』でデビュー。楽曲はザ・ピーナッツとの競作だったが森山版は50万枚の大ヒットとなり、年末の『紅白歌合戦』にも初出場を果たす。その後も流行語にもなった『じんじろげ』ほかヒット曲を連発。’70年にリリースした『白い蝶のサンバ』はミリオンセラーの大ヒットとなった。

弘田三枝子

1961年にヘレン・シャピロのカバー曲『子供ぢゃないの』でデビュー。パンチの効いた歌声で洋楽をカバーしたが、’69年、洋楽カバーから路線を変えてリリースした『人形の家』がオリコンチャート首位を獲得。同年の日本レコード大賞歌唱賞にも輝いた代表作となる。

園まり


1956年、童謡歌手としてデビュー。その後渡辺プロダクションに所属先を変え、’62年『鍛冶屋のルンバ』でレコードデビュー。『逢いたくて逢いたくて』『夢は夜ひらく(藤圭子版も有)』ほか”園まり節”と呼ばれる多数のヒット曲を持つ。’66年-’67年にかけてマルベル堂女性歌手ブロマイド売上1位の人気となる。

森山良子

1967年、「この広い野原いっぱい」でデビュー。黒澤明の意向で黒澤プロダクションに所属し、デビュー当初は“日本のジョーン・バエズ”と呼ばれるフォークシンガーとして注目された。’69年、「禁じられた恋」がミリオンセラーとなり、日本レコード大賞大衆賞を受賞、NHK紅白歌合戦に初出場するなど、フォークから歌謡界へと活動の幅を広げた。’70年の大阪万博ではテーマソングを担当し、国民的歌手としての地位を確立した。

坂本スミ子

NHK大阪合唱団を経てラテン歌手としてデビュー。「ラテンの女王」として人気を得る。1961年からテレビ番組『夢であいましょう』で主題歌を担当、NHK紅白歌合戦に5年連続出場した。’71年「夜が明けて」「浮雲」とヒットを飛ばし、’73年「幼い子供のように」で東京音楽祭外国審査団賞を受賞。その後女優としても活躍し、ミュージカル『キャバレー』で’82年度文化庁芸術祭優秀賞を受賞した。

中山千夏

小学1年で毎日音楽コンクール優勝、子役としてドラマの主題歌や副主題歌を担当。高校時代はNHK人形劇『ひょっこりひょうたん島』の挿入歌を歌い、宇野誠一郎に師事してボイストレーニングを受ける。東宝ミュージカルにも出演。歌謡曲歌手としての本格デビューは1969年9月、ビクターレコードから「あなたの心に」を発表しオリコン2位を記録。レコード大賞新人賞にノミネートされ、その後多くのカバーが生まれた。

加藤登紀子

満洲国ハルビン生まれ、京都育ち。1965年、在学中に第2回日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝。’66年「誰も誰も知らない」でレコードデビュー。’71年「知床旅情」で日本レコード大賞歌唱賞を受賞。’72年に一時活動休止するも、’73年復帰。’78年「この空を飛べたら」、’87年「百万本のバラ」がヒット。中国公演や鴨川自然王国設立、映画やドラマ出演、他歌手への楽曲提供など、多彩な活動を展開。

三沢あけみ

1959年、東映ニューフェイスに合格し、テレビドラマ『笛吹童子』で三沢あけみとして芸能界デビュー。’63年「ふられ上手にほれ上手」で歌手デビュー。同年4月「島のブルース」が大ヒットし、第5回日本レコード大賞新人賞受賞と第14回NHK紅白歌合戦初出場を果たす。以降、「明日はお立ちか」「アリューシャン小唄」「涙の渡り鳥」「サガレン小唄」「お手を拝借」「木曽節」などでリバイバルヒットや紅白出場を重ねた。

高田美和

1962年、高校1年生で大映に入社し、三隅研次監督『青葉城の鬼』でデビュー。以後、『座頭市兇状旅』『大魔神』『眠狂四郎勝負』など時代劇や、『高校三年生』『青いくちづけ』『十七才は一度だけ』など現代映画で主演し、清純派スターとして人気を博す。’64年「十七才は一度だけ」で歌手としてもデビューし、以後もシングルを発表。’68年大映退社後はテレビや舞台に活動の場を移し、『2時のワイドショー』司会や『雲霧仁左衛門』などの舞台で活躍した。

梓みちよ

1962年デビュー。’63年にリリースした『こんにちは赤ちゃん』が大ヒットとなり、同年の日本レコード大賞の大賞を受賞、年末の紅白歌合戦にも初出場を果たす。その後低迷期を経て’74年に発売した『二人でお酒を』が大ヒット。床に座って歌う姿で人気をさらい、再びの日本レコード大賞に加え大衆賞も受賞し、紅白への復帰も果たした。

九重佑三子

1963年『シェリー』でレコードデビュー。’67年、テレビドラマ『コメットさん』でコメットさん役を演じ人気を博す。同年のNHK紅白歌合戦では史上最年少で紅組司会者に抜擢され、ロッテチョコレートのCMなどでもお茶の間に広く愛される存在となる。

都はるみ

1964年レコードデビュー。”はるみ節”と呼ばれる力強いこぶしが特徴で、同年発売された3作目『アンコ椿は恋の花』がミリオンセラーとなる。’76年、『北の宿から』で日本レコード大賞ほか数々の音楽賞を受賞。’84年に一度引退するもその後活動を再開し、2005年に芸術選奨文部科学大臣賞、2010年に紫綬褒章を受章している。

いしだあゆみ

子供の頃から児童劇団に所属し舞台活動を続ける。歌手としては1968年にリリースした『ブルー・ライト・ヨコハマ』が150万枚のミリオンセラーを記録し代表作に。映画『男はつらいよ』やテレビドラマ『金曜日の妻たちへ』『北の国から』などで女優としても活躍した。

水前寺清子

1964年『涙を抱いた渡り鳥』でデビュー。’68年に発売された『三百六十五歩のマーチ』は100万枚の大ヒットとなり、日本レコード大賞大衆賞を受賞した。’70年からはTBSドラマ『ありがとう』に主演、民放ドラマで史上最高視聴率となる56.3%を記録した。”チータ”の愛称で昭和・平成に亘り永く愛される存在となる。

奥村チヨ

1965年デビュー。黛ジュン、小川知子と「東芝3人娘」と呼ばれる。デビュー同年に『ごめんネ…ジロー』をヒットさせるほか、’70年前後に”恋三部作”としてリリースした『恋の奴隷』『恋狂い』『恋泥棒』の連続ヒットで人気歌手の仲間入りを果たした。

中尾 ミエ

1962年、16歳でレコードデビュー。デビュー曲の『可愛いベイビー』が大ヒットし一躍スターの仲間入りを果たす。園まり、伊東ゆかりと組んだ”スパーク三人娘”も人気を集め、TV界で一時代を築く。ものおじしない性格でトーク力も高いことから歌手活動のみならず、長年に亘り映画、ドラマ、バラエティ番組で活躍を続ける。

金井 克子

西野バレエ団出身で抜群のプロポーションを誇り、モデルとしても活躍。1962年レコードデビュー。’67年、西野バレエ団仲間の由美かおる、奈美悦子らとともにダンスグループ『レ・ガールズ』を結成しTVで活躍する。’73年、独特の振付けも話題となった『他人の関係』が100万枚以上のヒットとなり、日本レコード大賞企画賞を受賞した。

西田 佐知子


1956年レコードデビュー。’61年、世界的にヒットした『コーヒールンバ』のカバー曲を歌い一躍有名となる。’62年、『アカシアの雨がやむとき』で日本レコード大賞特別賞を受賞。以降は司会者の関口宏と結婚し、歌手活動をセーブした。

小川知子

1968年『ゆうべの秘密』でデビュー。同曲はオリコン1位を獲得する。後に『初恋のひと』もヒット。’80年代に入り連続ドラマ『金曜日の妻たちへ』などにも出演し女優としても活躍する。’84年にはアリスの谷村新司とのデュエット曲『忘れていいの-愛の幕切れ-』が話題となり、長年に亘り活躍を続けた。

和田アキ子

1968年歌手デビュー。迫力のある歌唱法で”和製リズム・アンド・ブルースの女王”として売り出す。2枚目のシングル『どしゃぶりの雨の中で』、4枚目の『笑って許して』のヒットで人気を確立。’72年に発売した『あの鐘を鳴らすのはあなた』で同年の日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞した。当時からタレントとしてさまざまなバラエティ番組でも活躍した。

カルメン・マキ

1969年、17歳で『時には母のない子のように』でデビュー。年齢に見合わない哀愁あふれる楽曲と歌唱でデビュー曲は100万枚を超える大ヒットとなった。翌年ロック歌手への転向を表明し、ロックバンドの結成と解散を重ねながら活動した。

由紀さおり

1965年に歌手デビューするがヒット曲に恵まれず、’69年、再デビュー曲としてリリースした『夜明けのスキャット』が150万枚のミリオンセラーとなる。その後も『手紙』『生きがい』などのヒット曲に恵まれ歌手として活躍するとともに、バラエティタレントや司会、女優としても才能を発揮、多岐にわたり活躍した。

千賀かほる

1969年、『真夜中のギター』でデビュー。同年、日本レコード大賞新人賞を受賞。デビュー前はOSK日本歌劇団に所属していた。『真夜中のギター』は現在もフォークソングの名曲として岩崎宏美や徳永英明ほか多くのアーティストのカバーアルバムで歌い継がれている。

平山 三紀

1970年デビュー。鼻にかかったハスキーボイスが特徴で、2枚目のシングル『真夏の出来事』がオリコン5位のヒット曲となる。以降も『ノアの箱舟』『フレンズ』とヒット曲が続き人気を集める。ばんばひろふみの元妻で、現在も音楽活動を続ける。

松尾 和子

ナイトクラブや進駐軍のキャンプで歌っていたところ人気となり、1959年に和田弘とマヒナスターズ、フランク永井との共唱作『グッド・ナイト/東京ナイト・クラブ』でデビュー。’60年に発売した第2弾『誰よりも君を愛す』が大ヒットとなり、ムード歌謡の女王となる。他に『お座敷小唄』『銀座ブルース』などヒット曲多数。

越路 吹雪

1951年まで宝塚歌劇団男役のトップスターとして活躍。その後は東宝専属となり舞台女優へ。同時にシャンソン歌手としても活動を始め、『愛の讃歌』『ラストダンスは私に』『サン・トワ・マミー』『ろくでなし』など数々のビッグヒットを放つ。日本のシャンソン界の女王となり、日本レコード大賞歌唱賞、文化庁芸術祭奨励賞など数々の賞を受賞した。

江利 チエミ

歌が好きで12歳の頃から進駐軍のキャンプで歌うようになりキャンプのアイドル的存在だった。1952年、15歳で『テネシーワルツ』でレコードデビュー、同曲は23万枚のヒットとなり、続く『ツゥー・ヤング』もヒット。歌唱力の高さから「美空ひばり以来の天才少女」と呼ばれ、雪村いづみを加えた”三人娘”として戦後の歌謡界で活躍、一世を風靡した。

吉永 小百合

1957年~59年の間にラジオ、テレビドラマ、映画界にデビュー。’62年に自身の主演映画『赤い蕾と白い花』の主題歌『寒い朝』でレコードデビュー、50万枚を超えるヒットとなる。続いて橋幸夫とのデュエット曲『いつでも夢を』が300万枚を超える爆発的ヒットを記録、’60年代の映画界・歌謡界に吉永小百合の一大旋風を巻き起こした。

倍賞 千恵子

1961年映画デビュー。’63年『下町の太陽』に主演。同タイトルの楽曲でレコードデビューし、日本レコード大賞新人賞を受賞した。以降、『さよならはダンスの後に』『忘れな草をあなたに』などのヒット曲に恵まれるとともに女優として活躍し、映画『男はつらいよ』の主人公・車寅次郎の妹さくら役などで知られる。

伊東 ゆかり

1958年レコードデビュー。以降、中尾ミエ・園まりとともに”スパーク三人娘”を結成し、『シャボン玉ホリデー』などのバラエティ番組に出演しお茶の間の人気者に。’67年発売の『小指の想い出』が爆発的なヒットとなり、以降もヒット曲に恵まれ、’60年代の歌謡界を語るに欠かせない存在となった。

岸 洋子

東京藝術大学大学院声楽専攻科修了後、1962年にシャンソン歌手としてレコードデビュー。実力派歌手として注目を集め、’64年『夜明けのうた』で日本レコード大賞歌唱賞を受賞した。’70年にリリースした『希望』が約70万枚の大ヒットとなり、2度目となるレコード大賞歌唱賞を受賞。第43回選抜高校野球大会の入場行進曲にも採用された。

由美かおる

西野バレエ団に所属し、1960年代~80年代にかけて多数の映画、ドラマ、CMに出演。金井克子や奈美悦子などバレエ団仲間と結成したダンスグループ『レ・ガールズ』の活動でも人気を集め、愛らしく魅力的な容姿で和製マリリン・モンローとも称される存在となる。歌手としては『いたずらっぽい目』(’67年)などのヒット曲があるが、アース製薬蚊取り線香のCMキャラクターや時代劇『水戸黄門』の”かげろうお銀”役で広く知られる。

佐良 直美

1967年『世界は二人のために』でレコードデビュー。抜群の歌唱力で120万枚を売り上げ、同年の日本レコード大賞の新人賞を受賞し年末のNHK紅白にも初出場した。同曲は翌年の選抜高等学校野球大会の入場行進曲にも採用され、佐良 直美ブームが巻き起こる。その後も『いいじゃないの幸せならば』などがヒットするもタレントとしても才能を発揮、TBSのドラマ『ありがとう』のレギュラーなど多方面で活躍した。

渚ゆう子

沖縄出身の母と京都出身の父のもとに生まれ、幼少期から沖縄民謡と琉球舞踊を学ぶ。1964年に久葉真鶴の名で芸能界入りし、マヒナスターズの前唄を経て上京。浜口庫之助に師事し、’66年に「渚ゆう子」と改名。’67年「早くキスして」でレコードデビュー。’70年、ベンチャーズ作曲の「京都の恋」「京都慕情」が大ヒットし、全国的に人気歌手となる。

新谷のり子

幼少期から歌を好み、NHK児童合唱団で活動した。高校を中退して北海道から上京し、銀座のクラブで歌い始め、1969年に『フランシーヌの場合』でメジャーデビュー。政治的抗議のため焼身自殺した女性を題材にしたこの曲は、反安保の日に発売され約80万枚の大ヒットとなった。2枚目のシングル『さよならの総括』が不振に終わり、次第に表舞台から退く。その後はいずみたく事務所を経て労音で活動するが、歌う意味を見失い再び銀座のクラブに戻った。

仲宗根美樹

1961年、ドラマ『東京物語』の挿入歌「愛に生きる」で歌手デビュー。同年9月に発表した「川は流れる」が、人生を川の流れに重ねた歌詞と独特の無表情な歌唱で大ヒットし、ミリオンセラーを記録、第3回日本レコード大賞新人奨励賞を受賞した。翌’62年にはNHK紅白歌合戦に初出場し紅組のトップバッターを務めた。その後も「島育ち」「奄美恋しや」などヒットを続け、CMソング「有馬兵衛の向陽閣へ」でも知られた。’71年、歯科医師と結婚して芸能界を引退した。

朱里エイコ

舞踏家の母とオペラ歌手の父のもとで育つ。18歳で単身渡米し、ラスベガスやニューヨークなど全米各地で歌手・エンターテイナーとして活動、サラ・ヴォーンと同じ舞台にも立った。1966年に帰国後は人気が伸びなかったが、再渡米して実力を磨き、’71年にワーナー・パイオニアと契約。’72年に「北国行きで」が大ヒットし紅白に初出場した。以後、卓越した歌唱力とダンス、三味線やピアノの演奏を取り入れた多彩なステージで人気を博した。

内藤洋子

医師の家系に生まれ、小学5年の時にCM出演をきっかけに芸能界入り。1965年、黒澤明監督『赤ひげ』で女優デビューし、翌年のドラマ『氷点』で清純派女優として人気を博す。松山善三監督『その人は昔』の挿入歌「白馬のルンナ」が50万枚を超えるヒットとなり、歌手としても成功した。’70年に音楽家・喜多嶋修と結婚して引退し、’74年に家族とともに渡米。以後は絵本作家として活動している。

泉アキ

1966年、日本テレビ「あなた出番です」で優勝し、翌’67年に「恋はハートで」でクラウンレコードからデビュー。続く「夕焼けのあいつ」がヒットし、アイドル歌手として人気を得た。’72年に桂菊丸と結婚、家庭を築く一方で、’75年からテレビ朝日「独占!女の60分」にレポーターとして出演し、明るいキャラクターで人気を博す。以後、司会やクイズ番組などで幅広く活躍。さらに自動車レースにも挑戦し、’84年にはサファリラリーで日本人女性初の完走を果たした。

黛 ジュン

1964年のデビュー後、’67年に『恋のハレルヤ』で再デビュー。パンチのある声とミニスカートで歌う再デビュー4枚目のシングル『天使の誘惑』が大ヒットし、同年の日本レコード大賞に輝く。’67~’68年のレコード売上は500万枚。GS全盛期にもっとも活躍した女性シンガーでもある。

中村晃子

1965年レコードデビュー。GS全盛期にある’67年の発売にもかかわらず、7作目のシングル『虹色の湖』が80万枚の大ヒットとなり、黛ジュンとともに女性シンガーとして強烈な存在感を示す。衣装のミニスカートも時代の先鋒だった。’80年、TBSドラマ『離婚ともだち』の挿入歌『恋の綱わたり』が30万枚のヒットとなり再び注目された。

山本リンダ

雑誌モデルを経て15歳だった1966年に『こまっちゃうナ』で歌手デビュー、大ヒットを記録。以降大きなヒット曲に恵まれなかったものの、『仮面ライダー』などのドラマに出演し人気となる。’72年、大人の路線に変更しヘソ出しルックで歌った『どうにもとまらない』続く『狙いうち』が大ヒット、歌手・山本リンダの第二次ブームが訪れた。

男性歌手・アイドル > 1960年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

三橋美智也

北海道函館市出身。幼少より民謡歌手の母に鍛えられ、9歳で全道民謡コンクール優勝。その後は家計を助けるため巡業に参加し、津軽三味線を習いながら白川軍八郎一座で修行し、その後も園芸団などに参加して力をつける。19歳で上京し修行を積んだ後、1953年、キングレコードと契約し、翌年「酒の苦さよ」でデビュー。’55年「おんな船頭唄」が大ヒットし、「リンゴ村から」「哀愁列車」「古城」「達者でナ」などを次々とヒットさせた。民謡で培った伸びやかな高音と独特のこぶしで昭和30年代の歌謡界を牽引。「三橋で明けて三橋で暮れる」と称される人気を誇り、レコード売上は1億枚に達したとされる。

三波春夫

「お客様は神様です」のフレーズでも知られる、戦後日本に演歌で希望を与えた国民的大スター。第二次世界大戦に徴兵されて満州へ渡り、帰国後の1955年、浪曲師・民謡歌手としてデビュー。’57年「三波春夫」に芸名を改め歌謡界に進出。集団就職で上京した若者の心情を描いた2枚目の「チャンチキおけさ」が220万枚を売り上げる大ヒットとなり、’64年の東京五輪のテーマソング「東京五輪音頭」130万枚、’70年の大阪万博テーマソング「世界の国からこんにちは」300万枚などビッグヒットを連発した。功績は高く評価され、紫綬褒章、勲四等旭日小綬章、新潟県民栄誉賞など、栄誉ある数々の賞に輝いた。

村田英雄

福岡県出身。浪曲師の両親のもとに生まれ、幼少期から舞台に立つ。5歳で酒井雲に弟子入りし、13歳で真打に昇進、14歳で一座を率いた。戦後は浪曲師として活動するが、上京後に改名し、村田英雄として芸道を歩む。1958年、古賀政男に見出され、「無法松の一生」で歌手デビュー。浪曲の語りを生かした独自の歌唱で注目される。’61年、「王将」が大ヒットし、日本レコード大賞特別賞を受賞。三波春夫と並ぶ国民的スターとして人気を博す。以後「人生劇場」なども再評価され、演歌歌手として不動の地位を築いた。

北島三郎

1962年、「ブンガチャ節」で歌手デビューし、同年末に「なみだ船」で日本レコード大賞新人賞を受賞、演歌界に名乗りを上げる。’65年に「兄弟仁義」「帰ろかな」「函館の女」が相次いでヒットし、人気演歌歌手の地位を確立。映画『兄弟仁義』にも出演し、任侠演歌としてのキャリアを築いた。その後も「与作」「まつり」など数々の名曲を生み出し、紅白歌合戦には通算50回出場、13回トリ(大トリ)を務めるなど紅白史上最多出演記録を達成した。’72年に北島音楽事務所を設立し、以降は「原譲二」のペンネームで作詞・作曲・演出にも取り組むなど演歌の大御所として活動の幅を広げ、現在も第一線で活躍を続けている。

井沢八郎

中学卒業後に上京し、バンドマンとして活動しながら作曲家・大沢浄二に師事。1963年、東芝音楽工業から「男船」でレコードデビューし、30万枚を売り上げた。翌’64年の「 あゝ上野駅」は高度経済成長期の集団就職者の心情を描き大ヒットし、代表曲となった。この曲は上野駅の発車メロディにも採用されている。その後も「男傘」「北海の満月」などをヒットさせ、伸びやかなハイトーンの美声で長年演歌界で活躍した。晩年までショー・テレビ出演に取り組み、2007年に死去した。娘は歌手で女優の工藤夕貴。

一節太郎

“流しのギター弾き”として全国を巡り、作曲家・遠藤実の内弟子第1号として師事した。1963年、「浪曲子守唄」でレコードデビューを果たし、独特の歌唱法で薄幸な男の人生をしみじみと歌った同曲は発売後2年間で100万枚を突破、’99年までに200万枚を売り上げた。セルフスタイルの浪曲演歌として高い人気を博し、「出世子守唄」など“子守唄シリーズ”で世界観を確立。現在も第一線で活動を続け、男の情感を歌い続けている。

五木ひろし

1964年「コロムビア全国歌謡コンクール」で優勝しデビューを果たし、芸名を松山まさる、一条英一、三谷謙と改名するも苦戦した。’70年、『全日本歌謡選手権』で10週間勝ち抜きグランドチャンピオンとなり、’71年に「五木ひろし」として「よこはま・たそがれ」で再デビュー、大ヒットを記録した。以降、「夜空」「契り」「長良川艶歌」などヒットを重ね、紅白歌合戦には50回連続出場(歴代1位)し、日本レコード大賞の大賞や最優秀歌唱賞、金賞を歴代最多で受賞、コンサート動員数は延べ2,000万人以上にのぼる。福井県からは県民賞を受賞し、芸術選奨文部科学大臣賞、紫綬褒章、旭日小綬章も受章している。

千昌夫

17歳の時に作曲家・遠藤実に弟子入り。1965年に「君が好き」で歌手デビューした。翌’66年発売の「星影のワルツ」は、地道なリクエスト活動により’67年にミリオンセラーの大ヒットとなり、NHK紅白歌合戦に初出場を果たした。’77年にリリースされた「北国の春」は再び大ヒットを記録し、ミリオンセラーとなって日本レコード大賞ロングセラー賞を受賞、アジア各国でも広く親しまれた。 その後も「味噌汁の詩」「望郷酒場」「津軽平野」など数々の名曲を発表し、演歌界のレジェンドとして長年にわたり愛され続けている。

杉良太郎

1965年、日本コロムビアから「野郎笠」で歌手デビューした。翌’66年には俳優としてもデビューし、NHK時代劇『文五捕物絵図』で主演を務めて脚光を浴びた。その後『遠山の金さん』『右門捕物帖』『新五捕物帳』など時代劇を中心に1400本以上の作品で主演を続けた。歌手としては「すきま風」などのヒット曲を持ち、多才な活動を展開した。ま芸能活動とともに福祉活動にも長年取り組み、刑務所慰問や国際的な文化交流を通じて社会貢献を続け、法務省・厚労省・警察庁の特別監に委嘱されるなど公的にも評価されている。その功績により緑綬褒章、紫綬褒章、文化功労者など数々の表彰を受けている。

森進一

1965年、フジテレビ系『リズム歌合戦』で優勝し渡辺プロ入り。’66年6月に「女のためいき」でデビューし、この曲は35万枚を売り上げるヒットとなる。’68年には「盛り場ブルース」で第1回全日本有線放送大賞と日本有線大賞を受賞し、紅白歌合戦にも初出場を果たす。’69年の「港町ブルース」、’71年の「おふくろさん」、’74年の「襟裳岬」などが次々と大ヒットし、演歌界を代表する存在となる。紅白歌合戦には48回連続出場し、2021年には、歌手生活の功績が認められ旭日小綬章を受章した。

冠二郎

作詞家・三浦康照に師事し、1967年にビクターレコードより「命ひとつ」でデビューしたが、当初はヒットに恵まれなかった。’77年、テレビドラマ『海峡物語』主題歌の「旅の終りに」がミリオンセラーとなり、ようやく注目を集め、 その後’92年に「炎」で鮮烈なブレイクを果たし、“ネオ演歌”“アクション演歌”の旗手として若年層にも支持された。 さらに「酒場」「みれん酒」などのヒットで紅白歌合戦に3回出場、独自のキャラクターとステージ演出で幅広いファン層から愛された。

矢吹健

高校卒業後に上京し、作曲家・藤本卓也のもとで歌唱スタイルを磨いた。1968年に「あなたのブルース」でレコードデビュー。ハスキーでため息混じりの“ミスティーヴォイス”は強い個性を放ち、同曲で第10回日本レコード大賞新人賞(男性部門)、第1回日本有線大賞新人賞、第1回新宿音楽祭金賞を受賞し、ブレイクを果たした。その後も「真っ赤な夜のブルース」「蒸発のブルース」「うしろ姿」など数々のシングルを発表し、’70年代にかけて活躍。’80年代以降も自ら作詞作曲を手がけ、独自の音楽世界を追求したが、晩年は活動が限定的になり、2015年1月に逝去した(没年齢69歳)。

'60年代の演歌

戦後直後は「股旅もの」や「流れ者」的世界観から叙情的・抒情的な「哀愁の演歌」へ変化。’60年代は「ふるさと」「母」「人生の哀しみ」「別れ」などをテーマに、庶民の感情を歌うものが中心となった。三味線や尺八を中心にした伴奏に、浪曲的こぶしを抑えた歌唱法が導入され、美空ひばり、春日八郎、三橋美智也がその流れを牽引した。「函館の女」(’65・北島三郎)、「兄弟仁義」(’65)など、地方や人情をモチーフにしたご当地演歌も台頭し、北島三郎、村田英雄、三波春夫らが男の義理と人情の世界を力強く歌い上げた。和田弘とマヒナスターズ、ロス・インディオスなどの登場でムード歌謡も人気となり、都会的で艶のある「夜の演歌」も定着した。

平浩二

1967年に歌手を目指して上京し、’69年に「なぜ泣かす」でテイチクレコードよりデビュー。’70年には「女の意地」(西田佐知子との競作)がヒットし、’72年にリリースした「バス・ストップ」がオリコンで大ヒットを記録した。その後も「夜明け前」「冬の駅」などのヒット曲を重ね、歌唱力と甘い歌声で人気を博した。2015年に故郷・佐世保市の初代名誉観光大使に就任し、地元にも貢献。現在も精力的に音楽活動を続け、2021年にはくも膜下出血から奇跡的に復帰しステージに返り咲いた。

橋幸夫

1960年に高校1年生でビクターのオーディションに合格し、作曲家・吉田正に師事した上で「潮来笠」でデビュー。同曲は爆発的なヒットとなり、日本レコード大賞新人賞の第1回受賞者となった。以降、吉永小百合とのデュエット「いつでも夢を」、そして「霧氷」でレコード大賞を連続受賞し、舟木一夫・西郷輝彦とともに「御三家」と称される人気歌手となった。紅白歌合戦には通算19回出場し、映画・テレビ・舞台でも俳優としても活躍。2023年5月に歌手活動から引退を表明した後も芸能や社会貢献活動に意欲的に取り組んだ。

フランク永井

1955年「恋人よわれに帰れ」でデビュー。低音の魅力で“ムード歌謡”を開拓。「有楽町で逢いましょう」など都会的な歌が人気を博す。サラリーマン層にも愛され、夜の街に寄り添うような歌唱が支持された。晩年は脳梗塞で活動制限されるも、不屈の精神で復帰した。

水原弘

1959年、永六輔作詞による「黒い花びら」でデビュー、60万枚に迫る大ヒットとなり、新人ながら第1回日本レコード大賞を受賞する。甘いルックスと低音による大人のムード歌謡で女性人気を集め、アース製薬のCM出演で後世にも広く知られる存在に。’78年、41歳で急逝。短命に終わった天才型歌手として記憶される。

石原裕次郎

1956年、映画『太陽の季節』で役者デビュー。同年の映画『狂った果実』で主演を務めるとともに、同名のシングルで歌手デビューした。日活映画のスターとして絶大な人気を誇り、’60年代には大型スターとして確固たる地位を築く。歌手としても「銀座の恋の物語」「夜霧よ今夜も有難う」などが大ヒット。男の哀愁を漂わせる歌唱と独特の色気で、芸能界随一のカリスマとして、没後も命日には大々的な特番が組まれる。

小林旭

1956年に映画『飢える魂』で役者デビューし、’58年「女を忘れろ」で歌手デビューした。役者として石原裕次郎と並ぶ日活のスターとなり、「渡り鳥」シリーズなどで日活黄金時代を築く。歌手としてもデビュー曲は大ヒット、続く「ダイナマイトが百五十屯」もヒットし、”マイトガイ”と呼ばれ国民的人気者となる。美空ひばりとは事実婚の関係にあり、関係の解消後も、映画『仁義なき戦い』や’75年発売の『昔の名前で出ています』’79年『赤いトラクター』(’77年~ヤンマーCMソング)’85年『熱き心に』の大ヒットなど長年にわたり活躍した。

坂本九

高校時代に日劇「ウエスタン・カーニバル」で歌手デビューし、その後「ダニー飯田とパラダイスキング」で活動を始めた。1960年には東芝音楽工業へ移籍し「悲しき六十才」が初ヒットとなる。’61年10月発売の「上を向いて歩こう」は、海外で“SUKIYAKI”のタイトルで’63年に米ビルボードHot 100で3週連続1位を記録。日本語曲として唯一の快挙である。以後も「見上げてごらん夜の星を」「明日があるさ」など多数のヒットを生み、映画・テレビ・司会など多方面で活躍し、福祉活動にも尽力した。’85年、日航123便墜落事故で43歳で急逝したが、その歌声と笑顔は今も多くの人々に愛され続けている。

守屋浩

1957年、「スイング・ウエスト」のバンドボーイとして芸能界入りし、 ’58年、日劇ウエスタンカーニバルで正式に歌手デビュー。堀威夫のプロデュースで芸名を「守屋浩」とする。代表曲に「僕は泣いちっち」「有難や節」「大学かぞえうた」「星空に両手を」などがあり、これらは当時のロカビリーブームの中で人気を博す。「星空に両手を」は島倉千代子とのデュエットで、約70万枚を売りあげるヒットとなる。 ’76年、歌手・俳優としての主な活動を引退し、ホリプロ(当時堀プロダクション)の社員となり、「ホリプロタレントスカウトキャラバン」を発案・運営。榊原郁恵らアイドルを発掘した。

加山雄三

慶應義塾大学法学部卒業後、1960年に東宝と専属契約を結び、映画『男対男』で俳優デビュー。翌’61年、『大学の若大将』で主演し“若大将”シリーズが始まるとともに、『夜の太陽』で歌手デビュー。’65年には主題歌「君といつまでも」が350万枚を超える大ヒットとなり、日本のポピュラー歌謡界における代表的存在となる。以降、若大将シリーズの俳優としての活躍のみならず、自作曲家(ペンネーム “弾 厚作”)としても名を馳せ、多重録音の導入など音楽的にも先駆的に活動する。

佐川満男

1962年「夜がわかれる」でデビュー。甘いマスクと柔らかい歌声で’63年「今は幸せかい」がヒットし、端正な青春スターとして人気を集める。のちに俳優業にも進出し、誠実な人柄と安定した演技力でドラマなどにも多数出演。歌手としても地道に活動を続けている。

ジェリー藤尾

1962年「悲しき願い」でデビュー。日系カナダ人の出自を持つ俳優兼歌手。「遠くへ行きたい」が代表曲で、同名の長寿番組のテーマとしても有名に。穏やかな語り口と情緒ある歌声で多くのファンを獲得した。俳優業でも活躍し、多文化背景を持つ存在として記憶される。

菅原洋一

’62年にレコードデビューし、’65年発売の「知りたくないの」が’67年に大ヒット、一躍人気歌手となる。’68年に日本レコード大賞歌唱賞、’70年には「今日でお別れ」でレコード大賞を受賞した。「忘れな草をあなたに」などヒット曲も多く、海外の著名アーティストとも共演。丸顔から「ハンバーグ」という愛称がつき、司会など多方面でも活躍。’83年にはシルヴィアとの「アマン」がデュエットの名曲として支持を得た。

アイ・ジョージ

流しの歌手から出発し、1953年に黒田春雄名でデビューするが方向性の不一致でレコード会社を退社し、再び流しとして全国を回る。’59年に大阪の高級クラブ「アロー」で人気を得て専属歌手となり、同年にアイ・ジョージとして再デビュー。以後、『硝子のジョニー』『赤いグラス』などのヒットを放ち、’60~’71年に紅白へ12年連続出場した。カーネギー・ホール公演を果たすなど国際的舞台にも立った。

高石友也

1960年代後半から2020年代まで活動した日本フォーク界の草分け的存在で「受験生ブルース」で知られる。アメリカ民謡の日本語カバーから出発し、反戦フォークの担い手として注目され、のちにブルーグラスや民謡などへ幅広く展開した。多彩な楽器を操り、ザ・ナターシャー・セブンでの活動や「宵々山コンサート」を主宰するなど地域文化にも貢献。テレビ番組の旅企画でも親しまれた。

田辺靖雄

1963年「夜の太陽」でデビュー。スマートな容姿で“和製プレスリー”とも呼ばれ、青春歌謡を中心に活躍する。のちに九重佑三子との「夫婦デュエット」でも知られ、芸能界きってのおしどり夫婦として話題となる。2001年より日本歌手協会理事長としても活動し、歌謡界の発展に尽力。

舟木一夫

1963年6月「高校三年生」でデビュー。学園ソングの代名詞的存在として爆発的ヒットとなった。「修学旅行」「学園広場」など青春歌謡を多く歌い、“橋・舟木・西郷”の御三家の一角として時代を牽引。学ラン姿がトレードマーク。近年も精力的にコンサート活動を続け、シニア層の心をつかんでいる。

三田明

1963年「美しい十代」でデビュー。さわやかな笑顔と高音の澄んだ声で青春歌謡を彩った。「十七才のこの胸に」などヒットを重ね、女性ファンの支持を集めた。のちに俳優や司会業にも活動の幅を広げる。2020年代に入っても歌手活動を継続中で、長年のファンに支えられている。

飯田久彦

1963年「ルイジアナ・ママ」でデビュー、日劇ウエスタンカーニバル出身。明るい歌声とアメリカンスタイルでティーン層に人気を博した。のちに東芝EMIや徳間ジャパンの重役としてプロデューサーに転身し、HOUND DOGや渡辺美里らを育てた。歌手から業界のキーパーソンへと変貌した稀有な存在。

佐々木功

1964年「君の瞳を見つめて」でデビュー。ロカビリー調の歌手として活躍後、’70年代にはアニメソングの王者に。「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」など、雄大で熱い歌唱で“アニソンの帝王”と呼ばれる。俳優・声優としても活動し、現在も尚全国のアニソンイベントに精力的に出演する現役歌手。

西郷輝彦

1964年12月「君だけを」でデビュー。“橋・舟木・西郷”の御三家のひとり。デビュー曲でいきなり大ヒットし、清潔感あるルックスと明朗な歌声で一躍トップアイドルとなる。青春歌謡から演歌まで幅広く歌い、「星のフラメンコ」なども大ヒット。後年は俳優としても活躍、特に時代劇で存在感を示した。

布施明

1965年「君に涙とほほえみを」でデビュー。圧倒的な声量と歌唱力で、歌謡界にクラシックやミュージカルの要素を持ち込んだ。「シクラメンのかほり」「積木の部屋」など大ヒットを連発。紅白出場は20回以上。近年も音楽劇やオーケストラとの共演など精力的に活動しており、日本を代表する本格派歌手の一人。

美川憲一

1965年「だけどだけどだけど」でデビュー。’66年「柳ヶ瀬ブルース」で大ブレイク。独特のコブシと演出力でムード歌謡界を代表する存在となる。’70年代に一時低迷するも、’80年代に再ブレイクし、コロッケのものまねをきっかけに新たな人気を獲得。個性的なキャラクターとともに、歌手としても再評価された。

マイク眞木

1966年、日本のフォーク黎明期を代表するヒット曲「バラが咲いた」でデビュー。爽やかなメロディと平易な歌詞が広く愛され、フォークソングの普及に貢献した。俳優・司会者としても活動し、芸能一家としても知られる。温かみのある歌声とナチュラルな存在感で長く親しまれている。

内田裕也

1967年「恋のカクテル」デデビューした和製ロックのパイオニア。商業歌謡の枠に収まらず、ロックンロールの精神を貫いた異端の存在。映画プロデュースや政治発言でも話題となり、歌手としては「コミック雑誌なんかいらない」など実験的な作品が多く、“ロック界のアウトロー”として伝説的な存在となる。

山田太郎

1963年「清らかな青春」でデビュー。’65年発売の「新聞少年」がヒットし、お茶の間の人気者となる。歌手のほか役者としても活動し、時代劇を中心にドラマに多数出演。馬主としても有名で、日本馬主協会連合会会長、中山馬主協会会長などの要職も務める。

バーブ佐竹

1967年「女心の唄」でデビュー。独特のビブラートと情感たっぷりの歌唱でムード歌謡に新風を吹き込んだ。「女心の唄」は100万枚超の大ヒット。低音の美しさと哀愁を帯びたメロディで中高年層の支持を集めた。私生活でも波乱万丈だったが、その姿がまたファンの心を打った。

美樹克彦

1967年「花はおそかった」でデビュー。都会的な感性と繊細な歌声でデビュー曲は大ヒット。作詞作曲も手がけるマルチな才能で、自己プロデュース型歌手の先駆けとなった。のちに麻丘めぐみなどへの楽曲提供でも知られ、歌謡界の裏方としても貢献。自身の活動も継続中。

尾藤イサオ

1969年「悲しき願い」でデビュー。ブルースとロックの要素を日本の歌謡に融合させた先駆者で、熱唱型でダイナミックな歌唱が特徴。「あしたのジョー」の主題歌などでも知られ、アニメ主題歌やテレビ出演も多い。独自のスタイルを貫き、異色ながらも存在感ある歌手として活躍した。

城卓矢

1969年「骨まで愛して」でデビュー。デビュー曲は大ヒットし、ムード歌謡の名曲として定着した。低音で甘い声と大人の色気を感じさせる歌唱が魅力。’70年代以降は表舞台からやや退くが、昭和歌謡の名歌手として根強い人気を持ち続けた。

ピーター

1969年10月「夜と朝のあいだに」でデビュー。中性的な美貌と艶のある歌声で異彩を放ち、デビュー曲はオリコン1位を記録。俳優としての活動も多く、「新宿鮫」などで実力派として評価された。性別やジャンルを超えた唯一無二の存在として、LGBTQ+の先駆的なシンボルともいわれる。歌手としても独特の世界観で長く愛された。

皆川おさむ

3歳の頃から、自身の叔母が主宰する児童合唱団に所属し『ヤン坊マー坊天気予報』のCMソングなどを歌う。1969年、6歳の時、イタリアの動揺を日本語でカバーした「黒ネコのタンゴ」でデビューすると、オリコンのシングルチャート14週連続1位という大ヒットとなり、一躍国民的幼児歌手となる。その後は一時芸能活動から離れるも、大人になってから舞台俳優として復帰。童謡歌手としての評価も高く、子ども番組などでも活躍した。レコードは現在も懐メロ番組で紹介されることが多い。

上條恒彦

高校卒業後1958年に長野から上京、住み込み雑貨店員や新聞配達など様々なアルバイトをしながら「歌声喫茶」で歌唱力を磨いた。’69年「雨よ降れ」で歌手としてレコードデビュー。’71年、「六文銭」と共演した「出発の歌」がヒットし、同年世界歌謡祭グランプリ・歌唱賞を受賞。’72年にはNHK紅白歌合戦に初出場し、時代劇『木枯し紋次郎』の主題歌「だれかが風の中で」が広く知られるヒット曲となる。歌手活動と並行して俳優・舞台俳優としても活動。「3年B組金八先生」で教師役を務め、舞台では『ラ・マンチャの男』の牢名主役など長期間にわたる出演を継続。声優としてもアニメや映画に声を寄せた。

男性歌手・アイドル > 1970年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

沢田研二

1967年、ザ・タイガースのボーカルとしてデビュー。愛称の”ジュリー”は本人の発案で、女優のジュリー・アンドリュースが好きだったことから。タイガース解散後に萩原健一らと新グループPYGを結成後、’71年に「君をのせて」でソロデビュー。PYGは個々の活動に重心が移り形骸化した後に自然消滅した。’73年の「危険なふたり」がオリコン1位を獲得し、’75年「時の過ぎゆくままに」がTBSドラマ『悪魔のようなあいつ』の挿入歌となり大ヒットした。ビロードのような声で放たれる圧倒的な歌唱、中性的な美貌と色気、独特のファッションとパフォーマンスでジュリー全盛期が到来し「勝手にしやがれ」ほか続々とヒット曲を連発、数々の音楽大賞を総ナメにし歌謡界を席巻する。未だにその人気と存在感を超える歌手はいないとも言われる、昭和歌謡界のスーパースター。

萩原健一

1967年、ザ・テンプターズのボーカルとしてデビュー。ショーケンの愛称で親しまれ「神様お願い!」や「エメラルドの伝説」などのヒット曲で一躍人気を博す。テンプターズ解散後、’71年に沢田研二らとロックバンドPYGを結成するも、並行して松竹映画『約束』やテレビドラマ『太陽にほえろ!』などで俳優活動も開始、マカロニ刑事役で人気を確立する。その後はNHK大河ドラマや日本テレビ『傷だらけの天使』『前略おふくろ様』ほか多数の映画作品でも主役を務め、俳優としての才能が高く評価され、後進にも大きな影響を与える存在となる。音楽活動も継続し、’79年の「大阪で生まれた女」’87年の「愚か者よ」がヒット。2019年、68歳で永眠した。

'70年代の音楽番組

’70年代の代表的な音楽番組は『夜のヒットスタジオ』(フジTV系、’68-’90年)、『ザ・ベストテン』(TBS系、’78–’89年)、『ステージ101』(NHK、’70–’74年)『ベスト30歌謡曲』(テレビ朝日系、’72-’76年、’78-’79年)『シオノギ ミュージックフェア』(’64年-)。夜ヒットは生演奏とフルコーラスにこだわり、アイドルからニューミュージック、ロック、演歌、海外アーティストも出演。オープニングのリレー方式で歌がつながる「オープニングメドレー」が名物で22年にわたり放送され人気を集めた。また、ザ・ベストテンはオリコンに準じたランキング形式で毎週のヒット曲を発表。視聴者からの投票(ハガキ)が評価に反映されるスタイルでランクインした出演者がミラーの扉から登場し、最高視聴率は41.9%を記録するなど国民的番組となった。黒柳徹子が司会を務めた。

郷ひろみ

1972年、NHK大河ドラマ『新・平家物語』出演を経て「男の子女の子」で歌手デビュー。中性的な魅力と華やかなルックスで人気を博し、「小さな体験」「よろしく哀愁」などのヒットを連発。西城秀樹、野口五郎と共に「新御三家」と呼ばれ’70年代のトップアイドルとなる。’80年代には「お嫁サンバ」「哀愁のカサブランカ」などで新たなイメージを打ち出し、以降も時代ごとに変化を取り入れた活動を展開。’99年「GOLDFINGER ’99」の大ヒットで再ブレイクし、その後も「2億4千万の瞳」など代表曲と共に精力的なライブ活動を続ける。長年にわたり第一線で活躍し続ける国民的スター。

西城秀樹

1972年「恋する季節」で歌手デビューし、圧倒的な歌唱力と情熱的なパフォーマンスで注目される。その後「激しい恋」「傷だらけのローラ」など次々とヒットを飛ばし、野口五郎、郷ひろみと共に「新御三家」として’70年代の歌謡界をけん引。’79年の「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」は200万枚を売り上げる国民的ヒットとなり、明るく健康的なイメージで幅広い世代に支持された。『寺内貫太郎一家』などドラマ・舞台・CMでも広く活躍した。2003年以降、脳梗塞の後遺症と闘いながらも歌手活動を続け、懸命にステージに立つ姿は多くの人々に感動を与えた。2018年に惜しまれつつ逝去。その情熱と努力は今も語り継がれている。

野口五郎

1971年「博多みれん」で演歌歌手としてデビューするもヒットせず、同年「青いリンゴ」で再デビューし、アイドルとして人気を博す。’72年「めぐり逢う青春」、’73年「オレンジの雨」、’74年「甘い生活」など、筒美京平らの手による叙情的な歌謡曲でヒットを重ね、郷ひろみ・西城秀樹と共に「新御三家」と呼ばれ活躍する。’70年代後半は「私鉄沿線」「針葉樹」「むさし野詩人」など大人の雰囲気の作品でも評価を得た。’80年代以降は俳優業や音楽活動を並行しつつ作曲家としても活動。近年もコンサートやメディア出演を継続しており、長年にわたって多方面で活躍を続けている。

にしきのあきら

1970年、CBSソニーより「ソニー演歌の騎士」として歌手デビューし、デビュー曲「もう恋なのか」で日本レコード大賞・最優秀新人賞を受賞、紅白歌合戦にも初出場した。翌’71年には「空に太陽がある限り」がオリコン週間3位の大ヒットとなり、代表曲となった。’70年代前半から中期にかけて、抜群の歌唱力と精悍なルックスで人気を博し、トランペットの演奏やスポーツ万能ぶりも話題となる。’70年代後半からは映画『野良猫ロック ワイルド・ジャンボ』『戦国自衛隊』、ドラマ、バラエティと幅広く活躍し、『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』などで“スターにしきの”の愛称で再注目を浴びた。

子門真人

1970年代から多数の特撮・アニメ主題歌を歌ったシンガーで’80年代も音楽界で活躍を続けた。’71年の『仮面ライダー』の主題歌「レッツゴー!!ライダーキック」の大ヒットで注目を集め、その後も円谷プロ作品など多くの主題歌を担当。『ひらけ!ポンキッキ』で’75年に発表された「およげ!たいやきくん」はオリコン史上初の初登場1位の快挙とともにミリオンヒットとなり、国民的歌声として知られるようになった。アフロヘアと眼鏡の風貌やコミカルな楽曲でも人気を博し、子ども番組や主題歌を通じて幅広い層に親しまれたが、代表曲となる2曲はいずれもアルバイト料や買取で歌唱したもので、多額となったはずの歌唱印税は受け取っていないとされる。

尾崎紀世彦

1960年に「ヒロ・ハワイアンズ」でバンド活動を開始し、’67年からコーラス・グループ「ザ・ワンダース」で活躍。’70年8月に「別れの夜明け」でソロ歌手としてデビューするが、交通事故による入院で宣伝ができず苦戦。’71年3月リリースのセカンドシングル「また逢う日まで」が100万枚超の大ヒットを記録し、日本レコード大賞・日本歌謡大賞の大賞をダブル受賞。第22回NHK紅白歌合戦へも出場する。代表曲には「さよならをもう一度」や「雪が降る」などもあり、パワフルなバリトン歌唱と印象的なもみあげがトレードマーク。2012年5月30日に肝臓がんにより69歳で逝去、没後は特別功労賞や「大衆音楽の殿堂」入りを果たしている。

本郷直樹

1971年、『スターへばく進!!』という日本テレビのオーディション番組でグランドチャンピオンとなり、同年8月に「燃える恋人」で歌手デビュー。この曲で第13回日本レコード大賞新人賞を獲得し、“和製プレスリー”と呼ばれ人気を博した。以降は歌手活動と並行して俳優としても活躍し、ドラマ『アイちゃんが行く!』『特捜最前線』、映画『新・同棲時代―愛のくらし―』など多数に出演。’89年以降は演歌路線にイメージチェンジしつつ活動を続行。その後も困難な闘病生活を乗り越えながら芸能活動を継続し、2021年に心筋梗塞のため逝去した。

田中星児

1970年、NHKの音楽番組『ステージ101』のヤング101の一員として出演し、これが歌手としてのデビューのきっかけとなる。翌’71年より幼児番組『おかあさんといっしょ』の初代“うたのおにいさん”を務め、幼児番組界をけん引 。’76年、シングル「ビューティフル・サンデー」が大ヒットし、オリコン最高4位、紅白歌合戦初出場を果たす。以降も「北風小僧の寒太郎」などの楽曲で親しまれ、作曲家として「中山竜」のペンネームでNHK『みんなのうた』にも作品を提供し、幅広い世代に愛される存在となる。

伊丹幸雄

高校中退後、ザ・ワイルドワンズの付き人を経て1972年にCBSソニーから「青い麦」で歌手デビューし、オリコン22位を記録した。ワイルドワンズだった加瀬邦彦氏のプロデュースが功を奏し、当時は西城秀樹、田頭信幸とともに「新人三羽烏」と称された。以後「合言葉」「僕だけひとりぼっち」などシングルを発表し、ネオGSの旗手として活動。’80年代以降は俳優としても多くのドラマ・映画に出演し、バラエティ番組『オレたちひょうきん族』ではユニークなキャラクターも演じた。

丸山明宏(美輪明宏)

16歳でプロ歌手として活動を開始し、1957年、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」で「メケ・メケ」が大ヒットして一躍注目される歌手となった。’65年、シンガーソングライター的手法で制作・発表した「ヨイトマケの唄」が大きな話題となり、心に響く歌詞で再評価される。以降、俳優、演出家、声優、ナレーター、コメンテーターとしても活躍を広げ、文化人としての地位を築く。現在もテレビ・ラジオ番組や執筆、舞台など多岐にわたる活動を続け、唯一無二の存在として第一線に立ち続けている。

城みちる

1973年、中学3年でオーディション番組『スター誕生!』第7回チャンピオンに輝き、父の反対を押し切って芸能界入りした。’73年12月『イルカにのった少年』で東芝EMIから歌手デビュー、50万枚超のヒットとなり、日本レコード大賞新人賞を受賞。童顔で細身のルックスと確かな歌唱力で、「新新御三家」の一人と称されるほどの人気アイドルとなる。’77年、父との約束に従い10枚目のシングル発売後、20歳で歌手を引退し実家の電器店を継ぐため広島に戻る。

あおい輝彦

1962年、ジャニーズの創設メンバーとして芸能界入りしデビュー。’67年にグループ解散後はソロ歌手および俳優・声優へ転身。’68年にドラマ『おやじ太鼓』で俳優デビュー、’70年にはアニメ『あしたのジョー』で主人公・矢吹丈の声優を務めた。’71年シングル「二人の世界」がヒット、その後’76年の「あなただけを」がオリコン週間1位を6週連続獲得し紅白にも初出場した。俳優としては’88年から2000年まで『水戸黄門』で“助さん”役を12年間務め、幅広い世代に親しまれた。

あいざき進也

1973年、オーディション番組『スター・オン・ステージ あなたならOK!』でグランドチャンピオンに輝き、翌’74年1月「気になる17才」でデビュー。小柄な体型と中性的で甘い歌声、さらにバク転も披露する運動神経の良さから“元祖アクロバットアイドル”と称され、’70年代のアイドル全盛期に人気を博す。デビュー初期には「新新御三家」の一人として注目され、第1回FNS歌謡祭新人賞を受賞するなど華々しいスタートを切って活躍した。

中村雅俊

慶應義塾大学卒業後、1973年に文学座附属演劇研究所に入所し、’74年に日本テレビ系ドラマ『われら青春!』の主役に抜擢され俳優デビュー。挿入歌「ふれあい」で歌手デビューし、オリコンで10週連続1位を獲得するなどの大ヒットとなる。以降、俳優としてテレビドラマ34本を含む100本以上の主演作を持ち、映画や舞台にも出演。歌手としてもシングル55枚、アルバム41枚をリリースし、毎年全国コンサートツアーを開催。’82年には『第33回NHK紅白歌合戦』に初出場し、歌手としても人気を博す。

豊川誕

1975年4月「汚れなき悪戯」でデビュー。ジャニーズ事務所出身で、甘いルックスと歌声で人気を集めた。捨て子で、孤児院で育った時代を持つという生い立ちを隠さず、その背景を彷彿とさせる歌詞の2ndシングル「星めぐり」が10万枚を超えるヒットとなる。その後は歌手活動を経てプロボクサーやカーレーサー、ギフトショップの経営など多岐にわたるジャンルで活動、また2000年代に入ってからも歌手活動を行っている。

井上純一

1975年「恋人ならば」でレコードデビュー。デビュー時のキャッチフレーズは”ポストひろみ”だった。歌手としては目立つヒットはなかったものの、『ゆうひが丘の総理大臣』ほか多数のドラマ作品に出演し、お茶の間に馴染み深い俳優となった。

清水健太郎

TBSの人気番組『ぎんざNOW!』に出演し注目を集め、1976年11月「失恋レストラン」で歌手デビュー。同曲は翌年にかけて大ヒットし、’77年の新人賞を総ナメにした。以降は歌手と並行して俳優として活動し多数のドラマにも出演するも、薬物や交通事故などの不祥事も多く、表舞台から遠ざかった後、Vシネマで復活した。

太川陽介

1976年「陽だまりの中で」で歌手デビュー。’77年の「Lui-Lui」がヒットし、同年の新人賞を数々の音楽賞で受賞した。’79年にはNHKの人気音楽番組『レッツゴーヤング』の司会を務めるなどトーク力の高さでタレントとして多方面で活躍し、近年も『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』シリーズなどで親しまれる。配偶者は女優の藤吉久美子。

草川祐馬

1973年、よみうりテレビの視聴者参加番組で西城秀樹のモノマネで優勝しスカウトされ、’75年「若者時代」でレコードデビュー。歌手活動とともに俳優としてドラマ出演も多く、NHKの連続テレビ小説や『暴れん坊将軍』『必殺シリーズ』『水戸黄門』などの時代劇でも活躍する。

川崎麻世

西城秀樹の真似で出演したよみうりテレビの視聴者参加番組でグランドチャンピオンとなり、ジャニーズ事務所にスカウトされ、1976年「ラブ・ショック」でデビュー。ルックスの良さでブロマイドがヒットし、NHKの音楽番組『レッツゴーヤング』に”サンデーズ”の一員として起用され人気アイドルとなる。

森田健作

1975年「さらば涙と言おう」は青春ドラマ「おれは男だ!」の人気絶頂期にリリースされた主題歌で、爽やかな青春像の象徴としてヒット。歌手というよりは“青春スター”としての存在感が強く、その明朗なキャラクターが当時の若者に強く支持された。後に政治家としても活動。

湯原昌幸

1970年、ソロ歌手として「見知らぬ世界」でデビュー、翌年の「雨のバラード」が累計120万枚を売り上げる大ヒットへ。以降、マルチタレントとして司会や俳優、パネラー、レポーターとしても活躍。明快なトークと温かいキャラクターでお茶の間に親しまれた。2003年には「冬桜」がロングセラーとなり、第37回日本有線大賞・有線音楽優秀賞を受賞。以降も歌手活動を並行して継続する傍ら、講演やテレビ、地域イベントにも精力的に出演。荒木由美子との“おしどり夫婦”ぶりも知られる。

石橋正次

1970年、日活映画『非行少年 若者の砦』および『あしたのジョー』で俳優デビュー。同年、舞台俳優としての下地を固める。’72年に歌手として「夜明けの停車場」を発表しこの曲がヒットを記録。同年の第23回NHK紅白歌合戦に出場した。俳優としては『飛び出せ!青春』『アイアンキング』などのテレビドラマに多数出演し、不良少年役から刑事、時代劇、助演まで幅広く活躍。その後も舞台出演を続け、名バイプレーヤーとして多方面で活躍を続ける。

松崎しげる

1970年、シングル「8,760回のアイ・ラブ・ユー」でソロ歌手としてデビュー。当初はCMソング歌手として活動し、’72年の「黄色い麦わら帽子」がスマッシュヒットとなる。’76年にスペイン・マジョルカ音楽祭で「愛の微笑」が最優秀歌唱賞・第2位を獲得し、翌’77年に「愛のメモリー」としてリリースされ大ヒット。日本レコード大賞歌唱賞を受賞し、紅白にも初出場した。俳優・タレントとしても人気を獲得し、TBSの人気刑事ドラマ『噂の刑事トミーとマツ』の主演を務めた。その後も「ディナーショーキング」の異名にふさわしい精力的なライブ活動を続ける。

かまやつひろし

1958年よりロカビリー歌手として活動を始め、’60年に「殺し屋のテーマ/皆殺しの歌」でレコードデビュー。その後、’63年に「ザ・スパイダース」に加入し、作詞・作曲したデビュー曲「フリフリ」で人気の中心となる。’70年の同バンド解散後ソロへ転向し、’70年に独り録音による先駆的録音アルバム『ムッシュー』を発表。’75年には吉田拓郎作詞の「我が良き友よ」が大ヒットし世代を超えた支持を獲得した。以後もフォークやポップ、ジャズなど幅広いジャンルで活動を続け、メディアでも“ムッシュかまやつ”として親しまれた。

寺尾聰

1965年にGSバンド「ザ・サベージ」のベーシストとしてレコードデビューし、’68年に映画『黒部の太陽』で俳優デビュー。父は新劇界を代表する俳優・演出家の宇野重吉。その後は石原裕次郎率いる石原プロ所属の“石原軍団”としてドラマ『大都会』『西部警察』で刑事役を多く演じ、俳優としての存在感を確立。歌手としては’81年リリースのシングル「ルビーの指環」が大ヒットし、第23回日本レコード大賞をはじめ多くの賞を受賞し、アルバム『Reflections』は約164万枚の売上と記録的な成功を収めた。以後は音楽と俳優の両面で活躍し、唯一日本レコード大賞と日本アカデミー賞主演男優賞を同時に受賞したアーティストでもある。

細野晴臣

1969年、ロックバンド「エイプリル・フール」のベーシストとしてデビューし、’70年には大瀧詠一らと共に「はっぴいえんど」を結成、日本語ロックの基礎を築く。’73年よりソロ活動を開始し「ティン・パン・アレー」としても多彩な音楽表現を追求。’78年には坂本龍一、高橋幸宏とともにYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)を結成し、エレクトロニック音楽で世界的な人気を獲得。その後もソロ、プロデューサー、作曲家として活動し、ワールドミュージック、アンビエント、ゲーム音楽などジャンルの壁を超える多彩な展開を続けている。

小室等

多摩美術大学在学中の1963年に、ピーター・ポール&マリーに影響を受けたフォークグループ「PPMフォロワーズ」を結成しデビュー。その後’68年に「六文銭」を結成し、’71年には上條恒彦と共演した「出発の歌」で世界歌謡祭グランプリを受賞した。ソロでは’71年に「雨が空から降れば」でデビューし、’75年に井上陽水らとフォーライフ・レコードを設立、初代社長に就任する。自身の歌手活動に加え、テレビドラマや映画の音楽制作、ラジオパーソナリティ、コラム執筆など多岐にわたり活躍を続けている。。

大滝詠一

1969年「ヴァレンタイン・ブルー」(後のはっぴいえんど)に加入し、’70年にバンド・はっぴいえんどとしてデビューし日本語ロックを確立。’72年にソロ1stアルバム『大瀧詠一』を発表し、’74年には自身のレーベル「ナイアガラ・レーベル」を設立。’75年『Niagara Moon』をリリース。’78年の『Let’s Ondo Again』など斬新な企画も手がける。’81年、ソロ最大のヒット作『A LONG VACATION』が日本レコード大賞・最優秀アルバム賞を受賞、ミリオンセラーを記録し、日本のシティポップの金字塔となる。プロデューサー、作曲家としても後進を育成し、音楽文化に多大な影響を与え続けた。

南こうせつ

1970年にレコードデビューし、すぐにフォークグループ「かぐや姫」を結成。「神田川」「赤ちょうちん」「妹」などのヒットでミリオンセールスを連発し、’70年代フォークを代表する存在となった。解散後もソロとして「夏の少女」「夢一夜」など数々のヒットを生み、独自の語り口と音楽性で人気を博す。’75年には吉田拓郎と共に伝説的な野外オールナイト・コンサートを開催し、’76年には日本人ソロ歌手として初の武道館ワンマンも成功させた。さらに’80年代には「サマーピクニック」やチャリティ「広島ピースコンサート」など大型イベントも主導し、音楽を通じた社会的活動にも貢献した。

よしだたくろう

1970年6月、広島フォーク村のオムニバスに収録された「イメージの詩」でソロ歌手としてデビューし、翌年の全日本フォークジャンボリーでの「人間なんて」の歌唱が伝説となる。’72年「結婚しようよ」「旅の宿」が立て続けにヒットし、ミリオンセラーを記録。全国ツアーの先駆けとなり、音楽シーンに新たな潮流を生んだ。’75年には井上陽水らと共にフォーク系アーティスト主体のレーベル「フォーライフ・レコード」を設立し自主運営のモデルを確立。野外での大規模オールナイトライブ「つま恋コンサート」など革新的な活動で、シンガーソングライター文化の基礎を築いた。

岡林信康

1968年、「山谷ブルース」でレコード・デビュー。社会の底辺に生きる人々への視線を持つプロテスト・フォークを展開。「友よ」「手紙」などのメッセージ性の強い楽曲により“フォークの神様”と称される存在となった。’70年代初頭はギターのエレクトリック化やロックへの転換を模索し、バックバンドとしてHappy Endを起用する革新的な動きを見せた。その後は京都の山村に移住し、演歌や民謡のリズムも取り入れた独自の音楽性「エンヤトット」を確立。以降も精力的にライブ活動や音楽制作を継続している。

加藤和彦

1960年代後半、ザ・フォーク・クルセダーズのメンバーとして音楽活動を開始。’71年にはサディスティック・ミカ・バンドを結成し、日本のロックシーンに新風を吹き込んだ。その後はソロ活動や他アーティストへの楽曲提供、映画音楽の制作など、多方面で活躍。代表曲「あの素晴しい愛をもう一度」などを手掛け、日本の音楽シーンに多大な影響を与えた。彼の活動は音楽だけでなく、演劇や映画などの分野にも広がり、日本の音楽文化の発展に貢献した。

上條恒彦

東京・大森の雑貨店住み込みから新聞配達、うたごえ喫茶「灯」での歌唱など多彩な職を経て声を鍛え、1964年に労音勤務を機に歌手活動を始めた。’70年にNHK『ステージ101』へ出演し、翌年「六文銭」と共演した「出発の歌」でポピュラーソング・フェスティバルと世界歌謡祭のグランプリを受賞。’72年には紅白歌合戦初出場、「木枯し紋次郎」の主題歌「だれかが風の中で」が大ヒットした。俳優として『3年B組金八先生』で注目され、声優としても『リトル・マーメイド』のセバスチャン役などで知られる。

小椋佳

1967年に東大法学部を卒業し、日本勧業銀行に入行。銀行員として勤務しながら’71年に歌手デビューを果たす。’75年、布施明に提供した「シクラメンのかほり」が大ヒットし、作詞・作曲家としても注目される。銀行の理解を得て音楽活動を続け、’76年のNHKホール公演には11万通の応募が殺到、ライブ盤『遠ざかる風景』は大きな成功を収めた。その後、担当顧客だった資生堂の宣伝部長の依頼で資生堂CMソング「揺れるまなざし」などを生み出し、CM音楽の新時代を拓く。’93年に退職後は東大に再入学し、哲学修士号を取得。布施明、美空ひばり、中村雅俊ら多くの歌手に300曲以上を提供し、日本の叙情歌世界を確立した。

山本コウタロー

一橋大学在学中、フォークグループ「ソルティー・シュガー」を結成し、1970年に「走れコウタロー」を発表。この曲はコミカルな歌詞とキャッチーなメロディーで話題を呼び、同年の日本レコード大賞新人賞を受賞した。その後’74年には「山本コウタローとウィークエンド」を結成し、シングル「岬めぐり」をリリース。この曲も大ヒットし、彼の代表作となった。音楽活動にとどまらず、テレビ司会やラジオパーソナリティとしても活躍。また、平和や環境問題への関心から、広島でのチャリティコンサート「広島ピースコンサート」を企画・開催するなど、社会活動にも力を入れた。 2022年7月4日、脳内出血により73歳で死去。

泉谷しげる

1971年、ライブ盤『泉谷しげる登場』でフォークシンガーとしてデビューし、荒々しい歌声とぶっきらぼうなステージで注目を集める。’72年に発表した代表曲「春夏秋冬」が大ヒットし確固たる地位を築く。’75年には吉田拓郎、井上陽水、小室等と共にアーティスト主体のレーベル「フォーライフ・レコード」を設立し、業界に革新をもたらした。以降はシンガーソングライターとして活躍する一方、俳優や絵画、料理ライブ、社会貢献活動にも積極的に取り組み、多才な活動を続けている。

なぎら健壱

1970年、中津川・全日本フォークジャンボリーに飛び入り参加し注目を集め、’72年にアルバム『万年床』でデビュー。 ’74年には「悲惨な戦い」が話題となり、放送禁止ながらヒットを記録する。また、’75年12月に幼児向け番組『ひらけ!ポンキッキ』で発表され大ヒットした「およげ!たいやきくん」のB面、「いっぽんでもニンジン」も代表曲として知られる。以降はカントリーフォークを基調に、俳優、タレント、エッセイストとしてもマルチに活躍。バラエティやテレビ、ラジオ、執筆活動にも定評があり、下町文化への深い造詣を武器に“語り部”として支持されている。

井上陽水

1969年、「アンドレ・カンドレ」の名義で「カンドレ・マンドレ」でデビュー。’72年、本名の井上陽水名義で「人生が二度あれば」で再デビューし、同年発表のアルバム『断絶』収録の「傘がない」が若者の心をつかみ注目を集める。’73年以降、『氷の世界』『二色の独楽』などのアルバムがミリオンセールを達成し、日本の音楽シーンをアルバム中心へと導く重大な存在となった。その独自の世界観と卓越した作詞作曲・歌唱力により音楽界で確固たる地位を築き、’90年9月に東宝映画『少年時代』(監督・篠田正浩、原作・藤子不二雄Ⓐ)の主題歌として制作された「少年時代」は、CMや学校教材などにも採用されロングセラーの名作となる。2020年代に入ってもカバーやメディア使用が相次ぎ、世代を超えて愛され続けている。

あがた森魚

1969年、上京して明治大学に進学し音楽活動を開始。’71年、フォークグループ「はちみつぱい」と共に中津川フォークジャンボリーに出演し注目を集める。’72年、キングレコードのベルウッド・レコードからシングル「赤色エレジー」でメジャーデビュー。この曲は林静一の同名漫画にインスパイアされ、フォークロックと日本の大正浪漫を融合させた独自の世界観でヒットを記録。その後もアルバム『乙女の儚夢』『噫無情』『日本少年』などを発表し、’70年代の日本の音楽シーンにおいて重要な存在となる。

谷村新司

1971年、堀内孝雄、矢沢透と共にフォークグループ「アリス」を結成し、’72年にシングル「走っておいで恋人よ」でデビュー。’75年「今はもうだれも」、’77年「冬の稲妻」などのヒットによりグループは注目を集める。’78年にアリス解散後ソロ活動を開始し、’80年に発表した「昴(すばる)」が大ヒット。その後も「群青」「22歳」などのヒット曲を生み出し、シンガーソングライターとしての地位を確立。また、作詞家・作曲家としても活躍し、山口百恵の「いい日旅立ち」や加山雄三との共作「サライ」など多くのヒット曲を手掛けた。2023年、74歳で逝去するまでアジア各国での活動も積極的に行い、国際的な音楽交流にも貢献した。

矢沢永吉

1972年、ロックバンド「キャロル」のボーカルとしてデビューし、若者を中心に熱狂的な支持を得る。’75年キャロル解散後ソロ活動を開始。9月21日、シングル「アイ・ラヴ・ユー、OK」、アルバム「I LOVE YOU,OK」でソロデビューを果たす。初期のライブツアーではファンの反発に直面しつつも着実に支持を広げ、’77年には日本武道館で初の単独ライブを成功させる。以降、精力的なライブ活動を展開し、オリコンアルバムランキングベスト10入り最多記録(51作)を保持するなど、ロック界のカリスマとして君臨し続けている。

ばんばひろふみ

1971年、高山厳・今井弘志とフォークグループ「バンバン」を結成。「いちご白書をもう一度」(’75年、荒井由実作詞作曲)がミリオンセラーとなり一気に脚光を浴びる。バンバン解散後の’78年ソロ活動へ転身し、「SACHIKO」(’79年)はヒット曲として知られる。以降、深夜ラジオ番組「ヤングタウン」「セイヤング」で人気パーソナリティーとして活躍。俳優としてもNHK連続テレビ小説『わかば』や『水戸黄門』などに出演し、多彩な活動を続けている。

さだまさし

1972年、吉田政美とフォークデュオ「グレープ」を結成、’73年『グレープ』として「精霊流し」でメジャー・デビュー。「精霊流し」は1974年にオリコン2位を記録するヒットとなる。’76年の解散後、’77年にソロアルバム『帰去来』を発表しソロ歌手として本格始動。’77〜’80年代には「雨やどり」「案山子」「関白宣言」など数々の代表曲を世に送り出し、トップシンガーとしての地位を確立する。温かな語り口と独自の世界観で全国を熱くし、ソロコンサートの通算公演回数は4,400回を超える日本記録を誇る。作家や俳優、小説家としても多彩に活動し、現在も文化的影響が非常に大きい人物。

南佳孝

1972年、『リブ・ヤング!』シンガーソングライターコンテストで3位入賞し、’73年9月、松本隆プロデュースによるアルバム『摩天楼のヒロイン』でデビュー。洗練された都会派シティポップの旗手として注目される。’76年の移籍後は全曲作詞作曲のアルバム『忘れられた夏』を発表しソングライターとしての才能を発揮。’79年には「モンロー・ウォーク」がヒットし、郷ひろみによるカバー(「セクシー・ユー」)でも話題に。’81年に映画主題歌「スローなブギにしてくれ」で再び注目を集める。以降、楽曲提供、プロデュース、CM・ナレーション、ラテンやジャズ、ボサノヴァへの展開など、多彩な音楽活動を現在も続けている。

上田正樹

1972年12月「金色の太陽が燃える朝に」でデビュー。’74年に「上田正樹とサウストゥサウス」を結成。’75年に「この熱い魂を伝えたいんや」を発表し注目を浴びた。その後ソロ活動を開始し、’83年には「悲しい色やね」がシングルチャート1位となるなど、数々のヒットを飛ばした。また、Ray CharlesやB.B. King、Junior Wellsなどのブルースアーティストと共演し、Tower of PowerやWar、Ike & Tina、Neville BrothersなどのR&Bバンドとも共演を果たした。2001年にはインドネシアの歌姫REZAとデュエットし「Forever Peace」が17週間連続1位を獲得するなど、アジアでも高い評価を得ている。現在も年間100本以上のライブをこなし、アルバムも毎年コンスタントに発表している。

タケカワユキヒデ

東京外国語大学在学中の1975年、全曲英詞のアルバム『走り去るロマン』でソロアーティストとしてデビュー。翌’76年、ミッキー吉野らと共にバンド「ゴダイゴ」を結成し、作曲とボーカルを担当。「ガンダーラ」「モンキー・マジック」「銀河鉄道999」「ビューティフル・ネーム」など数々のヒット曲を生み出し、グループの人気を牽引。’85年のゴダイゴ活動休止後はソロ活動を再開し、他のアーティストへの楽曲提供やプロデュースを手掛けるなど幅広い音楽活動を展開。また、テレビやラジオの出演、講演活動など、多方面で活躍している。近年では、三女・武川基らと「T’s COMPANY」を結成し、親子での音楽活動も行っている。

浜田省吾

1972年、広島時代の音楽仲間と共にロックバンド「愛奴(AIDO)」を結成し、’75年にドラマーとしてプロデビュー
するも、シンガーソングライターとしての道を志し、’76年にソロデビューを果たす。シングル「路地裏の少年」とアルバム『生まれたところを遠く離れて』でソロ活動を開始し、その後、毎年コンスタントにシングルとアルバムをリリース 。’82年には自身のツアーを“ON THE ROAD”と名付け、数多くのツアーや大規模野外コンサートを成功させ、’98年からは4年がかりで世紀をまたぐ全196公演・延べ動員数約60万人という他に類を見ないロングツアーを敢行するなど、常に変わらないスタンスで活動を続けている。代表曲は「悲しみは雪のように」(’81年)や「もうひとつの土曜日」(’85年)ほか。

桑名正博

1972年、ロックバンド「ファニー・カンパニー」を結成し「スウィートホーム大阪」でデビュー。’74年の解散後、’75年よりソロ活動を開始し、「哀愁トゥナイト」「サード・レディー」などを発表。’79年のカネボウのCMソング「セクシャルバイオレットNo.1」は大ヒットし、彼の代表作となった。’80年、当時人気を博していた歌手のアン・ルイスと結婚し愛息に恵まれるも’84年に離婚。その後は家業の廻船問屋を継ぐため故郷の大阪に戻り、事業を営むなどした。2012年10月、心不全により59歳で逝去。晩年は社会貢献活動にも熱心に取り組んでいた。

山下達郎

1975年、シュガー・ベイブとしてシングル「DOWNTOWN」とアルバム『SONGS』でデビュー。その後バンド活動を経て’76年にソロ活動を開始。’80年のシングル「RIDE ON TIME」が大ヒットし、広く知られるようになった。’83年のアルバム『MELODIES』に収録された「クリスマス・イブ」は、’89年にオリコンチャートで1位を記録し、30年以上にわたりチャートインし続けるなど、日本のクリスマスソングの定番となった。また、妻である竹内まりやの全作品のアレンジやプロデュースを手掛けるなど、音楽プロデューサーとしても活躍している。

因幡晃

秋田県出身。高校卒業後、父と同じく鉱山技師として働く傍ら作曲を始め、1975年に「わかって下さい」で第10回ヤマハ・ポピュラーソングコンテスト最優秀曲賞を受賞し、同年の第6回世界歌謡祭でも入賞を果たす。この成果を契機に’76年にディスコメイトレコードから同曲でデビューを果たす。「わかって下さい」は長期間にわたりベストテン入りとなった。その後エピック・ソニー、バップ、プラッツ、日本コロムビアなどのレコード会社を経て、2014年には杉田二郎、堀内孝雄、ばんばひろふみ、高山厳と共にスーパーユニット「ブラザーズ5」を結成、ソロ活動と並行してライブ活動を行っている。

高中正義

1971年、高校在学中にグループ「フライド・エッグ」へベーシストとして参加したのがプロ活動のきっかけ。’72年にギタリストとして「サディスティック・ミカ・バンド」に加入し本格的に活動を始める。’76年、ソロ・デビュー・アルバム『Seychelles』を発表し、トロピカルでメロディアスなギター・インスト曲を得意とするスタイルを確立
。’79年の『Jolly Jive』収録「Blue Lagoon」で人気が爆発し、’81年にはコンセプトアルバム『虹伝説』で日本レコード大賞企画賞を受賞。’82年『Saudade』はオリコン・アルバムチャート1位を記録するなど、インスト・フュージョン界の先駆者として第一線で活躍を続ける。

来生たかお

1974年に作曲家としてデビューし、’76年10月には「浅い夢」でシンガーソングライターとしてソロ歌手デビューを果たす。’81年に自身が歌った「夢の途中」がヒットし、薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」主題歌のセルフカバーとしても知られる。シンガー活動と並行し作曲家としても活躍し、大橋純子「シルエット・ロマンス」、中森明菜「セカンド・ラブ」「スローモーション」、しばたはつみ「マイ・ラグジュアリー・ナイト」など多数のヒット曲を提供した。現在まで約400曲を手掛けるシンガーソングライターとして精力的に活動中。

やしきたかじん

1976年、クニ河内プロデュースのアルバム『TAKAJIN』とシングル「ゆめいらんかね」でメジャー・デビュー。’81年にはアニメ映画『機動戦士ガンダム』テーマ曲「砂の十字架」を歌い注目を集める。’82年に大阪へ戻り、以後は関西を拠点に活動。代表曲に「やっぱ好きやねん」(’86)、「あんた」(’84)、「東京」(’93)などがあり、大阪愛を込めた歌詞と情熱的な語り口で、関西で絶大な人気を誇った。テレビ司会やラジオパーソナリティとしても活躍し、関西ローカルの顔として愛された。2014年1月、食道がんで逝去した。

岸田智史

1976年、“岸田智史”名義で「蒼い旅」で歌手デビュー(作詞・谷村新司、作曲・岸田智史)。続く’79年、自身の出演ドラマ『愛と喝采と』の挿入歌だった「きみの朝」が大ヒット(オリコン1位、年間15位)し、代表曲となる。同年発表のアルバム『モーニング』も成功し歌手として確固たる地位を確立。俳優としても『1年B組新八先生』や『渡る世間は鬼ばかり』などに出演し活動を広げ、ミュージカルやナレーターなど多方面でも活躍。

松山千春

1975年「全国フォーク音楽祭」北海道大会で落選したものの制作スタッフに才能を見出され、’76年に北海道のラジオ番組で『千春のひとりうた』としてメディアデビューを果たし、’77年1月、シングル「旅立ち/初恋」でメジャーデビュー。続く’78年の「季節の中で」が大ヒットし一気に全国区のスターとなる。以降、「大空と大地の中で」「長い夜」「君を忘れない」など数多くの代表曲を生み、フォークシンガーとして長年にわたり第一線を走り続けている。

長渕剛

1977年、ポプコン入賞曲「雨の嵐山」でビクターからデビューするもしばらく低迷し一時帰郷。’78年、シングル「巡恋歌」で本格デビュー、’80年、シングル「順子」で初のオリコン1位を獲得し、その後「勇次」「ろくなもんじゃねぇ」「乾杯」「とんぼ」など数々のヒット曲を連発。俳優としてもTBS系ドラマ『家族ゲーム』『とんぼ』ほか、映画『オルゴール』『英二』などで主演を務め幅広く活躍する。

原田真二

1976年、高校2年生でフォーライフ新人オーディションに合格し、’77年10月、18歳で「てぃーんず ぶるーす」で拓郎プロデュースによる衝撃のデビューを果たす。その後「キャンディ」「シャドー・ボクサー」と3ヶ月連続リリースし全てがオリコン同時トップ20入りの快挙を成し遂げる。’78年2月には1stアルバム『Feel Happy』が初登場1位、4週連続でチャート首位を獲得。その後もシンガーソングライターとして楽曲提供、プロデュース、チャリティ活動など多岐にわたる活動を展開。音楽的なセンスとメディア戦略で、’70年代後半のJ-POPを象徴する存在となった。

さとう宗幸

1978年5月、ラジオ番組でのリスナー投稿をもとに作曲した「青葉城恋唄」でメジャーデビュー。曲は東北・仙台の情景を描いた叙情歌として大ヒットし、当年の新人賞を多数受賞し紅白にも初出場。「地方発の歌」として全国的な注目を集めた。以降は俳優としても活躍し、’81年には『2年B組仙八先生』主演、’87年にはNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』に出演。司会者やローカルタレントとしても長く親しまれている。

財津和夫

1972年、グループサウンズ「チューリップ」のリーダー兼ボーカルとしてデビューしグループの中心メンバーとして活躍、「心の旅」「サボテンの花」などのヒットを放つ。’70年代後半ソロでの活動も開始し、’78年にソロシングル「二人だけの夜」をリリース。2ndシングルの「Wake Up」はSEIKOのCMソングに起用されヒットを収めた。同時に作曲家としても活動し、松田聖子などに楽曲を提供。シンガーソングライター兼ヒットメーカーとして音楽界での地位を確立する。以降も作詞・作曲家として多くのアーティストに楽曲を提供し、音楽シーンに多大な影響を与え続けている。ソロ活動とともにチューリップもメンバー交代を重ねながら活動を続け、’89年に解散した。

坂本龍一

東京芸術大学で作曲と民族音楽学を学び、1970年代からスタジオミュージシャンとして活動を開始。’78年に細野晴臣、高橋幸宏とともにテクノポップグループ「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」を結成し、世界的な成功を収める。グループの活動と並行してソロアーティストとしても活躍し、映画『戦場のメリークリスマス』の音楽で’87年にアカデミー作曲賞を受賞。その後も映画音楽やアルバム制作を通じ、ジャンルを超えた音楽活動を展開し続けた。2023年3月28日、71歳で逝去。その多彩な音楽性と国際的な影響力で、世界中の音楽シーンに多大な貢献をした。

円広志

大学生だった時に結成したロックバンド「ZOOM」でボーカルを担当。1974年、ヤマハ主催のロックフェスティバル「大阪8・8ロックデイ」で入賞し一躍関西で人気のバンドとなる。当時バンドのローディーには後に世良公則&ツイストで大人気となる世良公則がいた。「ZOOM」は’77年に解散し、’78年に円個人でヤマハのポプコンに出場する機会を得、自作の「夢想花」でグランプリを受賞。同じくヤマハ主催の『第9回世界歌謡祭』でもグランプリを獲得し、シングル第一弾となった同曲は80万枚の大ヒットとなる。その後は本名の篠原義彦名で作曲家としても活動、森昌子の「越冬つばめ」などがある。

ポプコンイメージ

'70年代の音楽イベント

1970年代の音楽シーンに大きな影響を与えたのが、ヤマハ音楽振興会が主催した「ヤマハポピュラーソングコンテスト(通称:ポプコン)だった。’69年から’86年まで開催されたフォーク、ポップス、ロックのオリジナル楽曲コンテストで、新人ミュージシャンの登竜門として大きな役割を果たし、中島みゆき「時代」、クリスタルキング「大都会」など多数のアーティストや名曲が生まれた。’70年代はシンガーソングライター系が特に注目を浴び、八神純子やチャゲ&飛鳥など若き才能が数多く巣立っていった。

野村将希

1970年6月、シングル「一度だけなら」で歌手デビュー。新人賞複数受賞とともに、第21回NHK紅白歌合戦に初出場し、いきなり注目を浴びる。その後アメリカで音楽留学を経て帰国。’82年、芸名を野村将希に改名し、演歌歌手として活動を継続。俳優としても活躍し、’87年からTBSドラマ『水戸黄門』で“飛猿”役としてレギュラー出演し幅広い認知を獲得する。以降、歌手兼役者として長く活動を続け、現在も精力的に舞台やテレビに出演している。長男はプロサッカー選手の野村政孝、次男は俳優の野村祐希。

五木ひろし

1964年、16歳で「コロムビア全国歌謡コンクール」に優勝し、上京して作曲家・上原げんとの内弟子となる。’65年、松山まさるの芸名で「新宿駅から/信濃路の果て」でデビューするがヒットには至らず。その後も芸名を改めながら活動するも成功には結びつかなかった。転機となったのは’70年、テレビ番組『全日本歌謡選手権』への出場。10週連続勝ち抜きでグランドチャンピオンとなり、ヒットメーカーの作詞家・山口洋子と作曲家・平尾昌晃のコンビによる「よこはま・たそがれ」で再デビューを果たし、大ヒットを記録。以降、演歌界のトップスターとしてヒット曲を飛ばしながら活躍を続ける。

真木ひでと

1960年代にグループサウンズ「オックス」のヴォーカルとして野口ヒデト名で活動。オックスは「ガールフレンド」「スワンの涙」などのヒット曲で人気となり、野口ヒデトは沢田研二や萩原健一とともにGSブームを牽引する存在となる。オックス解散後は芸名を真木ひでとに改め演歌歌手としてソロデビューし、テレビやラジオ出演の活動を続けた。GS時代の経験を生かした舞台パフォーマンスと演歌の表現力を融合させ、幅広いファン層に支持された。GSと演歌の両方で活躍した希少な存在として知られる。

三善英史

渋谷区・円山町で芸者の息子として誕生。整った容姿から渋谷でスカウトされ、1972年、演歌歌手として「雨」でデビュー。同曲は大ヒットし、日本レコード大賞・新人賞ほか数々の新人賞を受賞した。デビュー翌年より3年連続でNHK紅白歌合戦に出場し演歌歌手として活躍。ユニチャームのCMに女装して出演するなど、ユニークな存在感でも注目された。2006年「夢グループ」の所属となり、現在も歌手活動を続けている。

中条きよし

1968年に芸名「高波晃」として歌手デビューを果たす。その後「渥美健」に改名して再デビューしたが成功には至らず、’73年にオーディション番組『全日本歌謡選手権』で10週連続勝ち抜きグランドチャンピオンとなったことを契機に、’74年に「中条きよし」という芸名で3度目のデビューを果たす。デビュー曲「うそ」は150万枚以上の大ヒットとなり、第16回日本レコード大賞大衆賞を受賞。以後、「うすなさけ」「理由」などのヒットを経て、演歌界の主要な存在として活躍を続けた。2022年、参議院議員となり芸能活動を終了した。

細川たかし

1975年4月シングル「心のこり」で歌手デビューし、第17回日本レコード大賞最優秀新人賞など数々の新人賞を受賞し、一躍注目される演歌歌手となる。’82年「北酒場」、’83年に「矢切の渡し」で日本レコード大賞を連続受賞、’84年には「浪花節だよ人生は」で史上初の三冠(歌唱賞)を達成し、演歌界の頂点に君臨した。以降も「望郷じょんから」「さだめ川」「北国へ」などヒット曲を連発し、NHK紅白歌合戦への出場を続けた。民謡で鍛えた圧倒的な声量と表現力、幅広いメディアでの活躍によって、演歌を代表する大御所歌手として長年にわたり支持されている。

新沼謙治

日本テレビ系オーディション番組「スター誕生!」から1976年2月1日に「おもいで岬」でデビュー。デビュー2作目「嫁に来ないか」が大ヒットし、第18回日本レコード大賞新人賞を獲得、NHK紅白歌合戦にも初出場を果たす。以後、「ヘッドライト」「酒とふたりづれ」「津軽恋女」など数多くのヒット曲を生み、紅白には通算13回出演した。歌手活動のみならず、映画『二百三高地』やドラマ『私鉄沿線97分署』『炎立つ』などへの出演も果たし、俳優としても活動。

角川博

クラブ歌手として広島や博多で歌っていたところをスカウトされ、1976年4月「涙ぐらし」で歌手デビュー。デビュー直後に日本レコード大賞新人賞や日本有線大賞新人賞を獲得し、一躍注目を集めた 。’78年には「許してください」でNHK紅白歌合戦に初出場を果たし、以後合計3回出場した。ものまねが得意で、美空ひばりや三波春夫、森進一など幅広いレパートリーを持ち、テレビのバラエティ番組にも多く出演してタレントとしても活躍。近年は自身の事務所を設立し、音楽・タレント活動を継続している。

山本譲二

1974年に芸名「伊達春樹」でシングル「夜霧のあなた」で歌手としてデビューしたが、当初はヒットに至らなかった。その後、北島三郎の付き人となり修業を重ねた後、「そばにおいでよ」「北ものがたり」を本名の山本譲二名でリリース、演歌歌手としての基盤を築く。’80年に発表した「みちのくひとり旅」が約10か月かけて大ヒットし、ミリオンセールスを記録、’81年末の日本レコード大賞ロングセラー賞とNHK紅白歌合戦初出場を果たした。以後も「奥州路」「海鳴り」「夢街道」などで数々の賞を受賞し、演歌界を代表する歌手として長年にわたり活躍を続けている。

渥美二郎

高校を中退後、地元の北千住で”演歌師”として流しの歌手活動を行った後、1976年10月、「可愛いおまえ」でレコードデビューした。 ’78年2月発売の「夢追い酒」は約250万枚の大ヒットとなり、彼の代表曲として演歌界に確固たる地位を築く。以後、「忘れてほしい」「他人酒」「釜山港へ帰れ」など多数のヒット曲を発表し、紅白歌合戦出場やロングセラー賞受賞を果たす。その後も演歌師としての原点を忘れず、ギター演奏を取り入れたステージやチャリティ活動等、現在に至るまで精力的に活動を続けている。

吉幾三

1973年3月、「山岡英二」としてヤンマーディーゼルのコマーシャルソング「恋人は君ひとり」で歌手デビューするも成功に至らず。’77年11月「吉幾三」と改名し、自作曲「俺はぜったい!プレスリー」でフォーク歌手として再デビューし大きな注目を浴びる。’84年には千昌夫に提供した「津軽平野」がヒットし、同年11月には「俺ら東京さ行ぐだ」でさらなるブレイクを果たす。’86年発売の「雪國」は紅白出場につながる大ヒットとなり、演歌歌手としての確固たる地位を築いた。

佳山明生

1970年より作曲家・古賀政男を師事し、’77年12月にシングル「氷雨」で歌手デビュー。芸名の佳山明生は、美輪明宏から名づけられた。「氷雨」は発売当初は売れ行きが振るわなかったが、有線放送での地道なリクエストを経て再々々発売された’82年7月盤がブレイクし、’83年には旭川有線大賞・全日本有線放送大賞グランプリを受賞、同年の日本レコード大賞ロングセラー賞も受賞した。その後は出身地の「函館観光大使」に就任するなど、地元にも貢献しながら演歌界で独自の存在感を築いている。

バラエティ > 1960年代

1960年代のバラエティ番組は、アメリカ型のショーを手本に、歌・踊り・コントを融合した総合娯楽として発展した。井原高忠が『光子の窓』で導入した演出手法を基盤に、『夢であいましょう』『シャボン玉ホリデー』などが人気を集め、テレビは国民的娯楽として定着していく。一方で視聴者参加型企画も広がり、過激な演出や悪ふざけが物議を醸す場面も生まれ、番組内容のあり方をめぐる議論が起こった。そうした試行錯誤の中から、『笑点』や『8時だョ!全員集合』のように、完成度の高いテレビ的笑いを確立する番組が登場した。

─ 主なバラエティ番組 ─

1946年1月 –

1946年にラジオで始まり、’53年からテレビ放送も開始された公開視聴者参加型の生放送音楽番組。素人出場者が歌を披露し、ゲスト歌手の指導やインタビューを交えながら評価される。’70年の改革で出場者数を25人に絞り、手持ちマイクやワイヤレスマイクを導入、歌唱だけでなく表現力も重視する構成に変更され、全国大会や特別賞も設けられ人気を回復。現在も各地域から生中継や録画で放送される長寿番組。

1958年5月 – 1987年9月

1958年から約24年間にわたりTBS系列で日曜昼に放送された長寿歌謡番組。開始当初はモノクロ・モノラルだったが、’69年にカラー化、’85年にはステレオ放送へ移行した。番組は時代に応じて副題やタイトルを変えつつ、終始ロッテの一社提供で継続された。長年司会を務めた玉置宏の「一週間のご無沙汰でした」で始まる語り口は名物となり、従来の美文調司会とは異なる個性的な進行で歌謡番組の新境地を切り開いた。

1958年5月 – 1960年12月

『花椿ショウ 光子の窓』は、1958年から’60年まで日本テレビで放送された草笛光子の冠による音楽バラエティ番組。資生堂一社提供のもと、歌とコントを融合した本格的ショーとして制作された。日本テレビと東宝テレビ部の共同製作で、当時24歳の草笛を中心に、小島正雄、三國一朗、徳川夢声、トニー谷らが出演し、洗練された演出が特徴であった。番組末期には実験的にカラー放送も行われ、芸術祭参加作「イグアノドンの卵」は奨励賞を受賞するなど高い評価を得た。日本の音楽バラエティの基礎を築いた先駆的番組だった。

1959年3月 – 1981年9月

旬の芸能人やスポーツ選手をゲストに迎え、社会的話題として人物像に迫る帯番組。映画スター出演制限の時代に、時事性を切り口として人気を博した。ゴールデン帯15分枠で放送され、「出演すれば一人前」と称される存在感を確立。俳優司会の起用や早期のカラー化も話題となり、最高視聴率45.9%を記録した。歴代司会者は栗原玲児、石坂浩二、関口宏、吉永小百合、坂本九など。

1959年6月 – 1970年3月

初代司会者に、当時人気ロカビリー歌手だったミッキー・カーチスを起用、渡辺プロダクションと作曲家のすぎやまこういちが企画を主導した音楽番組。デビュー後まもないザ・ピーナッツやジャッキー吉川とブルーコメッツがレギュラー出演し、後のGSブームのきっかけとなった番組でもある。後にフジテレビで制作される「ミュージックフェア」「夜のヒットスタジオ」の土台でもあり、視覚でも音楽を楽しませるスタイルの走りだった。

1961年4月 – 1966年4月

日本のテレビ放送初期に制作されたバラエティ番組で、1959年放送の『午後のおしゃべり』が前身。毎回テーマを設定し、ショートコントを軸に踊りやジャズ演奏、外国曲の歌唱を挟んで構成された。歌手のコント出演や芸人の歌唱企画は後続番組の原型となった。初代ホステス中嶋弘子の独特な挨拶も話題を呼び、後に黒柳徹子が司会を担当。’66年、後継番組『夢をあなたに』へ移行して終了した。

1961年6月 – 1972年10月 / 1976年10月 – 1977年3月

日本テレビと渡辺プロダクションが制作した音楽バラエティ番組で、ザ・ピーナッツを主役に開始された。牛乳石鹸一社提供のもと、コント・歌・トークを中心に、ハナ肇とクレージーキャッツやザ・タイガースとともに多彩なゲストが参加し、多くの流行ギャグを生んだ。全回カラーVTR収録で放送され、植木等の名フレーズなどで高視聴率を記録。1972年に第1期が終了し、’76年にはピンク・レディー出演による第2期が深夜枠で放送された。

1961年8月 – 1972年2月 / 1975年10月 – 1982年3月

1960年代から1980年代にかけ、2期にわたって放送された人気の視聴者参加型番組。松下電器産業の一社提供番組で、正式な番組名は「ナショナルプライスクイズ ズバリ!当てましょう(後に変更)」だった。4組のペア回答者が品物の値段を推理して当てるもので、値段当てクイズの元祖番組。家電ブーム真っ最中の時世で、一発で値段を当てる”ズバリ賞”の商品は、当時100万円相当のナショナル電化製品一式だった。

1962年5月 – 1968年3月

大阪・ABCホールでの公開放送形式を採った時代劇風コメディ番組。編集技術が未成熟だった初期には、昼間に収録した映像をほぼそのまま放送する撮って出し方式で制作され、出演者とスタッフの高度な技量が評価された。大規模な火薬を用いた迫力ある演出や、1967年には朝日放送初の自社制作カラーテレビ番組も実現。「あたり前田のクラッカー」など数々の流行語を生み、後続作や派生作品へと展開された。

1964年1月 – 2010年1月

1964年に始まったフジテレビの新春特別バラエティ番組で、『紅白歌合戦』『日本レコード大賞』と並ぶ年末年始の大型番組として親しまれた。芸能人がチームに分かれ、秘芸や余興を披露して得点を競う形式で高視聴率を長年維持。制作は渡辺プロダクションと共同で行われ、華やかな演出も名物となった。2010年元日の放送をもって47年の歴史に幕を下ろした。

1964年4月 – 1968年3月 / 1972年4月 – 1973年3月 / 1976年4月 – 1977年12月

初代NHKホールでの公開放送として始まったNHKの音楽番組で、パイロット版からカラー放送を行った。初期は倍賞千恵子、アントニオ古賀、金井克子が司会を務め、後に中尾ミエが加わった。第2期以降はタイトル表記を改め、101スタジオから生放送に移行。司会は山川静夫が中心となり、フォーリーブスやキャンディーズがレギュラー出演した。第3期では山川が単独司会となり、長期にわたりNHKを代表する歌番組として親しまれた。

1964年8月 –

日本の民放音楽番組として最長寿を誇るフジテレビ系のレギュラー番組で、1964年の開始以来、塩野義製薬一社提供の冠番組として放送されてきた。’67年にカラー化、’78年にステレオ化、2004年にはハイビジョン制作へ移行するなど、放送技術の進化も反映している。初代総合司会に越路吹雪、二代目に左幸子、三代目に長門裕之・南田洋子夫妻など落ち着いた進行役とゲスト同士の丁寧なトーク、質の高い歌唱演出が特徴で、海外の大物アーティストも多数出演した。初期は公開収録も行われたが、現在は観客を入れないスタジオ収録が基本となっている。

1964年11月 – 1977年9月

視聴者参加型の人気番組。視聴者の推薦で集められた有名人の“そっくりさん”5人が出演し、審査員の投票によってチャンピオンを決定した。本人がゲストとして登場することも特徴で、歌手の場合は持ち歌を披露し、それ以外の場合はイメージに合わせた歌や振り付けで競った。優勝者にはトロフィーと賞金5万円が贈られた。チャンピオンが揃うと大会が開かれ、グランドチャンピオンにはゴールデントロフィー、推薦者と行くヨーロッパ旅行、賞金10万円が授与された。司会は当初小野栄一が務め、’68年の『そっくりショー日本一!』への改題を機に青空はるお・青空あきおへ交代。番組は『新そっくりショー』などの形式変更を経ながら続き、’66年には最高視聴率43.9%を記録するなど高い人気を誇った。

1965年3月 – 1966年4月

1965年から’66年にかけて日本テレビで放送された寄席風演芸番組で『笑点』の前身にあたる。立川談志の発案により、大喜利を中心とした構成で、ブラックユーモアを交えた玄人好みの内容が特徴だった。読売ホールで収録され、隔週放送ながら深夜帯で支持を獲得。その実績を踏まえ、番組は発展的に解消され、日曜夕方枠の『笑点』へと継承された。

1965年11月 – 1990年3月

1965年から約24年半にわたり放送された日本初の深夜お色気ワイドショーで、基本は生放送。日本テレビとよみうりテレビが曜日別に制作し、大橋巨泉、愛川欽也、藤本義一らが司会を担当。ヌードや風俗といった刺激的題材から、前衛芸術、政治・社会問題まで幅広く扱い、深夜番組の可能性を拡張した。曜日ごとの特色ある企画も定着し、最高視聴率48%超を記録するなど、長寿かつ影響力の大きい番組として知られる。

1966年4月 – 1980年12月

TBSを幹事局とし、各地の系列局が持ち回りで制作・放送した視聴者参加型の歌合戦番組。審査員は市川昭介、笠置シヅ子、神津善行、山本直純など。日本各地の市民会館などで公開収録が行われ、家族単位の出場者が動物名を冠したチームとして歌声を競った。司会は獅子てんや・瀬戸わんやが担当した。当初はモノクロ放送だったが1970年4月からカラー化。約14年半にわたり放送され、昼間ながら平均15%を記録した時期もあったが、後年は視聴率が低下し、愛知県西尾市での収録を最後に終了した。

1966年5月 – 1968年4月 / 1968年5月 – 1996年3月ほか

1966年に『金曜夜席』を継ぐ形で始まった演芸バラエティ番組で、大喜利で座布団をやり取りする形式が特色。番組名は『氷点』をもじったものとされ、命名を巡る逸話も知られる。放送開始当初から一貫してカラー放送を行い、隔週で後楽園ホールにて公開収録されてきた。落語や講談などの演芸と大喜利を柱に、寄席文字を用いた独自の画面演出を守り続け、高視聴率を記録する長寿番組として日本のテレビ演芸史に刻まれる。

1966年8月 – 11月

ロート製薬の一社提供で放送された視聴者参加型バラエティ番組で、一般応募の参加者が常人には真似できない特技や超人技を披露した。司会はてんぷくトリオの三波伸介・戸塚睦夫・伊東四朗が務め、三波は驚異的な芸が登場するたびに決めぜりふ「びっくりしたなあ、もう」で番組を盛り上げた。1967年には内容を発展させ、『万国びっくりショー』へとリニューアルされた。

1966年10月 – 1971年4月 / 1973年10月 – 1974年4月

プラチナ萬年筆の一社提供による音楽バラエティ番組。集英社『明星』の協賛を受けて開始され、当初は『プラチナアワー 明星ゴールデンショー』の題名で放送された。藤村有弘が司会を務め、由美かおる、フォーリーブスらが出演し、歌謡界の若手を積極的に起用した構成が特徴だった。第2期ではジャニーズ・ジュニアの公募も行われ、後のスターを見い出す場ともなり、アイドル文化の形成に一定の役割を果たした。

1967年11月 – 1969年3月 / 1969年4月 – 1971年3月ほか

1966年放送の『びっくりショー』を発展させ、世界各国の出演者が驚異的な芸を披露した。’70年大阪万博に着想を得た企画で、万博会場での収録も行われた。司会は主に八木治郎が務め、高視聴率を記録したが、編成変更後に低迷。番組は形を変えつつ継続・復活を重ね、国際色豊かな見世物番組として人気を博した。

1968年4月 – 1971年9月

東京ヴィデオ・ホールから毎日生放送された昼のバラエティ番組で、前田武彦を司会にコント55号がレギュラーとして活躍した。多数の芸人や歌手を迎え、コントやゲームで流行語を生み、時に前衛的企画も放送。出演者の多忙化に伴い司会や構成を刷新しつつ継続したが、カラー化を機に1970年9月で終了し、『ハイヌーンショー』へ移行した。

1968年11月 – 1990年10月

約22年間にわたり放送されたフジテレビの音楽番組で、原則生放送を特徴とした。1970年代前半までは歌謡バラエティ色が強かったが、’76年以降はアイドルや演歌に加え、ニューミュージック、ロック系、海外アーティストまで幅広く出演させ、生演奏・フルコーラスを基本とした構成で音楽番組の質を高めた。名物は出演歌手同士がリレー方式で他の歌手を紹介する番組オープニング。沢田研二「サムライ」での50畳の畳敷きの演出など、印象的なスタジオセットも特徴だった。司会は芳村真理を中心に前田武彦、三波伸介、井上順、古舘伊知郎らが務めた。演奏は長年ダン池田とニューブリードが担当し、番組の象徴的存在となった。芸能事務所の力関係も出演構成に影響を与えた点は、当時の音楽界を映す側面でもあった。

1969年1月 – 1986年3月 / 1989年10月 – 1990年3月ほか

田宮二郎が司会を務める1969年にテレビ朝日系列で始まったクイズ番組で、司会者を交代しながら3シリーズのレギュラー放送を経て、以後も特番として断続的に制作されている。1分間に12問、5秒ごとに出題される高速クイズに挑む形式で、「現代人の頭脳と反射神経を試す」ことを趣旨とした。巨大な時計台と高所の解答席、成績不振時に作動するペナルティ演出が象徴的で、全問1問1答・即断即答を求める厳格なルールも特徴。平均視聴率14%、最高29%を記録し、スピード感あふれる名物番組として強い印象を残した。

1969年4月 – 1970年3月

NHK大河ドラマ『天と地と』を強く意識し、日曜20時台制覇を掲げて制作されたバラエティ番組。コント55号を進行役に据え、番組内番組的構成と刺激的な企画で話題を集め、特に脱衣野球拳は社会現象となった。視聴率は裏番組を上回る成功を収めたが、内容への批判も多く、約1年で終了。後に野球拳企画は独立番組として放送された。

1969年7月 – 1982年9月

若者向けを前面に打ち出した公開バラエティ番組。ラジオ番組『歌え!MBSヤングタウン』のテレビ版として制作され、桂三枝や笑福亭仁鶴、やすし・きよしらが司会を担当。短いコーナーを連続させる構成と、芸人個人のキャラクターを生かす演出で人気を博し、吉本興業の若手芸人を全国区へ押し上げた。上方演芸界の勢力図を塗り替えた象徴的番組として知られる。

1969年10月 – 1981年3月

「NHK紅白歌合戦を毎週楽しめる番組」を発想源に、紅白対抗形式とベストテン風構成を融合させた歌謡番組。出演者は紅白各5組の計10組で、客観的ランキングではなく局側のキャスティングによって選ばれた。原則として渋谷公会堂から公開生放送で行われ、修学旅行生の紹介が定番演出となった。白組キャプテンは堺正章が一貫して務め、紅組は水前寺清子、今陽子、岡崎友紀らが担当。白組では野口五郎・郷ひろみ・西城秀樹の「新御三家」が、紅組では森昌子・桜田淳子・山口百恵の「花の中三トリオ」が人気を牽引し、演歌勢では五木ひろしや八代亜紀、和田アキ子らが常連として出演した。

1969年10月 – 1970年3月 / 1970年10月 – 1971年3月

大橋巨泉と前田武彦の掛け合いによる生放送パートと、事前収録の大量ショートコントで構成されたバラエティ番組。米国番組『ラフ・イン』をモデルに、矢継ぎ早にコントを連ねる斬新な演出を採用し「アッと驚く為五郎」などの流行語を生んだ。膨大な台本と徹底した制作体制でも知られ、1960年代末のテレビ表現に大きな影響を与えた。

1969年10月 – 1971年3月 / 1971年10月 – 1985年9月

1969年から’85年までTBS系列で放送されたザ・ドリフターズの冠お笑いバラエティ番組。前半はドリフによる本格コント、後半は体操や合唱団を交えた企画で構成され、間に歌手ゲストの歌唱が挟まれた。全国各地の劇場から公開生放送を行い、大掛かりな舞台装置と体当たりの笑いで国民的人気を獲得。平均視聴率27%、最高50.5%を記録し、土曜夜の象徴的番組となった。

男性歌手・アイドル > 1980年代

─ 主な歌手一覧 (順不同) ─

田原俊彦

1979年、TBSドラマ『3年B組金八先生』で俳優デビュー。問題児・沢村正治役で注目を集めた。’80年6月「哀愁でいと」で歌手デビュー、洋楽のカバーながらアイドル的な人気を得て大ヒット。以降「ハッとして!Good」「恋=Do!」など多くのヒット曲を連発し、’80年代を代表するトップアイドルに。明るくキレのあるダンスとキャッチーな楽曲で人気を博し『ザ・ベストテン』『夜のヒットスタジオ』などの音楽番組にも多数出演。俳優としても主演ドラマを多数持ち、マルチに活躍した。

近藤真彦

1979年、『3年B組金八先生』でドラマデビュー。性格に難のある生徒・星野清を演じ注目を集めた。’80年12月「スニーカーぶる~す」で歌手デビューしオリコン初登場1位を記録。以降「ギンギラギンにさりげなく」「ハイティーン・ブギ」など多くのヒット曲を放ち、たのきんトリオの一員として一世を風靡した。ソロアイドルとしても絶大な人気を誇り、日本レコード大賞を受賞するなど歌手として高い評価を得た。俳優・レーサーとしても幅広く活躍。

沖田浩之

1980年、TBSドラマ『3年B組金八先生』(第2シリーズ)で不良生徒・松浦悟役としてドラマデビュー。
’81年3月、筒美京平作曲・阿木燿子作詞の「E気持」で歌手デビューし、オリコン最高位8位、13週のチャートインを記録するヒットとなる。以降、「半熟期」「はみだしチャンピオン」「俺をよろしく」など計13枚のシングルと4枚のアルバムをリリース。原宿・竹の子族出身の異色アイドルとして人気を博し、ミュージカルやドラマで俳優としても活躍した。’99年没。

堤大二郎

1980年、テレビ東京系『ぼくら野球探偵団』(主演・星空天馬役)で俳優デビュー。’81年4月、シングル「燃えてパッション」で歌手デビュー。NHK『レッツ・ゴー・ヤング』の男性アイドルユニット「サンデーズ」の一員としても活動し人気を博す。その後は数枚のシングルをリリースし、’84年には映画『零戦燃ゆ』で映画デビュー 。以後は俳優業に専念し、大河ドラマや時代劇を中心に多数出演、『太平記』『水戸黄門』など、堅実な俳優として幅広く活躍している。

ひかる一平

1981年、TBSドラマ『2年B組仙八先生』で俳優デビューし、好青年役で人気を集める。同年4月、シングル「青空オンリー・ユー」で歌手デビュー。甘いマスクと親しみやすいキャラクターで注目され、たのきんトリオに続くアイドルとして活躍。続く「君にクラクラ」「バレンタインデー・キッスじゃなく」など数枚のシングルをリリース。音楽番組やドラマにも出演を重ねたが、後年は俳優業に比重を移し、舞台やテレビでの活動を中心にキャリアを継続している。

竹本孝之

1981年、TBSドラマ『2年B組仙八先生』で俳優デビュー。明朗なキャラクターで注目され、同年6月に「てれてZin Zin」で歌手デビュー。フジ系『君こそスターだ!』出身で、「とっておきの君」「サヨナラ模様」などを次々とリリース。’82年にはNHK紅白歌合戦に初出場を果たす。’80年代中盤以降は音楽活動を縮小し俳優業に軸足を移すが、’90年代には農業と音楽活動を両立する“歌う農業人”として再び注目を集め、現在もライブや舞台などで地道な活動を続けている。

新田純一

1981年、TBSドラマ『2年B組仙八先生』で俳優デビュー。アイドル性の高いルックスで注目を集め、翌’82年2月に「Hop・Step・愛」で歌手デビュー。明るく親しみやすいキャラクターで人気を得、「君をさがして」「想い出パズル」などのシングルを発表。バラエティ番組やドラマでも幅広く活躍したが、’80年代後半以降は歌手活動が次第に減少。以後は舞台や地方営業、バンド活動などを中心に活動を続け、2020年代もライブを行うなど、根強いファンに支えられて現役を貫いている。

本田恭章

1981年、TBSドラマ『2年B組仙八先生』で俳優デビュー。’82年5月、「0909させて」で歌手デビュー。その後「ジュテーム・スキャンダル」「☆BOY」「サヨナラのSEXY BELL」などのシングルをリリースし、アイドル歌手としての地位を確立。’83年には作曲家・玉置浩二との共作を果たし、音楽性の幅を広げる。’84年にはシングル「SHAKE&SHAKEパラダイス」をリリースし、同年11月には日本武道館でのライブを成功させるなどアイドル歌手として活動。その後音楽活動を縮小し俳優業に専念。テレビドラマや舞台などで俳優としての地位を確立した。

風見慎吾

1982年、TBS『欽ちゃんの週刊欽曜日』でタレントデビュー。’83年5月「僕笑っちゃいます」で歌手デビューを果たす。作曲は吉田拓郎が担当し、オリコン週間ランキングでは最高6位を記録、33万枚以上の売上を記録するヒットとなった。その後もアイドル歌手として活動。「涙のtake a chance」では当時最先端だったブレイクダンスを取り入れ、ダンスパフォーマンスでも注目を浴びた。劇団「劇男一世風靡」の立ち上メンバーとしても知られる。

渡辺徹

1981年ドラマ『太陽にほえろ!』で新人刑事「ラガー」を演じ俳優デビュー。スマートなルックスと存在感でお茶の間の人気を獲得し、’82年、EPICソニーよりシングル「彼〈ライバル〉」で歌手デビュー。続く2nd「約束」はグリコ「アーモンドチョコレート」のCMソングに採用され、累計50万枚以上の大ヒットを記録し代表曲となる。以降、映画や舞台へも活動を広げ、’83年には映画『夜明けのランナー』で銀幕デビュー。文学座座員として数々の舞台に出演し演技力が高く評価された。2022年、61歳没。

野村義男

1979年、ドラマ『3年B組金八先生』で俳優デビュー。本人役で出演し、若者を中心に注目を集めた。’83年6月「待たせてSorry」で歌手デビュー。ジャニーズ所属の『たのきんトリオ』の一員として爽やかなルックスと明るいキャラクターで’80年代前半に人気を博した。ソロ活動を続けながらギタリストとしても活躍し、作詞作曲にも挑戦。ドラマや舞台出演もこなし、俳優としての評価も高い。現在も音楽と俳優活動を両立、根強いファンに支えられている。

吉川晃司

1984年、主演映画『すかんぴんウォーク』で俳優としてデビュー。同作の主題歌「モニカ」で同時に歌手デビューを果たし、日本歌謡大賞最優秀新人賞ほか数々の新人賞を数々受賞するヒットとなる。’88年には布袋寅泰とのユニットCOMPLEXを結成。ソロとしては作詞・作曲・プロデュースも手がけ、ロックアーティストとして確固たる地位を築く。俳優としても多数の映画やドラマに出演。NHK大河ドラマ『天地人』『八重の桜』や映画『るろうに剣心』『チーム・バチスタの栄光』などで存在感を発揮し、高く評価されている。

五十嵐浩晃

1979年、第1回CBS・ソニーSDオーディションに合格し、’80年5月、シングル「愛は風まかせ」とアルバム『NORTHERN SCENE』でソロデビュー。同年11月にリリースした3rdシングル「ペガサスの朝」が明治チョコレートCMソングとして評判を呼び、オリコン最高3位・売上50万枚超の大ヒットとなりブレイク。続く「ディープ・パープル」もヒットを記録し、多彩なメロディと透明感ある歌声で注目を集める。その後もラジオパーソナリティやテレビ出演、楽曲提供など幅広く活動。現在は札幌市在住、専門学校の名誉学校長として後進育成に努める一方、ライブや楽曲制作を継続している。

村下孝蔵

1979年、CBS・ソニー全国オーディションで最優秀に選ばれプロへ。翌’80年5月、シングル「月あかり」でメジャーデビュー。広島を拠点に地道なライブを続けながら徐々に支持を獲得。’82年「ゆうこ」、’83年「初恋」「踊り子」が相次いでヒットし、特に「初恋」はオリコン最高3位を記録。透明感ある声と叙情的な歌詞、洗練されたギターテクニックが持ち味で、数々のライブやコンスタントなアルバム発表を重ねる。他アーティストへの楽曲提供や天満敦子とのコンサートなど音楽表現の幅も広く追求。’99年6月24日、脳内出血のため急逝(享年46)。

堀江淳

1979年、CBS・ソニー主催「第1回SDオーディション」に合格し音楽界へ進出。’81年4月、シングル「メモリーグラス」で正式デビュー。同曲はオリコン3位、セールス約70万枚を記録し一躍注目され、日本作曲大賞 優秀曲賞、日本有線大賞 新人賞などを受賞。透き通るような中性的な歌声とメロディアスな作風が評価され、以後もコンスタントにシングルやアルバムを発表しながら、作詞作曲や他アーティストへの提供も行う。現在もライブ・新作制作を継続し幅広い世代に支持されている。

角松敏生

1981年6月、シングル「YOKOHAMA Twilight Time」とアルバム『SEA BREEZE』を同日リリースしメジャーデビュー。大学在学中に送ったデモが評価され正式デビューに至る。’80年代中盤には中森明菜、西城秀樹、中山美穂などへの作品提供でも注目を集め、以後も私小説的世界観を歌詞に反映しながら活動。’93年に一時アーティスト活動を“凍結”しプロデューサー業に専念、’98年に復帰。現在も作曲・ライブ活動を継続、シティポップの礎を築いたアーティストとして支持されている。

稲垣潤一

1982年1月、東芝EMI(EXPRESSレーベル)よりシングル「雨のリグレット」でソロデビュー、《スーパーポップボーカル》のキャッチコピーで売り出される。同年10月リリースの3rdシングル「ドラマティック・レイン」が自身初のオリコンTOP10入り。’83年には「夏のクラクション」「ロング・バージョン」などヒットを連発し、AORシンガーとしての地位を確立。’92年にリリースされた「クリスマスキャロルの頃には」はオリコン140万枚超のミリオンヒットとなり、冬の定番ソングとなった。以降もオリジナル・アルバム多数を重ね、日本レコード大賞やゴールドディスク賞などを受賞。現在もライブ活動や企画アルバム制作、演奏活動を精力的に継続し、幅広い世代に支持されている。

柳ジョージ

1975年「柳ジョージ&レイニーウッド」を結成し、’78年のアルバム『TIME IN CHANGES』でメジャーデビュー。’79年には「雨に泣いてる…」がドラマ主題歌に起用され大ヒットを記録し、4thアルバム『RAINY WOOD AVENUE』がオリコン1位に。’81年末バンド解散後ソロ活動へ転身し、’82年にはレイ・チャールズと共演。疾走感あるブルースロックと情感あるギタープレイで“和製クラプトン”とも称され支持を集めた。2005年レイニーウッド再結成、2008年フジロックにも出演。2011年10月10日、腎不全のため63歳で逝去。

三好鉄生

1979年、30歳の時にオーディションで歌唱力を評価されプロ入り。’82年3月、アルファレコードより自作曲「アイ・ラヴ・ユーこの街」でシンガーソングライターとしてデビュー。同年8月リリースのセカンド「涙をふいて」が中外製薬CMソングに起用されヒットを記録し、全国的な注目を集める 。俳優としては同曲が主題歌となったTBS系ドラマ『人間万事塞翁が丙午』で俳優デビューし(’82年)、以降も『刑事ヨロシク』『西部警察 PART III』などに出演 。’87年には「すごい男の唄」がサントリーCMソングに採用されスマッシュヒットし、以後もライブ活動と録音を継続。現在は三貴哲成名義に改め、多彩な音楽活動を続けている。

大江千里

1975年のヤマハPOPSONGコンテスト出場などを経て、’81年にCBS・ソニーからスカウトされ音楽業界へ 。’83年5月、シングル「ワラビーぬぎすてて」とアルバム『WAKU WAKU』でEPICソニーよりメジャーデビューし、透明感ある歌声と作詞作曲の才能で注目を集める 。以降、「十人十色」「格好悪いふられ方」「ありがとう」などヒット連発。2008年渡米しNYのThe New Schoolでジャズを学び、2012年にジャズピアニストとして再デビュー。自身のレーベルPND Recordsを設立しジャズ作品をリリース、現在も世界各地でライブ活動を展開中。

大澤誉志幸

1978年に駒澤大学在学中にロックバンド「クラウディ・スカイ」を結成し、’81年4月に同バンドのボーカル&ギターとしてビクターからデビューするもヒットなし、年末に解散後渡米。その後帰国し楽曲提供で頭角を現す。’83年6月、ソロ名義でシングル「彼女には判らない (Why don’t you know)」、アルバム『まずいリズムでベルが鳴る』でEpicソニーからソロデビュー。中森明菜や沢田研二などへの楽曲提供とともに自身も「そして僕は途方に暮れる」などヒットを連発し、シンガー/メロディーメーカーとして確固たる地位を築いた。

近田春夫

慶應在学中から内田裕也のバックでキーボードを務め、音楽界と出版界の両方で活動を広げた。1972年に「近田春夫&ハルヲフォン」を結成し、映画音楽も「塚田みのる」名義で手がける。’70年代後半からは俳優、声優、パーソナリティとしてメディアを横断して活躍した。「日本の歌謡曲の音楽性」を早期に評価し、コラム「THE 歌謡曲」連載やカバーアルバムでその魅力を提示。ジューシィ・フルーツをデビューさせ、作曲家・プロデューサーとしてもヒットを生んだ。

尾崎豊

青山学院高等部在学中の1983年12月1日、シングル「15の夜」とアルバム『十七歳の地図』でCBS・ソニーよりメジャーデビューし、高校生シンガーとして一躍注目される。透き通る歌声と等身大の歌詞、若者の反抗と葛藤を描いた世界観が共感を呼び、「卒業」「I LOVE YOU」「OH MY LITTLE GIRL」など次々とヒットを放つ。’85年にはアルバム『回帰線』でレコード大賞優秀アルバム賞を受賞するなど音楽性の評価も髙かった。’92年4月25日、26歳で急逝したが、没後もそのメッセージ性あふれる作品が支持され、多くのアーティストにカバーされ続ける。現在も若者の“教祖”的存在として音楽界に大きな影響を与え続けている。

伊豆田洋之

高校卒業後に画家を志して渡米し、イリノイ州立大およびカリフォルニア大学ロサンゼルス校に在籍後、ロサンゼルスのピアノバーで弾き語り中にスカウトされ帰国。’84年7月、シングル・アルバム『Rose Bud Days』でメジャーデビューし音楽活動を開始した。以後「ネオンの海で I LOVE YOU」「笑顔にダーツ」「迷路」「LAST SEASON」などのシングルやアルバムをリリースし、シティ・ポップ系の滋味あるバラードで人気を得る。現在もライブ活動や作品制作を続け、“日本のポール・マッカートニー”とも称される高い音楽性で支持されている。

鈴木雅之

1975年、友人たちとブルーアイド・ソウル風の男性グループ「シャネルズ」を結成。’80年にシングル「ランナウェイ」でメジャーデビューしミリオンヒットを記録する。’83年にバンド名をラッツ&スターに改名し、「め組のひと」「Tシャツに口紅」など数々のヒットを連発し人気を博す。’86年、自身のソロ活動を本格化させ「ガラス越しに消えた夏」でソロデビュー。以後「もう涙はいらない」「違う、そうじゃない」などのヒットを重ね、ベスト盤『Martini』シリーズはミリオンセラーとなる。2019年以降はアニメ『かぐや様は告らせたい』の主題歌を担当し“アニソン界の大型新人”とも称される。

久保田利伸

駒澤大学在学中の1985年、田原俊彦らに楽曲提供し作家デビュー 。翌’86年6月、シングル「失意のダウンタウン」でメジャー歌手デビューを果たす 。同年9月にアルバム『Shake It Paradise』をリリースし、R&Bやファンクを取り入れたスタイルで異彩を放つ 。’88年にはアルバム『Such A Funky Thang!』がオリコン首位に輝き、「Dance If You Want It」などヒット連発 。’95年にアメリカへ拠点を移し、’96年の「LA・LA・LA LOVE SONG」が月9ドラマ主題歌として大ヒット。日本のR&Bを切り開いたパイオニアとして現在も国内外で高い評価を受ける。

奥田民生

’87年、ロックバンド・UNICORNのボーカリストとしてメジャーデビューし「大迷惑」「働く男」「すばらしい日々」などのヒット曲で’80〜90年代のバンドブームを牽引。’93年にバンド解散後、1年間の“充電期間”を経て’94年にシングル「愛のために」でソロ活動を本格始動。以降「イージュー★ライダー」「さすらい」など数々の名曲を発表。PUFFYや木村カエラのプロデュース、井上陽水とのユニットなど多彩な音楽活動を展開。現在も独自のスタイルで演奏・制作・プロデュースを続け、音楽界の第一線で活躍中。

池田政典

ジャパンアクションクラブ(JAC)第12期生として俳優デビューし、’86年5月、TBSドラマでテレビ初出演。同年8月、東芝EMIからシングル「ハートブレーカーは踊れない」で歌手デビューし、グラビアでも注目を集めた。’87年5月「NIGHT OF SUMMER SIDE」がアニメ『きまぐれオレンジ☆ロード』の主題歌に起用され音楽番組でも注目される。’88年の「Formula Wind」もヒットするが、’92年「愛のセレブレーション」以降、歌手活動は休止。以後は俳優と声優業に専念し『るろうに剣心』の志々雄真実役などアニメでも存在感を示し、現在も活動を継続している。

KAN

’87年、シングル『テレビの中に』でソロ歌手としてメジャー・デビュー(ポリドール)。’90年9月、代表曲『愛は勝つ』をシングルリリース。累計200万枚超の大ヒットを記録し、オリコン週間シングル1位を8週連続、年間チャート3位となる。同曲は第33回日本レコード大賞ポップス・ロック部門大賞を受賞し、NHK紅白歌合戦にも出演。その後も多数の楽曲がチャート上位に入り、’90年代前半には5曲のトップ10シングル、4枚のトップ10アルバムを生む2010年時点でのCD総売上は約460万枚に達する。2023年11月、61歳没。

玉置浩二

’73年、高校時代にバンド「安全地帯」を結成し、’82年2月、シングル『萌黄色のスナップ』でグループはメジャー・デビュー。’83年には「ワインレッドの心」’84年「恋の予感」、’85年「悲しみにさよなら」など複数のヒットを連発し、日本の’80年代ロック・ポップスを代表するバンドとなる。’87年末ソロ活動を開始し『All I Do』などをリリース。その後も「田園」をはじめヒット曲を生み出し、作詞・作曲にも注力。2012年には自主レーベル“SALTMODERATE”を立ち上げ、バンドとソロ双方で精力的に活動。オーケストラ公演も行い、現代も高い評価を受け続けている。

氷室京介

’82年、伝説的なロックバンドBOØWYのボーカリストとして『MORAL』でレコードデビュー、日本のロックシーンに革命をもたらす。’88年、BOØWY解散後わずか3カ月でソロ第1弾シングル「ANGEL」でデビューし、オリコン年間チャートで8位に入るヒットとなる。’92年には「KISS ME」でミリオンセールスを達成、’93年のアルバム『Memories Of Blue』も150万枚以上を売り上げ、ソロアーティストとして不動の地位を確立。’97年からはロサンゼルスに拠点を移し制作と活動を継続。独自の“ヒムロック”スタイルで音楽界に強い影響を与えた存在となっている。

布袋寅泰

’80年末、氷室京介らと共に結成した「暴威」(後のBOØWY)で’82年3月発売のアルバム『MORAL』にてギタリストとしてデビュー、日本のロックシーンで絶大な存在となる。’88年10月、BOØWY解散後すぐにソロ1stアルバム『GUITARHYTHM』で独立、精緻なギターサウンドで新境地を切り開いた。’89年には吉川晃司とのユニット「COMPLEX」を結成し、大型ヒットを放つ。以降は作詞・作曲・プロデュースとマルチに活躍し、2003年には映画『KILL BILL』に「Battle Without Honor or Humanity」が使用され世界的にも名を轟かせた。2012年からはロンドンを拠点に活動を展開し、国際的な舞台でのライブ・制作を続けている。

徳永英明

’86年1月、シングル「Rainy Blue」とアルバム『Girl』でメジャー歌手デビューを果たし、その透明感のある歌声で注目を集める。’87年の「輝きながら…」が初のヒットとなり、その後も「風のエオリア」「最後の言い訳」「夢を信じて」「壊れかけのRadio」など数々の代表曲をリリース。2005年以降、「VOCALIST」シリーズで女性アーティストの名曲をカバーするスタイルを打ち出し、ロングセラーを記録、歌声と表現力により新たな価値を築く。現在もコンサートツアーや新作リリースを継続中で、多くの世代に支持されるベテランボーカリストとして活躍している。

竜鉄也

中学2年で失明し、その後26歳で再び全盲となるが、独学でアコーディオンを習得し岐阜・高山地方を中心に「流し」として演歌を歌いながら修行を積む。’80年6月、デビュー曲「奥飛騨慕情」をトリオレコードから発表し、ミリオンセラーを記録。翌’81年には第32回NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。楽曲には「紬の女」「哀愁の高山」などがあり、作詞・作曲も手がけた。2000年頃に脳卒中で療養に入り引退。2010年12月、クモ膜下出血により74歳で逝去。

山川豊

三重県鳥羽市生まれ。’81年2月、デビュー曲「函館本線」で歌手デビューを果たし、同年末の第23回日本レコード大賞・新人賞など多くの新人賞を受賞した。’86年には「ときめきワルツ」で初のNHK紅白歌合戦出場を果たし、それ以降2005年までに11回の出場を重ねる。’98年の「アメリカ橋」が大ヒットし、「ニューヨーク物語り」「霧雨のシアトル」といった“アメリカ3部作”も話題を呼ぶ。現在もライブや新曲リリースなど精力的に活動を続ける、日本を代表する演歌歌手の一人。実兄は同じく演歌歌手の鳥羽一郎。

尾形大作

’81年「THE MATATABI」をキャッチフレーズにデビューし、’86年に発表した「無錫旅情」が約48.6万枚の売上を記録し大ヒットを遂げる。’87年には第38回NHK紅白歌合戦に初出場し、翌年も出場を果たす。’88年は「敬天愛人 幕末青春グラフティ」で第30回日本レコード大賞企画賞を受賞。’90年には独立に関する記者会見を行うが、所属事務所とのトラブルにより一時歌手活動を休止。福岡に戻り、地域密着型の演歌歌手として活動を再開し、テレビドラマやVシネマ、CM出演など多方面で活躍。現在もCDを発売し、地域イベントなどに出演している。

鳥羽一郎

漁師や板前を経て、演歌への道を断ち切れず27歳で上京し、巨匠・船村徹に内弟子として約3年間修行を積む。’82年8月、シングル「兄弟船」で歌手デビュー。同曲は海の男の哀愁を描いた代表作となり大ヒットを記録。。’85年にNHK紅白歌合戦初出場を果たし、その後20回以上の出場を重ねる。海難遺児支援などチャリティ活動にも力を入れ、紺綬褒章を7度受章。現在も「海の男」演歌の旗手として精力的に活動を続けている。

梅沢富美男

大衆演劇「梅沢劇団」で1歳7ヶ月で初舞台を踏み、15歳から本格的に舞台俳優として活動。20代後半に女形が評判となり「下町の玉三郎」と称され大衆演劇界のスターに成長。’82年に歌手としても活動を開始し、小椋佳作詞作曲「夢芝居」が大ヒット。’83年にNHK紅白歌合戦で歌唱し一躍歌謡界でも脚光を浴びた。その後、舞台座長として劇団を率いながらテレビ・映画・バラエティなど多方面で活躍。タレントやコメンテーターとしても人気を博し、現在も精力的に舞台とメディアで存在感を放ち続けている。

'80年代の演歌の傾向

1980年代の演歌は都会的な歌謡曲とは反対に、地方の町やふるさとを舞台とする楽曲が多く作られ、ヒットした。竜鉄也「奥飛騨慕情」(’80)、山本譲二「みちのくひとり旅」(’81)、大川栄策「さざんかの宿」(’82)、細川たかし「矢切の渡し」(’83)、石川さゆり「天城越え」(’86)など、旅情とともに男女の哀切を情熱的に描いた作品が大ヒットし、演歌の地方指向や「ふるさと回帰」が目立った時代だった。